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潜在意識の法則・想定の法則

潜在意識の法則・想定の法則

記事一覧

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願望実現
あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもない。わたしたちは気づき・意識。過去もなく、未来もありません。いま、ここしか、直接性しかない..

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願望実現
この世界は幻想であるとおっしゃいましたが、これはどのように見つけられたのですか?この質問の裏にある質問は、こうですね。「この世界は幻想であるとおっしゃいますが。..

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願望実現
依存、執着のあるところ、愛はないそれで、心理的に私たちの関係は依存に基いています。だから恐怖があるのです。問題はどのようにして依存しないようにするかではなく、私..

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願望実現
欲望における苦痛は欲求不満の恐怖である私たちの大部分にとって、欲望は大きな問題です----財産への欲望、地位や権力、快適さ、不死や継続への欲望、愛されたいという..

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願望実現
出来事や人生のストーリーは、何に基いて起きているのか。そこにはとてもシンプルで、簡単明瞭な人生んの法則が存在しています。それに基づいて物事を考えていくと、実に見..

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潜在意識
あなたは何がほしいのですか?安全、幸福、喜ぶ{快楽}私たちの大部分が探し求めているものは何でしょう?私たち各自がほしがっているものは何なのでしょうか?とりわけ万..

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非二元
自分が探し求めてきたものがわたし自身だということはわかるのですが、いまこの瞬間を本当に生きることを思考が邪魔しているようです。思考から自分を解放するいは、どうす..

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願望実現
あなたにお会いすることで、何を得られるでしょうか?何も期待しない、ということを学ぶつもりでいてください。求めないということは、偉大な芸術です。求めながら生きるこ..

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願望実現
プラシーボ プラシーボ効果 アスピリン 心臓発作 ガン 腫瘍 薬 LSD プラシーボ・トリップ ウイルス 抗生物質 鎮静剤 メフェネジンカフェイン..

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願望実現
あなたが源泉になるいつも覚えていてほしい言葉がある。左腕の手首に刻み付けるといい。源泉(ソース)であれ誰かのための『源泉』になること。何事も『私は源泉である』と..

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時を超えた今 気づきが私たちの本性

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あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもない。わたしたちは気づき・意識。




過去もなく、未来もありません。いま、ここしか、直接性しかないのです。「あそこ」とか、「あの時」というものは過去のように、現在のように、未来のように見える壮大な幻想の基礎を作っているにすぎません。これがわかったら、この理解がやってきたら、どのようにこれを生きることができるでしょう? 日常生活にどのように実践できますか?

これはおのずから進んでいきます。これを行う者はいないからです。太陽が昇ったり、風が葉を揺らしサラサラと音を立て、植物は茂り、わたしたちの心臓が鼓動するように、わたしたちが介在することなく、自然に進んでいきます。



時を超えた今という驚くべき芝居



師弟関係におおきなジレンマを感じています。「問いかけるという自分権利を放棄してはいけない」、とわたしたの友人は言うのです。他の人たちは、「明け渡すこと」が理想だと言います。

あなたの友人は正しいのです。まだ疑念があるのに、どうやってすべてを明け渡すことができるのでしょうか?このような明け渡しとは、自然なものではなく、むしろ自分自身の概念を放棄し、新しいもの、あなたの師のものに取り換えるという努力なのです。これは、新しい概念に対して明け渡しているのであって、真実に対するものではありません。真実とは疑念ではないのです。あなたの生きた現実なのです。つまり、どんな概念からも完全に自由であることなのです。これを籠の中に入れておくことはできません。それがあなたの師の言葉という黄金の籠であってもです。あなたの師が言うことに関してできることは、それも視野に入れるというだけのこと。あなたの師が真正な人であれば、彼の言葉は次第にあなたの疑念を晴らしていくでしょう。師の言うことをまじめにとらえ考慮しているということが、すでに完全に明け渡しているということです。それがあなたにできる一番のことです。その後のことは、師にまかせてください。真の師とは、少なくともあなたが本質に対する直接的な知識を得るまでは、いつでも質問に対して開いています。それ以降は、適切と感じれば質問に答える選択をするかもしれません。

例えば、師はあなたの人生の実際的な問題に対する霊的な見方への理解を深めてくれるかもしれませんし、今、ここ、というあなたがすでに体験している真実をただ思い出させてくれるかもしれません。どちらの場合であっても、あなたの質問はあなたの内に答えを見つけます。





わたしはなぜ今、あなたとこの話をしているのでしょう?

この質問に対する答えは、自分で見つけなくてはなりません。あなたの動機とは何でしょうか?
何かが欠けている、不完全だという思い、不満足でしょうか?それとも理解したいという願望でしょうか?



今は、理解することです。理解するためにあなたとこの会話をする必要があるでしょうか?それとも、自分自身と同じ会話をすることは可能でしょうか?もしこの同じ会話を自分でできるのであれば、どのようにしたらいいですか?

理解するためには、この会話を自分ですることは不可欠です。あなたのためにわたしが理解してはあげられません。喉が渇いているのなら、誰かが井戸のある場所を教えてくれても、自分で井戸まで行って喉の渇きを癒さなければなりません。ですが、もらった情報によって、時間と努力を省くことはできます。

自分とこの会話をすることは、自分の問いと共に生きるということです。自分が質問することを、それが自然に起こるのであればいつでも、迎え入れるということです。そのうちあなたの質問の公式は変化し、理解が深まるにつれてより精妙なものになっていきます。ある時点で、あなたの質問は自分のうちに消え去り、自由と純真さの内にあなたを残します。


あなたがご存じのことを、わたしは知らないということでしょうか?あなたはわたしよりも多くを知っているのでしょうか?どこかに、あるいはわたしの内に、知っておかなければならない何かがあるのでしょうか?なぜこの探求はあるのでしょう?誰が探求しているのでしょうか?何を探しているのでしょうか?もっとたくさんの知識ですか?何がわたしの探究を終わらせてくれるのでしょうか?

「知ること」というのは何を意味されていますか?記憶にある知識の積み重ねや、過去に学んだ能力のことであれば、確かにわたしが知らないたくさんのものをあなたはご存じですし、逆にあなたがご存じないことでわたしが知っているものがあることも確かです。ですが、こういった質問をされているので、明らかに違った種類の知識のことをおっしゃっているのですね。


他にどのような種類の知識があるのでしょうか?知識の性質とは何でしょう?

相対的で客体に関する知識と、絶対的な知識、自己同一性における知識があります。相対的な知識とは、「わたしはこの人を知っている」とか「ピアノの弾き方を知っている」と言う時に示すものです。ほとんどの人はもうひとつの形態の知識、自己同一性における知識を意識しません。知っているものすべての中心にこの知識はあるのにです。自分が実在しているという事実は、自分にとっては絶対的に確信があるものです。この確信の源を調べてみると、相対的な知識の道具である六感(聴覚、視覚、味覚、臭覚、体感覚、思考9のどれにも根ざしていないことがわかります。この絶対的な知識から生まれる確信は完全なものですが、相対的な知識の道具で確かめることができる事実はどんなものでも、疑問の余地があります。愛の体験、美の体験、幸せの体験は、自己同一性における知識の実例です。この新しい形態の知識に気が付くと、これにさらに戻っていくようになり、最終的にはこの内に落ち着きます。

そこで問いが起こるかもしれません。あなたにはないある種の超越的な心がわたしにあり、あなたには気づかない何やら神秘的な知識にアクセスできるのではないか、と。あなたにはない何かがわたしにはあるのではないか、と。まったくそうではありません!完全に幸せであるのに必要なものすべてを、わたし同様、あなたも持っているのです。それでは、わたしたちの違いとは何でしょうか?ふたつにひとつの可能性として、わたしにはない何かがあなたにあるということなのです。それは何でしょうか?

あなたの最初のご質問が、ヒントになります。あなたは何かを探していて、わたしはそうではありません。あなたが探しているという事実は、何を教えてくれますか?あなたはまだ持っていない何かがあると信じていて、これがあれば探求に終わりを告げられるかもしれないと思っている、ということを教えてくれます。なぜわたしは探していないのでしょうか?なぜなら、とても明白に自分であると知っているこの気づきとは無関係に実在する何かがあるという信念から、わたしは解放されているからです。そして、体や心のように、自分として認識する特定の何かがここにあるということを信じていないからです。自分であると明白に知っているこの気づきとして。特定の何かになることなく、明らかに自分であるものである以外、何もなく、わたしはすべてです。すべてであり、ほかに求めるものはありません。なので、そこに違いがあります。あなたには自分であるもの、自分でないもの、あるいは自分にあるもの、ないもの、という信念があり、わたしにはそのような信念はなく、実際に自分自身であると体験しているもの、時を超えた今という驚くべき芝居に居続けています。わたしの内に探究しているものが誰もいないので、「誰が探しているのでしょうか?」という質問は、あなたが答えるべきものです。この質問は、調べてみるには一番の質問ですし、真実へのあなたの願望が本当であって真摯であれば、旅の終わりまであなたを導きます。

より多くの知識や能力を積み重ねることで、この探求を終わらせることは決してできません。この探求は学習するものではなく、むしろ積み重ねが概念、信念、習慣といった捨て去るものなのです。そういったものがこのシンプルさ、自発性、自分の本質であるよろこびを体験することを妨げています。

あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもないというわたしの助言を調べることで、本当に自分であるものを理解する道を拓けます。これを調べるのであれば、知的な次元、体感覚の次元の両面で、徹底的に追及されなければなりません。これを調べた結果、得られる理解は、「わたしは誰なのか?」という問いに対する答えですが、これは心を超えたところ、時空間の先にある、あなた本来の美と永遠性にまであなたを運んでいく体験となります。この体験で、あなたは自分が探し求めていたものだったと知ることになります。これが問いの終わりであり、すべての問い、すべての探究、すべての恐れや願望の終わりになります。


完全な幸せとはどういうことか、教えていただけますか?わたしは幸せだと思っていません。わたしがまだ人間の発明したゲームをしている大きな理由が、これなのです。このゲームでは、ひとつの客体から他の客体に常に動いていて、動いている理由は、幸せになるためです。このゲームには安らぎや幸せはないと思います。

わたしたちはみんな、幸せを知っています。これを説明することはできませんが、これを探しているという事実が、わたしたちはこれを知っているということを証明しています。欲しがっていた客体が得られると、しばらくの間、幸せを体験します。幸せは客体にあるという信念がわたしたちの犯している間違いで、実際には、わたしたちはすでにこの幸せなのです。ある客体が手に入ると、しばらくの間、願望が止み、願望がないことから来る幸せ、ほんとうの自分を体験します。そのうちに無知から新しい願望が生まれ、深くわたしたちそのものであるこの幸せを再び覆い隠すのです。あなたがおっしゃったように、ある時点で客体から客体への終わりなく活動に気が付きます。人生の中でこれは非常に重要な時です。これによって真正な霊的探求、終わりなき幸せの探究の道が拓けるからです。


気づきとはどういうことか、ご説明いただけますか?わたしの体験では、わたしは(体、心として)実在し、あるものを欲しがり、あなたやほかの人たちもまた、わたしと同じです。わたしはほかの人たちとは無関係に実在することができると感じています。わたし、から、わたしたち、になることもできます。これはただの信念だとおっしゃいますか?気づきとは見たり、聞いたり、感じたりするためのものではなく、もっとそれ以上のものなのでしょうか?

あなたの体、あなたの心、あなたの願望、フランシス、ほかの人たちは誰に対して現れているのでしょうか?間違いなく、あなたに対してですね。あなたは自分の体、心、願望の目撃者です。それなので、あなたはこれら特定の客体のどれでもありません。あなたは純粋な気づきであり、これは意識とも呼ばれますが、あなたの考え、感情、知覚の本源的な目撃者です。

自分は他人と関係なく実在することができるという感覚は、実に正しいものです。他人はいつもあなたの意識にあるわけではありません。気づきとしてあなたはいつもあるという事実から、これは引き出されています。これを深く考えてみると、自分の体がいつもあるわけではないという結論にも至ります。たとえば、考えているとき、熟睡中、ふたつの考えの間などです。なので、自分の体、これは感覚認識から成るものですが、これとは無関係にあなたは気づきとしてあります。このように調べ続けていくと、自分は考えでもないということが明らかになります。なぜなら、考えとは行ったり来たりしますが、あなたは、気づきは、そのままだからです。なので、あなたは自分の心、少なくとも自分の心の客体的な部分、考えではありません。

この時点で、自分は客体ではないということ、考えとして概念化されたり、感覚を通して知覚されるものではないということが明らかになるはずです。これが理解するのに必要なすべてです。ですが、この理解は完全なものでなくてはならず、これに沿って行き、行動しなくてはなりません。

あなたであるものは、信念や知覚ではありませんが、一方、自分であると信じているものは間違いなく知覚です。気づきのうちで見る、聞く、考えるが現れ、気づきに消えていきます。なので、これらは気づきから成るのです。ですが、気づきは、あなたの素顔は、六歳以上のものであり、個人の心以上のものであり、毎瞬、意識に浮かんでは消えるこの森羅万象よりもずと大きなものです。意識ある存在物すべてが共有する土台であり、起こり得るすべての世界をその過去と未来と共に、完璧な同時性の内に内包する時間を超えた現存なのです。



理解することで探究を終わらせることはできますか?「誰」は消えるでしょうか?

自分ではないものを自分であるとすることを本当にやめると、気づきとしてありつづけます。この時、すべての質問に対する答えを見つけ、平穏としてあるようになります。


「誰」とは何で、この性質とは何ですか?

この質問も、あなたご自身で答えなければなりません。


明らかに、知識を増やすことでこの探求を終わらせることはできません。探究とは常に、不完全な知識を踏まえたものだからです。日常生活における概念、信念、習慣とはどういう意味か、お話しいただけますか?



例えば、こんなふたつの概念があります。人間と神。信念の例を三つあげましょう。「わたしは人間である」、「神はいる」、「神はいない」。信念が不変のものになると、習慣を創り出します。例えば、「わたしは切り離された実体だ」という信念は、防御・攻撃、貪欲、恐れ、願望のパターンを創り出します。


わたしたちが知っているすべては概念なのでしょうか?何が現実で、なにが現実ではないのでしょう?

客体の領域であっても、知っているすべてが概念というわけではありません。たとえば、体感覚は概念ではありません。やって来ては去っていくすべてが現実ではありません。悪夢の後、脅迫的な夢は消え去ります。これが消えることで、その非現実性が明確になります。同じように、考えも知覚も一時的なものであるため、現実ではありません。気づきはこれらを永遠かつ本源的に目撃する者であり、唯一の現実です。



概念から抜け出すにはどうすればよいでしょうか?わたしたちはみんな概念に拠ったやりとりをしていますし、これらはすべて心にあるものです。「どうやって?」というのは、新しい概念を引き出しませんか?この捨て去るというのは、どのように成されるのでしょう?

とても良い質問ですね。「どうやって?」ということで、心に居続けることになります。「どうやって?」という質問に対する答えは、新たな概念だからです。ですが、理解することは概念ではありません。理解するためには、心を超える必要があります。心を超えてこの知性にまで連れていく力のある概念があります。しばらくの間、このような概念に生きると、これについて考え、調べると、この概念が突然、理解の内に消える瞬間がやってきます。


世界は幻想 夢見る者

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この世界は幻想であるとおっしゃいましたが、これはどのように見つけられたのですか?

この質問の裏にある質問は、こうですね。「この世界は幻想であるとおっしゃいますが。これはどのように見つけられますか?」

そのとおりです!

この世界は幻想だと言うとき、この世界はないという意味ではありません。わたしはただ、この世界は気づきから切り離されたり隔てられている客体としてではない、と言っているのです。

言い換えると、古典物理学がわたしたちに信じさせようとしている世界は自律的ではありません。これは知覚として認識されれば否定されることはありませんが、認識されなければ、あると証明できません。

ですが、幻想はそのまま、幻想と呼ばれるもののまま、見かけ上はあるということは認めてらっしゃいますか?

認めています。幻想はふたつの要素からなっています。根本的な現実と、重ねあわされた幻想の概念です。暗がりにロープがあるとして、それを間違って蛇と思ったりします。ですが、明かりをつけると、蛇というものの現実はただのロープだということがわかります。蛇など初めからいなかったのです。蛇はまったくの幻想でした。幻想とは、非実在です。蛇はいませんでした。蛇の現実はロープだったのです。

これを理解するのは難しいです。蛇はいなかったとおっしゃいますが、それを見ただけではなくて、その色やどれくらい長かったかなど、説明までできるかもしれません。なので、絶対的に何もなかったと言うことはできません。それに、その時、ロープは見なかったのですし。

もちろん、そうですね。色やその他、蛇のすべての特徴は、ひとくくりの概念として一緒になって幻想を創り出しています。ですが、ロープを見なかったという言い分は誤りです。ロープ以外は見ていなかったのです。その本当の姿を認識しなかっただけで、蛇という観念をそれに重ねあわせたのです。同じようにして、世界は外に、わたしたちとは切り離されてあるという観念は幻想です。知覚するものが現実そのものなのです。ほとんどの人が現実そのものを認識せず、外側にある自分とは無関係な世界という観念を重ねあわせています。

世界とはこの場合の蛇ですね。そこにあるように見えるけれども、いない。

その通りです。これが世界と言われているものなのです。それでは、この場合のロープとは何でしょうか?蛇が現れる前、蛇が現れた後、蛇が現れている間、現実にはロ―プがありました。世界が現れる前、世界が現れた後、世界が現れている間、気づきがあります。このように、唯一の現実とは気づきです。





精神機能の裏とその間に、気づきという継続的な背景があると、別の機会におっしゃいました。なぜそれが重要で、これが本当にそうであるとどうやって知ることができますか?わたし自身の体験からこれが実際にそうであると、どうやってわかりますか?

心とは思考と知覚でできていて、これが精神機能と呼ぶものです。精神機能が現れている間は、気づきがあるという事実に挑む人は誰もいないでしょう。

そうですね。いません。

なので、あなたのご質問は、「ふたつの精神機能の間に気づきがあるという事実に、どうやって気づくことができますか?」ということでしょう。これらの精神機能とは心のことです。ふたつの精神機能の合間は、客体の心から来るものではありません。これは心を超えて、手の届かないところにあります。五感を通して知覚することはできなく、概念化することもできません。

考えることも想像することもできないのなら、ここでどうやってこれについて話すことができるのでしょうか?わたしたちは今、これについて話していると思うのですが。

想像できるのは、これが想像できないものだという事実です。これが想像できないものだと想像することで、心が浄化されます。この理解の結果として、わたしたちであるものと心や体のように、客体として想像したり知覚したりできる何かであるという古い信念、古いパターンから心が離れます。心では精神機能の最中や間にあるこの気づきにアクセスすることができないという理解に心が至ると、心は静かになります。ですが、ふたつの精神機能の間に意識があるという確信は、心から、つまり論理的な説明から起こることは決してありません。現実を体験することからのみ、この理解は生まれます。「わたしは誰なのか?」と自分に問い、自分であるものは知覚することも想像することもできないと深く理解するとき、わたしたちは気づきとして留まります。言葉での答えではなく、概念でもなく、知覚でもありません。これは、確実性と必然性を備えた、生きた答えなのです。

ほんとうの自分に関する考えの終わりに、これを体験することもあります。このような考えは、遠心的ではありません。つまり、ハートの真意に向かっていくほかないのです。そして、身近な現実に関する考えがその源で死ぬと、恩寵の瞬間が訪れます。この体験は時間を超えてあり、その内ではわたしたちは壮麗さであり、永遠であり、愛です。

わたしは自分の願望を愛しています。願望があることで、生きている実感を得るのです。どうしてそれをやめなくてhならないのか、わかりません。

あなたの願望を愛してください。戦おうとしないでください。それを歓迎してください。それに対して抗うのであれば、その起源を理解する道は開かれません。知性は愛の内に始まります。あなたの願望を愛し、何が一番の願望なのか理解してください。客体を欲していることに気付いたら、「この客体はわたしが本当に欲しい幸せをくれるだろうか?」と問いかけてください。「はい、くれます」というのが答えなら、どうぞ先へ進んで、その体験から学んでください。願望を愛することで、それについて問いかけることで、こういったものはすべて平穏と幸せへの願望、自分の本質、自分の真の故郷を見つけたいという願望に重ねあわされているものだとわかるときが来るでしょう。


自分の願望を歓迎する、それをむしろ愛するというのは、そういったものに溺れているということになりませんか?自分の願望を歓迎するとおっしゃるのは、それに溺れるというのとは違うのですか?

そうですね、違います。望む客体が手に入れば、自分が本当に求める幸せがやってくると思っている場合にだけ、願望に溺れます。知らせを受け取るとすぐに、つまり、自分が探している幸せはどんな客体からも得ることができないことを受け入れているとすぐに、新しい次元に開かれます。すると、これを理解することの副産物として自然に起こるのですが、無執着があなたの内に生まれます。この無執着によって、あなたである気づきと、あなたの内に起こる願望との間にいくらかの距離が保たれます。願望によって「行き詰まる」ことがなくなります。変化と理解、学びのための空間が、余裕がそこにあります。

睡眠中、夢をみている者は自分であるわたしとわたしが思い込んでいますが、あなたはそうではないとおっしゃります。なぜでしょうか?

目が覚めると、夢で自分だと思っていた象は自分ではないと確かにわかります。自分が夢見ていた世界はただの幻想だということは間違いなく、同じように、夢で自分だと思い込んでいた人格は、それ自体が夢の一部、つまり、幻想だったことがわかります。夢では違う性別や違う姿、鳥や象になることもできます。

それは確かにそうですが、「夢では、・・・・わたしたちは鳥や象になることができる」というあなたの話し方では、夢をみるということをしているのは自分だという観念があります。

夢の状態と言われるものの、目覚めている状態と言われるものは、共通の背景があります。夢があるとき、この共通の背景、夢をみる者と見られているものはひとつです。ただ夢があるだけです。

そうですね。

夢の状態と気づきはひとつです。

夢の状態とは、気づきのひとつの形なのですか?

夢をみることは気づきなのです。

夢の客体の気づきなのですね。

夢の状態があるときには、夢の状態があるだけです。夢見られている客体というものはありません。夢の基となるものは、実際には気づき以外の何物でもありません。そのため、夢の状態とは気づきであるとわたしは言っています。同じように、目覚めているとき、目覚めていることは気づきなのです。なので、気づきとは、目覚めていること、夢見ること、熟睡さと、これらの状態の間にもある共通の背景なのです。

ということは、夢を見る者と夢の中の自我の間に感じられるつながり、わたしが自分の夢を見ていて、起きている間とまったく同じに眠っている間にもずっとあるという観念は、完全に間違っているのですね。

そのとおりです。夢の中の自我というのは概念です。目覚めている状態の自我というのもまた、概念です。彼らの共通の現実とは、気づきという根底にある背景にあるのです。

夢の中の人物にあらゆる言動が起こったり、その人物ではないものを知覚したりしますが、この夢の中の自我は、目覚めている状態の自我と何の関わりもないということですか?

そのとおりです。

このふたつの自我の間に密接な関係があると考え、人生の状況に対する夢の意味を解こうとしている人たちに対して、何とおっしゃいますか?目覚めている状態にありながら夢の状態にアクセスすることはできますか?

そういう人たちにですか。「頑張ってください!」とわたしなら言うでしょう。意識を通じているという以外に、このふたうの状態に何の関係もないからです。なのでこれは、最終的には徒労に終わる無益な試みなのです。あなたが初めにおっしゃったことに戻ってみましょう。「・・・睡眠中、夢をみている者は自分である」。自分の夢の中で夢見る者ではなく、目覚めている状態と言われているもうひとつの夢を含め、自分の夢のすべてを見ている者なのだ、ということでしょう。なので、わたしたちは本源的な夢を見る者なのです。

ということは、わたしたちはそれぞれの夢をみているだけではなくて、それぞれの夢の中で夢見る者を見ている者でもあるということですね。

そのとおりです。すべての夢の中にいる、すべての夢見る者を見ているのが自分なのです。




 カテゴリ

愛、欲望、セックス、依存

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依存、執着のあるところ、愛はない



それで、心理的に私たちの関係は依存に基いています。だから恐怖があるのです。問題はどのようにして依存しないようにするかではなく、私たちが実際に依存しているという事実をただ見るのです。執着があるところには、愛はありません。誰を愛すればいいのかわからないので、あなたは依存し、だから恐怖があるのです。重要なのはその事実を見ることであり、どのようにして愛するか、あるいは、どうすれば恐怖から自由になれるかとは尋ねないことです。


依存があるところ、恐怖がある



反芻せず、受け入れず、それについて意見を言うことなく、あれこれ引用したりもせず、ただ、執着のあるところには愛はなく、依存があるところには恐怖があるという事実に耳を傾けなさい。私は心理的な依存について話しているのであって、あなたが牛乳の配達を牛乳配達人に依存していることをとやかく言っているのではありません。あるいは、あなたが電車や橋に{社会生活上}依存していることを問題にしているのではありません。恐怖を育むのは考えや人々、財産へのこの内的な心理的依存なのです。




愛は関係の理解を通してやってくる



愛は培うことのできないものです。愛は精神によってもたらされるものではありません。もしもあなたが「慈悲深くなるよう練習をしよう」と言うなら、そのとき慈悲は精神がつくるもので、だからそれは愛ではないのです。愛は、私たちが関係のこのプロセス全体を理解するとき、こっそりと、気づかれないように、かつ完全に、姿を表わします。そのとき精神は静まっています。それは心を精神がつくり出したものであふれさせず、だから愛が現れることができるのです。


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私たちはどうしてセックスをこんなにも重要なものにしてしまったのか?



セックスの問題とは何なのでしょう?それは現実なのか、それともその行為についての思考なのでしょうか?たしかに、それは行為そのもののことではありません。性行為は食べることがあなたにとって問題にならないのと同じく、問題ではありません。が、ほかに考えることが何もないというので、一日中食べることやその他のことについて考えるなら、それはあなたにとって問題になるのです。・・・どうしてあなたはそれをわざわざ問題に仕立て上げるのでしょう?それは明らかにあなたがしていることなのですが。映画や雑誌、小説、女性の服装、すべてがあなたの性についての思考を強化しています。そしてなぜ精神はそれを強化するのでしょう?そもそもなぜ精神はセックスについて考えるのでしょう?紳士淑女の皆さん、なぜなのでしょう?それはあなた方の問題なのです。なぜなのでしょうか?

どうしてそれはあなたの人生の中心問題になったのでしょう?あなたの注意を喚起し、要求するあまりにも多くの事柄がある中で、あなたはセックスについての思考にすっかり注意を奪われています。何が起きているのでしょう?どうしてあなたの精神はそれほどまでいそれに心奪われているのでしょう?それはセックスが究極の逃避手段の一つだからです。ちがいますか?それは完全な自己忘却の手段なのです。

しばらくの間、たとえその瞬間だけでも、あなたは自分自身を忘れることができるのです----そして他の自分自身を忘れる方法は無いのです。あなたが人生で行う他のことはすべて、<私>、セルフを強めます。あなたのビジネス
あなたの宗教、あなたの神々、あなたの指導者たち、あなたの政治的・経済的行為、あなたの逃避、あなたの社会的活動、あなたがある党派に参加して他の党派を拒絶すること-----それはすべて、<私>を強調し、強化します。・・・あなたの人生に窮極的な逃避、たとえばほんの束の間のことであっても完全に自分自身を忘れる手段となる唯一のものが存在するとき、あなたはそれに執着するのです。なぜなら、それがあなたが幸福・・・・でいられる唯一の瞬間だからです。

だからこそセックスは、あなたがそれについて考える精神を理解しないかぎり、途方もなく困難で複雑な問題となるのです。




なぜセックスは問題なのか?



私たちが自分が触れるものは何でも問題に変えてしまうのはなぜなのでしょう?・・・なぜセックスは問題になるのでしょう?なぜ私たちは問題と共に{=それを引きずりながら}生きることに屈してしまうのでしょう?なぜ私たちは問題を終わらせてしまわないのでしょう?なぜ私たちは来る日も来る日も、年から年へとそれを引きずる代りに、自分も問題に対して死なないのでしょうか?たしかにセックスはこれに関連する問題の一つです。それについて私たちは今答えようとしているのですが、しかし、ここに主要な問題があります。なぜ私たちは人生を一個の問題にしてしまうのか、ということです。仕事、セックス、お金を稼ぐこと、考えること、感じること、経験すること、生きること全体----それがどうして問題になるのでしょう?その本質的な理由は、私たちがいつもの特定の見地、ある固定した見地から考えるからではないでしょうか?



欲望は愛ではない



欲望は愛ではありません。欲望は快楽へとつながります。欲望は快楽です。私たちは欲望を否定しているのではありません。私たちが欲望なしに生きるべきだと言うのは、全く馬鹿げたことでしょう。それは不可能だからです。人はそれを試してきました。人々は自分にあらゆる種類の快楽を禁じ、自分を規律づけ、苦行を課してきましたが、欲望はそれでもしつこく生き延び、葛藤と、その葛藤に由来するありとあらゆる残酷な結果を生み出してきたのです。私たちは無欲を提唱しているのではありません。が、欲望、快楽、苦痛の現象全体を理解しなければならないのです。そしてもしも私たちがそれを超えることができるなら、それには愛である祝福とエクスタシーがあるのです。

欲望と渇望

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欲望における苦痛は欲求不満の恐怖である



私たちの大部分にとって、欲望は大きな問題です----財産への欲望、地位や権力、快適さ、不死や継続への欲望、愛されたいという欲望、何か永続的なものを得たいという欲望、満足への、充足への欲望、時間を超えるものを得たいという欲望。さて、欲望とは何でしょう?私たちをたえず衝き動かし、強いているこのものは何でしょう?-----それは自分がもっているものや今ある自分に満足すべきだということを意味しません。それは私たちは欲しているもののたんなる反対物でしかありません。私たちは欲望とは何かを理解しようとしているのです。そして私たちがその中に試しに、ためらいがちに入ってゆくことができるなら、私たちはたんなる欲望の対象の置き換えではない変容をもたらすことができるだろうと、私は思います。欲望の対象を別の対象と取り替えることを、ふつう私たちは「変化」と呼んでいます。そうではないですか?ある特定の対象に満足できなくなって、私たちはその代わりになるものを見つけるのです。私たちはたえず欲望のある対象から、自分がより高度、高貴な、より洗練されていると考える別の対象へと動き回っています。が、どんなに洗練されていようと、欲望は依然として欲望なのです。そしてこの欲望の運動の中に、終わりのない苦闘、反対物間の葛藤があります。

ですから、欲望とは何で、それは変容させられうるかどうかということを見出すのは重要なことではないでしょうか?・・・そして私は、解決できるでしょうか?----欲望のその中心-----一つの特定の欲望、ある特定の嗜好や願望ではなくて、欲望の、渇望、希望の全構造を・・・。その中にはいつも欲求不満の恐怖があります。私が欲求不満になればなるほど、私は<私>にそれだけ多くの強さを与えることになるのです。希望や切望があるかぎり、そこにはいつも恐怖の背景があり、その恐怖が再びその中心{=ミー}を強めることになるのです。・・・

身体的な必要を超える、どんなかたちの欲望も----偉大さ、真理、美徳への欲望など----それによって精神が<私>の考えを築き上げ、それ自身の中心を強化する心理的なプロセスとなります。



欲望の運動を追う



欲望とは、行動を要求するいろいろな種類の欲求を満たしたいという衝動を意味します----セックスへの渇望、あるいは偉大な人間になりたいとう願望、車をもちたいという欲望・・・を。

それで、欲望とは何なのでしょう?あなたは美しい家や素敵な車、あるいは権力や地位をもつ人を見るとします。するとあなたはその家をもちたい、自分がその地位にある人だったら、拍手喝采を浴びられたら、等々と思うのです。どのようにしてこの欲望は起きるのでしょう?まず、視覚的な知覚があります----家を見るといったような。<私>はそれからずっと遅れてやってきます。家を見ること、それは視覚的な魅惑です。輪郭の魅惑、車の美しさ、色、それに対する知覚があります。

どうかついてきて下さい。私ではなく、あなたがそれをしているのです。私は言葉を与え、説明しています。しかし、あなたが観察しているのです。私たちは一緒にそれを分け合っています。あなたはただ話し手の言うことを聴いているだけではないのです。だからあなたは欲望としてのあなた自身の思考の運動を観察しているのです。思考と見ることの間には分離はありません。それらは一つの運動です。思考と欲望の間には、分離していない物があり----そこに、私たちは今入り込もうとしているのです。


欲望の生起



ですから、見ること、知覚することがあります。それが感覚反応を生み出します。そのとき心に何か動くものがあります。すると欲望が----所有の欲望が----起きて、その感覚刺激に継続性を与えようとするのです。これはいたって単純なことです。私は美しい女性または男性を見ます。そのとき見ることの快感があります。そしてその快感は継続を要求します。だから私は、そこから思考が生まれると思うのです。そして思考がその状態について考えれば考えるほど、その快感の、あるいは苦痛の継続性は高まります。そのとき、その継続があるところに、<私>が入ってくるのです-----私が望もうと望むまいと。これがわたしたちが一日中、寝ているときも、起きているときも、していることです。

そこで、人はどのようにして欲望が生起するかを見ます。知覚、接触、感覚。その感覚に継続性を与えようとする{思考の}動き。そうしてできた間隔の継続が欲望なのです。欲望には何も神秘的なものはありません。欲望それ自体にではなく、欲望がそれを通じて充足を得ようとする対象の中に対立が生じる時、欲望は非常に入り組んだものになるのです。ちがいますか?私は大金持ちになりたいと思います-----つまり、私の欲望が私は金持ちにならなければならないと言うのです。なぜなら私は財産、車その他いろいろな物をもつ人たちを見るからです。欲望は言います。

「私はもたねばならない、満たされねばならない」と。



欲望は抑圧するのではなく、理解されなければならない



欲望はあらゆる方面で満たされることを求めます。欲望実現の対象となるものは魅力的ですが、それぞれの対象が相互に矛盾します。

それで私たちは生き、適応し、欲望実現のために戦い、そして欲求不満に陥るのです。それが私たちの人生です。そして神を見出すために、いわゆる宗教的な人々、聖人、司教、僧侶、尼僧たち、社会福祉に携わる人々、いわゆる宗教的な人々は、こう言うのです。「あなたは{欲望を}抑圧しなければならない、純化しなければならない、自分自身を神と一体化させて、欲望が消えるようにしなければならない。女性を見たときは、彼女に背を向けなければならない。どんなことにも、生命にも感じるな。音楽を聴くなかれ、木を見るな。とりわけ、女性を見てはならない!」それではふつうの人々の生活は社会の奴隷にひとしいものになってしまいます!

欲望の理解-----抑圧ではなく、理解------がなければ、人は決して適応や恐怖から自由になることはできないでしょう。あなたが何かを抑圧するとき、何が起こるかご存じでしょう?あなたのハートが駄目になるのです!あなたは修行僧、僧侶や尼僧を見たことがありますか?世間から逃避している人たちを。何と冷淡で、堅苦しく、高潔、聖人ぶって、窮屈な規律の中に生きていることでしょう!彼らはいつ果てるともなく愛について語ります。そして内部では彼らは{抑えつけられた欲望で}沸き立っているのです。彼らの欲望は決して満たされず、理解されることはありません。彼らは美徳の外套の中で死んでいるのです!

私たちが言っていることはこれとは全く異なったことです。・・・人は欲望について見出し、学ばなければなりません----学ぶのです、それについて何をすべきか、どうやってそれを窒息させるかではなく。




理解をもてば、欲望は起きるが根付かない



欲望は矛盾を生み出します。そしていくらかでも目覚めている精神なら、矛盾の中に生きることは好みません。それゆえ、それは欲望を取り除こうとするのです。しかし、もしも精神がそれを消し去ろうとせずに、「これはいい欲望で、あれは悪い欲望だ。私はこちらを保持してあれは捨てよう」と言うことなしに欲望を理解できるなら、もしも精神が拒絶することなく、選択することなく、非難することなう、欲望の全フィールドに気付いていることができるなら、そのときあなたは精神が非常に静かになるのを見るでしょう。欲望はやってきますが、それはもはや影響力をもちません。それらはもう重要な意味をもたなくなります。それは精神に根付いて問題を引き起こすことはなくなるのです。精神は反応します。でなければそれは死んだも同然です。しかしその反応は表面的なもので、根付きません。だからこそ、私たちの大かたがとらわれている欲望のこの全プロセスを理解することは重要なのです。



欲望をもちながら、それに従わないでいることは可能か?



しかし、私たち大方の者にとって、欲望は放縦を、自己表現を意味します。私はそれを欲し、それ{=欲望の対象}を所有しなければなりません。美しい人、家、考え、対象が何であれ、私はそれをもたなければならないのです。なぜ?どうして「ねばならない」が出現するのでしょう?どうして欲望は「私はそれをもたねばならない{それにならなければならない}」と言うのでしょうか?それは苦悩、衝迫、衝動、是が非でもそれがなくてはならないという欲求を生み出すのですが。欲望の一つの形態である、この執拗な自己表現の欲求がなぜあるのかは、いたって簡単明瞭です。自己表現の中には、ひとかどの者であることの中には、大きな喜びがあるのです。なぜならあなたは{それによって}認められるからです。人々は言います。「全く!君は彼が誰なのか知らないのかい?」----その他あれこれのナンセンスがあるのです。あなたは言うかもしれません。それはただの欲望、ただの快楽じゃない。なぜなら、欲望の背後にはそれよりずっと強い何かが存在するからだと。しかし、あなたは快感と欲望を理解することなしにはそこに行き着くことはできないのです。欲望と快楽の生きたプロセスは、私たちが行動と呼ぶものです。私は何かを欲しいと思います。そこで働いて、働いて、働いてそれを手に入れます。私は作家として、画家として、有名になりたいと思います。それで私は有名になれるよう、考え着くありとあらゆることをするのです。通常、私は途中で断念して、決して世間に認められることがありません。それで欲求不満に陥り、苦悩を経験します。それから私はシニカルになるか、さもなければ謙遜を装います。そこから他の諸々のナンセンス一切が始まるのです。



なぜ私たちはこれほど願望のとりこになるのか?



そこで、私たちは自分にこう問いかけます。なぜ充足されることを求める欲望のこの執拗さがあるのか?もしあなたがコートやスーツ、シャツ、ネクタイ、靴がほしいのなら、それを手に入れます----それはただそれだけの話です。しかし、自己充足へのこの執拗な衝動の背後には、明らかにひどい無力感、寂しさの感覚があります。私は一人では生きられない、私はひとりぼっちではいられない、なぜなら、私は自分の中では満たされないからだ。あなたは私よりたくさんのことを知っている、あなたは私より美人で、知的で、頭がよく、もっとあれがあり、これがある。だから私はそういったことがみんなほしい、云々。なぜ?私はあなた方がこれまで自分にこうした問いかけをしたことがあるかどうか知りません。もししたことがあるなら、そしてそれがあなたにとってたんに頭の先だけの問いでなければ、そのときあなたは答を見つけ出すでしょう。

私はどうして人が多くのこと、またはあることに思い焦がれるのか、知りたいと思います。人は幸福になりたい、神を見出したい、金持ちに、有名になりたい、完全になりたい、自由になりたい、等々と願います。あなたはこうしたことすべてを、人が募らせる切望感をご存知です。人は完全な結婚を、神と完全な関係をもつことを、その他あれこれを求めます。なぜ?まず、それは精神がどれほど浅薄かを示しています。そうではありませんか?そしてそれはまたは、私たち自身の寂しさの感覚と空虚さを表わしているのではありませんか?



欲望それ自体は問題ではない。問題はそれについて私たちが行うことです



欲望を考えることに入っていきましょう。私たちは知っているのではありませんか?-----欲望はそれ自体が矛盾し、苦しみをもたらし、同時に異なった方向に人を引っ張るものであることを。苦痛、動揺、欲望がもたらす不安。そして規律づけ、コントロール、そしてそれに伴ういつ果てることもない苦闘の中で、私たちは欲望のかたちとそれについての認識を歪めるのです。しかしそれはそこにあり、たえず見張っており、待ち構え、プッシュしています。したいことをしてみなさい。それを昇華したり、それから逃避したり、それを否定するか受け入れる、それに自由気ままにさせるなど----{しかし}それはいつもそこにあります。そして私たちはどれほど宗教的な教師たちその他が、私たちは無欲になり、無執着を学び、欲望から自由になるべきだと言ってきたかを知っています。それは全く馬鹿げたことです。なぜなら、欲望は破壊されるのではなく、理解されるべきだからです。もしもあなたが欲望を破壊すれば、あなたは生命それ自体を破壊することになるのです。もしもあなたが欲望を曲解し、そのかたちを作り直し、それをコントロールし、それを支配し、抑圧するなら、あなたは途方もなく美しいものを破壊していることになりかねないのです。

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なぜ問題が発生してくるのか 出来事や人生のストーリー

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出来事や人生のストーリーは、何に基いて起きているのか。
そこにはとてもシンプルで、簡単明瞭な人生んの法則が存在しています。それに基づいて物事を考えていくと、実に見事に応えが見つかってきます。
全ての出来事は、「私がなりたい私になるために、私が望んだ素晴らしい出来事」なのです。つまり、物事は「どういう自分でありたいか」に基いて起きてくるのです。

小野さんは自分に自信がなく、いつも不安とイライラを抱えてご相談にいらっしゃいました。彼女は、小さいときから両親の仲が悪く、そんな両親の元で、自分の気持ちを言えず、甘えることもできませんでした。そんな両親に対して、ずっとどこかに怒りを抱えていたのです。そして、大人になって、大切な人にも自分の気持ちを素直に表現することが出来ず、漠然とした寂しさやイライラ、不安感を抱えていたのでした。可愛いわが子に対しても、ついついイライラして感情的になったりしてしまうのです。そしていつも人の目が気になっているのでした。

では、その彼女とのやり取りの一部を元に再現いたします。


私「ところで、小野さんはどういう自分になりたいですか?どういう自分でありたいと思っていますか?」
小野「ん~。人のことを気にならなくなりたいです。」

私「人のことを気にしない自分になりたい。そして?」
小野「ん・・・・。これ!と思ったことには一生懸命になりたい」

私「そう。人のことを気にせず、自分の信念を貫くということかな?」
小野「はい。」

私「他に何かありますか?」
小野「えっと、自分に自信がないんです。」

私「自信が持てないんだ。だから信念が持てないのかな?」
小野「そうなのかもしれません。」

私「そう。自信を持ちたいんだね。そして・・?」
小野「人に愛情をあげる側になりたいし、子供を純粋に愛したいです。」

私「素晴らしいね。愛情をいっぱい与えられる人になりたいの?子供も素直に可愛がってあげたい?」
小野「はい」

私「ではその愛情を実際に与えることができるためには、さらに何が必要だと思いますか?」
小野「ん・・・。変な言い方かもしれないけど、余裕?」

私「そう、余裕ね。それ必要ですよね。他には?」
小野「思いやりと優しさが足りないような感じがします」

私「そう、思いやりと優しさも必要ですよね。さらに、実際にそれを実行しようとすると、勇気も必要だね。どう思いますか?」
小野「はい。必要です。」

私「そうだよね。じゃあね、思いやりがあって、優しくて、自信があって、余裕があって、勇気があって、人を気にせず信念を貫く、そういう自分でありたい、と思っているんだよね。他に何かありますか?」
小野「それと、どうしても許せない人がいるんです。毎日のようにその人のことが頭をよぎるんです。」

私「それはきついよね。いじめにでも会いましたか?」
小野「そんな感じです。今でも頭をよぎって、イライラしたり不安になったりするんです。」

私「辛かったり悔しかったりしたんだしょうね。だから今でも忘れられないんだ。では、その出来事を許すことができたならどうだろう」
小野「でも、それって難しいです・・。やっぱり許せない人はいます」

私「そう。難しいよね。でも、もしできたらどうかな?」
小野「ん・・。とても楽になれそうです」

私「そうだよね。自分が楽になれそうだよね。許せない人のために、自分が苦しい思いをするなんてバカらしいよね。」
小野「確かにそうですね」

私「では、思いやりがあって、優しくて、自信があって、余裕があって、全てを許して受け入れることができて、勇気があって、人を気にせず信念を貫く。そういう自分になれたら、どういう人生になりそう?」
小野「パッと思ったのが、しっかりして明るい人生」

私「そう。しっかりした人生になったならば、さらにどうなりそうかな?」
小野「充実して楽しそう」

私「そうだよね。充実して楽しくて、明るくイキイキとした人生が送れそうだよね?」
小野「はい。」

私「じゃあね、こういう人生って、一言で言うとどんな人生?}
小野「・・・・。幸せ?」

私「そう。幸せになるよね。あなたは一番この『幸せ』が欲しいでしょ?」
小野「はい!」

私「そうだよね。しかも最高の幸せを望んでいるよね。」
小野「はい!でも幸せと思っているところもあります」

私「そう。ご主人もいて、可愛いお子さんもいて、幸せなところも沢山あるけど、あなたが欲しがっているのは『最高の幸せ』だよね。しかし、今はそうではないから、そこに悩みが発生してきているんじゃないかな?」
小野「そうです。」

私「しかし、自分に思いやりがあって、優しくて、自信があって、余裕があって、勇気があって、人を気にせず信念を貫く、そしてすべてを許して受け入れることができたら、充実したしっかりとした人生になって、明るくイキイキとした自分になれそう。そして最高の幸せが手に入りそう。というのが分かっているんだよね。『幸せ』になる方法をわかっているんだよね?」
小野「あ、そうですね」


私「実はこれがあなたの今回の人生の目的なんだよ。こういう自分になる事。それがあなたの今回の人生の目的。

ほとんどの人が人生の目的を知りたいとセッションを受ける動機に書いていらっしゃるんだけど、実はみんな人生の目的は分かっているんだ。『あなたは、どういう自分になりたいですか?』と聞くとほとんどの人がちゃんと答える。実はそれが人生の目的なんだ。しかし、ほとんどの人がそれを人生の目的だと思っていない。『人生の目的』と言われると、『どんな仕事につくとか、何を成し遂げるかとか、どこまで出世するとか、どれだけ稼ぐか、名誉が得られるか』そんなことを目的だと勘違いしている。実はこれは手段とオマケなんだよ。

『夢を実現する』というと、裕福になるとか出世するとか有名になるとか、そういう話になっている。確かにそれも素晴らしいし、うらやましい部分もあるけど、本来の目的はちょっと違うところにあると思う。
仕事や勉強、人間関係などは手段、そして、名誉や地位やお金はオマケ。しかしほとんどの人が手段やオマケを目的だと勘違いしている。
そうではなくて、仕事や、そこに生じる人間関係など様々なものを通じて、いま小野さんが言ったような自分に成ろうとしている。実はそれが『目的』なんだと思う。しかし、ほとんどの人が、目的と手段、オマケがひっくり返っている。だから、わけがわからなくなっている。

でも、それは仕方ないと言えば仕方ない部分もある。みんなそういう教育を受けてきてるからね。例えば小野さんも、小さいときに『将来の夢は?』と何度も聞かれたよね?なんと答えてましたか?」
小野「看護婦さんとか、先生とか・・」


私「ね?職業を答えていたでしょ?」
小野「うん。そう。確かに。」

私「そうでしょ。聞く方も『夢は?』と言いながら、職業を聞いている」
小野「うん、うん。」

私「だから、いつの間にか職業が目的に摩り替ってしまった。」
小野「ホントだ。」

私「どういう人になりたい?どんな大人になりたい?とかそんなことは聞かれてきていない。『看護婦になりたい』というと、『じゃ、あの高校に行って、こんな勉強をして・・。いやそれより、大学のほうがいい。』とかいつの間にか方法論ばかりになっていく。そして、その手段・方法が目的に摩り替ってしまう。あるいは「看護婦は夜勤があってきついから、やめた方がいいよ。」なんて話になってしまう。
小野さんが子供の頃、看護婦になりたいと言ったのは、その奥に『人を助けたい』という思いがあったんじゃないかな?」
小野「あ、そうです。」

私「しかし、大人から職業を聞かれたら、職業を答えた。ましてや、子供のあなたが知っている職種なんてごくわずかだからね。そのいくつかの中から選ばなくちゃいけなかった。しかし、大人はその職業のことしか受け止めれないから、そこでずれてしまう。」
小野「たしかにそうです。私も子供にそんなことやっているかもしれない。」

私「そうだよね。しかし、純粋にさっきあなたが言った、思いやりがあって、優しくて、自信があって、人を気にせず信念を貫く。そういう自分になれたら、最高の幸せが手に入るよね。そして、その幸せは何ものにも揺るがない最高の幸せが手に入りそうだよね。」
小野「はい!」

私「では、その中に、周りの人がどうだとか、お母さんが、お父さんが、友達がとか、上司がとか、会社がとか、そんなこと一言でも言っていますか?」
小野「言ってません。」

私「言ってないでしょ?『私がこうなれば』と言っているでしょ?
『私がこうなれば最高の幸せが手に入ります!』と自分でわかっているんだよね。ならば、それをそのまま目指せばいい。それをストレートに求めれば、最高の幸せが手に入る。
しかし、今までもその最高の幸せは求めてきた。でも、今までのあなたは『周りの評価』『周りが変わること』『周りからもらうこと』でその幸せを得ようとしてこなかった?周りに認めてもらうとか、褒めてもらうとか、あるいは、自分の都合のいいように周りが変わってくれるとか、地位や名誉も他人の評価だよね。中には自分を『犠牲』にすることで幸せを得ようとしている人もいる。そういうものを通じて幸せを得ようとしてこなかった?」
小野「そうでした。」

私「あなたが幸せを求めていたのは間違いない。しかしその手段として『他人の評価や物』を通じてその幸せを求めようとしている人がたくさんいる。あるいは、自分を『犠牲』にすることで幸せを得ようとしている人もいる。」
小野「はい。私もそういうところがあります」

私「だからずれてしまった。他人の評価では『最高の幸せ』は手に入らない。だって、他人の評価というものは、国によっても、時代によっても、さらには人によっても違うし、たとえ同じ人であっても、その基準はその時の都合や気分で常に変わるものだから。
でも、それで人の目が気になって、右往左往しなくちゃいけないなってしまう。そんな不確かなものを通じて幸せを得ようとしてこなかった?あるいは、自分を『犠牲』にすることで、周りに認めてもらおうと思ってこなかった?」
小野「そうかもしれません。」

私「でも時には幸せに感じるときもある。誉めたりされるとね。でもそれもずっと続くとは限らないから、さらに認められるように頑張らなくちゃいけない。「○」を誰かからもらわなくちゃいけない。
今でも幸せになりたくて確かに頑張ってきた。でもそれは、周りの評価を得るために、いろんな手段を使って頑張ってきたんじゃないかな。中には、社会や常識が求める理想の人になるために、あるいは神様から認めてもらうために、自分を高めようとしている人もいる。
あるいは自分を犠牲にすることや、自分をけなしたり否定したりすることで、許してもらおうとしたり、周りに気に入ってもらえる自分になることで、評価を得ようとしている人もいる。単純に『なりたい自分になる』ためではなかった。だからまたそこでずれてしまった。『自分を認めてくれた誰かが、幸せを与えてくれるんじゃないか』『自分を否定していたら、許してもらえるのではないか』『誰かから許してもらったら、あるいは神様が良いよと言ってくれたら、幸せになってもいいのかもしれない』と思っている人もいる。あなたはどうかな?」
小野「あ、そんな感覚がどこかにあります。」

私「そういう人は沢山いるみたいだよ。しかし一瞬手に入ったものも、実は幸せではなくて幸せのようなものだった。それは他人の評価で、自分を判断しよう。あるいは、自分を犠牲にすることで許可をもらおう、幸せを感じよう。もっと言えば、他人から幸せをもらおうとしていたから、いつまでたっても『自分の幸せ』にはなっていなかったということなんだよ。そして、幸せが手に入らないと、裏切られたとか、人のせいにしたりとか、どうせ無理だと勘違いしている人も多い。
そうやって、ほとんどの人が、他人の物差しで自分を計ろうとしている。そして、他人は自分の物差しで計ろうとしている。訳わかんないことをしていない?あなたは常に周りに認められる自分、時には許してもらえる自分を目指してきませんでしたか?」
小野「はい。そんな感覚はあります。」

私「結局それで苦しむことになったよね。そうではなく、『私が、思いやりがあって、優しくて、自信があって、自由で、全てを許して受け入れることができて、そういう自分になれたら、最高の幸せが手に入る』ということが分かっている。では単純に、そのままを求めていけばいいということになってくる。そして、その幸せは何物にも揺るがないでしょ?」
小野「はい。」

私「そう、何物にも揺るがない幸せが手に入る。そして、小野さんがいうような人は世の中にとって必要ですか?不要ですか?」
小野「必要です。」

私「必要だよね。ならば、そういう人には沢山の応援がやってくる。皆が力を貸してくれるようになる。そういう人をつぶそうという力は働かない。だから結果として周りの評価もついてくることになる。しかし、それはあくまでもオマケだからね。
かりに、そのオマケがなくても、あなたの幸せは決してなくならない。そういう『最高の幸せ』が手に入るんだよ。」
小野「はい・・。」

私「『でもそれが出来ないから困ってるんです』と言いたそうですけど、必ずできるようになるから、もう少し話を聞いてね。
人生の目的が、あなたがさっき言った『なりたい自分』であるとは、今まで思っていなかっただろうけど、どこかで漠然とだけど、それを求めてはいたよね。」
小野「はい。」

私「あなたはこの世に生まれる前は、神様のような存在だった。神様のようなというよりも、神そのものだった。髪そのものだったあなたが、実は人間を体験しに来ているだけなんだ。」
では、なぜ人間を体験しに来たのか。それは、『思いやりがあって、優しくて、自信があって、余裕があって自由で、全てを許して受け入れることが出来る』という自分を、体験を通じて実感したかった。そして、体験の質を高めるために、それが出来ないという状況が必要だった。
もし仮に、あなたが生まれてから今まで、周りの人全てが、『小野さんって本当にすごいよね。素晴らしい!』と言ってくれていたならばどうだっただろう?そして、あなたが言った事に対して、皆が『もっともだよね!やっぱり小野さんのいうことは素晴らしいね!』と言ってくれていたなら、どういう自分になっていたと思う?」
小野「ん・・。生意気になっていたかな。でも、自信は持っているかも」

私「そうだよね。ある意味『自信があって、自由で、全てを許して受け入れることが出来る。』自分になっていたと思うよ。だって、誰も自分の事を否定しないから、自信もあるし許せない人もいない、嫌な人はいないから優しくできる。何でも自由にできるし、人の目も気にならない。そうなれているよね?」
小野「そうですね。なれていると思います。」

私「しかし、みんなが『小野さんってすごいよね』と言われ続けた中での、その優しさや、自信や、許しは本物だろうか?」
小野「いや・・何か違うような気がします。」

私「うん。何か違うよね。周りがそう言ってくれるだけ。周りがおぜん立てをしてくれただけのこと。自分がそうなったわけではない。その逆に『あんたなんかダメよ!』『いったい何やってんの?』と言われる。あるいは誰かに裏切られる、騙される。そういう状況の中でも、『私はあなたを許します。そして自分を信じ、思いやりを持ってみんなに優しくします。』となったときに、その優しさや、自信や、勇気や、許しは本物だと言えるでしょう。高いレベルの体験だと言えるでしょう。」
小野「はい。」

私「その優しさや、自信や、勇気や、許しを手に入れたあたなはどうなれるの?」
小野「楽しい人生を送れそうです。充実してそうです。」

私「そのために今までの体験は必要だった。だから、つらいこと苦しいことはたくさんあったけど、悪いことなど何一つ起きていなかった。」

小野「はい。」


・・・・

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あなたは何がほしいのですか? 安全、幸福、喜ぶ{快楽}

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あなたは何がほしいのですか?

安全、幸福、喜ぶ{快楽}



私たちの大部分が探し求めているものは何でしょう?私たち各自がほしがっているものは何なのでしょうか?とりわけ万人が何らかの安らぎを、幸福を、避難所を捜し求めているこのせわしない世界にあっては、私たちが探そうとしているもの、発見しようとしているものが何であるのかを見出すことは重要なのではありませんか?おそらく私たちの大方は、何らかの種類の幸福や安らぎを探しているのです。騒乱や戦争、言い争い、闘争に苦しむ世界の中で、私たちはいくらかでも安らぎが得られる避難所を求めているのです。私はそれが大部分の人々が求めているものなどだと思います。それで私たちは探し求め、一人のリーダーから別のリーダーへと、一つの宗教団体から別の宗教団体へと、一人の教師から別の教師へと渡り歩くのです。

さて、それは私たちが幸福を求めているということなのでしょうか、それとも、私たちはそこから幸福を引き出したいと願っている何らかの種類の満足を捜し求めているのでしょうか?幸福と満足の間には違いがあります。あなたは幸福を追い求めることができますか?たぶんあなたは満足は見つけることはできるでしょうが、幸福を見つけることは決してできないのです。幸福は派生的なものです。それは何か他のものの副産物なのです。ですから、私たちは精神と心を多くの真剣さ、注意、思考、配慮を要求する何かに向ける前に、自分が探し求めているものは何なのかをまず見つけ出さなければならないのです。それは幸福なのか、それとも満足なのか?どうでしょう?残念なことに、私たちの大部分が求めているのは満足だと、私には思われます。私たちは満足したいと思っています。捜し求めた末に、満たされた感覚を見出したいと思っているのです。

仮に人が安らぎを求めているのであれば、それは実にかんたんに見つけられるでしょう。人は盲目的に自分を、なんらかの{安らぎを与えてくれると思われる}原因となるものに、観念{=主義主張}に捧げることができます。そしてそこを避難所にするのです。むろん、それは問題を解決しません。閉鎖的な観念の中にたんに閉じこもるだけのことは、葛藤からの解放ではありません。だから私たちは見出さねばならないのです---外部的および内部的に---私たちめいめいが求めているものは何であるのかを。もし私たちがこの点をはっきりさせるなら、そのときはもうどこへも、どの教師のところにも、どの教会、どの組織のもとへも、行く必要はなくなるのです。それゆえ私たちの困難は、自分の意図が何なのか、自分の中で明確にすることなのです。ちがうでしょうか?はっきりしましたか?それで
、この明晰さは探究を通じて、他の人たちが言うことを発見することを通じて、より高級な教師から横丁の教会の平凡な牧師たちにいたる、人々の話を聞くことによって、もたらされるのでしょうか?あなた方は見いだすために誰かの所に行ったことがありますか?けれども、それが私たちがしていることなのではありませんか?私たちは多くの本を読みます。多くの会合や議論に出席します。さまざまな団体に参加して、それによって葛藤の、生活の惨めさの解決法を見つけようとします。あるいは、そういうことあれこれをやらない場合、自分はすでに{解決法}を見つけていると考えるのです。つまり、ある特定の団体、特定の教師、特定の本が、自分を満足させているというのです。私たちは自分が求めるすべてをそこに見出したのだと。それで私たちはそこにとどまり、固まって、殻に綴じこもるのです。

こうした混乱のすべてを通じて、私たちは何か永遠のものを、永続的なもの、私たちが真実在、神、心理等々と呼ぶものを、探し求めているのではありませんか?この際、名称は問題ではありません、言葉はその物ではないからです。だから言葉にはとらわれないようにしましょう。そのようなものは専門家の先生たちに任せておきましょう。とにかく何か永続的なものへの探究があります。私たち大方の人にはある。そうではありませんか?何かに私たちは執着し、何かが私たちに保証を、希望を、永続的な熱狂、永続的な確実さを与えてくれる、そう考えているのです。なぜなら、自分の中で、私たちはそれほどまでに不確かだからです。私たちは自分自身を知りません。私たちは事柄については、書物に書かれていることについてはたくさん知っています。しかし、私たちは自分でわかっているわけではないのです。私たちは直接の体験をもたないのです。

ところで、私たちが永続的と呼ぶものとは何なのでしょう。私たちが探しも求めているもの、私たちに永続性を与えるであろう、あるいは与えてくれるだろうと私たちが期待するそのものとは何なのでしょう?私たちは永続的な幸福を、永続的な満足、永続的な確かさを探しているのではありませんか?私たちは永久的に持ちこたえるものを、自分を満足させてくれる何かを求めています。もしも私たちが言葉やフレーズのすべてを脱ぎ捨てるなら、そしてじっさいにそれを見るなら、これが私たちが求めているものです。私たちは永続的な快楽{喜び}・・・を求めているのです。



幸福は求めても得られない



幸福というのは何でしょうか?ある人は、幸福はあなたが求めるものを獲得することによって得られると言います。あなたは車が欲しい。それでそれを得るとします。そうすればあなたは幸福です。私はサリーや洋服がほしい。あるいはヨーロッパに行きたい、それでそれができれば、私は幸福です。わたしは偉大な政治家になりたい。それで目標が達成できれば、幸福なのです。もしもそうできなければ、私は不幸です。だから私たちが幸福と呼んでいるものは、ほしいものを手に入れること、目標を達成し、成功すること、気高くなること、何であれほしいと思うものを手に入れることなのです。あなたが何かをほしいと思い、それが手に入れられるかぎりは、あなたは申し分なく幸福と感じられるでしょう。あなたは欲求不満を感じないからです。しかし、ほしいものが得られなければ、そこから不幸が始まります。私たちは皆、金持ちも貧しい人も、このことに関心があります。富める者も貧しい者も誰もが、自分のために、家族のために、社会のために何かを得たいと願っています。そしてそれが妨げられたり、制止されたりすると、不幸なのです。私たちは議論しているのではありません。貧しい人たちは彼らが求めるものをもつべきでないなどと言っているのではないのです。それが問題なのではありません。私たちは何が幸福なのか、幸福はあなたが意識しているようなものなのかどうかを見出そうとしているのです。あなたが自分は幸福だと、たくさんものをもっていると意識した瞬間、それは幸福でしょうか?あなたが自分は幸福だと意識したとき、それは幸福ではないのではありませんか?だからあなたは幸福を追い求めることはできないのです。あなたが自分は卑しいと意識するとき、あなたは卑しくはありません。だから幸福は、追い求められるべきものではないのです。それはやってきます。しかしあなたがそれを追い求めるなら、それはあなたの手から逃れ去るのです。




快楽、楽しみは依存と喪失の恐怖へと変化する



私たちは本当には物事を楽しんではいません。私たちはそれを見て、表面的にそれを楽しんだり、興奮させられたりしているだけです。私たちは喜びと呼ぶセンセーション{感覚の刺激}をもちます。しかし、喜びはもっと深いもので、理解され、{その内部に}入り込まなければなりません。


子どもの頃、私たちは物事を楽しんだり、喜びを覚えたりします。ゲームに衣服、読書や、詩を書いたり、絵を描いたり、また、互いにつつきあったりすることに・・・。年を取るにつれて、なおも物事を楽しみたいと思っているにもかかわらず、最良のものは私たちから消えてしまいます。私たちは間違っが種類の感覚の喜び---情欲、肉欲、権力、地位など--を好むようになります。

年を取るにつれて、生活の中の事物はその意味を失います。私たちの精神は鈍重、鈍感になり、だから楽しもうとして、私たちは自分を強いて絵を見たり、木々を見たり、小さな子供が遊ぶのを見たりします。私たちは聖なる書物その他を読み、その意味、その深さ、その意義を見出そうとします。しかし、それはすべて努力、骨折りであり、格闘すべき対象でしかないのです。

私はこの、喜び、物事を楽しむことと呼ばれるものを理解するのは非常に重要なことだと考えています。何かたいへん美しいものを見る時、あなたはそれを所有したいと、それにしがみつきたいと、それを自分のものと呼びたいと思います----それは<私の>木であり、<私の>鳥、<私の>家、<私の>夫、<私の>妻なのです。私たちはそれにしがみつきたいと思い、まさにその所有のプロセスの中で、あなたがかつて楽しんだものは、消え去ってしまうのです。なぜならその所有そのものの中に、依存が、恐怖が、{他の}排斥があり、だから喜びを、内的な美の感覚を与えてくれたその物は失われ、生活は閉ざされ・・・てしまうのです。

真の喜びを知るためには、人はもっと深く進まねばなりません。

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思考の種類 非二元の見方

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自分が探し求めてきたものがわたし自身だということはわかるのですが、いまこの瞬間を本当に生きることを思考が邪魔しているようです。思考から自分を解放するいは、どうすればいいでしょうか?


思考には三つの種類があります。
1・実際的な思考。仕事や日常生活を送るのに便利なものです。例えば、「ガソリンを入れなくては」というもの。こういった種類の思考は抑圧すべきではありません。必要に応じて検討し対応すると、こうした思考は自然に離れていきます。

2・本源に関する思考、非二元の見方の理解に関する思考。例えば、「わたしはすでにわたしが探し求めているものである」というもの。これらの思考は本源から来るものです。これらを歓迎すると、二元性の条件付けから心を浄化し、次第にその源へと私たちを連れ戻します。明先さをもたらし、ほんとうの自分が本来もっている至福への伏線となります。

3・個という実体であるという観念に関する思考。願望、恐れ、疑い、夢想、その他、希望に満ちた考えといったもの。この三つ目の種類の思考は場合によっては無害なもので、初めは気づくのが難しいものです。強い感情は嫉妬や恐れといった悩みや不調和を生み出すので、気づくのが簡単です。また一方で、無意識のうちに好ましい考えにしばらく耽ることもあります。海辺のリゾート地で過ごす休暇を想像する、といったものです。

どのような種類の思考であっても、思考が自己実現の障害であると考えるのは、よくある間違いです。三つ目の種類の思考だけが、意識的完全であることを妨げます。この種の思考が持ち上がってきた時にできることが二つあります。

まだ自分が制限ある個という実体だと信じていて、このような思考に気付いたら、その元である自我までたどってみるべきです。それを捕まえてみようとすると、その思考は消え去り、ほんの短い瞬間のことに感じられますが、わたしたち本来の自由を体験します。このように真実の一瞥を得ると、自分は個という実体ではないということが分かります。一瞥が繰り返し起こることでこの事実は強まっていき、やがて確信となります。

自分が個という実体ではないことが確信になると、三つ目の種類の思考は通常、電源を抜いた直後のモーターが慣性で回り続けるように、しばらくの間は習慣として起こり続けます。この場合、これらの思考の原因を調べる必要はありません。それに気付いたらすぐに落とすことができます。

シュリ・ラーマクリシュナは、「玉ねぎが完全にむけると、すべての層がなくなり何も残らない。同じように、自我を分析すると何の実体も見つからない。不幸なことに、わたしはまだ何層か残っている!」と言いました。

最後の文章は、三つ目の種類の典型的な思考です。本源に関する思考とそれがもたらす平穏を楽しんでください。




空想することはいまから自分を引き話し、二元性へ陥れるので、常にネガティブなものだということでした。ですが、ケクレが空想している時にベンゼン環の構造を見出したように、空想は創造的でありえるのではないですか?

それは空想の例ではなくて、思考のプロセスがまったく自由にすべての可能性にわたって開かれ探索する、瞑想状態の例です。睡眠と目が覚めた状態を移行する間、通常は意志による作用が弱まる瞬間に、この創造的な状態を体験することがあります。この種の創造的な発見やインスピレーションを得る瞬間の例は、芸術や科学の分野で多く見られます。この状態では、個としての実体という観念が関わることがありません。ヴィジュアライゼーションや空間表現を通して開かれる自由な思考プロセスを見ている者としてあります。これらの思考はどんどん精妙になり、最終的には知性、存在、幸せに溶けています。この非体験から出てくると、科学者や哲学者は「わたしは理解した」と言い、芸術家は詩や交響曲を書き、一般の人は悩まされていた日常の問題に対する解決方法を見つけます。

この瞑想状態は、はじめは夢想状態として現れることがあります。この時、意識に現れる客体は精妙な性質のものだからです。心理的なイメージや思考であり、目が覚めている状態で知覚されるような外的な感覚認識ではありません。個人の不在により、この状態は瞑想状態になります。この状態の主体は、何かを行ったり、楽しんだり、苦しんだりする個人としてはこの状態にありません。この主体は純粋に見ている者です。この状態は瞑想への自然な入口を教えてくれます。目が覚めた後にも、まだこの以降状態にあることがよくあります。目が覚めている状態の客体に関する心配事に心が捕まるままにするのではなく、この以降状態の香りを目が覚めている状態に浸透させることができます。言い換えれば、熟睡状態の平穏と自由の記憶に留まり、個の平穏が受け入れてくれる間はそのままでいると、目が覚めている状態というのが文字通り「自分の内で目を覚ます」のであり、以前信じていたように、わたしたちがその内で目を覚ますのではないことが、ますます分かるようになります。しばらく経つと、日常の活動の間にこの平穏の背景が途切れずにあることを感じるようになります。

これとは対称的に、空想というのは実際に現在、起こっている生活の場面から個という実体が逃げるための一種の心理的な活動です。この種の考えは通常気づかれることがありません。なぜなら、ほかの形の自我的思考や、怒りや憎悪、嫉妬、ねたみ、強欲といった感情と違い、社会的な調和を乱したり、心理的な苦悩を引き起こさないからです。どのみち自分を個人として捉えることは、この西洋文化ではよいものとして受け取られていて、そうするように強く勧められており、空想は無害であるとされています。このため、この活動は自我にとって格好の隠れ場所になっているので、真剣に真実を探求する者であれば、この問題を意識する必要があります。



瞑想中に心が静かになったとき、感覚認識がまだあることに気付きます。矢をつくる人の話がありますが、この人は外を通る王様の結婚パレードに気付かないほどの完璧な注意力をもっていました。この点ではどうなのでしょうか?わたしの瞑想は間違っているのでしょうか?

瞑想には二種類あります。客体との瞑想と、非客体(非二元性)の瞑想です。

一つ目の瞑想では、粗いものであろうと精妙なものであろうと、神の像や心理的なイメージ、さまざまな身体的感覚、聖なる者の流れや概念といった特定の客体に注意を集中します。このプロセスでは、普段、願望の対象となるものから注意力をはずすための努力が必要ですが、成功すれば、自我が弱まったような印象を得ます。王様の結婚行列が通って行く最中でさえ、心は客体に集中し、静寂や瞑想の客体に関するものとは別の感情や思考の不在を体験します。しかしながら、ここで体験するサマーディ(三昧)は、心が創り出した状態であり、始まりと終わりがあるのです。遅かれ早かれ、ヨギはサマーティから出てこなければなりません。残念ながら、恐れや願望や痛みの行列と共にまだ自我はあります。

客体と共にする瞑想で特別な形態は、客体が空や虚空のものです。このプロセスでは、心に思考や感覚が入らないようにするという努力をします。これを達成するために、聖なる句を繰り返したり、呼吸制御の方法といったツールが使われることもあります。客体と共にする瞑想はどれもそうですが、一時的な自我の弱体化が続いて起こり、体験の性質と深さによりますが、心はしばらくの間、思考と感覚の不在、あるいは単に思考の不在という空白の状態を体験します。ですが、これもまた心が創り出した始まりと終わりのある状態です。この形態の瞑想が非客体の瞑想だと、間違って信じられていることがよくあります。客体(感覚、思考)の不在はとても精妙に投影されていますが、依然として客体なので、それは間違いです。この状態は一時的にいくらかの満足感を与えてくれるかもしれませんし、また心の力を爆発させることさえあるかもしれませんが、実を結ぶことはありません。瞑想者は心という檻に閉じ込めらたままで、ハートの充足は知らずにいます。この状態には自然な非二元の状態がもつ絶対的な自由、創造的な楽しみ、不死という素晴らしさが欠けているのです。

非客体の瞑想では、非客体、つまり本源的な対象である意識に注意が引きつけられます。これは理解の結果として自然発生的に起こります。最初の段階では、真実の探求者は自分が本当に求めている幸せ、指導者と共にいるときに体験する理由なき至福は非客体であること、つまり、「粗いものであろうと精妙なものであろうと、何の客体にも閉じ込められていない」ことに気付くように求められます。これが理解されると、精神機能(思考や感覚認識)を把握することしかできない心は、客体ではない世界を手にできないと認識します。つまり、心によって幸せを守ろうという試みは、失敗する運命にあることを理解します。結果として、心はすぐに静寂という自然な状態にあるようになります。この自然な形態の瞑想では、感覚や思考を求めることも避けることもしません。単に迎え入れられ、見送られます。感覚認識、体感覚、感情、気持ち、思考に完全に開いているというこの状態は、完全な解放性と説明してもよいかもしれません。

こういった精神機能は、劇中のさまざまな登場人物に例えることができます。その劇が面白いうちは、前面に立つ役者にわたしたちの注意は完全に引きつけられます。ですが、つまらなくなると注意力が次第に拡がり、舞台である背景に気づくようになります。同じようにして、わたしたちの注意力が拡がって地球ほどの大きさになり、集中することなくオープンで無関心になると(この無関心さは、これらの精神機能が真の幸せという点では何ももたらすものがないという理解から生まれるものですが)、急に意識という背景に気づくようになり、これがわたしたちの求めている本源的な永遠性、壮麗さ、幸せだということが明らかになるのです。

セットの背景に気づくために、役者が舞台から降りる必要はありません。同様に精神機能の不在は、わたしたちの本性を知るのに必要条件ではありません。ですが、役者がいなくなり注意力が拡がると、背景に気づく機会を得ることができます。同じようにして、精神機能が意識と一体となるときにほんとうの自分を意識的に体験する機会を得ることができます。

背景と一体になった者のもとで「手ほどき」を受けることで、非客体の瞑想の実質である迎え入れる姿勢は、簡単かつ自然に真摯な真実の探求者へ伝えられます。










自我 真の自己

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あなたにお会いすることで、何を得られるでしょうか?

何も期待しない、ということを学ぶつもりでいてください。求めないということは、偉大な芸術です。求めながら生きることをやめると、新しい次元を生きることになります。わたしたちは自由です。わたしたちの心も自由です。わたしたちの体も自由です。そうなっていく過程で、自分というものが心でも体でもないという知的な理解は第一歩として必要なものですが、充分ではありません。わたしたちが体ではないという事実が、体の筋肉、内臓、細胞にまでも浸透し、これらを解放する実際の体験にならなければなりません。突然、一瞬の間に起こる、自分の本質に対する認識を知的に理解すると、純粋なよろこびの光が放たれますが、自分が体ではないということを全面的に理解した時、わたしたちはよろこびそのものになります。

自分が体ではないというのは、どのような感覚なのでしょうか?

幸せは誰もが体験したことがあるものですが、幸せを感じる時、同時に軽くなり拡がっていく感覚があります。体がこのように感じ取る前に、時間を超越した状態、混じり気がなく、理由のないよろこびの状態があったのであって、体の感覚はこの状態の最終的な結果にすぎません。よろこびが、よろこびそのものに気付いたのです。わたしたちはこの瞬間、空間に縛られた体ではなく、ひとりの人間でもありません。自分自身をこの瞬間という直接性の内に知ります。原因のないこの至福を、わたしたちはみんな知っています。わたしたちの体と呼ぶものを深く探ってみると、その実質がまさにこのよろこびであることがわかります。わかってしまえば、外側にある対象に幸せを見つける必要も、嗜好も、可能性すらもはやありません。

この深く探るというのは、どのようにするのでしょうか?

あなたに現れる体感覚や感情を拒否しないことです。なんの目的もなく、意志によって邪魔することもなく、気づきの中で充分に花開かせてください。それが進んでいくと、筋長力に閉じ込められた潜在エネルギーが解き放たれ、心身相関システムのダイナミズムは使い果たされ、基礎的な安定性が回復します。この体感覚の浄化は、すばらしい芸術です。これには忍耐と意志の強さ、それに勇気が求められます。周囲の空間に体が次第に拡大し、同時にこの空間が体細胞構造に浸透することで、感覚の次元でこの浄化が表出します。この空間とは、ただ対象がない状態として感じ取られるのではありません。知覚によって捕らわれていた意識が知覚から解放されると、自ら光を放って輝く空間が意識なのであり、それが体の真の実質だということが明らかになります。この瞬間、体と空間という二元性はなくなります。体は宇宙の大きさまで拡大し、有形・無形のすべてをハートにおさめます。体の外にあるものなど、何もありません。わたしたちは皆このよろこびの体、目覚めた体、万物をよろこんで受け入れる体をもっているのです。わたしは皆、完全であり、欠けているものなどありません。あなたの王国を探検して、それを意識的に手にしてください。制限ある体などというみじめで壊れやすい小屋の中で生きるのは、もうおしまいにしてください。


静寂の瞬間にこの領域を垣間見たことがあります。ですが、すばらしくもなく平和でもない仕事に行くと、穏やかさはすぐに消えてしまいます。いつも落ち着いているには、どうすればよいでしょうか?

気付きに現れるものはすべて、気づき以外の何ものでもありません。仕事仲間、客先、上司、まったくすべてがそうです。建物、各、設備もそうです。まずこれを知的に理解して、それが正しいかどうか確かめてください。そのうちに、この親密な感覚、この慈しみに満ちた空間が周囲に常にあるようになります。こうして、たとえ人でいっぱいの駅の待合室にいたとしても、どこであってもくつろいでいられるようになります。過去か未来に思いを馳せるときだけは、そこからいなくなりますが。そんな粗末な小屋に留まっていないでください。この果てしない広がりは、まさに今ここであなたを待っています。すでにそれがあることを知っているのであれば、見えているものの根底にある調和を味わったことがあるのなら、外部世界に対する知覚と体感覚を、両手を広げて待っているあなたの気づきの中で自由に開かせてください。すると、この広大な背景が自然に現れる時が来ます。 この見方の逆転は、20世紀初めによく描かれ、子供たちにはなじみのある絵、木が急に天使の顔になって見える絵によく似ています。はじめは木だけしか見えません。絵の下にある説明書きを読んで天使が木に隠れていると知ると、葉の部分を綿密に調べて天使を見つけようとします。絵の秘密を暴くには、天使がいること、天使が隠れている場所、これらを知っていることと、イメージが組み立て直され木の形が変わって天使の顔になることを一度体験していることが大切なのです。方法が確かなものになるとすぐ、その後の見方の逆転はどんどん簡単になり、天使と木が同時に見えるようになります。同じようにして、一度自分の本質を知ると、残っている無知と目覚めの区別はどんどんあいまいになり、根本的な存在の「あるがまま」に明け渡すようになります。


自分の体のなかで固まって動けないように感じ始めています。感覚や印象は、ほかの人のもののようです。

固まって動けない感じというのは、どのように現れますか?

自分のプライドと感情で催眠をかけられているように感じます。特に怒りと、体の興奮です。

そうですね。催眠にかかっていると気づけばすぐに、催眠は解けます。

どうやってですか?よくわからないのですが。

誰が催眠にかかっているのか、聞いてください。深く問いかけるのです。これは誰なのか?どこにあるのか?そのような実体は見つからないことに気付くと思います。心と体を探ってみれば、自分だとしている概念をいくつか見つけるでしょう。例えば、「わたしは女性だ」、「わたしは人間だ」、「わたしは弁護士だ」といった具合に。体に何かしらの感覚があるかもしれません。より不透明で、より固まっている箇所、これも自分だとしている箇所です。ですが、もっとよく見てみると、胸にあるこの感覚や、女性だと思っているその考えは、自分ではないということがはっきりします。感情と思考はやって来ては去っていきますが、本当のあなたとは不変なものだからです。まさにこの瞬間、催眠は解けます。これらの思考や感情が起こることは、あなたがそれらを自分自身だとしてしまうほど問題ではありません。至高や感情に気がついたらすぐに、自分自身と距離を保つのです。あなたは自由です。この自由の中では、自分自身をどこにも置きません。この非局所性に留まり、古いアイデンティティがなくなるとすぐに他の新しいものを手にするという、当たり前の習性に従わないことが大切です。ほかの木の枝をつかむまでは今もっている木の枝を放さない猿のようにならないことです。 このように頑張ることなく、執着することなく、漂いながら生きることがどれほどすばらしいものかおわかりになると思います。はじめのうちはちょっと変な感じがしますが、この新しい姿勢は何も邪魔することがありません。今までどおりに母親や弁護士といった機能を果たすこともできますし、体を感じることも、あらゆることがそのままです。つまるところ、無となってあてもなく漂うことは、非常に実際的なのです。人生をものすごくシンプルにします。ただ理解することだけで満足しないでくださいね。この理解を実践してください。誰にもならないことを試してみてください。木の枝を手放して。

こうしてみたあと、自分の体に戻って日常を過ごすのは難しくないですか?

あなたは自分の体の中にいたことがありません。なので、体に戻るという問題は出てきません。あなたの体はあなたの中にあります。あなたがその中にいるのではありません。あなたの体は、一連の感覚的な知覚や概念としてあなたには見えています。体を感じたり、体について考えたりする時、あなたは体をもっていることに気付きます。こういた知覚ゃ思考や、純粋意識であるあなたの内に現れます。知覚や思考の中にあなたが現れるのではありません。ご両親や先生方、あなたが生きてきた社会のほぼ全体から教えられてきたのとは、逆なのです。実際の体験とは矛盾するのですが、実際の体験とは矛盾するのですが、あなた、つまり意識はあなたの体にあり、意識とは頭脳、あなたの体の器官から生じる機能だと教えられてきましたね。こういった信念に疑問を持ち、自分の経験という生のデータに問いかけてみてください。子供の頃、このような人たちから与えられた幸せへのレシピを覚えているでしょうか。頑張って勉強し、よい仕事に就き、自分にふさわしい男性と結婚する、などなど。こういったレシピがうまくっていたらなら、あなたはここにいて、いろいろな質問をすることもなかったでしょう。こういったものは誤った現実の見方によるものなので、うまくいきません。この見方に疑問をもってみてください。 それと、あなたが体や心に現れているのか、それとも逆に、あなたに体や心が現れているのか、確かめてください。これは木に天使を発見するような、逆転の見方です。初めは変化がごく小さいように感じるかもしれませんが、実は想像もつかない、無限の結果をもたらす革命なのです。木が本当は天使かもしれないという可能性を素直に受け入れるのであれば、天使は姿を現わし、あなたの人生は奇跡となります。

ハートから直観的に生きることについて教えてください。

個人にならないことです。何にもならないことです。自分が誰でもないということを理解し、この知識に沿って生きることです。ひとりの人間であるという考えや感覚が自分をだますことがなくなれば、考えていようがいまいが、何かをしようがしなかろうが、満ち足りたハートから真実を生きるようになります。

この時点で、わたしは自分自身と世界と正しい関係にありますか?

ええ、もちろんです。それも含めて、正しい関係にあります。世界というのはあなたの体と心と同じく、あなたの本性に含まれています。愛とは包みこむことです。理解することは中間段階ですが、最終目的地、真実のセンターはハートです。



ハートとは、ある木の枝から次の木の枝の間にあるものなのでしょうか?お猿さんの比喩で言うと。


あなたが執着している木の枝を、ほかの木の枝をつかまえることなく手放すと、あなたはハートに落ちます。死ぬという意志が必要です。あなたが知っているすべてを落としてください。あなたが習ったこと、もっているもの、あなたの人生を含め、少なくもこの段階であなたが自分の人生と考えるすべてを。これには勇気がいります。ある種の自殺ですから。


本当にそういうものなのですか?例えば、ご自身の認識が高まった瞬間を覚えていらっしゃいますか?

覚えています。


それはこんなふうだったのですか?

そうです。


ありがとうございます。それより前に、どんなことが起こるのかわかっていましたか?

はい、といいえ、両方ですね。招かれていると感じていたので、それはありました。いいえ、というのは、その時が来るまで、わたしは相対的な幸せ、相対的な真実、相対的な知識しか知らず、絶対的なもの、言葉を超えたものは想像するのみでした。自己とは、すべての概念、すべての投影を超えています。それなので、わたしたちは自己に向けて自分自身の力でもって舵取りすることはできなく、それが自分を迎え入れてくれるのを待たなければならないのです。ですが、自己がわたしたちを招く時には、ためらいなく、よろこびをもって「イエス」と言わなければなりません。決定権はわたしたちにあります。これはわたしたちが真に選択の自由をもっている唯一の決断です。


わたしがこの招きに応じることをためらっている理由のうちのひとつは、これによって私の人生が根底から覆されることが怖いからです。


ああ、そうですね、そうなります。


わたしの家族も、ですか?

あなたのご家族も、です。すべてが変わります。


ほかの人たちがわたしから去って行ってしまうのが怖いのです。

何も後悔されないことは、お約束できます。


招かれながらも拒否することはできますか?

できます。あなたの自由です。


また招かれることはありますか?

あります。覚悟しておいてください。それに応じられるように。キングを手にするのに自分でできることは何もないということを理解していれば、応じることができます。完全に無力であることを認めてしまえば、あなたは空っぽの部屋になります。空っぽの部屋になるとすぐに、あなたは聖域になります。そうしてキングは入ってくることができ、王権をもって不死の現存という美であなたに祝福を与えるのです。



自分にくっついている自我(エゴ)をなくすために、自分でできることは何もないとおっしゃいましたが。

自分自身であるとあなたが信じているひとりの人間、つまり欠けた断片であるものができることは、何もありません。



霊的な実践はすべて、自分がそれを信じている限りを用をなさないということをおっしゃっているのですか?

そのとおりです。身体的・精神的存在であるという考えから生まれた実践は、霊的とは呼べません。それは、現実から自分を引き離すことを習得するプロセスです。真に自分であるものは習得できません。あなたはすでにそのものだからです。自我は変わっていくものです。感情、体感覚、そして反応に付随する思考を繰り返すのが自我です。音楽の美しさや、壮麗な夕日、愛の行為の繊細さなどに感動した時、自我はいなくなります。この瞬間、あなたはすべてを受け入れ、欠けているものはありません。ひっきりなしに新しくてもっとすばらしいものを手に入れてコレクションの価値をあげていくコレクターのように、あらゆる訓練をすることで自我を高めようとすれば、どんどんそれに執着し、不満足に終わって孤独に生きるようになります。


この自我の喪失は、段階を追っていくものですか?それとも突然起こりますか?

あなたはすでに自分が誰なのかを知っています。もっとも深遠な現実への興味がまだ目覚めていない人であっても、よろこびの時を知っています。こういった瞬間、自我はありません。よろこびは、本当の自分、つまりよろこびそのものから発します。誰もが喜びを直接、認識します。自己が自己を知るものが、自己そのものです。存在だけが、存在を手にできます。よろこびだけがよろこびを、永遠だけが永遠を手にできるのです。こういったわたしたちの真の存在やよろこび、永遠がないという誤った考えがエデンの園からわたしたちを追い払い、狂わんばかりの探究に押しやります。存在性への自我の回帰は、一時的な観点では、突然の啓発に続いて起こったあきらめのように見えますが、これが探求と精神錯乱を終わらせます。


この回帰とは、何をもって起こりますか?

あなたが質問された次元では、この質問に対する回答はありません。なぜなら、結果はすでに原因の内にあり、原因は依然として結果の内にあるからです。あるおとぎ話しでは、乞食が実は王様の息子だということを、魔法使いに告げられます。思いがけないように思われる出会いが、わたしたちの真のアイデンティティを明らかにするのです。このよい知らせ、正しい言葉の意味における讃美歌とも言えますが、これを告げられることでわたしたちの存在の深みで深遠な本能がとどろき、本源へと続く道へとわたしたちを向かわせます。この内面的な動きは幕で覆い隠されたほんとうの自分に向かっており、共にやってくるよろこびあふれる穏やかさの気配が、わたしたちの切望を未知の方向へ向けます。この認識は、客体や世俗的な現実には関係がありません。記憶や時間の次元にはないのです。そのためこの恩寵は忘れることができません。この恩寵は以前よりもよりしきりにわたしを誘うようになり、それに気づくたび、絶対なるものへの切望が高まります。寒い冬の夜、道に迷った人が宿屋の赤く染まる窓を見て中には火があると知り、ドアを開けてしばらくの間、炉辺で身を暖めるように、わたしたちは聖域に入り、しばらくの間、聖なる光の温かさにくつろぎ、そしてまた夜の中へ戻っていきます。最終的には、絶対なるものへわたしたちの願望が死の恐怖に打ち勝ち、ひとりの人間としてある自分という偽りを、無限の意識という火に捧げるのです。それからは、目覚めを妨げるものはもはや何もなく、タブリーズのシャムスの視線が、「はかないものに投げかけられる時にはいつも、それが永遠であるものとみなされた」ように、この火は次第に現象界にあるものすべての面を輝き照らすようになり、その場限りではない根底にある現実が少しずつ明らかになります。



真実を見ることへの恐怖を克服するにはどうすればよいですか?これがわたしの本質を知る妨げになっています。

まず、この本能的な恐怖に気付いていることを、喜んでください。ほとんどの人がこれを抑圧し、避けています。孤独な時や何もしていない時にこの恐怖が顔を出し始めるとすぐに、テレビをつけたり友人に会いに行ったり、何かしらするように自らを駆り立てます。恐怖を発見することはそれゆえに、重要なはじめの一歩です。


発見したかどうかはわかりません。もしかしたら、ただ恐怖があることを感じ取っているだけかもしれません。

それと共に生き、興味を持ち、押さえつけることはしないでください。恐怖を慈しむ姿勢を身に着けてください。これがやって来ては去っていくままにさせるという姿勢です。思考と体感覚が混じり合っているそのままを受け止めてください。「誰が怖がっているの?」と尋ねてみると、恐怖の思考が離れていくのが分かると思います。部分的な不安、つまり、身体的な次元にある怖さの感覚だけを残して、恐怖は消え去ります。残されるものは基本的に、あなたが見物人であるお芝居のみです。これを注意深く観察してください。あなたの反応、逃亡、、否定を、観察してください。否定していることを認識するのは、何が来ようと受け入れるということの第一歩です。このようにして、黙想者としての立場をとるようになりますが、いずれにしてもこれがあなたの自然な立場なのです。 こうして、すべては自然に開かれています。恐怖とはあなたの自我です。思考や体感覚としてあなたが連れて歩いている怪物のことです。あなたにふさわしいよろこびの領域からあなたを引き離す高利貸のことです。その全体を見てください。たとえ恐ろしげに見えたとしても、恐がらないでください。絶対なるもの、自由への渇きから、恐怖を見る力を引き出してください。それを感じ始めたら、こう考えてください。「恐怖よ、こっちにおいで。出ておいで。ゆっくりしていっていいんだよ。でも、きみはわたしには手が届かないけれど」この方法の効果性は、恐怖とは認識されるものであって、それゆえに限界があるという事実にあります。世界一長い蛇であっても、どこかに尻尾はあるのです。高く生い茂った草陰から全部出てきたが最後、全体像が見え、もうそれ以上、不意に攻撃されることはなくなり、あなたは危険から逃れます。同じように、あなたの恐怖の全貌を目にすれば、隠された部分がまったくなくなれば、恐怖だとしている部分があなたの中にないということです。あなたから引きはがされた客体になります。自我が養われてきた無知のへその緒は、これ以上、機能することがありません。この「ワタシ」という亡霊は栄養源を断たれ、生存できなくなります。永遠の自由という爆発の中で命を落とすのです。



もっとも深遠な現実を認識すると、この認識の記憶はずっと残ります。自我が介入してきたときに気づくようになり、自我が距離を保つようにしつけることで、自分自身にもっとオープンになるようになります。これについて、意見を聞かせてください。

自我をしつけたり消したりしようとするのは役に立ちません。自我をしつけたりなくしたりする時、これをしているのは誰ですか?

自我が自我自身を消しています。

そんなことができるでしょうか?そうすることで逆に自我を生き残らせています。自我は、それに注意を向けている限りにおいては、障害です。自我とその喪失というネガティブな面からこの探求に取り組むよりも、むしろポジティブな面から始めてください。あなたのいう認識は、あなたの内に充足感の記憶を残します。これは非心理的な体験の記憶です。客体の要素をただ記録することしかできない記憶から来るものではありません。この記憶が導くままにいれば、これに応じ、その呼びかけに自分自身をまるごと投げ出すことを受け入れるのであれば、あなたに起こるこの神聖な感情が時を超えた現存の入口へ直接、あなたを導くでしょう。この記憶と共に生きてください。これを認識する前や後にあった客体の状況については忘れて、その記憶自体は忘れずにいてください。最も大切なもののように愛し、それが生まれた源はいつも今ここにあることを覚えておいてください。いま、ここだけが、それを見つけられる唯一の場所です。思考でもなく、思考の前でも、それについて考える前でもありません。これらについて考えるなんてことは、しないで・・・、



ただ、あるがままにしておくと・・・。

これについて話さないで、公式化しないこと。評価もしないことです。思考の介入は、これからあなたを引き離します。努力はしないでください。あなたはすでに努力しすぎています。努力は無駄です。身をゆだねて、すでにあなたであるもの、完全な静寂でいてください。

プラシーボ効果

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プラシーボ プラシーボ効果 アスピリン 心臓発作 ガン 腫瘍 薬 LSD プラシーボ・トリップ ウイルス 抗生物質 鎮静剤 メフェネジンカフェイン

熱いストーブの上の雪の玉のように溶けてなくなる腫瘍



これまであげてきたような要素がプラシーボ効果において演ずる役割を理解することは重要である。なぜなら、それはボディ・ホログラフィックをコントロールする私たちの能力が、自分の信念にどれほど深く影響されるかを示しているからだ。私たちの心には、イボを消し去り、気管支を通し、モルヒネの鎮痛効果を再現する力がそなわっているというのに、それをもっていることを自覚していないため、私たちはだまされでもしなければ、その力を使えないのである。自分のもつ力に無自覚であるためにしばしばおこる悲劇さえなければ、これはほとんど笑ってしまうような問題なのかもしれない

この点を如実に示す例としては、心理学者ブルーノ・クロッファーがあげる、いまではよく知られているある患者のケースほど適切なものはないだろう。クロッファーは、かなり進行しリンパ球のガンに冒されていたライトという名の患者を治療していた。通常の治療手段はすべて使い果たし、ライトに残された時間はわずかしかないように思われた。首、脇、腹部、脚の付け根のすべてにオレンジ大の腫瘍ができており、脾臓、肝臓の肥大がひどく、胸部から毎日2リットル近くの乳状の液体を吸い出さねばならないほどだった。

だがライトは死にたくなかった。彼はクレビオゼンというかなり効くらしい新薬のことを聞きつけて、ぜひ自分に試してほしいと医師に懇願したのである。当時この薬は寿命が最低三か月は残されている人たちだけに試験的に投与されていたものだったので、医師は最初これを拒んだ。だがライトがけっして譲ろうとせずに懇願しつづけたため、医師はついにこれを聞き入れた。彼は金曜日にこの薬をライトに注射したが、心の奥底ではライトが週末を越せるとは思っていなかった。そして医師は家路についたのだ。

驚いたことに、明るく月曜日、ライトはベッドから出て、歩き回っていた。クロッファーの報告によれば、ライトの腫瘍は「熱いストーブの上の雪の玉のごとく溶け去って」、大きさも以前の半分になっていたのである。これは、最も強いX線を使った治療で達成できるよりもはるかに速い退縮のスピードである。ライトが最初にクレビオゼンの投与を受けてから10日後、彼は退院し、医師団が見るかぎりガンはなくなっていた。入院したときには呼吸するのに酸素マスクが必要なほどだったが、退院時にはすっかり元気になり、自家用飛行機を自分で操縦して4000メートルの高度まで上昇してもなんともないくらいになっていたのである。

ライトは2か月ほど健康状態を保ったが、その頃から、クレビオゼンは実はリンパ球のガンに対しては効果が無いのだと主張する記事が現れはじめた。あくまで論理的で科学的な考え方の持つ主だったライトはひどく落ち込み、ガンが再発して再び入院することになった。今回は担当医師はある試みをしてみることにした。彼はライトに対し、クレビオゼンには実際に当初思われていたとおりに薬効があるのだが、最初に納入されたものは、流通の過程で品質が劣化していたのだと告げたのである。しかし、有効成分を多く含む改良した新製品があるので、これを投与できる、と医師は説明した。もちろん新クレビオゼンなどは存在せず、ライトにはただの水を注射しようと医師は考えていた。それらしい雰囲気を出すため、ライトにプラシーボを注射する前に、わざわざややこしい手順をあれこれ行うことまでやった。

またしても結果は劇的なものとなった。腫瘍のかたまりは溶け去り、胸部の液体も消えて、ライトはすぐにもとの元気を取り戻した。その後さらに2か月間、ライトは症状なしで過ごしたが、今度はアメリカ医学協会が、アメリカ全土で行われた研究の結果、クレビオゼンはガンの治療には効果が無いことが判明したと発表したのである。今度という今度はライトの信念も完璧に打ち砕かれ、ガンがまた新たに広がり、彼は二日後に死を迎えたのである。

ライトの話しは悲しいものではあるが、そこには強力なメッセージが隠されている----信じまいとする自分を飛び越えて内なる治癒力を喚起するという機会に恵まれれば、私たちには一夜にして腫瘍を溶かし去ってしまうことさえできるのだ。

クレビオゼンの場合に関わっていたのはひとりだけだったら、もっと多くの人たちが関係する似たようなケースも数多くある。シス・プラチンとよばれる化学療法の作用薬剤の場合を考えてみるといい。シス・プラチンが最初に発表されたとき、これもやはり驚異の新薬として称賛され、この薬を飲んだ人の75%に効果が見られた。だが当初の興奮の波が収まり、その使用も日常化するにつれて、効く人の割合も25ないし30%前後まで落ちてしまったのである。明らかに、シス・プラチンから得られていた効能のほとんどはプラシーボ効果によるものだったのだ。




薬は本当に効くのか



このような出来事は重要な問題を提起している。もしクレオビゼンやシス・プラチンのような薬がその効能を信じている間は効き、信じるのをやめると効かなくなるとしたら、一般に薬というものの本質についてこれはいったい何を物語っているのだろうか。たとえば、ハーバード大学医学部のハーバート・ベンソンが指摘することだが、蛭に血を吸わせることからトカゲの血を飲むことまで、今世紀以前に処方されてきた処置の大多数は役に立たないものであったが、プラシーボ効果のおかげで、なんらかの効果をもたらすことも少なくともときにはあったのである。

ベンソンは、同じくハーバードのソーンダイク研究所のデイヴィッド・P・マコーリー・ジュニアとともに、狭心症に対して現在まで行われてきたさまざまな治療処置に関する研究を調べてみたのだが、そこで発見したことは、いろいろな治療法が現れては消えていったものの、現在すでに有効性がないとされているものを含め、成功率は常に高いままで推移してきていたことは明白だが、今日でもまだその役割は続いているのだろうか。答えはどうもイエスのようである。アメリカ連棒政府の技術評価局の概算によると、現在行われている医療薬の75%は、その有効性をチェックするための充分な科学的調査を受けていない状態であり、この数字を見る限り、医師はいまでもプラシーボを与えていながらそれに気づいていないという可能性を示唆しているのだ(ベンソンも同意見で、多くの一般市販薬は、少なくとも基本的にプラシーボとして機能していると考えている)。

1962年に行われた研究で、ハリエット・リントン、ロバート・ラングス両博士は、被験者にこれからLSDの影響を調べる実験に参加してもらうと言っておいて、かわりにプラシーボを与えた。それなのにプラシーボを飲んでから30分後、被験者たちはコントロールを失ったり、存在の意味についての洞察らしきものを思いついたりという、本物の薬の典型的症状を体験しはじめたのである。この「プラシーボ・トリップ」は数時間続いたのであった。

数年後の1966年、ハーバードの心理学者リチャード・アルパートは、LSD体験の意味を教えてくれるような聖者を求めて東洋へと旅立った。薬を試してみようという何人かと会い、彼はさまざまな興味深い反応を得た。ある賢者は、なかなかいいが、瞑想にはかなわぬと言う。もうひとり、チベットのラマ僧は、頭が痛くなっただけだと文句を言うのだった。

しかしアルパートが最も興味深いと思ったのは、ヒマラヤ山麓の丘陵地帯に住む年老いた小柄な聖者の反応だった。年の頃が60を超えていたため、最初アルパートはせいぜい50から75マイクログラム程度の穏やかな服用量を飲ませようと考えた。だが、彼はアルパートがもっていた比較的効き目の強い305マイクログラムの錠剤の方に興味を示したのである。あまり気が進まないながらもアルパートはそれを1錠手渡したが、彼はまだ満足していなかった。目を輝かせながらもう1錠を要求し、その後さらに1錠と、ついには合計915マイクログラムのLSDを舌の上に乗せ、それを全部飲みこんでしまったのである(この摂取量はどう考えてもけたはずれである。グロフが研究で使用した平均服用量が200マイクログラム程度だったのと比較してもそれがよくわかることと思う9.

肝をつぐしたアルパートは、この人がいつ腕を振り回して怪獣のごとく雄叫びをあげはじめるかじっと見守っていたが、彼は何もなかったかのように振る舞っていたのであった。1日中ずっとそれは変わらず、ときたま目をきらきらさせながらアルパートの方に視線を投げかけてきてはいたものの、その態度はいつものように静寂を保ち、何ものにも煩わされた様子は見られなかった。明らかにLSDは彼にはほとんど、あるいはまったく何の影響も与えなかったのである。アルパートはこの体験に大きく動かされ、LSDをやめると、名前をラム・ダスと変え、神秘主義者になったのであった。

このように、プラシーボをとることが本物の薬と同じ効果を産むこともあれば、本物の薬を飲んでも何の効果もないこともある。このような逆転現象はアンフェタミンを使った実験でも確認されている。

ある研究では、まずふたつの部屋にそれぞれ10人の被験者を置いた。最初の部屋では9人に対して興奮剤であるアンフェタミンを与え、10人目には睡眠薬であるバルビツール剤を与える。二番目の部屋ではこれを逆にする。どちらの場合でも、例外として選ばれたひとりも残りの者たちとまったく同じ挙動を見せたのである。最初の部屋でただひとりバルビツール剤を飲んだ者は、眠りに落ちるかわりに陽気になってしゃきしゃきと動き回り、二番目の部屋でアンフェタミンを飲んだ者は眠り込んでしまったのだ。また、興奮剤であるリタリン中毒にかかっていた人で、中毒の対象がのちにプラシーボに移行した例も記録に残っている。つまり、この人の医師が処方薬を黙って砂糖の錠剤に変えてくれたおかげで、通常リタリンをやめるときに起きる不快な禁断症状をまったく体験せずに済んだということだ。が、残念なことにこの男性は、なんとそのまま今度はプラシーボ中毒の衝動を見せるようになってしまったのである。

このような出来事はなにも実験の中だけに限られているわけではない。プラシーボは私たちの日常生活でも役割を演じている。カフェインをとると夜に目が覚めてしまうことがあるだろうか?研究によればカフェインに敏感な人にカフェイン注射をしても、もし自分でそれが鎮痛剤だと信じていれば、その人の目を覚ましておくことはできないという結果が出ている。風邪やのどの痛みが抗生物質のおかげで治った経験はどうだろうか?もしあるなら、あなたはプラシーボ効果を体験していたことになる。すべての風邪はウイルスによって引き起こされるもので、ある種ののどの痛みも同様だ。だが、抗生物質は細菌性の感染症に対してのみ有効で、ウイルス性感染には効果が無い。薬を飲んだ後に不快な副作用を体験したことはあるだろうか?メフェネジンという鎮静剤に関する研究では、被験者の10から20%が、吐き気、かゆみを伴う発疹、動悸などの不快な副作用を体験したが、これは本物の薬を与えられようがプラシーボだろうが同じことであった。同様に、新種の化学療法に関する最近の研究で、対照群、つまりプラシーボを投与された方のグループに属していた人の30%で髪が抜け落ちてしまったのである。だからもし化学療法を行っている人が知り合いにいるなら、自分で良い結果を期待して楽観的になるよう言ってあげるといい。心というのはことほどさように強力なものなのである。



プラシーボは、こうした力をかいま見せてくれるとともに、心身の関係の理解にホログラフィックな見方をもっと取り入れていく必要性を裏付ける材料にもなっている。健康問題、栄養問題のコラムニスト、ジェーン・ブロディーはニューヨーク・タイムズの記事でこう述べている。「プラシーボの効果は人体に関する『ホリスティック』な見方をはっきりと裏付けており、この見方は医学研究でも最近ますます注目を浴びてきている。この見方では、心と身体は絶えず相互作用を続けており、切っても切れないかたちで互いに絡み合っているため、別々の存在として扱うことはできないとしている」。

プラシーボ効果は、私たちが気づいているよりもずっと広範な形で影響をおよぼしているのかもしれない。これは、最近起きているどう考えても不可解な医学的現象にもその一端を見ることができる。ここ一年前後で多少なりともテレビを見たことがある人なら、アスピリンが心臓発作の危険性を下げる働きをするとうコマーシャルの洪水をまちがいなく目にしたことがあるだろう。これを裏付ける確定的な証拠は確かにかなりある。さもなければ、コマーシャルの医学的な宣伝文句の正確さには特にうるさいテレビの検閲担当者がそんなコピーの放映を許すはずがない。それはそれで良しとしよう。ただ、ひとつだけ問題のは、英国ではどうもアスピリンにはこれと同じ効果はないらしいということである。6年間にわたり、5139人の英国の医師を対象に行われた調査では、アスピリンが心臓発作の危険を抑えられるといった証拠は一切出てこなかった。調査のしかたに欠陥があるのだろうか。それとも、何か壮大なプラシーボ効果のせいなのか。事実はどうであろうと、アスピリンの予防策としての効果を信じるのをやめてはいけない。どちらにしても、信じることで命が助かるのかもしれないのだから。

源泉(ソース)であれ

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あなたが源泉になる



いつも覚えていてほしい言葉がある。
左腕の手首に刻み付けるといい。

源泉(ソース)であれ

誰かのための『源泉』になること。
何事も『私は源泉である』というところから始めるように。

人生にもっと魔法が欲しいなら、あなたが世界に魔法をもたらすのだ。
人生にもっと愛が欲しいなら、あなたがその愛をもたらし、
人生にもっと喜びが欲しいなら、あなたが喜びをもたらすのだよ。

自分の人生に望むものがあれば、人々の人生のなかであなたがその『源泉』となりなさい。

あなたの人生にもっとお金が欲しいなら、人々により多くのお金をもたらすこと。
あなたが欲しいものはなんでも・・・・もっと優しさが欲しいなら、もっと知恵が欲しいなら、もっと忍耐が、もっと理解が、もっと親切が、もっとセックスが欲しいなら、誰かの人生のなかで、その源泉になりなさい。

肝心なのは、この法則が本当におもしろいほどよく働くってことだ。
この『源泉』であることのプロセスと、本当のあなたである『ある』ことのプロセスが、あなたにぴったりの仕事、ライフワークを引き寄せる。
そうして世界は、あなたが長年必死につかもうとしていた報酬を降り注いでくれるのだ。

あなたの『すること』が、あなたの『存在』から湧き出してくるものであるように。

幸せであること。豊かであること。賢くあること。創造的であること。理解者であること。リーダーであること。
『あること』から始めて、そこからわいてくることをできるようにしよう。
そうすれば、あなたはライフワークを見つけるだけでなく、人生を創造することになる。
日々の生活ではなくて、本物の人生を。




私は、自分が浅見な人間だとは思っていない。
世界に不足や欠乏が蔓延しているのを知っているし、地球上に住む大部分の人々にとって『豊かさ』という言葉は、ほとんどの場合あまり意味をなさず、それより『生き残り』という言葉のほうに用があるということもわかっている。
それでも、世界がこんな状態である必要はない。
誰も、日々生き残るための心配などすべきではない。
基本的な人間としての尊厳を保つための、十分な食べ物、衣服、居住は、すべての人々に保障されるべきものだ。

人々が自分たちの持っているものを、自由に分かち合えないのも、(ごく少数の人間が世界のほとんどの資源を抱え込んでいる以上)無理はない。
多くの人々が『不足』だと信じ込んでいるのだから。
豊富に持っている人でも(たぶん多く持っている人は特に)、
『みんなで分け合うには足りない』と信じている。
言い方を変えれば、世の中の人たちが公平に分け合うとなると、今不当に多く持っている人たちは、自分たちの取り分が『十分』ではなくなると信じているのだ。

これはとても大切な問いにつながる。
『どれだけあれば十分なのか』
人生で最高の報いを得る者、魂の奥底から湧き上がるような至福の満足、偉大な人生を生きる者にとっては、いつでも、いかなる状態においても『今持っているもので十分』だ。
何も持たずに生きているスピリチュアルマスターたちは、何もかも断念しなければ幸福は得られないと言っているのではなく、幸福になるために物を持つ必要はない、と教えようとしているにすぎない。
崇高な魂のあり方を、そのまま物質世界での活動へと変換させるときにこそ、ライフワークが実現するのだ。

豊かさの本当の意味とそれを実現する方法について、みんながもっと学べることを願っている。
人が、持てるものとその存在自体を、自由に分かち合う方法を思い出せたら、そこにたどり着くことができたら、私たちは人生を、世界を、癒すことができるのだ。

祝福を!


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