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物質的現実化と意図 [願望実現]


私たちの思考や願望が可能性の空間における私たちの動きを方向づけることは明らかになっている。夢の中では、この動きに対して、物質的現実化の慣性によるブレーキがかからない。思考のほんの微かな揺らぎであっても、夢を見ている人を瞬く間に可能性の空間の然るべきセクターへと運んでいく。現実化されたセクターでは、質量を持つ物質の慣性のためにそんなに速くは事が進まない。しかし、思考が私たちの人生のことがらの展開に直接的な影響を及ぼすという同じ原則が、現実の世界でも働いている。

こう質問するかもしれない。「私に分別がなかったのかもしれないけど、今までは思考ではなく行動が人生の歩みを決めていると思っていた。でも、これで納得した。大事なのは、何をするかではなく、何を考えるかなんだ」

この言葉には本当に何の矛盾もない。人はまず考えてからその後で行動する、ということだからではない。人々は何よりも行動による結果に注意をはらうことに慣れてしまっている。なぜなら、それは表面に現れていてわかりやすいからだ。思考による結果はそれほどはっきりとしていないことが多い。これは平衡力による作用と関係している。平衡力による作用の結果が予期していたものとまったく正反対になるケースがある。人があるものを望んでいるのに、正反対の結果となる。過剰圧力が強ければ強いほど、その結果は望んでいるものから遠ざかる。世界のこうした不思議なふるまいに筋の通った説明を見つけられないまま、それでも人は、自分の取った行動が正しくなかったとか、世の中はそうなっているとかの説明で自らを納得させようとする。そして、望みのものが手に入るのは、大変な苦労をした後で、ということになるわけだ。

並行移動のモデルには矛盾があると思われるかもしれない。私たちの思考は、私たちを経由していくエネルギーをある型にはめ、それによって人々をその思考に相当する人生ラインへと運ぶといい、あるいは思考が私たちを然るべきシナリオと舞台装置を持った可能性の空間のセクターへと移動させると主張する。夢の中では、まさにその通りのことが本当に起こる。ところが、他方では、現実の生活においては私たちの思考はほとんど影響を示さない。なぜなら、私たちは思考することだけで望むものを得ることができないからだ。長椅子に横になってどんなに考え、また、物質的現実化につきものの慣性による遅れを考慮に入れても、ほかの人生ラインへの乗り換えは、なぜか起こりはしない。「ほら、それそれ、それだよ」と心配性の方は途端に活気づくかもしれない。「行動することが必要なのだ。思考しているだけじゃ、ラインの乗り換えなんて起こるわけがない」。彼は形式的には正しい。

ただし、形式的にである。本当はこの矛盾とは、ただそう見えるだけなのだ。望んでいるものを視覚化しようとしてみても、大抵の場合、結果が得られないのはなぜか?その説明に、私たちはどんどん近づいてきている。最初に挙げられる明らかな原因は、過剰圧力である。これは、私たちが望むものを手に入れようとするときに、自らが生み出している。

二つ目の原因は、可能性の物質的現実化の際に現状の慣性が邪魔することである。私たちがしばしば目的を達成できないのは、根気強く目的に向かおうとしないからだ。人はすぐに気持ちが冷め、自分の望みを見込みがないものとしてあきらめるが、多くの目的はただ単に現実化するのに時間が足りないだけなのだ。望んでいたことが遅れてやってきて、そのときにはもう期待感も消え、自分がそれを注文したことすら忘れている。自分のこれまでの人生で、思い当たる節があることだろう。

もうひとつ多くの人々がよくある典型的な間違いは、すべてをすぐに手に入れようとすることにある。もし互いに何の関係もないたくさんの目的を達成したら、すべての思考エネルギーが無駄に費やされるだけになってしまう。可能性の流れの中にいるあなたは、同時に様々な方向へと泳ぐことができない。具体的なひとつの目的にすべてを集中させる場合に、必要なセクターへの調整が最も効果的に行われる。

夢を見ているときには、今挙げたような有害な要因は存在しない。夢の中では、重要性による過剰圧力に煩わされることもそれほどなく、慣性が邪魔をすることもない。それに、昼間、目的達成を目指して闘った理性は、疲れて休息を取っている。しかしながら、夢の中であっても、すべての願望が実現されるわけではない。意識して見る夢を実践している人たちは、思考のどんな揺らぎであっても、夢を見ている本人を然るべきセクターへと運んでいくわけではないことを知っている。では、いったいどこに障害があるのだろうか。

答えは非常に簡単であると同時に、基本的なことでもある。どんな障害も存在しない。問題は思考そのものにあるのではない。秘密は、現実化へと導くのが願望自体ではなく、望んでいるものに対する心構えにあるという点に隠されている。働いているのは、望んでいるものについての思考自体ではなくて、ほかのものである。しかし、これは言葉では表現しにくい。何らかの力が、思考ゲームの展開されている舞台の裏側にある。そして、この力の向こう側に、最後の言葉がある。もちろんあなたは察しがついたであろう。意図について話しているのだ。理性は自分が持っている記号の棚の中で、意図を適切に定義づけできないままでいる。ここで、意図を所有し行動する決意と定義してみたい。

そうすれば、可能性の空間のセクターに同調する過程で思考そのものは実際には何の役割も果たさないことを理解していただけるだろう。思考とは、意図の波のてっぺんにできる泡にしか過ぎない。現実化されるのは、願望ではなく、意図の方なのだ。

腕を持ち上げることについて、もうひとつの例を挙げよう。腕を持ち上げようと望んでいただきたい。願望はあなたの思考の中で形づくられる。あなたは腕を持ち上げたいということを理解している。願望が腕を持ち上げるのだろうか?いいや、願望だけではいかなる行動も産みだしはしない。願望についての思考がその役割を終え、行動する決意のみが残ったときに、腕が持ち上がるのだ。では、腕を持ち上げるのは、行動する決意だろうか?これも違う。あなたは、腕を持ち上げるという最終的な決意を固めているが、腕はまだ動かない。何が腕を持ち上げるのだろうか?決意の次に続くものをどう定義すればよいのだろう?ここで理性の頼りなさが現れてしまう。意図が何なのかということに理性が明快な説明を与えることができないからだ。意図を、所有し行動する決意とすると、それは、行動を実行する力そのものへと続く前奏曲を奏でているに過ぎないことになる。腕が持ち上がるのは、願望でもなく、決意でもなく、意図によるという事実をただ確認するしかないようだ。私は理解しやすくするために、「決意」という表現を導入した。しかしこの言葉を用いなくても、あなたの筋肉を収縮させる何らかの力があることを、もちろんあなたは感じていることだろう。

意図とはいったい何かということを説明するのは、本当に非常に難しい。手足をどのように動微かについて私たちは疑問に思わないし、歩くことができなかった頃を思い出すこともできない。これとまったく同様に、人は初めて自転車にまたがったときには、正しい操作をまだ知らない。しかし、たとえ自転車の乗り方を学んだ後でも、どのようにすればよいのか、説明することはできない。意図とは非常にとらえどころのないものだ。意図を得ることは難しく、失うことは簡単だ。たとえば、完全に麻痺した人の場合、意図の力が失われている。足を動かしたいという願望はあるが、願望を行動に変化する能力が欠如している。麻痺した人が、催眠術の作用や奇跡的な快復の結果、歩きはじめたりすることが知られている。これは、患者に意図が戻ったことによるのだ。

このように、願望自体は何ももたらしはしない。逆に、願望が強ければ強いほど、平衡力の反作用もその分強くなる。願望は目的そのものに向けられ、意図は目的の達成プロセスに向けられることに注意をはらっていただきたい。願望は、目的を達成するという願望そのものの過剰圧力を発生させることで、自らを現実化する。意図は、行動で自らを現実化する。意図は、目的が達成可能かどうかについての判断はしない。決断が下されたら、あとは行動するだけである。もしあなたが夢の中で飛び立とうと思っているときに、それが可能かどうか考えあぐねたら、何も起こらないだろう。飛び立つためには、意図によって宙に浮きあがることだけが必要なのだ。夢を見ているときにいずれのシナリオの選択も、願望によってではなく、望むものを受け取るという硬い心構えによって実現される。あなたはあれこれ判断したり望んだりするのでなく、ただ所有し行動するのだ。

願望の無益さについて考えてきたが、それでは願い事についてはどうだろうか?言うまでもない。天使、神、その他高みにある何らかの力に対しては、お願いしても意味はない。宇宙をつかさどる法則は、絶対的で非情なものである。願い事につきもののあなたの不平、恨み、うめきなど、誰も必要としていない。しかし、感謝は違う。なぜなら、感謝は、その性質上、絶対的な愛に近いものだからだ。心からの感謝は、建設的なエネルギーの放射である。逆に、願い事による過剰圧力は、停滞、つまり同じ場所にエネルギーが濃縮されることだ。不平、依頼、要求などは、人々からネエルギーをかき集めるために流れが発明したものだ。「ちょうだい!」とか「欲しい!」という言葉が使われている思考は、自動的に過剰圧力を発生させる。あなたに過剰圧力がなくても、自分の思考によって、それを自分の方へ引き寄せようとしていることになる。

最高の力の類に願い事をするのは無駄なことだ。それは、店に行って商品をただでくれというのと同じことなのだ。もし人々があなたを助けようと気持ちになっているのなら、あなたは分別のある範囲で頼むことができるだろう。しかし、こうしたケースは例外であり、この世の中は、誰かを助けようという望みではなく、客観的な法則によって築かれているのだ。

地球が太陽にほかの軌道に移らせてくれるよう頼んでいるところを想像していただきたい。馬鹿げていると思われるだろう。人間以外のものに頼みごとをするなどということは、もちろん馬鹿げている。これと同じことである。選択する意図だけが意味のあることなのだ。実際にあなたは自分自身で自らの運命を選択している。あなたからの思考放射のパラメーターがあなたの選択したものに合致していて、その際、法則に違反していなければ、あなたはそれを受け取る。選択とは願い事ではなく、所有し行動するという、あなたの決意である。

意図は過剰圧力を産みだしたりはしない。なぜなら、願望のエネルギーが行動することで消費されるからだ。願望と行動とは、意図で結びついている。行動しようという意図は、願望によって生じた過剰圧力を、平衡力の関与なしに、自然な形で散らしてくれる。問題を解決しようというのなら、行動すべきだ。厄介な問題を考えあぐねていると、過剰圧力を産みだし、流れにエネルギーを与えることになってしまう。あなたは行動することで、意図のエネルギーを現実化する。「案ずるより産むが易し」とはよく言われる。意図を現実化しつつ、可能性の流れを信じれば、問題は自ずと解決されることだろう。

期待、不安、思い煩い、願望は、エネルギーを奪い取るだけだ。行動しようという意図は、エネルギーを消費してくれるだけでなく、それを人間のエネルギー・フィールドに注入してくれる。あなたはこのことを学習の例で納得するだろう。丸暗記は膨大な労力を奪い取り、得られるものは少ない。しかし、行動を学習する場合は、実際の作業や課題の解決が行われたりして疲れ方がそれほどはないだけでなく、精神の高揚や喜びをもたらしてくれる。

このように、意図とは、可能性の空間にあるセクターを現実化させる原動力なのだ。しかし、そこで次のような疑問が浮かぶ。なぜ私たちの不安も現実化されるのか?果たして不安を意図と同列に並べてもよいのだろうか?夢を見ているときも、現実の生活でも、常に私たちは自分で抱く不安、危惧、反感、憎悪のシナリオを持つ可能性につきまとわれている。私がそのような可能性を欲しないとしたら、そのような可能性を所有することを意図しないということだろうか?しかしながら、いずれにせよ私たちはそうあってほしくないことを受け取る。と言うことは、私たちの願望の方向性は意味を持たないということだろうか?謎は、もっと不可思議で強力な力に秘められている。

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