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潜在意識の法則・想定の法則

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非二元
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思考の種類 非二元の見方

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自分が探し求めてきたものがわたし自身だということはわかるのですが、いまこの瞬間を本当に生きることを思考が邪魔しているようです。思考から自分を解放するいは、どうすればいいでしょうか?


思考には三つの種類があります。
1・実際的な思考。仕事や日常生活を送るのに便利なものです。例えば、「ガソリンを入れなくては」というもの。こういった種類の思考は抑圧すべきではありません。必要に応じて検討し対応すると、こうした思考は自然に離れていきます。

2・本源に関する思考、非二元の見方の理解に関する思考。例えば、「わたしはすでにわたしが探し求めているものである」というもの。これらの思考は本源から来るものです。これらを歓迎すると、二元性の条件付けから心を浄化し、次第にその源へと私たちを連れ戻します。明先さをもたらし、ほんとうの自分が本来もっている至福への伏線となります。

3・個という実体であるという観念に関する思考。願望、恐れ、疑い、夢想、その他、希望に満ちた考えといったもの。この三つ目の種類の思考は場合によっては無害なもので、初めは気づくのが難しいものです。強い感情は嫉妬や恐れといった悩みや不調和を生み出すので、気づくのが簡単です。また一方で、無意識のうちに好ましい考えにしばらく耽ることもあります。海辺のリゾート地で過ごす休暇を想像する、といったものです。

どのような種類の思考であっても、思考が自己実現の障害であると考えるのは、よくある間違いです。三つ目の種類の思考だけが、意識的完全であることを妨げます。この種の思考が持ち上がってきた時にできることが二つあります。

まだ自分が制限ある個という実体だと信じていて、このような思考に気付いたら、その元である自我までたどってみるべきです。それを捕まえてみようとすると、その思考は消え去り、ほんの短い瞬間のことに感じられますが、わたしたち本来の自由を体験します。このように真実の一瞥を得ると、自分は個という実体ではないということが分かります。一瞥が繰り返し起こることでこの事実は強まっていき、やがて確信となります。

自分が個という実体ではないことが確信になると、三つ目の種類の思考は通常、電源を抜いた直後のモーターが慣性で回り続けるように、しばらくの間は習慣として起こり続けます。この場合、これらの思考の原因を調べる必要はありません。それに気付いたらすぐに落とすことができます。

シュリ・ラーマクリシュナは、「玉ねぎが完全にむけると、すべての層がなくなり何も残らない。同じように、自我を分析すると何の実体も見つからない。不幸なことに、わたしはまだ何層か残っている!」と言いました。

最後の文章は、三つ目の種類の典型的な思考です。本源に関する思考とそれがもたらす平穏を楽しんでください。




空想することはいまから自分を引き話し、二元性へ陥れるので、常にネガティブなものだということでした。ですが、ケクレが空想している時にベンゼン環の構造を見出したように、空想は創造的でありえるのではないですか?

それは空想の例ではなくて、思考のプロセスがまったく自由にすべての可能性にわたって開かれ探索する、瞑想状態の例です。睡眠と目が覚めた状態を移行する間、通常は意志による作用が弱まる瞬間に、この創造的な状態を体験することがあります。この種の創造的な発見やインスピレーションを得る瞬間の例は、芸術や科学の分野で多く見られます。この状態では、個としての実体という観念が関わることがありません。ヴィジュアライゼーションや空間表現を通して開かれる自由な思考プロセスを見ている者としてあります。これらの思考はどんどん精妙になり、最終的には知性、存在、幸せに溶けています。この非体験から出てくると、科学者や哲学者は「わたしは理解した」と言い、芸術家は詩や交響曲を書き、一般の人は悩まされていた日常の問題に対する解決方法を見つけます。

この瞑想状態は、はじめは夢想状態として現れることがあります。この時、意識に現れる客体は精妙な性質のものだからです。心理的なイメージや思考であり、目が覚めている状態で知覚されるような外的な感覚認識ではありません。個人の不在により、この状態は瞑想状態になります。この状態の主体は、何かを行ったり、楽しんだり、苦しんだりする個人としてはこの状態にありません。この主体は純粋に見ている者です。この状態は瞑想への自然な入口を教えてくれます。目が覚めた後にも、まだこの以降状態にあることがよくあります。目が覚めている状態の客体に関する心配事に心が捕まるままにするのではなく、この以降状態の香りを目が覚めている状態に浸透させることができます。言い換えれば、熟睡状態の平穏と自由の記憶に留まり、個の平穏が受け入れてくれる間はそのままでいると、目が覚めている状態というのが文字通り「自分の内で目を覚ます」のであり、以前信じていたように、わたしたちがその内で目を覚ますのではないことが、ますます分かるようになります。しばらく経つと、日常の活動の間にこの平穏の背景が途切れずにあることを感じるようになります。

これとは対称的に、空想というのは実際に現在、起こっている生活の場面から個という実体が逃げるための一種の心理的な活動です。この種の考えは通常気づかれることがありません。なぜなら、ほかの形の自我的思考や、怒りや憎悪、嫉妬、ねたみ、強欲といった感情と違い、社会的な調和を乱したり、心理的な苦悩を引き起こさないからです。どのみち自分を個人として捉えることは、この西洋文化ではよいものとして受け取られていて、そうするように強く勧められており、空想は無害であるとされています。このため、この活動は自我にとって格好の隠れ場所になっているので、真剣に真実を探求する者であれば、この問題を意識する必要があります。



瞑想中に心が静かになったとき、感覚認識がまだあることに気付きます。矢をつくる人の話がありますが、この人は外を通る王様の結婚パレードに気付かないほどの完璧な注意力をもっていました。この点ではどうなのでしょうか?わたしの瞑想は間違っているのでしょうか?

瞑想には二種類あります。客体との瞑想と、非客体(非二元性)の瞑想です。

一つ目の瞑想では、粗いものであろうと精妙なものであろうと、神の像や心理的なイメージ、さまざまな身体的感覚、聖なる者の流れや概念といった特定の客体に注意を集中します。このプロセスでは、普段、願望の対象となるものから注意力をはずすための努力が必要ですが、成功すれば、自我が弱まったような印象を得ます。王様の結婚行列が通って行く最中でさえ、心は客体に集中し、静寂や瞑想の客体に関するものとは別の感情や思考の不在を体験します。しかしながら、ここで体験するサマーディ(三昧)は、心が創り出した状態であり、始まりと終わりがあるのです。遅かれ早かれ、ヨギはサマーティから出てこなければなりません。残念ながら、恐れや願望や痛みの行列と共にまだ自我はあります。

客体と共にする瞑想で特別な形態は、客体が空や虚空のものです。このプロセスでは、心に思考や感覚が入らないようにするという努力をします。これを達成するために、聖なる句を繰り返したり、呼吸制御の方法といったツールが使われることもあります。客体と共にする瞑想はどれもそうですが、一時的な自我の弱体化が続いて起こり、体験の性質と深さによりますが、心はしばらくの間、思考と感覚の不在、あるいは単に思考の不在という空白の状態を体験します。ですが、これもまた心が創り出した始まりと終わりのある状態です。この形態の瞑想が非客体の瞑想だと、間違って信じられていることがよくあります。客体(感覚、思考)の不在はとても精妙に投影されていますが、依然として客体なので、それは間違いです。この状態は一時的にいくらかの満足感を与えてくれるかもしれませんし、また心の力を爆発させることさえあるかもしれませんが、実を結ぶことはありません。瞑想者は心という檻に閉じ込めらたままで、ハートの充足は知らずにいます。この状態には自然な非二元の状態がもつ絶対的な自由、創造的な楽しみ、不死という素晴らしさが欠けているのです。

非客体の瞑想では、非客体、つまり本源的な対象である意識に注意が引きつけられます。これは理解の結果として自然発生的に起こります。最初の段階では、真実の探求者は自分が本当に求めている幸せ、指導者と共にいるときに体験する理由なき至福は非客体であること、つまり、「粗いものであろうと精妙なものであろうと、何の客体にも閉じ込められていない」ことに気付くように求められます。これが理解されると、精神機能(思考や感覚認識)を把握することしかできない心は、客体ではない世界を手にできないと認識します。つまり、心によって幸せを守ろうという試みは、失敗する運命にあることを理解します。結果として、心はすぐに静寂という自然な状態にあるようになります。この自然な形態の瞑想では、感覚や思考を求めることも避けることもしません。単に迎え入れられ、見送られます。感覚認識、体感覚、感情、気持ち、思考に完全に開いているというこの状態は、完全な解放性と説明してもよいかもしれません。

こういった精神機能は、劇中のさまざまな登場人物に例えることができます。その劇が面白いうちは、前面に立つ役者にわたしたちの注意は完全に引きつけられます。ですが、つまらなくなると注意力が次第に拡がり、舞台である背景に気づくようになります。同じようにして、わたしたちの注意力が拡がって地球ほどの大きさになり、集中することなくオープンで無関心になると(この無関心さは、これらの精神機能が真の幸せという点では何ももたらすものがないという理解から生まれるものですが)、急に意識という背景に気づくようになり、これがわたしたちの求めている本源的な永遠性、壮麗さ、幸せだということが明らかになるのです。

セットの背景に気づくために、役者が舞台から降りる必要はありません。同様に精神機能の不在は、わたしたちの本性を知るのに必要条件ではありません。ですが、役者がいなくなり注意力が拡がると、背景に気づく機会を得ることができます。同じようにして、精神機能が意識と一体となるときにほんとうの自分を意識的に体験する機会を得ることができます。

背景と一体になった者のもとで「手ほどき」を受けることで、非客体の瞑想の実質である迎え入れる姿勢は、簡単かつ自然に真摯な真実の探求者へ伝えられます。










自我 真の自己

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あなたにお会いすることで、何を得られるでしょうか?

何も期待しない、ということを学ぶつもりでいてください。求めないということは、偉大な芸術です。求めながら生きることをやめると、新しい次元を生きることになります。わたしたちは自由です。わたしたちの心も自由です。わたしたちの体も自由です。そうなっていく過程で、自分というものが心でも体でもないという知的な理解は第一歩として必要なものですが、充分ではありません。わたしたちが体ではないという事実が、体の筋肉、内臓、細胞にまでも浸透し、これらを解放する実際の体験にならなければなりません。突然、一瞬の間に起こる、自分の本質に対する認識を知的に理解すると、純粋なよろこびの光が放たれますが、自分が体ではないということを全面的に理解した時、わたしたちはよろこびそのものになります。

自分が体ではないというのは、どのような感覚なのでしょうか?

幸せは誰もが体験したことがあるものですが、幸せを感じる時、同時に軽くなり拡がっていく感覚があります。体がこのように感じ取る前に、時間を超越した状態、混じり気がなく、理由のないよろこびの状態があったのであって、体の感覚はこの状態の最終的な結果にすぎません。よろこびが、よろこびそのものに気付いたのです。わたしたちはこの瞬間、空間に縛られた体ではなく、ひとりの人間でもありません。自分自身をこの瞬間という直接性の内に知ります。原因のないこの至福を、わたしたちはみんな知っています。わたしたちの体と呼ぶものを深く探ってみると、その実質がまさにこのよろこびであることがわかります。わかってしまえば、外側にある対象に幸せを見つける必要も、嗜好も、可能性すらもはやありません。

この深く探るというのは、どのようにするのでしょうか?

あなたに現れる体感覚や感情を拒否しないことです。なんの目的もなく、意志によって邪魔することもなく、気づきの中で充分に花開かせてください。それが進んでいくと、筋長力に閉じ込められた潜在エネルギーが解き放たれ、心身相関システムのダイナミズムは使い果たされ、基礎的な安定性が回復します。この体感覚の浄化は、すばらしい芸術です。これには忍耐と意志の強さ、それに勇気が求められます。周囲の空間に体が次第に拡大し、同時にこの空間が体細胞構造に浸透することで、感覚の次元でこの浄化が表出します。この空間とは、ただ対象がない状態として感じ取られるのではありません。知覚によって捕らわれていた意識が知覚から解放されると、自ら光を放って輝く空間が意識なのであり、それが体の真の実質だということが明らかになります。この瞬間、体と空間という二元性はなくなります。体は宇宙の大きさまで拡大し、有形・無形のすべてをハートにおさめます。体の外にあるものなど、何もありません。わたしたちは皆このよろこびの体、目覚めた体、万物をよろこんで受け入れる体をもっているのです。わたしは皆、完全であり、欠けているものなどありません。あなたの王国を探検して、それを意識的に手にしてください。制限ある体などというみじめで壊れやすい小屋の中で生きるのは、もうおしまいにしてください。


静寂の瞬間にこの領域を垣間見たことがあります。ですが、すばらしくもなく平和でもない仕事に行くと、穏やかさはすぐに消えてしまいます。いつも落ち着いているには、どうすればよいでしょうか?

気付きに現れるものはすべて、気づき以外の何ものでもありません。仕事仲間、客先、上司、まったくすべてがそうです。建物、各、設備もそうです。まずこれを知的に理解して、それが正しいかどうか確かめてください。そのうちに、この親密な感覚、この慈しみに満ちた空間が周囲に常にあるようになります。こうして、たとえ人でいっぱいの駅の待合室にいたとしても、どこであってもくつろいでいられるようになります。過去か未来に思いを馳せるときだけは、そこからいなくなりますが。そんな粗末な小屋に留まっていないでください。この果てしない広がりは、まさに今ここであなたを待っています。すでにそれがあることを知っているのであれば、見えているものの根底にある調和を味わったことがあるのなら、外部世界に対する知覚と体感覚を、両手を広げて待っているあなたの気づきの中で自由に開かせてください。すると、この広大な背景が自然に現れる時が来ます。 この見方の逆転は、20世紀初めによく描かれ、子供たちにはなじみのある絵、木が急に天使の顔になって見える絵によく似ています。はじめは木だけしか見えません。絵の下にある説明書きを読んで天使が木に隠れていると知ると、葉の部分を綿密に調べて天使を見つけようとします。絵の秘密を暴くには、天使がいること、天使が隠れている場所、これらを知っていることと、イメージが組み立て直され木の形が変わって天使の顔になることを一度体験していることが大切なのです。方法が確かなものになるとすぐ、その後の見方の逆転はどんどん簡単になり、天使と木が同時に見えるようになります。同じようにして、一度自分の本質を知ると、残っている無知と目覚めの区別はどんどんあいまいになり、根本的な存在の「あるがまま」に明け渡すようになります。


自分の体のなかで固まって動けないように感じ始めています。感覚や印象は、ほかの人のもののようです。

固まって動けない感じというのは、どのように現れますか?

自分のプライドと感情で催眠をかけられているように感じます。特に怒りと、体の興奮です。

そうですね。催眠にかかっていると気づけばすぐに、催眠は解けます。

どうやってですか?よくわからないのですが。

誰が催眠にかかっているのか、聞いてください。深く問いかけるのです。これは誰なのか?どこにあるのか?そのような実体は見つからないことに気付くと思います。心と体を探ってみれば、自分だとしている概念をいくつか見つけるでしょう。例えば、「わたしは女性だ」、「わたしは人間だ」、「わたしは弁護士だ」といった具合に。体に何かしらの感覚があるかもしれません。より不透明で、より固まっている箇所、これも自分だとしている箇所です。ですが、もっとよく見てみると、胸にあるこの感覚や、女性だと思っているその考えは、自分ではないということがはっきりします。感情と思考はやって来ては去っていきますが、本当のあなたとは不変なものだからです。まさにこの瞬間、催眠は解けます。これらの思考や感情が起こることは、あなたがそれらを自分自身だとしてしまうほど問題ではありません。至高や感情に気がついたらすぐに、自分自身と距離を保つのです。あなたは自由です。この自由の中では、自分自身をどこにも置きません。この非局所性に留まり、古いアイデンティティがなくなるとすぐに他の新しいものを手にするという、当たり前の習性に従わないことが大切です。ほかの木の枝をつかむまでは今もっている木の枝を放さない猿のようにならないことです。 このように頑張ることなく、執着することなく、漂いながら生きることがどれほどすばらしいものかおわかりになると思います。はじめのうちはちょっと変な感じがしますが、この新しい姿勢は何も邪魔することがありません。今までどおりに母親や弁護士といった機能を果たすこともできますし、体を感じることも、あらゆることがそのままです。つまるところ、無となってあてもなく漂うことは、非常に実際的なのです。人生をものすごくシンプルにします。ただ理解することだけで満足しないでくださいね。この理解を実践してください。誰にもならないことを試してみてください。木の枝を手放して。

こうしてみたあと、自分の体に戻って日常を過ごすのは難しくないですか?

あなたは自分の体の中にいたことがありません。なので、体に戻るという問題は出てきません。あなたの体はあなたの中にあります。あなたがその中にいるのではありません。あなたの体は、一連の感覚的な知覚や概念としてあなたには見えています。体を感じたり、体について考えたりする時、あなたは体をもっていることに気付きます。こういた知覚ゃ思考や、純粋意識であるあなたの内に現れます。知覚や思考の中にあなたが現れるのではありません。ご両親や先生方、あなたが生きてきた社会のほぼ全体から教えられてきたのとは、逆なのです。実際の体験とは矛盾するのですが、実際の体験とは矛盾するのですが、あなた、つまり意識はあなたの体にあり、意識とは頭脳、あなたの体の器官から生じる機能だと教えられてきましたね。こういった信念に疑問を持ち、自分の経験という生のデータに問いかけてみてください。子供の頃、このような人たちから与えられた幸せへのレシピを覚えているでしょうか。頑張って勉強し、よい仕事に就き、自分にふさわしい男性と結婚する、などなど。こういったレシピがうまくっていたらなら、あなたはここにいて、いろいろな質問をすることもなかったでしょう。こういったものは誤った現実の見方によるものなので、うまくいきません。この見方に疑問をもってみてください。 それと、あなたが体や心に現れているのか、それとも逆に、あなたに体や心が現れているのか、確かめてください。これは木に天使を発見するような、逆転の見方です。初めは変化がごく小さいように感じるかもしれませんが、実は想像もつかない、無限の結果をもたらす革命なのです。木が本当は天使かもしれないという可能性を素直に受け入れるのであれば、天使は姿を現わし、あなたの人生は奇跡となります。

ハートから直観的に生きることについて教えてください。

個人にならないことです。何にもならないことです。自分が誰でもないということを理解し、この知識に沿って生きることです。ひとりの人間であるという考えや感覚が自分をだますことがなくなれば、考えていようがいまいが、何かをしようがしなかろうが、満ち足りたハートから真実を生きるようになります。

この時点で、わたしは自分自身と世界と正しい関係にありますか?

ええ、もちろんです。それも含めて、正しい関係にあります。世界というのはあなたの体と心と同じく、あなたの本性に含まれています。愛とは包みこむことです。理解することは中間段階ですが、最終目的地、真実のセンターはハートです。



ハートとは、ある木の枝から次の木の枝の間にあるものなのでしょうか?お猿さんの比喩で言うと。


あなたが執着している木の枝を、ほかの木の枝をつかまえることなく手放すと、あなたはハートに落ちます。死ぬという意志が必要です。あなたが知っているすべてを落としてください。あなたが習ったこと、もっているもの、あなたの人生を含め、少なくもこの段階であなたが自分の人生と考えるすべてを。これには勇気がいります。ある種の自殺ですから。


本当にそういうものなのですか?例えば、ご自身の認識が高まった瞬間を覚えていらっしゃいますか?

覚えています。


それはこんなふうだったのですか?

そうです。


ありがとうございます。それより前に、どんなことが起こるのかわかっていましたか?

はい、といいえ、両方ですね。招かれていると感じていたので、それはありました。いいえ、というのは、その時が来るまで、わたしは相対的な幸せ、相対的な真実、相対的な知識しか知らず、絶対的なもの、言葉を超えたものは想像するのみでした。自己とは、すべての概念、すべての投影を超えています。それなので、わたしたちは自己に向けて自分自身の力でもって舵取りすることはできなく、それが自分を迎え入れてくれるのを待たなければならないのです。ですが、自己がわたしたちを招く時には、ためらいなく、よろこびをもって「イエス」と言わなければなりません。決定権はわたしたちにあります。これはわたしたちが真に選択の自由をもっている唯一の決断です。


わたしがこの招きに応じることをためらっている理由のうちのひとつは、これによって私の人生が根底から覆されることが怖いからです。


ああ、そうですね、そうなります。


わたしの家族も、ですか?

あなたのご家族も、です。すべてが変わります。


ほかの人たちがわたしから去って行ってしまうのが怖いのです。

何も後悔されないことは、お約束できます。


招かれながらも拒否することはできますか?

できます。あなたの自由です。


また招かれることはありますか?

あります。覚悟しておいてください。それに応じられるように。キングを手にするのに自分でできることは何もないということを理解していれば、応じることができます。完全に無力であることを認めてしまえば、あなたは空っぽの部屋になります。空っぽの部屋になるとすぐに、あなたは聖域になります。そうしてキングは入ってくることができ、王権をもって不死の現存という美であなたに祝福を与えるのです。



自分にくっついている自我(エゴ)をなくすために、自分でできることは何もないとおっしゃいましたが。

自分自身であるとあなたが信じているひとりの人間、つまり欠けた断片であるものができることは、何もありません。



霊的な実践はすべて、自分がそれを信じている限りを用をなさないということをおっしゃっているのですか?

そのとおりです。身体的・精神的存在であるという考えから生まれた実践は、霊的とは呼べません。それは、現実から自分を引き離すことを習得するプロセスです。真に自分であるものは習得できません。あなたはすでにそのものだからです。自我は変わっていくものです。感情、体感覚、そして反応に付随する思考を繰り返すのが自我です。音楽の美しさや、壮麗な夕日、愛の行為の繊細さなどに感動した時、自我はいなくなります。この瞬間、あなたはすべてを受け入れ、欠けているものはありません。ひっきりなしに新しくてもっとすばらしいものを手に入れてコレクションの価値をあげていくコレクターのように、あらゆる訓練をすることで自我を高めようとすれば、どんどんそれに執着し、不満足に終わって孤独に生きるようになります。


この自我の喪失は、段階を追っていくものですか?それとも突然起こりますか?

あなたはすでに自分が誰なのかを知っています。もっとも深遠な現実への興味がまだ目覚めていない人であっても、よろこびの時を知っています。こういった瞬間、自我はありません。よろこびは、本当の自分、つまりよろこびそのものから発します。誰もが喜びを直接、認識します。自己が自己を知るものが、自己そのものです。存在だけが、存在を手にできます。よろこびだけがよろこびを、永遠だけが永遠を手にできるのです。こういったわたしたちの真の存在やよろこび、永遠がないという誤った考えがエデンの園からわたしたちを追い払い、狂わんばかりの探究に押しやります。存在性への自我の回帰は、一時的な観点では、突然の啓発に続いて起こったあきらめのように見えますが、これが探求と精神錯乱を終わらせます。


この回帰とは、何をもって起こりますか?

あなたが質問された次元では、この質問に対する回答はありません。なぜなら、結果はすでに原因の内にあり、原因は依然として結果の内にあるからです。あるおとぎ話しでは、乞食が実は王様の息子だということを、魔法使いに告げられます。思いがけないように思われる出会いが、わたしたちの真のアイデンティティを明らかにするのです。このよい知らせ、正しい言葉の意味における讃美歌とも言えますが、これを告げられることでわたしたちの存在の深みで深遠な本能がとどろき、本源へと続く道へとわたしたちを向かわせます。この内面的な動きは幕で覆い隠されたほんとうの自分に向かっており、共にやってくるよろこびあふれる穏やかさの気配が、わたしたちの切望を未知の方向へ向けます。この認識は、客体や世俗的な現実には関係がありません。記憶や時間の次元にはないのです。そのためこの恩寵は忘れることができません。この恩寵は以前よりもよりしきりにわたしを誘うようになり、それに気づくたび、絶対なるものへの切望が高まります。寒い冬の夜、道に迷った人が宿屋の赤く染まる窓を見て中には火があると知り、ドアを開けてしばらくの間、炉辺で身を暖めるように、わたしたちは聖域に入り、しばらくの間、聖なる光の温かさにくつろぎ、そしてまた夜の中へ戻っていきます。最終的には、絶対なるものへわたしたちの願望が死の恐怖に打ち勝ち、ひとりの人間としてある自分という偽りを、無限の意識という火に捧げるのです。それからは、目覚めを妨げるものはもはや何もなく、タブリーズのシャムスの視線が、「はかないものに投げかけられる時にはいつも、それが永遠であるものとみなされた」ように、この火は次第に現象界にあるものすべての面を輝き照らすようになり、その場限りではない根底にある現実が少しずつ明らかになります。



真実を見ることへの恐怖を克服するにはどうすればよいですか?これがわたしの本質を知る妨げになっています。

まず、この本能的な恐怖に気付いていることを、喜んでください。ほとんどの人がこれを抑圧し、避けています。孤独な時や何もしていない時にこの恐怖が顔を出し始めるとすぐに、テレビをつけたり友人に会いに行ったり、何かしらするように自らを駆り立てます。恐怖を発見することはそれゆえに、重要なはじめの一歩です。


発見したかどうかはわかりません。もしかしたら、ただ恐怖があることを感じ取っているだけかもしれません。

それと共に生き、興味を持ち、押さえつけることはしないでください。恐怖を慈しむ姿勢を身に着けてください。これがやって来ては去っていくままにさせるという姿勢です。思考と体感覚が混じり合っているそのままを受け止めてください。「誰が怖がっているの?」と尋ねてみると、恐怖の思考が離れていくのが分かると思います。部分的な不安、つまり、身体的な次元にある怖さの感覚だけを残して、恐怖は消え去ります。残されるものは基本的に、あなたが見物人であるお芝居のみです。これを注意深く観察してください。あなたの反応、逃亡、、否定を、観察してください。否定していることを認識するのは、何が来ようと受け入れるということの第一歩です。このようにして、黙想者としての立場をとるようになりますが、いずれにしてもこれがあなたの自然な立場なのです。 こうして、すべては自然に開かれています。恐怖とはあなたの自我です。思考や体感覚としてあなたが連れて歩いている怪物のことです。あなたにふさわしいよろこびの領域からあなたを引き離す高利貸のことです。その全体を見てください。たとえ恐ろしげに見えたとしても、恐がらないでください。絶対なるもの、自由への渇きから、恐怖を見る力を引き出してください。それを感じ始めたら、こう考えてください。「恐怖よ、こっちにおいで。出ておいで。ゆっくりしていっていいんだよ。でも、きみはわたしには手が届かないけれど」この方法の効果性は、恐怖とは認識されるものであって、それゆえに限界があるという事実にあります。世界一長い蛇であっても、どこかに尻尾はあるのです。高く生い茂った草陰から全部出てきたが最後、全体像が見え、もうそれ以上、不意に攻撃されることはなくなり、あなたは危険から逃れます。同じように、あなたの恐怖の全貌を目にすれば、隠された部分がまったくなくなれば、恐怖だとしている部分があなたの中にないということです。あなたから引きはがされた客体になります。自我が養われてきた無知のへその緒は、これ以上、機能することがありません。この「ワタシ」という亡霊は栄養源を断たれ、生存できなくなります。永遠の自由という爆発の中で命を落とすのです。



もっとも深遠な現実を認識すると、この認識の記憶はずっと残ります。自我が介入してきたときに気づくようになり、自我が距離を保つようにしつけることで、自分自身にもっとオープンになるようになります。これについて、意見を聞かせてください。

自我をしつけたり消したりしようとするのは役に立ちません。自我をしつけたりなくしたりする時、これをしているのは誰ですか?

自我が自我自身を消しています。

そんなことができるでしょうか?そうすることで逆に自我を生き残らせています。自我は、それに注意を向けている限りにおいては、障害です。自我とその喪失というネガティブな面からこの探求に取り組むよりも、むしろポジティブな面から始めてください。あなたのいう認識は、あなたの内に充足感の記憶を残します。これは非心理的な体験の記憶です。客体の要素をただ記録することしかできない記憶から来るものではありません。この記憶が導くままにいれば、これに応じ、その呼びかけに自分自身をまるごと投げ出すことを受け入れるのであれば、あなたに起こるこの神聖な感情が時を超えた現存の入口へ直接、あなたを導くでしょう。この記憶と共に生きてください。これを認識する前や後にあった客体の状況については忘れて、その記憶自体は忘れずにいてください。最も大切なもののように愛し、それが生まれた源はいつも今ここにあることを覚えておいてください。いま、ここだけが、それを見つけられる唯一の場所です。思考でもなく、思考の前でも、それについて考える前でもありません。これらについて考えるなんてことは、しないで・・・、



ただ、あるがままにしておくと・・・。

これについて話さないで、公式化しないこと。評価もしないことです。思考の介入は、これからあなたを引き離します。努力はしないでください。あなたはすでに努力しすぎています。努力は無駄です。身をゆだねて、すでにあなたであるもの、完全な静寂でいてください。

プラシーボ効果

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プラシーボ プラシーボ効果 アスピリン 心臓発作 ガン 腫瘍 薬 LSD プラシーボ・トリップ ウイルス 抗生物質 鎮静剤 メフェネジンカフェイン

熱いストーブの上の雪の玉のように溶けてなくなる腫瘍



これまであげてきたような要素がプラシーボ効果において演ずる役割を理解することは重要である。なぜなら、それはボディ・ホログラフィックをコントロールする私たちの能力が、自分の信念にどれほど深く影響されるかを示しているからだ。私たちの心には、イボを消し去り、気管支を通し、モルヒネの鎮痛効果を再現する力がそなわっているというのに、それをもっていることを自覚していないため、私たちはだまされでもしなければ、その力を使えないのである。自分のもつ力に無自覚であるためにしばしばおこる悲劇さえなければ、これはほとんど笑ってしまうような問題なのかもしれない

この点を如実に示す例としては、心理学者ブルーノ・クロッファーがあげる、いまではよく知られているある患者のケースほど適切なものはないだろう。クロッファーは、かなり進行しリンパ球のガンに冒されていたライトという名の患者を治療していた。通常の治療手段はすべて使い果たし、ライトに残された時間はわずかしかないように思われた。首、脇、腹部、脚の付け根のすべてにオレンジ大の腫瘍ができており、脾臓、肝臓の肥大がひどく、胸部から毎日2リットル近くの乳状の液体を吸い出さねばならないほどだった。

だがライトは死にたくなかった。彼はクレビオゼンというかなり効くらしい新薬のことを聞きつけて、ぜひ自分に試してほしいと医師に懇願したのである。当時この薬は寿命が最低三か月は残されている人たちだけに試験的に投与されていたものだったので、医師は最初これを拒んだ。だがライトがけっして譲ろうとせずに懇願しつづけたため、医師はついにこれを聞き入れた。彼は金曜日にこの薬をライトに注射したが、心の奥底ではライトが週末を越せるとは思っていなかった。そして医師は家路についたのだ。

驚いたことに、明るく月曜日、ライトはベッドから出て、歩き回っていた。クロッファーの報告によれば、ライトの腫瘍は「熱いストーブの上の雪の玉のごとく溶け去って」、大きさも以前の半分になっていたのである。これは、最も強いX線を使った治療で達成できるよりもはるかに速い退縮のスピードである。ライトが最初にクレビオゼンの投与を受けてから10日後、彼は退院し、医師団が見るかぎりガンはなくなっていた。入院したときには呼吸するのに酸素マスクが必要なほどだったが、退院時にはすっかり元気になり、自家用飛行機を自分で操縦して4000メートルの高度まで上昇してもなんともないくらいになっていたのである。

ライトは2か月ほど健康状態を保ったが、その頃から、クレビオゼンは実はリンパ球のガンに対しては効果が無いのだと主張する記事が現れはじめた。あくまで論理的で科学的な考え方の持つ主だったライトはひどく落ち込み、ガンが再発して再び入院することになった。今回は担当医師はある試みをしてみることにした。彼はライトに対し、クレビオゼンには実際に当初思われていたとおりに薬効があるのだが、最初に納入されたものは、流通の過程で品質が劣化していたのだと告げたのである。しかし、有効成分を多く含む改良した新製品があるので、これを投与できる、と医師は説明した。もちろん新クレビオゼンなどは存在せず、ライトにはただの水を注射しようと医師は考えていた。それらしい雰囲気を出すため、ライトにプラシーボを注射する前に、わざわざややこしい手順をあれこれ行うことまでやった。

またしても結果は劇的なものとなった。腫瘍のかたまりは溶け去り、胸部の液体も消えて、ライトはすぐにもとの元気を取り戻した。その後さらに2か月間、ライトは症状なしで過ごしたが、今度はアメリカ医学協会が、アメリカ全土で行われた研究の結果、クレビオゼンはガンの治療には効果が無いことが判明したと発表したのである。今度という今度はライトの信念も完璧に打ち砕かれ、ガンがまた新たに広がり、彼は二日後に死を迎えたのである。

ライトの話しは悲しいものではあるが、そこには強力なメッセージが隠されている----信じまいとする自分を飛び越えて内なる治癒力を喚起するという機会に恵まれれば、私たちには一夜にして腫瘍を溶かし去ってしまうことさえできるのだ。

クレビオゼンの場合に関わっていたのはひとりだけだったら、もっと多くの人たちが関係する似たようなケースも数多くある。シス・プラチンとよばれる化学療法の作用薬剤の場合を考えてみるといい。シス・プラチンが最初に発表されたとき、これもやはり驚異の新薬として称賛され、この薬を飲んだ人の75%に効果が見られた。だが当初の興奮の波が収まり、その使用も日常化するにつれて、効く人の割合も25ないし30%前後まで落ちてしまったのである。明らかに、シス・プラチンから得られていた効能のほとんどはプラシーボ効果によるものだったのだ。




薬は本当に効くのか



このような出来事は重要な問題を提起している。もしクレオビゼンやシス・プラチンのような薬がその効能を信じている間は効き、信じるのをやめると効かなくなるとしたら、一般に薬というものの本質についてこれはいったい何を物語っているのだろうか。たとえば、ハーバード大学医学部のハーバート・ベンソンが指摘することだが、蛭に血を吸わせることからトカゲの血を飲むことまで、今世紀以前に処方されてきた処置の大多数は役に立たないものであったが、プラシーボ効果のおかげで、なんらかの効果をもたらすことも少なくともときにはあったのである。

ベンソンは、同じくハーバードのソーンダイク研究所のデイヴィッド・P・マコーリー・ジュニアとともに、狭心症に対して現在まで行われてきたさまざまな治療処置に関する研究を調べてみたのだが、そこで発見したことは、いろいろな治療法が現れては消えていったものの、現在すでに有効性がないとされているものを含め、成功率は常に高いままで推移してきていたことは明白だが、今日でもまだその役割は続いているのだろうか。答えはどうもイエスのようである。アメリカ連棒政府の技術評価局の概算によると、現在行われている医療薬の75%は、その有効性をチェックするための充分な科学的調査を受けていない状態であり、この数字を見る限り、医師はいまでもプラシーボを与えていながらそれに気づいていないという可能性を示唆しているのだ(ベンソンも同意見で、多くの一般市販薬は、少なくとも基本的にプラシーボとして機能していると考えている)。

1962年に行われた研究で、ハリエット・リントン、ロバート・ラングス両博士は、被験者にこれからLSDの影響を調べる実験に参加してもらうと言っておいて、かわりにプラシーボを与えた。それなのにプラシーボを飲んでから30分後、被験者たちはコントロールを失ったり、存在の意味についての洞察らしきものを思いついたりという、本物の薬の典型的症状を体験しはじめたのである。この「プラシーボ・トリップ」は数時間続いたのであった。

数年後の1966年、ハーバードの心理学者リチャード・アルパートは、LSD体験の意味を教えてくれるような聖者を求めて東洋へと旅立った。薬を試してみようという何人かと会い、彼はさまざまな興味深い反応を得た。ある賢者は、なかなかいいが、瞑想にはかなわぬと言う。もうひとり、チベットのラマ僧は、頭が痛くなっただけだと文句を言うのだった。

しかしアルパートが最も興味深いと思ったのは、ヒマラヤ山麓の丘陵地帯に住む年老いた小柄な聖者の反応だった。年の頃が60を超えていたため、最初アルパートはせいぜい50から75マイクログラム程度の穏やかな服用量を飲ませようと考えた。だが、彼はアルパートがもっていた比較的効き目の強い305マイクログラムの錠剤の方に興味を示したのである。あまり気が進まないながらもアルパートはそれを1錠手渡したが、彼はまだ満足していなかった。目を輝かせながらもう1錠を要求し、その後さらに1錠と、ついには合計915マイクログラムのLSDを舌の上に乗せ、それを全部飲みこんでしまったのである(この摂取量はどう考えてもけたはずれである。グロフが研究で使用した平均服用量が200マイクログラム程度だったのと比較してもそれがよくわかることと思う9.

肝をつぐしたアルパートは、この人がいつ腕を振り回して怪獣のごとく雄叫びをあげはじめるかじっと見守っていたが、彼は何もなかったかのように振る舞っていたのであった。1日中ずっとそれは変わらず、ときたま目をきらきらさせながらアルパートの方に視線を投げかけてきてはいたものの、その態度はいつものように静寂を保ち、何ものにも煩わされた様子は見られなかった。明らかにLSDは彼にはほとんど、あるいはまったく何の影響も与えなかったのである。アルパートはこの体験に大きく動かされ、LSDをやめると、名前をラム・ダスと変え、神秘主義者になったのであった。

このように、プラシーボをとることが本物の薬と同じ効果を産むこともあれば、本物の薬を飲んでも何の効果もないこともある。このような逆転現象はアンフェタミンを使った実験でも確認されている。

ある研究では、まずふたつの部屋にそれぞれ10人の被験者を置いた。最初の部屋では9人に対して興奮剤であるアンフェタミンを与え、10人目には睡眠薬であるバルビツール剤を与える。二番目の部屋ではこれを逆にする。どちらの場合でも、例外として選ばれたひとりも残りの者たちとまったく同じ挙動を見せたのである。最初の部屋でただひとりバルビツール剤を飲んだ者は、眠りに落ちるかわりに陽気になってしゃきしゃきと動き回り、二番目の部屋でアンフェタミンを飲んだ者は眠り込んでしまったのだ。また、興奮剤であるリタリン中毒にかかっていた人で、中毒の対象がのちにプラシーボに移行した例も記録に残っている。つまり、この人の医師が処方薬を黙って砂糖の錠剤に変えてくれたおかげで、通常リタリンをやめるときに起きる不快な禁断症状をまったく体験せずに済んだということだ。が、残念なことにこの男性は、なんとそのまま今度はプラシーボ中毒の衝動を見せるようになってしまったのである。

このような出来事はなにも実験の中だけに限られているわけではない。プラシーボは私たちの日常生活でも役割を演じている。カフェインをとると夜に目が覚めてしまうことがあるだろうか?研究によればカフェインに敏感な人にカフェイン注射をしても、もし自分でそれが鎮痛剤だと信じていれば、その人の目を覚ましておくことはできないという結果が出ている。風邪やのどの痛みが抗生物質のおかげで治った経験はどうだろうか?もしあるなら、あなたはプラシーボ効果を体験していたことになる。すべての風邪はウイルスによって引き起こされるもので、ある種ののどの痛みも同様だ。だが、抗生物質は細菌性の感染症に対してのみ有効で、ウイルス性感染には効果が無い。薬を飲んだ後に不快な副作用を体験したことはあるだろうか?メフェネジンという鎮静剤に関する研究では、被験者の10から20%が、吐き気、かゆみを伴う発疹、動悸などの不快な副作用を体験したが、これは本物の薬を与えられようがプラシーボだろうが同じことであった。同様に、新種の化学療法に関する最近の研究で、対照群、つまりプラシーボを投与された方のグループに属していた人の30%で髪が抜け落ちてしまったのである。だからもし化学療法を行っている人が知り合いにいるなら、自分で良い結果を期待して楽観的になるよう言ってあげるといい。心というのはことほどさように強力なものなのである。



プラシーボは、こうした力をかいま見せてくれるとともに、心身の関係の理解にホログラフィックな見方をもっと取り入れていく必要性を裏付ける材料にもなっている。健康問題、栄養問題のコラムニスト、ジェーン・ブロディーはニューヨーク・タイムズの記事でこう述べている。「プラシーボの効果は人体に関する『ホリスティック』な見方をはっきりと裏付けており、この見方は医学研究でも最近ますます注目を浴びてきている。この見方では、心と身体は絶えず相互作用を続けており、切っても切れないかたちで互いに絡み合っているため、別々の存在として扱うことはできないとしている」。

プラシーボ効果は、私たちが気づいているよりもずっと広範な形で影響をおよぼしているのかもしれない。これは、最近起きているどう考えても不可解な医学的現象にもその一端を見ることができる。ここ一年前後で多少なりともテレビを見たことがある人なら、アスピリンが心臓発作の危険性を下げる働きをするとうコマーシャルの洪水をまちがいなく目にしたことがあるだろう。これを裏付ける確定的な証拠は確かにかなりある。さもなければ、コマーシャルの医学的な宣伝文句の正確さには特にうるさいテレビの検閲担当者がそんなコピーの放映を許すはずがない。それはそれで良しとしよう。ただ、ひとつだけ問題のは、英国ではどうもアスピリンにはこれと同じ効果はないらしいということである。6年間にわたり、5139人の英国の医師を対象に行われた調査では、アスピリンが心臓発作の危険を抑えられるといった証拠は一切出てこなかった。調査のしかたに欠陥があるのだろうか。それとも、何か壮大なプラシーボ効果のせいなのか。事実はどうであろうと、アスピリンの予防策としての効果を信じるのをやめてはいけない。どちらにしても、信じることで命が助かるのかもしれないのだから。

源泉(ソース)であれ

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あなたが源泉になる



いつも覚えていてほしい言葉がある。
左腕の手首に刻み付けるといい。

源泉(ソース)であれ

誰かのための『源泉』になること。
何事も『私は源泉である』というところから始めるように。

人生にもっと魔法が欲しいなら、あなたが世界に魔法をもたらすのだ。
人生にもっと愛が欲しいなら、あなたがその愛をもたらし、
人生にもっと喜びが欲しいなら、あなたが喜びをもたらすのだよ。

自分の人生に望むものがあれば、人々の人生のなかであなたがその『源泉』となりなさい。

あなたの人生にもっとお金が欲しいなら、人々により多くのお金をもたらすこと。
あなたが欲しいものはなんでも・・・・もっと優しさが欲しいなら、もっと知恵が欲しいなら、もっと忍耐が、もっと理解が、もっと親切が、もっとセックスが欲しいなら、誰かの人生のなかで、その源泉になりなさい。

肝心なのは、この法則が本当におもしろいほどよく働くってことだ。
この『源泉』であることのプロセスと、本当のあなたである『ある』ことのプロセスが、あなたにぴったりの仕事、ライフワークを引き寄せる。
そうして世界は、あなたが長年必死につかもうとしていた報酬を降り注いでくれるのだ。

あなたの『すること』が、あなたの『存在』から湧き出してくるものであるように。

幸せであること。豊かであること。賢くあること。創造的であること。理解者であること。リーダーであること。
『あること』から始めて、そこからわいてくることをできるようにしよう。
そうすれば、あなたはライフワークを見つけるだけでなく、人生を創造することになる。
日々の生活ではなくて、本物の人生を。




私は、自分が浅見な人間だとは思っていない。
世界に不足や欠乏が蔓延しているのを知っているし、地球上に住む大部分の人々にとって『豊かさ』という言葉は、ほとんどの場合あまり意味をなさず、それより『生き残り』という言葉のほうに用があるということもわかっている。
それでも、世界がこんな状態である必要はない。
誰も、日々生き残るための心配などすべきではない。
基本的な人間としての尊厳を保つための、十分な食べ物、衣服、居住は、すべての人々に保障されるべきものだ。

人々が自分たちの持っているものを、自由に分かち合えないのも、(ごく少数の人間が世界のほとんどの資源を抱え込んでいる以上)無理はない。
多くの人々が『不足』だと信じ込んでいるのだから。
豊富に持っている人でも(たぶん多く持っている人は特に)、
『みんなで分け合うには足りない』と信じている。
言い方を変えれば、世の中の人たちが公平に分け合うとなると、今不当に多く持っている人たちは、自分たちの取り分が『十分』ではなくなると信じているのだ。

これはとても大切な問いにつながる。
『どれだけあれば十分なのか』
人生で最高の報いを得る者、魂の奥底から湧き上がるような至福の満足、偉大な人生を生きる者にとっては、いつでも、いかなる状態においても『今持っているもので十分』だ。
何も持たずに生きているスピリチュアルマスターたちは、何もかも断念しなければ幸福は得られないと言っているのではなく、幸福になるために物を持つ必要はない、と教えようとしているにすぎない。
崇高な魂のあり方を、そのまま物質世界での活動へと変換させるときにこそ、ライフワークが実現するのだ。

豊かさの本当の意味とそれを実現する方法について、みんながもっと学べることを願っている。
人が、持てるものとその存在自体を、自由に分かち合う方法を思い出せたら、そこにたどり着くことができたら、私たちは人生を、世界を、癒すことができるのだ。

祝福を!


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所有・お金・十分にある

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所有・お金・十分にある 対極の法則 10%の寄付 人生を生きる

罠から抜け出す3つの質問



八方ふさがりを感じている人は、これをやってみるといい。簡単なワークだ。
まず、『私が捕まっている罠』と紙に書いて、自分がはまり込んでいる状況について説明する。

「今の仕事はちっとも楽しめない。でももしこの仕事を辞めたら収入がなくなって、私自身や私に頼っている人たちのためのものを全部失ってしまうことになる」

OK、これが罠だ。

次に、『私がここから抜け出したらどうなるか?』と書いて、自分がそこから抜け出したら何が起こるかを考える。

3つ目は、『それでも、本当に私がそこから抜け出していったら?』だ。
するとあなたは、自分がいなくても世の中は回っていくことに気付くだろう。

私は何年も前にちょっと変わった女性から、偉大な教訓を学んだ。
彼女の名前はエリザベス・キューブラー・ロス博士。
あとからはプライベートでも知り合いになった。
その日、エリザベスと私は車に乗っていて、私が話しはじめた。

「本当にしたいことがあるけれど、それをするためには仕事を辞めなきゃならない。でもそれは無理は話だ。理由はいろいろあるけど、なにより今の自分は大勢の人に頼られているからね」

彼女は落ち着いた様子で私を見ると、ゆっくりと瞬きをしてからひどいスイス訛りでこう言った。

「ワカリマス。しかし、もしアナタが明日死ねば、その人たちは、どうすると思うデスカ?」
「その手はずるいよ。ボクが明日死ぬことはないだろう」

すると彼女はもう一度私を見つめて、言ったんだ。

「イイエ、アナタは今、死んでイマス」

その瞬間、私は生きることを決意した。
人生を生きることを。

それは今までで最高の決断だった。
だから会社勤めやほかのどんなところでも、身動きできないと感じている人に言う。

「どこまであきらめてしまうつもりだ?取り戻す気があるのかい?いいかい、今一度本当の自分を取り戻すなら、あなたはもっと豊かに人々に与えられるようになる。物だけじゃない。今あなたの魂のなかに眠っている喜びと幸せだ」



登場「対極の法則」


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ニール、精神的な道の探究者とかスピリチュアル関連の仕事をしている人たちの多くが経済的に苦労しているように思えるのですが、それはどういうことでしょうか? ライフワークに導かれて、大きな会社を辞めたような人たちでも、まだ「おまえはこの火の車を乗り越えられるか?」みたいに試されているのでしょうか。なぜ、みんなそんな目にあうのかどうもよくわかりません。


それはね、あなたがなんであれ、あなた自身を表明した瞬間に『あなた以外のもの』すべてが表出してくるからだ。
もう一度言うよ。

あなたが何者であろうと、あなた自身を表明する瞬間、
そうでないものすべてが、あなたの世界に現れてくる。

必ずそうなる。それが宇宙の法則だからだ。
「でも、どうして?」と聞きたいだろう?
それが宇宙のシステムだからなのだが、その理由をあえて言うならこうなる。
『あなたではないもの』がなければ、『あなたであるもの』は、ない。
そこが旅の出発点なのだ。

わかった?こちらのお嬢さんはうなずいているけど・・・「この人、いったい何言っているの?」って顔してるね。いいかい?『あなたではないもの』がなければ、『あなたであるもの』は、ない。

今、私はこう言った。よし、例をあげてみよう。
あなたは、大きくて、背が高くて、太ってる?
違う?でもどうしてそれがわかるんだ?

ほかの人たちと比べたらだいたい・・・・中くらいだと思うから。

そうだね。ではもし大きくて背が高くて太った存在がいなかったら、あなたはどうやって、大きくも、背が高くも
、太ってもいないとわかるかな?
世界の誰もがみんなあなたとそっくりだと思ってごらん。
ワオ、そりゃいいねえ!
ああいや、皆さんとても素晴らしいですよ。もちろん、ほんの冗談だってば、思わず言っちゃったけど!

ところで、お嬢さん、お名前は?

カレンです。

カレン。今の話のために、ちょっと試してみてくれないか。
もしみんながあなたと瓜二つ、そっくりだとしたら、どうやって自分がどんなだか知ることができる?自分自身をなんて説明できるかな?
「長い黒髪で・・・・あら、みんな黒い黒髪だわ!じゃあ、私は比較的痩せていて、まあ小さいほうで・・・う~ん、みんな小さくてやせてるんだ・・・」
しまいには自分が誰かもわからなくなってくる、そうだね?関係性の存在がなかったら・・・、

外見ではわからない。

そう、外見では区別できない。
そのうえもし内面までみんなあなたとそっくりだったら、内面的にもわからない。なぜなら、みんな同じだから。
だからね、あなたが自分は何者なのか、どういう人間なのかを、はっきりと体験したいと思うと、あなたは磁石のように自分でないものすべてを引き寄せる。

『あなたではないもの』がなければ、『あなたであるもの』は、ないのだから。
----わかった?ビンゴ!


さあ、ここにあまり知られていない秘密がある。一度この秘密を知ってしまうと、あなたはもう何事にも抵抗しなくなるはずだ。抵抗すれば、望まない事態が存続してしまうのだから。
でもそれは、あなたがしっかり見据えると消える
マスターが自分と正反対のものに決してあらがわず、逆に最大の祝福と見なす理由はこれだ。こんなふうに・・・。

「来たれ対極なるもの、私でなきものよ!私はおまえを喜んで受け入れるのみならず、おまえと溶け合い、私であるものとして、ひとつとなり、それによって偉大なる自己を表現しよう!」

宇宙全体はフィールド(場)だ。
「エネルギーの変換フィールド」とよぶ人たちもいる。
私は「体験の場」「表現の場」とよんだりする。
生命がそれ自身を表現するところ。比較対照する要素のある領域。コントラストのある世界でもいい。
この対照性のある領域でのみ、いかなる者も本当の自分が何者であるかを定義することができる。
これこそが、相対的な宇宙における真実だ。

今話している私たちの言葉で『絶対的領域』とよぶ世界で、対照性は必要ない。というより、それは不可能だ。
絶対的領域とは『存在のすべて』であり、『ほかには何もない』のだから。
私たちはそれを神と呼ぶ。
私の言葉で、私の言い方、表現の仕方で、それを「神」とよんでいる。

始めに『存在のすべて』があった。
『存在のすべて』だけがあり、ほかには何もなかった。
『存在のすべて』以外のものは何もなかった。
それは素晴らしかった。
だが、あるのは唯一それだけで、ほかには何もなかった。
『存在のすべて』は、自らの体験を通して知ることを望んだ。
そこであたりを見回し、経験的に知っているかもしれない自分以外のものを探したが、『存在のすべて』よりほかのものは何も見つからなかった。

なぜなら、それ以外のものは何もないのだから。
それは『存在のすべて』であり、ほかには何も存在しない。
では、完璧なる素晴らしさを知るにはどうすればよいか?
私たちが『神』と呼ぶこの存在は、自分の外側を探そうとしたが外側というものはなかった。
そこで内側を探すことにした。

ところで、これは良い考えだ。
自分自身を知るには、外側ではなくて内側を見つめること。
そうでなければ、いつになっても見つかることはない。

『神』は内側を見て、その内部に探していた素晴らしさのすべてを三井田氏、そのときまさしく内破、内側に破裂したのだ。神は自らを爆発させることで、何千、何億、何兆、無数のかけらへと分割し、あっちにもこっちにも、上にも下にも、右にも左にも、拡張した。
突如として、こことあそこ、上と下、左と右が創造された。無数に分割された神が生み出された栄光の瞬間には、速い遅い、大きい小さいもまた創造された。
神が無数に分割された要素が、中心からものすごい勢いで広がっていくことにより『スピード』という概念が生まれ、(要素がここからあそこへ空間を移動するさいに、計測可能なものができたため)そこから『時間』とよばれる幻想が創造された。

それぞれのかけらは、自分以外の神全体を振り返ってこう言うことが可能になった。
「おお、神よ。あなたは、なんて素晴らしいのでしょう!」
分割したほかのすべての神のかけらたちは、お互いを見てまったく同じことを言いあった。
けれど、それぞれのかけらはそれを聞き逃してしまったのだ。
分割された神のかけらたちは、ほかのすべての存在が自分に向かって、
「おお、神よ。あなたは、なんて素晴らしいのでしょう!」
というのが聞こえなかったのだ。
それを伝え合うことは、私たちに任されている。
「神よ!あなたはご自分が、どんなに素晴らしいものであるかを覚えていますか?ああ、あなたはなんて素晴らしいのでしょう!」
星いっぱいの夜空を見上げ、人はこう言わずにはいられない。
今この部屋にいる私たちを、互いに見るときでも・・・。

それができないと、互いにこのメッセージを届け合えないと、私たちは人生で最も重大なミッションが果たせないことになる。
自分自身を知るために、私たちはここへやってきたのだ。
あなたがたを通してのみ、私は自分を知ることになる。
なぜなら結局宇宙には、「たったひとつの存在」しかないのだから。
だからこうして、自分を「お金も含む早大な宇宙に豊かさを具現化する者である」と宣言するとき間違いなく最初に起こるのは、紛れもなく、一文無しになるという経験だ。
かけらのひとつであるあなたが、素晴らしい自分自身を表明した瞬間に、あなたの周りには、『あなた以外のもの』すべてが表出してくるのだ。
あなたが何者であろうと、あなた自身を表明する瞬間、そうでないものすべてがあなたの世界に現れてくる。

誰かその経験のある人はいるかい?
あなたが『豊かさは我にあり!』と宣言した瞬間、豊かさは忽然とあなたの世界から消え去ってしまったように見える。
あなたの目には不思議に映るのは、ここだ。

それは旅の始まりだ。

その旅であなたは、周囲に誰もお金を持っている人がいない世界をぐるぐるとさまようことになる。
最後にとんでもなく豊かさ誰かに出会うときまで。
そして、その瞬間すべてが変わるのだ。


誰も所有しない世界
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この先アメリカの経済には何が待っているのでしょう? 21世紀の見通しは、何か変革がありますか?

21世紀についての個人的な見解は特にないが、私が知っているのは、明日は私たちによって創られるということだ。
私の使命は、ここにいる人たちに今日、今、ここで影響を及ぼすことに尽きる。
あなたの質問に、私の最高の21世紀のビジョンを答えたとするならば、それはふたつのコンセプトから成り立つ、経済的、精神的、政治的、社会的な原則からできているものだ。

第一のコンセプトは、『私たちはひとつ』だ。
そんな原則が実践されるのを想像できるか?この地球上で経済的に、政治的に、精神的に・・・。
そうしたら、きっと言葉で説明できないほどの大変革がもたらされるだろう。
もちろんよい方向へとだ。戦争は明日にも終結する。
『私たちはひとつ』であるという原則の下では、争いはほとんど不可能だ。暴力につながるような見解の不一致が続くこともなくなるだろう。

21世紀に私が思い描くのは、できるだけ早いうちに『私たちはひとつ』であるというスピリチュアルな真実に基づいた経済が実現することだ。そうすることは可能だと思っている。
この経済社会は、所有権についてのすべて概念を消し去るだろう。
誰も何も所有せず、ただあるものの世話役になることが許容される未来である。
いいかい、実際のところ私たちは皆、物だけでなく人間までも所有していると考えていた。
夫は妻を所有し、夫と妻はその子供たちを所有しているといった考えのことを言っているのだが、それなら森や農地なら、もっと簡単に考えやすい。

しかし未来には、私たちがもはや子供たちを所有しないのと同じように、土地もまた所有しないことが当たり前になる。
私たちは今、人間同士については、お互いに所有すべきものではないことをはっきり認識するところまで成長してきた。
妻は夫の所有物ではなく、夫は妻の所有物ではない。
そこからやっと所有という感覚を手放し、配偶者と同じように、子供たちも所有するものではないと気づくところに来たのだ。

ところで、これは昔からあった考えではない。
まだほんの50年ほど前からやっと理解され始めたことだ。
明確になってきたのはたぶん、ここ30年くらいだろう。
我々原始人には、まだまだ新しい考えってわけだ!

そして最近になってようやく、
「私たちは権利書があるからといって、頭上の空がそうでないのと同じように、足元の土地もまた所有しているわけではない」
というさらに新しい考えに至った。

しかしまだ政府のようなところではこんなことを言っている。
「これは我々の空域だ---高度はどこまでだ?」
このことをめぐって国連では以前大きな対立があった。
人工衛星がある国の領域の上空を飛んでいることで、国連内に大論争が巻き起こったことがある。

「空域の高度は?」
「ある領域は、その上空のどの高さまでを有するのか?」
「いったいどこまで?宇宙の果てまで?」

こうしてそれが、どんなにバカげたことか気づき始めたのだ。
空の次は当然、「では地面の下は?地中にある鉱物は?おまえたちのものだというのか?」ってことになる。
特定の国を悪く言うつもりはないが、実際に地下資源を所有している国もある。
オイル?もしその権利があるとしたら、深さはどこまでだ?
「地面の終わるところ、つまり地球の反対側に顔を出すまでだ」
と言い張る者がいるかもしれない。
でもそれなら、誰もがすべてを持っているというのと同じだ。
いいかい、もし本当に足もとの地面はどこまで行ってもあなたのものだとしたら、あなたは地球の反対側まで所有しているという、まったくおかしな話になる。

だから要するに私たちは、遅かれ早かれ、
「誰も何も所有していない。ただ、その管理をしているだけだ」
というレベルまで成長するだろう。

そしてこのレベルに至ると、所有権があると思っているかぎりそれは誰かの所有物で、「この土地は私のものだから、私の好きなようにしていいんだ」とばかりに、今、母なる地球、この惑星に対してやっているような土地の略奪や環境の破壊をついにやめるだろう。
私が想像する21世紀の経済社会では、それを買ったからといって、地球上のほかの人々への影響をまったく無視して、好きなように破壊することを許している『所有』という考え方は、もうできなくなる。

そして21世紀経済の次のレベルでは、ついに『十分にある』ということを確実に理解するところまでに至る。
幸せのために必要だと思うものはなんでも、みんなで分かち合うだけ『十分にある』ことがはっきりとわかるようになる。

本当はね、この星には、たった今だって十分にあるのだよ。
でもこの見解には、とても多くの人たちが反対するだろうね。
彼らはこう言うだろう。

「あんたはそこに座って、足りてるだの十分だのって話してられるけどね。こっちは飢えているんだ。我々には十分な食べ物がない。住むところも十分でない。服も足りなけりゃ、金もありゃしない。あんたの豊かな暮らしにあるようなものなんて、持っていないんだよ!」

そう、確かにそうだ。彼らは今、十分に持ってはいない。
でもその理由は、周りに物が十分にないからではなくて、それを持っている人たちに分け合う気がないからだ。

世界の9割の資産を、全体の1割の人間が所有していることは、秘密でもなんでもない、周知の事実だ。
でもそれってフェアだと思うかい?それでいいのかい?
自らを高度に発達し、理解ある気高い存在だと宣言している者たちの社会にふさわしい態度だと思うかい?
どう考えたら、どんな理由で、進化した存在の中で、たった1割の人間が、全体の9割の資産や資源を所有することが、正当化されるのだろう。ふんぞり返って、
「わからないやつだな。これは私のものなのだ。そのために働いて私が買い取ったものなのに、おまえになぞやるものか」
などと言って、分かち合いを拒めるのだろうか?
残りの9割の人たちが、想像できないほどの混乱のなかに生きながら、資源や物資を簡単に利用するのを許されていないことに、暴動を起こさないでいることは、さらに信じがたいことだ。
だがそこで考えるべきことは、人々が暴動を起こさない理由が、人間として良心的であるというよりも、世界中のほとんどの人たちが、その事実を知らないため、ということだ。

ある一部の支配層が、世界の持たざる人々が教育を受けられるようにすることに尻込みする理由はこれだ。
わかるね、知識はパワーだからだ。
それにもまして彼らは、経済の流通や地球の資源の分配システムがとんでもなく不公平であることに、人々が気づき始めてしまうのを知っているからだ。
21世紀には、こんな妙な常識と、その不当性にちゃんと目を向け、ついにはそれをなんとかするために動き出すだろう。

ところで、ここでおもしろいのは、この大きな変化をもたらすために、今9割の資産を持つ1割の人たちから、彼らが困窮するほど取り上げる必要は何もないってことだ。
私なら、どれだけ取り上げられても困窮するってことは、もう、ないのだけれど・・・。
私はホームレスだった。
1年近く公園の空き缶ひろいをしてもらえる5セントで、路上生活をしていた。私はそこにいたんだ。
だからたとえばあなたが、私に今ある9割までを取り去っていっても、そのころのレベルには及ばない、かすりもしないだろう。
それが今いる自分とどれほど違うか、その差は承知の上だ。

「いったい、どれだけあれば足りるのか?」
それが9割を持つ1割の人々への問いだ。
「いったい、どれだけあれば足りるのか?あなたが満足するまでに、人々はどこまで苦しまなくてはならないのか?」

これは、経済についての問題じゃない。
これは、スピリチュアルな問いなのだ。



世界を変える「10%の寄付」



献金や寄付についてはどうですか?会社や企業が利益の10%を寄付したら、この国の経済は変革できるでしょうか?

『神との対話』には、驚くようなことが語られている。
あのなかには、『私たちが自由意思による分かち合いを始めたとき、誰もが自発的に収入の10%を寄付するようになる』とある。
会社や個人は、困っている人たちや人々を助ける社会的なプログラムのための基金に寄付するようになると。
そうなったら、地球上からすべての税制度は消え去る。税率を上げる必要などない。ただ単に人々に任意の寄付を頼めば、もっと多くのお金を集められるからだ。
誰も無理強いされたとは感じないし、収入が高くても低くても、1000ドルか、週給であろうと、時給であろうと、年収であろうと、単純にその10%を一般的な資金として提供する。
そしてあるレベルより収入が下回る場合、寄付しなくていい。
1年に1ドルしか稼がない人に、10セントを出してくれとは言わない。

しかしこの経済的な構想は、そのシステム自体をよりよく豊かにするために、入ってくる一部をシステムの全体に戻すことで、さらに多くが自分のもとへ入ってくるとうい、シンプルなアイデアに根差している。
実に明らかだ。とても明確でわかりやすい。
まだそうなっていないのが不思議なくらいだ。

ところで、私たちが自らの意志で、教会でもシナゴーグでも、それぞれの礼拝所やチャリティーで献金するとき、あるいは収入から一定の額、たいていは10%を誰かのために取り分けておくときには、もっと重要なことが起こる。
このような方法の寄付を、気持ちよく普通のこととしてすると、それは宇宙に対しての驚くほどの明快な宣言、アファメーションとなるのだ。
「私が10%を惜しまず当たり前のこととして与えることができるもの---お金----、私に押し寄せてくる流の源には、それがもっと豊かにある」
これは宇宙に向かっての「私は、十分に満ちた入りている」という声明であり、その言葉どおりのあなた自身の体験を生み出すことでもある。
それだからこんなに多くのスピリチュアルな活動で、
「寄付、寄付、寄付。あなたのお金を、私たちが欲しいからではなくて、まして私たちに必要だからでもなくて、あなたが『十分にある』と声明するために寄付が必要なのです」
というのだ。

細胞レベルのあなた自身への、また宇宙への指令。宇宙の反応を必然的に引き起こす指令を、実際にあなたが出すこと。
つまり寄付は、私たちの真実の在り方を宇宙に伝えるためのツールとして役立つものだ。

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「豊かさとは何か?」お金?

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準備はいいかい?

もしあなたがその答えを出すのは私のような者、たまたま今日みんなの前で日の目を見ているような人間だと思っているなら、それは間違いだ。ここではっきりと理解してほしい。 人類を導くのは、今、演台に立っている人たちではない。 私は今日たまたま、つまり今日は偶然、ここにいるというだけのことで、それがあなたであっても、ちっとも不思議ではないのだ。 ・・・・そういうわけで今日は、あなたがたのなかの誰かに、ここに上がってセミナーの続きをやってもらうことにしよう。 これは本当の試験だ。まじめな質問だよ。 もし、そのチャンスが来たら、もし、あなたが選ばれ、チャレンジャーとして招かれたとしたら、あなたがたのうちの何人がこう言えるだろうか? 「ニール、ボクは準備できているよ!ボクがそこに座って、みんなの前で話そう」 人生の真の秘密は、いずれにしろあなたはもうすでに演台に立っているということだ。あなたが知ろうと知るまいとね。 これが私の言おうとしてきたポイントだ。 あなたは演台に立っている。ただ、そう見えないだけだ。 実のところ、部屋には演台となる場所以外は存在しない(人生には日の当たっている場所しかない)というのは実に皮肉なことだ。 部屋の後ろ、陰や隅っこはない。だからもう、あなたは隠れてはいられない。『リーダーに続け!』だ(リーダーはあなただ)。ほかに道はないのだよ。

「好きなことでは食っていけない」

それでは「神との対話」、すべてのことの始まり、そのバックグラウンド----なぜ私がこのイスに座ることになったのかを少し話そう。 1992年、私の人生は終焉を迎えていると思われた。 またしても大切なパートナーとのリレーションシップを失い、仕事は完全に行き詰まり、身体はボロボロ、人生はすべての面で硬直しきっていたのだ。 最愛の人との関係は目の前で私の手のなかで崩れ去っていった。今度こそは間違いなくずっと続くと信じていたのに・・・・。 こんなことが起きたのは初めてってわけじゃなかったけれど、2回目でもなかったし、3回目でも、4回目でも・・。 とにかくその経験から気づいたのは、私には何か知らないことがあって、もしそれを理解することさえできたら人生の何もかもが変わるだろう、ということだった。 でも、それがなんなのかはわからなかった。リレーションシップの秘密は、まるで見つけられなかったのだ。 職業についても同じように困難な状況にあった。 その手の本は全部読んでいたよ。ほら、『好きなことをしよう、お金はあとからついてくる』とかの類はね。でも、そううまくはいかなかった(もちろん、それもありだけど!)。 どのみち私には、魔法の方程式が見つけられなかったんだ。 好きなことをして無一文でいるか、ぎりぎりやっていけるくらいのお金のために、魂が死に絶えそうになるかのどちらかで、どうやってそのふたつを組み合わせるのかは、とうていわからなかった。 もしなんとかできたと思っても長くは続かない。いつもせいぜい半年か8か月もするとダメになってしまった。 それをつなぎ合わせて保つことは、どうしても無理に思えた。 健康に関しても同じような状況で、無事に1年をやり過ごすことはとても不可能に思えた。36歳にしていくつもの潰瘍があったし、慢性的な心臓病とか、もう言うのもうんざりするようなことばかりで、ときにはとても深刻な病状に陥ったりもした。50歳のころには、もう80歳のように感じていたよ。関節炎だの痛風だのって、80歳にしたってあんまり健康なほうじゃないがね・・。 こんなことが全部いっぺんに起きていたのだから、その状態で人生を機能させることなんて、できっこなかった。 それまでの人生なら問題がひとつずつ現れるとか、神様だってもうちょっとマシなことしてくれていたと思うが、このときは特別で、その理由は今でもはっきりしないのだけれど、やっかいな問題が全部いっぺんい、同時に起こっていたんだ。 まるで空の上の神様が、こう言っているみたいだった・・・。 「は~い、それでは今週もじゃんじゃんいってみよう!さあ、今地上にいるこの男ニールくんには、みなさんもよくご存じ、人気の”悪運トリプルセット”のプレゼントだあ!」 一方こちらは、何も知らないニール。哀れな彼は、今にも割れそうな薄氷の上でいきなり”地獄の3回転ジャンプ”をされられたようなものだ。 私はどうしたらいいかもわからず、途方に暮れ、ひどく怒り狂い、うつは、もうほとんど慢性化していた。

ルールを教えてくれ!

こんな日々の続いたある真夜中、私は人生への怒りと焦燥に目を覚ましました。毛布をはねのけて起き上がると、ものすごい剣幕でベッドルームから飛び出し、そのまま私がいつも真夜中に答えを見つけ出せる場所---冷蔵庫----に向かったが、そこにさえロクなものがなかったので、しかたなくソファに行って身を投げ出した。 想像できるかい?真夜中、午前4時にソファに座って、自ら招いた報いに苦しみもがいている様子を・・・。 そしてついてに、神に助けを求めたのだ。 家中を走り回って、皿を割りまくったりする方法もあったけれど、でも私はそこに座り込んで、神にこう言って助けを求めた。 「神様、いったいどうすればいいんですか?このゲームをやっていくには何が必要なのですか?ああ、誰でもいいから教えてくれ!そしたら、ちゃんとやるから。。ただ、ルールを教えてくれるだけでいいんだ。でも、あとからの変更はなしにしてくれよな・・・」 それからほかにも疑問を山ほどぶつけ始めた。 そのときたまたま目の前の小机に、黄色いレポート用紙があるのに気付いた。隣にペンまであった。 だからそのペンをとって、明かりをつけ、胸の怒りを書きつけて、吐きだした。午前4時15分に怒りと渡り合うには、静かで安全な方法だった。 ところで、あなた方はどうか知らないが、私は怒っているとすごく大きな字で書き殴る。 「いったい、どうすればいいんだ?」 だって本当に心底腹を立てていたからね。 「人生がうまくいくには、どうすればいい?」 「こんな苦労ばかりの人生を送らなければならないなんて、いったい私が何をしたっていうんだ」 そうして書いて、書いて、20分ほどひたすら書き殴り、「これ以上やれるものならやってみろ!」と宇宙に向かってほえまくった。 するとようやく少し落ち着いた。大丈夫だと感じた。 「・・・おお、うまくいったぞ」 今度友人たちにこの方法を教えてやろう・・・ そして、ペンを置こうとすると、今度はペンが手から離れない。 「おもしろい、力を入れて書きすぎたんで手がつっちまったな」 人間って、言い訳はなんとでも考えつくものだ。 とにかく今も本当の理由はよくわからないのだが、私はペンをレポート用紙の上に戻した。 そのとき、声が聞こえた。ちょうどここ、私の右の肩の上で。 今はそれを「声なき声」とよんでいる。 初めてその「声なき声」を聞いたとき、それはちょうど、誰かが私の右の耳にささやきかけたようだった。 穏やかな静けさに包まれ、私は深く安堵し、落ち着いて、安らぎとたとえようもないほどの喜びに満たされた。 『声なき声』はこう言った。 「ニール、君は本当にその問いのすべてに、答えが欲しいのかね?それともただ、うっぷんを晴らしたいだけかな?」 「そりゃ、今のはもちろん当たり散らしただけですけど、もし、あなたが答えてくれるというのなら、絶対、なんとしても知りたいに決まっています!」 すると、その答えが洪水のように押し寄せてきた。 これまでに私が疑問に思ったすべてに対して、答えが返ってきた。 それはものすごい勢いだったから、忘れてしまわないように書きとめなければいけないと思った。本を書こうなんて意図はなかった。ただ押し寄せてきたすべてを忘れたくなかったから、必死に書きとめたのだ。手が動かせるかぎり最高の速さで書きまくった。ペンからあふれ出てきたものは、驚くばかりの情報だった。 それを読むと、自然とまた別の質問が持ち上がってきて、そこでまた質問を書きつけると、それにもまた答えがやって来た。こうして私は、もっと質問を書き、さらに答えが来た。 自分でも気づかないうちに、夢中になってのめり込んでいた紙の上の会話----それが疑いようもなく「神との対話」だとわかったのは、もっとあとになってからのことだった。 「本を作る目的でなかったのなら、なんで出版社に送ったんだ?」 と聞く人もいるけれど、ほら、あなたも覚えているだろうか。神は対話のなかで「この対話はいつか本になるだろう」と言った。だから私は、「ようし、じゃあ神を試してみよう」と思ったのだ。 神への挑戦だったわけだ。 なにしろ最初に「これは本になるだろう」という返事を書きとったときには、私やほかの誰でもが、たまたま真夜中に思いついたようなとりとめもないことを紙に書いて出版社に送ると、今度は出版社が「こりゃすごい!もちろんすぐに出版しますとも!」と応え、そして世界中の何百万もの人たちがその本を買うなんてことは、あり得ないと思ったのだ。 ところが、まったくそのとおりのことが起こった。 本は本当に出版され、何百万人が買い、世界中で34か国語に翻訳されることになった。日本語やギリシア語やヘブライ語に翻訳されて世界中に広がってゆく様子を目の当たりにするのは、本当に驚くべきことだった。 そうして、自分が世界に触れていることに気付いたのだ。

みんな、メッセンジャー

今は自分がメッセンジャーとして呼び出されたことを、はっきりと理解している。 でも実はこれまでだって私はずっとメッセンジャーで、ほかにいられる場所などなかったのだ。 なぜなら私は、人生で出会うすべての人へのとても大切なメッセージを携えているのだから。 私があなたがたへ運んできたそのメッセージとは、こうだ。 「あなたがたは皆、メッセンジャーだ。人々の前に立つよりほかに、あなたのいるべき場所はない。あなたがたは皆、人生で出会うすべての人々と分かち合うべきとても大切なメッセージを持っている」 そのあなたがたが持っている重要なメッセージとは、 「どの人も皆、重要なメッセージを持っているメッセンジャーだ。彼らには、人々の前に出るよりほかにいる場所はない」 そして、すべてのメッセンジャーが持っている、その重要なメッセージはこれだ。 「みんな、メッセンジャーなんだよ。さあ、目を覚まして!キミは本当の自分が何者だか知っているかい?ねえ、目覚めてよ。ねえ、わかっている?『キミとボクはひとつ』なんだよ!」 ここにいる私たちは、たったひとつの存在だ。 離れていると思っているなら、そんな考えは今すぐ捨ててしまうことだ。 私たちは、離れてなんかいない。 私たちは、たったひとつの存在だ。 私たちの間にはなんの差異もない。 もしそう思っているなら、そんな考えも捨ててしまおう。 私たちに差異などないのだから。 ありもしない違いをわざわざつくり出そうとするのは、もうやめよう。『あなたと私はひとつ』だと理解し、ここにいる私たちは、たったひとつの存在であること、地球上のみんなが、すべての創造物が、つながっているたったひとつの存在であることがわかるとき、苦痛や苦悩の原因も、労苦も、戦いも、心痛も、困難も、消える。 ただもう消え去ってしまうのだ。 だから、あなたはそっちで、私はこっちと考えるのはもうよそう。 『あなた』が終わり、『私』が始まる境目なんてない。 こんなシンプルで、美しいメッセージが世界を変える。 これをいつ理解するのか?いつ実現するのか? 私たちはそれを、送り出すときに、受け取る。 今の聞こえた?もう一度言おう。私たちはメッセージを送り出すときに、そのメッセージを受け取れるんだ。 さて、私たちは今日ここに集まっているけれども、さっきこの部屋に入ってきて思ったんだ。 「こんなところでボクは、いったい何してるんだ?気を付けないと、まるでボクは、みんなが知らないことを知っているように見えちまうぞ・・・」 本当に気を付けないと、みんなも気を付けておかないと、今日、自分が知らないことを初めて聞くように思う可能性がある。 気を付けなきゃ、そうでないと『バクは知っている、キミは知らない』ってゲームになる可能性が高い。 私はそんなゲームをするつもりはない。今も、これから先も。私が話すことであなたがたの知らないことなんて、ひとつもない。 ・・・・というわけで、「本日はご来場くださり誠にありがとうございました。それではみなさん、さようならあ!」 実は入ってきた瞬間から、どうやって逃げ出そうかと思っていたんだが、よし、これでうまくいったぞ・・・。

リクリエーション(再創造)の時間

時の始まりから私たち人類の望みはただひとつ、愛し、愛されることだ。そしてこれまで私たち人類がしてきたことは、ひたすら制限のモラル、宗教的タブー、社会的倫理、家族の流儀、倫理的解釈を創り上げることだった。 そのありとあらゆるルールや規制は、私たちに『いつ、誰が、どこで、何を、どのようにして、愛してもいいか』もしくは『いつ、誰が、どこで、何を、どのようにして、愛してはいけないか』を教え込むものだが、残念なことには、『愛してはいけない』リストのほうが『愛してもいい』リストより長いときている。 私たちは、何をやっているのだ? まったく、何をやっているんだ? 私がこの彼のところへ来て、(男性の頭に触れながら)「あなたの魂はなんて美しいのだろう」と言って何がおかしい? 見知らぬ人に近づいていって、「本当のあなたがわかるよ」と言うのが、なぜいけないんだ? なんでこんなふうに決めてしまったのかちっともわからない。 でも、このことは言っておかなければ・・・・。 この構造を変えない限り、私たちは決して本当の自分が何者であるかについての究極的な経験をすることはない。 だから今こそ、立て直すときだ。 再創造しよう。新しい自分を再創造するんだ。 人類が次に持ち得る、至上のビジョンへと! いや、いや、いや、なんてこった・・・・あんまり調子に乗せないでくれよ。 こんな部屋の前に連れ出されて、いっぱいの人たちを目の前にしたら、活動の新しいメンバーを見つけようとしてしまう。 どうやってあなたがたを仲間に引き入れるか、どうかやったらいっしょにやれるかと思ってしまうんだ。 遊び場に行くとき、そんなふうに感じたことはなかった? よく近くの遊び場に、丘を越えて歩いて行ったものだ。 家から8区画先に大きな広場があって、そこに近づいていくにつれ、「誰かいるかな?」と考えて興奮してくる。 もっと近づくと、遊んでいる子供たちが見えてくる。 知っている子、ほかの地区から来ている知らない子たち。 「どうやったら、ボクの仲間にできるかな?」 と、いつも思っていた。そんなふうに感じたことある? 広場に着くと、「やあニール、いっしょに遊ぼう!」という子たちがいれば、「あ、また口ばっかりのウォルシーだ!」という子たちから仲間はずれにされる。 広場で『仲間はずれ』にされていた人は?え、いないの? 「いっしょに遊んでくれるかな?そうだったら楽しいよな!」 私がこんな会場に入ってくるときの気持ちはそれだ。 そんなわけで、ちょっと遊んでみよう。 あの、とてつもない対話のなかで語られたことのなかから、『豊かさ』について話し合おう。

豊かさは物とは関係ない

『豊かさ』は、多くの人にとってそうであるように、私にとってもまた長いあいだ、多大なる関心を寄せてきたテーマだ。高次のレベルからの情報を受け取り始め、『豊かさ』を深く見つめ直して私が最初に理解したのは、『本当の豊かさとは何か』について、自分は誤った定義づけをしていたのだ、ということだった。 それまでの私はずっと「豊かさは物-----自分がどれだけ物を所有しているか」だと思っていた。 さて私が今から言おうとしていることは、あなたがたはとっくの昔に理解しているのだから、当たり前すぎることなのだけれどね。 簡単すぎて、今さら言うのも気が引けるんだけど・・・万が一、もしかしてだよ、自分がそれを『知っている』ってことを忘れてしまった人もいるかもしれないから、一応ここで、私の対話のなかでの気づきをもう一度話しておこう。 まず初めに”豊かさ”について大切なのは、「何が豊かさなのか」をはっきりさせることだ。 本当の豊かさは、所有している物とはまったく関係がない。 あなたのあり方、あなたが何者であるかがすべてなのだ。 出会う人々みんなに、存在としての豊かさを存分に分かち合うようになったとき、それまで追い求めていたものは、得ようとしなくても自動的にやってくるようになる。 高価なクリスタルや見事なアンティーク家具、美しい服など、私が豊かさだと思っていたものすべては、何の努力をする必要もなく天から降ってきた。 それまでの私は、ただの物にすぎない豊かさを追い求めることに必死で、もともとの自分が持っている豊かさをまるで無視していたのだ。

90分で豊かになる方法

つい数週間前の出来事を思い出すよ。 コロラドの美しい山々に囲まれるエステスパークで行われた合宿制のセミナーでのことだった。 ここよりもう少し広めの会場は、人々に埋め尽くされていて、私はちょうど今のように、みんなの前で話していた。 ある人がこう言い始めた。 「豊かさを経験できたら、どんなにいいかと思うよ・・・・」 それが彼の悩みの種だった。 「オレ、ちっとも稼げやしない。とうより、何とかやっていくのにも事欠くくらいで、今日ここに来るための金だって、やっとも思いで絞り出したんだ。これまでの人生ずっと、豊かさってもんを経験してみたいと思ってきたのに・・・」 そして彼は、みんなの前にいる私を指さしだ。 「そこにいる、あんたみないな豊かさを!」 「ようし、わかった。もしあなたが、本当に”豊かさ”を経験したいと思うなら、いい考えがある。この昼休み、あなたが持っているものをみんなに存分に与えるんだ!」 すると驚いたことに、彼は私の顔を見てこう答えた。 「他人に与えられるものなんて、何も持っていないんだよ!」 彼は本当にそう思っていた。 わざととぼけているんじゃなくて、他人にあげられるものなんて本当に何もあるはずがないと本気で思い込んでいたのだ。 そこで私は、当たり前のことから説明する必要があると思い、彼に向き直ってこう聞いてみた。 「愛はどうだい、少しくらいは持っているかな?」 「あっ・・・・」 と彼の口からもれたものの、自信はなさそうだった。 それでもそう問わせれば、人に分けてあげられるくらいの愛を自分が持ち合わせていると認めざるを得なかったようだ。 「ええ、ええまあ、愛ならあると思うな」 「では思いやりの心は?あなたのなかのどこかに温情はあるかい?」 「ええ、そりゃ少しくらいは。人からは情け深い男だって言われたこともあるし」 このときでもまだ彼は、自分が「思いやりのある人間だ」とは言いにくそうにしていたが、なんとかかんとか思いやりも人に差し出せるくらいはある可能性を認められたようだった。 「ようし、ではユーモアは?」 「ああ、ジョークなら一生使いきれないくらいあるよ!」 「すごいじゃないか」 こうしてふたりで彼が豊かに持っているものについてのリストを作った。それでもまだ彼は、そんなことが彼の言う『豊かさ』と関係があるとは思っていなかった。そこで私が、 「OK、それじゃ我々は『豊かさについての定義が異なっている』という点で、意見が一致しているということにしようじゃないか。でもここに挙げたことがらについては、確かにあなたが豊かに持っていると同意するね?」 というと、彼はこれに賛成した。 「よし!ではここで、あなたにやってもらいたいことがさる。昼休みの時間を、人々に『与える』ことに費やすんだ。いいかい?今あなたが認めた豊かにあるものをふんだんに人々に与えること。これからのランチタイムの90分間、出会う人みんなに、今までやったことのないくらい豊かに、たっぷりとね。これが私からの課題だよ」 彼はこれに同意し、挑戦してみることにした。 間もなく昼休みに入り、彼の挑戦が始まった。 持てるものを存分に分け与えること・・。 このセミナーが行われていたYMCAキャンプには、私たちのグループの200人だけでなく、ほかのロッジから来ていた人々も合わせるとおそらく全部で600人くらいはいたと思う。 ということは、カフェテリアには彼が何者なのか、今から何を始めようとしているのか全然知らない人たちが、たくさんいたはずだ。 だから彼の心には、ものすごい葛藤が湧きあがった。 自分のいるグループの人たちは、これから自分が奇妙なことを始めるのを知っている。 一方、ほかの人たちはそんなこと、まるで知らないのだから。ねえ、いいかい?あなたがたが自分自身を世の中に豊かに与えようとするとき、世界の半分はそれを『狂気の沙汰』とよぶだろう。 「何かおかしいぞ、やつはどうかしちまってる!」 「普通はそんなことをしないぞ!」 もちろんそこが、この世の問題なのだが。 「普通はそんなことをしない」それが世の中の現実だ。 さあ、カフェテリアにやってきた彼。 人々に近寄って行っては、彼の持つ豊かさを精一シェアし始めた。会う人ごとに愛を分かち合い、元気を分け与え、ユーモアを披露し、カフェテリア中をジョークでわかせた。 ある人たちは「あっはっはっ、こりゃおもしろい!」と笑い、ある人たちは「いったい何者だい、あれは?」といぶかりながらもやっぱり笑い出し、彼のジョークにはいまいち笑えない人たちでさえもやはり、このカフェテリアに突然現れた愛すべき『サンタさん』を見るとほほ笑まずにはいられなかった。 彼は人々に何かしらいいことを言って回っていたが、そのなかにたまたまひとり落ち込んでいる人がいて、これが彼の思いやりを示すきっかけになった。 彼は悪い冗談をやめるってことで思いやりを見せたのだ。 これは私も経験を通して学んだ、ひとつの思いやりカタチだがね。 彼はその人のかたわらに座って、こう話しかけた。 「オレ、ほかのロッジのセミナーに来ていて、あんたのことは知らないけどさ・・・大丈夫かい?」 いつのまにか彼は本人も気づかないうちに入り込んでいたのだ-----彼自身の「神との対話」に。 そうしてそれが、彼の『愛情深い』面を表現するチャンスになった。 90分後、昼の休み時間から戻った彼の気持ちは、それはそれは大きくふくらんでいた。 「どんな気分だか言葉にできないよ!」 「今は豊かさを感じるかい?」 「ああ、感じるとも!本当に、この上なく豊かな気持ちだ。これまで自分でも表に出てこないようにしていた、自分の素晴らしさを感じているよ。自分自身で表現するのを許していなかったことで・・・」 でも本当におもしろかったのはそれからだ。 グループの人たちには企みがあった。彼がランチを食べているすきに帽子をとってきて、みんながそれにお金を入れたんだ。だから彼が部屋に帰ってきたときには、帽子はお金でいっぱいだった! グループの人たちは、『差し出したものが、返ってくる』ということを、彼に証明してやりたかったんだ。 彼が席に着き、みんなにこの体験談をひととおり話したところで、グループの人たちは、彼にお金でいっぱいの帽子を手渡した。 それは”真実を体験する”という驚くべき体験だった。 あなたはそんな体験をしたことがあるだろうか? ぐわーん! と銅鑼が鳴り渡る。 あんぐり開いた口はふさがらず、頭を抱え込む。 「いったい、なんで今まで気づかなかったんだ」 真実があまりに明白に、歴然と目の前に現れた瞬間だ」 彼はそこに座ったまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。 究極の真実---『あなたが人に与えることは、自分に与えているのだ』ということを、彼は今まさに直に体験しているのだ・・・。 あなたがあるカタチで差し出したものは必ず、カタチを変えて返ってくる。そうならないことは、あり得ない。 なぜって、ここにはたったひとつの存在しかないのだから。 こうして『本当の豊かさとは何か』についての新しい気づきから、彼の人生は変わった。 だから『豊かさ』についてまず初めに大切なのは、何が『豊かさ』なのかをはっきりさせることだ。 あなたが最も素晴らしいあなた自身を、人生で出会うすべての人々に存分に捧げると決めたなら人生は90日で変わるだろう。いや、90分かもしれない。 人から見れば、あなたが何者であるかは、すぐわかってしまうのだから・・・。

ネガティブ・自己否定

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ネガティブ感情の製造工場



では物事であって、どのようにして起きているのでしょう。図をごらんください。あなたの感情をコップに例えると
、あなたのコップの中に不安感や自己否定、寂しさや罪悪感、怒りや必要のないプライドがたまっているとします。それでも普段は余裕がありますから大丈夫なのですが、周りから何か刺激があると、それが一気に溢れ出します。例えば、馬鹿にされたり、否定されたり、一人ぼっちになったり、注目されたりすると、自信をなくしたり、自己否定をしたり、不安や寂しさに襲われたり緊張したり、怒りが湧き上がってきたりします。

そうすると「どうせ私は一人ぼっちで当然よね」「やっぱり私なんか・・・」「自分のことなんてわかってくれない」「バカにしやがって」というネガティブ感情に支配されていきます。そして、あふれ出た感情を処理するために、一生懸命頑張ったり、自己犠牲をすることでごまかしたり、涙でこぼしたり、時には怒鳴ったりすることで吐き出そうとします。そうすると、ネガティブ感情が少し減りますから、安心するのですが、また周りからつつかれると、同じことを繰り返していきます。

ではなぜ周りはあなたのことを否定したり、怒らせたり、不安がらせたりするのでしょうか。それは、「あなたの中に、不安感や自己否定や、怒りや無駄なプライドがあるでしょう?それを持ったままだとあなたは辛いでしょ?苦しいでしょ?それがあなたを苦しめていることに気付いている?」「こうやって、否定されたり、無視されたりすると、すぐに反応してるでしょ?あなたの中にネガティブ感情の製造工場があるでしょ?それをどうするの?いつまで持っておくの?」と、つついてくれるのです。教えてくれているのです。

しかし、本人はなかなかそれに気づきません。それどころか、本人にとっては、嫌な出来事でしかありません。ですから「周りが自分のことを認めてくれないから、不安だしさびしくなるんだ。」とか「あの人が自分のことを否定するから、腹が立って仕方ないんだ。」などと思い、さらにネガティブ感情に支配されていきます。

そして「こんな嫌な所にいたくない!」と言って、他の所に行こうとします。しかし、残念ながら、その製造工場を持ったまま行きますから、また同じ事が起きます。同じことの繰り返しなのです。そんな経験ありませんか?

根本の問題はどこにあるのでしょう。製造工場をつついている周りの人に原因があるのでしょうか。それとも製造工場そのものに原因があるのでしょうか。明らかですよね。周りは、あなたを苦しめている製造工場が、そこにあるよと教えてくれているだけのことなのです。それに気づいていない自分がいるのです。ならば、それに気付いて、あなたが製造工場をなくすことなのです。それがなくなれば、周りが幾らつつこうが、反応するものはありませんので、素通りするだけのことです。何も起きていないことと同じことになります。

さらに、周りは製造工場があることを教えてくれていただけですから、それが無くなれば、もう教えてあげる必要はありません。ですから、周りの人のあなたに対する対応がガラリと変わり始めるのです。

しかし、なかには「あんな意地悪な人が、そんな素晴らしいことをしているはずがない。本当に意地悪でやっているとしか思えない」と思う人もいるでしょう。そう思っても仕方ないことです。その意地悪な人は、表層意識(頭での思考)では本当に意地悪な気持ちでやっている可能性があるからです。しかし、その奥の深層心理を越えて、さらなる奥の魂のレベルでは、皆さん神そのものですから全て善意でやっているのです。しかし、その意地悪な本人もそこには気づいていないのです。頭での思考と、魂レベルの思考とはまったく違う場合が多いのです。実は、このように魂レベルの思考が現実化しているのです。しかし、人間を体験しに来ている私たちの世界(三次元、人間界)では、魂レベルの思考には、気づいてはいけないことになっているのです。



こうあるべき!が×を作り出す



話は変わりますが、あなたが今の自分に○△×を付けるとしたら、さてどれですか?
はたして、「私は○です!」きっぱり言い切れる人が何人いるでしょうか?十人に一人いれば良い方でしょう。ほとんどの方が「自分は○とは言えない。」と思っているのではないですか?
「×ばっかりとまではいかなくても、完全に○とは言い切れない。」という方がほとんどでしょう。

実はそこに問題の根本があるようです。自分のどこかに×を付けている。
自分に×を付けていると、周りに○を付けられなくなります。だって、自分が×なのに周りに○をつけるのは悔しいものね。

さらに、物事を判断する基準は何を基準にするかというと、自分自身なんです。自分が一番よく知っている人間は自分ですから、その自分に×を付けていると「人間というものは、どうせそんなもんなんだ・・」としか、見れなくなります。

例えは悪いですが、泥棒が家を建てるとすると、どんな家を建てそうですか?ちょっと考えてみてください。
防犯設備を厳重にやりそうですよね。自分が盗むから、ほかの人も盗むだろうと思いそうですよね。
詐欺師が人を信用できるでしょうか?ずっと疑ってそうですよね。自分が騙すから、周りも嘘をついているんじゃないかとしか思えなくなります。

そのようにほかの人を見るときも、無意識に自分を見るときと同じ目線で見てしまいます。つまり、自分に×を付けていると、周りの人や出来事もどうせ×だろうとしか見られなくなります。

しかし、×だらけの自分では生きていけませんから、誰かに○をもらわなくてはならなくなってきます。そこで○をもらうために、取り敢えず相手に○を付けなくてはいけません。良い人のふりをしたり、無駄に人を誉めたり、おだてたり。そうしなければ、○をもらえません。

しかし、○を付けているふりをしても、どこかに×を付けてしまいます。そうすることで、自分の×とのバランスを取ろうとします。

あるいは必要以上に頑張ったり、良い人のふり、良い子を演じていかなければならなくなります。時には「自分さえ我慢すれば・・・。」と、自己犠牲をしたりします。そうすることで、他人から必死に○をもらおうとします。あなたはどうですか?やってませんか?

しかし、相手に○を付けることで、自分が○をもらおうとしたり、良い人を演じることで○を集めようとする人はまだいいのですが、中には自分の×を正当化するために、相手にさらに大きい×を付けようとする人もいます。

「あなたの×より、まだ私の方がましよ!」とやってしまいます。そして、バトルが始まってしまったり、あるいは自分の理想像を相手に押し付けようとしたりします。それって大迷惑ですよね。

では、なぜ自分に×を付けてしまうのか。それは、自分の中に何かの基準があるからなのです。「これが正しい。」「こうあらねば・・・。」という基準が、実は×を作りだしているのです。
「これが正しい。」と思った瞬間、それ以外は「間違い」「×」になってしまいます。そして、×に囲まれて生きていかなければならなくなるのです。

では、その基準ってどんなものなのでしょうか?○になるための基準ってどこにあるのでしょうか?絶対的な基準ってあるのでしょうか?
実はどこにもその基準ってないんですよね。
あるとすれば「誰かがこう言った」「これがふつう」「常識」等々。実に曖昧なものなのです。それは、時代や国、宗教、個人によって違ってくるし、個人もその時の気分や都合によって、コロコロ変わってしまいます。

そんな曖昧なものを基準として自分で自分を評価し、その上、その基準に合わない自分に×を付け続けて苦しんでいる。そんなことをやっていませんか?

実はこの「こうあるべき」が問題を作り出す大元なんです。これが正しいといった瞬間、それ以外は間違いになります。自分で勝手に枠を作り出しておいて、その枠によって発生した×と戦っているんですね。あなたはどうですか?
ほとんどの方がそれをやっているのですが、その中でも2種類の人種がいます。

一つは「こうあるべき」と言って、自分はその枠の中にいる人。「私は正しい」と言っている人です。そして「あいつが、こいつが」「社会が、政治が」と自分以外を批判したり、他人に自分の価値観を押し付けようとしたりしている人です。当然「あいつがこいつが」に囲まれて生きていくことになります。

それともうひとつは、「こうあるべきだ」といいながら、自分はその中に入っていない人です。「こうあるべきなんだけど、それが出来ていない私はダメ・・」となっている人です。その人も当然×に囲まれて生きていくことになります。

そして「私は正しい」といって、枠の中にいる人は、枠の外にいる人に対して、「こうあるべきでしょ!」と相手の×の部分を攻撃し始めます。相手にダメ出しをしておいて、自分の思い通りにさせようとするんですね。自分の意に沿わないものは間違いであり、悪いものとなっていきます。そして周りをコントロールし始めます。

そこまでいかないにしても、自分の理想像を相手に要求して、小さな衝突を繰り返したりします。あるいは、自分の価値観を相手に押し付けたりします。

しかし、周りは自分の思うようになりませんから、いつもイライラすることになってしまいます。
あるいは、枠の内側にいる人の中には、先ほども言いましたように、自分の「×」を正当化するために、周りに更に大きな「×」を付けようとする人もいます。それは、他人に「×」を付けることで、自分を正当化しようとしたり、自分の優位性を保とうとしているのです。つまり、そのような人も本当は自分の中の「×」を、一生懸命守ろうとしているということになります。沢山の鎧で守らなければならない何かが自分の中にあるのです。

さらに「私はダメだ」と枠の外にいる人は、「これが正しい。」「こうあるべき」「立派にならなくちゃ」と言いながら、出来ない自分に対して「私のこんなところがダメだから、理想の自分にならなくちゃ。もっと立派な人にならなくちゃ・・」とやり始めます。自分にダメ出しをはじめます。

そうすると、「良い人」「元気な人」を演じたり、時には自己犠牲をやり始めたりします。「私さえ我慢すれば・・。」とやり始める人もいます。そうすることで、周りから「○」をもらうことに一生懸命になっていきます。

「○」がたくさん集まれば、あるいは「○」を沢山もらえる自分になれば、幸せになれるんじゃないかと思い始めます。しかし、いくら「○」をもらえたところで、安心できません。もともと「私は×です」と言っているのですからね。

さらには、昨日もらった「○」を今日「返せ!」と言われるかもしれませんし、今日はもらえたけれども、明日はもらえないかもしれない・・・。そうやって、いつも不安の中で生きていかなくてはなりません。

どちらも結果は同じなんですね。結局は×に囲まれて、×と戦い、×に怯えながら生きていくことになります。あなたはどっちにいますか?

これも、ほとんどの人が状況や都合に応じて、枠から出たり入ったりしているでしょう。例えば、会社や学校では「やっぱり私って・・・。」と思って自信を無くしたり、しかし家に帰ると家族に対して「あんたが!」と人を責めたりします。残念ながら、まだ私にもそういう側面があります。

そのようにしても、どちらも自分や周りに付けた×をどうにかしようとし始めます。あなたもそれをやっていませんか?そして、その×は無くなりましたか?どうでしょう?逆に増えていませんか?

そうなんです。×をどうにかしようと思えば思うほど、×は逆に増えるんです。それは、当然のことなんです。
×をどうにかしようと思っているということは、枠にこだわっているということです。そして、その枠が×を作り出していたのですから、×をどうにかしようと思えば思うほど、×は逆に増える一方だという悪循環に陥ります。少なくとも×が無くなるということはまずないでしょう。

「なぜ、あなたは私の言う通りにしないの!」。そう言えば、相手から反発が返ってきます。もし、相手がおとなしい人であれば、その時は従うでしょうが、心の中では怒りが渦巻いていたり、自信をなくして、さらに出来ない人になっていったりします。

あるいは、「自分はダメだから、頑張らなくちゃ!」と頑張るのですが、結局疲れ果てて、なにもできなくなったり、失敗したり・・。そして結局「やっぱり私って・・・。」となってしまいます。

そんな経験ありませんか?それは、あなたの周りの「×」や、自分に付けた「×」をどうにかしようと思ったからなのです。

×をどうにかしようと思えば思うほど、×はどんどん増えていくことになります。
では、どうしたらいいのでしょう。
それは、×をどうにかしようとするのではなく、枠を無くすこと、はずすことなのです。枠が×を作り出していたのですからね。枠を外せば、自動的に×は無くなります。

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食べ物と思考

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食べ物のカロリーすら、思考の影響を受けている



あなたのまわりの環境は、あなたの思考や感情から影響を受けている。

それを目に見える形ではっきりと証明するために、ここでは体重計を使うことになる。つまり、自分の身体を実験台にすることだ。

心配はいらない。実験はたった三日間だけだ。それに実験の結果も、コーネル大学の調査によると、アメリカ人90%が望んでいる状態になる。それは体重を減らすことだ。体重を増やしたいと思っている人も心配はいらない。この実験で、健康と活力を向上させることができるだろう。


あなたが口に入れる食べ物も、この世界に存在する他のすべての物質と同じように、エネルギーで満たされている。体重を減らそうと必死になっている人は、食べ物の持つエネルギーに抵抗している。ここで戦うのではなく、むしろ食べ物のエネルギーと仲良く協力するようにすれば、食事や生活習慣を一切変えなくても、簡単に500グラムから一キロは減らすことができる。

あなたが摂取した食べ物のエネルギーは、あなたの思考や言葉から影響を受ける。お皿に乗っているそれらの料理は、ある決まったカロリーや栄養素を持っているわけではない。むしろ活発に変化するエネルギーで、あなたの思考や言葉に敏感に反応する。


もちろん、栄養士が計算する栄養素やカロリーには、あなたの言葉や思考から送られるエネルギーは入っていない。でも食べ物が身体に与える影響を本当に正確に測りたいなら、言葉や思考のエネルギーを考えないわけにはいかないのだ。思考のエネルギーは、食べ物に元から含まれるカルシウムやビタミンDと一緒に、身体に吸収される。


トム・シャディアック監督の「I AM/世界を変える力」というドキュメンタリー映画を観たことがない人は、すぐに借りてみてみよう。すべてがすばらしい映画だが、この実験に関係にある場面は特に注意して見てもらいたい。それは、ハリウッドの有名映画監督であるシャディアックが、ストレスと人間のエネルギーについて研究するNPOのハートマス財団を訪問する場面だ。まず、長年ハートマスの研究主任を務めるロリン・マクフライが、ボウルに入ったヨーグルトに電極を挿す。

ヨーグルトはただのドロリとした物体だと思われているが、マクラティはこの電極を使った実験で、シャディアックの思考と感情に反応することを証明した。シャディアックが最初の結婚について尋ねられると、ヨーグルトの生物反応を示す針が大きく左右に振れたのだ。そして、まだわだかまりの残っている弁護士の話になると、針は大きく振りきれた。ヨーグルトとシャディアックの感情に敏感に反応した。シャディアックの意識が過去の結婚を離れ、今いる部屋に戻ってくると、針も静かに停止した。

マクラティは言う。
「なぜこうなるのかはっきりとはわかりませんが、人間の感情がエネルギー・フィールドを作り、他の生物系もそのエネルギーに反応するということは否定しようがありません」

ここで考えてみよう。あなたは今までに、次のようなことを何回ぐらい言ったり考えたりしたことがあるだろうか。

・体重を減らすのは本当に難しい。 ・チョコレートを見ただけで太ってしまう。 ・私は代謝が悪いからやせにくい

こういったことを言ったり考えたりすると、ただ気がめいるだけではない。自分の身体や、自分が口に入れる食べ物も、直接的な影響を受けるのだ。



植物に、うそ発見器をつないだら何が起こるか?


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1960年代、元CIAエージェントのクリーヴ・バクスターは、植物が人間の意図を感知するということを発見して、一躍有名人になった。1966年、CIAを退職したバクスターは、今日でも世界最大と認められている嘘発見業務を請け負う会社を設立した。

ある夜、ニューヨークのオフィスにいたバクスターは、観葉植物をうそ発見器につないでみようと思いつく。最初はただの暇つぶしだった。しかし、植物の葉を熱いコーヒーに入れたり、マッチで燃やしたりしてわかったのは、植物は熱いコーヒーやマッチの火といった物理的な刺激だけでなく、人間の思考や意図にも反応するということだった。


バクスターは大きなショックを受けた。「通りに飛び出して、『植物は考えるんだ!』と世界に向かって叫びたい気分だった」と彼は言う。しかし叫ぶ代わりに、バクスターは植物と思考の研究に没頭していった。

そして、高性能のウソ発見器を用いた実験によって、あらゆる種類の植物が、人間の思考と感情に反応するということを証明した。バクスターは数十種類の植物を実験に使った。私たちが普段食べているような植物だ。彼の発見によると、植物は人間の耳には聞こえないような音にも反応し、人間の目には見えない赤外線や紫外線にも反応する。


1943年に亡くなったウィーンの生物学者、ラオウル・フランスは、複雑な実験器具がまだ存在しなかった時代から、この植物が持つ不思議な力に気づいていた。自分の事しか考えていない人間がまったく気づいていない出来事や現象を、植物はつねに観察し、記録しているというのである。


それでは、こういった話は体重計と何か関係があるのだろうか。人間が摂取する食糧の大部分は植物だ。もちろん、たいていの植物は加工されたり、切り刻まれたりして原型をとどめていないが、それでも私たちが食べるものの大部分は、最初はまわりの出来事を感知する力を持つ生きた植物だった。

植物以外の食べものは動物であり、そして動物もまた植物を食べて生きている。つまり、人間が生きていくために必要な食べ物、飲み物、アルコール飲料、薬品のほとんどが、植物から生まれているということだ。そして植物は、バクスターや彼の後継者たちの研究によって、人間の思考を読み取ることが証明されている。

私の言いたいことが、もうわかっていただけただろうか。
自分自身や自分の体型、自分が食べるものについて、あなたが考えたり言ったりすることが、あなたの健康状態を決める核になっている。もしかしたら、厳密なカロリー計算をして、必死になって摂取カロリーを抑えようとすることが、あなたが理想の体重になるのを阻むもっとも大きな障害物なのかもしれない。




体重を減らしたいと考えることが、あなたの身体をやせにくくしている


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ダイエットは敵だ。ダイエットをすると、むしろ太ってしまう。
ダイエットに効果が無いことくらいは、たとえ天才でなくたってわかる。それなのに、なぜ私たちは、ダイエットという名の苦行を自らに課すのだろうか?

そこで、こう考えてみよう。一週間の終わりに上司のところへ給料を受け取りに行ったら、こう言われてしまった----「申し訳ないが、今週はきみに給料を出さないことに決めたんだ」

それでもあなたは、いつか給料をもらえるに違いないと期待しながら、その会社で働き続けるだろうか?


年に600億ドルを売り上げるダイエット産業を見てみればすぐにわかることだが、私たちのほとんどが、食べ物との間にとても複雑な関係を築いている。私たちは食べ物のおいしさと栄養を単純に楽しむことができなくなってしまった。その代り、食べ物を恐れ、食べ物を憎み、そして鏡に映った自分の姿を食べ物のせいにする。愛憎愛半ばする関係とはまさにこのことだ。

自分についてネガティブなイメージを持ち、体重を減らしたいとばかり考えていると、それがあなたの現実になる。つまり、ネガティブな気持ちと、体重を減らさなければいけない状態が、あなたの現実になるということだ。

こういった思考はかえって逆効果になり、あなたはずっと今の状態にとどまってしまうだろう。あなたの身体は、あなたの思い込みがそのまま形になっている。あなたの細胞は、あなたが言ったり考えたりすることをすべて感知している。あなたが自分のたるんだ二の腕をののしったり、たるんだお腹の肉をつまんで嘆いてばかりいたりすると、自分の筋肉や腺や繊維にその考えを刷り込んでしまうのだ。

起きている時間のほとんどを使って、自分のたるんだ身体を呪っている人にとってはにわかには信じられないかもしれないが、人間の体は、普通の状態で十分に健康だ。

人間の体には、自分で悪いところを治し、正常な状態に戻す力がある。あなたが何かをする必要はまったくない。しかし、自分の身体に「醜い」というレッテルを貼り、必死になってカロリー計算をしていると、あなたの身体はかえって今のままの「好ましくない」状態にとどまってしまう。




著名なヨガ教師のアラン・フィンガーは、10代のころに体重を45キロも落としたことがある。しかも驚いたことに、たった1か月で落としたのだ。

アランの父親のマニ・フィンガーはインドでヨガを学び、そのときに覚えたとても強力な呼吸法を、帰国してから肥満児の息子に教えた。

そしてアランは、エネルギーを動かす効果のあるその呼吸エクササイズを一か月行い、なんと45キロもやせたのである。


いや、あなったの言いたいことはわかる。そんなことは不可能だと思っているに違いない。たった一か月で45キロもやせられるわけがない、と。

でも、そんな考えを今すぐに捨ててもらいたい。そういったネガティブな思考、無限の可能性を鼻で笑うような思考が、あなたの足かせになるのだ。自分のエネルギーを変えるには、自分の思考を変えなければならない。あなたの辞書に「不可能」という文字を入れてはいけない。


私の友人で、たぶん30年くらい万年ダイエット状態の人がいる。彼女はあらゆるダイエット法に手を出してきた。運動もしたし、極端な食事制限もした。でも、どれもうまくいかなかった。

そこで彼女は、エモーショナル・フリーダム・テクニック(EFT)と呼ばれる方法を試してみた。EFTの教えによると、身体のツボを押すだけで理想の体重になれるという。長年苦しんだダイエットの問題がそんなに簡単に解決するとはとても信じられなかったが、それでも友人は藁にもすがる思いでやってみることにした。

そしてなんと、EFTでエネルギーを解放すると、30年間何をやっても落ちなかった余分な体重が、わずか1か月の間ですべて落ちてしまったのだ。あれ以来、彼女はリバウンドすることもなく、理想体重を維持してすばらしいプロポーションを保っている。


アラン・フィンガーがわずか1か月で45キロもやせたように、あなたも信じるだけで理想体重になることができる。あなたは何キロ減らしたいだろうか?

ブルース・リプトンの「思考のすごい力」という本をぜひ読んでもらいたい。リプトンは細胞生物学者で、かつてスタンフォード大学で教えていた。彼の発見によると、意外なことに、人間の体は遺伝子よりも自分のエネルギーや思考のほうに大きな影響を受ける。

リプトンは本の中で、膝に問題を抱えた人たちの驚くべき話を紹介している。患者を二つのグループに分け、最初のグループには複雑なひざの手術を受けてもらう。そして二つ目のグループには、自分は手術を受けたと信じさせる。実際に手術室に入り、膝を切開するのだが、治療は一切受けていない。つまり、膝の状態はまったく変わっていないということだ。


しかし、どちらのグループも膝の状態は回復した。どちらのグループもすぐに歩けるようになり、バスケットボールもできるようになった。膝を痛めるまでできていたことは、すべてできるようになった。

こんなに強力なプラシーボ効果を見せられたからには、あなたも自分はやせてスタイル抜群だと信じないわけにはいかないだろう。ネガティブ思考なんて捨ててしまおう。自分の意識を集中したものが拡大するのだ。自分は太っていてダイエットが必要だということばかり考えていたら、それがあなたの現実になってしまう。



実験



この実験では、食べ物に対して日ごろ抱いている恨みをすべて捨てることになる。
口に入れる食べ物は、すべてあなたの親友だ。親友とまでは行かなくても、少なくとも栄養豊かな知り合いではある。

自分のエネルギーを使った自然治療の専門家ののトーマス・ハンナによると、人間の体は、その人の思考プロセスが形になったものだ。だから、あなたの体重が増えるのは、どうしても我慢できなくて食べてしまったバナナクリームのパイのせいではなく、自分に対する思い込みのせいなのだ。

この実験を始めるにあたり、まずは自分の体験に対するネガティブな言葉を一切言わないようにしよう。難しいと感じる人もいるかもしれないが、そういう人はネガティブな考えが浮かぶたびに、その反対のことを考えるといい。たとえば、友人との電話で、何気なくこんなことを言ったとする。「昨日、映画館で映画を見ながら、バターのたっぷりかかったポップコーンを一人で全部食べてしまったの。三キロぐらい増えてそうな気がする」。この効果を打ち消すためには、こんなことを付け加えればいい。

「でもアントニオ・バンデラスがシャツを脱いだ時に、思わず飛び上がって半分くらいこぼしちゃったし、それにかえってやせたような気がする」(このとき、控えめな表現をする必要はない。自分はスタイル抜群だと堂々と宣言しよう!)


食べ物には魔法の力を持ったエネルギーがたくさん詰まっている。そして食べるという行為は、どこまでもポジティブな体験であるべきだ。それなのに、私たち現代人は、食べ物との関係がかなりこじれてしまっている。そのため、この実験がとても難しいと感じてしまう。

食べることに対する罪悪感は、私たちの中に深く刻まれている。だから、完全にポジティブな気持ちで食べることに、大きな違和感を覚えるかもしれない。練習が必要な人もいるだろう。

もしかしたら、一度克服したと思っても、やがて昔の習慣が復活して、今から食べるもののカロリーや脂肪量を確認するようになり、またこの実験が必要になることもあるかもしれない。紹介している実験はたいてい48時間しかかからないが、この実験が72時間になっているのもそのためだ。

この実験で証明するのは、あなたの思考とエネルギーが、外側の世界につねに影響しているということだ。

昔の人は、食事の前に必ず祈りをささげていた。私の家族も昔はそうだった。レストランに行ったときも、食事の前は必ず祈っていた。

中学生のころは、それがとてつもなく恥ずかしかったものだ。でも今の私なら、食前の祈りによって、食べ物にポジティブなエネルギーと思考を送っていたということがわかる----もちろん、当時は家族の誰もそのことに気付いていなかったけれど。でもその証拠に、私の家族で太りすぎて悩んでいる人はひとりもいない。
この実験では、次のことを行う。


1・自分の身体をけなすのをやめる。もし可能なら、一切のネガティブな言葉や思考を禁止する。 2・何かを口に入れる前に、必ず愛にあふれた思考を送るようにする。食べ物に手をかざし、祝福する。 3・愛、喜び、平安の気持ちで食べ物を摂取する。


これだけだ、実験の開始日に体重を測り、そして終了日にもまた体重を測る。

意識には「正しい使い方」がある

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意識には「正しい使い方」がある



「内なる声」について、あなたは何を知っているだろうか?
内なる声は、いつでも私たちを導いてくれる。内なる声が助けてくれないときは絶対にない。今までもなかったし、これから先もない。内なる声の導きはいつでもそこにある。

内なる声以外の何かに導きを求めるのは、自分から問題を招き寄せるようなものだ。仏教の世界では、雑念みまみれた心を「猿の心」と呼んでいる。そんな猿の心の状態では、絶対に問題を解決することはできない。

たとえて言うなら、それは爪切りを使って庭の芝を刈るようなものだ。それなのに、私たちのほとんどが、雑念にまみれた猿の心に導きを求めてしまう。具体的には、脳の左半球の部分、顕在意識のことだ。顕在意識はしょっちゅう判断ミスを犯し、解釈を間違え、作り話をでっちあげる。


実は、顕在意識の役割はたった二つしかない----それは、問題を見つけること、目標を設定することだ。

意識の正しい使い方を心得ている人は、この二つのためだけに顕在意識を使っている。つまり、問題を見つけ、目標を決めたら、すぐに顕在意識を使うことを放棄するのだ。


顕在意識が得意とするのは、種を植えることだけだ。それなのに、たいていの人は、顕在意識にそれ以上の仕事をさせている。顕在意識によって物事のいい面と悪い面を比較検討し、「合理的な決断」に到達しようとする。直観なんてまるであてにならない、というわけだ。


顕在意識は、問題を見つけ、目標を設定すると同時に、余計な仕事を始めようとする。問題について、おせっかいを焼いてくるのである。

「こんな大きな問題はとてもじゃないが手におえない」「簡単に解決できるわけがない」「目標はたしかに立派だけだ・・・」「そうだ、前にも同じようなことがあったじゃないか。そのとき解決できなかったんだから、今回もダメに決まっている」・・・言うまでもなく、この脳の中にいるお節介焼きは、あなたにとってベストの相談相手ではない。間違った判断を下し、現実をゆがめ、余計な悩みや心配を増やすだけだ。



「合理的な判断」こそが、願いがかなうのをじゃましている

たとえば、ジェーンという女性が、夫との関係を改善するために、顕在意識を使って目標を決めたとしよう。それ自体はとてもすばらしいことだ。ただ残念なことに、ジェーンは顕在意識に余計な仕事をさせてしまった。

目標を決めたところで考えるのをやめ、あとは意図を送り出して流れにまかせればよかったのだが、顕在意識をフル活用して、選択肢を吟味したりして「合理的」な決断を下そうとしてしまった。するとジェーンの頭の中は、あっとう間にネガティブな思考でいっぱいになる。

すると、ジェーンの頭の中では、不平不満の不協和音がガンガンと鳴り響く。まるで素人バンドが、親の家のガレージで雑音をがなりたてているようだ。

「夫との関係はもう終わっているの」
「音は手のかかる怠け者だ」
「私の希望は絶対にかなえられない」

言い換えると、顕在意識が現実の解釈を始めてしまったということだ。
問題は、顕在意識は、現実そのものをきちんと解釈するのではなく、気まぐれであてにならない先入観をもって解釈をしているということだ。だから、そこから生まれる決断は、間違ったものになるだろう。

爪切りは本来の目的のために使うのがいちばんだ。もう薬箱の中にしまい、もっと芝刈りに適した道具を出して来よう----それは、あなたを助けてくれる「内なる声」の導きだ。

コツさえつかめば、内なる声はとても頼りになる。それに加えて、内なる声の答えは、顕在意識が出す答えよりもずっと平和的だ。直観の力を使うので、顕在意識では理解できないような、予想外の事態にもうまく対応できる。




娘が41度の高熱を出したときに聞こえた「声」



ときに、内なる導きはまったく予期していないときに訪れることがある。
たとえば、生まれたばかりの娘が41度の高熱を出したときもそうだった。私は娘のタズマンを抱っこして、家の中をおろおろと歩き回った。高熱にどう対処したらいいのかまったくわからなかった。

時価は夜中の三時ごろ。友人たちは「時間は気にせず、昼でも夜中でも電話してね」と言ってくれているし、それにたぶん本気でそう思ってくれているのだろうが、それでもそんな時間に電話をする気にはなれなかった。私はただ、小さなアパートの中をおろおろと歩き回るだけだった。

そのとき突然、妙にはっきりした声が聞こえてきた。「私があなたにそのすばらしい贈り物を届けたのは、あなたからそれを奪うためではありません」。その声はそう言っていた。その瞬間、私は娘は大丈夫だと確信できた。

内なる声は、こんなふうに、ときには運勢占いのようにはっきりしたメッセージを送ってくれることもある。友人のダーリーンはある声を聞いた。当初はバカげた妄想のように思えたが、後から考えればあれは間違いなく何かのお告げだった。

ある日いきなり、自分が所属する教会の、楽団の指揮者になりなさいとう声が聞こえたのだ。悪くない話だが、ごく小さな問題がひとつだけある。それは、ダーリーンには音楽の素養はまったくなく、演奏できる楽器はアルトサックスだけ----それも、かなりへたくそだったことだ。たしかに歌うのは好きだったが、指揮をするのとはわけが違う。彼女の顕在意識はさっそくおせっかいを焼き始めた。

「ダーリーン、なにをバカなことを言っているの。神様----他の誰でもいいけれど-----が、あなたに指揮者になってほしいなんて思うわけがないでしょう?」


そこでダーリーンは、一回だけ挑戦してみることにした。もちろん、勝ち目のない大ばくちのような挑戦であることはわかっていた。それでもとにかく、挑戦して納得しさえすれば、バカな目標もそれにふさわしい場所、すなわちゴミ箱に捨ててしまえばいい。
ダーリーンは自分の内なる声と取引をした。

「私が指揮者になることを本当に望んでいるなら、牧師様か、教会の理事長か、オーケストラのピアニストに、今日の終わりまでに会わせてください」

その日は月曜日で、教会は次の日曜日までずっと閉まっている。だから3人のうちの誰にも会うことはないだろう。それに自分はフルタイムで働いているのだから、近所でばったり出会う可能性なんてほぼゼロだ。ダーリーンはそう思っていた。


仕事から家に帰る途中、彼女はスーパーマーケットに寄って買い物をした。レジの列に並んでいると誰かが声をかけてきた。

「あら、ダーリーンじゃない!お買いもの?」
それは、夜中の3時に私を安心させてくれた、あの天界から響く深い声ではなく、教会の理事長のメアリージェンキンズの声だった。ダーリーンが並んだ列の前のほうに、理事長も並んでいたのである。

願いをかなえるテクニック

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願いをかなえるテクニック


祈りの本質はスピリチュアルであり、その行動は科学的です。
かんたんなステップを踏むことにより、理解を超えた安らぎを見いだし、求める喜びや癒しを実現するでしょう。

これからご紹介するのは、すでに効果が証明されている祈りのテクニックです。山のいただきに到達するにはいろいろなルートがあり、誰もがそれぞれにいちばん適した道を見つけなければいけません。

私はこれらのテクニックを長年使っていて、これにより自分が完全であるという深い感覚と、神の存在を体験してきまし。そのテクニックを今、あなたにささげます。心からの真の祈りがもたらす永続的な喜びが得られることを祈り、信じながら。


環境をととのえましょう


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祈りはいつでもどこでもおこなえますが(そして、真の祈りは絶えることなくつづきます)、祈りに合った環境をととのえることで、その実践でさらに効果をあげることができます。一部屋まるごと、あるいは部屋の一部、あるいは少なくとも机の一部を専用の空間にし、祭壇をつくります。そのさい、テレビや仕事、食事や会話といった日々の生活の喧騒から離れた場所を選びます。

祭壇をつくる目的は、あなたに神を思い出させ、安らぎをもたらすようなエネルギーを積み上げることです。愛する人や好きなものを思い出せるよう家に写真やアートを飾るように、祭壇は私たちの思いを神聖なものへと高めてくれます。

祭壇には、神や平和や癒しのシンボルを飾ります。神聖な存在や聖人、大切に思っているスピリチュアルな師、あるいは愛する人の写真などを置きます。そしてキャンドルや聖書、インセンス、花、クリスタル、聖石、鳥の羽、あるいは見ると力を与えられるものを飾ります。

あなたの祭壇はあなた自身がつくりだすもので、あなたにとって意味のあるものにすべきです。

祭壇はちりひとつないほどきれいにし、その聖なる空間にガラクタや世俗的活動が入り込まないようにします。
そこで祈ったり瞑想したり、聖歌を歌ったり、心を高めてくれるものを読んだりするなら、そこには癒しの波動が蓄積され、その場所に入ったとたんに安らぎを感じられるようになるでしょう。

あなたの家にはつねに神が住んでいます。そして祭壇はその存在を裏付ける場所なのです。



毎日の習慣にすること


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祈りは地道に続けることで達成する技能です。
好きな時だけ、あるいは便利なときや苦境におちいっているときだけ祈っても、奥深くに入って真の意味を見いだすためのスピリチュアルな筋肉を発達させることはできません。

規則正しくおこなうには、はじめのうち努力を必要としますが、じきにそれも楽になり、楽しく、とても有益になります。

毎日をまず祈りではじめてください。子供は生まれて五年間が自己形成の時期であり、その時期に受けた印象がその後の人生の基調をなすことはご存知でしょう。同様に、一日の最初の五分が、その日一日の基調をつくります。

あなたはその日をどのような一日にしたいかを選択することができますが、それはその日がはじまる前にしなくてはなりません。

起きてすぐに忙しくしたり、仕事に取り掛かったり、会話をはじめてしまうと、その日の基調をととのえるのがもっと難しくなってしまいます。家族があったり、起きたらしなくてはいけないことがあるならしてください。でも、そのあとできるだけ早く神とともにすごす時間をつくってください。家族よりも30分早く起きれば、その努力が大きく報われることに気付くでしょう。

では、どのくらいの時間祈るべきでしょう。私はマインドを静めて内なる静かな場所に触れるのに最低20分はかかります。まだはじめたばかりで20分は負担に感じるなら、まず5分からはじめて徐々に増やしていってください。

正しく祈っているなら、祈りつづけたい気持ちになり、その効果を楽しめることでしょう。一時間祈り続けたい日もあるでしょう。そんなときは自分でわかります。

では、祈りのをいつ終えるべきでしょう。まるでたましいがとてもおいしい食事を終えたかのように、完結した感じがしたときがいいでしょう。養分を与えられ、完全で、前向きに感じられます。

不快感や動揺したような状態が数分以上つづいた場合も、祈るのはやめましょう。祈りや瞑想のときにそわそわと落ち着かない感じになることがよくあります。数回呼吸をして集中しなおすと、その不快感も去っていくことが多いものですが、それがつづくなら、無理にあらがわないこと。それは、やめなさいということです。たいていは、深い健やかさを感じて祈りを終えることでしょう。

眠る前にも祈ること。起きている状態から睡眠状態への移行は、朝起きるときと同様に大切です。眠るとき、私たちは別の次元へと入り、大切なスピリチュアルな学びをします。落ち着かない状態や刺激過多の状態で眠りにつくと、その状態を解消することに夜の大半をついやしてしまい、睡眠が与えてくれるスピリチュアルな再生を享受できなくなります。眠る前に祈ったり瞑想したりすると、それがその日起こった未解決のトラウマを解消する手助けとなり、肯定的な睡眠状態に入る準備をしてくれます。そうすると、朝もリフレッシュしてめざめることができます。

眠る前には、ニュースや心を乱すような映画を見ないこと。そして、パートナーとけんかをしないこと。何か問題が起きたなら、できるだけ静かにおだやかに処理するか、次の日にまわすことです。祈りのあとによく眠り、リフレッシュして起きたなら、直面しなくてはいけない問題もずっと上手に解決できる状態になれるでしょう。

夕方にも20分間、祈ったり瞑想したり、心を高める言葉を読んだり、おだやかな音楽を聴いたりするといいでしょう。

とても疲れているなら、ただ数分間静かにすわり、神を思い出します。大いなる愛の源にその日一日を感謝し、眠りの中でもともにいてくれるよう願います。神には時間が存在しません。そして、言葉よりも背後にある思いのほうを感じてくれます。


リラックスが大切な準備


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まず、祈りや瞑想の準備をするには、リラックスした状態になってください。
目を閉じ、深くて長い呼吸を数回し、足元から頭頂へと部分ごとに体をリラックスさせていってください。心地よい音楽を流すのもいいでしょう。事前にヨガや太極拳、あるいは運動などをしておくとリラックスしやすくなります。安らぎ、身体が楽になるのを助けてくれるものなら何でもけっこうです。

横になって祈ったり瞑想をしたりすることは、おすすめしません。眠りに落ちやすくなり、それはそれで利点もありますが、瞑想に対する意識的な集中力を失ってしまいます。

さらに、知らぬ間に睡眠でも瞑想でもない心的な状態へと入っていってしまうこともあります。ですから、瞑想のためには背筋をのばしてすわるようおすすめします。

祈りのセッションをはじめたあとは、体を制止し、気をそらさないこと。
もじもじと動いたり、体をかいたりしないようにし、どうしても必要なのでないかぎり、トイレに行くのも電話を受けるのもやめましょう。

この実践をしっかりつづけていこうと集中力がとても強くなり、それによってたましいにもっとも深い安らぎを見いだす空間が生まれるのです。



意識を集中させてください


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まず最初に少しのあいだ、意識を集中することからはじめましょう。
キャンドルの炎を見つめたり、呼吸に意識をもってきたり、マントラ(真言)あるいはアファメーションをとなえます。

こうすることにより、頭の中に浮かぶありとあらゆる思考に気持ちがそらされなくなり、しっかりと内面に向かうことができるようになります。


喜びや幸福の思考を反芻しましょう


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何か心が高揚するような考えをひとつ、頭の中で反芻します。そうすることによってあなたの意識が神聖なものへと引き上げられます。

「神の安らぎが今私の中で輝いている」 「すべての物事は善に向かってともに働いている」 「私は神の愛する子である。完全で自由で欠けるところがない」

このようなアファメーションは、あなたの潜在意識の中に深く沈み、あなたに真実を思い起こさせ、きざみこまれたマイナス思考をプログラムしなおします。あなたに喜びや幸福をもたらす考えなら、どんなものでも反芻する価値があります。

これは神に話しかけるよい時間でもあります。
創造主とのあなたなりの関係をつくり、大好きな友人として話しかけるのです。何を考え、何を感じているのかを話し、グレート・スピリットに支え助けてくれることを願います。そして人生の中にある愛や美しさに感謝します。

あなたの言葉は必ずや聞き届けられます。話しかけ終わったなら、今度は神の答えに耳をかたむけます。それは必ずやってきます。

また、創造的なビジュアライゼーションをしてみてもよいでしょう。
美しい自然の光景を想像し、心の中で自分をその光景の中におきます。木々の緑を見、花の香りをかぎ、岸辺に寄せる波の子守歌に耳を傾け、太陽の輝きにひたります。自分がもっとも健康である様子を思い浮かべ、すばらしい人間関係と理想的な富、そしてプラス思考をしているのを想像します。あなたの大好きな師があなたのもとに来てくれるよう招きます。木の下にその師とすわり、心からの会話をします。

そうしてイメージすればするほど、あなたの安らいだ世界は現実味をおびてきます。そしてその内なる聖域に入っていくことにわくわくすることでしょう。

また、自分にとって意味のある祈りの言葉や詩編を読み上げるという実習も楽しめるでしょう。それをただ棒読みするのではなく、それぞれの行間、たとえば、「天にましますわれらの父よ」と言ったなら、その行間にふくまれた意味を感じてみます。それを語った人がそのときどんなことを感じていたか、感じ取るようにしてみてください。

祈りの力を発見してください。肉体の目や他人の言葉からではなく、みずからの心の中に。


メディテーションで静けさの中に



たましいが満たされ、啓発されたと感じたなら、言葉を手放してその黄金の静けさの中に休息します。

そこでは言葉が語ることのできない完璧な安らぎを見いだせることでしょう。神に向かおうと努力するのをやめて、神とひとつになるのです。時間を超えた瞬間に疑問は消滅し、すべてが明確になります。

瞑想のあいだにも思考が浮かんでくるかもしれません。でも、それに乗っていはいけません。思考は春の空に流れていく雲のようなものだと考えます。あらがうのではなく、同時に引き込まれてもいけません。

あなたは出てきては消えていく思考以上の存在であり、その本質はあなたの感覚が体験できるどのようなことよりも、はるかに豊かなのだということを見いだすでしょう。

その黄金の静けさの中ですごす神との時間は、ほんの数瞬でも生涯の贈り物となります。毎日神に触れることにより、外の世界ができないような方法であなたは満たされるでしょう。



祝福をあらゆるものに広げます



心から満足するまでその安らぎの中にひたったなら、そのプラスのエネルギーを外の世界に向かって輝かせなさい。愛という黄金のカーペットを向こうに向かって広げていき、これからの一日の準備をしなさい。そしてあなたにとってよいことが適切な方法と完璧なタイミングですべてやってくるよう招くのです。

もし、自分の人生のある面を癒そう、あるいは改善しようと思っているならば、その状況を白い光で満たし、それを理想的な調和とバランスのとれた状態にゆるぎなくしてくれることを感謝します。祈っている対象の人を自分のマインドに抱き、完全であるという目でつつみます。

問題のほうに巻き込まれてはいけません。そのような人物や状況には、癒しの意識を向けてください。それから愛や祝福や好意を、すべての生きとし生けるものに広げ、あらゆる場所に神の存在がいつもあることを認めます。


あなたのための祈りの言葉



イエスはこの世を去る前に、こう約束しました。
「私はつねにあなたたちとともにある」

そしてその後、「私はあなたがたになぐさめを与えずに去ることはない」とも言っています。

イエスは人間としてその言葉を言っていたのではなく、生きたスピリットとして言っていたのです。
その生きたスピリットは、あなたにも私にも、いつでも手が届きます。
そして、祈りはその存在に私たちがとどく方法です。



あなたのための祈り



私は、あなたの大切な夢やビジョンがすべて実現することを祈ります。 あなたの心からの望みが、すばらしく奇跡的な方法で満たされるよう祈ります。 あなたの人生が恐れや痛みから自由で、あなたのおこなうことが会う人すべてにとっての祝福であるよう祈ります。 神があなたとともにあり、あなたが神聖な存在にいつも気づいているよう祈ります。 それにしても、あなたが祈りの力を発見して、自分のものとすることを祈ります。 そうすることであなたのスピリチュアルな源の深奥を知り、あなたを創造した神があなたとともに歩き、決してあなたのもとを去ることがないと知ることで、深い喜びを体験するよう祈ります。 万事はうまくいっています。私たちは孤独ではなく、天国は手の届くところにあるのです。

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