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人生のストーリーに気づく



2歳の頃までのあなたは、「あなた」として知られる小さな幼児の身体を通して輝く、純粋な意識だった。感覚、感情、知覚に関する刺激には非常に意識的であったものの、あなたとして知られる個人的な過去を持つ「自己」という限られた観念は未知のものだった。あなたはこの瞬間に生きていた。今の体験だけが唯一、あなたにとって真実だったのだ。

ところが、2歳の頃から、「自己」と「他者」を識別する思考能力が発達してきた。あなたは徐々に自分と他の人々との違いを認識し始め、ユニークな「人物」があなたの内側で生きていると思うようになったのである。この考えは社会全体や文化的環境は言うまでもなく、あなたの家族によっても強く促されたのだった。

その結果、恩寵からの墜落が始まったのである。自己認識の樹になる果実を食べて、「黒」か「白」、「善」か「悪」、という二元性の世界にあなたはやって来たのだ。あなたは「正しい」か「間違い」、「善い」か「悪い」という考えと一体化するようになったのである。様々な活動と体験から喜びを見出すが、物事があなたの望むようにならないときにはいつも多くの葛藤と苦しみを経験する、分離した「人物」であると自分自身を見なすようになったのだ。

これまでのところ、あなたは一人の大人として、他の誰ともまったく異なる「あなた」が身体の内側で生きているという信念を強固に確立させてきた。あなたは特有の肉体・マインド・パーソナリティーというユニークな波形となって現れている純粋な意識という海が、あなた本来の、真の性質であることをあなたは忘れてしまったのだ。あなたは自身の幸せを、自分の外側で起きている出来事に依存するようにと仕向けてきた。過去か未来の中で生きていて、あなたが今にここにいることは滅多にない。多かれ少なかれ、人生の状態があなたをコントロールしている。感情が反応するボタンはいとも簡単に押されて、あなたは感情的にすぐ反応する。

時折、あなたは人生の状況の被害者のように感じている。被害者とは、自分自身のストーリー、またはそのストーリーの影響と完全に一体化している人だと定義することができる。例えば、多くの被害者は、耳を傾ける人であれば誰でも、熱心に彼らの悲痛に溢れた物語を語る。被害者でいるという罠にはまっている人たちは、完全に彼ら自身の真の性質と切断されてしまっているのだ。

悟りや目覚めの最もシンプルな定義とは、あなたが誰であり、何であるのかという真実を再発見することである。つまり、あなたの凝視をあなた自身に戻して、およそ2歳の頃から自分だと思ってきた「人物」は、実際は幻想であるという真実に目覚めることなのだ。その「人物」は本物ではないのである。

あなたがマインドの中に蓄積してきたすべての信念、批判、記憶、意見、偏見、経験は、あなたの人生の「ストーリー」を捏造し、あなたが個人的な過去を持った1人の「人物」であり続ける考えを支える、ただのストーリーなのだ。ストーリーには根深いルーツがあり、パーソナリティーを形作ってきた。あなたが現在、世の中に向けて表示している体面に貢献してきたのだ。しかし実際は、あなたの心理的、感情的な個人的な過去の事柄は、たった今、実際に起こっている今という現実とはまったく関係がないのである。

自分自身が誰であり、何であるかについての、あなたの思考と信念のすべては、この瞬間に開かれて完全に生きることからあなたを遠ざける。小さなマインドの中であなたが固守し続けてきた考えと思わくは、身体に感情的な緊張を引き起こし、あなたと周囲の人々の間の障壁となって、あなたが他の人たちと真に繋がることを妨害するのだ。真の親密さの可能性を妨げ、究極的には愛の流れをも塞き止めるだろう。

本物の愛を目の前にするときはいつも、自分自身についての否定的な信念が引き起こされるか、あなたの感情的なボタンは押されて、「私には価値がない」、「私は値しない」とあなたはつぶやくことだろう。もしくは、「私は値する」と自分自身に語って、次の瞬間にその本物の愛を受け取り続けるには、ある駆け引きをしなければならないとか、ある特定の流儀で行動しなくてはならないと、あなたは考えるかもしれない。

あなたが自分自身を個人的な過去を持った「人物」だと見なす限り、本物の愛を目の前をしても、または、日々生きていることであろうとも、あなたは実際には存在していないのだ。「自己」についてのイメージやストーリーを持って生きている限り、「自己」評価に関する問題が絶えずあなたにつきまとう。あなたのマインドにはいつも思わくというような、何かしら温めてきた考えがある。「ああすればよかったかもしれない」と、常に自分自身のことを振り返って考えている。また、自分自身に度々、判断を下して、その延長戦として、あなたは他者に判断を下すのである。

目覚めるとは、自分が誰であるのかについての、すべてのあなたの思考、信念、概念、ストーリーを超えて、存在の深いレベルから、実際は自分が誰であり、何であるのかを知ることである。それはつまり、「あなた」と呼ばれるこの肉体・マインド・自己となって現れている普遍的な意識とあなたがひとつであることを、そして、その一つの表現としての自分自身を知り、感じることなのだ。

個人的な葛藤と苦しみからの解放という内なる自由の途轍もない感覚を、この知識がもたらす。わたしたちの理解をはるかに超える、真の内なる平和の体験を得ることができるのだ。ひとたび、その内なる平和に目覚め、自分自身がある実体ではなく、無でありながらも、すべてでもあると知ると、あなたは世の中の人々とその知識を分かち合うことができるようになるだろう。あなたの平和を世の中の人々と分かち合うことができるのだ。

内的に平和な自分自身、または平和な世界を、今、想い描いて欲しい。自分が誰であり、何であるのかの真実を発見するために、あなたが必要とする動機はこれだけでも充分ではないだろうか。面白いことに、かつてこのようにわたしに訊ねた人がいた。「世界平和・・・それってちょっと退屈じゃないですか」。わたしはこう答えた。「あなたが真に内的に平和であるならば、そのような質問は出てこないだろう」と。

そもそも、退屈それ自体が、絶えず動いていて、飽きっぽく、刺激と興奮が形態となったものを求めるというマインドのある段階なのである。真に内的に平和だと、マインドは澄み、穏やかで、広々としている。このマインドはこの瞬間に目覚めていて、注意深い、このマインドは愛に溢れ、恐れがない。「自己」についての、どのような考えからも解放されたマインドなので、すべての可能性に興味を持っていて、開かれているのである。




名残


「もしも、世の中のすべての人が悟りを開いたらどうなるのでしょうか」と、ある男性がジーン・クレインに訊ねたことがあった。ジーンはその男性を見つめてから、笑って答えた。「そりゃあもちろん、ただ踊るだけだよ!」

彼が言及している「踊る」と言う意味は、言うまでもなく、祝いであり、無邪気な戯れであり、創造性のことである。しかし、それは人類の通常の問題や難題が消えてなくなるということではないのだ。目覚めることによって、努力を要しない、ある種の完璧さの中にただ住むということではないのだ。

「悟りとは問題が消えてなくなるということではなく、それはただ、問題がもう問題を孕まなくなるということである。目の前にある難題にただ対処する。非常に澄みきって、この瞬間に存在して、機敏に応答するという次元から、難題に対処するだけなのだ」と、ジーンが別の機会に、このように語っていた。

かつて、インド、ムンバイに住んでいたマスター、ニサルガダッタ・マハラジのもとに西洋から多くの探求者が訪れ、彼らのうちの一人が「まだ、恐れを持っておられますか」と、マハラジに質問したことがある。「時に、感情的か、精神的な古い反応がマインドに生じるが、わたしはすぐにそれに注目し、それを棄てる。何と言っても、人はまだパーソナリティーを持っているのだから、依然として、個人の特異性と習慣は曝されるだろう」とマハラジは答えている。

名前の由来が「生まれながらの状態で留まっている」であるニサルガダッタ・マハラジの、この言及を読んだとき、まだ人間であることはオーケイなのだ、時々、一瞬の恐れを体験したとしてもいいのだと、わたしの精神的な肩の荷が降りた。これはまさに解放だった。

長年、真実にあることを確立させた偉大な聖者さえも人間だったのだ。彼らでさえも、道具が彼らを裏切るときがあるのだ。消化不良になって、苛々する瞬間があるかもしれない。いつもとても優しく、愛に溢れているわけではないかもしれない。ぶっきらぼうだったり、無関心だったり、引きこもったりすることもあり得るのだ。彼らの普通の人らしさは、わたしたちが完璧とは言い難くてもいいのだということであり、わたしたちの強いプレッシャーを取り除いてくれる。それゆえ、わたしたちは気負うことなく、自分たちの真の性質である明晰さと実在の中で、くつろぐことができるのだ。

ジーンは過去からの反応について言及したことがある。彼はそれを「名残」と呼んでいた。それでわたしはこの表現を得たのだ。自分自身のアイデンティティーや存在意義を、思考のプロセスか、個人的な過去の事柄から見出さないようにするため、「私だ、私自身、私が」と呼ばれているストーリーを見抜くことが解放である。その代りに、まさに今、ここで感じている創造のエネルギーから、つまり、存在していることの漲る生命力の活気と豊かさから、自分自身のアイデンティティーや存在意義が生じるのだ。創造が起きている絶え間ない変化と流動の中にあっても、あなたは自分自身を変わることのない気づき、意識として認識しているのである。

ひとたび、目覚めが起こると、あなたは自由となる。ところが、あなたの個人的な過去の事柄の要素である名残は、依然として身体の筋肉組織に閉じ込められているのだ。ヒーラーやボディ・セラピストであれば誰でもこの現象を理解していることだろう。スピリチュアル・ティーチャーのエックハルト・トールが「ペイン・ボディ」と言及したことと同じである。これらの名残は、時折、作動することが起こり得る。

例えば、目覚める前のあなたが根っからのせっかちだったとすると、目覚めた後ではその傾向が減少するとは言え、せっかちという名残は相変わらず残るのだ。あるいは、目覚める前に何かと直面することを恐れていたならば、あなたが誰であるのかという真実を悟った後で、その恐れのほとんどが消えても、何かと直面するような状況に陥ると、過去からの影響が誘発されるかもしれないのである。別の表現で言い換えると、恐れが忽然と湧き起ることもあるかもしれないのだ。

目覚めると、あなたは名残に気づき、それらは消え失せる。これが違いである。あなたは名残を自分のものだとはしなくなる。こうして名残にエネルギーを与えなくなると、名残は溶けていくのだ。そのような動揺は、あなたの自然な状態である、あなた本来の意識という広大な澄み渡る海を、一瞬だけ荒立てる細波のようなものである。または、湖に例えると、あなたの存在そのものである湖の水面は、強風が吹き渡ると波紋が広がるかもしれないが、水面から深いところは静まり返り、澄みきって、穏やかなままなのである・・・・




●ここで少し一息ついて、あなたが今、体験していることと共に存在しましょう・・・精神的、感情的、身体的であれ、筋長か心地悪さを感じているところがあれば、それに注目します。そして、それを受け入れ、それを在るがままにさせておきます・・・自分自身に語っているストーリーがあれば、それに気づきます・・・・さあ、深呼吸をしてリラックスし、真実を観ましょう・・・・ストーリー、思考、感覚、感情は常に変化し、生じては去って行きます・・・・しかし、「あなた」は気づきとして、そのすべてをじっと見つめ、ずっとここにいます・・・この瞬間においては、自分だ誰であるのかを定義するストーリーを、あなたはまったく必要としません・・・「特別な人」であるための、どのような概念も、イメージも、観念も、まったく必要としていません・・・あなたは今の現実における自分自身に意識的であり、それだけで満足しています・・・すべてはこの次元から生じるのです・・・




二元性を超えて


「目覚めとは日々の生活における二元性から自由になることだとよく語られていますが、どのようにして二元性を乗り越えることができるのでしょうか。わたしにとって、昼と夜、善と悪、幸せと悲しみという二元性は、現実であるように思えます。わたしたちは片方がなくてはもう片方が得られないという、相対性の世界に住んでいます。つまり、人生で下降を経験せずには、上昇を得ることはできないようにわたしには思えるのです」

このような質問をわたしは今まで多く受けてきた。明らかに、この世界には昼と夜、喜びと痛み、熱いと冷たい、富裕と貧困がある。しかし、これらの区別は、実際には厳密に黒か白というように明白ではないのだ。

ある人の喜びは他の人の痛みか、不満となり得る。昼は次第に暗くなって夜の帳を迎え、夜明けを告げる光が現れて朝になり、再び昼となる。ところが極地では、夏は昼間が20時間か、それ以上続く。富裕と貧困もまた認識の問題である。先進国の貧困は、第三世界では裕福と見なすこともできるだろう。

先ほどの質問の要点の、わたしたちは人生で下降を経験せずには、上昇を得られないということは、幸せが自分自身の外側の出来事や状況に基づいている場合は、まさに真実である。あなたがパートナーから満足感を得ようとしているのであれば、パートナーが上機嫌のとき、あなたは優しくされて気分がいい。パートナーが不機嫌のとき、あなたは当たり散らされた気分が悪い。あなたはこの状況が気に入らない。また、状況はあなたに悪影響を及ぼしている。

同じ原則が他のことにも当てはまるだろう。収入があると、幸せになる。収入よりも支出が多いと、惨めになる。あるいは、あなたが「精神的」と付箋をつけた生活では、深い、至福に満ちた瞑想を体験するかもしれないが、その一方で、あなたの人間関係や仕事の「物質的」な生活は、多くの葛藤と苦しみを生み出している。

それでは、ここでもう一度、はっきりさせておこう。自分自身の幸せと幸福を外的要素に依存すると、気分がいいときと悪いときの間を必然的に揺れ動くことになる----あなたは二元性の中に囚われているのだ。二元性の被害者となっていて、他に出口はないのである。

実際に幸せを外側の物事に頼るほど、慢性的で根本的な不安をあなたは強く感じて生きることになる。幸せがいつ変化するのか、幸せがいつ奪われるのかというように、決して安定することがない。これが多くの人々の現状であるが、あなたは彼らのようになる必要はないのだ。

あなたの真の性質である気づき、開かれたハート、自由という状態で生きているならば、あなたの根本的な幸せはもう外側の出来事や状況、または人々の考え、発言、行為には依存しなくなる。幸せは内側から生じる。存在そのものの美、完全性、喜びという直接的な発言となって、幸せはあなたを通して輝くのだ。別の表現に置き換えるならば、内なる平和はあなたの真の性質なのである。

目覚めが本物になると、外側で何が起きていようとも、あなたは常に内側では平和でいる。それと同時に、あなたは世の中で、つまり二元性の現実の中で生きている。あなたは自分自身の生存、心地よさ、幸福のために最善の状況をもたらす選択を確実に行い、そのように行動するだろう。物質的、物理的なレベルで人生がより円滑に運ぶようになると、あなたはより自由に自身のエネルギーを他者に役立つよう、また、あなたの運命を実現させるために注ぎ込むだろう。

そして、あなたはポジティブなカルマを生み出すようになる。カルマとはただ単に、どの行動も反響効果を含んでいて、それが結果として連鎖反応を生むということである。ポジティブなカルマは意識的な行動であり、愛、思いやり、善意という気持ちを生み出す。ネガティブなカルマは無意識な行動によって生じる。そして、その結果は常に苦しみなのだ。

ここで話を戻して、なぜ目覚めがとても重要なのか、また、その利点について語ろう。目覚めると、あなたの根本的な内なる平和と幸福は、外側の状況が好ましくても、そうでなくても、それには依存しなくなる。したがって、目覚めは外側の出来事の結果に執着することや、それらへの執着がもたらす不可避の不安や苦しみから、あなたを解放する。目覚めは執着している「ある人」でいる、苦しんでいる「ある人」でいるという限られた観念から、あなたを解放するのだ。したがって、あなたは苦しみから解放されるのである。

わたしは最初に目覚めをほんの少しだけ味わったときのことを、はっきり覚えている。それは実に、わたしの人生を変える出来事だった。このような体験は決まって、不意にやって来るものだ。

わたしはカリフォルニア州サンタローザに住んでいた。カイロプラクティックを学ぶために、ニュージーランドからアメリカにやってきたが、本当のところは、ライターか、作家になることを強く志望していた。カイロプラクティックの人々を助けるという意図が気に入って、一時的な職業とするにはとてもいいだろうと考えていただけだった。当初のわたしの計画は、卒業後にニュージーランドに戻って、カイロプラクティックの技術を磨き、小説を執筆しながら、ニュージーランド議会に選出された3人目の女性という父方の祖母の歩みを追って、政治に関わるということだった。

ところが、カイロプラクティックの学校に通っていた最後の一年間、わたしは健康的な危機に見舞われた。呼吸困難とともに、胸の辺りが締め付けられるようになったのだ。そのとき、わたしは一連の呼吸法を行っていたので、どうにか脳まで酸素が行き渡ったが、意識的に呼吸の流れをコントロールし続けなければ、完全に呼吸が停止していたかもしれないほどだった。

この状況はあらゆる種類の不安な気持ちをわたしに引き起こした。夜、眠りに落ちるのが怖いという程度まで達したのだった。時折、弱々しい祈りを試みたが、わたしはもはや神を信じていなかった。結局は極度の疲労から眠りにつくのだが、翌朝、目が覚めたときには、まだ自分が生きていることに感謝の念が湧き起ったものだった。

ちょうど、この頃は、わたしが精神的に追い詰められた混乱の時期だった。ところが、この種の苦しみは自分自身の内側を深く見つめるようにと私たちを仕向ける。当時のわたしは気づいてはいなかったものの、わたしのスピリチュアルな旅、内なる自由への旅が、このとき、始まっていたのだった。

そして、この状況に取り組むために、わたしはヨガを始めた。また、朝、ジョギングするときには、立ち止まってどのくらい速く走ることができたかタイムを計りつつ、自然界にもっと意識的に感謝するように試みた----林檎の木の止まって囀るアオカケスや、スイカズラの木の周りをブンブンと飛び回っている蜂たちを立ち止まって注目したりした。次第に呼吸をコントロールしようとするのを止めて、この瞬間に存在することにもっと信頼を置くようにもなった。

TM瞑想のコースにも参加し、それが大きな違いを生んだ。1日に2度、座って瞑想し、ただ今、ここに存在した。こうして数か月過ぎると、不安な気持ちはいつの間にか消えていて、再び、熟睡できるようになったのだ。

当時のわたしは、スピリチュアルな探究の一部分としてヘルマン・ヘッセ、アラン・ワッツ、J・クリシュナムルティの著書を読み漁った。特にクリシュナムルティの著書に深く没頭するようになり、依然としてわたしがいだいていた、神に対する信仰のすべてを完全に棄てた。クリシュナムルティは様々な意味で、究極の霊的な偶像破壊主義者である。信念と概念の檻がわたしたちを拘束し続けて、あらゆる苦しみを引き起こすと彼は語っていた。彼が言う自由とは、思考の網から、そして、神についてのあらゆる概念から解き放たれたところにあった。そして、そのときやっと、わたしたちは「神」と言う言葉の意味を理解するのだと。

最初にわたしが目覚めをほんの少しだけ味わったのは、この頃のある夏の朝だった。わたしは早朝に目が覚め、ベネチアン・スタイルのブラインドの隙間から差し込む陽光の一筋に注目していた。そのとき、ナゲキバトの優しくて心に残る鳴き声が聞こえてきた。すると、わたしのマインドにあったすべてのことが、突然、消え失せていったのだった。思考のすべて、昨夜の夢の残映、それら一切が突如消えていき、わたしが今まで知ることもなかった尋常ではない明晰さ、静寂、そしてワンネスの状態となって、わたしはベッドに横たわっていたのである。この体験をしている「私」という感覚すらなかった。そこにあるのはただ、時を超越した実在という感覚と、緊張と葛藤の完全なる不在であった。

暫くしてから、一つの思考がマインドに沸き起こった。「ああ、そうか、これがクリシュナムルティや、他のマスターたちが語っていたことなのか。求めるものは何もなく、すべてはまさにここに在る。人生はこのままですばらしく、完璧だ」と。

1日が過ぎると、あの驚くべきワンネスの感覚が次第に薄れてきて、どちらかと言えばマインドに偏っている幾分苛立ち気味の、普段の自分に徐々に戻って来た。しかし、わたしの中の何かが永遠に変化していた。それはあたかも、わたしのエゴに拘束された意識に、一つの穴が開いたかのようだった。

わたしは日常の現実の背後にある、真の現実を少しばかり味わったのだ。そして、あの真の現実はわたしだったと、あるレベルで認識したのだ。日常の雑音と混乱に覆われながらも、常にここに存在している、生命の神聖なる完璧さの美を、わたしは垣間見たのである。

自分が何を求めていたのかが、このときにやっとわかったのだ。あの明晰さの状態、あの安らかさと神の創造した生命の神聖なる完璧さと一体になったワンネスの感覚で、常に人生を生きることをわたしは望んでいたのだった。そして、本能的に察知したのである。必要であればどのようなことがあっても、また、どれほどの犠牲を払ってでも、これを実現させることを貫くだろうと-----わたしは完全に目覚めることをコミットメントしたのである。

その内なるコミットメントの結果として、私はそれからの人生の18年間を、悟りと目覚めの追求のために捧げた。つまり、今ではわたしの真の性質だということを悟っているが、わたし自身が完全に自由の状態に定着するようになることを追求したのだ。表面的には、わたしはごく普通に社会で暮らしていたものの、これがわたしの生存の主要なテーマとなったのである。