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病気のゲーム [真実]

誰もが一生のうちに一度くらいは何らかの病気になる。病気になると、不快なことや心配ごとが山ほど起き、ネガティブな考えや感情が発生し、それらは空間へと放射される。そのようなエネルギーは、病気と関係する等時性が成長するためには恵みの土壌となる。等時性はネガティブなエネルギーをいつも非常にうまく吸収する。

病気によって産み落とされた等時性は、最強の等時性のひとつである。何といっても病気や伝染病なのだ。そのような等時性と対極しているのが、ありとあらゆる医学の等時性だ。何と強力な構造だろうか。クリニック、サナトリウム、研究所、製薬工場、薬局、学会、教育機関。

医学の等時性の正式な目的は、病気の撲滅である。だが、現実には、病気の撲滅というのも、破壊的等時性につきもののネガティブな現象を山のように生み出す。なぜなら、破壊的等時性の主な目的は信奉者たちを引きつけて離さないでおくことだからだ。

たとえば公の医学は、正統とされない(つまり公式な医学のカテゴリーには属さない)治療法に対しては敵意を持って対応する。公の医学こそ時代遅れで信用のおけない考え方だという批判は、もしそれが伝統的でない治療の信奉者たちからのものであれば、非科学的と宣言される。新しいどのような治療法であっても、それが公の医学に属していなければ、公の医学からは強い敵意をもって迎えられることになる。一方、正統とされない治療法の信奉者たちも、正統とされる治療法について中傷することをためらわない。

病気の等時性や医学の等時性の影響下に置かれている人は、自分が若い頃味わった気分を取り戻すことができない。健康にまつわる問題で悩むことが少しもなかったあの頃の気分である。当時のあなたは健康に意義を与えず、自分の健康に単に注意を払わないだけのことだった。なぜなら健康が脅かされることはなかったからだ。従って、思考エネルギーの放射にも病気の等時性の周波数は含まれていなかった。

年を取るにつれて、程度の差こそあれ、あなたは徐々に病気の等時性の影響下に入ってくる。病気の等時性の周波数でエネルギーを放射することによって、等時性にエネルギーを与え、等時性との依存関係に陥り、病気がちな人生ラインへと乗り移る。そのため、以前のような健康を取り戻すためには、何よりもまず病気の等時性との関係から逃れる必要がある。それは、等時性からの情報を自分の中に取り入れず、等時性のゲームに加わらない、つなわち等時性から身をかわす方法を用いることを意味する。もしあなたが病気のことで深刻に悩んでいるのなら、治療のゲームに加わり、自分の身体に気を配る必要がある。そうすれば等時性は消え失せることになる。病気の等時性のふるまいに関する例をいくつか見てみよう。

毎日繰り返される薬のCMは、ある薬を飲んで健康を取り戻した幸せな人々のことをあなたに示してくれる。いや、それどころか健康面以外でも、彼らはあらゆることで大成功を収めているという。魅力的な餌ではないか。この餌は効果抜群なのだ。なぜならすでに考察してきたように、大部分の人々は半ば無意識な状態で暮らしている。あなたの脳には「薬局へ行き、薬を服用し、褒美をもらう----あらゆる場合の完璧な手順」というプログラムがインプットされる。だが、これはまだそれほど恐ろしいことではない。このCMには別のもっと深い意味を持つプログラムが隠されているのだ。

ちょっと考えてみよう。通常、CMにはきわめてまともで魅力があり、非常に成功している人々が登場する。(あなた、どうしたんです?気分でも悪いのですか?)。そのような人々は皆何らかの病気に罹るのだが、それでも服用した薬のお陰ですぐに元気になる(あなたもそのうちの一人なのだ)。私たちすべての意識と潜在意識には、誰もが病気に罹るようにできていて、すでに罹っているか、それともすぐに罹るのだという事実が叩き込まれる。こうして、多くの人々がゲームの条件を受け入れることになる。これこそが表立ったことにはされていないが破壊的等時性の真の姿なのだ。破壊的等時性は、人々を病気から全快させず、自分の信奉者にしておく、つまり人々の耳に「お前さんは病気だ。薬を飲まなければだめだぞ」と吹き込むことを使命と心得ている。

信奉者たちを引きずり込むための興味深い方法がもうひとつある。それはあいにくの天気だという予報を流すことだ。磁器嵐、気圧の急変、その他ありがたくない要因についての情報に基づいたものだ(そのような現象は、多かれ少なかれ、ほとんど毎日起きている)。それらのデータから、天気予報が作られる。「○○に罹っている方にとって、今日か明日は辛い一日となるでしょう」。起こり得るすべての病気と患者を待ち受ける病状を思い浮かべている等時性が、幸せのあまり胸がいっぱいになっているのは、さぞかし滑稽なことだろう。しかし、すぐにぞっとしてしまう。そうでなくても健康不安を抱えている人々の意識に、何という破滅的なプログラムがインプットされてしまったことか。そんなことを聞いてしまったら、家から外に一歩も出たくなくなるか、箱の中にでも閉じこもりたくなるかもしれない。もちろんあいにくの要因は気分に影響を及ぼすが、なぜ最初からそれに自分を同調させてしまうのか。多くの人々、とりわけ年配の人たちは、判決でも受けるようにして、等時性からの声に耳を傾け、あらかじめ病気気味になるプログラムや症状が悪化するプログラムを自分用に作り上げてしまうのだ。そのような予報などは、人々を自分の影響下に置こうとする等時性の恥知らずで厚かましい欲求の典型である。

そして最も典型的な話題とは、知り合いや親せきと健康について話すことである。そのような場合、健康増進ではなく、病気とその治療についての話になるのが普通だ。集まったうちの一人が何かに取りつかれたような表情で四六時中痛むところにてこずっていると言って話しの口火を切ると、二番手が待ってましたとばかりに、「年はとりたくないもの、と言うからね」と呻くように反応する。その場に居合わせた全員が病気の等時性の周波数でせっせとエネルギーを放射する。こんなエネルギーは、病原菌同様、感染力を帯びている。こうした集まりからは遠ざかるべきだ。さもないと、あなた自身が気づかないうちに病気の等時性の周波数でエネルギーを放射するようになってしまう。

病気の等時性を見分けるコツはとても簡単だ。病気の等時性は病気やその治療についての情報によってあなたをおびき寄せようとする。もしあなたがそうした情報を無視する、つまり情報を聞き流して、深刻には受け取らないようにしたのなら、等時性は意気阻喪し、あなたをそっとしておいてくれるだろう。これは等時性から身をかわす方法だ。もしあなたが病気やその治療に関する情報を小気味よい高笑いや嘲笑で迎えるのであれば、等時性は恐れをなしてあなたの前から姿をくらますことだろう。これは等時性の消滅である。

病気の等時性と別れたあなたは、完全な自由を得る。だが、その自由は長くは続かない。何らかの等時性の信奉者になっていたいというふうに人間はできているからだ。だから、そのうちあなたは等時性の影響下に踏み入るという危険を冒す。そうならないためには、健康増進の等時性の味方に加わり、宙ぶらりんの状態から脱しよう。健康増進の等時性は心身の強化につながるあらゆることを取り仕切っている。健康な生き方を志向する信奉者になれば、病気との辛く憂鬱な闘いと比べて、どれほど喜ばしくやりがいのあることかわかるだろう。

もし人が自分の健康に気を遣っているとすれば、その人が健康な人生ラインの周波数で思考エネルギーを放射していることは明白であり、だからこそ、その人は病気どころではないのだ。このように、対極に位置する二つの生き方がある。そのひとつが病気の治療であり、もうひとつが健康についての気遣いなのである。病気に対して、前者はその処理を内的意図で行おうとし、後者は外的意図にまかせようとしていることに疑いはない。あなたは健康なのか、病気なのかという自分の生き方を、自分で選んでいるのだ。

生理エネルギーは行動を実行することだけに消費される。意図は自由エネルギーを用いて形作られる。自由エネルギーは方向が逆に二つの流れとなって体を通過する。ストレス状態では意図のエネルギーは遮断される。ストレスから逃れるためには、目を覚まして、重要性を投げ捨てる必要がある。もし重要性を投げ捨てることが不可能であるなら、せめてリラックスしようとして力を消費することはやめよう。エネルギー体操を行うことで、あなたはエネルギー保護被膜を強化することになる。自由エネルギーを蓄えようとしてはならず、エネルギーがあなたの体を自由に通過するようにしてあげよう。高い生体エネルギー特性とは、幅の広いエネルギー・チャンネルのことである。エネルギー・チャンネルは、エネルギー体操によって十分に鍛錬される。肉体の浄化はエネルギー・チャンネルの幅を著しく広げる。病気になることと治療を受けることは、内的意図による。健康的な暮らしをするのは外的意図による。どんなことがあったも破壊的等時性のひとつである病気の等時性のゲームを受け入れてはならない。運動を行う際には、中心部を通るエネルギーの流れに注意を向けよう。意図とは、意気込むことではなく、注意を集中することである。

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物質的現実化と意図 [願望実現]


私たちの思考や願望が可能性の空間における私たちの動きを方向づけることは明らかになっている。夢の中では、この動きに対して、物質的現実化の慣性によるブレーキがかからない。思考のほんの微かな揺らぎであっても、夢を見ている人を瞬く間に可能性の空間の然るべきセクターへと運んでいく。現実化されたセクターでは、質量を持つ物質の慣性のためにそんなに速くは事が進まない。しかし、思考が私たちの人生のことがらの展開に直接的な影響を及ぼすという同じ原則が、現実の世界でも働いている。

こう質問するかもしれない。「私に分別がなかったのかもしれないけど、今までは思考ではなく行動が人生の歩みを決めていると思っていた。でも、これで納得した。大事なのは、何をするかではなく、何を考えるかなんだ」

この言葉には本当に何の矛盾もない。人はまず考えてからその後で行動する、ということだからではない。人々は何よりも行動による結果に注意をはらうことに慣れてしまっている。なぜなら、それは表面に現れていてわかりやすいからだ。思考による結果はそれほどはっきりとしていないことが多い。これは平衡力による作用と関係している。平衡力による作用の結果が予期していたものとまったく正反対になるケースがある。人があるものを望んでいるのに、正反対の結果となる。過剰圧力が強ければ強いほど、その結果は望んでいるものから遠ざかる。世界のこうした不思議なふるまいに筋の通った説明を見つけられないまま、それでも人は、自分の取った行動が正しくなかったとか、世の中はそうなっているとかの説明で自らを納得させようとする。そして、望みのものが手に入るのは、大変な苦労をした後で、ということになるわけだ。

並行移動のモデルには矛盾があると思われるかもしれない。私たちの思考は、私たちを経由していくエネルギーをある型にはめ、それによって人々をその思考に相当する人生ラインへと運ぶといい、あるいは思考が私たちを然るべきシナリオと舞台装置を持った可能性の空間のセクターへと移動させると主張する。夢の中では、まさにその通りのことが本当に起こる。ところが、他方では、現実の生活においては私たちの思考はほとんど影響を示さない。なぜなら、私たちは思考することだけで望むものを得ることができないからだ。長椅子に横になってどんなに考え、また、物質的現実化につきものの慣性による遅れを考慮に入れても、ほかの人生ラインへの乗り換えは、なぜか起こりはしない。「ほら、それそれ、それだよ」と心配性の方は途端に活気づくかもしれない。「行動することが必要なのだ。思考しているだけじゃ、ラインの乗り換えなんて起こるわけがない」。彼は形式的には正しい。

ただし、形式的にである。本当はこの矛盾とは、ただそう見えるだけなのだ。望んでいるものを視覚化しようとしてみても、大抵の場合、結果が得られないのはなぜか?その説明に、私たちはどんどん近づいてきている。最初に挙げられる明らかな原因は、過剰圧力である。これは、私たちが望むものを手に入れようとするときに、自らが生み出している。

二つ目の原因は、可能性の物質的現実化の際に現状の慣性が邪魔することである。私たちがしばしば目的を達成できないのは、根気強く目的に向かおうとしないからだ。人はすぐに気持ちが冷め、自分の望みを見込みがないものとしてあきらめるが、多くの目的はただ単に現実化するのに時間が足りないだけなのだ。望んでいたことが遅れてやってきて、そのときにはもう期待感も消え、自分がそれを注文したことすら忘れている。自分のこれまでの人生で、思い当たる節があることだろう。

もうひとつ多くの人々がよくある典型的な間違いは、すべてをすぐに手に入れようとすることにある。もし互いに何の関係もないたくさんの目的を達成したら、すべての思考エネルギーが無駄に費やされるだけになってしまう。可能性の流れの中にいるあなたは、同時に様々な方向へと泳ぐことができない。具体的なひとつの目的にすべてを集中させる場合に、必要なセクターへの調整が最も効果的に行われる。

夢を見ているときには、今挙げたような有害な要因は存在しない。夢の中では、重要性による過剰圧力に煩わされることもそれほどなく、慣性が邪魔をすることもない。それに、昼間、目的達成を目指して闘った理性は、疲れて休息を取っている。しかしながら、夢の中であっても、すべての願望が実現されるわけではない。意識して見る夢を実践している人たちは、思考のどんな揺らぎであっても、夢を見ている本人を然るべきセクターへと運んでいくわけではないことを知っている。では、いったいどこに障害があるのだろうか。

答えは非常に簡単であると同時に、基本的なことでもある。どんな障害も存在しない。問題は思考そのものにあるのではない。秘密は、現実化へと導くのが願望自体ではなく、望んでいるものに対する心構えにあるという点に隠されている。働いているのは、望んでいるものについての思考自体ではなくて、ほかのものである。しかし、これは言葉では表現しにくい。何らかの力が、思考ゲームの展開されている舞台の裏側にある。そして、この力の向こう側に、最後の言葉がある。もちろんあなたは察しがついたであろう。意図について話しているのだ。理性は自分が持っている記号の棚の中で、意図を適切に定義づけできないままでいる。ここで、意図を所有し行動する決意と定義してみたい。

そうすれば、可能性の空間のセクターに同調する過程で思考そのものは実際には何の役割も果たさないことを理解していただけるだろう。思考とは、意図の波のてっぺんにできる泡にしか過ぎない。現実化されるのは、願望ではなく、意図の方なのだ。

腕を持ち上げることについて、もうひとつの例を挙げよう。腕を持ち上げようと望んでいただきたい。願望はあなたの思考の中で形づくられる。あなたは腕を持ち上げたいということを理解している。願望が腕を持ち上げるのだろうか?いいや、願望だけではいかなる行動も産みだしはしない。願望についての思考がその役割を終え、行動する決意のみが残ったときに、腕が持ち上がるのだ。では、腕を持ち上げるのは、行動する決意だろうか?これも違う。あなたは、腕を持ち上げるという最終的な決意を固めているが、腕はまだ動かない。何が腕を持ち上げるのだろうか?決意の次に続くものをどう定義すればよいのだろう?ここで理性の頼りなさが現れてしまう。意図が何なのかということに理性が明快な説明を与えることができないからだ。意図を、所有し行動する決意とすると、それは、行動を実行する力そのものへと続く前奏曲を奏でているに過ぎないことになる。腕が持ち上がるのは、願望でもなく、決意でもなく、意図によるという事実をただ確認するしかないようだ。私は理解しやすくするために、「決意」という表現を導入した。しかしこの言葉を用いなくても、あなたの筋肉を収縮させる何らかの力があることを、もちろんあなたは感じていることだろう。

意図とはいったい何かということを説明するのは、本当に非常に難しい。手足をどのように動微かについて私たちは疑問に思わないし、歩くことができなかった頃を思い出すこともできない。これとまったく同様に、人は初めて自転車にまたがったときには、正しい操作をまだ知らない。しかし、たとえ自転車の乗り方を学んだ後でも、どのようにすればよいのか、説明することはできない。意図とは非常にとらえどころのないものだ。意図を得ることは難しく、失うことは簡単だ。たとえば、完全に麻痺した人の場合、意図の力が失われている。足を動かしたいという願望はあるが、願望を行動に変化する能力が欠如している。麻痺した人が、催眠術の作用や奇跡的な快復の結果、歩きはじめたりすることが知られている。これは、患者に意図が戻ったことによるのだ。

このように、願望自体は何ももたらしはしない。逆に、願望が強ければ強いほど、平衡力の反作用もその分強くなる。願望は目的そのものに向けられ、意図は目的の達成プロセスに向けられることに注意をはらっていただきたい。願望は、目的を達成するという願望そのものの過剰圧力を発生させることで、自らを現実化する。意図は、行動で自らを現実化する。意図は、目的が達成可能かどうかについての判断はしない。決断が下されたら、あとは行動するだけである。もしあなたが夢の中で飛び立とうと思っているときに、それが可能かどうか考えあぐねたら、何も起こらないだろう。飛び立つためには、意図によって宙に浮きあがることだけが必要なのだ。夢を見ているときにいずれのシナリオの選択も、願望によってではなく、望むものを受け取るという硬い心構えによって実現される。あなたはあれこれ判断したり望んだりするのでなく、ただ所有し行動するのだ。

願望の無益さについて考えてきたが、それでは願い事についてはどうだろうか?言うまでもない。天使、神、その他高みにある何らかの力に対しては、お願いしても意味はない。宇宙をつかさどる法則は、絶対的で非情なものである。願い事につきもののあなたの不平、恨み、うめきなど、誰も必要としていない。しかし、感謝は違う。なぜなら、感謝は、その性質上、絶対的な愛に近いものだからだ。心からの感謝は、建設的なエネルギーの放射である。逆に、願い事による過剰圧力は、停滞、つまり同じ場所にエネルギーが濃縮されることだ。不平、依頼、要求などは、人々からネエルギーをかき集めるために流れが発明したものだ。「ちょうだい!」とか「欲しい!」という言葉が使われている思考は、自動的に過剰圧力を発生させる。あなたに過剰圧力がなくても、自分の思考によって、それを自分の方へ引き寄せようとしていることになる。

最高の力の類に願い事をするのは無駄なことだ。それは、店に行って商品をただでくれというのと同じことなのだ。もし人々があなたを助けようと気持ちになっているのなら、あなたは分別のある範囲で頼むことができるだろう。しかし、こうしたケースは例外であり、この世の中は、誰かを助けようという望みではなく、客観的な法則によって築かれているのだ。

地球が太陽にほかの軌道に移らせてくれるよう頼んでいるところを想像していただきたい。馬鹿げていると思われるだろう。人間以外のものに頼みごとをするなどということは、もちろん馬鹿げている。これと同じことである。選択する意図だけが意味のあることなのだ。実際にあなたは自分自身で自らの運命を選択している。あなたからの思考放射のパラメーターがあなたの選択したものに合致していて、その際、法則に違反していなければ、あなたはそれを受け取る。選択とは願い事ではなく、所有し行動するという、あなたの決意である。

意図は過剰圧力を産みだしたりはしない。なぜなら、願望のエネルギーが行動することで消費されるからだ。願望と行動とは、意図で結びついている。行動しようという意図は、願望によって生じた過剰圧力を、平衡力の関与なしに、自然な形で散らしてくれる。問題を解決しようというのなら、行動すべきだ。厄介な問題を考えあぐねていると、過剰圧力を産みだし、流れにエネルギーを与えることになってしまう。あなたは行動することで、意図のエネルギーを現実化する。「案ずるより産むが易し」とはよく言われる。意図を現実化しつつ、可能性の流れを信じれば、問題は自ずと解決されることだろう。

期待、不安、思い煩い、願望は、エネルギーを奪い取るだけだ。行動しようという意図は、エネルギーを消費してくれるだけでなく、それを人間のエネルギー・フィールドに注入してくれる。あなたはこのことを学習の例で納得するだろう。丸暗記は膨大な労力を奪い取り、得られるものは少ない。しかし、行動を学習する場合は、実際の作業や課題の解決が行われたりして疲れ方がそれほどはないだけでなく、精神の高揚や喜びをもたらしてくれる。

このように、意図とは、可能性の空間にあるセクターを現実化させる原動力なのだ。しかし、そこで次のような疑問が浮かぶ。なぜ私たちの不安も現実化されるのか?果たして不安を意図と同列に並べてもよいのだろうか?夢を見ているときも、現実の生活でも、常に私たちは自分で抱く不安、危惧、反感、憎悪のシナリオを持つ可能性につきまとわれている。私がそのような可能性を欲しないとしたら、そのような可能性を所有することを意図しないということだろうか?しかしながら、いずれにせよ私たちはそうあってほしくないことを受け取る。と言うことは、私たちの願望の方向性は意味を持たないということだろうか?謎は、もっと不可思議で強力な力に秘められている。

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思考エネルギー [願望実現]


たいていの人は、始終頭の中で何らかの思考を巡らせている。もしこうしたプロセスをコントロールできないとしたら、ネガティブな感情に頻繁に支配されてしまう。私たちの感情を何よりも波立たせるのは、恐れ、動揺、不安、苦悩、不満などを引き起こすものである。数千年の間に人間の心理状態は、破壊的等時性の影響を受けて、こんなふうに形成されてきた。等時性にとって、人間が恐怖に戦いている時の方がうまく操れるので都合が良い。まさにそのため、人間は何を本当に欲しているかということについて漠然としかイメージできないのに、何を望んでいないかについては正確に知っている。

思考をネガティブに攪拌されるままにしておくことは、破壊的等時性とのゲームに入り込み、等時性の周波数でエネルギーを放射することである。これは非常にためにならない習慣だ。自分の思考を意識的にコントロールするよう習慣を変えることがあなたにとって有益なのである。あなたの意識が特には働いていない時、例えば、交通機関を利用している時、ただ散歩をしている時、注意を集中しなくてもよい仕事をしている時などには、必ずポジティブな思考のスイッチを入れてほしい。達成できなかったことなどは考えないで、これからやり遂げたいことを考えるようにすれば、そうなるはずだ。

例えば、今住んでいる家が気に入らないとしよう。「この家には嫌気がさした。ある物すべてが腹立たしい。引っ越せたら嬉しいのに。でも、今のところはどうすることもできない。ああ、嫌だ、嫌だ」とあなたは自分で思う。このような思考を続けていたのでは、期待するものを手に入れるのは不可能であることを忘れてはならない。たとえもし引っ越すことが実現して、問題が解決されたかに思えても、新居ではがっかりすることが山のように待ち受けていることだろう。

もし当面どこへも引っ越すことができないならば、嫌でたまらない状況の中でこれまで通り生活し続けるしかない。なぜなら、夢の家が待ち構えている人生ラインの周波数にあなたが同調していないから。今のあなたは、気に入らないことを考え、ネガティブなエネルギーを放射しているため、そのパラメーターはあなたが今いるラインとちょうどぴったりしている。そのため、自分の放射周波数を変えない限りは、今のラインにずっとい続けるほかなすすべはない。

ところで、思考エネルギーの放射周波数を変えるのはそんなに難しいことではない。第一に、感情を鎮めて、不平不満や恨み・つらみを口にするのはやめよう。ささやかな喜びのために、いつでもどこでも好ましい面や理由は見つけられるものだ。たとえ今の家が気に入らないにせよ、せめてあなたを守ってくれたことに対しては感謝すべきである。外は風が吹き、雨が降る。今の家はそのすべてを引き受けて、あなたを守り、温めてくれる。これが感謝に値しないと言えるだろうか。もしあなたが今持っているものに感謝し、あなたを取り囲んであなたの暮らしを助けてくれるものすべてに愛情を観じているならば、あなたはポジティブなエネルギーを放射していることになる。そうすると、お望みならば自分の居住条件が向上することは十分に期待できる。もし引っ越すことになれば、あなたを取り囲んできたすべてに必ず感謝しよう。放り出しておいた物にまで感謝すべきだ。このような時、あなたからは周囲の世界にポジティブな振動が伝播していて、その振動は必ずあなたに戻ってくる。

第二に、欲しいと思う家について考えてみるようにしよう。これを実行することは、現在あなたを取り囲む物にいらだつことよりも難しい。しかし、これは考える価値のあることである。カキ貝のように外部の刺激に対して十年一日のごとき反応をするのと、ちょっと努力して自分の習慣を変えてみるのとでは、どちらが良いのか?住宅の写真が載っているパンフレットを見て、調度品を売っている店を歩き回り、欲しいものをいつも考えることで自分を元気づけよう。私たちは常に、しっかりと心をとらえる物や状況を自分のものにすることができる。私たちの思考は常にブーメランのように私たちのところへ戻ってくるのだ。

ネガティブな対応をすると、どれほど人生にダメージを与えるのかについては、計り知れない。例えば、あなたは南の
地で休暇を過ごす予定だとしよう。あいにく現在こちらは悪天候に見舞われている。通りを歩くと、寒風に身を縮め、冷たい雨に降られ、全身濡れ鼠となる。こんな天候で喜べないのは当たり前である。それなら、その破壊的等時性を無視すべく、せめてニュートラルな状態にしてみよう。もしあなたが天候について不平不満を並べ立てると、等時性を受け入れいて、それを更に勢いづかせることになる。

あなたは自分自身に言い聞かせる。「もうすぐ南へ飛んでいけるぞ。太陽の光と暖かな海が待っている。しかし、それにしても、しゃくにさわるじゃないか、このぬかるみとしたら」。こんな対応では、楽園にいるような喜びの待つ人生ラインとは波長が合っていない。南の地へたどり着くことすらおぼつかない。飛行機のチケットはもうあるのかい?あるよ、それで?それなら目的地まで行くことだけはできるだろう?しかし、待ち受けているのは悪天候下、それともほかの不愉快な出来事だろう。たとえすべてが順調に進んでいても、ポジティブな波長に合わせておくことは抜かりなくやっておくべきだ。

ネガティブなエネルギーを自分に取り込まないというだけで十分なのは明らかである。このほかに、自分でもネガティブなエネルギーを放射してはいけない。例えば、あなたが腹を立てて誰かを怒鳴りつけたとしよう。これに続いて、何らかの不快な出来事や問題が起こることはまず間違いないだろう。この場合、あなたの放射パラメーターは、あなたを憤慨させる幾本もの人生ラインに合致している。そして、まもなくあなたはそこへと移動させられる。それらのライン上では、不快な出来事の密度が平均以上の数値となっている。この不快な出来事はどうしたって避けられなかったようだ、などと言い訳して、自分を慰めてはいけない。このことについては私があなたを説得したり証明してみせる必要もないだろう。あなたがネガティブな反応をした後には、新たな腹立たしいことが続いて起こるものだということを、自分自身で注意して観察すればよいだけだ。

ここからの結論は非常に単純で分かりやすい。つまり、あなたによる思考エネルギーの放射に見合うパラメーターを持つ人生ライン上に、あなたはいつも存在する、ということだ。あなたが自分の中にネガティブなエネルギーを取り込むと、不快な事象があなたの人生に生じる。あなたがネガティブなエネルギーを放射するとそれは新たな問題となってブーメランのように舞い戻ってくるというわけだ。


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運命を選ぶ。幸せを求める。 [願望実現]


同じ方向でものごとを考える人々の集まりは、「エネルギー情報体」を形づくる。これをペンジュラムと呼ぶ。このエネルギー情報体はひとりでに成長を始め、人々を自分の決まりに従わせる。人々は、知らない内にペンジュラムの利益のために行動していることを理解していない。どうすればこのしつこい幻惑から目覚めることができるだろう。

私たちは子供の頃から、誰かの意志に従い、義務を果たし、祖国、家族、政党、会社、国家、理念などに仕えるようしつけられてきた。仕える相手は誰でもよいのだが、自分に仕える順番は一番最後である。誰にでも、程度の差こそあれ、義務感、責任感、使命感、罪悪感という感情がある。そして、誰もが様々な何らかのグループや組織に「仕えている」。例えば、家族、クラブ、学校、企業、政党、国家などである。これらすべての構造は、人々のそれぞれの集まりが同じ方向で思考したり行動したりすると、発生して成長し始める。その後、新たなメンバーが加入することで、このような構造は拡大強化され、勢力を増していく。そして、定められた決まりに従うようメンバーたちを強制し、遂には社会の大きな層を服従させるようになることもある。

このような構造は、物質的現実世界では、共通の目的で一つにまとまった人々と、建物、施設、家具、設備、機械などの物質的対象物とから構成されている。では、エネルギーレベルで見ると、こうしたものの向こうに在る目に見えない部分には、いったい何があるのだろう。人々が集団の思考が一つの方向を向くと構造が出現することから、思考エネルギーのパラメーターが同一であると言える。同じ集団に属する人間の思考エネルギーは集まり、まとまった一本の流れとなる。この時、エネルギーの真ん中で、個々に独立したエネルギー情報体、すなわちエネルギーのペンジュラムが生まれる。この構造はそれ自身が一つの生命のように独立して歩み始める。そして、この構造の中で活動する人々を自分の決まりに服従させる。

なぜペンジュラムなのか。なぜなら、より多くの人々、信奉者たちがペンジュラムに自分たちのエネルギーを与えるようになると、ペンジュラムはその分揺れ動くようになるのだ。どのペンジュラムも自分特有の周期を持っている。例えば、ブランコは一定の間隔で押すようにしないと、大きくゆれるようにならない。この間隔のことを共鳴周波と呼ぶ。ところで、もし信奉者の数が減少したら、振動は弱まる。そして、信奉者がひとりもいなくなったら、振動は止まり、死滅するのと同じになる。止まってしまったペンジュラムの例をいくつか挙げてみよう。古代の異教、石器、古代の武器、昔の流行トレンド、ビニール製のレコード盤ソノシートなどなど。これらは、言い換えれば、かつてあったが、今は利用されていないものだ。

グループとしてのペンジュラムは自分の信奉者たちの上に上部構造のように君臨し、別個の独立した構造として存在し、自分の信奉者たちのための決まりを定める。決まりとは、自分の信奉者たちをつなぎとめ、新たな信奉者を獲得するためのものだ。このような構造は、自らの決まりによってひとりでに成長を遂げて行くという意味で、独立した存在である。信奉者たちは、自分の意思によって行動しているのではなく、ペンジュラムの決まりによって行動しているということに気づいていない。例えば、官僚組織は、個々の役人たちの意志とは関係なく、独立した構造として成長する。ひとりの人間であっても、自分を代表するペンジュラムであるが、常に自分の動機を自覚しているとは限らない。

どのペンジュラムも本来は破壊的である。なぜなら自分の信奉者たちのエネルギーを奪い取り、彼らを支配しようとするからだ。各々の信奉者の運命などどうでもよいというところに、破壊性が現れている。目的はただ一つ---信奉者のエネルギーをいただくことであって、信奉者の利益につながるかどうかなどは意味のないことである。システムの影響下に置かれた人間は、システムの決まりに従って自分の人生を築かなければならない。さもなければ、その者はシステムによってかみ砕かれ、吐き捨てられてしまう。破壊的なペンジュラムの影響下に置かれてしまったら、自分の人生など簡単に打ち砕かれてしまう。脱出しようとしても、無傷で済むことはまず考え難い。

もし運の良い者がいたとして、システムの中に自分の居場所を見つけ、水を得た魚のように感じることもあるだろう。その者は信奉者となり、ペンジュラムにエネルギーを与え、一方ペンジュラムの方は、その者が存在するための環境を提供する。しかし、信奉者がシステムの決まりに違反するやいなや、その者の放射振動数はペンジュラムの周波数と共鳴しなくなる。ペンジュラムはエネルギーを得られないので、このわがままを言う信奉者を追い払うか、または、抹殺してしまう。

もし人間がその者にとって好ましい人生ラインから遠く離れたところへ連れて行かれたとしたら、本来縁のないはずのよそのシステム内で送る人生は、苦役になるか、または憂鬱なだけの生活に変わってしまう。このようなペンジュラムは、信奉者にとって破壊的である以外の何ものでもない。こうしたペンジュラムの影響下に陥った人間は、自由を失ってしまう。その者は、好むと好まざるとにかかわらず、自分を束縛する規則に従って生活し、巨大なメカニズムのちっぽけなネジ釘とならなければならない。

ペンジュラムの庇護を受ける立場に置かれ、抜きん出た成果を収める人間もいる。ナポレオン、ヒトラー、スターリンなどは、すべて破壊的なペンジュラムの寵児である。しかし、いずれにせよペンジュラムには自分の信奉者たちの幸福を気遣う意思など毛頭なく、自分の目的のために彼らを利用し続ける。後年、ナポレオンは、本当に幸福であった時があったかと聞かれ、自分の人生の中から数日だけ数え上げたという。

ペンジュラムによる宣伝に引きつけられた人々は、自分のすぐ隣で幸せが待っているにもかかわらず、そこから遠ざかっていくことがよくある。軍隊に入って非業の死を遂げる。学校へ入って自分の専門とはなり得ないはずのことを無駄に習得する。自分に向いていないはずなのに、その権威に惹かれて仕事を選び、泥沼にはまって溺れる。自分の人生を他人に結びつけてしまい、後になって苦しむ。

ペンジュラムの特徴を挙げて行こう。
●自分の信奉者たちのエネルギーを受け取り、それによって振幅を増大させる。より多くのエネルギーを受け取ろうとして、できるだけ多くの信奉者を自分に惹きつけようとする。自分の信奉者たちのグループを他のすべてのグループと対立させる。信奉者になりたくない者ならだれであれ攻撃的に非難し、自分のが環に引き入れるか、無力化するか、または排除するかしようとする。自分の行動を正当化し、より多くの信奉者を獲得するために、上品で魅力的な仮面を被り、高尚な目標を掲げて装い、人々の感情をかき立てる。

大事なのは、ペンジュラムの腹を読み、自分のためにならないゲームには乗らないようにすることだ。破壊的なペンジュラムかどうかを簡単に見分けられる一つの特徴がある。それは、常に自分と似たようなペンジュラムとの間で人々の獲得競争を行って、張り合っているということにある。目的はただ一つ。なるべく多くのエネルギーを得るために、できるだけたくさんの信奉者を獲得することである。信奉者獲得競争において、攻撃的に振る舞えば振る舞うほど、ますます破壊的な性質が剥き出しになり、個々の人間の運命にとっては危険なものとなる。

慈善団体、自然保護団体、動物保護団体などもあるのに、それらの組織団体のどこが破壊的なのか、といった異議を唱える人がいるかもしれない。しかし、あなた個人にとって、こうした組織団体は、いずれにしろあなたのエネルギーを摂取する存在であって、あなたの幸福や平穏無事な暮らしには一切関心を持っていないのである。彼らは、あなたに対しては無関心でいるのに、他人に慈悲深くあれと訴える。こうした仕事に従事していて、あなたはこれで満足であり、本当に自分が幸せだと感じるのなら、それは天職と考えてよく、あなたは自分のペンジュラムを見つけたことになる。しかし、ここであなたは自分の気持ちに正直になる必要がある。あなたは庇護者の仮面を被ってはいないだろうか。他人の幸せのために本当に心から自分の労力や金銭を提供しているだろうか。それとも、自分の気持ちを楽にしたいがために、慈善行為のまねごとをしているだけではないだろうか?

破壊的ペンジュラムは、人々が自分の運命を選ぼうとするのをやめさせる。なぜなら、もし人間が自由に選択できるようになると、その者は独立性を勝ち得ることになるからだ。そうなると、ペンジュラムはその者を自分の信奉者として取り込むことができない。けれども、私たちの意識は、運命が天から与えられたものであるという考え方に慣れてしまっており、もっと気に入っている別の運命をただ選ぶことができると信じるのは、実際、とても難しい。一方、ペンジュラムとして、信奉者をコントロール下に置いておく方が都合がよい。そのため自分の手先を使って操るために、ありとあらゆる手段を発明する。

ある法則の場合を考えてみると、もしそこから熱狂的崇拝や運動や周波などが生まれれば、ペンジュラムになり得る。もちろん様々なペンジュラムが、程度の違いはあるがそれぞれ破壊的な面を持っているのだが、この成功法則は、最悪の場合でも破壊的性格から最も遠い存在になるだろう。なぜなら何らかの共通な外部目標にはなり得ず、個人個人の幸せだけを求めるからである。そのため、このようなペンジュラムは、自分の運命だけに関心を寄せる個人によって構成される集団であるから、あったとしても大変に風変わりなものであろう。





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引き寄せという収縮 [願望実現]

肉眼で見えるこの現実世界を成り立たせているのは、見えない内側なのです。見えない内側の表れが外側のカタチとなって現実化します。内なるものが外へカタチをとるだけです。内なる心のありよう、愛のありようが、自動的に外へ具体的な結実となるのです。そして、この結実なくして、何かを受け取ることなど不可能です。 完全なる万物一体愛の神意識に至る以前に、愛の進化には4段階があります。 1・愛がほしいだけ 2・ギブ&テイクという損得をもとにした愛の取引(かけひき計算) 3・愛をただ発動して与えることしか思っていない。 4・与えるとか、受け取るとか、そういう区別さえどうでもよくなっている。ただ愛の状態にある。 1は、まだ完全に動物意識。2は、動物意識の頂点である人間意識。3からは神意識。 虚空から生まれる命の動きには二つの働きが備わっており、遠心力と求心力の双方向システムになっています。愛の方向が二つで一対です。A:中心から外へ拡大(発展繁栄・神化)しようとする愛 B:中心へ収縮しようとする愛 Aは創造結実に向かっていくエネルギーなのです。愛の遠心力です。発展・繁栄を欲求する愛の動きです。積極的な側面です。「愛を与えよう」という意志です。Bは受け身的で控えめな側面の愛です。消極的な側面です。受容性です。「愛を与えられよう」という受け取る側面です。 愛を感じると、自動的にいやでも拡大するのです。愛だけが拡大増殖のエネルギーだからです。ただ、愛という肉眼で見えないものが、拡大だけの方向性しかなかったなら、どこまでいっても見えるカタチでの結実が起こりません。どこかで動きが止まってくれるからこそ、結実(現実化)起こるのです。 動きが止まってくれるのは、愛の源泉へ戻ろうという、収縮しようとする働きによってです。愛の拡大が止まってくれて、結実になったあとは、ありがたいことに自動的に源泉である中心の方へ戻るのです。中心へと引き寄せられていくのです。これもまた「収縮しようとする働き」のおかげです。 多くの人が引き寄せという収縮の方向(収縮の動き)を主に願っていますが、真っ先に愛の放出や拡大がないのに、当然そこからの結実もないのに、一体何を引き寄せるというのでしょうか?しかも引き寄せのエネルギーは、収縮と破壊のエネルギーですから、引き寄せだけを願っていると、創造の愛が崩壊することしか起こりません。愛と至福の心の種子を自ら、蒔いてもいないのに、回収することなどできるはずがないのです。

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思考の制約を外す [願望実現]


今までの私たちの歴史は、「感情を体験して学ぶ時代」でしかたら、私たちは実にたくさんの感情と人生ドラマを創ってきました。そのドラマの主人公のキャラクターになりきって演じてきました。感情ドラマを体験するために、わざわざ辛い感情を創る必要があり、そして、その感情毒素を癒すという必要性もあったのです。

ただ、今まではそうでしたが、これからは、永遠に続く真のエクスタシー(生きる喜び)を体感して学ぶ時代に入ります。いちいち辛い感情を創っては癒すという必要がなくなったのです。過去の私たちは、価値観を二極化させて、不自然で苦しい感情を学ぶための、「体験の場を開く」ことは得意でしたが、「体験の場を完了して閉じる」という方法を、完全に忘れてしまったのです。どうぞ思い出していただきたいのですが、ただ単に、「あらゆる感情の全てがOKだ」と認めて受け容れるだけで、「苦しい体験場」は閉じます。

あなたが、二極化した価値観を等しくバランスさせて、全面的に生きる喜びになってしまうと、全ての感情の傷が一気に癒されてしまうからです。そういう時代が、もう、目の前です。地球に降り注ぐ光のツブツブの量が、ものすごく変化してきているのです。光そのものが持っている生きる喜び(真のエクスタシー)がパワフルになってきているのです。ですから、この新しい光の波の質に乗り遅れないようにしてください。光の波の質は、喜びでもあり、大いなる豊かな愛でもあり、私たちはこの光の波が不足する時に、強い飢餓感を覚えるのです。そして、お金、食べ物、SEX、ギャンブル、知名度、名誉などを激しく欲する心になります。

そして、いろいろな思考を使っていると、新しい光の波に間に合いません。今までのように、ジャッジしたり、批評したり、理屈を言ったり、あるいは、悩んだり、葛藤したり、疑っていると、新しい光の波に乗れません。

つまり、新しい「今ここ」という時を創ってくれる、光の波や光のツブツブを受け取れないということになります。新しい光を受け取れないわけですから、当然ながら新しい体(進化した体)になれないし、新しい脳(進化した脳)になれないし、新しい血液や新しい自分自身が創られない。

思考、理屈、判断、分析などは、「限定された特定の周波数」ですから、決まりきった現実しか創れません。世間が当たり前だと思っている常識の範囲でしか、現実が起こりません。自分で勝手に思い込んでしまった「無理」「不可能」「だって、できない」などの思考の制約を外してください。

判断や分析のエネルギーは、私たちを無条件の愛や喜びにアクセスすることを制限するようなエネルギーなのです。ですから、エネルギーの種類を見極めるための「識別力」を持つ必要があります。混同していただきたくないのは、「識別すること」は、「判断すること」とは違うものだという点です。

どのような質のエネルギーなのかを見極めるという意味の「識別力」は、中立で公平な力であり、自由になるためのツールですが、「判断すること」は不公平なツールなのです。

是非とも、自由でイキイキとした気持ちをあなたから奪うような判断理論やプログラムを中立に「識別」し、分別して、喜ばしくないものは捨て去るようにしてください。「識別」はあなた次第です。あなたの喜び、あなたの幸せ感は、絶対に他人は創れません。人に頼っていたら無理なのです。あなただけが、あなたに与えられる。全てを誰かのせいにしていると、一生不満で不足で、文句を言い続けるだけになります。

光りのツブツブは、私たちの全身空間の1立方センチあたりに、1秒で、30億個が通過しています。この「光の波」をあなたの体に貫通させてください。そう意識して感じるだけで、そうなるのです。

あなたの全身に新たな光りを貫通させながら、それを充分に受け取ると、生きる喜び(真のエクスタシー)が無限に感じられて、これ以上ないくらいの至福を観じます。

死の概念から完全に抜け出て、「いつまでもどこまでも生きていい自由があるのだ」とあなたが喜ぶことによって、細胞へ光が充分に着床できます。光が着床すると、あなたの「今の時」がますます豊かに実るのです。実った喜びの波動が、さらに次の「時」を、そしてまた次の「時」を、というように、永遠に喜ばしい創造をしていくのです。

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意識を今に [願望実現]

人生でこれまで「まま子扱い」されてきた、「肉体」と呼ぶものに対して、あなたが好感を持ってほしいと思います。あなたの肉体ほど従順で忠実な召使はかつていませんでした。これほど喜んで仕事に励んだ召使いはかつていませんでした。これほど喜んで仕事に励んだ召使はほかにはいません。それなのに、まるで自分の肉体が自分のものでなかったらいいのに、というような態度が見られます。そして、ほとんどいつも自分の肉体に満足していません。若すぎるか年を取りすぎている、太り過ぎてるか痩せすぎている、背が高すぎるか低すぎる・・・いつも何か不満を持っています。肉体があなたから受け取る言葉は、「ありがとう。本当にありがとう。歩いたり、話したり、見たりできることに感謝しています」というものでは決してありません。いつも不平や非難です。肉体がいつも聞かされるのは、「まあ、これを見て、何てひどい。ダメねぇ」というものです。細胞は自分たちはダメなのだというメッセージを受け取りますが、間違っているのは、本当はあなたのほうなのです。

肉体は、なじみのない困難な状況のもとでも、あなたに気に入られようと努力します。けれども同時に肉体は、究極的にはあなたを喜ばすことは不可能なことを知っています。あなたの究極的な命令は、「年を取るな」というものだからです。

肉体は、自分は年老いた状態で完了するということを知っています。病気で体が動かず、衰えきっているという状態ではなく、生きる喜びに溢れて、ダイナミックで前向きの姿勢で年を取っているという状態です。「旅も終わりに近い。いい気分だ。うまくいっている。行くべきところにこれから行くのだ」ということです。

50歳なのに20歳にしか見えないとしたら、どこかが本当におかしいのです。そして、そう見られたいと思っているのなら、あなたは肉体の自然に反することを望んでいるわけです。そういう人は肉体に対して常に、「それではダメだ」というメッセージを送っています。そうすると、細胞はどんどん緊張していきます。この世で生き抜いていく不安を感じているあなたは、自分の頭は「ちゃんとやれる」だろうと感じているので、ますます思考に頼ろうとします。そこで頭は肉体がどう「感じて」いるかにはまったくお構いなく、肉体がどうすべきかを決定します。肉体は何かを創るために「考え」ませんが、頭は考えます。肉体はそれ自体の自然のリズムを持っていて、それが肉体をきちんと導いているのだということを、頭は「忘れて」しまうのです。


人は、ほかの召使いに対しては、親切で温かく感謝の気持ちを持って接するのに、最も身近な召使である肉体に対しては、そうした思いやりはまったく見せません。肉体に与えるメッセージの内容を変えると、肉体は緊張を解くようになるでしょう。リラックスして、本来のあるべき道筋を歩けるようにしてください。神は肉体の感覚を通して体験することができます。ですから、今日やるべきことは二つあります。

先ず第一に、あなたの意識が肉体のなかになく、体が感じていることを常に意識していなかったら、神を感じることはできません。

第二に、自分が存在することの不思議やすばらしさ、今この世にこうして自分がいることの完璧さや適切さを感じるのは、あなたの頭脳ではありません。それは肉体のすみずみにまで響き渡る感覚なのです。

あなたが今この空間尾なかにいることは、まさに「ふさわしい」のです。人それぞれが、大いなる全体性のなかで独自の位置を占めており、それぞれが自分の居場所の適切さを実感することが、人生に喜びをもたらします。自分のいる場所が、自分にとって適切なものだと感じると、人生の喜びやすばらしさや神秘を体験できるようになり、ほかの人間が何を言おうと、どうでもよくなります。

神の存在のパワーを感じたことがある人もいます。そういう人は、大きな悩みや不安や困難に直面しているときに、神の助けを求めたら、平安が突然心を包み、再び生きていく力が出てきて、するべきことができるようになったという経験をしています。自分のまわりにあるエネルギーが、前よりも強く振動しはじめて、それを感じることができるようになり、それがその人を支え励ましてくれるのです。

肉体は、あなたが空間と呼ぶエネルギー域のなかに一定の空間を切り開いています。こうして切り開かれた空間は、あなたのまわりで生き生きと息づいています。今日一日を過ごすなかで、自分が「無」と呼ぶものと、自分の肌がどこで接し、どこで「無」を通り抜けているのかを感じてみてください。

あなた方が「無」と呼ぶものは、私が「満たされたもの」と呼ぶものです。みなさんにとっては無と空間は同じものですが、私にとっては空間は満たされています。自分の肉体を、神秘に満ちた物質のなかを動いていくものとして感じるようにしてください。人が求めているものはすべて、まわりの空間のなかにあります。自分にとって最もふさわしい空間のなかに、自分はしっかりと守られて在るのだということに気づくと、あなたの「存在」はリラックスします。

このことに気づくため、床の上にある自分の足に意識を向けることをしてもらいます。では、立ち上がって、自分の全意識を足に向けてください。そしてゆっくりと静かに体を前後にゆすって、それから左右にゆすり、そしてまた、前後にゆすりましょう。体をゆすりながら、自分がゆすっている対象が何かあるのだ、ということを感じるようにしてください。片側に、そしてその反対側にも何かがあります。自分の足がしっかりと床についているのを感じることを忘れないでください。

歩いているときは、この物質のなかを自分が通り過ぎているのだというつもりで歩いてください。手を動かすときに、何かすばらしいものを押しやっているかのように感じてください。自分の息が、まわりの空気を優しくなでているのを感じてください。それは、実にいのちに溢れたものなので、そういうふうに感じてほしいのです。これが神の存在を感じる練習と呼ばれるものです。当然ながら、神の存在を感じる練習をするには、あなたの意識は今ここになければなりません。

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四次元の意識 [願望実現]


”神意識”と呼ばれる神秘に満ちた意識を、何とか理解したいと考えているでしょう。この意識が、目に見えるものでも自分で実感できるものでもないので、それを自分からかけ離れた遠いところにあるもの、時間や空間をも超えたところにあるものと考えているようです。そこで、あなた方はこのエネルギーと自分たちの惑星との関係について、こう質問します。

「”神なるもの”と呼ばれるエネルギーは、地球界にその存在を明らかにすることがあるのでしょうか。それは人間と直接、その場で目に見える形でかかわることができるのでしょうか」
その答えは「イエス」です。そうできるばかりか、現実にそうしています。そうした例の一つが、毎年12月にイエスまたはキリスト(救世主)を記念して、みなさんが祝うものです。「私たちがイエスのようになれるようにと、私たちを導くためにイエスが地球にやってきたのだということを、心から実感できるようにしてください」と人々は言います。「イエスのように」と言うのは、普通の意味ではなくて、自分が何なのかを明確に知り、”聖なる父”とは何なのかを明確に知り、自分と”父”との関係がどんな関係なのかを明確に知っているという、そういう目覚めた意識において、「イエスのように」ということです。人々は、イエスがしたように奇跡や不思議な行為をあとに残しながら、地球界での様々な体験をしていくことを強く願っています。

人間は、物事があまりに奇跡的に見えるのを好まないという傾向を持っているので、クリストス(キリスト意識)の人生の旅における奇跡の多くは失われています。キリストは最高の意味で魔術師でした。彼はその瞬間に存在するエネルギーをすべて取り入れ、自分自身のなかで変容させ、何か違うものとしてそれを世界に現すということができました。するとまわりの世界は、一瞬前とは違ったものになりました。これこそが本物の魔術師です。呪文を唱えたりすることはまったくなく、ただ絶対に揺らぐことのない目覚めた意識があるだけでした。そして、エネルギーを取り入れて、それまでなかったチャンスや希望、すばらしく高い波動を与えるものを世界に送り出したのです。そのためにイエスはやってきたのであり、それがイエスのしたことです。

キリストの到来とともに、ある贈り物がこの地球に与えられました。キリストの球形のパワーが、地球の時間と空間のなかをものすごいスピードで突進して、地球界のエネルギー域のなかに入ってきたときに、二つのことが起こりました。

まず最初に起こったことで非常に重要なのは、キリストは、「四次元」と私たちが呼ぶ世界とこの次元との間に通路を残し、以来この通路がふさがったことは決してありません。彼が通路を残したわけは、四次元の魔力や荘重さ神秘や美しさ、慈しみや喜び、叡智や静寂のすべてを、誰にでも体験してほしいと思ったからです。これが一つです。これだけでも大変なことです。

二番目の出来事は、クリストスの新しいエネルギーの渦がこの地球界に入ってくるときに、地球界自体のネエルギーを加速して、地球界をそれまでよりも高い波動周期へと移行させることができたということです。クリストスは自分の本質として生きることによって、ただそれだけでまわりのものすべてに変化の機会を与えました。クリストスのエネルギーがまわりの人間に向けられると、内なる深い希求を意識していた人たちは心の扉を広く開けたままにして、それを受け容れました。そうすると、あらゆるものを変化させる異次元からのパワーを感じ取ることができました。当時キリストの近くにいて得られたものは、現在でも得ることができます。そしてそれが得られるのは、静寂のなかにおいてです。



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高次な意識 [真実]


目覚め、
目覚め、高次な意識で動けば「カルマの法則」などない。

大半の人は、現実界の錯覚は、人生と人生の狭間の「インチキ天国」あるいは「インチキ地獄」という領域にまで、延長されている。この領域は、この現実界に近接した振動次元であり、そこでは死と再生のサイクルの中で、「進化」するためにはこうしなければならないという思い込みに意識が囚われることになる。「再生」という言葉は、再び肉を持つという意味である。こうした人生と人生の間の現実界は、支配システムにとって必要不可欠な部分であるが、この現実界よりも、少しだけ広がりのある認識・思い込みを持つことができる。「死」を乗り越えたこと、複数の現実界(世界)が存在することには気づく。これはテレビ番組に出る霊能者のような人々が接続する次元である。

彼らは、他界した父親から「その仕事に就職しなさい」とか、亡くなった母親から「猫の面倒を見てくれ」といったメッセージを人々に伝える。そんな番組が実際にあり、私は何週間も毎晩のように見えていたことがある。その男の霊能者(霊媒)が伝える情報には、驚くほど正確なものもあり、彼がどこかと交信している事実は明らかに思えることが多かった。記憶に残っているものとして、あの時の番組で、彼は番組参加者の家族の父親(夫)と交信に成功したと言った。「彼は、この世に少しいて、次には無効にいたと言っている。最後に聞いたのは、(娘が)お父さん、大丈夫?と言った声だった」と霊媒は伝えた。家族は、その通りであり、父親がソファに座っていたかと思うと、次の瞬間には心臓発作で卒倒して死んでおり、娘が「お父さん、大丈夫?」と叫んだ事実を認めた。もちろん、商売としてペテンの霊能者は存在するし、巧みな言葉と心理操作で情報を拾い集め、それをあたかも「あの世」からのメッセージとして伝える者もいる。だが、全ての霊能者がそうではない。例によって職業的懐疑論者たちは、「この世しかありえない」という自己の思い込みを防衛しようと必死になり、何もかも一緒くたにして非難を浴びせている。

こうしたテレビ番組だけでなく、世界中のさまざまな事例を合わせて考えると、「あの世」から通信された情報は、全て「この世」的な現実認識に基づいていることが分かる。あの世からやってきた者が、「これは全部、錯覚なんだ。宗教なんかクソだ」と言うのを私は聞いたことがない。テレビで霊能者が、亡くなったイスラム教徒の父親のメッセージを息子に伝えているのを見たことがあるが、それには「信仰を大切にしなさい」という忠告が含まれていた。ということは、人生と人生の間の領域には、イスラム教の天国、キリスト教の天国、ユダヤ教の天国などが、それぞれ存在していると考えなければ、理解できないことになる。

それは肉体を離れつつも、依然として高次な意識から隔絶されたままの、集合的なマインドが創造した世界であり、依然として宗教的な思い込みが認識を大きく左右し、ひいては経験として現れることも大きく左右しているのである。つまり、依然としてマインドという形態に囚われているのだ。バカは死んでも治らないと言われる通りである。

肉体の感覚から脱却すると、魂と神秘体(仮想現実を経験する主体)は、その関心を「人生と人生の間」の領域に写す。臨死体験をして「トンネル」をくぐり抜けたといった人々が経験するのはそれである。魂の振動・共振が、人生と人生の間の現実を決めるが、マトリックスにおける人間の経験の作用は、あまりにも強いため、魂の覚醒の印藤状態を低下させ、死と再生のサイクル(という認識)の罠に閉じ込めてしまう。

物質的な肉体・マインドを通じて物質的な現実を直接に経験してきた神秘体は、さまざまな生まれ変わりを通じてその役割を繰り返しているため、そうした経験の結果が振動的に刻み込まれている。これは、神秘体・魂が別の人生の肉体に反映されたものであり、肉体に説明のつかない印を持つ人がいる理由でもある。こうした生まれ変わりや経験は、再生サイクルから脱却できるところまで共振を速くするか、あるいは、共振を遅くし、神秘体・魂を再生サイクルの振動の範囲に囚われたままにするかのいずれかの振動的な影響をもたらす。多くの人々が、時間の環に戻ったとき、プログラムへとあっさりと引き込まれてしまう理由はここにある。前も同じようなことをしていたからだ。それをわたしの声の主は教えてくれた。

たとえとして、人々が、空から草原の小道に落下している映像を見せられた。声の主によると、マトリックスの中にいる意識は、「再生」を通じて時間の環を出入りするサイクルに捕獲されているため、一回きりの「肉体」の生涯という思い込みに条件付けられているだけではない。時間の環の中で延々と続く経験による条件付けもあり、「肉体」の旅の合い間にも別の形態の錯覚に陥っているという。つまり、時間の環の現実界に戻り、いっそうの条件付けにさらされることになる時点ですでに、条件付けされているのである。そのために、人類は条件付けされた隷属状態に簡単に陥ることになる。人類は何度も同じ状態を経験しているのだ。こうした話を聞いている内に、小道のある土地を足が踏みにじり、小道がレコードの溝のように見えるまですり減っていった。その溝はさらに深くなり、小道を歩いていた人々は、暗い溝の中に深く深く入り込んでいき、最後には見えなくなってしまった。「人間が空を見上げて神を求めるのも不思議ではないだろう。光があるとしたら、空を見上げるしかないのだ」と声の主は語った。

しばしば臨死体験者は、家族などに会い、地球での仕事は完了していないので、戻らないといけないと言われたと回想している。こうした瞬間には、大きな愛を感じたと話すが、それについては私も疑うことはない。だが、彼らもまた依然として錯覚の中にいる。仮想現実のマトリックスの誕生・死・再生というサイクルの罠に意識をはめる別の虚偽の現実である。この現実界から引き揚げるときには、本当の自己に目覚めておくことが実に重要である。そうでなければ、あらゆるレベルの錯覚から解放されることはなく、錯覚の振動の「壁」の向こうにある本当の自己、人生と人生の間の領域の錯覚の向こうにある本当の自己との再接続もできなくなってしまう。

生まれ変わりは、カルマ(業)とも言われるが、因果と関係している。自分がしたことが自分に返ってくるというカルマの法則は、仮想現実および人生と人生の間の領域の振動・数学的構造物の中でのみ成立する。意識に目覚め、高次の意識で動くようになれば、何の法則もない。カルマも一つの可能性に過ぎず、「あらゆる可能性」の中で固定的な「法則」として存在することはできない。我々自身の行動の結果に直面することなくして、どうやって我々は「学ぶ」ことができるのかと、疑問に思う人もいるだろう。だが、あらゆる可能性、無限なる意識は、「我々」ではなく、「私」である。このレベルの認識になると、全ては一つであり、因果(カルマ)という対極性も存在しない。

いずれにしても、「あるもの全て」には学ぶべきことはない。全て知っており、全ての可能性を持つ。因果(カルマ)は、仮想現実の宇宙のゲームの一部であり、基本的には、魂の神秘体に刻印された濃厚な密度の振動(これが再生サイクルの密度に魂を閉じ込めるわけである)を消し去ることに関連している。この刻印が、魂の状態を反映しており、我々は全て一つであるという自己認識(気づき)をもたらす「自分のしたことが自分に返る」を基本とした経験のサイクルがカルマである。声の主が「全てのは一カ所に集められ、一頭たりとて孤独に野原に置き去られる羊はいない」と述べたのは、この生まれ変わり・カルマのサイクルのことを話していた面もある。

操作をしている者たちも、当然ながら、同じサイクルに囚われているが、彼らはそれから脱却したいという願望がないようである。彼らは、あまりにも利己主義と支配に夢中になり、恐怖に囚われているため、それ以外は何も関心がなく、精神的成長など眼中にない。彼らは、そうした低次元の密度領域で生きる術を心得ており、彼らが極めて短い「肉体」人生へと追いやった人間よりも遥かに長生きできる化身(具体化した姿)で生きている。彼らの基本的な関心は、なるべく多くの魂を生まれ変わりのサイクルに閉じ込めておくことであり、それによってエネルギー的なエサを得ることにある。
で動けば「カルマの法則」などない。

大半の人は、現実界の錯覚は、人生と人生の狭間の「インチキ天国」あるいは「インチキ地獄」という領域にまで、延長されている。この領域は、この現実界に近接した振動次元であり、そこでは死と再生のサイクルの中で、「進化」するためにはこうしなければならないという思い込みに意識が囚われることになる。「再生」という言葉は、再び肉を持つという意味である。こうした人生と人生の間の現実界は、支配システムにとって必要不可欠な部分であるが、この現実界よりも、少しだけ広がりのある認識・思い込みを持つことができる。「死」を乗り越えたこと、複数の現実界(世界)が存在することには気づく。これはテレビ番組に出る霊能者のような人々が接続する次元である。

彼らは、他界した父親から「その仕事に就職しなさい」とか、亡くなった母親から「猫の面倒を見てくれ」といったメッセージを人々に伝える。そんな番組が実際にあり、私は何週間も毎晩のように見えていたことがある。その男の霊能者(霊媒)が伝える情報には、驚くほど正確なものもあり、彼がどこかと交信している事実は明らかに思えることが多かった。記憶に残っているものとして、あの時の番組で、彼は番組参加者の家族の父親(夫)と交信に成功したと言った。「彼は、この世に少しいて、次には無効にいたと言っている。最後に聞いたのは、(娘が)お父さん、大丈夫?と言った声だった」と霊媒は伝えた。家族は、その通りであり、父親がソファに座っていたかと思うと、次の瞬間には心臓発作で卒倒して死んでおり、娘が「お父さん、大丈夫?」と叫んだ事実を認めた。もちろん、商売としてペテンの霊能者は存在するし、巧みな言葉と心理操作で情報を拾い集め、それをあたかも「あの世」からのメッセージとして伝える者もいる。だが、全ての霊能者がそうではない。例によって職業的懐疑論者たちは、「この世しかありえない」という自己の思い込みを防衛しようと必死になり、何もかも一緒くたにして非難を浴びせている。

こうしたテレビ番組だけでなく、世界中のさまざまな事例を合わせて考えると、「あの世」から通信された情報は、全て「この世」的な現実認識に基づいていることが分かる。あの世からやってきた者が、「これは全部、錯覚なんだ。宗教なんかクソだ」と言うのを私は聞いたことがない。テレビで霊能者が、亡くなったイスラム教徒の父親のメッセージを息子に伝えているのを見たことがあるが、それには「信仰を大切にしなさい」という忠告が含まれていた。ということは、人生と人生の間の領域には、イスラム教の天国、キリスト教の天国、ユダヤ教の天国などが、それぞれ存在していると考えなければ、理解できないことになる。

それは肉体を離れつつも、依然として高次な意識から隔絶されたままの、集合的なマインドが創造した世界であり、依然として宗教的な思い込みが認識を大きく左右し、ひいては経験として現れることも大きく左右しているのである。つまり、依然としてマインドという形態に囚われているのだ。バカは死んでも治らないと言われる通りである。

肉体の感覚から脱却すると、魂と神秘体(仮想現実を経験する主体)は、その関心を「人生と人生の間」の領域に写す。臨死体験をして「トンネル」をくぐり抜けたといった人々が経験するのはそれである。魂の振動・共振が、人生と人生の間の現実を決めるが、マトリックスにおける人間の経験の作用は、あまりにも強いため、魂の覚醒の印藤状態を低下させ、死と再生のサイクル(という認識)の罠に閉じ込めてしまう。

物質的な肉体・マインドを通じて物質的な現実を直接に経験してきた神秘体は、さまざまな生まれ変わりを通じてその役割を繰り返しているため、そうした経験の結果が振動的に刻み込まれている。これは、神秘体・魂が別の人生の肉体に反映されたものであり、肉体に説明のつかない印を持つ人がいる理由でもある。こうした生まれ変わりや経験は、再生サイクルから脱却できるところまで共振を速くするか、あるいは、共振を遅くし、神秘体・魂を再生サイクルの振動の範囲に囚われたままにするかのいずれかの振動的な影響をもたらす。多くの人々が、時間の環に戻ったとき、プログラムへとあっさりと引き込まれてしまう理由はここにある。前も同じようなことをしていたからだ。それをわたしの声の主は教えてくれた。

たとえとして、人々が、空から草原の小道に落下している映像を見せられた。声の主によると、マトリックスの中にいる意識は、「再生」を通じて時間の環を出入りするサイクルに捕獲されているため、一回きりの「肉体」の生涯という思い込みに条件付けられているだけではない。時間の環の中で延々と続く経験による条件付けもあり、「肉体」の旅の合い間にも別の形態の錯覚に陥っているという。つまり、時間の環の現実界に戻り、いっそうの条件付けにさらされることになる時点ですでに、条件付けされているのである。そのために、人類は条件付けされた隷属状態に簡単に陥ることになる。人類は何度も同じ状態を経験しているのだ。こうした話を聞いている内に、小道のある土地を足が踏みにじり、小道がレコードの溝のように見えるまですり減っていった。その溝はさらに深くなり、小道を歩いていた人々は、暗い溝の中に深く深く入り込んでいき、最後には見えなくなってしまった。「人間が空を見上げて神を求めるのも不思議ではないだろう。光があるとしたら、空を見上げるしかないのだ」と声の主は語った。

しばしば臨死体験者は、家族などに会い、地球での仕事は完了していないので、戻らないといけないと言われたと回想している。こうした瞬間には、大きな愛を感じたと話すが、それについては私も疑うことはない。だが、彼らもまた依然として錯覚の中にいる。仮想現実のマトリックスの誕生・死・再生というサイクルの罠に意識をはめる別の虚偽の現実である。この現実界から引き揚げるときには、本当の自己に目覚めておくことが実に重要である。そうでなければ、あらゆるレベルの錯覚から解放されることはなく、錯覚の振動の「壁」の向こうにある本当の自己、人生と人生の間の領域の錯覚の向こうにある本当の自己との再接続もできなくなってしまう。

生まれ変わりは、カルマ(業)とも言われるが、因果と関係している。自分がしたことが自分に返ってくるというカルマの法則は、仮想現実および人生と人生の間の領域の振動・数学的構造物の中でのみ成立する。意識に目覚め、高次の意識で動くようになれば、何の法則もない。カルマも一つの可能性に過ぎず、「あらゆる可能性」の中で固定的な「法則」として存在することはできない。我々自身の行動の結果に直面することなくして、どうやって我々は「学ぶ」ことができるのかと、疑問に思う人もいるだろう。だが、あらゆる可能性、無限なる意識は、「我々」ではなく、「私」である。このレベルの認識になると、全ては一つであり、因果(カルマ)という対極性も存在しない。

いずれにしても、「あるもの全て」には学ぶべきことはない。全て知っており、全ての可能性を持つ。因果(カルマ)は、仮想現実の宇宙のゲームの一部であり、基本的には、魂の神秘体に刻印された濃厚な密度の振動(これが再生サイクルの密度に魂を閉じ込めるわけである)を消し去ることに関連している。この刻印が、魂の状態を反映しており、我々は全て一つであるという自己認識(気づき)をもたらす「自分のしたことが自分に返る」を基本とした経験のサイクルがカルマである。声の主が「全てのは一カ所に集められ、一頭たりとて孤独に野原に置き去られる羊はいない」と述べたのは、この生まれ変わり・カルマのサイクルのことを話していた面もある。

操作をしている者たちも、当然ながら、同じサイクルに囚われているが、彼らはそれから脱却したいという願望がないようである。彼らは、あまりにも利己主義と支配に夢中になり、恐怖に囚われているため、それ以外は何も関心がなく、精神的成長など眼中にない。彼らは、そうした低次元の密度領域で生きる術を心得ており、彼らが極めて短い「肉体」人生へと追いやった人間よりも遥かに長生きできる化身(具体化した姿)で生きている。彼らの基本的な関心は、なるべく多くの魂を生まれ変わりのサイクルに閉じ込めておくことであり、それによってエネルギー的なエサを得ることにある。


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覚醒レベル [願望実現]



創造物とは、それぞれの密度で形成されたさまざまな世界が一連につながったものである。あるいは、それぞれの周波数帯域で振動するさまざまな「次元」の現実が集まったものである。こうした全ての世界(次元)は、同じ「空間」を共有しており、静寂・不動の「空」そのものも同じ「空間」にある。

少なくとも、一つの言い方として、そういう言い方ができるということである。より正確に言えば、我々が創造物と呼んでいるものは、連続していて継ぎ目のないエネルギー場であり、「次元」とか「層」といった錯覚を認知しているのは、他でもなく観察者なのである。

例えば、人間の形態を持つ存在は、「可視光線」という周波数の範囲だけを見ている(観察している)。猫など多くの動物は、もっと広範囲の可視領域を持っているため、人間には見えないものが見える。それをもって猫は「異次元」を見ることができると言えなくもないが、実際には、同じエネルギー場でより多くのものを見ているだけのことである。このエネルギー場は、多くの密度(同じ空間を共有しているのであって、階層的に積み上がっているわけではない)から構成されており、その内のどの密度の範囲を解読するかによって「世界」の認識が創造される。その「世界」が存在しているのではなく、観察者によって、「世界」が存在しているかのような状態が創られているのである。

密度場は情報に過ぎず、我々が解読する密度が、我々にどんな情報が利用可能になるかのレベルを決定する。我々がアクセスできる周波数は高いほど、より多くの情報が利用可能になり、「覚醒」も容易になる。人類を操作する者たちは、我々が解読可能な周波数の範囲を狭くすることで、情報を限定し、覚醒を制限して、我々を無知なままにしたいと願っている。これこそが人間(の形態)を遺伝子的に工作する計画の主たる動機である。ごく単純化して言えば、静寂・不動の「あるもの全て」(根源)があり、その創造物として「密度」とか「次元」と言われる連続した周波数帯域がある。これらの密度は、波形の構造物(非物質)であり、多くの密度には、何らかの肉体のような「乗り物」を通じて解読され、表に現れるホログラムの「物質」レベルがある。これらは、いわば異なる「生物種」である。また、さまざまな「物質世界」は、さまざまな密度でもあり、我々がいるこの現実よりも、ずっと「固形」度が低い(密度が低い)ことがある。

「あるもの全て」のさまざまな側面が、こうした密度(世界)を経験することで、「あるもの全て」は自らを経験することができる。我々が知っているような意味での形がない純粋な意識の領域もあれば、我々が「物質」と思っているような意味での形がない純粋な意識の領域もあれば、我々が「物質」と思っているような密度の高い次元もある。私は、この我々の世界(我々が解読する範囲の周波数)の事を「第三密度」と呼んでいる。それと近接する世界で、別の共振に合わせて振動しているのが、「第四密度」と呼ばれる領域であり、「アストラル界」と呼ぶ人もいる。

大事なのはこうした名称ではなく、陰謀は、可視光線の範囲外(極めて近接しているが)の密度から画策され実施されていることである。我々が進歩して根源へと回帰するほど、密度の振動的な共振は増し、最後には静寂と不動の状態へと変容していく。そこで我々が「あるもの全て」を自覚する「故郷」に帰るのである。

この道理のことを「天国への階段」のようなものにたとえることができるだろう。つまり、自らの覚醒レベルを、有限から「あらゆる可能性」へ、自己への奉仕から全体への奉仕へと拡大することで、振動の階段を上っていくのだと捉えることもできる。自己から全体への拡大は非常に重要である。自らの覚醒を拡大していくと、自らを、錯覚である「部分」ではなく、全体と同一視するようになる。すると当然の成り行きとして、錯覚である個(自己への奉仕)から生じる利己ではなく、全体に役立つこと(他者への奉仕)へと関心は移っていく。第四密度というところは、依然として自己に奉仕するという状態がある世界の範囲内では、最も高度に進歩したところのようである。

世界の操作者たちは、その知的覚醒レベルを利用し、技術とエネルギー操作を通じて、その段階まで到達したわけであるが、それは彼らが他者への奉仕状態に移行するようになる前の段階として行き着くことができた限界でもある。実を言えば、彼らは自分たちの現実感覚、恐怖、支配欲(支配しなければならないという思い込み)に行き詰っており、それ以上、振動的に進歩したいという願望がない。ただ単に、絶えずつきまとう恐怖をやわらげるためだけに、より支配を強化したいと思っているのである。他の人間を支配したいという欲望、何かを支配したいという欲望は、全て恐怖と不安の現れであるが、彼らは恐怖と不安で疲れ切っている。だからこそ、支配することに夢中になっているのである。意識に目覚めた人は、他者を支配しようとは思わない。他者が自分自身であることを知っているからだ。

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