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あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもない。わたしたちは気づき・意識。




過去もなく、未来もありません。いま、ここしか、直接性しかないのです。「あそこ」とか、「あの時」というものは過去のように、現在のように、未来のように見える壮大な幻想の基礎を作っているにすぎません。これがわかったら、この理解がやってきたら、どのようにこれを生きることができるでしょう? 日常生活にどのように実践できますか?

これはおのずから進んでいきます。これを行う者はいないからです。太陽が昇ったり、風が葉を揺らしサラサラと音を立て、植物は茂り、わたしたちの心臓が鼓動するように、わたしたちが介在することなく、自然に進んでいきます。



時を超えた今という驚くべき芝居



師弟関係におおきなジレンマを感じています。「問いかけるという自分権利を放棄してはいけない」、とわたしたの友人は言うのです。他の人たちは、「明け渡すこと」が理想だと言います。

あなたの友人は正しいのです。まだ疑念があるのに、どうやってすべてを明け渡すことができるのでしょうか?このような明け渡しとは、自然なものではなく、むしろ自分自身の概念を放棄し、新しいもの、あなたの師のものに取り換えるという努力なのです。これは、新しい概念に対して明け渡しているのであって、真実に対するものではありません。真実とは疑念ではないのです。あなたの生きた現実なのです。つまり、どんな概念からも完全に自由であることなのです。これを籠の中に入れておくことはできません。それがあなたの師の言葉という黄金の籠であってもです。あなたの師が言うことに関してできることは、それも視野に入れるというだけのこと。あなたの師が真正な人であれば、彼の言葉は次第にあなたの疑念を晴らしていくでしょう。師の言うことをまじめにとらえ考慮しているということが、すでに完全に明け渡しているということです。それがあなたにできる一番のことです。その後のことは、師にまかせてください。真の師とは、少なくともあなたが本質に対する直接的な知識を得るまでは、いつでも質問に対して開いています。それ以降は、適切と感じれば質問に答える選択をするかもしれません。

例えば、師はあなたの人生の実際的な問題に対する霊的な見方への理解を深めてくれるかもしれませんし、今、ここ、というあなたがすでに体験している真実をただ思い出させてくれるかもしれません。どちらの場合であっても、あなたの質問はあなたの内に答えを見つけます。





わたしはなぜ今、あなたとこの話をしているのでしょう?

この質問に対する答えは、自分で見つけなくてはなりません。あなたの動機とは何でしょうか?
何かが欠けている、不完全だという思い、不満足でしょうか?それとも理解したいという願望でしょうか?



今は、理解することです。理解するためにあなたとこの会話をする必要があるでしょうか?それとも、自分自身と同じ会話をすることは可能でしょうか?もしこの同じ会話を自分でできるのであれば、どのようにしたらいいですか?

理解するためには、この会話を自分ですることは不可欠です。あなたのためにわたしが理解してはあげられません。喉が渇いているのなら、誰かが井戸のある場所を教えてくれても、自分で井戸まで行って喉の渇きを癒さなければなりません。ですが、もらった情報によって、時間と努力を省くことはできます。

自分とこの会話をすることは、自分の問いと共に生きるということです。自分が質問することを、それが自然に起こるのであればいつでも、迎え入れるということです。そのうちあなたの質問の公式は変化し、理解が深まるにつれてより精妙なものになっていきます。ある時点で、あなたの質問は自分のうちに消え去り、自由と純真さの内にあなたを残します。


あなたがご存じのことを、わたしは知らないということでしょうか?あなたはわたしよりも多くを知っているのでしょうか?どこかに、あるいはわたしの内に、知っておかなければならない何かがあるのでしょうか?なぜこの探求はあるのでしょう?誰が探求しているのでしょうか?何を探しているのでしょうか?もっとたくさんの知識ですか?何がわたしの探究を終わらせてくれるのでしょうか?

「知ること」というのは何を意味されていますか?記憶にある知識の積み重ねや、過去に学んだ能力のことであれば、確かにわたしが知らないたくさんのものをあなたはご存じですし、逆にあなたがご存じないことでわたしが知っているものがあることも確かです。ですが、こういった質問をされているので、明らかに違った種類の知識のことをおっしゃっているのですね。


他にどのような種類の知識があるのでしょうか?知識の性質とは何でしょう?

相対的で客体に関する知識と、絶対的な知識、自己同一性における知識があります。相対的な知識とは、「わたしはこの人を知っている」とか「ピアノの弾き方を知っている」と言う時に示すものです。ほとんどの人はもうひとつの形態の知識、自己同一性における知識を意識しません。知っているものすべての中心にこの知識はあるのにです。自分が実在しているという事実は、自分にとっては絶対的に確信があるものです。この確信の源を調べてみると、相対的な知識の道具である六感(聴覚、視覚、味覚、臭覚、体感覚、思考9のどれにも根ざしていないことがわかります。この絶対的な知識から生まれる確信は完全なものですが、相対的な知識の道具で確かめることができる事実はどんなものでも、疑問の余地があります。愛の体験、美の体験、幸せの体験は、自己同一性における知識の実例です。この新しい形態の知識に気が付くと、これにさらに戻っていくようになり、最終的にはこの内に落ち着きます。

そこで問いが起こるかもしれません。あなたにはないある種の超越的な心がわたしにあり、あなたには気づかない何やら神秘的な知識にアクセスできるのではないか、と。あなたにはない何かがわたしにはあるのではないか、と。まったくそうではありません!完全に幸せであるのに必要なものすべてを、わたし同様、あなたも持っているのです。それでは、わたしたちの違いとは何でしょうか?ふたつにひとつの可能性として、わたしにはない何かがあなたにあるということなのです。それは何でしょうか?

あなたの最初のご質問が、ヒントになります。あなたは何かを探していて、わたしはそうではありません。あなたが探しているという事実は、何を教えてくれますか?あなたはまだ持っていない何かがあると信じていて、これがあれば探求に終わりを告げられるかもしれないと思っている、ということを教えてくれます。なぜわたしは探していないのでしょうか?なぜなら、とても明白に自分であると知っているこの気づきとは無関係に実在する何かがあるという信念から、わたしは解放されているからです。そして、体や心のように、自分として認識する特定の何かがここにあるということを信じていないからです。自分であると明白に知っているこの気づきとして。特定の何かになることなく、明らかに自分であるものである以外、何もなく、わたしはすべてです。すべてであり、ほかに求めるものはありません。なので、そこに違いがあります。あなたには自分であるもの、自分でないもの、あるいは自分にあるもの、ないもの、という信念があり、わたしにはそのような信念はなく、実際に自分自身であると体験しているもの、時を超えた今という驚くべき芝居に居続けています。わたしの内に探究しているものが誰もいないので、「誰が探しているのでしょうか?」という質問は、あなたが答えるべきものです。この質問は、調べてみるには一番の質問ですし、真実へのあなたの願望が本当であって真摯であれば、旅の終わりまであなたを導きます。

より多くの知識や能力を積み重ねることで、この探求を終わらせることは決してできません。この探求は学習するものではなく、むしろ積み重ねが概念、信念、習慣といった捨て去るものなのです。そういったものがこのシンプルさ、自発性、自分の本質であるよろこびを体験することを妨げています。

あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもないというわたしの助言を調べることで、本当に自分であるものを理解する道を拓けます。これを調べるのであれば、知的な次元、体感覚の次元の両面で、徹底的に追及されなければなりません。これを調べた結果、得られる理解は、「わたしは誰なのか?」という問いに対する答えですが、これは心を超えたところ、時空間の先にある、あなた本来の美と永遠性にまであなたを運んでいく体験となります。この体験で、あなたは自分が探し求めていたものだったと知ることになります。これが問いの終わりであり、すべての問い、すべての探究、すべての恐れや願望の終わりになります。


完全な幸せとはどういうことか、教えていただけますか?わたしは幸せだと思っていません。わたしがまだ人間の発明したゲームをしている大きな理由が、これなのです。このゲームでは、ひとつの客体から他の客体に常に動いていて、動いている理由は、幸せになるためです。このゲームには安らぎや幸せはないと思います。

わたしたちはみんな、幸せを知っています。これを説明することはできませんが、これを探しているという事実が、わたしたちはこれを知っているということを証明しています。欲しがっていた客体が得られると、しばらくの間、幸せを体験します。幸せは客体にあるという信念がわたしたちの犯している間違いで、実際には、わたしたちはすでにこの幸せなのです。ある客体が手に入ると、しばらくの間、願望が止み、願望がないことから来る幸せ、ほんとうの自分を体験します。そのうちに無知から新しい願望が生まれ、深くわたしたちそのものであるこの幸せを再び覆い隠すのです。あなたがおっしゃったように、ある時点で客体から客体への終わりなく活動に気が付きます。人生の中でこれは非常に重要な時です。これによって真正な霊的探求、終わりなき幸せの探究の道が拓けるからです。


気づきとはどういうことか、ご説明いただけますか?わたしの体験では、わたしは(体、心として)実在し、あるものを欲しがり、あなたやほかの人たちもまた、わたしと同じです。わたしはほかの人たちとは無関係に実在することができると感じています。わたし、から、わたしたち、になることもできます。これはただの信念だとおっしゃいますか?気づきとは見たり、聞いたり、感じたりするためのものではなく、もっとそれ以上のものなのでしょうか?

あなたの体、あなたの心、あなたの願望、フランシス、ほかの人たちは誰に対して現れているのでしょうか?間違いなく、あなたに対してですね。あなたは自分の体、心、願望の目撃者です。それなので、あなたはこれら特定の客体のどれでもありません。あなたは純粋な気づきであり、これは意識とも呼ばれますが、あなたの考え、感情、知覚の本源的な目撃者です。

自分は他人と関係なく実在することができるという感覚は、実に正しいものです。他人はいつもあなたの意識にあるわけではありません。気づきとしてあなたはいつもあるという事実から、これは引き出されています。これを深く考えてみると、自分の体がいつもあるわけではないという結論にも至ります。たとえば、考えているとき、熟睡中、ふたつの考えの間などです。なので、自分の体、これは感覚認識から成るものですが、これとは無関係にあなたは気づきとしてあります。このように調べ続けていくと、自分は考えでもないということが明らかになります。なぜなら、考えとは行ったり来たりしますが、あなたは、気づきは、そのままだからです。なので、あなたは自分の心、少なくとも自分の心の客体的な部分、考えではありません。

この時点で、自分は客体ではないということ、考えとして概念化されたり、感覚を通して知覚されるものではないということが明らかになるはずです。これが理解するのに必要なすべてです。ですが、この理解は完全なものでなくてはならず、これに沿って行き、行動しなくてはなりません。

あなたであるものは、信念や知覚ではありませんが、一方、自分であると信じているものは間違いなく知覚です。気づきのうちで見る、聞く、考えるが現れ、気づきに消えていきます。なので、これらは気づきから成るのです。ですが、気づきは、あなたの素顔は、六歳以上のものであり、個人の心以上のものであり、毎瞬、意識に浮かんでは消えるこの森羅万象よりもずと大きなものです。意識ある存在物すべてが共有する土台であり、起こり得るすべての世界をその過去と未来と共に、完璧な同時性の内に内包する時間を超えた現存なのです。



理解することで探究を終わらせることはできますか?「誰」は消えるでしょうか?

自分ではないものを自分であるとすることを本当にやめると、気づきとしてありつづけます。この時、すべての質問に対する答えを見つけ、平穏としてあるようになります。


「誰」とは何で、この性質とは何ですか?

この質問も、あなたご自身で答えなければなりません。


明らかに、知識を増やすことでこの探求を終わらせることはできません。探究とは常に、不完全な知識を踏まえたものだからです。日常生活における概念、信念、習慣とはどういう意味か、お話しいただけますか?



例えば、こんなふたつの概念があります。人間と神。信念の例を三つあげましょう。「わたしは人間である」、「神はいる」、「神はいない」。信念が不変のものになると、習慣を創り出します。例えば、「わたしは切り離された実体だ」という信念は、防御・攻撃、貪欲、恐れ、願望のパターンを創り出します。


わたしたちが知っているすべては概念なのでしょうか?何が現実で、なにが現実ではないのでしょう?

客体の領域であっても、知っているすべてが概念というわけではありません。たとえば、体感覚は概念ではありません。やって来ては去っていくすべてが現実ではありません。悪夢の後、脅迫的な夢は消え去ります。これが消えることで、その非現実性が明確になります。同じように、考えも知覚も一時的なものであるため、現実ではありません。気づきはこれらを永遠かつ本源的に目撃する者であり、唯一の現実です。



概念から抜け出すにはどうすればよいでしょうか?わたしたちはみんな概念に拠ったやりとりをしていますし、これらはすべて心にあるものです。「どうやって?」というのは、新しい概念を引き出しませんか?この捨て去るというのは、どのように成されるのでしょう?

とても良い質問ですね。「どうやって?」ということで、心に居続けることになります。「どうやって?」という質問に対する答えは、新たな概念だからです。ですが、理解することは概念ではありません。理解するためには、心を超える必要があります。心を超えてこの知性にまで連れていく力のある概念があります。しばらくの間、このような概念に生きると、これについて考え、調べると、この概念が突然、理解の内に消える瞬間がやってきます。