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潜在意識の法則・想定の法則

潜在意識の法則・想定の法則

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真実
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現代物理学が証明した「空」

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仏教はあの世を否定している



「死」についての明快な解答を持っているのが宗教だと述べましたが、この定義に従えば、釈迦の教えとしての仏教は、宗教ではないということになります。釈迦はあの世について語ることを否定しているからです。

お寺のお坊さんから、三途の川や極楽浄土の話を聞いたことがあるという方もいるかもしれません。でも、そのお坊さんは本来の意味では仏教徒ではありません。中国で生まれた浄土教という宗教のお坊さんです。

「だけど、南無阿弥陀仏と唱えたら、みんな浄土へ行けるって言うじゃないか」そういう考えはスリランカの上座部仏教やインド・チベット仏教の僧侶には、仏教とはみなしません。中国仏教と言ってもいいですが、正しくは浄土教という宗教なのです。

妄想だとわからせたうえでという条件がつきますが、周りの宗教が絢爛豪華な妄想を見せているのであれば、こちらはもっとすごい妄想を見せて、もっと救いを持たせようというのはかまいません。豪華絢爛な世界観を語る法華経とか、華厳経などがありますが、これらを語ることはかまわないのです。

ただし、「これは妄想ですよ」ときちんと言ってあげる。それを言えるお坊さんであれば、仏教徒と言えるでしょう。そうではなく、本当に極楽浄土に行けますよと言ってしまうお坊さんは、仏教徒とは言えないのです。




空観、仮観、中観



宇宙とか世界を捉える見方、考え方に「空観」「仮観」「中観」というものがあります。

「空観」とは、すべてのものは「空」であることを知って、すべてのものを「空」として見るというものです。「空」という概念は非常に説明が難しいのですが、「有でもあり、無でもある」あるいは「有でもなく、無でもない」といった概念です。すべてを包含しうる概念とも言えます。

よけいに混乱してしまったかもしれませんが、「あるとも言えるし、ないとも言える」、ということは「あるとも言えないし、ないとも言えない」わけです。


例えば、あなたは森の中にいたとします。では、その「森」というものは本当に存在するのでしょうか。「森」と言っても、ただ「木」がたくさん生えているだけです。木はあっても森は「ある」と言い切れるでしょうか。もしかしたら、「森」ではなくて「林」かもしれません。その区別すら、明確にはできないはずです。

「木がたくさん生えているのが森」だとすれば、その「たくさん」というのはどの程度を言うのでしょうか。どこからが「木」で、どこからが「林」で、どこからが「森」なのでしょうか。

こんなふうに考えていくと、「森」だと思っていた場所も、実は「森」ではないかもしれないと思えてきます。実際、「森」という存在があるのかないのか、なんとも言い切れなくなってきます。

こんなふうにすべてのものは、よくよく見てみると、「あるとも言えるし、ないとも言える」ものだということがわかります。「でも、『木』はあると言えるんじゃないか」

そう思う人もいるかもしれません。木が集まって森になる。だとすれば、森があるとは言い切れないが、木はあると言えそうだという主張でしょうか。

しかし、「木」という存在も「森」と同様に怪しいのです。そもそも、「木」という言葉があるから「木」と認識しているだけであって、「木」という言葉を知らない人が「桜の木」と「つつじの木」を見たとき、同じ「木」だと捉えるかどうかははなはだ怪しいと言わざるを得ません。

また、木は細胞からできています。細胞がたくさん集まって、「木」と呼ばれるものを形作っているわけです。だとしたら、「森」と「木」の関係と同様、細胞はあっても、「木」というものが「ある」と言えるのかどうか怪しいということになります。

細胞ももっと細かく分けることができます。核とか、細胞質とか、もっと言えば、分子とか原子とか、素粒子レベルまで分けることができます。

では、素粒子はあると言えるのかと言うと、量子力学の世界をご存じの方はおわかりのように、ある確率でしか、その場所に存在していると言えないのです。例えば、原子の中の電子の位置を正確に測定することはできません。

こんなふうに「あるともないとも言えるし、あるともないとも言えない」というのが「空」という概念です。

存在というのは、実は実体として「ある」とは言い切れず、常に他のものとの関係性の中でしか定義できません。どんなものであっても、「あるともないとも言え、またあるともないとも言えない」のです。

こんなふうに、「すべてのものは『空』である」としてものごとを見る見方を「空観」と言います。

これに対して、「すべてのものは『空』であるとしても、関係性(縁起)によってそれぞれの役割があり、たとえ仮の存在であっても、その存在や現象の役割を認めて見てみようという見方が「仮観」です。

存在そのものは「空」であっても、その「空」である存在に役割があるのだから、その役割を積極的に見ていこうとするものの見方です。「空」であることからいったん離れて、役割のほうに注目していこうという見方とも言えます。

映画にたとえると、常に「映画というのはすべてフィクションなのだ」という視点で映画を見る見方が「空観」で、「映画はフィクションだが、そのストーリーには役割があり、意味があるので、ストーリーの中に積極的に入り込んで臨場感を最大限に感じながら、お話をしっかりと見ていこう」という視点で映画を見るのが「仮観」と言えるでしょうか。

そして、この二つの見方の間に立って、同時に成り立たせる見方が「中観」です。「空観」と「仮観」よりも一つ抽象度が高い見方と言えるでしょう。「空観」の視点でフィクションだとしっかり認識しつつ、「仮観」視点でその役割を認めて、フィクションの世界に価値を見出す視点が「中観」なのです。

「仮観」とどう違うのかと思うかもしれませんが、「仮観」は「空観」の対立項で、存在は「空」であるということを知っていても、あえてそうした見方をしないで、役割のほうを見る見方であるのに対して、「中観」は存在が「空」であることを積極的に認め、それをしっかりと認識しながら、同時に役割にも価値を置くという見方です。

これまでの話で言えば、「妄想だとわかって宗教の壮大なストーリーに価値を見出す」のが「中観」的ものの見方なのです。「仮観」の場合は、「妄想だが、妄想であるとは見ずに、ストーリーに浸ってしまう」見方と言えるでしょう。

この「中観」というものの見方は非常に重要です。宗教は妄想ですが、役割があり価値があるなら、妄想だってかまわないと見るわけです。もちろん、妄想であることをしっかりと認識して、同時にその妄想に価値を認めるわけです。

死が怖いとか、死に接して心の整理がつかないと言って、日々、悶々として生きるよりは「いや、死は怖くないんだよ」という妄想によって明るく生きた方がいいわけで、妄想だとわかったうえで、その妄想にあえて乗ってしまうことは何の問題もありません。

ただし、何度も言う通り、妄想だとはっきりと教えてあげないと、戦争が起こってしまいます。本気で唯一絶対の神を信じてしまったら、神が「信じない者は殺せ」と言った場合、本当に殺してしまうわけです。でも、妄想だとわかっていればそんなことは起こりません。映画の主人公が何を言っても、それに従う客がいないのと同じことです。

西洋の宗教で問題なのは、「空」の考え方が抜け落ちていることです。「空」の考え方がありませんから、「空観」もありませんし、「仮観」もありません。もちろん、「中観」もあり得ません。

フィクションを実物だと思い込んでしまう思想なのです。実物だと思ってしまうと、隣の世界を認めることができなくなります。「信じるものは救われる」=「信じないものは救われない」=「信じないものは神が排除してもいいと認めている」という論理になってしまうのです。

また、すべてのものが「空」ではなく実物であるなら、大きければ大きいほどいいと考えてしまうのも、道理というものです。ビルは高ければ高いほどいいと考え、領土は広ければ広いほどいいと考え、金(マネー)は多ければ多いほどいい、ということになってしまうのです。

ビルも領土も金も「空」だと知っていれば、そんなものにこだわること自体が無意味だとわかるはずです。

そもそも金(マネー)というのは、物々交換を媒介する道具です。ところがいつのまにか、その道具ばかりを増やすことに心血を注ぐようになってしまいました。すべてを本当にあるもの、実であると考えてしまったからです。





般若心経の「空観」は誤り



「空」の概念を表現したお経として有名なものに「般若心経」があります。非常に有名でなじみのある般若心経ですが、実はどういう経緯で成立したのか、はっきりわかっていません。偽物のお経だという説すらあるくらいです。

この般若心経について、上座部仏教を日本に布教するためにやってきたアルボムッレ・スマナサーラという長老が『般若心経は間違い?』という本を書いています。スマナサーラ長老はこの本で、般若心経を一行一行、順を追って解読し、その意味と間違いを解説しています。

ちなみに、上座部仏教とは昔は小乗仏教などと呼ばれていたものです。仏教をおおまかに二分すると、上座部仏教と大乗仏教とに分かれます。小乗仏教という呼び方は大乗仏教側から見た蔑称なので、最近はあまり使われません。

スマナサーラ長老が「般若心経」間違いとして指摘していることの一つに、経の最後にマントラ(呪文)がついているのはおかしいというものがあります。

たしかに釈迦はマントラを否定していますから、彼の主張は正しいと言えます。上座部仏教が、密教を含む大乗仏教を批判するときに、たいていこのマントラ批判を展開します。

スマナサーラ長老がさらに大きな間違いとして指摘するのは、「色即是空空即是色」という、般若心経の中で最も有名な一節です。

これは「色とはすなわち空であり、空とはすなわち色である」、つまり「色と空は同じものである」と言っているわけです。色とは物質のことを意味します。「物質と空は同じものである」と言っているわけです。

「すべての物質は空である」は命題として真なので、一見、正しそうにも見えるかもしれませんが、「空即是色」のほうは「空とは物質のことである」という意味になってしまいます。

そんなはずはありません。「空とは物質である」という命題は意味不明です。空が物質なはずがありません。ですから、「物質と空は同じもの」というのは間違っているのです。

「空」というのは、「色」とは抽象度の違う概念です。「空」は「色」を含んでいますが、「色」は「空」を含む概念ではありません。「空」と「色」が同じというのは、「豚」と「哺乳類」が同じだと言っているのと変わりません。「哺乳類」は「豚」を含みますが、「豚」は「哺乳類」を含みません。ここに般若心経の大きな間違いがあります。




「色即是空」は「色即是無」



では、釈迦がいま生きていたら「色即是空 空即是色」とはどう書き換えるでしょうか。百歩譲って、「色即是空」は許せると思います。ただ、先に述べた通り「色」と「空」とは抽象度の異なる概念ですから、「有」と「無」、あるいは「色」と「無」という、同じ抽象度の言葉を並べた方がいいと思います。

釈迦はおそらく、この部分は「色即是無 無即是色」とすると思います。「物質(有)と無は同じである」ということです。

そして、「空包摂色 空包摂無」と続けます。「空」とは「物質(有)」も「無」も含んでいるということです。これでやっと、「空」の概念が正しく説明できます。

本当に意味のあるお経に書き換えるのであれば、臨終とは「無」になることではなく、「空」になることであるという教えを盛り込むに違いないと思います。「有」と「無」、物質があることとないことは何も差がないのだと教え、それを理解できれば、生きていることも「空」であるとわかり、「死」と特に差があるわけではないとわかるはずだからです。





現代物理学が証明した「空」



「空」とは、「色」と「無」は同じものだ、という概念だということを見てきました。これは現代物理学、量子力学の分野でも明らかにされていることです。

実験室で真空を作ったとします。ところが、完璧に真空を作ったはずの空間に、いつのまにか素粒子がポンポンと現れてしまうのです。これは、観測という行為がエネルギーを与えているからと解釈されていますが、とにかく無を作ったはずのところに有が生まれてしまうわけです。

逆もあります。例えば、原子は原子核と電子からできていますが、電子というのは有、すなわち物質として存在するはずなのに、場所を確定しようとしても、ある確率でしか観測できないのです。

これを不確定性原理というのですが、量子とか素粒子の世界では、物質が存在している時間と場所はある確率でしか決められない、つまり確定できないのです。

ΔE×Δt≧h

という式があります。Eはエネルギー、tは時間、hはプランク定数を表します。hはかなり小さいけれど、ゼロではないとうい点が重要です。なお、Δ(デルタ)というのは、その変数が増えた(増減した)分という意味です。ある一定時間Δt
のあいだに増減したエネルギー量がΔEです。これらの積がゼロではないhという定数以上であるということは、ΔEもΔtもゼロにはなり得ないということを意味しています。


ΔE×Δt≧h≠0 ゆえに、ΔE≠0かつΔt≠0

ΔEとΔtの掛け算がゼロにはけっしてならないのですから、ΔEもΔtもゼロにはなりません。

アインシュタインの相対性理論によって、E=mc²という式が導かれました。mは質量、cは光のコンスタント、つまり光速です。光速の2乗は定数ですから、エネルギーは質量に比例する、つまりエネルギーは質量で表わせる(エネルギーと質量は、互いに方程式上で代入可能なので、置き換えることができる、すなわち、式の上ではエネルギーと質量は同じものだと見なすことができる)ということになります。


時間も質量もゼロにはなり得ないことがわかります。ある一定時間があれば、そこには必ず質量が存在するということになるのです。質量が存在するということは、そこに何か物質=「色」が存在するということになりますが、その物質は時間を定めた瞬間、ある確率でしか場所を特定できません(「不確定性原理」より)。そこにあるのは間違いないのですが、場所は特定できないので、あるともないとも言えるし、あるともないとも言えないということになってしまうのです。

これはまさに「空」と非常に近いものと言えます。

物質の場所をある確率で存在するとしか言えないという考え方は、現在の量子力学では常識ですが、かのアインシュタインはこの考え方には懐疑的というか、真っ向から反対していました。有名なセリフ「神はサイコロを振り給わず」というのは、この確率の考え方に疑問を呈した言葉です。

偉大なるアインシュタインですが、このことに関しては、分が悪いようです。素粒子の位置はどうしても確率でしか表せないのです。

あるともないとも言え、あるともないとも言えないという「空」の概念が、現代の物理学で立証されているというわけです。




葬式とは何か



最近の日本の仏教は「葬式仏教」などと揶揄されています。葬式のときにしか必要とされないということでしょうか。
では、そもそも、葬式とは何なのでしょうか。
「死者を弔うのが葬式に決まっているではないか」

もちろん、そういう側面もあります。ですが、本来、釈迦は死者を弔う儀式にお坊さんが出席することを禁じました。お坊さんがあの世に対して権力を持っているかのように誤解されてしまうのを恐れたからです。

あの世に対して権力を持ってしまうと、どうしてもこの世でもその権力が発揮されてしまいます。本人にそのつもりがなくても、一般の人々があの世での幸せな暮らしを保証してほしいと、あの世の権力者にすり寄ってきてしまうことでしょう。そうなれば、この世でも権力が発生してしまいます。

お坊さんは権力から最も遠いところにいなければいけないという意味で、釈迦はお坊さんが葬式に出ることを禁じたのです。

釈迦はお坊さんは葬式に行ってはいけないと言ったのですが、現代の日本では、葬式はお坊さんの第一の仕事になってしまっています。釈迦が見たら、さぞ嘆くことだろうと思います。

ただ、大乗仏教的には、お坊さんが葬式をする理由というか、言い訳があります。それは、「葬式とは仏弟子になるための儀式である」というものです。仏弟子になるには受戒といって、キリスト教徒でいえば洗礼にあたる儀式を受けなければならないのですが、そのときに仏弟子としての名前をもらいます。それが戒名とか法名と呼ばれるものです(浄土真宗と日蓮宗は除きます。浄土真宗はそもそも受戒しませんし、日蓮宗は法華経の題目を唱えることで仏に仕えると見なされています)。

仏教教団のホーリーネーム(オウム真理教が信者に与えた教団内のランクを示す名前)みたいなものだと思えばいいでしょうか。その集団に属しましたという意味で、名前をもらうのです。

日本の大乗仏教は浄土教の思想が強く反映されていますから、仏弟子しかあの世(浄土)へ行けないことになっています(当然、死後の世界の存在を認めることになります)。

そのため、死後、あわてて無理矢理にでも仏弟子にして、浄土へ行ってもらおうというのが、現代の日本仏教式の葬式なのです。

生前、仏縁がなかったかわいそうなお父さんのために、遺族が仏弟子にしてあげる。その仏弟子になったお祝いが葬式というわけです。

キリスト教ではキリスト教徒しか天国へ行けませんし、イスラム教でもイスラム教徒しか天国へ行けません。それと同じで、大乗仏教では仏弟子しか浄土へ行けないわけです。

釈迦がそんな差別をしたとは到底考えられませんが、大乗仏教では、とにかく仏弟子になることが重要なので、葬式(受戒の儀式)をするという言い訳が成り立つわけです。

このことがわかると、「だったら、生きている間に葬式をやったらいいじゃないか」という発想に辿り着くと思います。それでいいのです。戒名というのは、本来は生きている間にもらうべきものなのです。

あるいは、そもそも仏教(日本式の仏教)を信じていないのなら、死んだときに仏弟子になる必要はないでしょう。

高いお金を払って、お坊さんに「○○院○○居士」なんていう偉そうな戒名をつけてもらう必要もありません。




生物学的に死を定義する



生物学的に死を定義するとどうなるのでしょう。

「心臓と呼吸の停止が死でしょう」

本当にそうでしょうか。心肺停止状態の人が、人工呼吸や心臓マッサージ、AEDなどで命を取り留める例は少なくありません。心臓と呼吸の停止が死なら、これらは死んだ人が生き返ったことになってしまいます。

「細胞の死が人間の死だ」

これは正解ではあるのですが、若干の問題も残ります。細胞の死とは細胞が代謝をやめたときと考えられますが、それは身体の全細胞の代謝機能が停止したときでしょうか。それとも、どこか特定の細胞が停止したときでしょうか。心停止してから全細胞が代謝機能を停止するまでには、かなりの時間がかかりますが、その間は生きていると言えるのでしょうか。

「もう、元には戻らないという『不可逆的に生命活動が止まる』のが死だよ」

概念としてはわからなくもないですが、「不可逆的に生命活動が止まる」というのは非常に恣意的です。ある人の心肺停止状態が可逆か不可逆かは、蘇生処置を試みてみないとわかりません。

「結果的に息を吹き返さなかったから、あのときすでに死んでいたってことになる」というようにしか判断できないことになります。これでは、あまりにもあいまいです。

実は、死を定義することは非常に難しいのです。それは、我々が個体と考えている体自体が、たくさんの生命の共生体だからです。

脳死を人の死と認めるべきか、どの段階で脳死と判定するかなど、議論がさかんに行われています。これは、共生体である個体の死を、法律的に無理やり定義しようとしているわけですが、議論が行われるということはきっちり定義することができないということです。生命がたくさん集まって、複雑に関係し合っている個体という組織の生と死を法律的にどこかで線引きしなければならないでしょうが、そもそも無理があるので、議論が絶えないわけです。

エゴにエサを与える

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エゴにエサを与える



伝統的なスピリチュアルな教えの中には、悟りを得るか、自由になるためには、エゴを排除するとか、または「絶滅」させるという考えをも支持しているものがある。しかしながら、目覚めてわたしたちが発見するのは、エゴはまだ存在しているということだ。実際に、意識的な世界では、あなたのエゴはあなたの協力者となる。エゴを意識的に活用することによって、あなたは具体的な行動を起こすことができ、また、物事を実現させることができるのだ。

ケン・ウィルバーは著書『ワン・テイスト』の中で、エゴについて大まかに次のように言及している。

「エゴはスピリットの障害物ではなく、スピリットの光を放つ現れなのである・・・エゴは粗野な領域での、機能的な自己として留まる。そして、エゴはもっと強度を増して、もっとパワフルになることすら適切かもしれないのである。なぜならば、今や宇宙全体とエゴは接続されているからだ。悟りを開いた偉大なる師の多くは、際立ったエゴを持っていた・・・手厳しくて、説得力があり、パワフルなパーソナリティーという意味で」

西洋で人々が度々、「エゴ」とは何であるかについて、混同した考えを持っているのは、おそらくフロイトの影響であろう。

「あの人は利己的だ」と言うように、エゴはネガティブなものだと考えられてきた。または、その反対に、「あの人は引っ込み思案だ」と、自分自身にまったく自信がない人のことも、エゴだと見なされる。疑いの余地もなく、エゴは自己イメージや自己価値と同一視されてきたと言えるだろう。膨らんだ自己価値は傲慢さを、自己価値の欠乏は卑下をほのめかすのである。

わたしが「エゴ」という言葉を用いるときは、ただ単に「私が」、「私だ」という個人的な感覚について言及している。「母に電話をかけなくてはならないので、私はここで失礼します」、「私は仕事に行かなくてはなりません」、「私は夕食会を計画しています」とあなたが言うときはいつも、話しているのはあなたのエゴ、あなたの「私」なのだ。ある意味、誰もがエゴを持っている。たとえ、あなたが自分の真の性質を認識したにせよ、または時を超越した創造の流れから自分から切り離されていないと感じているにせよ、あなたは依然としてエゴを持っている。ほんの僅かであっても、あるいはもう執着していなくても、あなたは依然として個人の欲求、要望を明らかにする必要があるのだ。

健全なエゴと、個人的なレベルでの明確な境界線全体を発達させることは、わたしたちの人生の旅の初期に起こる成長と成熟のプロセスの、極めて重要な部分である。記憶する、考案する、計画する、分析する、推測する、理解する、制作する、そして、個人的な境界線を明らかにするという、エゴの持っている能力を駆使して、エゴはわたしたちの物理的な生存と幸福のために尽くすことができる。ところが、エゴはわたしたちが必要とするものをすべてもたらすことはできない。この限界にいつ気づくのかに、わたしたちの成熟さが立証されるのだ。

エゴの分離した独立側のスタンド・アローンの性質は、わたしたちのスピリチュアルな幸福にはとても重要な、愛という深い滋養をもたらすことはできない。愛については、ハートが語らなくてはならないのだ。そしてハートが語り、ハートが聞き取るためには、エゴはそのコントロールを明け渡さなくてはならなくなる。エゴは事実上、舞台の袖に引っ込まなくてはならないのだ。

「自由になるには、あなたは毎日死ななくてはならない」というクリシュナムルティの深い叡智の言葉に、このことが見事に表現されている。

クリシュナムルティが語っているのは、エゴ、または一個人という自己を作り上げている精神的、感情的な執着のすべてを、つまり、信念、期待、願望に対する執着を手放すということである。これらの「ストーリー」は真実ではないというあなたの理解が深まると、ストーリーはさらに色褪せてくるのだ。こうしてエゴが退くと、極めて重要な新しいものが生まれる。あなたの真の自己、本当の「わたし」、またはあなたの中の神性な側面が、明瞭で、狂人で、活気に漲り、それ自体で独立するようになるのである。

エゴはストーリーを必要としている。そしてエゴはこの組織のメンバーだとか、あの政党のメンバーだとか、この信仰やあの主義のフォロワーだとか、何かと一体化すること、またはエゴ自身を呼ぶ何かを必要としている。あなたが実際に自分自身の本質の状態にある、本当の「わたし」は、それ自身を知るためや安心感を得るために、そのような付箋やアイデンティティーを必要としない。純粋な真のわたしは、それ自身をただそれ自身として知り、それだけで充分なのだ。それ自身はそれ自身を全人類、全創造物とひとつの、何も欠けていない、生命の神性なる完全性の、その一つの現れであることを知っているのである。

すっかりくつろぎながらも、それでいて非常に注意深いという、この瞬間に生きる状態を確立させるようになるにつれて、そしてあなたの真の性質である沈黙の状態が心地よくなるにつれて、エゴが好んでそれ自身を美しく飾り立てるストーリーと信念、概念の必要性がなくなってくる。そうなると、エゴである一個人という「私」は、あなたが完全に存在する間、それ自身にふさわしい役割を引き受けるようになる。マインドと同様に、エゴは非常に明確な目的のために存在するツール、媒介となるだろう。エゴがあなた個人の境界線を整えるのだ。これが意識の海として、あなた独自の波の性質である、あなた自身の個人の創造的票g年を、どのように定義して区別するかということなのである。

自由への目覚めに伴ってエゴはもっと機能的になるというのが、以前との違いである。エゴは透けて見える、透明な窓となるのだ。あなたが誰であり、何であるのか、または、あなたの人生で何が重要なのかについてという、いずれのストーリーにも、エゴは関与しなくなってくる。「食料品を買いに行かなくてはならない」とか、「公園に行ってくる」と言うときに、不必要なドラマのから騒ぎはもうなくなるのだ。

ところが、あなたがまだ自分自身の真の性質に目覚めていないのであれば、エゴの「私が」や「私だ」は、ストーリーに結び付けるある種のストーリーを常に持っている。声に出して言っても、言わなくても、自分の視点や立場、そして自分が誰かという見解が正しいと正当化すること、擁護すること、肯定すること、認証を得ることの必要性をあなたは常に感じるだろう。

内なる自由が深まるにつれて、エゴはまるであなたの手や声や、あなたが使うツールのように、あなたが必要なときにそこにいる。そして、あなたが必要としないときは、エゴは退いている。エゴは厄介者ではなくなるのだ。

そして、エゴが一瞬の思い上がりか、自画自賛に巻き込まれて拘束されている間は、エゴは時折、表面に現れてくるかもしれないが、あまり心配し過ぎないことだ。人生のほとんどをインドで過ごし、内なる沈黙と実在を身を持って体現して、多くの人々を惹きつけたデンマーク人の男性、スニャータが語っていたことをわたしは思い出す。時折、エゴにエサを与えてもオーケイだと。そもそも、エゴはわたしたちが誰であるのかの一部分なのだ。

エゴの存在を認めて、エゴを手放そう。ただ、今というこの瞬間に開かれて、意識的であることに戻ろう。すると、エゴは必ずしも問題ではなくなってくるだろう。




変化を包み込む



「変化をとても恐れていると、ふと思うときがあります。愛する人たちが、ずっと傍にいてくれることを望んでいます。住んでいる家が気に入っていて、ずっと住み続けたいと願っています。それでもあるレベルでは、それは単なる物事を手放す変化についてのストーリーだと気づいて、当惑してしまいます。そして、依然として変化に対する恐れは湧き起ってくるのです・・・」と、ある若い女性が無防備になった瞬間、わたしに打ち明けた。

仏陀は人生の教義である、三つの根本的な法則を伝えた。その第一は、万物は常に変化するという無常である。季節はやって来ては去って行く。昼間は夜となる。気候は変化する。わたしたちの肉体は成長して成熟すると、その他の命あるものと同様に、やがては衰えて滅びる。わたしたちは変化を止めることはできない。そして変化に抵抗すると、不満や苦しみを引き起こす。これが仏陀の法則の第二の苦である。

したがって、あなたがこの真実を理解するとき、物事に固執することはなくなるだろう。そして、あなたは次のような態度を身に付けるだろう。名前と形態の世界にしがみつかない。物事がある一定の状態で在ることを強く要求しない。人生の変動の流れにゆだね、必要なときに行動をお越し、忍耐力が必要とされるのであれば忍耐強く待つ。

「神様、わたしが変えることのできない物事を受け容れる静穏さを、そして、わたしが変えることのできる物事を変える勇気を、そして、その違いを知る叡智を、どうかわたしに授けてください」。このよく知られてい静穏さの祈りは、このような在り方を喚起させる。

仏教の師ジャック・コーンフィールドが、彼の師であるアーチャン・チャーについて語った逸話の中に、異なる表現でこれらと同じ要点を解説しているものがある。それはアーチャン・チャーが贈りものとして受け取った美しいガラスのゴヴレットを中心に展開する逸話だ。アーチャン・チャーはそのゴブレットを手にして見とれる一方で、そこに集まった生徒たちに、そのゴヴレットは既に壊れていると語った。生徒たちがその真意を訊ねると、彼は次のように答えた。一年先のことか、十年先のことか、百年先のことかわからないが、いつかは何かが起こる。事故か火事が起こるか、誰かがうっかり落として、そのゴブレットは壊れるだろうと。

この理解のお陰で、彼はゴブレットに対してまったく執着を持たずに、その美しさを堪能して、楽しむことができた。彼は既にゴブレットに別れを告げていたために、ゴブレットが彼の持ち物である日々は祝福であったのだ。

このことを若者言葉で「とんでもなくサイテーなことも起こる」と表現することもできる。全体像を見通すこと、つまり不可避の出来事の展開を推し量ることが叡智なのだ。叡智とは前方を見通すことである。非常に現実的な言い方をすると、予想できる最悪の筋書きを視覚化するということだ。したがって、あなたは覚悟がつく。予想できる最悪の筋書きが起こったら、それに対処するための行動を起こすことができるのだ。将来に何か起こるかもしれないと、取りつかれたように絶えず懸念するのではなく、あなたは可能性に気づいて、可能性に開かれたままでいることができるのだ。

過去にしがみつかずに敬意を払い、将来にいつも気を取られずに将来をじっと見据えているその間、あなたの気づきは常にこの瞬間の中に、まさにここに根づいているのである。

仏陀の第三の法則は無我、自己の不在である。マインドの中にある観念や概念としての他には、わたしたちが「自己」と見なすものは存在していないと仏陀は語ったが、悟りに関する昔からの卓越した伝承のすべてにも、このことは言及されている。また、ジーン・クレインも同じように語っていた。

「自己」という考え、「私はこれである」とか「私はそれである」という見解、「私、私自身、私のストーリー」である小さなマインドの内側で展開する全ドラマ---それらに対する執着が、変化への抵抗を生み出すのである。宗教的、政治的な信念であろうと、または国民性か、何か他のものであろうと、安心感を求めて人々が握りしめ、しがみつく、固定した身分のことだと、あなたはわかるだろう。

仏陀の第一法則である無常、あるいは非永続性は、万物は常に変化しているということを的確に表現している。しかしながら、わたしたちは絶望的と言っていいほど、その非永続的なある部分にしがみついて、それが変わらないようにとしているのだ。この固執と抵抗が結果的に仏陀の第二の法則である苦となるのだ。

しかし、苦しみの本当の原因は、何よりもまず、「自己」という考えを保持すること、つまり、「ある人」でいることか、「私」の個人的な過去の事柄との一体化を保持することなんである。それが真実ではないとわかると、あなたはそれを手放して自由となる。すると、「自己」のどのような概念にもしがみつく必要もなく、生きることができる。なぜなら、あなたは自身の注目を自分自身に引き戻して、小さなマインドの内側の概念としての他には、「あなた」は存在しないことを発見したからだ。

そうなると、「自己」評価との奮闘はなくなる。承認や支持を必要としていたり、ある日は自分自身に満足し、ある日は自分自身を嫌うというような、どのような「自己」イメージもあなたは保持していない。したがって、もう苦しみはないのだ。生命の根底にある「グッドネス」と繋がっているので、あなたはいつも内面で心地よく感じている。「私が」、「私の」、「私のもの」という言葉を、あなたは実用的に、純粋な意味で用いる。ちょうど実際に役に立つ創造的なツールとして思考を用いるように。あなたはもう思考や考えている自分とは一体化していないのである。

カルロス・カスタネダの師、ドン・ジュアンはこのように語っていた。「わたしは個人的な過去の事柄を持っていたが、もう必要ないとわかったので、タバコや酒と同じようにただ棄てた」と。

直接的な道のアプローチによって、過去の事柄がリアルではないと理解すると、「自分自身の個人的な過去の事柄を棄てる」ことをあなたは身につけるだろう。それはかつてあなたにとっての真実であったが、現在は真実ではない単なるストーリーなのだ。あなたは自分自身を誰にも証明する必要はないので、物凄い重圧感がなくなるだろう。たとえ誰かがあなたに何かを言ったとしても、あなたは攻撃されたと感じない。したがって、自分自身を防御する必要はないのである。すべての瞬間が生まれたばかりで真新しいのだ。

以前、一人の男性から「変化しないものはありますか」と、訊ねられた。わたしは「変化しないものはあります」と答えた。意識そのものは変化することはないのだ。意識はただ存在する。今こうして、あなたの中で感知して知覚している意識、または気づきは、時を超越し、無限で、偶発的なのだ。意識、または気づきは、常に存在する。つまり、常に変化する創造の動きと流れの、沈黙した背景なのだ。このことを理解することが、内なる自由への扉を開けて通り抜けることである。

仏陀は意識がわたしたちの真の性質であるとは実際には語らず、悟りがわたしたちの苦しみの終焉になるとだけ語ったが、ジーン・クレインに教えられたこの直接的な道は、意識がわたしたちの真の性質であるという側面を強調している。すべての現象の背後に存在する不変の、時を超越した気づきへの目覚めによって、つまりわたしたちが誰であり、何であるのかという、わたしたちの真の性質は意識そのものだという事実への目覚めによって、わたしたちは自由へと至るのである。

「それでは、これが確かなことだと、どうやってわたしは知ることができるのですか」と、あなたは訊ねるかもしれない。

ここで少し本題から横道にそれて、今までの人生を思い出せる限り遡って、あなたが経験してきたすべての変化について振り返ってみて欲しい。交流があったものの、去って行った友達や恋人たち、以前、住んでいた場所、通っていた学校、得た仕事、長い間とても大事にしていたが冷たくあしらうようになった信念・・・

変化していないことが一つでもあっただろうか。そして体験してきたこれらすべての変化において、あなたの気づきがどのようにある種の不変性を有しているのかに注目してみよう。それはまるで、あなたの人生の全ドラマが展開し、シフトして、その変化を経るということを、まさにその最初から、じっと見つめ続けてきた何かが、あなたの中に存在しているかのようではないだろうか。

多くの人たちはこのことを理解して、その変化しないものとは目撃者なのか、観察する自己なのかと、度々訊ねるが、わたしはそれをただシンプルに気づきか、意識と呼ぶのを好む。「目撃者」や「観察する自己」という考えから、対象となる人や物を作り上げることはあまりにも簡単であり、そうなると、あなたは別の概念や別の物事と結びつくようになる。これがあなたを小さなマインドの中---二元性の中に、そして、ストーリーの中にあなたを引き戻すのである。そして、あなたが二元性の中で生きているときは、矛盾と苦しみの種が蒔かれるのだ。

わたしが言及しているのは、実際には、あなたの気づきとか、わたしの気づきということではなく、わたしたちを通して現れている普遍的な気づき、または神性な意識のことである。あなたは覚えているだろうか。わたしたちが波形となって表現している、たった一つの海、たった一つのエネルギーしかないということを。たった一つの意識だけが存在する。このことを認識すると、あなたの人生は永遠に変わることだろう・・・



●今、あなたはその一つの意識を知覚できるでしょうか、感知できるでしょうか・・・深く静まり返って、この瞬間に存在します・・・あなたの瞳を通して、見つめている気づきでありましょう・・・あなたの内側と外側の、すべてのものを注目しましょう・・・内側と外側の広大さに同調します・・・たった一つの意識であるエネルギーはどのように流れているでしょうか・・・あなたはその流れとひとつです・・・あなたの気づきの中に思考はやって来て、去って行くものの、あなたは思考と一体化していません・・・あなたはこの瞬間に呼吸をして、ただここに存在しているのです・・・・





自分自身を特別だとは見なさない



以前、ジーン・クレインの講演会で、ある男性が質問をした。「講演会に参加する度に、先生はとても明晰でくつろいでおられることに気づきます。穏やかな愛に溢れる温かさを放たれ、とても幸せそうにお見受けします。ところが、わたしはいつも不機嫌で、度々ストレスをかかえています。自分自身がとても惨めに思えるときもあります。わたしたちのこの違いとは何でしょうか」

ジーンはその男性をしばらくの間見つめると、微笑みながら答えた。「あなたはまだあなた自身をある人物だと見なしています。わたしはわたし自身をある人物とは見なしていません」

わたしたちが充分な時間をかけてこのことを自分のものとするまでは、ある人物でいることの必要性を手放すと不安になるかもしれない。わたしたちは人生の意義をわたしたちに与える、自分たちの思考、信念、ストーリーに依存することに慣れているからだ。それがわたしたちのアイデンティティーという感覚、つまりわたしたちが誰であり、何であるのかを知っているという観念になる。しかしながら、この非常に限られた知っているという状態が、わたしたちを葛藤の中に留めるのである。異なる心理的、哲学的、宗教的な信念に基づいたアイデンティティーを持つ他者と自分を分断させ続けるのだ。

実を言うと、わたしがスピリチュアルな旅を始めたばかりの頃、アメリカ人のスピリチュアル・ティーチャー、ラム・ダスが「悟りを得るとは、名もない人となることである」と語るのをわたしは聞きたくなかった。幼少のころから、わたしはこの世で成功するために特別な人になりたかったからだ。認められること、注目を浴びることを当時は必要としていたのだろう。わたしは非常に野心的だった。

それにもかかわらず、わたしはようやくラム・ダスが正しかったことを理解した。最も自由な人々は、自分自身を特別な人だとは見なさない。彼らの野心は個人的ではなく、むしろやりがいのある何か、より善いことのために役立つ何かに取り組むことに集中している。彼らは「自己」のいかなる概念やイメージにも執着していない。なぜなら、彼らはそのような概念やイメージはすべて架空のもの、わたしたちの想像の産物だと見なしているからだ。現実の真の性質を見通した明晰さの結果が無執着である。無執着が心配と苦しみからわたしたちを解放するのだ。

ジーンの師としての強靭さは、個人的な事柄から生じることを一切に信じないことにあった。個人的な問題を抱えた人々が彼のもとを訪れても、彼は滅多に直接的な答えやアドバイスを与えることはなかった。その代わり、明晰さ、自由、そして、彼らの非個人的な真の性質である広大さに戻るようにと、ジーンは彼らを導いたのである。ひとたび、わたしたちが実際には「誰でもない」ことを知り、非個人性と目覚めを確立すると、わたしたちのパーソナリティーである個人性が本来の自然な状態で現れる余地が生まれるというのがジーンの観点だった。このアプローチの素晴らしさは、「誰か」になろうとする考えに執着せずに、「特別な人」となることを可能にさせるところにある。これが自由であるということの意味なのだ。

それでも、ジーンのもとを訪れる多くの人たちは、この彼のスタイルに手を焼いていた。彼らは自身の「私」や「私だ」という個人的なストーリーを手放したくなかった。応急処置と速攻の解決策を望み、何かを放棄しなくてはならないということは望んでいなかったのだ----特に、かれらが自分は誰であるのかと思っていることについての考えと信念に対する執着を手放すことは。自由を欲していると思って彼らはジーンの話を聞きにくるのだが、彼らが実際に望んでいたのか、エゴが自由に闊歩できる、より大きな檻の内側の空間だったのだ。

真の自由をあなたが望んでいるのであれば、このことを理解することは重要である。時折、直接的な道の教えの非個人的な性質が、あなたの内面に不安を引き起こすかもしれない。それはただ、エゴと個人的な過去の事柄とあなた自身が、どの程度の一体化をしているのかをほのめかしているだけである。自分が誰なのかについての考えを手放すことは不安で、恐ろしくさえもあるだろうが、それでも手放すと、そのとき初めて、真の自由と喜びが見つかる。あなた自身が一体となっているものが現実でないとわかると、より簡単に手放すことができるだろう。

かつて、マイスター・エックハルトは語った。「私」がより少ないと、神がより多くおられると。彼はエゴを退かせることを言及していたのである。エゴという「私」は、何か新しいことが起こるときは邪魔になる。それにもかかわらず、わたしたちがこの世で生存するには、エゴが必要だ。エゴはわたしたちが誰で、何であるのかの、その一部であり、肉体・マインド・自己の道具なのである。

自由へのメソッドを自分のものとすると、あなたはあなたの思考でもストーリーでもないことを身を持って体現するようになる。徐々に、「私が」、「私だ」、「私のもの」という考えに対する執着が緩んでくるだろう。以前は非常に重きを置いて結びついていた、「自己」に対する興味をあなたは失い始める。しがみつくことが、ここに在るものへの抵抗を生み出すのだと、あなたは理解するだろう。しがみつくことは批判、期待、結果に対する執着に固執することか、それらを思い込むことである。この抵抗が葛藤、自己不信、心配、恐れ、苦しみという結果を生み出すのだ。

そうなると「自己」のいかなる観念やイメージも保持する必要はなくなり、あなたはこの瞬間の、開かれたハートと気づきそのものとなって生きるだろう。過去に執着せず、また、将来に常に気を取られることもなくなるだろう。あなたが静まり返って今が内包するエネルギーに同調する度に、創造そのものの深遠なエネルギーがあなたを育む。そして、そのエネルギーは途轍もない勢いとなって広がっていくだろう。

あなたは自由となる。他の人たちから認められることは、あなたにとって重要ではなくなり、また彼らから認められないことは、まったくかほとんど、あなたに影響を及ぼすことはなくなってくる。あなたは依然としてエゴを持っているが、エゴは透き通ってくる。エゴはあなたの真の叡智、美、本質が輝く透明な窓となるだろう。

あなたが目覚め始めると、エゴはこそこそと裏口から忍び込んできて、達成感に浸って得意気に「ほら、私は悟った」、「私は到達した」、「私は特別だ」などとささやくだろう。これをスピリチュアル的傲慢と呼ぶ。ところが、あなたの目覚めが本物である限り、あなたは素早くこのことに気づいて、すぐ、簡単に実在へと戻るだろう。上手にあなたのエゴを後ろに下がらせて、エゴに口出しをさせなくするスキルをあなたは持っているからだ。そして、あなたは小さなマインドに基づいてではなく、ハートで人々に接することにもっと興味が湧いてくるだろう。

かつて、ネイティブ・アメリカンの長老が語った。知識は世界を分裂させ、叡智が世界を欠けたところのない完全なものにさせると。知識の大部分は小さなマインドにあり、叡智はまさにハートにある。あなたのハートに耳を傾けて、ハートを信頼しよう。そうすれば、あなたの旅のすべてのステップは、叡智によって導かれるだろう。

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目覚めや悟りは「私」という幻想を見抜くこと

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目覚めや悟りは「私」という幻想を見抜くこと

孤独と空虚



40代の男性がわたしにこう打ち明けた。「私はきっと困難な時期を通り抜けるのでしょう。瞑想しようと座るときはいつも、内なる平和と降伏を感じられる、ある段階まで達します。しかし、その後で、私の内面のどこか深層から、家族、友人、仕事に関わる思考やイメージが浮上して、それで私は不安になるのです。

私は間違った道を歩んでいるのでしょうか。瞑想はどういう理由か、人生を導くのではなくて、私を人生から切り離します。突然、この宇宙でとても孤独だと感じている自分自身にも気づきます。痛いほど、孤独です。それはまるで恐ろしい真空のようで、そしてパニックが始まります。そうなると、ただちに何かポジティブな事を考えるか、完全に瞑想をやめなくてはなりません。どうしたらいいのでしょうか」


数年も前に、わたしはこれと非常に似通った状態を経験しました。この男性のように、座って瞑想しているとき、ある程度、深いくつろぎの状態となると、凄まじい空虚の真空が、まるでのしかかるように迫ってくるのだった。わたしの場合は一年以上続いた。もう少しで、瞑想をとめるところだった。

1982年に、私はリチャード・モスによるリトリートに参加した。リチャードは以前医師であったが、変容を導く師となり、彼のワークは当時のわたしに強い影響を与えた。彼はわたしに小さなマインドという思考の領域から脱すること、そして非言語的な体験の要素である、エネルギー、知覚、感覚に目覚めることを教えてくれた。

リトリートの始めに、この10日間、自分が通り抜ける体験を知的に理解しようとはしないと、わたしは自分自身に宣言した。その結果、ストーリーを作ってマインドへと発展する、概念的で分析的な干渉をせずに、何が起きてもその体験とただ共に存在するという、人生において新しい種類の気づきをわたしは開拓することができた。これは非常にパワフルであった。

多くの絶頂の体験、洞察、ブレークスルー、感情の高まり、そして少しばかりの落ち込みもあったが、並外れた10日間のリトリートとなった。

リトリートの最終日の夜、皆との最後の夕食に参加する一時間ほど前に、わたしは少しだけ瞑想することにした。その夜は少し肌寒かったのでブランケットに身を包み、キャビンの外にあるポーチに座って、夜の闇の中で瞑想を始めた。まったく音もなく、風もなかった。頭上の真っ暗で広大な夜の空は、無数の星々の輝きで覆われていた。目の前に広がる谷には、牧場からわずかな光が点在していた。谷の向こうには険しい岩山があり、夜空にその輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

瞑想しようと座ったとき、わたしはとても静かな状態となった。始めのうちは、内なる平和を感じていた。そして、その日の午後に少し距離のあるハイキングをしたときの筋肉の緊張がゆっくり解れてきた。ところが、わたしが深く静まり返ってくると、また「あれ」が始まった。瞑想を邪魔して、私を悩ます空虚と孤独感が、あたかも黒い雲が圧するかのようにのしかかってきたのだ。気づくと、わたしは遥か海の向こうのニュージーランドに住む両親のこと、そして、オーストラリアに住む兄弟のことを想っていた。再び、彼らに会うことはできるのだろうかと。砂漠、暗闇、不毛な空虚----それらがちょうどわたしが感じていたことをさらに強めたのだ。

突然、わたしはうんざりしてきた。もうこれ以上、瞑想したくなかった。孤独な真実の探求者にはなりたくなかった。悟りを得たくもなかった。それはあまりにも孤独すぎる。自分自身を人生から切り離すのはもうたくさんだった。

甚だしい未知への恐れが浮上してきた。そこで何か他のこと、何か普通のことを考えようと自分に言い聞かせた。

ところが、このとき、「マインドの中に逃げ込まずに、ただその空虚さに留まって、それと共にまさに存在しなさい」という内なる声が聞こえてきた。そして、リチャードが引用した聖書の「谷を称えよう」という言葉を思い出したのだった。このメッセージは何が起きても、それを喜んで迎え入れるという意味である。

その数年後、ジーン・クレインがまったく同じことを違う言い回しで語った。「体験を歓迎しなさい」---たとえ何が起きても逃げずに向かい合いなさいというのが、この意図である。体験と共に最大限にこの瞬間に存在して、その体験についてのストーリーがどのようなものであっても、その中でさ迷わない、つまり、小さなマインドの中に入り込まないということだ。

体験と向かい合い、体験を信頼することによって、その知覚や感覚は変容を迎えて何か他のものとなる。これが自由への道だ。わたしは恐れから逃れようとしていた。特に存在しなくなるという恐怖、つまり、「自分のストーリーを持たない私は誰なのか」という恐れだった。

だから、わたしの中の何か深いものが囁いたのだ。その囁きはわたしが本能的に信頼できるものだった。「ジム、問題ないんだよ。この空虚さは君がまだ自由になっていないところを示してくれる。この空虚さを君の友人とするんだ。拒絶しないことだ。君は長い間この空虚さから逃げてきた。ただその空虚さと共に存在してみたらどうだろうか」

ゆっくり深く吸い込んだ息を、身体の隅々まで行き渡らせた。そして再び、星々が瞬く冷たい夜空を見上げてみた。星々は人懐こい煌めきを帯びていた。自分自身の注目を再び内面に向けると、空虚さは依然としてそこにあったが、どういう理由だか、それほど空虚だとは感じなかった。鋭さが取り除かれたようであった。

暫くしてから、わたしは立ち上がり、皆との夕食のためにキャビンに戻った。それは楽しい晩となった。皆が一緒にやり遂げたことへの祝いであり、笑いと喜びに満ちていた。夕食の間、今、何を感じているだろうかと、時折、自分の内面を確認した。空虚さはほとんどなかった。空虚さはフェルトに覆われたような、ぼんやりとした記憶になっていた。

その砂漠でのリトリートの後、あの強烈な空虚さはもう二度とわたしを襲うことはなくなった。少なくとも、空虚さはのしかかるような圧力を伴わなくなり、わたしは瞑想の新たな深みへと向かえるようになった。空虚さが少しでも表面化したときは、わたしはただ空虚さと向かい合い、受け入れて吸い込んだ。そうすると、空虚さは小さくなり、やがて消えてなくなる。ネガティブな体験と呼ぶものでさえ喜んで迎え入れることを学ぶと、あなたもこの自由を見つけるだろう。恐れから逃げ出さないと、恐れはあなたの友人となる。

体験していることが何であれ、感覚、気持ち、感情が何であれ、「それ」と共にこの瞬間に存在しよう。「それ」を過去の名残とみなそう。動揺する必要は何もないのだ。したがって、「それ」を吸い込んで、あなたの気づきを拡大させよう。起きていることを小さなマインドの中に持ち込んで、新たなストーリーを作り出さないことだ。役に立つならば「なるほど、この感情は私がまだ自由になっていないところを示してくれている。この感情を歓迎しよう」と、宣言してみよう。もしくは、「これもまた通過するとしよう」と、つぶやいてみよう。そして、あなた自身が「それ」に対して開かれたままでいよう。

不安や恐れの名残に対してだけでなく、この瞬間にあなたが認識するもの、そのすべてに対して、自分自身を開いたままにさせておこう。深く息を吸って、まさにこの瞬間に存在しよう。覚えているだろうか。あなたがこの地上にいるのは、目覚めるため、自由になるためだということを。

このメソッドを実践すると、エネルギーはシフトする。エネルギーは調和を帯びるようになり、あなたは自分自身の真の性質である内なる平和を知る。どのようなストーリーにも、どのような信念にも、どのような条件や状況にも、揺らぐことのない内なる平和を直接的に体験するのだ。





どうしたら至福をそのまま保つことができるか



時を超越した自分自身の真の性質を味わった人から、よく訊ねられる質問がある。「どうしたら私が感じた内なる至福をそのまま保つことができるでしょうか」

答えは、当然のことながら、「あなたは至福をそのまま保つことはできない」である。なぜなら、それが根本的なあなただからだ。

至福をそのまま維持したいと願う、小さなマインドが生み出した「私」のエゴの幻想を見抜くときに初めて、純粋な意識、または気づきとしての「あなた」は、本来の自然な状態の、安らぎと広大さとなってくつろぐことができる。

初心を忘れないことは重要であるが、初心は習得することができない、あなたの自然な状態なのだ。初心に戻るには、今まで積み上げてきたすべての知識とストーリーを手放して、たとえ僅か一分、二分であっても、まさにこの瞬間に存在しよう。そして、あらゆるものの背後に存在する気づき、または、意識としてのあなた自身に気づこう。すると、あなたは初心に戻るだろう。そうすると、何かを保つという質問は出なくなるはずだ。あなたは命あるものとひとつとなって、安らいで流れの中にあるだろう。

この初心に戻ることを巧みに語る、ある禅の訓話がある。二人の禅僧侶が川岸へと向かう道を歩いていた。僧侶の一人は年配で悟りを開いていた。もう一人は、まだかなり若い真面目な探究者だった。二人が川岸の近くまで来ると、一人の若い女性と出くわした。彼女は明らかに何かに困っているようだった。

「婚約者の両親の家に挨拶に行かなくてはならないのですが、水かさが増し、着物を濡らさずに川を渡ることができないのです。どうかお願いですから、私を川の向こう岸まで運んでくださいませんか」と、彼女は二人の僧侶に頼んだ。

「お手伝いしましょう」と、マスターは答え、女性を持ち上げるのに、若い僧侶を手招きした。彼は眉をひそめ躊躇したものの、二人は向かい合ってお互いの手を硬く握りしめ、女性をその上に座らせて川を渡り、向こう岸まで運んだ。

対岸の乾いた地面に足を降ろすと、彼女は二人に礼を述べ、歩いていった。二人の僧侶も歩きはじめた。数キロ歩いた後で、若い僧侶は立ち止まってマスターの方を向いて訊ねた。女性に手を貸したときからずっと、彼は気を揉んでいたのだった。「マスター。私にはわかりません。僧院の規則では、未婚の若い女性に触れるどころか、言葉を交わすことさえも許されていません」

すると、マスターは彼の方を向いて答えた。
「何だ、お前はまだ彼女を運んでいたのだな。わたしは既に彼女を川岸で降ろしたのだよ」

これはわたしがとても気に入っている禅の訓話である。禅はそれ自体の伝統と、規則、規律がひとまとまりになった人生の哲学、または霊性の道だ。しかし歴史を通して、規律を破ることでも知られている。禅では規則とはただのガイドラインに過ぎないのだ。マスターは小さなマインドではなくハートに導かれ、まったく躊躇うことなく、彼女に手を差し伸べた。若い女性が助けを必要としていれば、未婚の女性に触れてはならないという規則よりもそれを優先させたのだった。

安心感を得るためにしがみつく原則、規則、解釈など、何か信じるものを欲するという執着は、スピリチュアルな旅が始まったばかりのときは強い傾向にある。ところが、そのような執着は例外なく、この瞬間のまさに現実的なニーズに、知的で創造的で愛に溢れる対応の妨げとなるのだ。この瞬間における深いレベルの自由と幸せに開かれるには、あなたがしがみついてきたものが何であれ、それを意図的に手放すことから始まるのである。

マインドをこのように無にして重荷を降ろすことを学ぶと、エネルギーは思考によって断片的にならず、浪費することもなくなるので、途轍もないエネルギーの終結が起こるのである。この瞬間に、非常に意識的でいる自分自身に気づくだろう。

気づきと開かれたハートという状態にあると、思考はすべての心理的、感情的な覆いから解放され、賢明で思いやりにあふれた行動のための、パワフルで創造的なツールとなるのだ。



至福への執着を手放す



至福をそのまま保つことができるかという質問と同様に、次のような質問のヴァリエーションもよく聞かれる。「何年も前に、スピリチュアルな旅を始めたとき、ただ自分自身が自由になるためだけでなく、世界をよりよくするために自身の欲望を燃やすということに感動しました。そして、数年が経ると、瞑想中に自分のマインドを落ち着けるのが実に簡単になってきました。

最近では、内なる平和と至福の素晴らしい感覚を、静寂と沈黙の中で見つけられるようにもなりました。しかし今、私は至福に執着していうように思えます。ほとんど中毒に近い状態です。瞑想するときに、この瞬間に深く存在するようになり、先生の言い回しだと、最大限にこの瞬間に存在するのですが、世界とその狂気に背を向けたいと思っている自分自身に気づいたのです。時折、自分自身が、ローマの街が燃えている最中にバイオリンに興じていたと言われる皇帝、ネロのように思えるのです」

スピリチュアルな探究に真剣であるならば、誰もが自分自身でいることができ、創造的に自分自身を表現できる自由な世界であることが、あなたにとって非常に重要でなくてはならない。何と言っても、スピリチュアルであるとは叡智と愛に、そして人類のみならず、命あるものすべてと分かち合うワンネスへと目覚めることなのだ。

スピリチュアルな道をさらに深く進むと、より多くこの瞬間に存在して、今という瞬間が内包する美とパワーに開かれ、くつろぐようになり、あなたはそのパワーを身体の中で至福として感じるだろう。筋肉の深い弛緩に伴って、痛みを分解するホルモン、エンドルフィンがおびただしく分泌され、あなたの細胞の一つひとつが、まるで至福と恍惚感で振動しているかのように感じるだろう。信じられないほどの癒しと変容の力をエンドルフィンは秘めているのだ。そして同時に、あなたはすべての創造物に吹き込まれている霊的な深いエネルギーに通じる。このエネルギーの存在それ自体が、深遠な調和の源なのだ。

したがって、あなたにとってこれが新しい体験である場合は、より自由で愛に溢れる世界に貢献したいという、あなたの最初の志を忘れてしまうかもしれないことは理解できる。内なる空間を通り抜ける自身の旅の神秘と驚愕に魅了されると、瞑想の喜びの中に没頭してしまいがちになるだろう。そして、あなたは探求者、瞑想家、内なる世界の旅人としての、自分自身のストーリーを作り出し始めるのだ。

これは実際にわたしの身にも起きた。暫くの間は、特に支障をきたすことはなかったが、ちょうど10代の若者たちが自分たちの情熱を推し進めて、限界を探索しなければならないように、わたしたちもスピリチュアルなことを最初に探索するときにはきっと同じことをするのだろう。

至福は状態である。やって来ては去って行く。それにまつわるストーリーを生み出して「状態」に執着すると、あなたは苦しみの種を蒔くのである。至福がそこにあっても、至福がそこになくても、そのどちらも苦しみが生じるのだ。しかも、日常生活では行うべきことが多々あるために、浸っていた至福を中断させるようなことも起こるだろう。

ここで、わたしのあるストーリーを分かち合おう。息子アダムがちょうど一歳のころに、わたしはジーン・クレインと出会い、瞑想中に完全にこの瞬間に存在することが容易になり、マインドと身体のすべての緊張を解き放って、至福に開かれるという段階に達した。至福の波はわたしを貫いてうねり、まるで天国にいると感じるようになったのだ。100%ではなくても、おそらく90%か、80%は悟ったのだと確信して、わたしは自分の新しい体験にまつわるストーリーを捏造した。

そしてある朝、座って瞑想を始め、至福の感覚に乗るクルーズ船がゆっくり港から離れようとしたちょうどそのとき、隣の寝室でアダムが泣き出したのだ。「ジム、アダムのおむつを替えてちょうだい。私は手が離せないのよ」と、妻のバーバラが大声で叫んだ。わたしはうんざりとした。至福の感覚はちょうど強さを帯び始めていて、瞑想を中断して立ち上がり、息子の汚れたおむつを替えることは、わたしが最もやりたくないことだった。

そのとき、わたしの内側から声が聞こえてきた。それがわたしの良心の声だったのは疑いの余地もないことだった。「ジム、君の息子は心地悪い。彼はおむつを替えてもらわなくてはならない。だが、君はこの上なく幸せな瞑想を中断されるからといって、立ち上がって息子のおむつを替えてくない。君はこれを悟りだと言うのだろうか」

わたしは立ち上がってアダムのおむつを替えた。こうして、素晴らしいレッスンをわたしは受け取ったのだ。ジーンと出会ったことの経験によって、レッスンはこのように強化されるようになった。彼が言うところの目覚めや悟りは、至福、内なる平和、喜び、静寂などの状態に執着するということではないのだ。

目覚めや悟りは「私」という幻想を見抜くことである。わたしたちの小さなマインドで展開する思考の世界との一体化から解放されることなのだ。気づきとなって生きることなのだ。最大下にこの瞬間に存在し、何が起きても喜んで迎え入れ、行うべきことを行うということなのだ。それがおむつを替えることであろうと、毎日オフィスにいくことであろうとも。あるいは環境を浄化する方法を考えることであろうとも、ホームレスを助けることであろうとも、貧困を撲滅することであろうとも、人類としてわたしたちが直面している夥しい数の問題を解決することであろうとも。

自由への道、目覚めへの道を歩んでいるのは、あなた自身のためだけではないということを、遅かれ早かれ、あなたは認識するようになる。多くの人たちはまずは自分自身のために目覚めようとするものの、そして最初の段階ではこれは重要なことなのだが、マインドの内なる平和のためだけに、あるいは自分自身の葛藤やストレスから解放されるためだけに、あなたはこの目覚めの道を歩んでいるわけではないのだ。究極的には、よりよい世界とするために、あなたはこの道を歩んでいるのである。

恐れからの解放というハートの目覚めがより一層、あなたを導くヴィジョンとなり、あなたがこの地上に存在する理由となると、あなたの自由、恐れのなさ、思いやりはさらに深まるために、あなたは自分が今まで想像することさえできなかった態度で人々に接するようになるだろう。そして、オリバー・ウェンデル・ホームズの「すべての役割を完了した人の本分は、日々、存在するという奮闘である」という言葉を、あなたは理解するようになるだろう。

あなたは偉大なことを成し遂げないかもしれない、スケールの大きなプロジェクトい取り組むことはないかもしれない、大きなアリーナで公演することはないかもしれない----これらはわたしたちの中でほんの一握りの人だけが達成することだろうが、しかしながら、隣人などの身近にいる人たちを助けるだけでも充分なのだ。そして、わたしたちが各々で自分自身のゴミを拾い、他者には親切に話しかけ、そして他者の信念に同意できなくても、また他者の習性を許容することができなくても、同じ人類の仲間として心からの経緯と尊重をもって接したら、世界は直ちに変化するだろう。

それに加えて、喜ばしい発見がある。至福に対する執着を手放したとき、至福は常にここにあるとあなたは認識するようになるのだ。ただ立ち止まり、じっとして、深く息を吸い込み、身体をリラックスさせる----すると、内なる平和、静寂、至福に満ちているという状態が、まさにここにあるではないか!「それ」は常にここにあったのだ。「それ」はまさにあなたの真の性質なのだ。「それ」はまさにわたしたちの真の性質なのだ・・・・。


●たった今、至福を体験できるでしょうか・・・ここで一息ついて、深く沈黙して、注意深くなり、最大限にこの瞬間に存在しましょう・・・マインドの中の、あらゆる思考、あらゆるストーリーを手放して、まさに今、ここに存在します・・・そして、内なる広大さに同調します。完全さで満ちているその広大さを、あなたの存在のすべての側面の至るところまで溢れる至福として感じるでしょうか・・深く息を吸い込んで、リラックスしましょう・・・それから、その「至福」についてのストーリーと観念を手放します。そして、目を開いて、ただここに存在しましょう。

意識的なストーリー 本当の私

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宗教的なストーリーの動機



人生の初期のステージは、自分自身のエゴ、自分自身のストーリー、そして、「自己」という限定された観念の発達と、それらとの一体化が特徴である。ほとんどの人たちはここから出発する。境界線と制限を含めてエゴの発達と、個人的な自由の発見は、人生の初期の学びにおいて大切なステージである。

このステージは信念への依存か、信念を掴もうとすることによっても特徴づけられる。わたしたちの幸せは自分たちが考えていること、信じていることと非常に強く結びつき、自分たちの思考とストーリーが、わたしたちが誰であり、何であるのかを定義しているのだ。宗教と原理主義者、または一般的に白か黒かの考えは、この発展の過程の一部分である。禅では、この白か黒のステージを「山は山である。川は川である」と表現している。

このステージでは、あらゆることはただ目に映るままである。山は向こうにあって、わたしたちはここにいる。わたしたちはただ自分たちが存在していることについて、筋の通る常識を作り出そうとしているだけだ。宗教であれ、または何か他のことであれ、意義や目的や安心という感覚が得られる信念や概念、そして観念的に存在するものなど、何かしがみつくものをわたしたちは見出そうとしているのである。

しかしながら、意味と安心を求めるこの必要性が、正確にはわたしたちの原動力となっている。疑問と恐れ、そして、頼りになる何かを探求することは、人生におけるわたしたちの共通のテーマだ。わたしたちは自分が誰であるのかについて、または死ぬときに自分の身に振りかかることについて、何も知らないのだと実感する。あるいは、病気、経済的逆境、失業、愛する人の死、ある種の裏切り、自分の信用が崩れて信頼を失うなど、何らかの点で、自分自身が苦しんでいると気づく。

このわたしたちの恐れと苦しみが、心理的、感情的、精神的な幸せを得るために信じるもの、またはしがみつくものを探すことに、わたしたちを仕向けるのである。山と川がずっと同じ状態のままそこにあり続けることを、わたしたちは知りたいのだ。近い将来のこと、人生のまさに最期に起こることの、その両方をわたしたちは知りたいのだ。

「私」と「彼」、「私」と「それ」(わたしたちが理想化するものか、畏れるもの)というように、目覚めの旅のこのステージは非常に二元性を帯びている。創造物の背後には、神、精霊、タオ、仏陀の性質というように、何と呼びかけていようが、ある偉大な超自然的な力か、慈悲深いエネルギーが存在することを、わたしたちは実に期待して信じているのだ。したがって、これはまさに信仰の旅だと言える。この必要性がとても強いために、わたしたちの多くは、神、または何と呼んでいるにせよ、そのパワーとの個人的な関係を育むのである。助けを必要とするときにはいつも、神か、神という自分自身の観念にわたしたちは頼るのだ。

ある人たちは、人生での奇跡を神の恩寵だと考えている。しかし、災害や極度の人類の苦しみについては、一体何が起きているのだろうかとあれこれ思い巡らす。例えば、大型旅客機が墜落して、300名の搭乗者全員が死亡した場合はどうだろうか。犠牲者の多くは神との「個人的な結びつき」が形成されていたはずだが、これをどのように理解したらいいのだろうか。理論的に説明できるのだろうか。それとも、説明できない不可解なこととして受け容れるしかないのだろうか。人生を通り抜ける旅で、今のところ、わたしたちが一番避けたいと思っているのは、ただ冷酷で無慈悲な世界で、人生が偶発的で儚い最期を迎えるということではないだろうか。わたしたちは創造物の背後に、偉大で愛のある計らいがあることを信じたいのだ。

わたしはニュージーランドに生まれた。6歳のとき、母から神とキリストについて教えられ、名目上はクリスチャンとして育ったが、実を言うと、キリストの訓話にはあまり馴染めなかった。しかし、神はわたしにとって非常にリアルな存在だった。よく立ち止まってはじっと空を見上げて、その日の美しさを吸い込みつつ、創造物の背後に存在する、究極で完全なる慈悲深い神が実際に存在することをはっきりと感じ取っていたものだった。

けれども、大人になるにつれ、神に対するすべての考えがあまり現実味を帯びてこなくなってきた。ニュージーランド陸軍に入隊し、21歳の少尉としてベトナムに到着した頃には、わたしは非常にうぬぼれていて、神のことなどはほとんど考えなくなっていたのだ。初めて戦闘を実際に体験したのはちょうどこの頃だった。わたしたちの部隊はベトコン(南ベトナム解放民族戦線)によって攻撃を受け、弾丸とロケット弾が頭上を飛び交う間、気づくとわたしは地面にへばりついていた。突然、命が脅かされ、わたしは神を求めていた。かつてはとても親しかった神を思い出し、神を求めたことをわたしはとても嬉しく思った。

ほとんどの人たちは人生で意義を求めている。言うまでもなく、宗教はその意義を提供するためにある。宗教の役割は、少なくとも一般大衆に訴える外側の側面では、人間が持っている存在に関する恐れに取り組み、わたしたちが心底から求める質問に対しての答えを提供することである。歴史を通して、人類は多くの宗教を設立してきた。そして、すべての宗教は、神の性質と天地創造、また、死の際に何が起こるのかについての説明というような、それぞれ特有のストーリーを持っている。ある宗教はあたかも彼らの宗教が唯一本物で、他はすべて偽物とでも言うかのように、「神」を彼ら自身のものだとする主張さえも試みている。

目覚めた世界となっても、宗教は依然として果たすべき役割があるが、宗教それ自体は、その本質として、内なる平和の本物の体験をわたしたちに与えることはできないのだ。そもそも、ある特定の宗教のストーリーとの一体化という、その中心となっている制限が、自分たちの考えることと信じることに、内なる幸せが強く依存するように仕向けたのである。

人々が求める内的な安心を導くことを意図した、多くの宗教が提供する統制した世界観は、ある特定の信念がひとまとまりになったものである。わたしたちはそれらの信念に慣れ親しむかもしれないが、誰かが(または何かが)、その信念に挑むか、単なる観点や反対の観点を提案するべきなのだ。わたしたちは混乱の中に投げ込まれる可能性があるだろうが、多種多様な私たちの世界では常に起こっていることだ。わたしたちが依存するようになったまさにその信念体系が、今となっては問題になっているために、必然的に恐れの中に戻されることも起こり得るだろう。

信念は、まさにその性質からいって、争いの種を生じさせる。わたしたちを抵抗と恐れの状態に留める。信念に固執しながらも、喜んで迎えいれるとい状態でいることはできないのである。信念のひとまとまりにしがみつくことは、目覚めが象徴する、あらゆるものを包み込む開かれたハートという状態と、まさに正反対となる。「どの信念にしがみつけばいいのだろうか、どの信念を拒絶するべきなのだろうか」というように、信念はわたしたちの内面に葛藤と疑いを芽生えさせるだけでなく、「信じる者」の集団と、その他の大勢の人たちとの間に分離と対立を必然的に生み出すのである。

現代社会の歪みは、宗教的、文化的、民族的、または政治的にかかわらず、そのほとんどが原理主義的な信念体系に対する執着によって引き起こされている。最も神聖化されて、感情的な反応が起こる信念も含めて、すべての信念は真実そのものではなく、真実の推定というただの精神的な構成物であると理解すると、単なる言葉や観念よりも、もっと深みがあり、もっとリアルなものを自分自身が欲していることに気づくだろう。

その宗教が何年続いているのか、何人の支持者がいるのか、あるいはその伝統がどれほど崇高で神聖であるのかにかかわらず、宗教は基本的にその起源、重要性、人生の目的についての、ただのストーリーなのだ。それが宗教の問題点なのである。そして、あなたが理解するように、あなたは自分自身のストーリーや、その他のどのストーリーでもないのだ。

自分自身の小さなマインドの内側の世界という幻想を一度でも見抜いたならば、宗教のストーリーも含めて、現実に関するいずれの「ストーリー」にも、あなたはしがみつくことができなくなるだろう。その代わり、あらゆる宗教における真実と善良さの核心に、同じように等しく敬意を持っている自分自身に気づくだろう。

ところが、教会や寺院、モスクに通うことと、自由への道は相容れなくもないのである。実際に、あなた自身のストーリーと、「自己」という限られた観念とイメージに対する執着から解放されていくようになるほど、あなたは偉大なる霊性と宗教の教えの核心をより明瞭に理解して共感するようになる。あらゆる教義、規則、制約、罪悪感の中で、さ迷うことはもうなくなるのだ。

15世紀のドイツの神秘主義者、マイスター・エックハルトは、彼自身の真の性質をはっきりと認識したが、教会の牧師の一人に留まった。運命によって仏教、特にチベット仏教を代表して語ることになったダライ・ラマは、現代における目覚めた人の実例である。

しかしながら、世界の至るところで、ますます多くの人々があらゆる宗教の信念やストーリーを見抜くようになってきた。そして、神と創造の真の性質への自分自身の探求がさらに深まり、真の内なる平和と自由に対する自分自身の切望がさらに強まってくると、わたしたちはどのような形式の信念やストーリーであっても、それらと付着することから満足を得られなくなってくる。今、自由の体験、目覚めの体験をわたしたちはまさに望んでいるのだ。

この目覚めの体験が起こるのは、わたしたちはこの瞬間に存在して、自分たちのすべてのストーリーと信念を意識の中の単なる物体として見通し、それらを観ている意識そのものがわたしたちであることを認識しなくてはならないのである・・・・




●さあ、今、意識としてのあなたでありましょう・・気づきと共に後ずさりして、マインドで展開しているストーリーから抜け出すのです・・・目覚めた気づきとしてのあなたが存在します・・・・そして、この意識的な存在として、あなたはどのようにじっとここにいて、瞳を通して輝き、ハートで感じ取っているのかに注目しましょう・・・この瞬間においては、あなた自身を宗教的か、文化的か、個人的か、それとも他の何かであれ、ストーリーで定義する必要はありません・・・または、あなた自身を思考や概念で定義する必要もありません・・・このことを認識することが、自由を味わうということです。あなたは完全で素晴らしい意識的な人であるという自由を・・・




意識的なストーリー



現実の真の性質を説明するストーリーがある場合、それを意識的なストーリーと呼ぶことができる。このストーリーはわたしたちを通して実際に生まれ、徐々に進化して花開くことを待っている意識の一つなのだ。わたしたちが人間という形態となって現れた意識そのものだと認識するとき、意識の完全なる開花が起こる。すると、平和と完全性が内側での現実となる。そして、より多くの人たちが目覚めるようになると、やがて平和と完全性が外側での現実となるのである。

あなたが依然としてしがみついている信念と概念が何であれ、今、それらを脇に置いて、その物理的な現実が構成されている状態を見ることができるならば、あなたは驚くべき発見に至るだろう。現代の最先端で活躍する多くの科学者たちが到達した洞察にあなたも達するのだ。

その発見は、現実とはエネルギーと意識の結合したフィールドだということである。ニュートンが信じていたように、こちら側の「私たち」と、それ以外の世界は向こう側にというような、孤立した物体と物質からなる宇宙ではないのだ。あらゆる粒子と原子が相互連結して、個々が関与している宇宙なのである。物理的な現実は強化に相互連結しているために、ただ一つのシステムを観察するか、調べるだけで、あなたはそのシステムに影響を与えて変化させる。同様に、あなたはそのシステムから影響を受けて変化するのである。

この観点は、「形態は空であり、空は形態である」、「一万の物事のすべては、たった一つの考えによって生み出される」という仏陀の言葉に、現代のまったく新しい、しかしながら不朽の、驚くべき意味をもたらす。

「わたしと父なる神はひとつである」というイエスの言葉があるが、「父なる神」とは意識の象徴としてのわたしたちのことだと理解できるならば、わたしたちはこの言葉を新しい解釈をもって受け取ることができる。そして、このようにイエスの言葉を言い換えることもできるだろう。「これはあなたにも当てはまる。わたしと同じように、あなたもワンネスの一部なのだ」と。

わたしたちはその他の創造物とは切り離されていないどころか、創造物のひとつなのだ。現代のインドの賢人、ラメッシ・バルセカールは、「芝生の葉を一枚摘み取ると、あなたは宇宙を振動させる」という古代中国の諺を用いて、ヒンドゥー教の神話では何千年も昔に、宇宙は宝石の多次元のネットのようなものとして認識されていたと言及した。それは、各々はその他の反射であり、その他と非常に深く関わっているということである。あらゆるものを繋げる根本的な特性は、意識そのものなのである。

ここで一つの例をあげよう。あなたがあるグループの一員として、湖畔で座って瞑想していると想像してほしい。あなたはグループの人たちと異なる国からやってきて、異なる民族であり、異なる言語を話す。しかし、あなたは皆と一つだけ共通する点がある。それはあなたも含めてグループの全員が自分自身の真の性質に目覚めているということだ。それぞれが皆、各自の存在の最も深いレベルでの自分自身を認識しているのである。空が澄み渡った、とても美しい日に、皆が完全なる沈黙となって、存在するものすべてと調和した状態で座っている。皆が気づいているのは、内なる真実に始めて目覚めたとき以来、常に気づいているということだ。一人ひとりの個人、そしてすべての生命を通して、ユニークで異なった方法を用いて表現されている、たった一つの意識だけが存在しているということを皆、気づいているのである。

普遍的視点か、ホログラフィー的視点から明確になっていることは、わたしたちはすべてに関して脚本を書いているということである。そうなるようにとわたしたちが考えたり、夢見たりしない限り、何も起こらないのだ。このことの主観的な証拠となるのは、気づきがなく、世界もない、夢を見ていない深い睡眠である。しかしながら、夢を見始めると、夢の世界はまさにそこにある。なぜなら、あなたは夢に気づいているからだ。そして、眠りから目が覚めると、現実の世界はここにある。なぜなら、あなたはその世界に気づいているからだ。

この観点についての理解がさらに深まるほど、あなたは誰であるのか、神とは何であるか、なぜあなたはここにやって来たのか、そして、肉体が滅びる際に「あなた」に何が起こるのか、ということに関する理解を変容させるだろう。

あなたがこの観点のさらに深いレベルの現実に開かれるにつれて、純粋で輝いている気づきである意識そのものが、あなたの不変の真の性質だということを理解し始める。そして、意識があなたの真の性質であるならば、意識が創造物の背後に存在する根本的なパワーであるならば、人間の頭脳・マインドを通してだけでなく、すべての創造物を通して現されている、相違点のない澄みきった意識は、神に違いないのである。

言い換えれば、宇宙は神であり、神は万物なのである。神は意識そのものであり、この肉体・マインド・自己としての「あなた」は、一つの神性な意識の、個としてのユニークな表現なのだ。

このことをただ知的なレベルだけでなく、あなたの全存在をもって理解すると、あなたが意識と創造の流れから切り離されていると感じることはもうなくなるだろう。これが、目覚める、そして自由になるという意味の真実である。

自由になると、あなたはストーリーと思考のパワーを意識的に用いるようになる。なぜなら、あなたはマインドがどれほど強力であるかを知っているからだ。自分自身と愛する人々、そして環境にとっても最善となる現実を創造するために、あなたは思考を意図的に駆使するだろう。

また、自由になると、あなたはワンネスとの統合という、生まれながらの感覚を体験する。これが命あるものすべてに対する、あなたの高まった感受性と思いやりを生じさせるのだ。とりわけ、あなたは深い内なる平和と静寂を体験するようになるだろう。

これが「私」の考えとの一体化を超えて、敢然と進んでいったすべての人たちが認識した秘訣である。彼らはマインドを超えたところにある広大な存在そのものの領域を、しかしながらマインドや「私」の考えも含んだ創造物全体の源を発見したのである。




恐れにまつわるストーリーを解き放つ



目覚めと悟りの伝統的な定義の一つは、恐れがないという状態である。
とりわけ、目覚めの旅は、あなたの様々な恐れを明らかにして直面するプロセスだ。恐れは現実ではないということをさらなる明瞭さをもって理解すると、恐れは消え失せる。すると、あなたは自然と愛に溢れて、意識、神、スピリットなど、どのような言い方で呼んでいようとも、創造物の背後に存在する神秘的なパワーとしっかり繋がるようになるのだ。

このガイダンスとメソッドは、自分自身の恐怖に直面して前に進むための装備となり、やがてあなたはすべての恐怖を後にするだろう。恐怖で尻込みして、恐れをある種のモンスターに変える代わりに、あなたは戦士のように恐れを正面から出迎えて、その正体を発見するのだ。「幽霊から逃げると一生涯追いかけられ、悩まされるだろう。ところが、逃げるのを止めて正面から向かい合うと、幽霊は消えていく。幽霊は実在していないからだ」という、アイルランドに古くから伝わる諺のように。

目覚めの道の途中で、くつろぎながらも注意深さを持って、恐怖だけでなく、一瞬一瞬と直面することも学ぶだろう。数年前、わたしは目覚めの旅の途中で、ブレークスルーを迎えるときは、毎回決まって必ず同じ認識に達することに気づいた。もう機能しなくなってきた思考や習性という、自分の過去とストーリーの様相のパターンを手放すことが、そこには必然的に含まれていたのだ。

ふと気づくと、自分がさらにくつろいで、ここに在るを感じていることがよくあった。「ああ、そうか!私のスピリチュアルな旅はすべてこの境地に到達することだったのだ。この瞬間により深く存在することだったんだ」と、独り言を言ったものだった。

あなたはおそらく、わたしが言っていることに共感していることだろう。大人になるにつれて、あなたは内面で綴ってきた失敗と成功、疑いと恐れ、希望と夢という自分の過去の事柄である人生の報告書の、あなたという一個人のストーリーに巻き込まれて、内面的な現実の中で生きるようになったのだ。これはあなた一人だけのことではない。わたしたちは皆、それぞれが学ぶまで、内面的な現実の中で生き続けるだろう。概念、信念、記憶、イメージという内面の世界に対する執着が、まさにわたしたちがこの瞬間に存在することを妨げるのだ。

目覚めがさらに深まるほど、心理的、感情的な恐怖から、あなたはさらに解放されてくる。自分の身に降りかかるかもしれないことで心配することはなくなる。意識としてのあなたは常にオーケイだということを、今やあなたは知っているのだ。

ところが、目覚めても、生物学的な恐れ、つまり身体的な実際の損傷に対する恐れは、危険に脅かされるときには依然として湧き起ることがある。これは生存に必要な仕組みなのだ。仮に誰かが、あなたを殴るような動作をするならば、あなたは畏縮するか、素早く後ろに退くだろう。あなたの悟りが深く成熟していても、例えばスカイダイビングをしていて、一万フィートの上空の飛行機から飛び降りようとするときには、胃は緊張してむかついてくるだろう。

ところが、あなたが意識としての自分自身にさらに目覚めて、人生というドラマの表面に覆われている驚くばかりの創造的なエネルギーに繋がると、生存の恐怖でさえもその激しさを失うのだ。

あなたがより意識的で自由になってくると、危険や困窮、または、損失に直面している際でさえも、問題を処理しているときは、マインドは冴えて最大限に意識的な状態でいることができると気づくだろう。恐れに抵抗し、恐れと闘うことを止めたとき、生命はそれ自体の驚くべき方法でバランスと調和を取り戻すのだ。このようにして奇跡は起こるのである。奇跡はある未来か、ある想像される来世で起こるのではなく、今この瞬間に起こるのだ。

何が悟りへと導くのか、なぜまだ苦しんでいるのか、まぜまだ自由ではないのかと、取り憑かれたように絶えず懸念するのではなく、悟りと苦しみについての、あなたのすべての見解とストーリーに対する執着を棄て、完全にこの瞬間に存在し、意識的で気づいていることに集中しよう。そうなると、自由の体験はもっと頻繁に起こるようになり、奮闘と苦しみの時はもっと少なく、もっと短くなってくるだろう。

「私、私自身、私のストーリー」と呼び、ずっと保持してきたあなたの小さなマインドで展開する世界の幻想を、ついにあなたの内なる凝視がさらに深く貫くとき、生と死に関するすべての恐怖はあなたのもとから去って行くだろう。すると、ずっと求めてきた解放は、あなたのものとなる。




ストーリーを探し出すメソッド



●数分間、座って瞑想しましょう。そして、あなたの気づきの内側にある肉体、呼吸、感覚、思考、感情を観察します・・・それから、動揺した、混乱した、感情が反応するボタンが押された、気を揉んだ、苦しんだという、最近の出来事を思い出してみましょう。

次に、ただ単にその記憶と共に存在します。その記憶を喜んで迎え入れることを宣言してみましょう。「そうか、このことは私がまだ自由になっていないところを示してくれているのだ」と。

気が動転する直前に、自分自身に語っていたストーリーを探ります。何が起きたのでしょうか、誰かに何か言われたのでしょうか、誰かに何かされたのでしょうか。それとも、自分で考えていたことが、その反応を引き起こしたのでしょうか。物事はこうであるべきだとか、こうでなくてはならないという、根深い信念か見解というあなたの「ストーリー」は、深く傷つけられたのです。そして、その結果、あなたは気が動転して、苦しんでいるのです。

それでは、あなたに感情的な反応を引き起こしたものが、どういうわけで単なるストーリーに過ぎないのかを、深いくつろぎの瞑想的な状態から見つめてみましょう。もしかすると、そのストーリーは遠い過去に起きたある拒絶か、痛みから沸き起こったものかもしれません。そして、あなたはそれにまつわるストーリーを捏造し、それ以来、そのストーリーはずっとあなたにつきまとってきたのかもしれません。このプロセスは他のストーリーや、恐れ、不安などの他の感情も浮上させることが起こるでしょう。しかし、その場合は、ただ湧き起ってきたものと共に存在します。

あなたが自分自身に語っているストーリー、思考、信念が、どのように変化して移行するのか、そして、あなたが体験した感情と感覚もまた、どのように変化して移行するのかに注目しましょう。真実を観ましょう・・・あなたは気づきとして、または、すべてを観ているもの、目撃しているものとして、常にここにいるのです。あなたは変化しません。ただ、マインドのコンテンツと、身体の中の感情だけが変化するのです。

動揺を引き起こす状況が再び起こりそうであるならば、あなたはそれをマインドの中で視覚化しやすいでしょう。予測できる筋書きを想像してみましょう。まるでそれが起こったかのように見つめるのです。そして、自分自身に訊ねます。「これが再び起こったらどうなるだろうか。私が既に自由であるならば、私はどのように対応するだろうか」と。それから、そっと、澄みきって輝く気づきのあなたに戻ります。

これは特に、死に対する恐れを乗り越えるには効果的な方法です。まさに今、死ぬところであればあなたはどうするでしょうか。最大限のこの瞬間に存在して、いわば目を見開いて死と直面する以外には、あなたができることは何もないのです。どのようなストーリーもまったく持たずに、死を迎える---これは真の戦士が、最期の瞬間を迎える態度です。そして、あなたは今、こうしてそこのことを学んでいるのです。

自分自身のすべての恐れと直面して、恐れが根本的にリアルではないことを見とおすことを可能にさせる実在を、あなたは喜んでいるのです。恐れは、身体の中にある反応性の感覚に合致する、あなたのマインドの中での、ただのストーリーと心象です。あなたが実際に誰であり、何であるのかとは、あなたが体験しているどのようなことよりも、途方もないものなのです。

実在がもたらすあなたの意識の澄みきった光で、ストーリー、信念、イメージを照らし出すと、恐れは溶けて行きます。委縮した感情はやわらいで、あなたの真の性質である明晰さと自由という広大さに、あなたは開かれていくでしょう。

二元性を超えて

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人生のストーリーに気づく



2歳の頃までのあなたは、「あなた」として知られる小さな幼児の身体を通して輝く、純粋な意識だった。感覚、感情、知覚に関する刺激には非常に意識的であったものの、あなたとして知られる個人的な過去を持つ「自己」という限られた観念は未知のものだった。あなたはこの瞬間に生きていた。今の体験だけが唯一、あなたにとって真実だったのだ。

ところが、2歳の頃から、「自己」と「他者」を識別する思考能力が発達してきた。あなたは徐々に自分と他の人々との違いを認識し始め、ユニークな「人物」があなたの内側で生きていると思うようになったのである。この考えは社会全体や文化的環境は言うまでもなく、あなたの家族によっても強く促されたのだった。

その結果、恩寵からの墜落が始まったのである。自己認識の樹になる果実を食べて、「黒」か「白」、「善」か「悪」、という二元性の世界にあなたはやって来たのだ。あなたは「正しい」か「間違い」、「善い」か「悪い」という考えと一体化するようになったのである。様々な活動と体験から喜びを見出すが、物事があなたの望むようにならないときにはいつも多くの葛藤と苦しみを経験する、分離した「人物」であると自分自身を見なすようになったのだ。

これまでのところ、あなたは一人の大人として、他の誰ともまったく異なる「あなた」が身体の内側で生きているという信念を強固に確立させてきた。あなたは特有の肉体・マインド・パーソナリティーというユニークな波形となって現れている純粋な意識という海が、あなた本来の、真の性質であることをあなたは忘れてしまったのだ。あなたは自身の幸せを、自分の外側で起きている出来事に依存するようにと仕向けてきた。過去か未来の中で生きていて、あなたが今にここにいることは滅多にない。多かれ少なかれ、人生の状態があなたをコントロールしている。感情が反応するボタンはいとも簡単に押されて、あなたは感情的にすぐ反応する。

時折、あなたは人生の状況の被害者のように感じている。被害者とは、自分自身のストーリー、またはそのストーリーの影響と完全に一体化している人だと定義することができる。例えば、多くの被害者は、耳を傾ける人であれば誰でも、熱心に彼らの悲痛に溢れた物語を語る。被害者でいるという罠にはまっている人たちは、完全に彼ら自身の真の性質と切断されてしまっているのだ。

悟りや目覚めの最もシンプルな定義とは、あなたが誰であり、何であるのかという真実を再発見することである。つまり、あなたの凝視をあなた自身に戻して、およそ2歳の頃から自分だと思ってきた「人物」は、実際は幻想であるという真実に目覚めることなのだ。その「人物」は本物ではないのである。

あなたがマインドの中に蓄積してきたすべての信念、批判、記憶、意見、偏見、経験は、あなたの人生の「ストーリー」を捏造し、あなたが個人的な過去を持った1人の「人物」であり続ける考えを支える、ただのストーリーなのだ。ストーリーには根深いルーツがあり、パーソナリティーを形作ってきた。あなたが現在、世の中に向けて表示している体面に貢献してきたのだ。しかし実際は、あなたの心理的、感情的な個人的な過去の事柄は、たった今、実際に起こっている今という現実とはまったく関係がないのである。

自分自身が誰であり、何であるかについての、あなたの思考と信念のすべては、この瞬間に開かれて完全に生きることからあなたを遠ざける。小さなマインドの中であなたが固守し続けてきた考えと思わくは、身体に感情的な緊張を引き起こし、あなたと周囲の人々の間の障壁となって、あなたが他の人たちと真に繋がることを妨害するのだ。真の親密さの可能性を妨げ、究極的には愛の流れをも塞き止めるだろう。

本物の愛を目の前にするときはいつも、自分自身についての否定的な信念が引き起こされるか、あなたの感情的なボタンは押されて、「私には価値がない」、「私は値しない」とあなたはつぶやくことだろう。もしくは、「私は値する」と自分自身に語って、次の瞬間にその本物の愛を受け取り続けるには、ある駆け引きをしなければならないとか、ある特定の流儀で行動しなくてはならないと、あなたは考えるかもしれない。

あなたが自分自身を個人的な過去を持った「人物」だと見なす限り、本物の愛を目の前をしても、または、日々生きていることであろうとも、あなたは実際には存在していないのだ。「自己」についてのイメージやストーリーを持って生きている限り、「自己」評価に関する問題が絶えずあなたにつきまとう。あなたのマインドにはいつも思わくというような、何かしら温めてきた考えがある。「ああすればよかったかもしれない」と、常に自分自身のことを振り返って考えている。また、自分自身に度々、判断を下して、その延長戦として、あなたは他者に判断を下すのである。

目覚めるとは、自分が誰であるのかについての、すべてのあなたの思考、信念、概念、ストーリーを超えて、存在の深いレベルから、実際は自分が誰であり、何であるのかを知ることである。それはつまり、「あなた」と呼ばれるこの肉体・マインド・自己となって現れている普遍的な意識とあなたがひとつであることを、そして、その一つの表現としての自分自身を知り、感じることなのだ。

個人的な葛藤と苦しみからの解放という内なる自由の途轍もない感覚を、この知識がもたらす。わたしたちの理解をはるかに超える、真の内なる平和の体験を得ることができるのだ。ひとたび、その内なる平和に目覚め、自分自身がある実体ではなく、無でありながらも、すべてでもあると知ると、あなたは世の中の人々とその知識を分かち合うことができるようになるだろう。あなたの平和を世の中の人々と分かち合うことができるのだ。

内的に平和な自分自身、または平和な世界を、今、想い描いて欲しい。自分が誰であり、何であるのかの真実を発見するために、あなたが必要とする動機はこれだけでも充分ではないだろうか。面白いことに、かつてこのようにわたしに訊ねた人がいた。「世界平和・・・それってちょっと退屈じゃないですか」。わたしはこう答えた。「あなたが真に内的に平和であるならば、そのような質問は出てこないだろう」と。

そもそも、退屈それ自体が、絶えず動いていて、飽きっぽく、刺激と興奮が形態となったものを求めるというマインドのある段階なのである。真に内的に平和だと、マインドは澄み、穏やかで、広々としている。このマインドはこの瞬間に目覚めていて、注意深い、このマインドは愛に溢れ、恐れがない。「自己」についての、どのような考えからも解放されたマインドなので、すべての可能性に興味を持っていて、開かれているのである。




名残


「もしも、世の中のすべての人が悟りを開いたらどうなるのでしょうか」と、ある男性がジーン・クレインに訊ねたことがあった。ジーンはその男性を見つめてから、笑って答えた。「そりゃあもちろん、ただ踊るだけだよ!」

彼が言及している「踊る」と言う意味は、言うまでもなく、祝いであり、無邪気な戯れであり、創造性のことである。しかし、それは人類の通常の問題や難題が消えてなくなるということではないのだ。目覚めることによって、努力を要しない、ある種の完璧さの中にただ住むということではないのだ。

「悟りとは問題が消えてなくなるということではなく、それはただ、問題がもう問題を孕まなくなるということである。目の前にある難題にただ対処する。非常に澄みきって、この瞬間に存在して、機敏に応答するという次元から、難題に対処するだけなのだ」と、ジーンが別の機会に、このように語っていた。

かつて、インド、ムンバイに住んでいたマスター、ニサルガダッタ・マハラジのもとに西洋から多くの探求者が訪れ、彼らのうちの一人が「まだ、恐れを持っておられますか」と、マハラジに質問したことがある。「時に、感情的か、精神的な古い反応がマインドに生じるが、わたしはすぐにそれに注目し、それを棄てる。何と言っても、人はまだパーソナリティーを持っているのだから、依然として、個人の特異性と習慣は曝されるだろう」とマハラジは答えている。

名前の由来が「生まれながらの状態で留まっている」であるニサルガダッタ・マハラジの、この言及を読んだとき、まだ人間であることはオーケイなのだ、時々、一瞬の恐れを体験したとしてもいいのだと、わたしの精神的な肩の荷が降りた。これはまさに解放だった。

長年、真実にあることを確立させた偉大な聖者さえも人間だったのだ。彼らでさえも、道具が彼らを裏切るときがあるのだ。消化不良になって、苛々する瞬間があるかもしれない。いつもとても優しく、愛に溢れているわけではないかもしれない。ぶっきらぼうだったり、無関心だったり、引きこもったりすることもあり得るのだ。彼らの普通の人らしさは、わたしたちが完璧とは言い難くてもいいのだということであり、わたしたちの強いプレッシャーを取り除いてくれる。それゆえ、わたしたちは気負うことなく、自分たちの真の性質である明晰さと実在の中で、くつろぐことができるのだ。

ジーンは過去からの反応について言及したことがある。彼はそれを「名残」と呼んでいた。それでわたしはこの表現を得たのだ。自分自身のアイデンティティーや存在意義を、思考のプロセスか、個人的な過去の事柄から見出さないようにするため、「私だ、私自身、私が」と呼ばれているストーリーを見抜くことが解放である。その代りに、まさに今、ここで感じている創造のエネルギーから、つまり、存在していることの漲る生命力の活気と豊かさから、自分自身のアイデンティティーや存在意義が生じるのだ。創造が起きている絶え間ない変化と流動の中にあっても、あなたは自分自身を変わることのない気づき、意識として認識しているのである。

ひとたび、目覚めが起こると、あなたは自由となる。ところが、あなたの個人的な過去の事柄の要素である名残は、依然として身体の筋肉組織に閉じ込められているのだ。ヒーラーやボディ・セラピストであれば誰でもこの現象を理解していることだろう。スピリチュアル・ティーチャーのエックハルト・トールが「ペイン・ボディ」と言及したことと同じである。これらの名残は、時折、作動することが起こり得る。

例えば、目覚める前のあなたが根っからのせっかちだったとすると、目覚めた後ではその傾向が減少するとは言え、せっかちという名残は相変わらず残るのだ。あるいは、目覚める前に何かと直面することを恐れていたならば、あなたが誰であるのかという真実を悟った後で、その恐れのほとんどが消えても、何かと直面するような状況に陥ると、過去からの影響が誘発されるかもしれないのである。別の表現で言い換えると、恐れが忽然と湧き起ることもあるかもしれないのだ。

目覚めると、あなたは名残に気づき、それらは消え失せる。これが違いである。あなたは名残を自分のものだとはしなくなる。こうして名残にエネルギーを与えなくなると、名残は溶けていくのだ。そのような動揺は、あなたの自然な状態である、あなた本来の意識という広大な澄み渡る海を、一瞬だけ荒立てる細波のようなものである。または、湖に例えると、あなたの存在そのものである湖の水面は、強風が吹き渡ると波紋が広がるかもしれないが、水面から深いところは静まり返り、澄みきって、穏やかなままなのである・・・・




●ここで少し一息ついて、あなたが今、体験していることと共に存在しましょう・・・精神的、感情的、身体的であれ、筋長か心地悪さを感じているところがあれば、それに注目します。そして、それを受け入れ、それを在るがままにさせておきます・・・自分自身に語っているストーリーがあれば、それに気づきます・・・・さあ、深呼吸をしてリラックスし、真実を観ましょう・・・・ストーリー、思考、感覚、感情は常に変化し、生じては去って行きます・・・・しかし、「あなた」は気づきとして、そのすべてをじっと見つめ、ずっとここにいます・・・この瞬間においては、自分だ誰であるのかを定義するストーリーを、あなたはまったく必要としません・・・「特別な人」であるための、どのような概念も、イメージも、観念も、まったく必要としていません・・・あなたは今の現実における自分自身に意識的であり、それだけで満足しています・・・すべてはこの次元から生じるのです・・・




二元性を超えて


「目覚めとは日々の生活における二元性から自由になることだとよく語られていますが、どのようにして二元性を乗り越えることができるのでしょうか。わたしにとって、昼と夜、善と悪、幸せと悲しみという二元性は、現実であるように思えます。わたしたちは片方がなくてはもう片方が得られないという、相対性の世界に住んでいます。つまり、人生で下降を経験せずには、上昇を得ることはできないようにわたしには思えるのです」

このような質問をわたしは今まで多く受けてきた。明らかに、この世界には昼と夜、喜びと痛み、熱いと冷たい、富裕と貧困がある。しかし、これらの区別は、実際には厳密に黒か白というように明白ではないのだ。

ある人の喜びは他の人の痛みか、不満となり得る。昼は次第に暗くなって夜の帳を迎え、夜明けを告げる光が現れて朝になり、再び昼となる。ところが極地では、夏は昼間が20時間か、それ以上続く。富裕と貧困もまた認識の問題である。先進国の貧困は、第三世界では裕福と見なすこともできるだろう。

先ほどの質問の要点の、わたしたちは人生で下降を経験せずには、上昇を得られないということは、幸せが自分自身の外側の出来事や状況に基づいている場合は、まさに真実である。あなたがパートナーから満足感を得ようとしているのであれば、パートナーが上機嫌のとき、あなたは優しくされて気分がいい。パートナーが不機嫌のとき、あなたは当たり散らされた気分が悪い。あなたはこの状況が気に入らない。また、状況はあなたに悪影響を及ぼしている。

同じ原則が他のことにも当てはまるだろう。収入があると、幸せになる。収入よりも支出が多いと、惨めになる。あるいは、あなたが「精神的」と付箋をつけた生活では、深い、至福に満ちた瞑想を体験するかもしれないが、その一方で、あなたの人間関係や仕事の「物質的」な生活は、多くの葛藤と苦しみを生み出している。

それでは、ここでもう一度、はっきりさせておこう。自分自身の幸せと幸福を外的要素に依存すると、気分がいいときと悪いときの間を必然的に揺れ動くことになる----あなたは二元性の中に囚われているのだ。二元性の被害者となっていて、他に出口はないのである。

実際に幸せを外側の物事に頼るほど、慢性的で根本的な不安をあなたは強く感じて生きることになる。幸せがいつ変化するのか、幸せがいつ奪われるのかというように、決して安定することがない。これが多くの人々の現状であるが、あなたは彼らのようになる必要はないのだ。

あなたの真の性質である気づき、開かれたハート、自由という状態で生きているならば、あなたの根本的な幸せはもう外側の出来事や状況、または人々の考え、発言、行為には依存しなくなる。幸せは内側から生じる。存在そのものの美、完全性、喜びという直接的な発言となって、幸せはあなたを通して輝くのだ。別の表現に置き換えるならば、内なる平和はあなたの真の性質なのである。

目覚めが本物になると、外側で何が起きていようとも、あなたは常に内側では平和でいる。それと同時に、あなたは世の中で、つまり二元性の現実の中で生きている。あなたは自分自身の生存、心地よさ、幸福のために最善の状況をもたらす選択を確実に行い、そのように行動するだろう。物質的、物理的なレベルで人生がより円滑に運ぶようになると、あなたはより自由に自身のエネルギーを他者に役立つよう、また、あなたの運命を実現させるために注ぎ込むだろう。

そして、あなたはポジティブなカルマを生み出すようになる。カルマとはただ単に、どの行動も反響効果を含んでいて、それが結果として連鎖反応を生むということである。ポジティブなカルマは意識的な行動であり、愛、思いやり、善意という気持ちを生み出す。ネガティブなカルマは無意識な行動によって生じる。そして、その結果は常に苦しみなのだ。

ここで話を戻して、なぜ目覚めがとても重要なのか、また、その利点について語ろう。目覚めると、あなたの根本的な内なる平和と幸福は、外側の状況が好ましくても、そうでなくても、それには依存しなくなる。したがって、目覚めは外側の出来事の結果に執着することや、それらへの執着がもたらす不可避の不安や苦しみから、あなたを解放する。目覚めは執着している「ある人」でいる、苦しんでいる「ある人」でいるという限られた観念から、あなたを解放するのだ。したがって、あなたは苦しみから解放されるのである。

わたしは最初に目覚めをほんの少しだけ味わったときのことを、はっきり覚えている。それは実に、わたしの人生を変える出来事だった。このような体験は決まって、不意にやって来るものだ。

わたしはカリフォルニア州サンタローザに住んでいた。カイロプラクティックを学ぶために、ニュージーランドからアメリカにやってきたが、本当のところは、ライターか、作家になることを強く志望していた。カイロプラクティックの人々を助けるという意図が気に入って、一時的な職業とするにはとてもいいだろうと考えていただけだった。当初のわたしの計画は、卒業後にニュージーランドに戻って、カイロプラクティックの技術を磨き、小説を執筆しながら、ニュージーランド議会に選出された3人目の女性という父方の祖母の歩みを追って、政治に関わるということだった。

ところが、カイロプラクティックの学校に通っていた最後の一年間、わたしは健康的な危機に見舞われた。呼吸困難とともに、胸の辺りが締め付けられるようになったのだ。そのとき、わたしは一連の呼吸法を行っていたので、どうにか脳まで酸素が行き渡ったが、意識的に呼吸の流れをコントロールし続けなければ、完全に呼吸が停止していたかもしれないほどだった。

この状況はあらゆる種類の不安な気持ちをわたしに引き起こした。夜、眠りに落ちるのが怖いという程度まで達したのだった。時折、弱々しい祈りを試みたが、わたしはもはや神を信じていなかった。結局は極度の疲労から眠りにつくのだが、翌朝、目が覚めたときには、まだ自分が生きていることに感謝の念が湧き起ったものだった。

ちょうど、この頃は、わたしが精神的に追い詰められた混乱の時期だった。ところが、この種の苦しみは自分自身の内側を深く見つめるようにと私たちを仕向ける。当時のわたしは気づいてはいなかったものの、わたしのスピリチュアルな旅、内なる自由への旅が、このとき、始まっていたのだった。

そして、この状況に取り組むために、わたしはヨガを始めた。また、朝、ジョギングするときには、立ち止まってどのくらい速く走ることができたかタイムを計りつつ、自然界にもっと意識的に感謝するように試みた----林檎の木の止まって囀るアオカケスや、スイカズラの木の周りをブンブンと飛び回っている蜂たちを立ち止まって注目したりした。次第に呼吸をコントロールしようとするのを止めて、この瞬間に存在することにもっと信頼を置くようにもなった。

TM瞑想のコースにも参加し、それが大きな違いを生んだ。1日に2度、座って瞑想し、ただ今、ここに存在した。こうして数か月過ぎると、不安な気持ちはいつの間にか消えていて、再び、熟睡できるようになったのだ。

当時のわたしは、スピリチュアルな探究の一部分としてヘルマン・ヘッセ、アラン・ワッツ、J・クリシュナムルティの著書を読み漁った。特にクリシュナムルティの著書に深く没頭するようになり、依然としてわたしがいだいていた、神に対する信仰のすべてを完全に棄てた。クリシュナムルティは様々な意味で、究極の霊的な偶像破壊主義者である。信念と概念の檻がわたしたちを拘束し続けて、あらゆる苦しみを引き起こすと彼は語っていた。彼が言う自由とは、思考の網から、そして、神についてのあらゆる概念から解き放たれたところにあった。そして、そのときやっと、わたしたちは「神」と言う言葉の意味を理解するのだと。

最初にわたしが目覚めをほんの少しだけ味わったのは、この頃のある夏の朝だった。わたしは早朝に目が覚め、ベネチアン・スタイルのブラインドの隙間から差し込む陽光の一筋に注目していた。そのとき、ナゲキバトの優しくて心に残る鳴き声が聞こえてきた。すると、わたしのマインドにあったすべてのことが、突然、消え失せていったのだった。思考のすべて、昨夜の夢の残映、それら一切が突如消えていき、わたしが今まで知ることもなかった尋常ではない明晰さ、静寂、そしてワンネスの状態となって、わたしはベッドに横たわっていたのである。この体験をしている「私」という感覚すらなかった。そこにあるのはただ、時を超越した実在という感覚と、緊張と葛藤の完全なる不在であった。

暫くしてから、一つの思考がマインドに沸き起こった。「ああ、そうか、これがクリシュナムルティや、他のマスターたちが語っていたことなのか。求めるものは何もなく、すべてはまさにここに在る。人生はこのままですばらしく、完璧だ」と。

1日が過ぎると、あの驚くべきワンネスの感覚が次第に薄れてきて、どちらかと言えばマインドに偏っている幾分苛立ち気味の、普段の自分に徐々に戻って来た。しかし、わたしの中の何かが永遠に変化していた。それはあたかも、わたしのエゴに拘束された意識に、一つの穴が開いたかのようだった。

わたしは日常の現実の背後にある、真の現実を少しばかり味わったのだ。そして、あの真の現実はわたしだったと、あるレベルで認識したのだ。日常の雑音と混乱に覆われながらも、常にここに存在している、生命の神聖なる完璧さの美を、わたしは垣間見たのである。

自分が何を求めていたのかが、このときにやっとわかったのだ。あの明晰さの状態、あの安らかさと神の創造した生命の神聖なる完璧さと一体になったワンネスの感覚で、常に人生を生きることをわたしは望んでいたのだった。そして、本能的に察知したのである。必要であればどのようなことがあっても、また、どれほどの犠牲を払ってでも、これを実現させることを貫くだろうと-----わたしは完全に目覚めることをコミットメントしたのである。

その内なるコミットメントの結果として、私はそれからの人生の18年間を、悟りと目覚めの追求のために捧げた。つまり、今ではわたしの真の性質だということを悟っているが、わたし自身が完全に自由の状態に定着するようになることを追求したのだ。表面的には、わたしはごく普通に社会で暮らしていたものの、これがわたしの生存の主要なテーマとなったのである。

ワンネスと分離

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分離を祝福する



お互い、そして生きとし生けるすべてのものから分離しながらも分離していないと知ることで立ち上る深い愛を見つめます。
続いて、根源のワンネスを深く知りながら美しい個性と人間性の輝きを知るという、論理を超えた目覚めのアプローチを紐解きました。そして、分離を拒むことは愛を拒むことであるため、分離の価値を認めない目覚めのアプローチを批判します。
ここでは、分離がなぜ重要かつ必要であるかについて、はっきりと述べたいと思います。ワンネスと分離の論理を超えた関係性についても触れましょう。

『法句経』と呼ばれる仏教の経典はこのような主旨で始まります。


●思考をもって、私たちは世界を創造する。


分離の重要性を理解する手掛かりになるため、この考えがいかに洞察に溢れたものかを紐解きたいと思います。その前に、混乱を避けるために、私の考え方についてはっきりと述べておきましょう。

私たちが意識的に考えることで世界が存在するのではないことは明白です。オフィスの中に象がいる様子を集中して考えることはできますが、だからといって象が現れることはありません。存在して欲しいものをあれこれ考えることはできますが、現実は私の望みに抵抗します。私は思考によって現実を想像してはいません。しかし、現実をどう経験するかは、それをどのように概念化するかに依っています。

あたりを見回してみると、目に入るものすべてが何らかの概念を持っているのがわかります。やってみましょう。パソコンの画面、オフィス、外の庭、鳥の鳴き声、空、私の体、仕事をしているテーブル、今日の日付、飲んでいるコーヒー。意識するすべてを私は概念化しています。

概念が現実を”あれ”や”これ”に分割します。私のコーヒーカップは”これ”であって”あれ”ではありません。キーボードは”これ”であって”あれ”ではありません。今日の日付は”この日”であって”あの日”ではありません。私たちは理解可能なパーツへと世界を分化することで、経験を定義します。

思考が現実を多種多様な物事へと分けてゆきます。一方で、言葉を使わずに世界を分化することもあります。赤ん坊や動物がそうするように、シンプルな方法で世界と渡り歩く前言語的概念もあるのです。

肉を噛むとき、私たちは食物である肉と体の一部である舌という肉を別個のものとして本能的に捉えます。そうしなければ痛みを感じるはずです。私はベジタリアンですので想像するのが難しいのですが、この例えはきっとわかりやすいはずです。

大人へと成長すると、より多くの概念を学び、世界をさらに細分化するようになります。こうすることで、世界をさらに意識するようになります。子どもの頃、私たちは小さくシンプルな世界に住んでいますが、大人になると、分離した物事のすばらしい多様性から成る巨大な宇宙に暮らします。さまざまな概念によって現実を分離の世界へと分化させてゆくからです。

物事を分化しない時、私たちは意識していません。これは深い眠りの状態です。起きている時、私たちは経験の流れの語り手として自分自身を分離させます。そして世界を異なる性質をもつ個々のものへと分化することで、経験を理解するのです。


意識とは分化である


これが皆さんと共有したいアイデアです。

●意識とは分化です。

●全体を分離したパーツへと分化することで意識が立ち上ります。

●世界を分化すればするほど、私たちはより意識的になるのです。



分離の必要性


次に、これが私の目指している気づきです。

●分化のおかげで、私たちは意識することができます。

●このため、分離の経験は取るに足りない幻想ではありません。なぜならそれは、何かを意識する際の前提だからです。



目覚めのパラドキシティ


すると、目覚めのパラドキシティを理解することができます。

●分離の世界を経験しているからこそ、意識できるのです。

●分離の経験を通じて意識をしながら、同時に存在の本質的なワンネスを意識することもできます。

●概念の森に迷うとき、根源のワンネスを経験することはありません。しかし、概念なくして意識することはできません。

●言葉を通して言葉無き世界を知るのです。それが今やっていることです。



ワンネスを意識する


「すべてとどのようにひとつになったらよいですか?」とよく質問されます。深い眠りの状態に分離はないため、私はおどけて、眠るようにアドバイスします。深い眠りの状態にあって私たちは現実を分化しないため、そこには無意識の存在のワンネスだけがあります。

無論、質問した人は無意識になりたいのではなく目覚めることに興味があるのですから、この答では不十分です。けれど、この質問を分離の重要性を伝える手掛かりにしてみましょう。次の文章を読んでみてください。

●深い眠りにあって、私たちは気づきの根源的ワンネスに還り、無意識にすべてとひとつになっています。けれどこれは、気づきの体験ではありません。

●気づきとは、意識的にすべてとひとつになることです。

●難しいのは、意識は分離に立ち上り、意識することとはつまり分離を経験することだからです。

●つまり、ワンネスをただ意識することは決してないということです。分離とワンネスは同時に経験されなければいけません。

●分離を通じて、存在のワンネスを意識しなければいけないのです。

●その時、私たちは存在の中心にある根源的な矛盾に出会います。すべてはひとつであり、ひとつはすべてなのです。



宇宙のビジョン


すべては本質的にひとつであると意識している時、私は「宇宙のビジョン」を経験します。ただのワンネスと区別するため、敢えてこの言葉を使いましょう。宇宙とはパラドキシカルな「ユニ・バラエディ」、つまり「ひとつの多様性」を認識することです。宇宙のビジョンを経験する時、現実は本質的にはワンネスであり、表面的には多様であるとわかっています。すべては分離しながらひとつであることが見えています。

多くの人がひとつの視点を採用し、もうひとつを無視しようとします。現実を常識的に捉える人は、ワンネスは神秘的な空想だとして無視します。いくつかのスピリチュアルな教えはワンネスこそが現実で多様性は幻想だとします。けれど、多様性よりワンネスを重視し、もしくはその逆を重視する理由は見当たりません。どちらもそれぞれ論理を超えた視点においてすばらしくリアルなのです。

宇宙のビジョンを経験する時、私はワンネスを知り、その対極にある分離はお互いを補完しながら共存するものであると知ります。現実は根源的な「どちらも/そして」であり、私たちは「どちらか/もしくは」へと分化します。ユングはこう言っています。


●正反対のものがなくては、現実はない。

すべてはここに、この英文の韻にこめっれています。ユングのすばらしい言葉です。


矛盾にまつわる古来の哲学


老子の『道徳経』の冒頭に記された力強くかつ多くを孕んだ文章を見つめることで、ワンネスと分離の論理を超えた関係性を明らかにしてみたいと思います。たくさんのメッセージが含まれていますから、すべてを読み通してから、一つひとつを読み返してみましょう。



道(タオ)は、示され得るものではない。
道は、定義され得る思考ではない。

道は、定義され得ない原初の全体性である。
思考は、分離した物事の現れを創造する。

それは神秘的な本質であり、常に隠されている。
それは表面的な現れであり、常に表出する。

本質と現れは同じである。
思考が、それが分離しているように見せる。

神秘の魔法に掛けられたのか?

道は神秘である。
それが理解への扉なのだ。



言葉の前にあるもの




道は、示され得るものではない。
道は、定義されうる思考ではない。


道とは、存在の神秘のことです。すべての本質であり、それを分離したものとして指すことはできません。精神で捉えることのできる概念ではないのです。人生に関するアイデアはアイデアに過ぎません。そのアイデアが神秘を表現しようと試みるのです。道はアイデアの前にあります。それは私たちが不思議に思うその不思議です。考えることで知ることができるのは、どうにかして生きることの意味を成そうと、神秘について私たちが語ろうとする物語です。けれど、言葉の前にあるものを語ることはできません。



思考をもって世界を創造する



道は、定義され得ない原初の全体性である。
思考は、分離した物事の現れを創造する。


老子は私たちの考えが分離の現れを創造すると述べています。現実とは私たちが概念を持って分化することで現れの多様性として経験する、本質的なワンネスです。




存在のパラドキシティ


老子は存在のパラドキシティを的確に捉えています。

それは神秘的な本質であり、常に隠されている。
それは表面的に現れであり、常に表出する。


老子は神秘的な本質が本物で、分離が幻想だとは言いません。むしろ、道は常に神秘的でありながら表出するとしています。存在のパラドキシティは、それがさまざまな形で現れるひとつのエッセンスであることです。「どちらか/もしくは」ではなく、「どちらも/そして」なのです。




本質と表出


そして、老子は存在のパラドキシティの深みへと私たちを導きます。

本質と現れは同じである。
思考が、それが分離しているように見せる。


ひとつの視点からは、私たちは本質と現れを対極として分化することができます。しかし、本質的にはそれらは存在のパラドキシティを理解するための相互補完的な見方でしかありません。


ワンダーの方法


最後に老子は「どちらか/もしくは」の思考ではこれらすべてを捉えることはできないと指摘し、ワンダーによる方法へと私たちを誘います。

神秘の魔法に掛けられたのか?

道は神秘である。
それが理解への扉なのだ。


生きることの深い神秘が道です。深い神秘を意識するには、深遠なる未知の状態に入らなければいけません。それは言葉の前にあるものを深く知るための扉です。





思考を見通す


さまざまな思考を共有した後、老子は忍耐を捨ててこう言います。


思考は十分だ!
思考が全体性を分割する。


私たちは分化することで意識しますが、ワンネスに目覚めるためには言葉の前にあるものに注意を払わなければいけません。やってみましょう。


あなたが考える前、世界とは何か、自分に問いかけてみましょう。

あなたが何者であるか何の思考もない時、あなたは何者なのか、自分に問いかけてみましょう。


この時あなたが知ることを言葉で表わすことはできないはずです。こうした質問に対する答えは、存在を前概念的に捉えることでしか見つけられません。だからこそ老子はこういったのです。


語る者は、知らない。
知っている者は、語らない。


言いたいことが山ほどある私が言うのも皮肉ですが!






愛の網の瞑想



ここまで、分離を祝福する目覚めの方法、人間としての個性を抱きしめることのできる深い自己を知る方法、生きるという冒険に意味をもたらす深い神秘を深く知る方法を紹介してきました。

私たちは分離しながら分離していないことを伝えました。それは私たちが深い愛においてひとつになれる、ふたつだからです。私にとって真に重要なのは、この深い愛だけ。


文明が発達するにつれ、お互いのつながりはどんどん密になっています。近年の実験によると、私たちの誰もがお互いに六段階しか離れていないことがわかっています。友人の友人のそのまた友人の・・・と辿っていけば、今現在地球に生きる70億人の誰かと必ずつながっているのです。その誰もが誰かを愛し、その人たちもまた誰かを愛し、その愛される人もまた誰かを愛し、そうやって世界を包み込む”愛の網”をつくっています。

今回のワークでは、別の形で深い愛の瞑想を行いたいと思います。想像力を用いて、私たちのすべてがつながっている巨大な愛の網を意識してみましょう。さぁ、一緒に試してみましょう。ゆっくりと楽しんでください。



ワンダーし、入り、そして在ることで、深く目覚めた状態に入ります。

家族や友人との愛に溢れたつながりを意識します。

あなたのハートから魔法の糸が伸びて、その人たちのハートに届くのを想像します。

その魔法の糸が、あなたが愛している人々と、その人たちが愛している人々をつないでいる様子を想像します。

そしてそれらの人々から、彼らが愛する人々へと魔法の糸がさらに伸びてゆく様子を想像します。

愛のつながりの網がどんどん広がり、この美しい青い星であなたはそれらの人々すべてとつながっています。

地球を慈しむべく、その糸を通じてあなたのハートから愛が流れ出し、脈動します。

私たちは皆、愛においてひとつです。

私たちは愛の網において親密にひとつになりました。

私はあなたに愛を送ります。






生きることの恋人になる



私たちは神秘体験の中心である深い愛の不思議へとたどり着きました。そして今、日々の暮らしのチャレンジへと視点を戻す時がやって来ました。

日々の生活をどのように目覚めの冒険へと変容させることができるのかを紐解きたいと思います。スピリチュアリティの目的について触れることから始めましょう。


私たちはスピリチュアルな目覚めの冒険をしています。では、それは究極的にはどこに辿り着くのでしょうか?終着駅があるのでしょうか?私たちはスピリチュアルな理想を体現すべきなのでしょうか?過去百年の間、インド哲学が急速に私たちの文化に流れ込んだため、私たちは”悟り”の経験を求めるべきだと考えています。この考えに挑戦してみたいと思います。

悟りは自我のない状態で、その状態において私たちは自分自身に完全に気づき、永遠に目覚めることができるとされています。輪廻転生から自由であるため、問題だらけの人間の生にもう戻らなくてよいのです。多くの人は、自分自身はこのようなレベルの高い状態に辿り着くことはできないが、偉大な師たちはきっとこのゴールに達したはずだと考えているようです。

私は目覚めの旅をこのようには捉えていません。究極の状態に辿り着くことを希求してはいません。自我を根絶するという考えは誤っており、私を魅了しません。私は目覚めの体験を通じ、人間としての冒険から逃げるのではなく、そこにもっとコミットしたくなるのです。

この想いが新たなスピリチュアリティのあり方を概念化すべく私を突き動かしました。悟りを開いた師になるよりは、謙虚な生きることの恋人でありたい。




入り込むために目覚める



生きることの恋人になることは、人生から遠ざかり、スピリチュアルな目覚めの状態を達成することとは違います。それは深い自己を意識することで慈愛を持ち、分離した個人としての冒険に取り組むことです。私たちの内に愛を見つけることで、私たちを取り巻く世界に対して愛を表現するのです。

深く目覚めると、私たちの本質である海のような愛を見つけます。けれど、私にとってこれは目覚めの終着点ではありません。この本質である愛は表現されることを待ち望んでいます。愛は感情であり、行動です。それを与え、他者に手を伸ばし、世界中に善きことをつくり上げる。これは愛の内に秘められた性質です。
『ピリポの福音書』にはこのようなすてきな言葉があります。

●グノーシスを通じて自由を得た者は、愛のために奴隷となる。


私が経験した目覚めのパラドキシティを完璧に表現しています。本質を深く知る時、私は物語に囚われることなく、存在の神秘に置いて自由になります。けれど、深い目覚めの状態において感じる深い愛が、慈愛を持って生きることにとりくみ、他者を想いやり、未来の世代のために世界をより良い場所にするよう、私を物語へと駆り立てるのです。

生きることの恋人になることはつまり、目覚めに対する論理を超えたアプローチを受け入れることです。”在ることを愛する”ために深い自己を意識し”愛することに在る”によって、その愛を表現することを意味しています。




自分を知り



私にとって目覚めとは、自分の意識の状態を変えることだけではなく、その生き方によって人生に何かをもたらすことです。悟りの理想において、スピリチュアリティの目的は自分自身に気づくことであるとされています。目覚めの旅は深い自己を意識することへと導きますから、完全に賛成です。けれど、目覚めの旅のパラドキシティにはもう一極があります。

目覚めとは、自分を表現することでもあります。分離した個を進化させる過程に取り組み、本質的な性質の無限の可能性を、進化させながら表現するのです。世界に新たな可能性をもたらすために、目覚めの根源の土台とともに、意識する共同制作者として、生きることのクリエイティブなプロセスに入ってゆくのです。

”自分に気づくこと”と”自我を表現すること”は、目覚めの冒険のお互いを補完し合うふたつの側面です。生きることの恋人であろうとすることは、自分が何であるかを意識することであり、何であることができるのかというテーマを浮上させます。自分自身をありのままに愛し、その可能性のたっぷりとした表現であるべく成長するのです。

生きることの恋人であることは、内に深く触れることで、もっと外へと広がることです。物語を変容させるために、物語を超越するのです。自分を知り、自分を表現するという旅にあって、存在の神秘の唯一無二の表現であることを恐れないことです。自分自身を知り、そしてそれを示すことなのです。




ずっと目覚めていることはできるのか?



多くの教えが、目覚めの目的は崇高な超意識状態に永遠にあることだとします。けれど、これは不可能であるように思えるのです。変わり続けるのが意識の性質です。ふたつの瞬間は必ず異なっています。意識は流動的です。

永遠に目覚めていることができるという考えは、私たちの実際の経験と噛み合いません。私たちの意識は深い眠りにおいて根源と溶け合い、そしてリフレッシュして朝を迎えるというサイクルを繰り返します。誰も永遠に目覚め続けることはできないのです。これほど明らかなことがあるでしょうか?

意識は立ち上っては落ちてゆく波のようなもの。ある瞬間、私たちはエネルギーに満ち、より多くを意識していますが、疲れていいてあまり意識していない時もあります。目覚めのプロセスは、永遠の目覚めに導くのではありません。やって来て去るのが意識の性質だからです。存在の根源の土台はいつもありますが、私たちによるその経験は変わり続けるのです。

私の提案はこうです。私たちは「眠る」、「夢を見る」、「起きている」という三つの状態を行き来しています。スピリチュアリティはここに四つ目の、「より意識した状態」を加えます。眠りから覚める時、私たちは深く目覚めるために意識を広げることができます。すると深い眠りから深い目覚めまで、上がっては落ちてゆく意識を波乗りすることができるのです。

永遠に目覚めることをゴールとするなら確実に失敗するでしょう。それを未熟なスピリチュアリティや邪悪なエゴのせいだと言うなら、自分自身に嫌悪感を抱くだけ。自分自身をありのままに愛するどころか、自分は十分でないという深くにある恐れを再確認するだけです。

生きることの恋人であろうと理想を抱くことは、恒常的目覚めという不可能なゴールを目指すことではありません。ありのままの人生経験を、すべて愛するのです。生きることの論理を超えた性質において、意識は上がっては落ちてゆくものであることを受け入れ、より意識した状態を経験するためには、あまり意識していない状態も経験する必要があると理解するのです。




進化の旅



生命は進化し続けているという革新的な洞察を科学はもたらしました。宇宙は現在進行形の創造過程であり、それを通じて存在の無限の可能性は現れています。私たちの誰もが、進化を続ける宇宙の一部です。

進化という概念は、存在の理解の中核を成しています。けれど、多くの教えはこの理解が生まれる前の時代に根ざしています。概念を更新し、究極の救済という終着点を目指すものとしてではなく、永遠に続く進化の過程として目覚めを捉えなおす必要があります。

目覚めの冒険の目的はどこかに辿り着くことではなく、進化のプロセスが私たちの内でより力強く花開くために、生きることの冒険に新たな方法で向き合うことだと私は考えています。深い存在に目覚めることで、より意識した個人になるための進化の冒険にしっかりと向き合うのです。それを通じて愛することを学ぶ、変容のプロセスとしての人生を生きることなのです。

目覚めのプロセスは直線的で一定なものではなく、論理を超えたプロセスであり、自分自身を見つけ、時に失い、鋭い洞察と深い混沌、すばらしい高揚と恐ろしい痛みといった相反する要素を含みます。スピリチュアルな挑戦とは、この変容のプロセスに意志を持って入ってゆくことです。

見つめてきた論理を超えた”ひねり”は、人間としての冒険を最大限に経験するには、深い自己に目覚める必要があるということです。深く目覚めた状態に起ち上る安全な脆さを感じる時、私たちは勇気をもって、生きることという騒乱の物語に向き合うことができます。神秘体験に満たされる時、私たちは人間としての経験をたっぷりと味わい、生きることの恋人になるのです。




旅をし、到着する



スピリチュアルな旅は進化のプロセスです。所々で辿り着く気づきのステージはありますが、どこまでも進むことができるのですから終着点はありません。私の旅は、人生を永遠に変えた、あの深く目覚めた状態を経験することができるという気づきに始まりました。ある時、深い自己はわたしを超越し、私は本質的には時間に生きる人間ではないと気づきました。そして、ある分岐点では、深みにおいて分離はなく、すべてはひとつであると気づきました。

こうした気づきは、その他の気づきも含め、目覚めのプロセスの段階ではありました。けれど進化を続ける冒険は、どこまでも枝葉を伸ばし続けます。新しいレベルの理解に辿り着くと、それは容赦なく次の挑戦へとつながっています。生きることとは常に、到着しながら旅をし続ける論理を超えたダンスなのです。

けれど、最初からそこにあり、旅を通じて常に私とともにあった最も重要な気づきは、大切なのは愛だけだということです。何らかのスピリチュアルな終着点に辿り着きたいという欲望から私を自由にしたのもこの気づきであり、人生において変わり続ける挑戦を、愛において成長し続ける機会として抱きしめることを教えてくれたのもこの気づきです。この気づきが、生きることの恋人になるという理想へと私を導いてくれました。




気まぐれの恋人



多くの人が、目覚めの旅の究極の目的とは、完璧なスピリチュアリティに辿り着くことだと思うでしょう。けれど、人間であることは不完全であることです。最善を尽くしても、欠点や弱点はあり続けます。歩ける者であってもつまづきます。偉大な音楽家であっても間違った音を出すこともあります。

間違えるのは人間だからだ、ということを受け入れることが生きることの恋人であることです。私たちは無意識の存在の場であり、さらに意識するプロセスにあります。半意識的な闇の中で手探りしていても何ら不思議はありません。乞う理解すると、私たちは自分自身に対して、そして生きるという冒険の仲間たちに対して忍耐強くなることができるはずです。

生きることの恋人であろうとすることは、スピリチュアリティのスーパーマンになろうと空想することとは違います。そのまったく正反対なのです。それは常に何かが欠けていて、新たに発見できる何かがあってこそ進化を遂げることができると知ることです。個人としての輝かしい不完全さを抱きしめ、人間であることの曖昧さにクリエイティブに取り組むことです。

生きることの恋人であろうとすることは、私たちは時として愚か者であることを受け入れ、そうすることで賢くなることです。意識が足りないために常に間違いを犯すのが人間であると認めるのです。それが進化のプロセスです。試行錯誤をしなければ学ぶことはありません。そして学ばなければ成長もないのです。間違いを犯し続けなければ現状ん安穏としてしまいますから、私たちはリスクを負うべきなのです。


生きることの恋人になるためには、愚かな恋人、道に迷った恋人、脆い恋人、孤独な恋人、心が砕けた恋人、恐れをなす恋人、欠点のある恋人、傷ついた恋人、そして気まぐれな恋人であろうとしなければなりません。人間であることを愛する、それが意味するすべてにおいてそうすることが大切なのです。





新たな理想のスピリチュアリティ



”生きることの恋人になる”というアイデアはあまりに論理を超えており、この考えのすべてを捉えるためには、さまざまな表現を試みなければいけません。それが何を意味しているのか、いくつか例を挙げてみましょう。


●生きることの恋人になることは、ワンネスに目覚め、人生を通じて個人としての旅に情熱的に取り組むことです。

●生きることの恋人になるとは「在ることを愛し、愛することに在る」ことです。愛である深い本質に目覚め、世界においてその愛を、より広く、より包括的に表現するのです。

●生きることの恋人になるとは、自分自身を知り、自分自身を示すことです。あなたがそこに存在する世界をより豊かなものにするため、秘められた可能性を表現するのです。自分に気づき、自分を表現する旅に出るのです。

●生きることの恋人になるとは、欠点のある人間性をそのまま抱きしめることです。愚かであることを通じて賢くなり、常に目覚めた最上の状態であることはできないと知り、時につまずくことを受け入れるのです。

●生きることの恋人になるとは、人生のチャレンジを受け入れ、それを通じて人として成長することです。人生を神秘的な冒険と知るのです。そこでは、ひとつの頂上に辿り着くと、達成すべき新たな可能性が姿を現します。

●生きることの恋人になるとは、生きることの豊かさを経験する貴重な機会としての今この瞬間に自分をたっぷりと開き、変容を促すその力を感じることです。人生をありのままに愛し、より良い未来のために努力を重ねるのです。




生きることの深い目的



生きることに意味と目的をもたらす存在の神秘の物語を紐解いてきました。生きることの意味を確定しようと試みることは、風を手なずけようとするのと同じで無駄なことです。生きることは常に言葉で言い表すことができる以上のものです。それでも、生きることを旅する際にコンパスは必要です。

無意識の気づきの根源の場は、それ自体をたくさんの意識的な個人として夢見ており、それを通じてそれ自体を知り、それ自体を愛しています。この視点から言うと、私たちは自分を知り、自分を表現する旅において生きることの恋人になることで、生命そのものの大いなる目的を満たす役割を果たしているのです。

科学的な解説もまた、この生きることの深い目的を指し示しています。科学は進化のプロセスがいかにしてより意識的な生命体を通じて世界を満たし、やがて人間が創造されるに至ったかを伝えています。私たちが特別なのは、意識をしているだけでなく、意識をしていると意識しているからです。私たちは存在することを知っています。在ることを意識しています。そして最も深い存在に注意を向けるのなら、深く目覚めることができます。すると、生きることの恋人として生きることができるのです。

生きることは進化のプロセスであり、人生の目的は到着することではなく、旅をすることです。死のみが到着地点ですが、それは未来にとっておけばよいこと。そしてこの到着地点ですら、きっと新たな旅への変化の地点に過ぎないでしょう。生きることの目的は決して満たされません。なぜなら、過程こそが目的だからです。

常識やルールを信じる危険性

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束縛には実体がない



あらゆる束縛から解放されなければならないと述べましたが、実際に皆さんが束縛を吟味するとあることがわかるでしょう。

それは、束縛には実体がないということ。つまり、自分がこれまで束縛されていると思い込んでいただけだということがわかります。

そういう意味では、「束縛されるな」ではなく、「束縛に束縛されるな」という表現が正しいと言えます。
私がよく例に挙げる義務教育などもそうです。


皆さんのイメージとして、義務教育というのは、教育を受けなくてはいけないという束縛があると思うのではないでしょうか。自分で選んで教育を受けるのではなく、6歳以上の子ども達はすべからく学校へ行って教育を受けなければならないと思っていませんか。

実は、そんな束縛はありません。日本国憲法にもそんな文言は記載されていません。憲法上では、法律の定めるところにより、等しく教育を受ける権利があると書かれているだけです。教育を受ける「権利」であって「義務」ではないのです。権利は束縛ではありません。嫌なら断れます。

ただし、権利があるのは子どもです。もちろん、まだ何もわからない子どもには、物事の是非を判断できないでしょう。ましてや、教育を受けないことで、将来不利になるかもしれないなど、わかるはずがありません。子どもは、自分の人権を満たせるだけの能力をまだ有していません。

そこで、子どもが判断できない代わりに、親に義務付けているのが憲法第26条です。親の都合で子どもが教育を受けられないことを防ぐために、親が子どもに教育を受けさせるという束縛を課しているのです。

仮に、子どもが大人に比肩するほどの判断能力を持ち合わせていれば、自分で選択することはできます。これ以上、学校で学んでいても不毛だと子ども自身が思えば、学校を辞めても構わないでしょう。「私の人権として、教育を受ける権利を放棄します」と主張すれば問題ありません。

憲法は親に対する束縛であって、子どもに対する束縛ではないのです。世間的には、教育を受けるのは国民児童の義務だという風潮になっていますが、実際には子どもに教育を受けさせるという親の義務です。ですから、義務教育という束縛には、実態が伴っていないと言えます。

まず、束縛そのものを認める。そして、その束縛の起因を探る。その起因を徹底的に分析していけば、そこにはほとんど実体がないことがわかるはずです。

皆さんも、自分が何に束縛されているのか考えてください。そして、吟味してみてください。

「親から結婚するまで貞操を守るように言われている」
「会社には9時までに出社しなければいけない」
「スーツを着用しなければいけない」
「地球温暖化を防ぐために夏でもエアコンはつけない」

何でも構いません。とにかく、自分を束縛していると思うものを1つひとつ取り上げて吟味するのです。そうすれば、きっとその束縛には実体がないことがわかるでしょう。

日本人は、日本教に洗脳されています。美徳、道徳心、生真面目さ、日本人としての品格など、古くから誰ともなく言われて続けている教えに洗脳されています。しかし、それらの教えには、実態はありません。

昔の多くのアメリカ人は、カトリックからの教えで金曜日には肉を口にすることを禁じられていました。ですから、カトリック教徒は金曜日に肉を食べなかったのです。しかし、ある時、ローマ法王が訪米して、「アメリカ国民の皆さん、今日から金曜日に肉を食べていいですよ」と宣言して初めて、金曜日でも肉が食べられるようになったのです。

笑い話のようですが、本当です。それが「洗脳」なのです。
これまで当たり前だと思っていたことも、きちんと吟味すれば、それが当たり前でないことがわかってきます。




赤信号で止まる人とは?



ほとんどの束縛には実体がありません。逆に言えば、実態のある束縛もほとんどないと言えます。

他の例を挙げると、「赤信号で止まる」もそうです。
仮に、日本全国の信号機を24時間監視できるとしたら、赤信号で律儀に止まっている人はどのくらいいるでしょうか。日中や車の往来が多い交差点なら皆止まるかもしれませんが、車も人気もない夜中であればどうでしょう。赤信号を守っている人はほとんどいないのではないでしょうか。

もちろん、一般的には信号無視はよくないと割れています。道路交通法にも、信号無視をしてもかまわないとはどこにも書いていません。

しかし、本当によくないのでしょうか?
もし、人や車が一切いなくても、皆さんは信号表示に従いますか?

私は必ずしも従う必要はないと思っています。私は徒歩で横断歩道を渡る時に、他に人も車も明らかにどこにもいなければ、目の前にパトカーがとまっていても堂々と信号無視をします。そして、警察官に注意をされれば、なぜ私が信号表示を守らないかという理由を主張します。逆に、警察官に対して私を注意したその根拠を問います。

信号は、交通事故を防止するために設置されています。であるならば、事故が起きる可能性がなければ、信号を守る必要はないでしょう。

それでも警察官が、「道路交通法違反だから」と、法律を盾に注意するのであれば、私は彼らに道路交通法に違反しているすべての人を逮捕するように言うでしょう。高速道路に乗って、時速110kmで走っている車をすべて逮捕するように提言します。高速道路では時速110km程度で走っている車など、ごまんといます。取り締まるにもキリがないので、きっと彼らは断念せざるを得ないでしょう。

高速道路を110kmで走っている車は取り締まらないが、人や車が一切いない夜中の3時に赤信号で道路を渡った人は注意するというのは、矛盾もいいところです。

そもそも、ドイツのアウトバーン並みに整備された現在の高速道路で時速110kmが速度違反に当たることも、私からすれば法律が間違っています。「交通上危険がないようであれば、時速100kmを超えてもいい」くらいは追加し、改訂すべきです。上限は場所ごとに決めればいいでしょう。実際、速度規制については警察庁が実勢に見合った基準の見直しを行い、一部区間において緩和されることが決まっています。それでも法廷最高速度は100kmですが。

信号も同じ。「身の危険が明らかにないようであれば、信号を無視してもよい」くらいに法律を変えるべきです。

逆に、いくら人気が少なくても赤信号になるとつい止まってしまう人は、洗脳されています。無意識のうちに、誰かから言われたことを鵜呑みにして守ってしまっているのです。あるいは、警察の権威が恐いという恐怖が埋め込まれているのでしょう。


意味のない記憶、意味のない恐怖に縛られることほど、怖いものはありません。

そのいわれが無意味だと思えば、従う必要などないのです。ただし、その時に必ず情動がかかわってきます。
「子どもの頃に母親に言われた」「学校の先生から教わった」など、過去の記憶が情動と結びついて、無意識のうちに自身を束縛してしまっています。無意味だとわかっていても、つい従ってしまうのです。

ですから、束縛から解放されるためには、前提として自身の情動をコントロールできなくてはいけません。

赤信号の前で無意識に止まってしまったら、「なぜ、自分は止まってしまったのか」と考えます。「なぜ、赤信号では止まらないといけないのか」と立法の根拠を考えます。道路交通法で定められているからというのは、詭弁に過ぎません。

日本にはいたるところに信号がありますが、スリランカには信号がありません。というよりも、信号という概念すらありません。車を止めるどころか、反対車線を走っても問題ありません。

日本も昔は、信号などなかったはずです。信号が設置されたから車が走り出したのではなく、車が先に走っていて、後から信号が設置されたのです。その理由は、スリランカとは違ってきっと交通量が増えてきたからではないでしょうか。事故を起こす危険性が高まり、人命を守るために、信号を設置しようとなったのでしょう。

信号設置の根拠が事故を回避するためであれば、周囲の他の車が走っていなければ事故が起きる可能性はありません。つまり、信号に従う必要はないのです。

自分が行動する時には、必ず自分の行動を制約しているものがあります。その制約の根拠を探るのです。それが、あなたを束縛から自由にしてくれる第一歩となるはずです。

選択することは自由です。自分の意志で選択したことなのであれば、信号を守ろうが無視しようが構いません。信号を守ることを選択した人は、時間や場所にかかわらず守るべきです。これは束縛ではありません。

自分で束縛されていることを吟味した上で、あえて選択したものであれば、それは束縛とは言わないのです。






常識やルールを信じる危険性



皆さんを束縛しているものはいったい何か。そして、その束縛を受け入れるべきか。皆さんは、そのことについてもう一度吟味しなければいけません。

身近なことはもちろん、普段気づかない中にも束縛は潜んでいます。それらにもできるだけ目を向けてみてください。


その典型が、「社会の常識」や「社会のルール」といった実体のないものです。よく「社会のルールに従って・・・」という言葉を耳にしますが、これは完全に間違っています。

例えば、条例などは必ずしも従う必要はないと私は思っています。
一例を挙げると、路上での禁煙がそれに当たります。
歩行者の安全や非喫煙者の配慮から、2002年に東京都千代田区で制定されたのを皮切りに、全国各地で路上喫煙禁止条例が制定され、取り締まりが実施されるようになりました。路上でたばこを吸った人は2000円から、多いところでは5万円の罰金が科せられます。

この条例は果たしてルールと言えるでしょうか?
答えは、否です。ルールではなく、言ってみれば契約に過ぎません。なぜなら、違反したらお金を払えば済むだけだからです。

隣に人がいたとしても、「たばこを吸っていいですか?」と了承を得て吸うのであれば、特に問題はないでしょう。監視員に注意されれば、お金を払えばいいだけです。

これはルールではなく、単に人と人との関係です。隣の人が嫌がっているのにたばこを吸えば、それはただの嫌な奴なだけで、ルール違反ではありません。嫌煙者にとっては、路上喫煙者は嫌な奴かもしれませんが、わざわざルールにするほどのことではありません。

それに、周囲に人がいなければ、たばこを吸っても誰に迷惑をかけるわけでもないでしょう。たまに、「副流煙のことを考えてください」と言う人がいますが、数mも離れていれば、副流煙の影響など皆無です。

副流煙は、屋外で喫煙者から1m以上離れていれば、まず害はありません。エントロピーの法則から考えれば明白な事実です。

また、主流煙より副流煙のほうが身体に悪い、などと思っている人がいますが、大いなる誤解です。副流煙は、確かに人体に悪影響を及ぼすかもしれませんが、主流煙よりも悪いというのはあり得ない話です。


このような嘘を真に受けてしまうのは、マスメディアによる影響が大きいと言えるでしょう。

冷静に考えればわかることなのに、いつの間にか、世間で一人歩きしてしまった偽情報の上澄みだけをすくい取ってしまう。無知故に、束縛されてしまった「洗脳」の悪例です。

今は、ちょっとした嘘でもすぐにインターネットで世界中に流布されます。インターネットの情報ほど不確かなものはありません。たばこの悪影響も、WHOのサイトで公開されている情報であれば別ですが、どこの馬の骨ともわからない人の情報など信ずるに値しません。





偽りの「エコ」



巷を賑わす嘘の情報というのは、いつの時代にも数多く散見されます。近年、最も世間が踊らされているマユツバ情報と言えば、やはり「エコ」でしょうか。

例えば、新車でハイブリッドカーなど環境対応車を購入すれば自動車重量税と自動車取得税が無料になる「エコカー減税」や、ハイブリッドカーに乗り換えると国から最大25万円の補助が受けられる「エコカー補助金」が話題になりました。明らかに景気対策として行われているのであり、経済の論理であることは一目瞭然でしょう。

皆さんは、地球温暖化が実は私達人間の産業活動とは関係していないことをご存じですか。

2009年6月に発表されたNASAの公式見解によると、地球温暖化あるいは寒冷化は、太陽の活動などの影響のみで、人間が排出する二酸化炭素(CO2)は関係していません。

ということは、鳩山由紀夫前首相が世界に大見得を切って宣言したCO2削減25%や京都議定書の内容などは、環境問題に対して何の効果もないのです。ヨーロッパを中心に賑わっているCO2排出の取り引きも地球温暖化とは関係ありません。CO2はいくら排出しても構いません。ただのデリバティブビジネスであり、お金持ちの日本がカモとして利用されてしまっただけです。

地球温暖化を取り上げる際に、よく引き合いに出されるのが、南極の氷が溶けて海面が上昇するという話題です。テレビなどで、氷が海に崩れ落ちている映像を目にすることがありますが、あれによって地球の水位が上昇することはないのです。

実は、南極の氷には2つの種類があります。1つは、棚氷といって、海に張り出して浮いている氷です。私達が映像で目にする崩れ落ちる氷は、すべてこの棚氷です。そして、もう1つは、大陸水。大陸の奥地にある氷です。棚氷は海に浮いている氷ですから、どれだけ溶けようが水位は上がりません。アルキメデスの原理を考えれば自明です。一方の大陸氷ですが、南極奥地の年間平均気温はマイナス25~40度なので、仮に気温が1度上がったところで、氷が溶けるはずがありません。

テレビで氷が崩れ落ちる映像を見た人々は、やがてくる地球の機器に戦慄して「エコ」を叫び始めたわけですが、実際には「嘘」なのです。そして、その「嘘」を意図的に利用した人々によって洗脳されてしまったのです。

「嘘」を利用した人々とは、この「嘘」で既得権益を享受している人々です。「環境問題」を叫んでノーベル平和賞を受賞したアル・ゴア元副大統領をはじめとした政治家や、原子力利権やCO2デリバティブ利権に絡む人々。彼らの仕掛けが、偽りの「エコ」を生み出したのです。





電気自動車の「嘘」



現在、世間では多くの人が「エコ」に束縛されています。節電やレジ袋の消滅、植林・・。「エコ」という言葉はもはや水戸黄門の印籠のように揚げればひれ伏さざるを得ないまでに至っています。

挙句の果てには、車もガソリン自動車より電気自動車のほうが環境にいいなどと言い出しています。誤解もいいところでしょう。実際には、電気自動車よりもガソリン自動車のほうが地球に優しいのです。

考えてもみてください。電気自動車が消費する電気の量を考えれば、ガソリンを燃やすほうが熱消費率としては効率がいいに決まっています。

当たり前ですが、電気は発電しなければなりません。日本の発電所の約40%は原子力で、残り60%のほとんどが火力です。ということは、電気自動車を動かすためには、火力発電をフル稼働させることを意味しています。結果、火を燃やすために大量の石油が必要になります。これもまた当たり前ですが、ガソリンを直接コンピュータ制御して燃やす現在の自動車エンジンのほうが、一度発電してからモーターを回すよりもエネルギー効率が高いというのは、様々なデータから明らかです。

さらに電気自動車は、エンジンがアルミやチタン、レアメタルなどで作られています。これらの素材を精錬するためには、大量の電気が必要になります。しかも、アルミは一度エンジンとして使ってしまうと鉄などが交ってしまうため、再利用ができません。ですから、車を作るたびに新しい素材が必要になってくるのです。

そう考えれば、電気自動車を普及させるよりも、ガソリン自動車を厳しい規制でクリーンに走らせたほうがはるかに地球にやさしいとは思いませんか。

では、なぜこれほどまでに電磁自動車が推進されているのでしょうか。
理由は簡単。自動車産業の利権確保のためです。
自動車産業は、昨今の自動車販売台数売り上げの落ち込みを阻止すべく、新たなビジネスを創出する必要がありました。そして、その新たなビジネスが電気自動車なのです。

日本の自動車メーカーがこぞって発表しているハイブリッドカーは、アルミなどを多用するため、これまで同様に環境に優しくありません。さらに、低燃費をうたい文句に、消費者には割安感を持たせようとしていますが、それも「嘘」です。計算してみればわかります。

仮に、250万円のハイブリッドカーを購入するとしましょう。ハイブリッドカーは、通常のガソリン自動車よりも車体価格は割高です。その差額は、約100万円あります。

このハイブリッドカーを長距離運転ではなく、ごく一般の家庭が使うとして、実際に車が走る期間(つまり、廃車にするまで)は、大体3~5年くらいでしょうか。たったそれだけの間で、通常のガソリン自動車の車体差額分を回収するのは無理です。

家庭用で走らせるレベルであれば、年間せいぜい1万kmでしょう。ハイブリッドカーの燃費が1リットル当たり30km、ガソリン自動車の燃費が1リットル当たり12kmだとすれば、その差は18km。1万kmを18で割れば、約555リットルです。ガソリン価格がリッター130円だとすれば、年間でおよそ7万円しか安くなりません。ということは、3年で乗り換えるなら、80万円の損、5年なら65万円の損になります。もし、頑張って10年間走らせても30万円の赤字です。実際にはもっと燃費のいいガソリン自動車はたくさんあるので、赤字幅はさらに大きいでしょう。

ですから、経済的に見ても、ハイブリッドカーを買うのは馬鹿げています。環境的にも経済的にもよくないハイブリッドカーを選ぶことに、いったいどんな意味があるのでしょうか。

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感覚的に生きる・この瞬間を感じる。

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入る---「わぉ!」のワーク



●生きることに向き合うには物語が必要です。目覚めるために非合理的になって科学を手放す必要がないことも理解しました。
今、私たちは物事について考えることができることがどれだけすばらしいことか、しっかりと理解しています。精神の重要性を理解したところで、精神を超え、神秘体験の深みへと飛び込んでゆきます。
今この瞬間の感覚的体験に焦点を当てるワークを紹介します。心を静め、物語から飛び出して、「わぉ!」のワンダーに満たされましょう。




深い神秘に意識を向けると、深く目覚めることができます。しかし、精神が私たちを物語に引き戻す限り、神秘に集中し続けるのは容易ではありません。この「わぉ!」のワークでは、この瞬間の神秘に深く入る簡単な方法を紹介します。精神がリラックスし、静寂が広がってゆくはずです。ここでひとつ、禅のメッセージをお伝えしましょう。



■禅僧が弟子と歩いていると、その弟子がこう言いました。「どうしたら悟りを開けるのですか?」

■禅僧はしばらく静かになり、そして答えました。「さらさらと音を立てる小川のせせらぎは聞こえるかね?そこに入りなさい」


この弟子は崇高でスピリチュアルなメッセージを求めていたのでしょうが、禅僧は交わされる会話の背後で小さな音を立てていた小川に注意を向けると悟ることができると考えたのです。今、経験していること、つまりこの瞬間の感覚的体験に入ることを通じて意識を深くするように伝えたのです。

感覚的体験に入ると、目覚めは力強く引き起こされます。感覚的体験の直接性に入る時、それは深い目覚めへの入り口となります。陳腐な毎日が神秘的ですばらしいものへと変貌します。五感は甦り、肉体は深く安らぎ、存在を強く感じるようになります。

ロンドン大学の脳神経学者セミール・ゼキ教授は最近、美しいものを見た時と恋に落ちる時に脳の同じ箇所が活性化されることを発見しました。今ここにある直接的な感覚的体験に深く入り込むとあらゆる感覚が美しく、瞬く間にこの瞬間と恋に落ちますから、この研究結果にも納得です。




「入る」ワーク



「入る」ワークはこれまでのワークに続くもので、このワークにより「わぉ!」に入ることは容易かつ効果的になります。本当に聞いて、見て、感じることで、私たちの五感のすばらしさに深く感謝しましょう。私の経験では、この瞬間の感覚に入ると、そこは大きな喜びに満ちているため、物語を手放して神秘に飛び込むことがより簡単になります。精神は静まり、神秘体験が自ずと立ち上るようになるのです。

今ここでしている経験を深く意識するだけで「入る」ことができます。味わいの喜びに入る、音楽の魔法に入る、他の誰かに触れる喜びに入る。いつでもどこでもこのワークを通じて神秘に飛び込むことができます。




感覚的呼吸



呼吸の感覚に入ることは特に大きな力となります。私は定期的に感覚的呼吸を練習してきたため、自分の呼吸に深く入ることができるようになりました。存在することのすばらしさを忘れてしまった時、呼吸が私を生きることに引き戻してくれます。

スピリチュアルな教えは呼吸とともに瞑想の練習をすることの大切さを説きます。練習と言われると難しく感じられるかもしれませんが、感覚的呼吸はすばらしいものです。20代の頃、私は1年のほとんどを瞑想して過ごしました。そしてこの頃、呼吸に入ってゆくことが本当に心地よいものであると知ったのです。

瞑想の先生は呼吸することの感覚的喜びを見逃すことが多いため、呼吸に集中することは喜びを味わう経験ではなく難しい挑戦であるように聞こえがちです。けれど、ただ呼吸することの喜びに浸されることは実に美しい経験です。




感覚的に生きる



「入る」ワークは簡単かつ効果的。これまでの「わぉ!」のワーク同様、感覚的瞬間に入ることが私にとってどんなものかをまずあなたと共有しますので、私と一緒にワークをしてから次はあなたひとりで試してみてください。



ワンダーする


静かに座り、リラックスします。
ワンダーすることで自分を目覚めさせます。
私を取り巻く世界のすばらしさと美しさに驚いています。
ワンダーすることで、深い未知の感覚に入ってゆきます。
物語を飛び出し、この瞬間の神秘へ入ります。
今、私は直接的な感覚的体験に焦点を当てています。



感覚的に聞く


庭で鳥が鳴いているのが聞こえます。私はその音に入ってゆきます。
私は本当に聞いています。
歌声の声色とリズムが聞こえてきます。
深く聞くに従い、私の意識状態は変化してゆきます。
まるで初めて聞いているかのように、聞くことはとても美しく感じられます。
この瞬間の経験は完璧に神秘的で、ワンダーに満ちています。
注意力は集中しながらもやわらかく、まるで音を撫でているかのようです。
聞こえてくる音と音の輪郭が溶け出し、気づきに立ち上るひとつの美しい音の流れになります。
音の小川とひとつになったかのように感じます。
世界のすべてが震える音とともに鳴っています。そして、私もまた音です。




感覚的に見る


窓の外を見ると、庭の木にきれいなピンクの色が咲いています。
デニス・ポッターが死の直前、庭にある花を初めて見たかのように感じていたあの時のようです。
ピンク色の花に入ってゆきます。
本当に見ています。
私は静まりかえり、強く存在しています。
花々の繊細な質感に入ってゆきます。
花弁の生き生きとしたピンク色に入ってゆきます。
こんなにきれいなピンク色をしたものは見たことがないと感じます。
こんなに美しいものを二度と見ることはないと感じます。
物事の本物の姿、魔法のような、奇跡的な、神秘的な姿を見ていると感じます。
花の色を近く、親密に、まるでそれとひとつであるように感じます。
私は花に恋しています。



感覚的に呼吸する


体を感じながら、この椅子に座っています。肌が感じる空気を意識しています。
息が上り、そして降りてゆくのを意識しています。
呼吸に入ってゆきます。
体に入り、体から出てゆく空気の感覚的な流れを意識しています。
生きに浸り、ただ呼吸することはどんどん大きな喜びになります。
空気が濃く感じられ、体はエネルギーとともに震えています。
ここにあって呼吸していることは、想像できる中でもっとも充実した経験です。
呼吸に溶けてゆきます。
宇宙が私を呼吸しているかのように感じます。
私は気づきに立ち上る呼吸の感覚とひとつです。
体がやわらかくなり、ただ存在することを心地よく感じます。
神秘に浸されています。
今この瞬間のそのままに、恋をしています。
存在することに恋をしています。



ここでワークをやめますが、深くつながっている感覚、味わい深い体感はいまだ圧倒的です。靴を履いていないので、足がカーペットを踏む感覚のすばらしさが感じられます。コーヒーを飲めば、その味もまた格別です。生きていることは最高だと感じています。



この瞬間を感じる



では、あなたの感覚的体験に入ってみましょう。神秘体験リトリートでこのワークをするとき、私は美しい音楽を掛けます。音楽は魔法。意識をこれほど早く変容させてくれるものは他にありません。私自身もミュージシャンですが、音楽がどうやってそれをやってのけるのかわかりません。音楽は神秘です。

このワークではミニマル音楽を手掛けるアルヴォ・ペルトの優しく、アンビエントで深い『アリーナのために』をよく掛けます。大袈裟な曲である必要はありません。普段の無感覚状態から離れ、感覚に満ちた時間へと自分を誘うことができればよいのです。必ず音楽を掛ける必要はありませんが、試してみるとよいでしょう。

感覚的体感に入る機会が増えると神秘に深く入ることができるようになるので、このワークを定期的に続けてみてください。思考が邪魔するのであれば、感覚的体験に集中することがどれだけ喜びに満ちているかに注意を向けてください。そうすると精神は次第に穏やかになるはずです。




ワンダーする


静かに、心地よくします。リラックスして、アンテナを張ります。
あなたを取り巻く世界にワンダーし、深い未知へと入ってゆきます。
物語を抜け出し、この瞬間の神秘に入ります。
今ここにある、感覚的体験にあなたの注意を向けます。



感覚的に聞く


聞くことに意識を向け、そこに入ってゆきます。
音の流れ、大きな音、小さな音を意識的に聞きます。さまざまな音の音色に意識を向けます。
何かを聞くこととは何でしょう?
聞くことがいかにすばらしいか、たっぷり味わいます。
これまで耳が聞こえず、まるで初めて何かを聞いているかのように聞きます。
まるで、これが最後に聞く音かのように聞きます。
親密に聞き、気づきに立ち上る音とひとつであるかのように感じます。
聞くことと恋に落ちます。



感覚的に見る


見ることに意識を向け、そこに入ります。
あなたの前にあるものを、本当に見ます。
形、色、質を意識します。
何かを見ることとは何でしょう?見ることと聞くこととはどう違うのでしょう?
何かを見ることがどれだけすばらしいか、たっぷり味わいます。
これまでの人生で見ることができず、まるで初めて何かを見ているかのように見ます。
まるで何かを見るのがこれで最後であるかのように見ます。
親密に見て、見る感覚とひとつであると感じます。
見ることと恋に落ちます。




感覚的に呼吸する


今この瞬間の感覚を意識し、そこに入ります。
体から力を抜き、緩めます。
肌に触れている空気を感じます。
何かを感じることとは何でしょう?感じるという性質の感覚を経験することはどのようなものでしょうか?
あなたの体に入って来て、そして出てゆく呼吸に焦点を当てます。
呼吸に溶け出し、呼吸をすることがどれだけすばらしい味わいかを感じます。
呼吸することを親密に感じ、気づきに立ち上る呼吸の感覚とひとつであると感じます。
呼吸することに恋をしています。
存在することに恋をしています。




この瞬間の神秘



私は今この瞬間に存在し、物語は私に何が起こっているのかを教えてくれます。今、あなたのために書いているという物語が展開しています。ちょうど朝食をつくり終え、子どもたちを学校へ送り出し、あなたを深い目覚めに導くためにややこしい言葉をわかりやすくまとめあげる仕事が待っています。

私の物語を愛していますが、今日は少し不安を感じています。執筆がスケジュール通り進んでいないのです。締め切りまでに草稿を提出しないとどんな問題が起こるのかは明らか。けれど、時間が必要なのです。

これまでに多くの時間を割いて来たため、先々のことも少し心配です。この苦境を生み出した過去の出来事を後悔してもいます。不安と後悔により、今この瞬間の経験は損なわれています。

こんな気分は楽しくはないので、今に対する視点を変えてみることにします。物語を傍らに置いて、体に入っては出てゆく味わい深い呼吸の感覚に焦点を当てます。心を落ち着けると、物語における不安の正体を見抜くことができるようになります。何が起こっているのかを一体だれが知っていると言うのでしょう?私が計画した通りに人生が展開することなどないのです。ありのままの流れに抗うのは得策ではありません。起こっていることと調和していることの方がずっと大切なのです。

そして、波立つ表層の下、深い神秘へと入ってゆきます。そこで私は膨大な静寂、始まりの安らぎ、すべてが良いという確信に気づいています。力強く、今、ここに存在しています。体がリラックスし、気分が楽になります。今ここに存在していることの奇跡に、そしてただ存在することがどれだけすばらしいことかに気づいています。私を取り巻く日々の暮らしのワンダーに感謝しています。心配が引き起こした疲労は過ぎ去り、リフレッシュします。

この瞬間の神秘に留まることを阻む何かは消えはしません。「時間はどんどん過ぎて行くし、やることはいっぱいあるよ」と思考は私を急かします。けれど、私はそうやって思い出させてくれる思考に感謝し、憤りません。「神秘と一緒にいる方がいいのだから、馬鹿馬鹿しい締め切りなんて構うもんか」と言ってみることもできますが、それも良い気分ではありません。他人と交わした約束を果たす責任ある人物でありたいからです。責任を果たすことは、つまり愛することです。

そして私は物語における課題に戻ります。課題は変わらずそこにありますが、私の意識の状態は変化しています。人生の重みに圧倒されることなく、今この瞬間において生き生きとしています。ティムの冒険は、私を今のこの状態へと導きました。これが在るべき姿です。生きることは言葉で言い表すことのできない奇跡であり、人生の物語において私たちはさまざまな挑戦に立ち向かうのです。どんどんチャレンジを持ってきて!準備は整っているから!





”今”はどれだけ長いのか?



意識の状態を変えるとても効果的でシンプルな方法は「入る」ことです。感覚的体験の直接性へと注意を連れ去るために「今、ここ」を強く意識します。すると、物語から抜け出し、神秘へ入ることができます。神秘に浸される時、物語に対する見方は変化します。

このワークの効果を知るには、”今”のパラドキシティを理解する必要があります。これは「わぉ!」に目覚めながら、日々の暮らしのジレンマに対峙するための大きなヒントです。

「今はどれだけ長いのだろう?」という質問は、ふたつの異なる答えを導き出します。今はとても短いようでもあります。考えた瞬間、その瞬間は過ぎ去っていて、今を捕まえることはできません。しかしその一方で、いつも今です。過去は記憶として未来は可能性としてそこにありますが、永遠の今は今です。

今は短すぎて捕まえられないのでしょうか?それとも、長すぎて常に今なのでしょうか?あなた自身の経験を見つめると、そのどちらも正しいとわかるはずです。時間とは永続する今に現れる、変わり続ける経験の流れでしかありません。今は時間に存在しながらも、”時間を超えた性質”を持っています。

他のさまざまなパラドキシティ同様、ここにおいてもどちらか一方ではなく、両方の側面を意識する必要があります。問題なのは私たちがどちらかひとつの側面からしか、今を観ようとしないことです。どこから来てどこへ行くのかに関心を持つ時、私たちは時間の中の今だけを意識しています。この時、私たちは今の”時間を超えた性質”には興味がなく、それについて考えもしません。

物語は時系列に存在するため、今の時間を超えた性質に意識的になると私たちは物語から抜け出して神秘へと入ることができ、すると意識の状態は大きく変化します。物語とは思考によって捉えられた”生きること”です。そして、時系列に沿って並べられた言葉たちがつまりは思考です。例を挙げましょう。この・・・文章を・・・ゆっくり・・・読むと・・・私が・・・何を言いたいのかは・・・・最後まで・・・わかりません。そう、思考は時間に縛られているのです。

一方で、時間を超えた今に注意を向ける時、生きることは言葉では理解できません。私たちは今この瞬間に生きていることの輝かしい直接性を経験します。それは過去や未来に囚われないすばらしい解放感です。

物語は私たちがどこからやって来てどこへ行くのか、文脈の中で理解されるべく語られます。変わり続ける日々の出来事と対峙するには、この視点が必要です。けれど、深く目覚めると、私たちは”今、ここ”を深く理解し、それに感謝するようになります。

時間の物語に囚われると過去を後悔し、未来を心配するようになります。不安に駆られ、ストレスを抱え続けるようになります。けれど、時間を超えた今に入る時、そこに物語はありません。この瞬間の神秘において、波打つ水面下の深い安らぎを見つけるのです。そして生きることをありのままにすることを知ります。

私の経験では、今この瞬間に入るとワンダーに驚く子どものようなリラックスした状態にいる自分に気づきます。広大な広がり、裸のままの存在、深い未知。禅僧の鈴木俊隆はこれを「初心」と呼びました。

初心に返ると、私はここにあることを過去の出来事に汚されていない新鮮な視点で見つめるようになります。その時私たちは時系列の旅にあってたくさんの情報を携えた大人であるだけでなく、過去のパターンに則って物語の意味をつくり上げずに永遠の今に遊ぶ無垢な子どもでもあるのです。




情熱と安らぎ



この瞬間の神秘に意識的になることがもたらす力に気づいた20代のある日のことを、今でも鮮明に覚えています。その頃私は何か月も瞑想して過ごしており、それはすばらしい時間だったのですが、当時恋愛をしていた女性との諍いで心の安らぎはすっかり乱れていました。その頃住んでいた小さなコテージの開かれた窓の側に座り、小川のせせらぎを聞きながら、けれど心には不安と後悔が渦巻いていました。

私は前述の禅僧の話を思い出し、せせらぎの音へと入って石の上を踊る水が奏でるメロディーに身を委ねました。今この瞬間に強く意識を持った時、意識の状態が変わってゆくのを感じました。この瞬間に物語はなく、後悔も不安も苦しみもありません。私はその深く、強烈な静寂に心を浸したのです。

心が痛む時には、後悔に満ちた過去と未来への恐れの物語へと戻ってゆくのを感じました。けれど、時間を超えた今に自分を放つと、深い安らぎが再び姿を現しました。物語に戻ると、そこには以前の苦しみがありました。そしてありのままにすべてを委ねると、深い安らぎが現れるのです。

こうした体験を重ねるにつれ、私は自分の物語を嫌い、この瞬間の神秘に自分を解放したいと思うようになりました。けれど、物語を手放すことはできなかったのです。私は物語に立ち返り続け、心の苦しみを体験し続けました。

正確に表現するなら、私の一部が物語に戻りたいと思っていたのです。自分の感情を無視するのは、自分を誤魔化すことだと感じていたからです。物語を追いやろうとする時の私は、自分のもとを去ろうとする女性を愛しているという現実を追いやろうとしていました。私にはそれをする準備ができていなかったのです。苦しみを拒絶することすらできなかったのです。

今をひとつの見方でしか見てはいけないと考える時、イライラに消耗されるか、深い安らぎに驚くか、このふたつの間を右往左往することしかできませんでした。けれどやがて、私はもうひとつの可能性に気づいたのです。

私は時間を取り、物語での出来事について感じていることをたっぷりと受け入れました。別れの苦しみを讃えました。後悔と恐れを認めました。そして、その物語をしばし傍らに置くことを選びました。意識的に時間の物語から身を引き、この瞬間の時間を超えた安らぎにおいて自分をリフレッシュすることを決めたのです。

この瞬間の神秘に深く入るとそこにあるのはせせらぎの音楽だけで、私の心掛かりを優しく撫でながら取り去ってくれました。私のハートは開かれ、存在することの深い愛を感じ、表面上の出来事がどうであれ、すべては良いと深く知っていることに気づきました。意識の状態が変容するまで時間を超えた瞬間に留まりました。そして、直観的に「今だ!」と思った時、注意を物語に戻したのです。その時、私は自分の苦難を新たな視点で見つめ、何をすべきかを知っていました。




時間に入り、時間から抜け出る



私が伝えたいことは論理を超えています。物語から目覚めることは、この瞬間の神秘に気づくことです。けれど、時間における物語を意識することもまた大切なので、「どちらか/もしくは」のアプローチで対応しないことが肝心なのです。

「時間について考えずに、今を生きろ」というのがスピリチュアリティにおけるトレンドであるようで、「今この瞬間になる」を呪文のように唱えている人たちにもたくさん出会いました。けれど、ただこの瞬間になることなどできません。時間について考えるのをやめてしまうと、自分が誰で、昨日何が起こったのかを忘れ、記憶喪失になってしまいます。記憶喪失は目覚めではありません。それはできることなら避けたい病いです。




子どもと大人



子どもに伝えたいかどうかを考えることで、教えの真価を試すやり方はすでに伝えました。では、時間を忘れてこの瞬間に生きるよう、子どもたちに伝えたいかどうかを自分自身に尋ねてみましょう。答えはもちろんノーです。子どもにそんなことは言いません。

親として私は、時間にはより意識的になるよう子どもに伝えています。夜更かしが楽しかったとしても、明日の学校のことをしっかり考えてほしい。将来のためにしっかりと宿題をしてほしい。年老いても健康でいるために歯はしっかり磨いてほしい。

過去にしたことに対して責任を負い、未来に何が待っているかについて考えてほしいのです。こうすることで子どもたちは目覚めから遠ざかっているのでしょうか?子どもたちにはこの瞬間だけを楽しませるべきでしょうか?いや、違うはずです。

子どもたちは自然とその瞬間を楽しんでおり、それは良いことでもあり、また、その逆でもあります。今ここにいることをシンプルに楽しめるのはすばらしいことです。けれどそれだけでは、時間の中に生きることの現実的要求に応えることはできません。だからこそ、子どもは面倒を見てくれる大人を必要とするのです。

成長することは時間における旅であり、私たちはその旅をしてここまで来ました。時間の物語の中にいるのだから、過去や未来について考えるのをやめるべきだというのはおかしな話です。それでは意味を成しません。成長することのすべての過程が、後悔すべき過ちだったというのでしょうか?

生きることにおいて私たちは、今に生きることから、時間における物語を生きることへと成長を遂げます。時間における物語を生きるために、私たちは子ども時代に経験していた、”この瞬間に在る感覚”を代償として支払います。このため、大人の世界はとてもシリアスで不安でいっぱいなのです。けれど、子どもの頃に経験したこの瞬間に在ることの喜びは表層下にいつもあって、思い出されるのを待っています。

スピリチュアルな目覚めとは、この子どもの頃に持っていた本質と再びつながることにあります。これは子どものようになるという意味ではありません。そんな人に出会ったことがあるかもしれませんが、とても厄介な人たちです。子どものように振る舞う大人たちは深く目覚めていはいません。彼らは成熟しておらず、わがままで、影響力がなく、信頼に値しません。まさに子どもなのです!大人たちは子どもより多くを期待されますから、子どもであれば耐えられることも大人となると耐え難いもの。大人は自分を信じ、他人に対して責任を持つことが求められます。そうあるべきなのです。

一方で、成長することの不安がもたらすさまざまな層を内に重ね、子どもらしさの本質を地中深くに埋めてしまった大人に出会うと、この瞬間を味わうという生きることの喜びを忘れ、気難しく、緊張しながら生きている人たちであることが手に取るようにわかります。

このジレンマに論理を超えて向き合う時、私たちは時間において責任を持つ大人であると同時に、永遠にここにある今に遊ぶ子どもでいることができます。時間の流れと、時間を超えた今の両方を意識することができるのだから、どちらかだけを選ぶ必要はありません。そうする時、生きることはワンダーに満ち溢れるのです。


神秘体験

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神秘体験


これが、神秘体験です。神秘体験は、今、ここで、起こっています。とてつもなく神秘的な何かが、今、起こっています。私たちは生きていることに気づいていますが、それが何なのか知りません。何てすばらしいのでしょう。広大な宇宙に暮らしながらも、宇宙が一体何なのか知りません。何てすてきなのでしょう。今この瞬間を経験しながらも、この瞬間が何なのかまったくわからずにいるのです。何て面白いのでしょう。

”今この瞬間”を見つめてみると、形と色でできた”世界”と呼ばれるタペストリーを経験しているとわかります。けれど、その”世界”とは一体何か?心に立ち上る考えや感情をこうして経験しているけれど、それらはどこからやって来るのか?自分の存在を確かに感じていても、なぜ存在しているのかは依然として謎のままです。何ということでしょう。

人生は完璧に神秘的で、その神秘に思わず息を呑むほどです。けれど、多くの人はそれを当たり前のこととして日々を過ごします。本当は分かっていないのに、何が起こっているのか把握しているフリをします。人間でいることは途方もなく大きな謎で誰もが戸惑っているにも拘わらず、理解しているフリをするのです。

生きることの神秘のその深遠に触れる時、自ずと立ち上る神秘体験を冒険していきます。神秘に意識を向けると神秘体験が立ち上り、すると意識の状態はすぐさま変化を始めます。

意識の状態に変化が起こると、こうして自分が存在していること、そしてそれがどれだけすばらしいことかをはっきりと見て取ることができるのです。いつもの世界を好奇心とともに見つめるようになります精神が把握する現実はちっぽけなものだと認めるようになります。ハートは生きる喜びにワクワクするはずです。けれど、これは神秘体験の表面的な現れに過ぎません。神秘に深く潜れば潜るほど、神秘体験もまた、さらなる深さを私たちに見せてくれます。

神秘体験の深みへと旅をし、”スピリチュアルな目覚めと呼ばれる何かへと手を伸ばします。スピリチュアルに目覚めている時、私たちは筆舌しがたいもうひとつの意識の状態に入ります。このすばらしい感覚を言葉にすることはできませんが、確かに味わうことができるのです。

先日、私は夢を見ました。夢の中で私はステージに立ち、多くの観客に向けて神秘体験について話を始めようとしていました。そして、話そうとしたまさにその時、この体験がどれだけすばらしいものかを描写する言葉が見つからないことに気づいたのです。私は一瞬固まりましたが、すぐに何をすべきか気づきました。そう、飛べるのだから!私は「神秘体験とはこんな感覚です」と言い、宙にふわりと上がって空の空間を夢中になって舞い、上へ下へと自由自在に飛び回りました。

神秘に目覚める感覚を伝えるために今すぐ飛び回れたらよいのですが、あれは夢の中のことです。起きている間にどうしたら飛べるのか、私はまだ知りません。それにあなたからは私が見えません。だから、言葉を尽くして神秘体験を伝えましょう。トライしてみたいのです。

神秘体験に深く入る時、私は愛の海に溶けてゆくように感じます。宇宙と一体になる驚きと閃きの感覚がそこにあります。感覚的肉体が目覚め、意味の模索は言葉なき理解に溶け出し、それはあまりに深く、深いがゆえに考えとしては経験されず、そこには「すべてよし」という静かな確信があり、我が家に辿り着いたような安心感があります。



12歳の頃に目覚めと出会って以来、私は神秘体験を見つめ続け、数十年にわたって目覚めを初めて体験する人々に寄り添ってきました。目覚めたとき、多くの人が発する言葉。それは「わぉ!」です。

ここ数年、人々を目覚めへと導く「神秘体験リトリート」を開催しており、参加者からたくさんの感動的な手紙が届きます。ここでよく登場する言葉もまた、たくさんの感嘆符が添えられた「わぉ!」です。

「わぉ!」はすばらしい言葉です。アメリカのスラングかと思いきや、16世紀のスコットランドに起源をもつ言葉なのだそうです。「わぉ!」は、不思議に思い驚く気持ち、つまりワンダーする気持ちを表す言葉。神秘体験はとてもとても大きな「わぉ!」ですから、目覚めが一体どんな感覚かを示すのにこれ以上相応しい言葉はないかもしれません。それは、今まで経験したどんな不思議よりもすばらしい驚きなのです。

「わぉ!」と驚くにはさまざまな方法があります。美しい音楽を聴いて芸術のすばらしさに「わぉ!」と驚く。科学を通じ宇宙の厳かさに触れ「わぉ!」と驚く。美味しい料理を食べて「わぉ!」と驚く。スポーツを通しての脅威的な身体能力を目の当たりにして「わぉ!」と驚く。何かを学ぶことで自分自身の能力に「わぉ!」と驚く。

ここで出会うのは、目覚めの「わぉ!」です。存在することそのものの神秘に出会う、深遠なる「わぉ!」。生きることのこの上ないすばらしさに気づく、うっとりとした「わぉ!」。とてもシンプルな生きることそのものの「わぉ!」。言葉を超越したところにある何かに触れる、えも言われぬ「わぉ!」



神秘体験は誰もが求めている「わぉ!」です。私たちは皆、生きる実感を欲していますが、目覚めている時、私たちはどこまでも生きていると感じます。誰もが自由を求めていますが、目覚めている時、私たちは完璧に自由であると知っています。誰もが愛を求めていますが、目覚めている時、私たちは無限の愛にたっぷりと浸されています。

世界各地に点在するスピリチュアルな教えの中核は、どれも「わぉ!」に目覚める方法を指し示していると言えます。ゆえに、私は何十年にもわたりこうした教えと向き合ってきました。スピリチュアリティは人生についての思索として捉えられることも多いでしょうが、それ以前に、そして何にも増して、それは意識を変革し、言葉を超越した何かへと導くものであるはずです。

●賢人たちが説いたあらゆる教えは、「あぁ、これだ!」という突然の驚嘆に添えられた注釈に過ぎない。

●私は賢人ではないし、ここに記されたすべてのアイデアは喜びに満ちた叫び声『わぉ!』の注釈に過ぎない。以上!




ワンダーする


目覚めの経験を言葉にすることは誰にとっても非常に難しいもの。しかし、相手がその経験についてよく知らない時、目覚めに限らずあらゆる経験の描写は困難であるはずです。夕焼けを見るという経験がどんなものか、目の見えない人に向けて描写するのは簡単ではありませんし、音楽を聴いて感動することを、耳の聞こえない人に対して説明することもまた難しいはずです。

「私は怒っています」と言う時、怒りを経験したことがあるから、それがどんなものかを理解することができます。コミュニケーションは共通の経験に拠り所を見出します。あなたが知っている経験と対比しながら、目覚めについて伝えたいと思います。

不思議に思い、驚く、つまりワンダーするというシンプルな体験から「わぉ!」に目覚める方法を皆さんと分かち合います。深くワンダーすればあなたは目覚めます。存在の息を呑むような神秘に気づくことで、神秘体験は自ずと立ち上るはずです。

私たちは不思議に思い、驚嘆することにより旅に出て、やがて神秘へとたどり着き、その神秘の中枢に横たわる「わぉ!」に出会います。グノーシスの『マティアの福音書』にはこのような言葉があります。


●あなたの目の前にある物事を不思議に思い、驚くこと、それは深い知恵に触れるための最初の一歩である。

●どこまでも不思議に思い、驚いたからこそ、鋭い気づきを得ることができたのだ。思案し、熟慮することをしなければ、あなたの人生のすべては埋もれてしまうだろう。


生きることの眩い神秘を前に、そこに好奇心がなければ意識もまた注がれます。ゆえに、不思議に思い驚くこと、つまり、ワンダーすることは目覚めにおいて必要不可欠です。生きることがワンダーをもたらさないのであれば、私たちは半分死んでいるも同然なのです。


アート・オブ・ワンダー


哲学界の英雄ソクラテスはこう述べています。

●ワンダーの感覚は哲学者にとっての試金石である。それは哲学の始まりにすぎない。


哲学はかつてこのように捉えられていましたが、今日においては味気のない概念の模索として解釈されることが多いのもまた事実です。私は何年も前、この現代的解釈にもとづいた哲学を大学で専攻していました。精神にとっては最高のトレーニングでしたが、いつの間にか言葉の迷路に迷ってしまったのです。私は「スピリチュアルな哲学」に興味を持っていました。それは言葉の森を抜け、経験の神秘へと私たちを導くものであるはずです。

スピリチュアルな哲学は思考によって神秘を曖昧にするのでなく、思考を用いることで神秘を明かそうとします。概念は概念に過ぎないことを認識し、概念が神秘を孕むことはできないと理解しています。究極の答えを提示するのではなく、生きることの経験をさらにワンダーに満ちたものにする新たな見方を授けるのです。

新プラトン主義の哲学者プロティノスは、哲学に対するアプローチについて次のように述べています。


●哲学者の仕事とは、我々をビジョンへと目覚めさせることだ。

私が深く共感する言葉のひとつです。私にとって哲学者とは、深くワンダーすることで言葉を超えた「わぉ!」へとたどり着く手助けをする者。その過程で哲学者の「ん?」は、ヨガ行者の「オーム」へと変容するのです。



ワンダフル・ライフ(ワンダーに満ちた人生)



ここまで、神秘体験に満たされることがどれだけすばらしいことかを述べてきました。さらなる冒険へと歩みを進めるあなたの好奇心を刺激したかったのです。ひとつ理解しておいてもらいたいのは、「わぉ!」は絶頂の体験でもなければ、ハメを外してハイになることでもないということ。スピリチュアルな目覚めは、私たちの思考、感情、行動に影響します。「わぉ!」に出会うことで日々の暮らしに新しい生き方が立ち上がります。ソクラテスの有名な言葉に次のようなものがあります。


●熟慮されていない人生は、生きるに値しない。


一方、現代の哲学者アルフォンソ・リンギスはこのように述べています。

●生きられていない人生は、熟慮するに値しない。


このどちらもが正解です。熟慮しなければ、私たちは半分空っぽの意識で朦朧としたまま毎日をやり過ごすことになります。一方で、人生を熟慮することがそれを思う存分生きることにつながるからこそ、熟慮することには大きな意味があるのです。

あなたを「わぉ!」へ目覚めさせて、人生経験を変容させる、深く哲学的な”生きることの物語”を分かち合いたいと思います。ひとつ覚えておいてほしいのは、内容は物語に過ぎないということ。説明のみで存在の神秘の全てを知ることはありません。人生は常に私たちが考える以上のものです。哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドはこう述べています。



●哲学はワンダーすることに始まる。そして最後、哲学的思考がその最善を尽くした説き、そこにはワンダーだけが残される。





神秘体験をあなたと分かち合うためのものです。やり取りが一方的になるのは致し方ないことですが、ここで抗議をしたいのではありません。コミュニケーションがハートとハートで向き合う対話となることを願っています。最も美しい方法であなたとつながりたいのは、お互いがお互いにとって本物である時、そこに魔法が起こるから。

●友よ、これは本ではない、
人に触れるこれに触れるのは誰だ?
(それは夜なのか?私たちはひとりで、ここに一緒にいるのか?)
あなたが抱きしめる者、そしてあなたを抱きしめる者、それは私なのだ。


時空の網の中、私たちは異なる場所にいます。でも、ここで今、わたしたちはともにあるのです。では自己紹介を始めましょう。まず大切なことから、スピリチュアルな目覚めの教えてであるからといって、私は自分が悟りを開いたマスターであるとは考えていません。私は神秘体験に情熱を注ぐひとりの人間に過ぎません。

不思議に思い、驚嘆することに人生の多くを捧げてきたため、それはいつの間にか私が得意とするものになりました。深くワンダーすることで「わぉ!」に目覚め、神秘体験に出会うことができるので、私は神秘体験をよく知るようになり、人々をこの体験へと導くこともできるようになったのです。意識を向けるそのことが、やがて得意なものになります。私の場合はスピリチュアルな目覚めに意識を向けてきたのです。

私は完璧な悟りの状態に達してはいませんし、悟ることを期待していなければ、望んでもいません。また、悟りを開いた特別な人々に対する一般的な見解は完全に誤っていると感じているため、悟りに至っていないことを失敗とも考えていません。

スピリチュアルな哲学について書いてきましたが、いまだに赤子がヨチヨチ歩きをしているように感じています。無限の神秘を前に他にどのように感じろというのでしょう。誰も知らない宇宙の神秘を知っているわけではありません。私は単に、不思議に思い驚嘆すること、つまりワンダーすることが大好きなのです。こうかもしれない、物事にこういうふうに触れたらよいかもしれないとワンダーすることが、私を「わぉ!」へと目覚めさせ続けます。

だからといって人生が常に完璧で、いつも満足しているわけではありません。私の人生には山もあれば谷もあります。きっとあなたの人生もそうでしょう。こうした言葉を綴っているのは、実際に皆さんと同じようにさまざまなジレンマを経験しているからです。私たちは皆、生きることの神秘においてともにあります。その神秘において、先人たちから与えられた教えの中で価値があると感じたことを、感謝の気持ちとともにあなたと分かち合いたいと願っています。

私はあらゆる意味において特別な人間ではありません。あなたや他の誰かより特別なところはひとつもありません。50代で、家庭を持ち、父であり夫であることの喜びと責任のすべてを抱えて生きています。良いところもたくさんありますが、欠点も山ほどあります。実際に私と会うことがあるなら好感を持ってくれるかもしれませんが、一緒に暮らすことになったらいずれは嫌な面を見つけるはずです。けれど、それもまたよし、と思うようになったのです。私たちは皆、すばらしい魂であることも嫌なヤツであることもできるのだから。そうでしょう?



大きな問いと大きな答え



子どもの頃、私は大人たちが雑学で頭をいっぱいにしてばかりで、人生がどれだけ神秘に満ちているかを語ろうとしないことに頭をかしげていました。人生は大きな問いであり、きっとどこかにその問いに対する大きな答えがあるはずだと、私は直観的に感じていたのです。生きることが何なのかを知る時、自分が何をすべきかもわかるはずだと、静かに座り、想いを巡らせることの多い子どもでした。


私は愛らしい雑種犬スクラグを傍らに、忙しく動き回る小さな街を眺めながら、驚きと喜びの思索に耽っていました。ディズニー映画の一場面みたいだと思うかもしれませんが、人生には時としてそんな1ページがあるのです。

思索に耽っていたある時、魔法のような出来事が起こりました。驚きと喜びにすっかり吸い込まれ、意識が自ずと変容したのです。初めて味わった神秘体験。それはまさに「わぉ!」でした。

かなり昔のことですが、今でもあの圧倒的で、とてつもなっく美しく、うっとりとするような愛に満たされた経験をはっきりと思い出すことができます。まるで宇宙全体が無限の愛に震えているように、そしてその愛に溶け出し、宇宙とひとつになるように感じました。世界は不思議の国、つまりワンダーランドになったかのようでした。最高にすばらしい驚きに出会ったようでありながら、いつも密かに知っていたことを思い出したようにも感じられました。

自分に何が起こっているのかまったくわかりませんでしたが、生きることについての大きな問いに対する大きな答えに出会ったのだと、どこかで知っていました。答えは難しい理論ではなかったのです。それは、大きな問いが愛の海に溶けだす神秘体験でした。この発見が私の人生を大きく変えたのは言うまでもありません。

この瞬間と出会って以来、私は神秘体験を探究し続けています。意識を変革する方法、目覚めと日々の暮らしを統合する方法を模索し続けています。けれど、スピリチュアルな探求を経てもなお、かつてそう望み、また想像していた永遠の目覚めには達していません。一方で、もっとすばらしいことが起こりました。そう、私は生きることと恋をするようになったのです。




生きることとの恋



子どもの頃、期せずして経験した目覚めは、生きることとの恋の始まりでした。生きることとの恋は実際の恋愛と似ています。初恋は特別な経験です。こんな気持ちになってみたかったとずっと願っていた体験ですが、それはさまざまな喜びと葛藤を孕む恋という名の大冒険の始まりに過ぎません。

いずれ、すべてを変える何かに気づく瞬間が訪れます。深く愛していると知る時、もはや一時のロマンスに身を委ねているのではないとわかります。この魔法の瞬間は、愛を交わす恍惚の最中に起こることもあるでしょうし、皿洗いをしている時など、日常の何気ない瞬間に起こることもあるでしょう。相手との関係がうまくいっている時かもしれませんし、別れに直面した時かもしれません。いずれにせよ、その瞬間に出会った時、私たちの世界はこれまでとはまったく違ったものへと変容します。

誰かを深く愛しているとどのようにわかるのか、説明することはできません。ただそうだと知っているのです。そして深く愛している時、私たちは無条件にその恋愛に身を捧げています。愛することは一緒にいて楽しいことだけではないと知っています。それは相手が耐えられない時であっても、愛し合っていることを忘れないことでもあります。良い時も悪い時も相手のためにそこにいることが愛することです。

生きることとの恋もこれと似ています。幼い頃、神秘体験に溶かされたあの時、私は初恋をしました。ロマンスが始まり、美しい瞬間はやってきて、そして去り、時に私は何かを失ってひとり立ちすくむこともありました。そしてある時、すべてを変える何かに気づいたのです。私は完璧に、無条件に、生きることを深く愛するようになりました。良い時も、悪い時も、健やかなる時も、病める時も、喜びにおいても、悲しみにおいても、生きることとの恋に身を捧げていると知ったのです。

古来より人は人生を大いなる女神に例えてきました。時々私はこの女神と恋をしているのではないかと思うのです。女神との恋愛はたくさんの喜びをもたらしますが、それは大きな挑戦でもあり、さまざまな状態においてお互いを知ることで大いなる変容に触れる冒険でもあります。ふたりでありながらひとつになるダンスなのです。

時には私と女神はともにあって幸せで、すべては完璧です。時に私たちは喧嘩をし、離れ離れになります。愛を交わす時には、その瞬間の神秘以外何も関係なくなります。時間においてともに働き、実際的な物事に携わらなければいけないこともあります。女神のあまりの美しさに胸が高まらずにはいられないこともありますし、私の期待に応えてくれないと女神を罵ることもあります。女神は気まぐれにも拘わらず、彼女を完全に信頼する時もあれば、女神の愛を疑って愛されることを求める時もまたあります。けれど、あらゆる時を通じて私は女神の神秘のすばらしさに触れ続けます。そして女神を心から愛していることを決して忘れません。

「わぉ!」は情熱的なセックスや優しさに満ちた親密な関係と似ています。特別な瞬間を無理矢理引き起こすことはできません。お互いがそうした心理にある時、特別な瞬間は自ずと起こります。魔法の瞬間は恋愛関係を燃え上がらせるでしょうが、それはいつもそこにある静かな愛、静かにともにいることの愛に支えられています。

こうして”存在すること”がもたらす愛が、山あり谷ありの人生との恋愛において、私を支え続けています。だからこそ、例え起こっている出来事が好きになれなくても、生きることを愛することができるのです。良い時も悪い時も生きることに身を捧げ、嵐に耐え、雨の中で踊ることができるのです。

神秘体験を探ることで、私の人生は恋愛へと変容しました。そしてスピリチュアルな探究に対する見方も変わったのです。永遠に辿り着くことはできないだろう究極の悟りを望むことはなくなりました。その代り、生きることに見合った恋人になろうと決めたのです。


マジカル・ミステリー・ツアー



生きることと恋人になるための「わぉ!」に出会う新しい方法を紹介します。多くはシンプルなアイデアに始まるものの、次第に複雑になってしまうものです。けれど、目覚めの過程はこれを逆行します。冒険の始め、生きることをまったく違った視点から見つめて馴染みのない方法で捉えるため、スタートを切るのは簡単ではありません。けれど、この冒険はそもそもとてもシンプルな生きることの理解を目指しているので、冒険の後半はなだらかな道を進むことができるはずです。

ここから始まる冒険があなたにとって神秘と魔法に満ちたマジカル・ミステリー・ツアーとなるよう、前もって多くを述べることはしたくないのですが、私と一緒に冒険の旅に出ることを心配しないでください。安心している時、私たちは開かれ、目覚めた状態がいかに自然なものであるかは自ずと明らかになります。

安心を確信するとハートはすぐに開かれます。これは何年もの間、多くの人々と神秘体験を分かち合いながら知ったことです。リトリートでは参加者が安心して神秘に思い切り飛び込むことができるよう、ありとあらゆることをします。目覚めることが努力を必要としない純粋な喜びであるよう、リラックスしてありのままの自分でいて欲しいのです。

私たちはめぐり会うさまざまなアイデアをかき集めながら人生に向き合います。アイデアが今のあなたの生き方と調和するか否かが、この先の冒険の心地よさを決めるはずです。ですので、いくつかのことを事前に伝えておきましょう。

この冒険の旅は、生きることにワンダーすることからスタートしますが、人生がワンダフル、つまりすばらしさに満ちているとは感じられない瞬間が多々あることも重々承知しています。もし今、あなたが辛い時を過ごしているのであれば(誰であってもこうした経験を避けることはできません)、この先に書かれた内容があなたより幸せな日々を過ごす人間のまくしたてる人生讃歌ではないことをわかっておいてください。

私たちは生きることについて現実的である必要があります。目覚めの冒険をするのであれば、悲しみ、迷い、怒り、苦しみ、囚われ、孤独を孕んだ生きることの苦やら身にも足を踏み入れなければなりません。そこに足を踏み入れなければ自由になることはできないからです。

今回、目覚めに初めて触れるのであれば、「わぉ!」の深さに触れるにあたってスピリチュアルな経験をしたことがあるかどうかは関係ないことを伝えておきましょう。既成概念に縛られないのでむしろメリットであるかもしれません。

あなたがこれまでスピリチュアルな探求を続けてきたのなら、このアイデアが新鮮なワンダーをもたらして目覚めを手助けすることを願っています。また、よくあるスピリチュアルな教えとは異なるアイデアが含まれていることをあらかじめ知っておいてください。スピリチュアリティへの新しいアプローチを明確に提示するため、時として批判しなければいけない場面もあるのです。

目覚めについて頭では理解したものの、まだ経験していないという人もいるかもしれません。知的な理解は大きな助けになりますが、「わぉ!」を経験するためには思考を超えなければいけません。

実際に「わぉ!」を経験する手助けをするために、全編を通じて神秘体験に深く入るための実際に行うワークを紹介します。時折立ち止まってこのワークを試してみてください。さもなければ、あなたの前には山のような言葉しか残らないことになってしまいます。

目覚めについて疑っている人もいるかもしれません。もしそれならそれは良いことです。私が疑問を投げかける人が好きです。それに、もしすべてに対して徹底的に懐疑的なら、脳はポンと開け、神秘のただ中を舞っているはずですから、あなたはそこまで懐疑的ではないはずです。

スピリチュアルな本には非合理的で意味を成さないことがたくさん書かれていますから、目覚めについてあなたが懐疑的なのもよくわかります。私が合理的であることを大切にしています。合理性とはつまり特定のものの見方を採用するにあたって相当の理由があるということです。考えが興味をそそるものであるならば、私はしっかりと考えることが大好きです。

あなたが物事を科学的に捉えることに慣れているなら、私も科学に大きな興味を持っていることを伝えておきましょう。この科学の時代において、科学的発見と整合性の取れたスピリチュアリティを形づくることが肝要です。スピリチュアリティと科学との関連性はテーマのひとつでもあります。

もし、あなたが感受性の強い人であるならば、私もそうであることを知っておいてください。私は自分を哲学者と呼んでいますが、私にとってのスピリチュアルな冒険は、本質においては愛にまつわる冒険です。冒険の途中、やっかりな哲学の山を超えなければいけないこともあるかもしれませんが、そうしてこそ生きることの中心へと辿り着くことができます。ハートを開くためには精神を澄んだ状態にする必要があるのです。

あなたがどんな人であれ、出会う冒険があなたに多くをもたらすことを願っています。この冒険の旅に出るにあたって真に必要なのは、生きることにワンダーすること、つまり興味を持って自らを置き、冒険者であろうとすること、ただそれだけです。私にとって冒険者とは、前人未到の行き方が知られていない場所へ旅をする者のこと。私たちはそんな場所に辿り着こうとしています。あなたが冒険者なら、ようこそベースキャンプへ。大いなる冒険の旅は、いま、ここに幕を開けます。

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目覚めのきっかけ:ペインボディ

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子どものペインボディ



子供のペインボディは、気まぐれや内向状態として現れることがある。子どもはふくれてそっぽを向き、人形を抱いて隅に座り込んだり、親指を吸ったりする。発作的に泣きだしたり、癇癪を起すこともある。きいきい泣きわめき、床に転がり暴れるかもしれない。欲望が拒否されることは簡単にペインボディの引き金になるし、発達中のエゴでは欲望の力はとくに強くなりがちだ。さっきまでは天使のようだった子どもが数秒後に小さな怪物に変身すれば、親たちは信じられない思いでなすすべもなく見守るしかないだろう。「こんな不幸がいったいどこからやってくるのか」と、不思議に思うかもしれない。それが多かれ少なかれ子どもが分かちもった人類の集団的ペインボディの一部で、その集団的ペインボディは人類のエゴから発している。

同時に子どもはすでに親のペインボディから痛みを受け取っているのかもしれず、そうなら親は子どもに自分のペインボディの反映を見ていることになる。とくに敏感な子どもは親のペイボディの影響を受けやすい。親の感情のドラマを目の当たりにしたりするのはほとんど耐え難い苦痛で、そういう敏感な子どもは成長後、重いペインボディを抱える。親が自分たちのペインボディを隠そうとして、「子どもの前では喧嘩はやめましょう」と言い合ったとしても、子どもは騙せない。親が礼儀正しく言葉を交わしていても、家庭にはネガティブなエネルギーがたちこめる。抑圧されたペインボディはとりわけ有害で、おおっぴらに行動化されるよりももっと毒性が強く、その心理的な毒は子どもに吸収されて、子どものペインボディの糧になる。

子どもによっては、非常に無意識な親と暮らしているうちに、潜在的にエゴとペインボディについて学びとることがある。両親ともエゴが強くて重いペインボディをもっていたある女性は私に、親を愛してはいたが、親が怒鳴り合っているようすを見てよく「この人たち、頭がどうかしている。私はどうしてこんなところにいるんだろう?」と考えたと語った。彼女は子ども心に、こんな生き方は間違っていると気づいていた。その気づきのおかげで、親から吸収する苦痛は少なくてすんだのだ。

親は子どものペインボディをどうしていいかわからないことが多い。もちろん最大の問題は、自分自身のペインボディにどう対応しているか、ということだ。自分自身のペインボディを認識しているか?充分に「いまに在る」ことができ、ペインボディが活性化したときには感情レベルで、つまりそれが思考に入り込んで「不幸な私」をつくり出す前に、気づくことができるか?

子どもがペインボディの衝撃を受けているあいだは、こちらが「いまに在って」、感情的な反応に引きずり込まれないようにする以外、できることはあまりない。ことらが反応すれば、子どものペインボディの糧になるだけだ。ペインボディのぶつかりあいは極端にドラマチックになり得る。だからドラマに巻き込まれてはいけない。あまり深刻に受け取らないこと。欲求が満たされないことがペインボディの引き金になった場合には、素直に負けてはいけない。そうしない子どもは、「自分が不幸になればなるほど、欲しいものが手に入る」ことを学習する。これはのちの人生の機能不全につながる。あなたが反応しないと、子どものペインボディは苛立ち、しばらくはさらに激化するかもしれないが、やがては収まる。幸い子どものペインボディの発作はおとなよりも短いのがふつうだ。

ペインボディの活動が収まってから、あるいは翌日にでも、子どもと話し合ってみよう。だが、子どものペインボディについて話してはいけない。代わりにこんなふうに聞いてみよう。「昨日、あんなに泣きわめいたのはどうしてだろうね?覚えているかい?どんな気持ちだった?きみにとりついたのはいったい何なんだろうね、名前があるのかな?ないの?あるとしたら、どんな名前だと思う?姿が見えるとしたら、どんな姿をしているだろうね?そういつはどこかへ行ったあとは、どうなるんだろう?寝てしまうのかな?そいつはまた来ると思う?」

この問い方はほんの一例にすぎないが、どの質問も子どもの観察力を目覚めさせることを意図している。観察力、つまり「いまに在る」力である。この力があると、子どもがペインボディから自分を引き離すのに役立つ。それに子どもにわかる言葉であなた自身のペインボディについて話しておくのもいいかもしれない。次に子どもがペインボディに引きずり回されたときには、「ほら、あいつが戻ってきたね。そうだろう?」と言おう。子どもが使った言葉を使えばいい。それをどんなふうに感じているかに、子どもの関心を向けさせる。そのときは批判したり非難したりしてはいけない。興味と関心を抱いて聞いていることを伝えよう。

たぶんこれではペインボディの進撃を食い止めるまでにはいかないだろうし、子どもはあなたの言葉を聞いていないように見えるかもしれない。しかしペインボディの活動の真っ最中でも、子どもは意識のどこかで目覚めているはずだ。こういうことが何度か繰り返されるうちに、その目覚めは強くなっていき、ペインボディは弱くなっていく。子どもの「いまに在る」力が育つ。そのうち、ほらペインボディに負けているよ、と逆にあなたが子どもに指摘される日が来るかもしれない。




不幸



不幸のすべてがペインボディから発しているわけではない。新しい不幸、あなたが現在という時とずれてしまい、いろいろな意味で「いま」を否定したために生まれる不幸もある。いまという時はすでに厳然としてあって、避けようがないことがわかれば、無条件の「イエス」を言うことができるし、よけいな不幸を生み出すこともない。それどころか内なる抵抗が消え去れば、あなたは「生命(人生)」そのものによって力を与えられていることに気づくだろう。

ペインボディの不幸はつねに原因と結果が不均衡で、言うならば過剰反応だ。だからすぐにそれとわかるのだが、ペインボディに取りつかれている当人にはなかなかわからない。重いペインボディを抱えている人はすぐに動揺し、怒り、傷つき、悲しみ、不安に陥る。他の人なら苦笑してやり過ごすような、それどころか気づきさえもしないささいなことで、不幸のどん底に落ちたりする。もちろん、その出来事は不幸の真の原因ではなく引き金にすぎない。積み重なった古い感情を甦らせるのだ。その感情が頭に上り、拡大されて、エゴの精神構造を活性化する。

ペインボディとエゴには密接な関係がある。両者はお互いを必要としている。引き金となる出来事や状況は、重い勘定に彩られたエゴというスクリーンを介して解釈され、反応を引き起こす。このために出来事や状況の重要性が完全に歪められる。自分のなかにある感情的な過去という目で、いまという時を見ることになる。言い換えれば、あなたが見て経験している中身はいまの出来事や状況にではなく、あなた自身のなかにある。場合によってはいまの出来事や状況のなかにあるかもしれないが、それを自分の反応によってさらに拡大させている。この反応と拡大こそ、ペインボディが望み、必要としている糧なのだ。

重いペインボディに取りつかれている人は、自分の歪んだ解釈や重苦しくて感情的な「物語」の外に出るのが難しい。物語のなかの感情がネガティブであればあるほど、その物語はますます重く強固になる。だから物語であることがわからず、現実だと思い込む。思考とそれに付随する感情の動きに完璧に取り込まれていると、そこから出ることは不可能だ。なにしろ外側があることさえわからないのだから。自分でつくり出した映画や夢の罠にかかり、自分自身でつくった地獄に落ちているのと同じである。それが当人にとっての現実で、他の現実は存在しない。さらに当人にとっては、自分の反応以外の反応の方法はあり得ない。




ペインボディから自分を引き離す



活動的な強いペインボディを抱えている人はある種のエネルギーを放出していて、他の人はそれを非常に不快に感じる。すぐに相手から離れたくなったり、交流を最小限に抑えたいと思う人もいる。相手のエネルギー場に跳ね返されるように感じるのだ。またエネルギーを発している苛立ちを感じて無礼になったり、言葉やときには物理的な暴力で攻撃しようとする人もいる。この場合は反応する人のなかにも相手のペインボディに共振する何かがあるんだ。強く反応する原因は自分のなかにある。つまり自分自身のペインボディである。

当然ながら、重くてしょっちゅう活性化するペインボディを抱えている人は、年中争いに巻き込まれる。もちろん自分が積極的に争いを起こすこともあるが、自分では何もしていない場合もある。それでも放射しているネガティブなエネルギーが敵意を引き寄せて、争いを生み出す。相手がこういう活動的なペインボディをもった人だと、反応しないでいるためにはこちらがよほどしっかりと「いまに在る」必要がある。いっぽう、こちらがしっかりと「いまに在る」と、それによって相手がペインボディから自分を惹き話し、ふいに奇跡的な目覚めを経験することもある。その目覚めは短時間で終わるかもしれないが、とにかく目覚めのプロセスの始まりにはなる。

私がその種の目覚めを体験したのは、もう何年も前のことだ。夜中の11時に玄関のベルが鳴った。インターフォンから聞こえたのは隣のエセルの不安に怯えた声だった。「どうしてもお話ししなくてはならないことがあるんです。とても大事なことなの。すみませんけど、開けてください」。エセルは教養ある知的な中年女性だった。同時に強いエゴと思いペインボディの持ち主でもあった。彼女は思春期にナチス・ドイツから逃れてきたのが、家族の多くを強制収容所で失っていた。

入ってきたエセルは興奮したようすでソファに腰を下ろし、もってきたファイルから手紙や書類を取り出して震える手でソファや床に広げた。とたんに私は、自分の身体のなかで調光器の目盛が大きく動いてパワーが最大になったという不思議な感覚を覚えた。とにかくオープンな姿勢でできるだけ観察力を働かせつつ、しっかりと---身体の全細胞をあげて----「いまに在る」しかなかった。エセルの口から奔流のように言葉があふれる。「今日また、あいつらからひどい手紙が来たんですよ。私に復讐しようとしているんだわ。お願い、あなたも力になってください。私たち、一緒に闘わなくちゃ。向こうの性悪な弁護士は何が何でもやり通す気です。私、住むところがなくなってしまう。あいつらは権利をはく奪すると脅してきたのよ」。

どうやらエセルは、住宅の管理者が彼女の要求した修理に応じなかったという理由で、管理料の支払いを拒否したらしい。そこで管理者側は裁判に訴えると脅してきたのだ。

エセルは十分ほどまくしたてた。私は彼女を見つめながら聞いていた。とつぜん彼女は口を閉じ、いま夢から醒めたという表情で広げた書類を見回した。態度は落ち着いて穏やかになり、エネルギー場はすっかり変化した。それから彼女は私を見て言った。「こんなに大騒ぎするほどのことじゃありませんわね、そうでしょう?」。「そうですね」。私は答えた。それから何分か彼女は黙って座っていたが、やがて書類を拾い集めて立ち去った。翌朝、通りで出会った彼女はいぶかしげな表情で私を見た。「あなた、何をなさったんです?私はここ何年も眠れないで困っていたのに、昨夜はぐっすり眠れたんですよ。まるで赤ちゃんみたいに熟睡しました」。

エセルは私が何かをしたと思ったらしいが、実は私は何もしなかった。彼女は、何をしたのかではなく、何をしなかったのかと聞くべきだった。私は反応せず、彼女の物語のリアリティを保証せず、彼女の精神の糧となる思考もペインボディの糧となる感情も提供しなかった。そのとき彼女が体験していることを体験するがままにさせておいた。私の力は介入しないこと、行為しないことから生じていた。「いまに在る」ことは、つねに何かを言ったりしたりするよりも強力なのだ。ときには「いまに在る」ことから言葉や行為が生まれることもあるが。

エセルの変化は恒久的なものではなかったが、しかしある可能性を知らせ、彼女のなかにすでにあるものを垣間見せる結果にはなった。禅ではこの観察の体験を「悟り」と呼ぶ。「悟り」とは「いまに在る」ことであり、頭のなかの声や思考プロセスから、それにその思考が身体に引き起こす感情から離れることだ。すると自分のなかに広々としたスペースが生まれる。それまでは思考や感情が騒がしくせめぎあっていた場がすっきりと開ける。

考えても「いまに在る」ことは理解できない。それどころか多くの場合、誤解する。気遣いがない、よそよそしい、愛情がない、無関心だ、と言われることもある。だがほんとうは、思考や感情よりももっと深いレベルで関心を寄せている。それどころか、そのレベルでこそ、ただ関心を寄せるだけでなくほんとうに気遣い、ともにいることができる。「いまに在る」静謐のなかで、あなたは時分と相手の形のない本質を感じる。あなたと相手がひとつだと知ること、それこそが真の愛であり、気遣いであり、共感だ。




「引き金」



ペインボディのなかには、一定の状況だけ反応するものがある。ふつう引き金になるのは、過去に体験した感情的苦痛に共振する状況だ。たとえばお金のことで年じゅう騒ぎ立てて争う親のもとで育った子どもは、お金に対する親の不安を吸収し、金銭的な問題が引き金になるペンボディを発達させる。こういう子どもは成人後、わずかなお金のことで動揺したり、怒ったりする。その動揺や怒りの裏には、生存がかかっているという強い不安が存在する。霊的で比較的目覚めた意識をもった人が、株式ブローカーや不動産業者からの電話をとったとたんに声を荒らげ、詰問し、非難するのを見たことがある。タバコのパッケージに健康上有害ですという注意書きがあるように、お札や銀行の通帳にも、「お金はペインボディを活性化し、完璧な無意識を引き起こすことがあります」という注意書きが必要かもしれない。

親の片方あるいは両方から育児放棄された子どもは、遺棄への原初的な不安に共振する状況が引き金になるペインボディを発達させるだろう。この人たちの場合、空港に迎えに来る友達が数分遅れたとか、配偶者の帰宅が少し遅くなったというだけで、ペインボディの激しい発作が起こる。パートナーあるいは配偶者たちに去られたり死なれたりすると、その感情的苦痛は通常の場合をはるかに超え、激しい苦悶やいつまでも続いて立ち直れないほどの鬱や偏執的な怒りに取りつかれる。


子どものころ父親に虐待された女性の場合、男性との親密な関係がペインボディの引き金になることもある。逆にペインボディをつくりあげている感情のせいで、父親と似たようなペインボディをもった男性に惹かれることもある。そのような女性のペインボディは、同じ苦しみをもっと味わわせてくれそうな誰かに磁力を感じるのだろう。こういう苦痛は恋と勘違いされたりする。

母親に望まれない子どもで、まったく愛されず、最小限の世話と関心しか与えられなかった男性は、母親の愛と関心に対する強い満たされない憧れと必死に求めるものを与えてくれなかった母親への強い憎悪が混ざり合った、矛盾した重いペインボディを発達させる。こういう男性がおとなになると、ほとんどすべての女性がその飢えたペインボディ---感情的な苦痛の塊-----への引き金になり、出会う女性のほとんどすべてを「誘惑し、征服」せずにはいらない依存症的な衝動が現れる。それによってペインボディが渇望する女性の愛と関心を得ようとするのだ。そこで女たらしになるが、女性との関係が親密になりかけたり、誘いを拒絶されたりすると、母親に対するペインボディの怒りが甦り、人間関係を破壊してしまう。

自分のペインボディの目覚めが感じられるようになると、どんな状況や他人の言動がいちばん引き金になりやすいかもじきにわかるだろう。引き金になることがあったら、あ、これだな、とすぐに気づき、観察眼を鋭くすればいい。すると、1,2秒後に感情的な反応が起こってペインボディが起き上がるのを感じるだろう。しかし「いまに在る」ことができていれば、そのペインボディに自分を同一化しないから、ペインボディに支配されて頭のなかの声を乗っ取られなくてすむ。そんなときパートナーがそばにいたら、「あなたの言った(した)ことが、私のペインボディの引き金になった」と説明できるかもしれない。相手の言動がペインボディの引き金になったらすぐにそれを伝えると、お互いに取り決めておくといい。そうすれば人間関係のドラマによってペインボディがさらに大きく育つのを防げるし、無意識に引きずり込まれる代わりに、「いまに在る」力を強化するのに役立つ。

ペインボディが目覚めたとき、あなたが「いまに在る」なら、そのたびにペインボディのネガティブな感情的エネルギーの一部が焼失し、「いまに在る」力へと変容する。残るペインボディはすぐに退却して次のチャンスを、つまりあなたが無意識になる機会を待とうとするだろう。お酒を飲んだり、暴力的な映画を観たりしたあと、「いまに在る」ことを忘れれば、ペインボディにとってはチャンス到来だ。苛立ちや心配といったほんの小さなネガティブな感情でも、ペインボディが戻ってくる入り口になりかねない。ペインボディはあなたの無意識を必要としている。「いまに在る」という光には耐えられない。



目覚めのきっかけとしてのペインボディ



一見すると、ペインボディは人類の新しい意識の目覚めに対する最大の障害に見えるかもしれない。ペインボディは精神を占拠し、思考を歪めて支配し、人間関係を破壊する。エネルギー場に立ち込める暗雲のような感じだ。人間を無意識に落とし込む。スピリチュアルな言い方をするなら、心と感情への完全な同一化をもたらす。そのために人は直接的に反応し、自分と世界の不幸を増大させるようなことを言ったりしたりする。

しかし不幸が増大すると人生のつまずきも多くなる。身体がストレスに耐えられずに病気になったり、なんらかの機能不全を起こすかもしれない。悪いことが起こることとを望むペインボディのせいで事故に巻き込まれたり、大きな争いや波乱に遭遇したり、暴力行為の加害者になることもあるだろう。あるいはすべてが過重で耐えられず、もう不幸な自分として生きることができなくなるかもしれない。もちろんペインボディは不幸な自分という偽りの自分の一部だ。

ペインボディに支配され、ペインボディをペインボディと認識できずにいると、ペインボディがあなたのエゴの一部に組み込まれる。あなたが同一化する対象は、すべてエゴに組み込まれていく。ペインボディはエゴが同一化できる最も強力な対象の一つだし、ペインボディもまた自らに糧を与えて再生するためにエゴを必要としている。しかし不健康な同盟関係は、やがてペインボディがあまりに重くなり、エゴの心の構造では支えきれなくなったとき破綻する。エゴはペインボディによって強化されるどころか、つねにそのエネルギーを浴びせられて浸食されるからだ。電流によって動く電気器具も電圧が高過ぎると壊れてしまうのと同じことである。

強力なペインボディをもった人々はよく、もう人生に耐えられない、もうこれ以上の苦痛もドラマも引き受けられない、というところまで追い込まれる。ある女性はこれをずばりと、「もう不幸でいることにはうんざりだ」と表現した。また私がそうであったように、もう自分自身を相手にしていられないと感じることもある。そうなると内的な平和が最優先になる。感情的苦痛があまりにも激しいので、不幸な自分を生み出して持続させている心の中身や精神、感情的な構造から自分を引き離すのだ。そのとき人は、自分の不幸な物語も感情も実は自分自身ではないことを知る。自分は知る対象、中身ではなく、知るほうの側だと気づく。ペインボディが人を無意識に引きずり込むのではなくて、逆に目覚めのきっかけに、「いまに在る」状態へと赴かざるを得なくなる決定的な要因になる。

しかしいま地球ではかつてなかったほど大きな意識の流れが生じているので、多くの人々はもう激しい苦しみを通過しなくてもペインボディから自分を引き離すことができるようになった。自分が機能不全の状態に戻ったということに気づいたら、思考と感情への同一化から離れて、「いまに在る」状態へと進めばいい。抵抗を捨てて、静かに観察し、内側も外側もいまここに在る状態とひとつになるのだ。

人類の進化の次のステップは不可避ではなく、地球上の歴史で初めて意識的な選択が可能になった。その選択をするのは誰か?あなたである。あなたとは何者か?自らについて意識的になった意識である。




ペインボディからの解放



よく聞かれるのが、「ペインボディから解放されるには、どらくらいかかるのだろう?」ということだ。答えはもちろん、その人のペインボディの密度と、どこまで真剣に「いまに在る」ことができるかで異なる。だが当人の苦しみや他人に与えている苦しみの原因はペインボディそのものではなく、自分とペイボディとの同一化のほうだ。何度も繰り返して過去を生きることを強制し、あなたを無意識の状態につなぎとめているのは、無意識のペインボディではなく、自分とペインボディの同一化のほうなのだ。だからもっと大事な質問は、「ペインボディとの同一化から解放されるには、どらくらいかかるのだろう?」」である。

この問いの答えは、すぐにでも可能、ということだ。ペインボディが活性化されたとき、この感じは自分のなかのペインボディだと気づくこと。そこに気づけば、ペインボディとの同一化を断ち切ることができる。同一化しなくなれば、変容が始まる。ペインボディだとわかればそれだけで、湧き起って頭に上った古い感情が内的な対話だけでなく行動や他者との関係まで乗っ取るのを防げる。つまりペインボディはもうあなたを利用して自らを再生することができない。

古い感情はまだしばらくあなたのなかにあり、ときおり浮上してくるだろう。ときにはうまくあなたをだまして同一化へと持ち込み、気づきを妨げるかもしれない。だがそれも長くは続かない。古い感情を状況に投影しないということは、自分の中の古い感情と直接に向き合うことを意味する。それは心地よいことではないが、別に命までは取られはしない。「いまに在る」ことによって、充分に押さえ込むことができる。古い感情はあなた自身ではない。

ペインボディを感じたとき、自分は何かが間違っている、ダメな人間なんだなどと誤解してはいけない。自分を問題視する、それはエゴが大好きなことだ。ペインボディだと気づいたら、そのことを受け入れなくてはならない。受け入れずにいると、きっとまた見えなくなる。受け入れるとは、何であれその瞬間に感じていることを素直に認めることだ。それは「いまに在る」ことの一部である。いまに在ることに反論はできない。いや反論はできても、自分が苦しむだけだ。認めることを通じて、あなたは広々とした、せいせいした自分自身になれる。全体になれるのである。もう、断片ではない(エゴは自分を断片だと感じている)。あなたの本来の真のエネルギーが湧き起る。それは神の本性と一体だ。

イエスはこれについて、「だからあなたがたは、天の父が全体であるように、全体でありなさい」と言った。新約聖書には「完全でありなさい」と記されているが、これは全体という意味のギリシャ語を誤訳している。これはあなたが全体にならなければならない、という意味ではなく、あなたはすでに-----ペインボディがあってもなくても---全体だという意味なのだ。
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