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高次な意識 [真実]


目覚め、
目覚め、高次な意識で動けば「カルマの法則」などない。

大半の人は、現実界の錯覚は、人生と人生の狭間の「インチキ天国」あるいは「インチキ地獄」という領域にまで、延長されている。この領域は、この現実界に近接した振動次元であり、そこでは死と再生のサイクルの中で、「進化」するためにはこうしなければならないという思い込みに意識が囚われることになる。「再生」という言葉は、再び肉を持つという意味である。こうした人生と人生の間の現実界は、支配システムにとって必要不可欠な部分であるが、この現実界よりも、少しだけ広がりのある認識・思い込みを持つことができる。「死」を乗り越えたこと、複数の現実界(世界)が存在することには気づく。これはテレビ番組に出る霊能者のような人々が接続する次元である。

彼らは、他界した父親から「その仕事に就職しなさい」とか、亡くなった母親から「猫の面倒を見てくれ」といったメッセージを人々に伝える。そんな番組が実際にあり、私は何週間も毎晩のように見えていたことがある。その男の霊能者(霊媒)が伝える情報には、驚くほど正確なものもあり、彼がどこかと交信している事実は明らかに思えることが多かった。記憶に残っているものとして、あの時の番組で、彼は番組参加者の家族の父親(夫)と交信に成功したと言った。「彼は、この世に少しいて、次には無効にいたと言っている。最後に聞いたのは、(娘が)お父さん、大丈夫?と言った声だった」と霊媒は伝えた。家族は、その通りであり、父親がソファに座っていたかと思うと、次の瞬間には心臓発作で卒倒して死んでおり、娘が「お父さん、大丈夫?」と叫んだ事実を認めた。もちろん、商売としてペテンの霊能者は存在するし、巧みな言葉と心理操作で情報を拾い集め、それをあたかも「あの世」からのメッセージとして伝える者もいる。だが、全ての霊能者がそうではない。例によって職業的懐疑論者たちは、「この世しかありえない」という自己の思い込みを防衛しようと必死になり、何もかも一緒くたにして非難を浴びせている。

こうしたテレビ番組だけでなく、世界中のさまざまな事例を合わせて考えると、「あの世」から通信された情報は、全て「この世」的な現実認識に基づいていることが分かる。あの世からやってきた者が、「これは全部、錯覚なんだ。宗教なんかクソだ」と言うのを私は聞いたことがない。テレビで霊能者が、亡くなったイスラム教徒の父親のメッセージを息子に伝えているのを見たことがあるが、それには「信仰を大切にしなさい」という忠告が含まれていた。ということは、人生と人生の間の領域には、イスラム教の天国、キリスト教の天国、ユダヤ教の天国などが、それぞれ存在していると考えなければ、理解できないことになる。

それは肉体を離れつつも、依然として高次な意識から隔絶されたままの、集合的なマインドが創造した世界であり、依然として宗教的な思い込みが認識を大きく左右し、ひいては経験として現れることも大きく左右しているのである。つまり、依然としてマインドという形態に囚われているのだ。バカは死んでも治らないと言われる通りである。

肉体の感覚から脱却すると、魂と神秘体(仮想現実を経験する主体)は、その関心を「人生と人生の間」の領域に写す。臨死体験をして「トンネル」をくぐり抜けたといった人々が経験するのはそれである。魂の振動・共振が、人生と人生の間の現実を決めるが、マトリックスにおける人間の経験の作用は、あまりにも強いため、魂の覚醒の印藤状態を低下させ、死と再生のサイクル(という認識)の罠に閉じ込めてしまう。

物質的な肉体・マインドを通じて物質的な現実を直接に経験してきた神秘体は、さまざまな生まれ変わりを通じてその役割を繰り返しているため、そうした経験の結果が振動的に刻み込まれている。これは、神秘体・魂が別の人生の肉体に反映されたものであり、肉体に説明のつかない印を持つ人がいる理由でもある。こうした生まれ変わりや経験は、再生サイクルから脱却できるところまで共振を速くするか、あるいは、共振を遅くし、神秘体・魂を再生サイクルの振動の範囲に囚われたままにするかのいずれかの振動的な影響をもたらす。多くの人々が、時間の環に戻ったとき、プログラムへとあっさりと引き込まれてしまう理由はここにある。前も同じようなことをしていたからだ。それをわたしの声の主は教えてくれた。

たとえとして、人々が、空から草原の小道に落下している映像を見せられた。声の主によると、マトリックスの中にいる意識は、「再生」を通じて時間の環を出入りするサイクルに捕獲されているため、一回きりの「肉体」の生涯という思い込みに条件付けられているだけではない。時間の環の中で延々と続く経験による条件付けもあり、「肉体」の旅の合い間にも別の形態の錯覚に陥っているという。つまり、時間の環の現実界に戻り、いっそうの条件付けにさらされることになる時点ですでに、条件付けされているのである。そのために、人類は条件付けされた隷属状態に簡単に陥ることになる。人類は何度も同じ状態を経験しているのだ。こうした話を聞いている内に、小道のある土地を足が踏みにじり、小道がレコードの溝のように見えるまですり減っていった。その溝はさらに深くなり、小道を歩いていた人々は、暗い溝の中に深く深く入り込んでいき、最後には見えなくなってしまった。「人間が空を見上げて神を求めるのも不思議ではないだろう。光があるとしたら、空を見上げるしかないのだ」と声の主は語った。

しばしば臨死体験者は、家族などに会い、地球での仕事は完了していないので、戻らないといけないと言われたと回想している。こうした瞬間には、大きな愛を感じたと話すが、それについては私も疑うことはない。だが、彼らもまた依然として錯覚の中にいる。仮想現実のマトリックスの誕生・死・再生というサイクルの罠に意識をはめる別の虚偽の現実である。この現実界から引き揚げるときには、本当の自己に目覚めておくことが実に重要である。そうでなければ、あらゆるレベルの錯覚から解放されることはなく、錯覚の振動の「壁」の向こうにある本当の自己、人生と人生の間の領域の錯覚の向こうにある本当の自己との再接続もできなくなってしまう。

生まれ変わりは、カルマ(業)とも言われるが、因果と関係している。自分がしたことが自分に返ってくるというカルマの法則は、仮想現実および人生と人生の間の領域の振動・数学的構造物の中でのみ成立する。意識に目覚め、高次の意識で動くようになれば、何の法則もない。カルマも一つの可能性に過ぎず、「あらゆる可能性」の中で固定的な「法則」として存在することはできない。我々自身の行動の結果に直面することなくして、どうやって我々は「学ぶ」ことができるのかと、疑問に思う人もいるだろう。だが、あらゆる可能性、無限なる意識は、「我々」ではなく、「私」である。このレベルの認識になると、全ては一つであり、因果(カルマ)という対極性も存在しない。

いずれにしても、「あるもの全て」には学ぶべきことはない。全て知っており、全ての可能性を持つ。因果(カルマ)は、仮想現実の宇宙のゲームの一部であり、基本的には、魂の神秘体に刻印された濃厚な密度の振動(これが再生サイクルの密度に魂を閉じ込めるわけである)を消し去ることに関連している。この刻印が、魂の状態を反映しており、我々は全て一つであるという自己認識(気づき)をもたらす「自分のしたことが自分に返る」を基本とした経験のサイクルがカルマである。声の主が「全てのは一カ所に集められ、一頭たりとて孤独に野原に置き去られる羊はいない」と述べたのは、この生まれ変わり・カルマのサイクルのことを話していた面もある。

操作をしている者たちも、当然ながら、同じサイクルに囚われているが、彼らはそれから脱却したいという願望がないようである。彼らは、あまりにも利己主義と支配に夢中になり、恐怖に囚われているため、それ以外は何も関心がなく、精神的成長など眼中にない。彼らは、そうした低次元の密度領域で生きる術を心得ており、彼らが極めて短い「肉体」人生へと追いやった人間よりも遥かに長生きできる化身(具体化した姿)で生きている。彼らの基本的な関心は、なるべく多くの魂を生まれ変わりのサイクルに閉じ込めておくことであり、それによってエネルギー的なエサを得ることにある。
で動けば「カルマの法則」などない。

大半の人は、現実界の錯覚は、人生と人生の狭間の「インチキ天国」あるいは「インチキ地獄」という領域にまで、延長されている。この領域は、この現実界に近接した振動次元であり、そこでは死と再生のサイクルの中で、「進化」するためにはこうしなければならないという思い込みに意識が囚われることになる。「再生」という言葉は、再び肉を持つという意味である。こうした人生と人生の間の現実界は、支配システムにとって必要不可欠な部分であるが、この現実界よりも、少しだけ広がりのある認識・思い込みを持つことができる。「死」を乗り越えたこと、複数の現実界(世界)が存在することには気づく。これはテレビ番組に出る霊能者のような人々が接続する次元である。

彼らは、他界した父親から「その仕事に就職しなさい」とか、亡くなった母親から「猫の面倒を見てくれ」といったメッセージを人々に伝える。そんな番組が実際にあり、私は何週間も毎晩のように見えていたことがある。その男の霊能者(霊媒)が伝える情報には、驚くほど正確なものもあり、彼がどこかと交信している事実は明らかに思えることが多かった。記憶に残っているものとして、あの時の番組で、彼は番組参加者の家族の父親(夫)と交信に成功したと言った。「彼は、この世に少しいて、次には無効にいたと言っている。最後に聞いたのは、(娘が)お父さん、大丈夫?と言った声だった」と霊媒は伝えた。家族は、その通りであり、父親がソファに座っていたかと思うと、次の瞬間には心臓発作で卒倒して死んでおり、娘が「お父さん、大丈夫?」と叫んだ事実を認めた。もちろん、商売としてペテンの霊能者は存在するし、巧みな言葉と心理操作で情報を拾い集め、それをあたかも「あの世」からのメッセージとして伝える者もいる。だが、全ての霊能者がそうではない。例によって職業的懐疑論者たちは、「この世しかありえない」という自己の思い込みを防衛しようと必死になり、何もかも一緒くたにして非難を浴びせている。

こうしたテレビ番組だけでなく、世界中のさまざまな事例を合わせて考えると、「あの世」から通信された情報は、全て「この世」的な現実認識に基づいていることが分かる。あの世からやってきた者が、「これは全部、錯覚なんだ。宗教なんかクソだ」と言うのを私は聞いたことがない。テレビで霊能者が、亡くなったイスラム教徒の父親のメッセージを息子に伝えているのを見たことがあるが、それには「信仰を大切にしなさい」という忠告が含まれていた。ということは、人生と人生の間の領域には、イスラム教の天国、キリスト教の天国、ユダヤ教の天国などが、それぞれ存在していると考えなければ、理解できないことになる。

それは肉体を離れつつも、依然として高次な意識から隔絶されたままの、集合的なマインドが創造した世界であり、依然として宗教的な思い込みが認識を大きく左右し、ひいては経験として現れることも大きく左右しているのである。つまり、依然としてマインドという形態に囚われているのだ。バカは死んでも治らないと言われる通りである。

肉体の感覚から脱却すると、魂と神秘体(仮想現実を経験する主体)は、その関心を「人生と人生の間」の領域に写す。臨死体験をして「トンネル」をくぐり抜けたといった人々が経験するのはそれである。魂の振動・共振が、人生と人生の間の現実を決めるが、マトリックスにおける人間の経験の作用は、あまりにも強いため、魂の覚醒の印藤状態を低下させ、死と再生のサイクル(という認識)の罠に閉じ込めてしまう。

物質的な肉体・マインドを通じて物質的な現実を直接に経験してきた神秘体は、さまざまな生まれ変わりを通じてその役割を繰り返しているため、そうした経験の結果が振動的に刻み込まれている。これは、神秘体・魂が別の人生の肉体に反映されたものであり、肉体に説明のつかない印を持つ人がいる理由でもある。こうした生まれ変わりや経験は、再生サイクルから脱却できるところまで共振を速くするか、あるいは、共振を遅くし、神秘体・魂を再生サイクルの振動の範囲に囚われたままにするかのいずれかの振動的な影響をもたらす。多くの人々が、時間の環に戻ったとき、プログラムへとあっさりと引き込まれてしまう理由はここにある。前も同じようなことをしていたからだ。それをわたしの声の主は教えてくれた。

たとえとして、人々が、空から草原の小道に落下している映像を見せられた。声の主によると、マトリックスの中にいる意識は、「再生」を通じて時間の環を出入りするサイクルに捕獲されているため、一回きりの「肉体」の生涯という思い込みに条件付けられているだけではない。時間の環の中で延々と続く経験による条件付けもあり、「肉体」の旅の合い間にも別の形態の錯覚に陥っているという。つまり、時間の環の現実界に戻り、いっそうの条件付けにさらされることになる時点ですでに、条件付けされているのである。そのために、人類は条件付けされた隷属状態に簡単に陥ることになる。人類は何度も同じ状態を経験しているのだ。こうした話を聞いている内に、小道のある土地を足が踏みにじり、小道がレコードの溝のように見えるまですり減っていった。その溝はさらに深くなり、小道を歩いていた人々は、暗い溝の中に深く深く入り込んでいき、最後には見えなくなってしまった。「人間が空を見上げて神を求めるのも不思議ではないだろう。光があるとしたら、空を見上げるしかないのだ」と声の主は語った。

しばしば臨死体験者は、家族などに会い、地球での仕事は完了していないので、戻らないといけないと言われたと回想している。こうした瞬間には、大きな愛を感じたと話すが、それについては私も疑うことはない。だが、彼らもまた依然として錯覚の中にいる。仮想現実のマトリックスの誕生・死・再生というサイクルの罠に意識をはめる別の虚偽の現実である。この現実界から引き揚げるときには、本当の自己に目覚めておくことが実に重要である。そうでなければ、あらゆるレベルの錯覚から解放されることはなく、錯覚の振動の「壁」の向こうにある本当の自己、人生と人生の間の領域の錯覚の向こうにある本当の自己との再接続もできなくなってしまう。

生まれ変わりは、カルマ(業)とも言われるが、因果と関係している。自分がしたことが自分に返ってくるというカルマの法則は、仮想現実および人生と人生の間の領域の振動・数学的構造物の中でのみ成立する。意識に目覚め、高次の意識で動くようになれば、何の法則もない。カルマも一つの可能性に過ぎず、「あらゆる可能性」の中で固定的な「法則」として存在することはできない。我々自身の行動の結果に直面することなくして、どうやって我々は「学ぶ」ことができるのかと、疑問に思う人もいるだろう。だが、あらゆる可能性、無限なる意識は、「我々」ではなく、「私」である。このレベルの認識になると、全ては一つであり、因果(カルマ)という対極性も存在しない。

いずれにしても、「あるもの全て」には学ぶべきことはない。全て知っており、全ての可能性を持つ。因果(カルマ)は、仮想現実の宇宙のゲームの一部であり、基本的には、魂の神秘体に刻印された濃厚な密度の振動(これが再生サイクルの密度に魂を閉じ込めるわけである)を消し去ることに関連している。この刻印が、魂の状態を反映しており、我々は全て一つであるという自己認識(気づき)をもたらす「自分のしたことが自分に返る」を基本とした経験のサイクルがカルマである。声の主が「全てのは一カ所に集められ、一頭たりとて孤独に野原に置き去られる羊はいない」と述べたのは、この生まれ変わり・カルマのサイクルのことを話していた面もある。

操作をしている者たちも、当然ながら、同じサイクルに囚われているが、彼らはそれから脱却したいという願望がないようである。彼らは、あまりにも利己主義と支配に夢中になり、恐怖に囚われているため、それ以外は何も関心がなく、精神的成長など眼中にない。彼らは、そうした低次元の密度領域で生きる術を心得ており、彼らが極めて短い「肉体」人生へと追いやった人間よりも遥かに長生きできる化身(具体化した姿)で生きている。彼らの基本的な関心は、なるべく多くの魂を生まれ変わりのサイクルに閉じ込めておくことであり、それによってエネルギー的なエサを得ることにある。


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