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可能性から選択する [願望実現]

「並行移動」の意味は、「可能性の空間を経由する滑走」、「潜在的に可能な可能性の現実への変換」または「人生ラインの乗り換え」というように解釈できる。しかし、一般的な意味で、もしあなたが並行移動を行うのであれば、つまりそれはあなたが幸運の波の上でバランスを取っていることになる。可能性の空間は情報構造である。これは無限の情報フィールドであり、起こり得るあらゆる事象のどの可能性をも内包している。可能性の空間には過去、現在、未来のすべてがあると言える。可能性の空間は、空間と時間における物質運動のパターンであり、座標目盛である。そこには過去も未来も、映画フィルムのように常時保管されてあり、照らし出されている現在のコマを別のコマに置き換えることによって、時間の効果というものが現れる。

世界は同時に二つの形態で存在する。一つは手で触れることのできる物理的なリアリティとしてであり、もう一つは知覚の向こう側に横たわってはいるがほかに劣らず客観的とも言える形而上学的な可能性の空間である。しかし、この情報フィールドに入り込むことは、基本的に可能である。直観的な「知」や千里眼などは、まさにここからもたらされるのである。理性というのは根本的に新しいものを作り出すことができない。理性ができることは、古い積み木を用いて部分的に新しくした家を建てることくらいである。頭脳は情報そのものを保管しているのではなく、可能性の空間にある情報に繋がるアドレスのようなものを保管している。あらゆる科学上の発見や芸術上の傑作は、理性が可能性の空間から心を仲介して受け取るのである。夢というものは、この言葉の一般的解釈による幻想というものではない。理性は自分で夢を作り出すのではなく、本当にそれを見るのである。私たちが現実において観察するのは、現実化された可能性である。私たちが夢の中で見ることのできるのは、現実化されていない可能性である。これはつまり、仮想のシナリオと舞台装置の伴った戯曲である。夢は過去に起こる可能性のあった、または未来に起こる可能性のあることを、私たちに見せてくれる。夢は過去に起こる可能性のあった、または未来に起こる可能性のあることを、私たちに見せてくれる。夢を見ることは、心が可能性の空間を旅することである。

空間の各点には何がしかの事象の独自の可能性が存在する。理解しやすくするために、可能性はシナリオと舞台装置から構成されていると考えることにする。舞台装置というのは、現象の外観または形態であり、シナリオというのは物質がそれに沿って運動する道のことである。便宜上、可能性の空間をセクター(細分領域)に分割することができる。各セクターは自分のシナリオと舞台装置を持っている。セクターどうしの間の距離が大きくなればなるほど、シナリオや舞台装置も大きく違ってくる。人間の運命も多くの可能性によって表される。可能性の空間は無限であることから、人間の運命の可能な方向転換には理論上いかなる限界も存在しない。情報は可能性の空間に、マトリックスという形で常に存在している。情報構造は相互に結びついた鎖となっている。因果関係は可能性の流れを生み出す。落ち着きのない理性は、常に大きな流れからの揺さぶりを感じており、状況を掌握しようとしてあらゆる問題の解決に取り掛かる。しかし、理性による意思決定は、多くの場合、水面を両手で意味もなく叩きつけるようなものである
。もし可能性の流れを妨げなければ、問題の大半、とりわけ細かな問題は、ひとりでに解決される。可能性の流れにわざわざ抵抗することはない主な理由は、抵抗することで膨大なエネルギーが有害無益に消費されるからである。可能性の流れは、最小限の抵抗で済むルートを行く。そのため、最も効率的で合理的な問題の解決方法を内包している。可能性の流れに逆らうことは、却って新たな問題を生み出してしまうのである。可能性の空間に解決方法がすでに存在するのであれば、強力な知性はもはや必要なくなる。もし厄介なことに首を突っ込んだり、可能性の流れに逆らったりしなければ、解決は自分からやってくる。それも最も適切なものがやってくるのである。最適性は情報フィールドの構造のなかに組み込まれている。可能性の空間にはすべてがあるが、一番高い確率で現実化されるのは、最もエネルギーを節約できる可能性である。自然はエネルギーを無駄にしたりはしないからである。

可能性空間の情報構造は、一定の条件下で物質化することが可能である。あらゆる思考も、空間にあるセクターと同様に、一定のパラメーターを持っている。思考エネルギーの放射は、然るべきセクターを「スポットライトで照らし出し」、そこの可能性を現実化させる。このようにして思考は、事象の進展に直接的な影響を及ぼす。可能性の空間はパターンであり、物質運動の形態や軌道を定める。物質的現実化は、時空を進む。しかし、可能性はその場所に永久にとどまる。それぞれの生物は、思考エネルギーの放射によって、世界における自分の層を形づくる。私たちの世界には、たくさんの有機生物が棲息しているが、それぞれの有機生物は現実形成にそれなりの貢献をしている。

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思考イメージ [願望実現]

目的を持ったスライド---目的がすでに達成されたという光景の視覚化--をもう一度確認しよう。鏡の法則がリアリティに対して与える影響は、はっきりそれとわかるにせよ、やはり穏やかなものである。ここでもっと強力なやり方を紹介しよう。主な道具は、目的を持ったスライド---目的がすでに達成されたという光景の視覚化---である。スライドを自分と一線を画したところにある映画作品として見てはならない。あなたは想像上の出来事のなかにいなくてはいけない。目的を達成したあなたは、何に従事し、何を感じ、どのように自分を捉え、何に取り囲まれていて、何が起こっているだろうか。スライドの中心にいるあなたは、やってみようと思うことのすべてができるとイメージする。これは技法ではなく、またここには厳格な規則など何もない。全て好きなようにやってみよう。法則はひとつ。あなたは世界の鏡の前に立っており、現実において受け取りたいイメージを頭の中でかたちづくる、ということだ。目的を持ったスライドは、可能性の流れのベクトルを定める。もしそのスライドを思考上で定期的に再生すると、事象と状況の流れは目的へと向けられる。道を進み始めたばかりのあなたにとっては、必ずしも明確なプランを持っていなくてよいし、目的がどのように現実化されるかを知っているわけでもない。手段について考えてはならない。必要なときに、必要な扉--具体的な未知やチャンス--が開かれ、あなたはそれらを目にする。目的が達せられる方法について、過酷な条件を設定してはならない。あなたが行うべきなのは、最終的な結果に意識を集中させることだ。

目的を持ったスライドのほかに、プロセスの視覚化がある。あなたが目的へと続く道の途中にいる、つまり目的がどのようにして実現されるはずかをすでに知っていて、そのために物質的世界でなすべきことをすべて実行しているとき、プロセスは視覚化によって促進され得る。この場合の法則はこうだ。私のことに関しては、ただただ万事順調であり、今日はすべてのことを機能よりもっとうまく行い、明日は今日よりずっと良い日になるだろう。これは可能性の流れに従って水をオールで漕ぐ仕事といえる。だが、大事なのは、やはり可能性の流れの方向である。もしあなたが頭の中に目的を持ったスライドを維持していれば、全ての状況は目的の達成を目指して動くことになる。スライドの再生は、いつでも、何度でもよい。もしあなたが本当に自分の目的を達成しようとするつもりならば、スライドの再生は一日に半時間でよいから必ず行うべきだ。視覚化の効果を高めるためには、具体的な方法がいくつかある。そのなかの一つ目のとしては、エネルギーの流れがある。可能性の空間に存在するセクターはエネルギーによって現実化される。そのエネルギーとは、人間の身体を通過する際に、思考によって変調され、意図のエネルギーに変換されたものである。思考エネルギーの放射が強ければ強いほど、高価も高まる。もし意識をエネルギーの流れに集中させるならば、エネルギーのパワーを強くすることができる。そのためには、身体の中心部、腹部あるいは(胃の後部の)太陽神経叢の辺りから、互いに反対方向を向いている長さ半メートルの矢が出ていると想像しよう。前向きの矢は上向きに、後ろ向きの矢は下向きになるよう、両方の矢の向きを思考上で一斉に変えよう。こうした「鍵を回す』方法により、上昇するエネルギーの流れと下降するエネルギーの流れが活性化される。背骨に沿ってそらら二つの正反対の方向へのエネルギーが流れて来ては、一方は天へ、他方や地へと去って行く状態を、あまり緊張せずにイメージしよう。意識の一部を流れに固定した上で、スライドを映し出す、気の済むまで再生しよう。これを行うのは、あまり人気の多くない場所を散歩しているときがお勧めである。

次なる方法はフレームである。あなたの目的た達成されたとき、あなたは何をしていたいか、あなたのスライドの切り離せない重要部分、必要不可欠とされる属性は何か、考えてみよう。たとえば、暖炉のそばに置いてあるロックング・チェアに座っている、自家用ヨットの舵輪を握っている、自宅の庭でバラの植え付けを行っている、素晴らしい契約を交わした取引相手と握手しているなど、スライドの特徴的な断片であればなんでもよい。思考上でこのような画像を何度か再生しよう。そうした光景は一体化した何らかの印象---束の間のイメージとそれに伴う感覚を含む、スライドの瞬間的な名残--ーをもたらすはずである。これこそがフレームだ。お好みとあらば短く表題をつけてもよいだろう。これからは、ランプのスイッチを押すようにして、フレームを一瞬思い出すようにすべきだ。ふとその気になったとき、あまり緊張しないで、これを実行しよう。フレームはあなたと可能性の空間にある目指すセクターとを結び付けてくれるもうひとつの糸である。フレームの有効性は、所謂、爆風を利用することで高められる。あなたが実現したいフレームか画像を思考上で作ってみよう。その後すぐに、まるであなたのエネルギー被膜が爆発するかのように、あなたから四方八方へ球面が勢いよく広がる様子をイメージしよう。爆風は想像次第で遠くへ広がっていく。これを飽きるまで何度行ってもかまわない。その際、何が起きるだろうか。あなたは思考イメージを作り上げ、それを周囲の世界へ送り出しているのだ。あなたの思考が跡形もなく消え失せてしまうことはないから心配無用である。但し、鏡が遅れて働くことだけは考慮に入れておく必要がある。



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現実をコントロールする [真実]

あなたは操り人形ではない。だからといって、自分を人形遣いだと思ってうぬぼれる誘惑に負けないよう警告をしておこう。そうすると平衡状態が崩れ、他人に対するうぬぼれ、優越感、無関心、または軽蔑などの最初の兆しが現れた時点で、必ず痛い目に遭う。目の前の出来事全体を完璧にコントロールすることなど、たとえ夢の中であっても実現できない。あなたは選択する権利を持っているだけであって、変更する権利は持っていない。ゆったりとくつろいでよいのだが、客人であることは忘れないでほしい。「軽演劇」のような気分で問題に対処することは、だらしなくふるまうことでも慎重さを欠くことでもない。重要性を覚めた目で評価するということなのだ。意識性を、取り巻く世界をコントロールしようとすることと解釈するのは間違いだ。理性は、ことがらの展開を変更しようとすることや自説を主張すること、つまり、流れと闘うことに慣れている。もしあなたが観客席を下りて行ったら、力ずくでシナリオを書き換え、役者たちに自分の意志を押し付けたい誘惑に駆られることだろう。このようなふるまいをしてはいけない。なぜならそれは、流れと闘おうとする私的意図だけに基いているからだ。可能性の流れに沿って動くべきだということを何度も思い起こしていただきたい。意識性とは、コントロールではなく、観察することだ。コントロールは、白黒が反転したネガのような世界で手足をじたばたさせることなく、好ましいシナリオを思い描き、それを自分の人生に入れて、心から受け止めることだけに向けられる。世界に自分のシナリオを押し付けるのではなく、自分のシナリオの可能性を認め、その可能性が現実化するのを容認する。そして自分に対しては、そのような可能性の所有を容認するのだ。魂と理性が一致する場合に限り、あなたは世界と闘うのをやめ、その選択を容認するだろう。

ねだり屋、怒りん坊、無鉄砲者の役割は私たちにふさわしくない。人生という名前のついたゲームで、自分の運命の主にどのような役割を割り振るだろうか?それは見張り役という役割だ。現実の生活におけるあなたの意識性の度合いが高まれば、その分自分の運命を効率よく取り仕切ることができるようになるのだ。それに、見張り役という役割は、執行者という役割よりもずっと心惹かれる。指揮官、上司、リーダーなどは、単なる執行者と比べて、人生において意欲的に活躍する立場にいる。これは彼らが負っている責任が大きいからというだけではない。管理組織の中の労働者であれば、義務の執行者よりはむしろ見張り役の方がよい。平の労働者は強制されて自分の義務を履行しながら眠りこけてしまいかねないのだが、見張り役の方は置かれた状況から「より覚醒するよう」になる。あなたが見張り役の立場になってみれば、エネルギーがあふれ、活力がわいてくることをすぐに感じるだろう。なぜなら、今やあなたは、ただうつむいて他人の意志を遂行するのではなく、自分で自分の運命を切り開かなくてはならないからだ。自分の運命に対する責任は、荷物ではなく、自由なのだ。人が動物と異なるのは、知能のレベルというよりは、意識性のレベルにおいてである。動物は夢見ている状態により近い。動物の主な行動は、本能と条件反射という形で現れる自然によって組み込まれた紋切り型のシナリオで定められている。動物の行動とは、変更が利かないシナリオに従って劇を演じるようなものだ。その意味では、人間は「もっと覚醒している」。人間は、この世界における個人として、自分自身と自分の居場所をありのままに認識する。だが、それでも、人の意識性のレベルはまだたいへんに低い。人は部隊の上にいて、自分の役割を演じる。人はすっかりこのゲームに飲みこまれている。

いわゆる賢いと言われる人々の秘密は、意識性にある。頭脳の明晰ぶりは、意識性の度合いで決まる。明快に思考し明快に話す人々もいれば、頭の中がこんがらがっている人々もいる。頭の切れる人もいれば、頭の鈍い人もいる。これは知能の発達レベルではなく、意識性のレベルが異なるからだ。頭の切れが良くないというのは、「何も知りたくない。私を放っておいて」というように、望ましくない情報からの心理的防御だ。反対に、頭の切れが良いというのは、「全部知りたい」というように、率直さ、旺盛な探究心、情報を受け取って処理する願望だ。頭の切れが良くないのは、心理的発達の遅れによる結果である場合がある。これは、たとえば、幼いころに強制的に何かを勉強するよう仕向けられ、この際、心理的圧迫を受けたことが原因となっている。現実の生活で私たちがより深く眠り込んでしまうと、失敗を犯すこともそれだけ多くなる。ガラス窓にぶつかっていくハエも、深く眠りこけている。ゲームに没頭すると、現実を広い視野で客観的に眺めることができなくなる。ゲームでしつこく同じことを繰り返すと、知覚できる範囲が狭まり、周りが見えにくくなる。これが減員で失敗をすると、「私の眼はどこについていたのだろう」と言って、人は驚く。まるで狐につままれたように思う。エイプリル・フールの4月1日には、いっぱい食わされるものと誰もが知っているはずなのに、それでも人は罠にはまってしまう。これを白昼夢と言わずして、どう表現すればよいのか?

人が現実を直視したくないときには、多かれ少なかれ無意識性が現れる。ダチョウは、迫りくる現実から逃げ出したいと思うと、頭だけを砂の中に突っ込んで隠れる。人の場合は、「何も見たくない、何も聞きたくない、何も要らない、私に構わないで」というように、外の世界から隔絶されたいと望む。毛布に潜り込んで寝入ってしまうことはできないから、人は知らず知らずのうちに意識性のレベルを下げて、自分の知覚を遮断しようとする。たとえば、おとなしく悪気のない人は、自分の身を縮めて避けようのない一撃をよけようとする。しかし、その人はそれを撃退することはできない。なぜなら、意識性が恐怖によって遮断されていて、まるで目の前に幕がかかっているかのように反応が鈍くなっているからだ。同様に、怒りも理解の妨げになる。ゲームに頭までどっぷりと浸かってしまっている人は、周りのものが何も目に入らず、何も聞こえない。「腹立ちまぎれ」という言葉はここから来ている。恐怖と怒りは、無意識性の究極の現象である。しばしば集団は私たちの警戒心を軽く麻痺させようとする。たとえば広告は、人々が多くの時間を半意識状態で過ごしていることを利用して、ゾンビ化させる影響を及ぼす。取り巻いている現実を明確に知覚する意識性というものは、血液中にアドレナリンが放出される状況になったときだけ現れる。そんなわけで、夢の中で目を覚まし、「おい、お前たち、馬鹿にするのもいい加減にしろ。これは夢でしかない。それも俺様の夢なんだから、主は俺様であって、お前たちじゃない」というような文句を口にすることもたいへんに難しい。

意識性は、潜在意識から直観的な情報を引き出すのに役立つ。「なぜ私は急にこうしたくなったのだろう?」という思いにとらわれたら、それはしてよいことなのだ。魂の声はか細くて、ほとんど聞き取れないくらいだ。これに対し、理性は「黙れ、私には何が必要で、何をすべきか、自分でわかっているぞ」と答える。明け方の星々のさざめきに常に耳を傾けることを習慣にする必要がある。半意識状態では、内なる声がささやいていることに手遅れにならないうちに気づくことはほとんど不可能だ。たとえあなたが朝からあなたの魂の声を聞こうと準備していても、もし眠ってしまったら必要なときに思い出すことができなくなってしまう。以上から、魂と理性の一致が自動意図を生み出し、自動意図が私たち自身の利益に従うよう意識性がそのためのチャンスを与えてくれることを明らかにしてきた。夢の中での魂と理性の一致は、簡単に達成される。これは、夢の中であれば、権威を振りかざす理性から魂が自由でいられるという単純な理由によおる。意識してみる夢の場合は、コントロールする術はあるが、これはシナリオの修正にだけ向けられる。それ以外では、常識外れのこともすべて許される。夢の中では、理性はどんな軌跡でも受け入れることに同意する。アンデルセンの物語「火打ち箱」にはこんなエピソードがある。夢を見ていると信じ込んでいるお姫様が、兵隊と一緒に屋根の上を散歩することに応じるというものだ。このように、理性は、夢の中なら何でも好きなことを許してくれるのだが、現実の生活では常識的な世界観に病的なほど固執するのだ。

常識で考えられないことに関しては、魂と理性が簡単に一致することはない。常識とは、私たちを一生閉じ込めておく籠であり、そこからの脱出は一筋縄ではいかない。人は神秘的な教えに魅了されたり、空想に耽ったり、信じがたいことを信じたりすることがある。理性は偽りを装うかもしれないが、それでも本当のところ、理性はリンゴがやはりいつも地面に落下すると思っている。だから、自動意図を完全に自分に服従させることは極めて難しい。しかし、そうではあっても、意識性を高めるとコントロールできるチャンスが急激に膨らむことを、あなたは自分の体験で納得することができる。あなたの意識に見張り役が常駐していると、意識性は最大限に達する。見張り役は、ゲームが誰の利益のために行われているか客観的に評価し、あなたが操り人形のようにゲームに引っ張り込まれないよう見守る。いかなる瞬間でも、「眠っているのか?起きているのか?」と自問自答することを忘れてはならない。怖くなかったら、意識して見る夢を試してみるのもよいだろう。しかし、夢が終われば、いつもの現実に戻される。それよりも、意識して過ごす現実の生活の方を試してみる価値があるのではなかろうか?意識して過ごす現実の生活という選択肢は、あなた自身の好みによって世界の層を築く可能性をもたらしてくれるものだ。選択はあなた次第だ。

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高い意識性と隷属化 [願望実現]

流れは自分の信奉者たちを要職に就けるが、それは彼らが大きな業績を上げたからではなく、システムによりぴったりと当てはまるからである。出世階段、とりわけ権力の階層組織では、人々が各々の秀でた能力と業績に応じて並べられるはずと考えるのは無邪気すぎる。ある程度はそんな傾向もあるだろうが、秀でた能力や業績が主な理由なのではない。

主な基準となるのは、人がどれほどうまく自分の仕事をこなすかではなく、システムの観点から見て、どれほど正しく行うかにある。流れはまず何よりも安定性に腐心する。まず第一に、システムの安定性の維持に向けた行動をとらなくてはならない。

もし出世階段を上っていきたいと思うなら、「うまく」と「正しく」の間の違いを理解すべきである。今述べていることは、具体的な集団によって異なる。流れにもいろいろな種類があるからだ。

小さな集団では、創造性、独自性、熱意、イニシアチブが歓迎されることもあるだろう。しかし、集団が行政機関や大企業である場合、そこではまったく別の決まりと、まったく別の倫理---企業倫理---が働いている。

企業倫理というのは、より厳格な法規制、規律、処理能力を前提とする。イニシアチブを発揮すると、しばしば罰せられ、独自性は警戒心をもって迎えられ、創造性は決定的な役割を果たしはしない。そのようなシステムでは、「よりうまく」ではなく、「より正しく」行動することが必要になる。

このように、自分の行動を流れの世界固有の文化風土とよく考えあわせつつ、意識して柔軟にふるまう必要がある。しかし、そうすることは、思ったほどむずかしくない。大事なのは、ちょうどよい頃合いに目を覚ますことだ。

科学技術の進歩は、全体としてはそれほど恐ろしいものではないのだが、恐ろしいのはその情報の中身である。それは流れたちが誕生し存続するための恵みの土壌となるからだ。同じ方向を向いて思考する信奉者集団が大きくなればなるほど、流れは強くなり、従って、流れが人々を支配する権力も肥大化する。

非常にたくさんの人々の意識を支配するためには、有名な映画「マトリックス」に出てくるような吸盤つきのフラスコ状容器に人々を閉じ込めておく必要は決してない。何でもありの情報網を作るだけで十分なのだ。そうすると、人々は自らその組織単位のなかに自分の居場所を見つける。

では、人が情報網の組織単位のなかに居場所を見つけるというのは、どういうことだろうか。それは、いわゆる社会分子のことであり、マトリックスを想起させるような構造における本人の状態によって本人の意識が制約を受けるということだ。

構造は、思考や行動の固定観念の一定の組み合わせによって、各メンバーを知らず知らずのうちにしっかりと包み込む。人は自分がみずからの意志で自由に行動しているものと思う。けれども、人が自由が本当はどういうものか知らない。なぜなら、その人の意志の「輪郭」は構造によって形成されたものだからだ。人は、その人に割り振られた意志に従って、押し付けられたゲームをしている。

一見すると、誰にでも欲するすべてのことを行う自由があるように思われる。宣言文に記されている自由とはそうしたものだ。ただし、各人が欲することができるのは、構造の利益と合致していることだけである。構造は必要とされることを欲するよう教え込む。

まさしくこの意志(意図)の隷属化プロセスについて話しているのである。このプロセスは流れ自体が意識された意図を持たないことから、その性質上、共同作用的、すなわち自己編成的なものである。凍結すると氷の結晶ができあがるように、すべてはひとりでに起こる。寄生植物のコロニーにも似た、流れたちの網は、地球の生物圏全体を包み込んでいる。

恐ろしいと思われただろうか。あるいは滑稽に聞こえるかもしれない。どういう感想を持つかは各人にお任せする。こうした考察を空想小説と思うのも各人の自由だ。そうはいうものの、日常の現実が見たこともない形で眼前に現れると、その残酷なリアリズムが最も大胆な空想小説をも超越していることがある。

インディゴの子どもたちの賢さは、高い意識性の結果である。彼らは周りで何が起こっていて、誰が重要なのかということをはっきり理解している。注意を向ける方向が、外部世界ではなく、自分になると、意識性は研ぎ澄まされる。なにしろ、人は外部から押し付けられた心配事で頭がいっぱいになると、無意識に参加しているゲームにすっかり浸りきってしまうのだから。子供たちの意識性は、流れの網のなかにいる人々の「意識麻痺」の傾向と対峙するものだ。

すべての子供は、生まれながらにして、輝かしい個性によって際立っている。まだ幼少時の子供たちはとても可愛らしくて魅力に溢れている。子供たちの魅力の秘密は、魂と理性との調和のとれた一体性にある。彼らはあるがままの自分を受け入れているため、生来持っている魂の美しさは、理性の偽りのマシクによって歪められてはいない。

成長するにつれて、なぜこんな素晴らしい存在であるはずの子供たちに、不愉快な特徴や悪い面が現れてくるのだろうか。なにしろ彼らは神の子供たちなのであるから、生まれたての頃の寄る辺なさにもかかわらず、神自身のように美しく強いのだ。彼らは初めから創造主の力を持ち、新たなリアリティを築き上げる能力を持っている。ところが、神の子供たちの能力が開花し発揮される間がないのだ。なぜなら、流れたちが、子どもたちの持つ神の力である魂と理性の一体性を奪ってしまうからだ。

子供たちはこの世界にやってきて、ビーズ玉のような両目を大きく見開き、信頼に満ちた澄んだ眼差しで世界を眺める。彼らにとって人生は期待と希望に満ちていると思われる。しかし、この世界では「分割統治」の原則に従って活動する流れたちが支配権を握っている。

流れたちは人々の思考とその方向性をひとつにまとめるが、その際、人格の独自性や一体性を破壊する。理性を魂から分離し遠ざけると、神から授かった美しさと力は失われていく。

時間が経つにつれて、あらゆる希望は裏切られていく。ある者にとってこのプロセスはゆっくりと痛みを伴わずに進むが、不運な者にとっては急激に残酷に進む。孤児院の子供たちの目を眺めてみると、希望と絶望という二つの相容れないものを同時に読み取ることができるような気がする。彼らの目には、「え、本当に?」と言う果てしなく繰り返される疑問がまるで張り付いているかのようなのだ。

流れの世界は、子どもたちが脆弱で不完全なことを常に彼らに示す。最初、彼らの意識には不信が芽生え、その後、恐怖も生まれる。恐怖はしっかりと根付き、それに慣らされていく。怖いからといって逃げ出すことはできないのだ。この好戦的な世界で何とかして生き抜かなくてはならない。構造の強力な影響下に置かれている神の子供たちは、構造の成員にならざるを得ないのだ。

子供たちは成長するに従い、皆と同じでないことに不安を感じるようになる。なぜなら、「皆と同じ」者たちが彼らに「いいがかりをつけて苦しめる」ことがしばしば起こるからだ。群衆のなかにいるとまだ安全なのだ。ところが、もし群衆の外側に立っていると、仲間外れにされるかもしれない。こんなふうにして、子どもたちは生まれながらに持っていた独立心、意識性、直観、個性という天賦の才能を少しずつ失っていく。





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病気のゲーム [真実]

誰もが一生のうちに一度くらいは何らかの病気になる。病気になると、不快なことや心配ごとが山ほど起き、ネガティブな考えや感情が発生し、それらは空間へと放射される。そのようなエネルギーは、病気と関係する等時性が成長するためには恵みの土壌となる。等時性はネガティブなエネルギーをいつも非常にうまく吸収する。

病気によって産み落とされた等時性は、最強の等時性のひとつである。何といっても病気や伝染病なのだ。そのような等時性と対極しているのが、ありとあらゆる医学の等時性だ。何と強力な構造だろうか。クリニック、サナトリウム、研究所、製薬工場、薬局、学会、教育機関。

医学の等時性の正式な目的は、病気の撲滅である。だが、現実には、病気の撲滅というのも、破壊的等時性につきもののネガティブな現象を山のように生み出す。なぜなら、破壊的等時性の主な目的は信奉者たちを引きつけて離さないでおくことだからだ。

たとえば公の医学は、正統とされない(つまり公式な医学のカテゴリーには属さない)治療法に対しては敵意を持って対応する。公の医学こそ時代遅れで信用のおけない考え方だという批判は、もしそれが伝統的でない治療の信奉者たちからのものであれば、非科学的と宣言される。新しいどのような治療法であっても、それが公の医学に属していなければ、公の医学からは強い敵意をもって迎えられることになる。一方、正統とされない治療法の信奉者たちも、正統とされる治療法について中傷することをためらわない。

病気の等時性や医学の等時性の影響下に置かれている人は、自分が若い頃味わった気分を取り戻すことができない。健康にまつわる問題で悩むことが少しもなかったあの頃の気分である。当時のあなたは健康に意義を与えず、自分の健康に単に注意を払わないだけのことだった。なぜなら健康が脅かされることはなかったからだ。従って、思考エネルギーの放射にも病気の等時性の周波数は含まれていなかった。

年を取るにつれて、程度の差こそあれ、あなたは徐々に病気の等時性の影響下に入ってくる。病気の等時性の周波数でエネルギーを放射することによって、等時性にエネルギーを与え、等時性との依存関係に陥り、病気がちな人生ラインへと乗り移る。そのため、以前のような健康を取り戻すためには、何よりもまず病気の等時性との関係から逃れる必要がある。それは、等時性からの情報を自分の中に取り入れず、等時性のゲームに加わらない、つなわち等時性から身をかわす方法を用いることを意味する。もしあなたが病気のことで深刻に悩んでいるのなら、治療のゲームに加わり、自分の身体に気を配る必要がある。そうすれば等時性は消え失せることになる。病気の等時性のふるまいに関する例をいくつか見てみよう。

毎日繰り返される薬のCMは、ある薬を飲んで健康を取り戻した幸せな人々のことをあなたに示してくれる。いや、それどころか健康面以外でも、彼らはあらゆることで大成功を収めているという。魅力的な餌ではないか。この餌は効果抜群なのだ。なぜならすでに考察してきたように、大部分の人々は半ば無意識な状態で暮らしている。あなたの脳には「薬局へ行き、薬を服用し、褒美をもらう----あらゆる場合の完璧な手順」というプログラムがインプットされる。だが、これはまだそれほど恐ろしいことではない。このCMには別のもっと深い意味を持つプログラムが隠されているのだ。

ちょっと考えてみよう。通常、CMにはきわめてまともで魅力があり、非常に成功している人々が登場する。(あなた、どうしたんです?気分でも悪いのですか?)。そのような人々は皆何らかの病気に罹るのだが、それでも服用した薬のお陰ですぐに元気になる(あなたもそのうちの一人なのだ)。私たちすべての意識と潜在意識には、誰もが病気に罹るようにできていて、すでに罹っているか、それともすぐに罹るのだという事実が叩き込まれる。こうして、多くの人々がゲームの条件を受け入れることになる。これこそが表立ったことにはされていないが破壊的等時性の真の姿なのだ。破壊的等時性は、人々を病気から全快させず、自分の信奉者にしておく、つまり人々の耳に「お前さんは病気だ。薬を飲まなければだめだぞ」と吹き込むことを使命と心得ている。

信奉者たちを引きずり込むための興味深い方法がもうひとつある。それはあいにくの天気だという予報を流すことだ。磁器嵐、気圧の急変、その他ありがたくない要因についての情報に基づいたものだ(そのような現象は、多かれ少なかれ、ほとんど毎日起きている)。それらのデータから、天気予報が作られる。「○○に罹っている方にとって、今日か明日は辛い一日となるでしょう」。起こり得るすべての病気と患者を待ち受ける病状を思い浮かべている等時性が、幸せのあまり胸がいっぱいになっているのは、さぞかし滑稽なことだろう。しかし、すぐにぞっとしてしまう。そうでなくても健康不安を抱えている人々の意識に、何という破滅的なプログラムがインプットされてしまったことか。そんなことを聞いてしまったら、家から外に一歩も出たくなくなるか、箱の中にでも閉じこもりたくなるかもしれない。もちろんあいにくの要因は気分に影響を及ぼすが、なぜ最初からそれに自分を同調させてしまうのか。多くの人々、とりわけ年配の人たちは、判決でも受けるようにして、等時性からの声に耳を傾け、あらかじめ病気気味になるプログラムや症状が悪化するプログラムを自分用に作り上げてしまうのだ。そのような予報などは、人々を自分の影響下に置こうとする等時性の恥知らずで厚かましい欲求の典型である。

そして最も典型的な話題とは、知り合いや親せきと健康について話すことである。そのような場合、健康増進ではなく、病気とその治療についての話になるのが普通だ。集まったうちの一人が何かに取りつかれたような表情で四六時中痛むところにてこずっていると言って話しの口火を切ると、二番手が待ってましたとばかりに、「年はとりたくないもの、と言うからね」と呻くように反応する。その場に居合わせた全員が病気の等時性の周波数でせっせとエネルギーを放射する。こんなエネルギーは、病原菌同様、感染力を帯びている。こうした集まりからは遠ざかるべきだ。さもないと、あなた自身が気づかないうちに病気の等時性の周波数でエネルギーを放射するようになってしまう。

病気の等時性を見分けるコツはとても簡単だ。病気の等時性は病気やその治療についての情報によってあなたをおびき寄せようとする。もしあなたがそうした情報を無視する、つまり情報を聞き流して、深刻には受け取らないようにしたのなら、等時性は意気阻喪し、あなたをそっとしておいてくれるだろう。これは等時性から身をかわす方法だ。もしあなたが病気やその治療に関する情報を小気味よい高笑いや嘲笑で迎えるのであれば、等時性は恐れをなしてあなたの前から姿をくらますことだろう。これは等時性の消滅である。

病気の等時性と別れたあなたは、完全な自由を得る。だが、その自由は長くは続かない。何らかの等時性の信奉者になっていたいというふうに人間はできているからだ。だから、そのうちあなたは等時性の影響下に踏み入るという危険を冒す。そうならないためには、健康増進の等時性の味方に加わり、宙ぶらりんの状態から脱しよう。健康増進の等時性は心身の強化につながるあらゆることを取り仕切っている。健康な生き方を志向する信奉者になれば、病気との辛く憂鬱な闘いと比べて、どれほど喜ばしくやりがいのあることかわかるだろう。

もし人が自分の健康に気を遣っているとすれば、その人が健康な人生ラインの周波数で思考エネルギーを放射していることは明白であり、だからこそ、その人は病気どころではないのだ。このように、対極に位置する二つの生き方がある。そのひとつが病気の治療であり、もうひとつが健康についての気遣いなのである。病気に対して、前者はその処理を内的意図で行おうとし、後者は外的意図にまかせようとしていることに疑いはない。あなたは健康なのか、病気なのかという自分の生き方を、自分で選んでいるのだ。

生理エネルギーは行動を実行することだけに消費される。意図は自由エネルギーを用いて形作られる。自由エネルギーは方向が逆に二つの流れとなって体を通過する。ストレス状態では意図のエネルギーは遮断される。ストレスから逃れるためには、目を覚まして、重要性を投げ捨てる必要がある。もし重要性を投げ捨てることが不可能であるなら、せめてリラックスしようとして力を消費することはやめよう。エネルギー体操を行うことで、あなたはエネルギー保護被膜を強化することになる。自由エネルギーを蓄えようとしてはならず、エネルギーがあなたの体を自由に通過するようにしてあげよう。高い生体エネルギー特性とは、幅の広いエネルギー・チャンネルのことである。エネルギー・チャンネルは、エネルギー体操によって十分に鍛錬される。肉体の浄化はエネルギー・チャンネルの幅を著しく広げる。病気になることと治療を受けることは、内的意図による。健康的な暮らしをするのは外的意図による。どんなことがあったも破壊的等時性のひとつである病気の等時性のゲームを受け入れてはならない。運動を行う際には、中心部を通るエネルギーの流れに注意を向けよう。意図とは、意気込むことではなく、注意を集中することである。

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物質的現実化と意図 [願望実現]


私たちの思考や願望が可能性の空間における私たちの動きを方向づけることは明らかになっている。夢の中では、この動きに対して、物質的現実化の慣性によるブレーキがかからない。思考のほんの微かな揺らぎであっても、夢を見ている人を瞬く間に可能性の空間の然るべきセクターへと運んでいく。現実化されたセクターでは、質量を持つ物質の慣性のためにそんなに速くは事が進まない。しかし、思考が私たちの人生のことがらの展開に直接的な影響を及ぼすという同じ原則が、現実の世界でも働いている。

こう質問するかもしれない。「私に分別がなかったのかもしれないけど、今までは思考ではなく行動が人生の歩みを決めていると思っていた。でも、これで納得した。大事なのは、何をするかではなく、何を考えるかなんだ」

この言葉には本当に何の矛盾もない。人はまず考えてからその後で行動する、ということだからではない。人々は何よりも行動による結果に注意をはらうことに慣れてしまっている。なぜなら、それは表面に現れていてわかりやすいからだ。思考による結果はそれほどはっきりとしていないことが多い。これは平衡力による作用と関係している。平衡力による作用の結果が予期していたものとまったく正反対になるケースがある。人があるものを望んでいるのに、正反対の結果となる。過剰圧力が強ければ強いほど、その結果は望んでいるものから遠ざかる。世界のこうした不思議なふるまいに筋の通った説明を見つけられないまま、それでも人は、自分の取った行動が正しくなかったとか、世の中はそうなっているとかの説明で自らを納得させようとする。そして、望みのものが手に入るのは、大変な苦労をした後で、ということになるわけだ。

並行移動のモデルには矛盾があると思われるかもしれない。私たちの思考は、私たちを経由していくエネルギーをある型にはめ、それによって人々をその思考に相当する人生ラインへと運ぶといい、あるいは思考が私たちを然るべきシナリオと舞台装置を持った可能性の空間のセクターへと移動させると主張する。夢の中では、まさにその通りのことが本当に起こる。ところが、他方では、現実の生活においては私たちの思考はほとんど影響を示さない。なぜなら、私たちは思考することだけで望むものを得ることができないからだ。長椅子に横になってどんなに考え、また、物質的現実化につきものの慣性による遅れを考慮に入れても、ほかの人生ラインへの乗り換えは、なぜか起こりはしない。「ほら、それそれ、それだよ」と心配性の方は途端に活気づくかもしれない。「行動することが必要なのだ。思考しているだけじゃ、ラインの乗り換えなんて起こるわけがない」。彼は形式的には正しい。

ただし、形式的にである。本当はこの矛盾とは、ただそう見えるだけなのだ。望んでいるものを視覚化しようとしてみても、大抵の場合、結果が得られないのはなぜか?その説明に、私たちはどんどん近づいてきている。最初に挙げられる明らかな原因は、過剰圧力である。これは、私たちが望むものを手に入れようとするときに、自らが生み出している。

二つ目の原因は、可能性の物質的現実化の際に現状の慣性が邪魔することである。私たちがしばしば目的を達成できないのは、根気強く目的に向かおうとしないからだ。人はすぐに気持ちが冷め、自分の望みを見込みがないものとしてあきらめるが、多くの目的はただ単に現実化するのに時間が足りないだけなのだ。望んでいたことが遅れてやってきて、そのときにはもう期待感も消え、自分がそれを注文したことすら忘れている。自分のこれまでの人生で、思い当たる節があることだろう。

もうひとつ多くの人々がよくある典型的な間違いは、すべてをすぐに手に入れようとすることにある。もし互いに何の関係もないたくさんの目的を達成したら、すべての思考エネルギーが無駄に費やされるだけになってしまう。可能性の流れの中にいるあなたは、同時に様々な方向へと泳ぐことができない。具体的なひとつの目的にすべてを集中させる場合に、必要なセクターへの調整が最も効果的に行われる。

夢を見ているときには、今挙げたような有害な要因は存在しない。夢の中では、重要性による過剰圧力に煩わされることもそれほどなく、慣性が邪魔をすることもない。それに、昼間、目的達成を目指して闘った理性は、疲れて休息を取っている。しかしながら、夢の中であっても、すべての願望が実現されるわけではない。意識して見る夢を実践している人たちは、思考のどんな揺らぎであっても、夢を見ている本人を然るべきセクターへと運んでいくわけではないことを知っている。では、いったいどこに障害があるのだろうか。

答えは非常に簡単であると同時に、基本的なことでもある。どんな障害も存在しない。問題は思考そのものにあるのではない。秘密は、現実化へと導くのが願望自体ではなく、望んでいるものに対する心構えにあるという点に隠されている。働いているのは、望んでいるものについての思考自体ではなくて、ほかのものである。しかし、これは言葉では表現しにくい。何らかの力が、思考ゲームの展開されている舞台の裏側にある。そして、この力の向こう側に、最後の言葉がある。もちろんあなたは察しがついたであろう。意図について話しているのだ。理性は自分が持っている記号の棚の中で、意図を適切に定義づけできないままでいる。ここで、意図を所有し行動する決意と定義してみたい。

そうすれば、可能性の空間のセクターに同調する過程で思考そのものは実際には何の役割も果たさないことを理解していただけるだろう。思考とは、意図の波のてっぺんにできる泡にしか過ぎない。現実化されるのは、願望ではなく、意図の方なのだ。

腕を持ち上げることについて、もうひとつの例を挙げよう。腕を持ち上げようと望んでいただきたい。願望はあなたの思考の中で形づくられる。あなたは腕を持ち上げたいということを理解している。願望が腕を持ち上げるのだろうか?いいや、願望だけではいかなる行動も産みだしはしない。願望についての思考がその役割を終え、行動する決意のみが残ったときに、腕が持ち上がるのだ。では、腕を持ち上げるのは、行動する決意だろうか?これも違う。あなたは、腕を持ち上げるという最終的な決意を固めているが、腕はまだ動かない。何が腕を持ち上げるのだろうか?決意の次に続くものをどう定義すればよいのだろう?ここで理性の頼りなさが現れてしまう。意図が何なのかということに理性が明快な説明を与えることができないからだ。意図を、所有し行動する決意とすると、それは、行動を実行する力そのものへと続く前奏曲を奏でているに過ぎないことになる。腕が持ち上がるのは、願望でもなく、決意でもなく、意図によるという事実をただ確認するしかないようだ。私は理解しやすくするために、「決意」という表現を導入した。しかしこの言葉を用いなくても、あなたの筋肉を収縮させる何らかの力があることを、もちろんあなたは感じていることだろう。

意図とはいったい何かということを説明するのは、本当に非常に難しい。手足をどのように動微かについて私たちは疑問に思わないし、歩くことができなかった頃を思い出すこともできない。これとまったく同様に、人は初めて自転車にまたがったときには、正しい操作をまだ知らない。しかし、たとえ自転車の乗り方を学んだ後でも、どのようにすればよいのか、説明することはできない。意図とは非常にとらえどころのないものだ。意図を得ることは難しく、失うことは簡単だ。たとえば、完全に麻痺した人の場合、意図の力が失われている。足を動かしたいという願望はあるが、願望を行動に変化する能力が欠如している。麻痺した人が、催眠術の作用や奇跡的な快復の結果、歩きはじめたりすることが知られている。これは、患者に意図が戻ったことによるのだ。

このように、願望自体は何ももたらしはしない。逆に、願望が強ければ強いほど、平衡力の反作用もその分強くなる。願望は目的そのものに向けられ、意図は目的の達成プロセスに向けられることに注意をはらっていただきたい。願望は、目的を達成するという願望そのものの過剰圧力を発生させることで、自らを現実化する。意図は、行動で自らを現実化する。意図は、目的が達成可能かどうかについての判断はしない。決断が下されたら、あとは行動するだけである。もしあなたが夢の中で飛び立とうと思っているときに、それが可能かどうか考えあぐねたら、何も起こらないだろう。飛び立つためには、意図によって宙に浮きあがることだけが必要なのだ。夢を見ているときにいずれのシナリオの選択も、願望によってではなく、望むものを受け取るという硬い心構えによって実現される。あなたはあれこれ判断したり望んだりするのでなく、ただ所有し行動するのだ。

願望の無益さについて考えてきたが、それでは願い事についてはどうだろうか?言うまでもない。天使、神、その他高みにある何らかの力に対しては、お願いしても意味はない。宇宙をつかさどる法則は、絶対的で非情なものである。願い事につきもののあなたの不平、恨み、うめきなど、誰も必要としていない。しかし、感謝は違う。なぜなら、感謝は、その性質上、絶対的な愛に近いものだからだ。心からの感謝は、建設的なエネルギーの放射である。逆に、願い事による過剰圧力は、停滞、つまり同じ場所にエネルギーが濃縮されることだ。不平、依頼、要求などは、人々からネエルギーをかき集めるために流れが発明したものだ。「ちょうだい!」とか「欲しい!」という言葉が使われている思考は、自動的に過剰圧力を発生させる。あなたに過剰圧力がなくても、自分の思考によって、それを自分の方へ引き寄せようとしていることになる。

最高の力の類に願い事をするのは無駄なことだ。それは、店に行って商品をただでくれというのと同じことなのだ。もし人々があなたを助けようと気持ちになっているのなら、あなたは分別のある範囲で頼むことができるだろう。しかし、こうしたケースは例外であり、この世の中は、誰かを助けようという望みではなく、客観的な法則によって築かれているのだ。

地球が太陽にほかの軌道に移らせてくれるよう頼んでいるところを想像していただきたい。馬鹿げていると思われるだろう。人間以外のものに頼みごとをするなどということは、もちろん馬鹿げている。これと同じことである。選択する意図だけが意味のあることなのだ。実際にあなたは自分自身で自らの運命を選択している。あなたからの思考放射のパラメーターがあなたの選択したものに合致していて、その際、法則に違反していなければ、あなたはそれを受け取る。選択とは願い事ではなく、所有し行動するという、あなたの決意である。

意図は過剰圧力を産みだしたりはしない。なぜなら、願望のエネルギーが行動することで消費されるからだ。願望と行動とは、意図で結びついている。行動しようという意図は、願望によって生じた過剰圧力を、平衡力の関与なしに、自然な形で散らしてくれる。問題を解決しようというのなら、行動すべきだ。厄介な問題を考えあぐねていると、過剰圧力を産みだし、流れにエネルギーを与えることになってしまう。あなたは行動することで、意図のエネルギーを現実化する。「案ずるより産むが易し」とはよく言われる。意図を現実化しつつ、可能性の流れを信じれば、問題は自ずと解決されることだろう。

期待、不安、思い煩い、願望は、エネルギーを奪い取るだけだ。行動しようという意図は、エネルギーを消費してくれるだけでなく、それを人間のエネルギー・フィールドに注入してくれる。あなたはこのことを学習の例で納得するだろう。丸暗記は膨大な労力を奪い取り、得られるものは少ない。しかし、行動を学習する場合は、実際の作業や課題の解決が行われたりして疲れ方がそれほどはないだけでなく、精神の高揚や喜びをもたらしてくれる。

このように、意図とは、可能性の空間にあるセクターを現実化させる原動力なのだ。しかし、そこで次のような疑問が浮かぶ。なぜ私たちの不安も現実化されるのか?果たして不安を意図と同列に並べてもよいのだろうか?夢を見ているときも、現実の生活でも、常に私たちは自分で抱く不安、危惧、反感、憎悪のシナリオを持つ可能性につきまとわれている。私がそのような可能性を欲しないとしたら、そのような可能性を所有することを意図しないということだろうか?しかしながら、いずれにせよ私たちはそうあってほしくないことを受け取る。と言うことは、私たちの願望の方向性は意味を持たないということだろうか?謎は、もっと不可思議で強力な力に秘められている。

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思考エネルギー [願望実現]


たいていの人は、始終頭の中で何らかの思考を巡らせている。もしこうしたプロセスをコントロールできないとしたら、ネガティブな感情に頻繁に支配されてしまう。私たちの感情を何よりも波立たせるのは、恐れ、動揺、不安、苦悩、不満などを引き起こすものである。数千年の間に人間の心理状態は、破壊的等時性の影響を受けて、こんなふうに形成されてきた。等時性にとって、人間が恐怖に戦いている時の方がうまく操れるので都合が良い。まさにそのため、人間は何を本当に欲しているかということについて漠然としかイメージできないのに、何を望んでいないかについては正確に知っている。

思考をネガティブに攪拌されるままにしておくことは、破壊的等時性とのゲームに入り込み、等時性の周波数でエネルギーを放射することである。これは非常にためにならない習慣だ。自分の思考を意識的にコントロールするよう習慣を変えることがあなたにとって有益なのである。あなたの意識が特には働いていない時、例えば、交通機関を利用している時、ただ散歩をしている時、注意を集中しなくてもよい仕事をしている時などには、必ずポジティブな思考のスイッチを入れてほしい。達成できなかったことなどは考えないで、これからやり遂げたいことを考えるようにすれば、そうなるはずだ。

例えば、今住んでいる家が気に入らないとしよう。「この家には嫌気がさした。ある物すべてが腹立たしい。引っ越せたら嬉しいのに。でも、今のところはどうすることもできない。ああ、嫌だ、嫌だ」とあなたは自分で思う。このような思考を続けていたのでは、期待するものを手に入れるのは不可能であることを忘れてはならない。たとえもし引っ越すことが実現して、問題が解決されたかに思えても、新居ではがっかりすることが山のように待ち受けていることだろう。

もし当面どこへも引っ越すことができないならば、嫌でたまらない状況の中でこれまで通り生活し続けるしかない。なぜなら、夢の家が待ち構えている人生ラインの周波数にあなたが同調していないから。今のあなたは、気に入らないことを考え、ネガティブなエネルギーを放射しているため、そのパラメーターはあなたが今いるラインとちょうどぴったりしている。そのため、自分の放射周波数を変えない限りは、今のラインにずっとい続けるほかなすすべはない。

ところで、思考エネルギーの放射周波数を変えるのはそんなに難しいことではない。第一に、感情を鎮めて、不平不満や恨み・つらみを口にするのはやめよう。ささやかな喜びのために、いつでもどこでも好ましい面や理由は見つけられるものだ。たとえ今の家が気に入らないにせよ、せめてあなたを守ってくれたことに対しては感謝すべきである。外は風が吹き、雨が降る。今の家はそのすべてを引き受けて、あなたを守り、温めてくれる。これが感謝に値しないと言えるだろうか。もしあなたが今持っているものに感謝し、あなたを取り囲んであなたの暮らしを助けてくれるものすべてに愛情を観じているならば、あなたはポジティブなエネルギーを放射していることになる。そうすると、お望みならば自分の居住条件が向上することは十分に期待できる。もし引っ越すことになれば、あなたを取り囲んできたすべてに必ず感謝しよう。放り出しておいた物にまで感謝すべきだ。このような時、あなたからは周囲の世界にポジティブな振動が伝播していて、その振動は必ずあなたに戻ってくる。

第二に、欲しいと思う家について考えてみるようにしよう。これを実行することは、現在あなたを取り囲む物にいらだつことよりも難しい。しかし、これは考える価値のあることである。カキ貝のように外部の刺激に対して十年一日のごとき反応をするのと、ちょっと努力して自分の習慣を変えてみるのとでは、どちらが良いのか?住宅の写真が載っているパンフレットを見て、調度品を売っている店を歩き回り、欲しいものをいつも考えることで自分を元気づけよう。私たちは常に、しっかりと心をとらえる物や状況を自分のものにすることができる。私たちの思考は常にブーメランのように私たちのところへ戻ってくるのだ。

ネガティブな対応をすると、どれほど人生にダメージを与えるのかについては、計り知れない。例えば、あなたは南の
地で休暇を過ごす予定だとしよう。あいにく現在こちらは悪天候に見舞われている。通りを歩くと、寒風に身を縮め、冷たい雨に降られ、全身濡れ鼠となる。こんな天候で喜べないのは当たり前である。それなら、その破壊的等時性を無視すべく、せめてニュートラルな状態にしてみよう。もしあなたが天候について不平不満を並べ立てると、等時性を受け入れいて、それを更に勢いづかせることになる。

あなたは自分自身に言い聞かせる。「もうすぐ南へ飛んでいけるぞ。太陽の光と暖かな海が待っている。しかし、それにしても、しゃくにさわるじゃないか、このぬかるみとしたら」。こんな対応では、楽園にいるような喜びの待つ人生ラインとは波長が合っていない。南の地へたどり着くことすらおぼつかない。飛行機のチケットはもうあるのかい?あるよ、それで?それなら目的地まで行くことだけはできるだろう?しかし、待ち受けているのは悪天候下、それともほかの不愉快な出来事だろう。たとえすべてが順調に進んでいても、ポジティブな波長に合わせておくことは抜かりなくやっておくべきだ。

ネガティブなエネルギーを自分に取り込まないというだけで十分なのは明らかである。このほかに、自分でもネガティブなエネルギーを放射してはいけない。例えば、あなたが腹を立てて誰かを怒鳴りつけたとしよう。これに続いて、何らかの不快な出来事や問題が起こることはまず間違いないだろう。この場合、あなたの放射パラメーターは、あなたを憤慨させる幾本もの人生ラインに合致している。そして、まもなくあなたはそこへと移動させられる。それらのライン上では、不快な出来事の密度が平均以上の数値となっている。この不快な出来事はどうしたって避けられなかったようだ、などと言い訳して、自分を慰めてはいけない。このことについては私があなたを説得したり証明してみせる必要もないだろう。あなたがネガティブな反応をした後には、新たな腹立たしいことが続いて起こるものだということを、自分自身で注意して観察すればよいだけだ。

ここからの結論は非常に単純で分かりやすい。つまり、あなたによる思考エネルギーの放射に見合うパラメーターを持つ人生ライン上に、あなたはいつも存在する、ということだ。あなたが自分の中にネガティブなエネルギーを取り込むと、不快な事象があなたの人生に生じる。あなたがネガティブなエネルギーを放射するとそれは新たな問題となってブーメランのように舞い戻ってくるというわけだ。


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運命を選ぶ。幸せを求める。 [願望実現]


同じ方向でものごとを考える人々の集まりは、「エネルギー情報体」を形づくる。これをペンジュラムと呼ぶ。このエネルギー情報体はひとりでに成長を始め、人々を自分の決まりに従わせる。人々は、知らない内にペンジュラムの利益のために行動していることを理解していない。どうすればこのしつこい幻惑から目覚めることができるだろう。

私たちは子供の頃から、誰かの意志に従い、義務を果たし、祖国、家族、政党、会社、国家、理念などに仕えるようしつけられてきた。仕える相手は誰でもよいのだが、自分に仕える順番は一番最後である。誰にでも、程度の差こそあれ、義務感、責任感、使命感、罪悪感という感情がある。そして、誰もが様々な何らかのグループや組織に「仕えている」。例えば、家族、クラブ、学校、企業、政党、国家などである。これらすべての構造は、人々のそれぞれの集まりが同じ方向で思考したり行動したりすると、発生して成長し始める。その後、新たなメンバーが加入することで、このような構造は拡大強化され、勢力を増していく。そして、定められた決まりに従うようメンバーたちを強制し、遂には社会の大きな層を服従させるようになることもある。

このような構造は、物質的現実世界では、共通の目的で一つにまとまった人々と、建物、施設、家具、設備、機械などの物質的対象物とから構成されている。では、エネルギーレベルで見ると、こうしたものの向こうに在る目に見えない部分には、いったい何があるのだろう。人々が集団の思考が一つの方向を向くと構造が出現することから、思考エネルギーのパラメーターが同一であると言える。同じ集団に属する人間の思考エネルギーは集まり、まとまった一本の流れとなる。この時、エネルギーの真ん中で、個々に独立したエネルギー情報体、すなわちエネルギーのペンジュラムが生まれる。この構造はそれ自身が一つの生命のように独立して歩み始める。そして、この構造の中で活動する人々を自分の決まりに服従させる。

なぜペンジュラムなのか。なぜなら、より多くの人々、信奉者たちがペンジュラムに自分たちのエネルギーを与えるようになると、ペンジュラムはその分揺れ動くようになるのだ。どのペンジュラムも自分特有の周期を持っている。例えば、ブランコは一定の間隔で押すようにしないと、大きくゆれるようにならない。この間隔のことを共鳴周波と呼ぶ。ところで、もし信奉者の数が減少したら、振動は弱まる。そして、信奉者がひとりもいなくなったら、振動は止まり、死滅するのと同じになる。止まってしまったペンジュラムの例をいくつか挙げてみよう。古代の異教、石器、古代の武器、昔の流行トレンド、ビニール製のレコード盤ソノシートなどなど。これらは、言い換えれば、かつてあったが、今は利用されていないものだ。

グループとしてのペンジュラムは自分の信奉者たちの上に上部構造のように君臨し、別個の独立した構造として存在し、自分の信奉者たちのための決まりを定める。決まりとは、自分の信奉者たちをつなぎとめ、新たな信奉者を獲得するためのものだ。このような構造は、自らの決まりによってひとりでに成長を遂げて行くという意味で、独立した存在である。信奉者たちは、自分の意思によって行動しているのではなく、ペンジュラムの決まりによって行動しているということに気づいていない。例えば、官僚組織は、個々の役人たちの意志とは関係なく、独立した構造として成長する。ひとりの人間であっても、自分を代表するペンジュラムであるが、常に自分の動機を自覚しているとは限らない。

どのペンジュラムも本来は破壊的である。なぜなら自分の信奉者たちのエネルギーを奪い取り、彼らを支配しようとするからだ。各々の信奉者の運命などどうでもよいというところに、破壊性が現れている。目的はただ一つ---信奉者のエネルギーをいただくことであって、信奉者の利益につながるかどうかなどは意味のないことである。システムの影響下に置かれた人間は、システムの決まりに従って自分の人生を築かなければならない。さもなければ、その者はシステムによってかみ砕かれ、吐き捨てられてしまう。破壊的なペンジュラムの影響下に置かれてしまったら、自分の人生など簡単に打ち砕かれてしまう。脱出しようとしても、無傷で済むことはまず考え難い。

もし運の良い者がいたとして、システムの中に自分の居場所を見つけ、水を得た魚のように感じることもあるだろう。その者は信奉者となり、ペンジュラムにエネルギーを与え、一方ペンジュラムの方は、その者が存在するための環境を提供する。しかし、信奉者がシステムの決まりに違反するやいなや、その者の放射振動数はペンジュラムの周波数と共鳴しなくなる。ペンジュラムはエネルギーを得られないので、このわがままを言う信奉者を追い払うか、または、抹殺してしまう。

もし人間がその者にとって好ましい人生ラインから遠く離れたところへ連れて行かれたとしたら、本来縁のないはずのよそのシステム内で送る人生は、苦役になるか、または憂鬱なだけの生活に変わってしまう。このようなペンジュラムは、信奉者にとって破壊的である以外の何ものでもない。こうしたペンジュラムの影響下に陥った人間は、自由を失ってしまう。その者は、好むと好まざるとにかかわらず、自分を束縛する規則に従って生活し、巨大なメカニズムのちっぽけなネジ釘とならなければならない。

ペンジュラムの庇護を受ける立場に置かれ、抜きん出た成果を収める人間もいる。ナポレオン、ヒトラー、スターリンなどは、すべて破壊的なペンジュラムの寵児である。しかし、いずれにせよペンジュラムには自分の信奉者たちの幸福を気遣う意思など毛頭なく、自分の目的のために彼らを利用し続ける。後年、ナポレオンは、本当に幸福であった時があったかと聞かれ、自分の人生の中から数日だけ数え上げたという。

ペンジュラムによる宣伝に引きつけられた人々は、自分のすぐ隣で幸せが待っているにもかかわらず、そこから遠ざかっていくことがよくある。軍隊に入って非業の死を遂げる。学校へ入って自分の専門とはなり得ないはずのことを無駄に習得する。自分に向いていないはずなのに、その権威に惹かれて仕事を選び、泥沼にはまって溺れる。自分の人生を他人に結びつけてしまい、後になって苦しむ。

ペンジュラムの特徴を挙げて行こう。
●自分の信奉者たちのエネルギーを受け取り、それによって振幅を増大させる。より多くのエネルギーを受け取ろうとして、できるだけ多くの信奉者を自分に惹きつけようとする。自分の信奉者たちのグループを他のすべてのグループと対立させる。信奉者になりたくない者ならだれであれ攻撃的に非難し、自分のが環に引き入れるか、無力化するか、または排除するかしようとする。自分の行動を正当化し、より多くの信奉者を獲得するために、上品で魅力的な仮面を被り、高尚な目標を掲げて装い、人々の感情をかき立てる。

大事なのは、ペンジュラムの腹を読み、自分のためにならないゲームには乗らないようにすることだ。破壊的なペンジュラムかどうかを簡単に見分けられる一つの特徴がある。それは、常に自分と似たようなペンジュラムとの間で人々の獲得競争を行って、張り合っているということにある。目的はただ一つ。なるべく多くのエネルギーを得るために、できるだけたくさんの信奉者を獲得することである。信奉者獲得競争において、攻撃的に振る舞えば振る舞うほど、ますます破壊的な性質が剥き出しになり、個々の人間の運命にとっては危険なものとなる。

慈善団体、自然保護団体、動物保護団体などもあるのに、それらの組織団体のどこが破壊的なのか、といった異議を唱える人がいるかもしれない。しかし、あなた個人にとって、こうした組織団体は、いずれにしろあなたのエネルギーを摂取する存在であって、あなたの幸福や平穏無事な暮らしには一切関心を持っていないのである。彼らは、あなたに対しては無関心でいるのに、他人に慈悲深くあれと訴える。こうした仕事に従事していて、あなたはこれで満足であり、本当に自分が幸せだと感じるのなら、それは天職と考えてよく、あなたは自分のペンジュラムを見つけたことになる。しかし、ここであなたは自分の気持ちに正直になる必要がある。あなたは庇護者の仮面を被ってはいないだろうか。他人の幸せのために本当に心から自分の労力や金銭を提供しているだろうか。それとも、自分の気持ちを楽にしたいがために、慈善行為のまねごとをしているだけではないだろうか?

破壊的ペンジュラムは、人々が自分の運命を選ぼうとするのをやめさせる。なぜなら、もし人間が自由に選択できるようになると、その者は独立性を勝ち得ることになるからだ。そうなると、ペンジュラムはその者を自分の信奉者として取り込むことができない。けれども、私たちの意識は、運命が天から与えられたものであるという考え方に慣れてしまっており、もっと気に入っている別の運命をただ選ぶことができると信じるのは、実際、とても難しい。一方、ペンジュラムとして、信奉者をコントロール下に置いておく方が都合がよい。そのため自分の手先を使って操るために、ありとあらゆる手段を発明する。

ある法則の場合を考えてみると、もしそこから熱狂的崇拝や運動や周波などが生まれれば、ペンジュラムになり得る。もちろん様々なペンジュラムが、程度の違いはあるがそれぞれ破壊的な面を持っているのだが、この成功法則は、最悪の場合でも破壊的性格から最も遠い存在になるだろう。なぜなら何らかの共通な外部目標にはなり得ず、個人個人の幸せだけを求めるからである。そのため、このようなペンジュラムは、自分の運命だけに関心を寄せる個人によって構成される集団であるから、あったとしても大変に風変わりなものであろう。





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引き寄せという収縮 [願望実現]

肉眼で見えるこの現実世界を成り立たせているのは、見えない内側なのです。見えない内側の表れが外側のカタチとなって現実化します。内なるものが外へカタチをとるだけです。内なる心のありよう、愛のありようが、自動的に外へ具体的な結実となるのです。そして、この結実なくして、何かを受け取ることなど不可能です。 完全なる万物一体愛の神意識に至る以前に、愛の進化には4段階があります。 1・愛がほしいだけ 2・ギブ&テイクという損得をもとにした愛の取引(かけひき計算) 3・愛をただ発動して与えることしか思っていない。 4・与えるとか、受け取るとか、そういう区別さえどうでもよくなっている。ただ愛の状態にある。 1は、まだ完全に動物意識。2は、動物意識の頂点である人間意識。3からは神意識。 虚空から生まれる命の動きには二つの働きが備わっており、遠心力と求心力の双方向システムになっています。愛の方向が二つで一対です。A:中心から外へ拡大(発展繁栄・神化)しようとする愛 B:中心へ収縮しようとする愛 Aは創造結実に向かっていくエネルギーなのです。愛の遠心力です。発展・繁栄を欲求する愛の動きです。積極的な側面です。「愛を与えよう」という意志です。Bは受け身的で控えめな側面の愛です。消極的な側面です。受容性です。「愛を与えられよう」という受け取る側面です。 愛を感じると、自動的にいやでも拡大するのです。愛だけが拡大増殖のエネルギーだからです。ただ、愛という肉眼で見えないものが、拡大だけの方向性しかなかったなら、どこまでいっても見えるカタチでの結実が起こりません。どこかで動きが止まってくれるからこそ、結実(現実化)起こるのです。 動きが止まってくれるのは、愛の源泉へ戻ろうという、収縮しようとする働きによってです。愛の拡大が止まってくれて、結実になったあとは、ありがたいことに自動的に源泉である中心の方へ戻るのです。中心へと引き寄せられていくのです。これもまた「収縮しようとする働き」のおかげです。 多くの人が引き寄せという収縮の方向(収縮の動き)を主に願っていますが、真っ先に愛の放出や拡大がないのに、当然そこからの結実もないのに、一体何を引き寄せるというのでしょうか?しかも引き寄せのエネルギーは、収縮と破壊のエネルギーですから、引き寄せだけを願っていると、創造の愛が崩壊することしか起こりません。愛と至福の心の種子を自ら、蒔いてもいないのに、回収することなどできるはずがないのです。

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理性の疑念と目的の歪み [願望実現]

あなたはすでにイメージの法則を使いこなせると仮定しよう。だが、時間が経つのに、何も起こらない。手紙を出したはいいが、返事は一向に来ないようなものだ。理性は落ち着きなく寝返りを打ち始める。我慢できないのだ。ひょっとしたら間違ったことをしでかしたのだろうか。それとも、すべてはたわ言だったということか。実は、世界はひとところに留まっておらず、鏡に映し出される姿の物質化プロセスが進んでいる。ただこのプロセスは目立たないため、何も起こらないように思われるのだ。こんな時、理性は、鏡が遅れて反応するという知識と、直接的行動の後ですぐに結果が現れる相関性を見ようとする慣れ親しんだ習慣との間で、揺れ動く。もし結果が見えなければ、理性は何を思うだろうか。思考上の仕事が非効率であったか、それとも、正しいやり方ではなかったか、と思う。では、そのような場合、鏡は何を映し出すだろうか。まったく同じことを、だ。こうしてプロセスは停滞するか、またはあらぬ方向へと逸れていく。理性と世界との間では、おおよそ次のような対話が予想できる。

「おもちゃが欲しいよ」「もちろんです、小鳩ちゃん、知っていますとも」「だって、約束したじゃないか」「そうですよ。あなたが頼んだから、私はおもちゃが手に入るだろうと言ったんです。察するに、おもちゃが手に入るだろうと言ったことで、あなたは十分満足した様子でしたね」「違うったら。僕はおもちゃが今この瞬間に欲しいんだってば」「ええ、わかっていますとも。あなたは今おもちゃが欲しいんでしょ」「じゃあ、いったいどこにおもちゃがあるんだい」「本当に、どこでしょう」「どちらかがバカだということかい」「確かに」「コンチクウショー。お前はただの間抜けな鏡だってことを忘れていた。ええと、どうやって頼むんだっけ?あ、そうだ、思い出した。お前は私におもちゃをくれる、だ」「承知しましたよ、私の大切な人」「といことは、僕はおもちゃをもらいに出発するところ、だよね?」「もちろんですよ、愛しい人、さあ私の手を取って」

こうして、二人は欲しいと思っているおもちゃを求めての旅に出発するところである。あとは忍耐心を持ち、自分の時間を心躍る準備作業に捧げるだけとなる。魂はうきうきし、理性は満足そうに揉み手をする。満足しないなんてことがあろうか。なにしろ世界と一緒におもちゃを求めて進んでいるところなのだ。次のことを理解するべきだ。行われた選択は、必ず実現されることになる揺るぎない法則に変わる、ということを。そのために必要なのは、注意を最終目的に固定しておくことだけなのだ。ところが、人はいつまでもそうしてはいられないものだ。「ねえ、僕たちはあそこへ向かって進んでいるんだよね?何だかおもちゃ屋は見えてこないようだけど」「心配ご無用、私の大切な人、もうすぐですから」「それはいつなの?入口が違ったような気もするけれど」「そう思いますか?」「ああ、やっぱり道に迷っちゃった」「あなたの言うとおりにしていますよ、小鳩ちゃん、知っているでしょ、私がいつも同意することを」「鏡のバカ。よくわかったよ、お前はまったく頼りにならないヤツだ。どこへ連れてきたんだよ?」「ただ途中で公園に寄りたかっただけですよ、ついでにメリーゴーランドで遊んでもらおうと思って」

もし人が目隠しされたまま歩かされると、頼りなく感じる。人の理性は、何も起こらない状況や、あるいは、ものごとが思ったとおりに展開しない状況とは、どうしても折り合いをつけることができない。理性は人工頭脳を持ったロボットに似ている。もし処理作業の演算規則に反することが生じると、赤いランプが点灯するのだ。理性が人工頭脳と違うのは、理性自体がすべての展開を事前に見通すことができると無邪気に思い込んだ上でプログラム--シナリオ--を作り上げる点にある。理性は固定観念に染まった行動プログラムを示すだけでなく、それに固執するというところに、所謂、良識と呼ばれる物の考え方の原始性がある。

選択が行われた、すなわち最終的な目的=イメージが選択されたその瞬間、世界の鏡は注文を受け取り、定められた計画に従って中門の実現に着手する。どのような手段でイメージの反映が創られるかを知っているのは鏡だけであり、理性はこの道筋についてはあずかり知らない。ところが、事象が何らかの奇妙なシナリオによって展開しているのを目にした理性は警告を発し始め、その人は世界の胸座を取る。何か手を打たなければ、というわけである。心の底で本人はどうせ何にもならないだろうと思い、そう思うことで形は歪む。それに加えて、自分のシナリオを擁護する行動に出るので、本人には知らされていないが、本当に成功へと導いてくれるはずの計画の実現は邪魔されるばかりとなる。理性は頑迷固陋なのである。こうして人は、目的まで通じているはずと思われる自分のシナリオをぎゅっと握りしめて放そうとせず、目的が実現することを自分で許さないのだ。しかし、これですべてではない。早くおもちゃをもらいたいという自分の抑えのきかない願望によって、人は過剰ポテンシャルを急激に高めるため、鏡は文字通り歪んでしまう。歪んだ鏡から何を期待できようか。



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