reception-2507752_640.jpg

凡庸な精神



数日間、雨が降り続いていた。間断のない大雨、そして北東からの強い風が吹いていた。しかし、この朝はすっかり晴れ渡っていた。青い空、暖かな日差し、そして海は青かった。

商店街を車に乗って通りながら、人は多種多様な物品であふれたそれらの店を眺め、急ぎ足で出たり入ったりしながらいろいろなものを買う人々を眺める。西洋世界では、それは大きな祭日であった。そして騒音と雑踏、人々の果てしないおしゃべりは一帯を満たしているように思われた。そして店々では、誰もが貪欲に、飢えたように物を買っているように見えた。

こうしたすべて-----素晴らしい青空、静かな海、そして貪欲さと切望を抱えたこれらの人々----を見ながら、それはどこで終わるのだろうかと人はいぶかしく思う。そしてなぜ世界はこんなふうに、もしその言葉が閊えるなら、ひどくブルジョワ的になるのだろうと問う。私はその言葉{=ブルジョワ}をあなたがどう解釈するか、それがあなたにとって何を意味するかは知らない。あなたはそれに非常に表面的な意味を与えることも、無視することもできる。あるいは、その言葉が含みをもつ意味を吟味することもできる。この狭い、限定された、ちっぽけな精神が、世界の他のすべての精神と感情、活動を圧倒し、支配しているように見えるのはなぜなのだろう?ブルジョワジーとは何か?人はその言葉を、あまりに多くの政治的含みをもつがゆえにかなりためらいがちに使う。そしてそれは非常に多くの人々によって軽蔑的に用いられる。この軽蔑の中には、自分たちがその一部であるという感情が含まれる。だから、ブルジョワであるとは何を意味するか、見いだすのはかなり興味深いことだろう。明らかに、それは資産{地所・所有物}や、金銭、利己主義が支配的である人のことである。彼は自分の資産を持っていないかもしれないし、たくさんのお金を持っているかもしれない。またはどちらにも執着しているかもしれないとしても、である。世界にはそんな人がたくさんいる。宗教の領域、そして芸術家や知識人たちの世界でも、利己主義はしつこく生き延びている。だから、ブルジョワ精神とはこの利己主義の要素のことかも知れない。「利己主義」という表現にしても、定義はかなり難しい。それは多くの微妙な意味を含むようになっている。その解釈には実にいろいろある。しかし、もしそれを見ることができるなら、その中に少しばかり深く入り込んでみるなら、利己主義は、それがどんなに広く、多くの領域にどれほど拡張的に使われているとしても、狭い性質、狭い活動、限定された、制限的な行為をもつ{ことがわかるだろう}。宗教的な人、僧侶、サニヤーシは、世俗的なもの----資産、金、地位、そしておそらくは特権さえも-----を放棄しているかも知れない。が、彼の利己主義はより高いレベルへと移し変えられただけである。彼は自分自身をその救世主に、グルに、信仰に自己同一化させる。そしてまさにこの自己同一化、自分の思想と感情のすべてをある人物、あるイメージ、何らかの神話的願望に投げ入れようとする努力そのものが、利己主義を構成するのである。だから、利己主義があるところに、この恐ろしいナショナリズム、人々の、人種、国々のこの分裂の根そのものがあると考えてよいだろう。そのような利己主義は精神の偏狭さをもたらし、それは柔軟さと、迅速で鋭い知覚をもつ行為を失わせる。技術者は技術の領域では迅速な対応力をもつ。彼は一つの技術から別の技術へと、一つのビジネスから別のビジネスへと、さらにはある信念から別の信念、ある国籍から別の国籍へと動くことさえするかもしれない。しかしこのかぎられた適応能力と精神の可塑性は自由を与えない。どうしてある特定の信念やイデオロギーを信じ込んでいる人に限りなく柔軟な、易々と曲がる破壊されることのない草の葉と同じような精神と心が持てるのか?さて、ブルジョワというのは、資産や、可燃、自己の利益に執着している人たちである。あなたは自分の妻や友人に、あなたがつくっている関係の中に利己主義があるかどうかたずねるかもしれない。もしもあなたが彼女または彼に、あなたが彼らについてもっているイメージに合うようにしてもらいたいなら、それが利己主義である。しかし、イメージをもたず、けれども特定の身体的、心理的事実を指摘することは、利己主義ではない{主観的な心理的投影から自由な観察と認識がまた別にある、ということ}。

こうしたすべてを考慮して----青空、その広がり、そして空と地平線がまっすぐな、素晴らしい線をなして出会うところを見、そしてあなたが木々や鳥、動物たちを殺す祭日のために買い物に大童になるのや、人々がタバコを吸い、酒を飲み、異性といちゃつき、高価なあるいは安物の車に乗るなどを見て-----こう自問しなさい。自分はブルジョワなのかと。あなたは芸術家、政治家、実業家、あるいはささやかな仕事をもつ普通の人、それとも台所や会社で働く女性かもしれない。職業が何であれ、もしもあなたが他の人ともつ関係、自分の地位、または信念やイデオロギーの上で何らかの種類の利己主義をもつなら、そのとき、避け難くあなたは狭い、つまらないちっぽけな精神をもつことになる。あなたはいい仕事をしているかもしれない。気前よく他の人たちを助け、またはいわゆる幸福な結婚をしているかもしれない。あなたは愛について語り、妻や子供、友人たちを愛しているかも知れない。けれども、そこに何らかのこの破壊的な利己主義があるなら、財産や地位、金や権力にそのような大きな重要性を与える凡庸さの刻印があるのである。このつまらない小さな精神は、人間が自分の周りに作ってきた壁を、障害を超えて進むことはできない。

だから、車に乗って、誰かを待ち、暖かな日差しがあなたの顔や通り過ぎる人々の顔に当たるとき、あなたはそれらの人々の顔を見て、人類には何が起きているのだろうといぶかるのである。若者は年配の人間と同じように溝にはまり込んでいる。ファッションは変わり、その溝もまた変わる。しかし、何らかの伝統に、条件づけにとらえられることは、精神に弾力性のこのと特質を与えない。再び、この言葉は説明を要する。精神または意識は、素晴らしい知識によって、経験によって、苦しみまたは大きな喜びによって、拡張することができる。快楽は精神の弾力性の助けにはならない。喜びは助けになる。しかし、喜びの追求または楽しさの追求は、それが快楽になるのだが、どんな種類の自由も、迅速さ、弾力性も禁じてしまう。すでに述べたように、精神はテクニックからテクニックへと、仕事から仕事、行為から行為、信念から新しいイデオロギーへと動くことはできる。しかし、これは本当は弾力性ではない。精神が何らかの地点、経験、知識につながれ、縛られているかぎり、それは遠くに行くことはできないのである。そして意識の中身が意識を作り上げるように、その中身そのものが自由を、迅速さを、運動の驚くべき知覚を妨害する。意識のその中身が利己主義になる。それはあなたが家具に、または何らかのテクニック、信念や経験に重要性を与えることかもしれない。その経験、その知識、その出来事が利己主義の中心になる。意識をその中身すべてから空っぽにすることが、知覚と行動における全的な運動をもつことである。




ただ独りあること



瞑想とはただ独りあることの行為である。その行為は孤立の活動とは全く異なっている。<私>の、セルフ、エゴのその性質そのものが、集中を通じ、瞑想の様々な型や手法を通じ、そして日々の分離した行動を通じて、それ自らを孤立させることにつながる。しかし、独りあることは、世間から引きこもることではない。人の世界は群居である。それは影響の、意見の相互関係であり、伝統の重みである。それは思考の慰みであり、自己陶酔の活動である。これは避け難く寂しさと、自己を孤立させる惨めさに行き着く。

独りあることは精神が社会の影響の外に出ているときにだけ可能である。そのとき内部に、社会の無秩序からの自由がある。この自由が徳であり、そして徳はつねに単独である。社会の道徳は無秩序の延長線上にある。瞑想はこの無秩序を超えることであり、ヴィジョンの、経験を広めることの私的な快楽ではない。こうした経験はつねに孤立したものである。

愛は分離的なものではない。そして愛が培うことができないものであるのと同じく、アローンネス{一者・全一の感覚}も思考が作り出すものではない。それは思考の活動からの自由があるとき、朝日のように自然にやってくる。

夕日が若草に当たり、葉身の一つ一つにその輝きが宿っていた。春の若葉がちょうど頭上にあり、それはあなたが触れても感じられないほど繊細で、通り過ぎる子供が引き裂くことができるほど傷つきやすかった。そして青空が木々の上にあり、クロウタドリがさえずっていた。水路の水は静かで、それに映るものが現実のものと区別できない{=映像が実物そのものに見える}ほど澄んでいた。アヒルの巣があって、そこには12,3個の卵があり、親鳥がたいそう用心深く乾いた羽根でそれらを覆っていた。戻ってきたとき、あなたは彼女がその上に座り、卵がないように装っているのを見た。そして水路に沿ってずっと歩いていくと、素晴らしい若葉をつけた背の高いブナの木に囲まれて、12、3羽の雛を従えた別のアヒルがいた。たぶんその朝孵ったばかりだったのだろう。その何羽かは夜の間に野ネズミに食べられてしまうだろう。果たして翌日あなたが戻ったとき、2,3羽の雛が消えていた。巣の中にいたアヒルはまだそこにじっとしていた。それは美しい夕暮れで、春の特性である不思議な栄光に満たされていた。あなたは一片の思考もなくそこにたたずみ、一本一本の木、一つ一つの草の葉を感じ、そして人々を乗せて通り過ぎるバスの音を聞いた。

結局、肉体的に一人でいることすら難しくなるばかりである。たいていの人は一人でいたいとは思わず、一人になることを恐れている。彼らは{色々なことで}頭をいっぱいにし、またそうありたいと思っている。目覚めた瞬間から夜寝るまで、さらには夢をみているときまでそうなのである。そして洞窟や、僧として僧院の自分の個室で一人暮らす人たちは、決して独りではない。彼らは自分のイメージと、考えと、彼らに未来の{悟りの}成就を約束してくれる修行と共に暮らしているからである。彼らは決して独りではない。彼らは知識でいっぱいになり、洞窟や個室の暗黒でいっぱいになっている。

人は真にアウトサイダーでなければならない。何物にも、また誰にも属さないアウトサイダーでなければならない。しかし、あなたは戦って出口を見出すことはできない、というのも、そのときあなたはまだ何かに所属しているからである。出口を見出そうとするその戦いの行為自体が、社会を陳腐なものにしているのである。だからそこには内も外もない。あなたが自分は外部にいると気づくや否や、あなたは中にいるのである。だからあなたは社会に対して死ななければならない。そうすればそれを知ることなく、新しい生が出現するのである。その新たなものは経験ではない。それを知ることは古いものに属する。だから孤独の中を歩みなさい。たとえあなたが社会に暮らしているとしても。



水差しは決していっぱいにならない



瞑想は、無尽蔵の水をもつ井戸に、いつも空っぽの水差しをもって行くようなものである。その水差しは決していっぱいにならない。大事なことは、その水を飲むことであり、どうやって水差しを満たすかではない。水差しは水を飲むためには割られなければならない。水差しはいつも探し求めている中心であり、だからそれは決して見出すことができないのである。

探し求めることはあなたの目の前にある真理を否認することである。あなたの目は一番近くにあるものを見なければならない。そしてそれを見ることは終わりのない運動である。自分が求めている対象を探し回り、幻想の中で生きている人は、いつも自分自身の影の限界の中で悪戦苦闘している。探さないことが見出すことである。そしてその発見は未来にはない。それはそこにある------あなたが見ないそこに。見ることはつねに今である。そこからすべての生と行為が起きる。瞑想はその行為の祝福である。

捜し求めることは中心からの、達成、所属、保持を求めてのパーソナルな衝動である。問うことの中にその起点そのものからの自由がある。見ることは昨日の重荷から自由になることである。



謙虚さの本質



厳粛の本質は謙虚さである。謙虚さを知ることはそれを否定することである。あなたが知ることができるのはたんなる虚栄である。あなたは虚栄に気付くことはできるが、謙虚さに気付くことはできない。厳粛さ、僧侶や聖人の謹厳さは、<なることbecoming>の粗雑な運動であり、幻想である。この粗雑さは、暴力の、模倣の、服従のそれであり、そこには無名性anonymityは存在しない。僧侶と聖人は別の名前をつけるかも知れないが、この名前は葛藤の傷を覆い隠す外套である。そしてこのことは私たち皆にとっても同じである。というのも、私たちは皆理想主義者{観念論者}だからである。私たちは虚栄は知っている。しかし、謙虚さは知り得ないのである。私たちの謙虚さは虚栄の反対物である。そしてあらゆる反対物は互いに含みをもっているのである。<なること>は、たとえ内密で、匿名のものであっても、決して謙虚さの性質をもいえない。謙虚さは反対物をもたず、反対物をもつものだけが相手を知っている。

プライドの否定は謙虚さを知ることではない。既知のものに対して死ぬことは未知のもののポジティブな側面である。あなたは既知のものに向かって意識的に、意図的に、それが含みもつすべての知識と共に死ぬことができる。しかし、知られざるものを知ることは不可能である。あなたは未知のもの、謙虚さを知ることはできない。なることの領域では、その運動は既知のものから既知のものへのものである。このことに対して私たちが死ぬとき、依然として既知のもの、記憶、経験、知識の限定内部にとどまっている精神によっては理解し得ない何か他のものが、姿を現す。<あるある being>は<なること>が終わることではない。それが<あること>として認識されるとき、それは依然として<なること>の一部であり、その中には努力、苦闘、混乱、そして惨めさが含まれている。

瞑想は、それ自らが解決できない問題に直面し、自らを強いて静まらせようとする精神のトリックではない。茫然自失した精神は明らかに鈍感になり、信頼しうるものとはならない。そして新しいものを見る能力を失ってしまうのである。そして新たなものは古いものの反対物ではない。

瞑想はこのなるとあるの全プロセス----あるためになることを放棄する-----を明るみに出すことである。このすべては、瞑想的な精神によって一目で見ることができる。そしてこの一瞥は、時間を全く含まない。真理を見ることは時間にかかわる問題ではない。あなたは見るか見ないかである。見る無能力が、見る能力になることはない。

だから、放棄は瞑想の運動であって、おしゃべりで浅薄な精神を祝福の高みに導くことができるような方法や、道、システムは何もないのである。この即座に見ることが、浅薄な精神をそれ自らから解放する真理なのである。

そして謙虚さはいつも、始めにある。が、そこには始まりもなければ終わりもない。そしてこれが比較計測を超えた祝福なのである。