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潜在意識の法則・想定の法則

潜在意識の法則・想定の法則

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感覚的に生きる・この瞬間を感じる。

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入る---「わぉ!」のワーク



●生きることに向き合うには物語が必要です。目覚めるために非合理的になって科学を手放す必要がないことも理解しました。
今、私たちは物事について考えることができることがどれだけすばらしいことか、しっかりと理解しています。精神の重要性を理解したところで、精神を超え、神秘体験の深みへと飛び込んでゆきます。
今この瞬間の感覚的体験に焦点を当てるワークを紹介します。心を静め、物語から飛び出して、「わぉ!」のワンダーに満たされましょう。




深い神秘に意識を向けると、深く目覚めることができます。しかし、精神が私たちを物語に引き戻す限り、神秘に集中し続けるのは容易ではありません。この「わぉ!」のワークでは、この瞬間の神秘に深く入る簡単な方法を紹介します。精神がリラックスし、静寂が広がってゆくはずです。ここでひとつ、禅のメッセージをお伝えしましょう。



■禅僧が弟子と歩いていると、その弟子がこう言いました。「どうしたら悟りを開けるのですか?」

■禅僧はしばらく静かになり、そして答えました。「さらさらと音を立てる小川のせせらぎは聞こえるかね?そこに入りなさい」


この弟子は崇高でスピリチュアルなメッセージを求めていたのでしょうが、禅僧は交わされる会話の背後で小さな音を立てていた小川に注意を向けると悟ることができると考えたのです。今、経験していること、つまりこの瞬間の感覚的体験に入ることを通じて意識を深くするように伝えたのです。

感覚的体験に入ると、目覚めは力強く引き起こされます。感覚的体験の直接性に入る時、それは深い目覚めへの入り口となります。陳腐な毎日が神秘的ですばらしいものへと変貌します。五感は甦り、肉体は深く安らぎ、存在を強く感じるようになります。

ロンドン大学の脳神経学者セミール・ゼキ教授は最近、美しいものを見た時と恋に落ちる時に脳の同じ箇所が活性化されることを発見しました。今ここにある直接的な感覚的体験に深く入り込むとあらゆる感覚が美しく、瞬く間にこの瞬間と恋に落ちますから、この研究結果にも納得です。




「入る」ワーク



「入る」ワークはこれまでのワークに続くもので、このワークにより「わぉ!」に入ることは容易かつ効果的になります。本当に聞いて、見て、感じることで、私たちの五感のすばらしさに深く感謝しましょう。私の経験では、この瞬間の感覚に入ると、そこは大きな喜びに満ちているため、物語を手放して神秘に飛び込むことがより簡単になります。精神は静まり、神秘体験が自ずと立ち上るようになるのです。

今ここでしている経験を深く意識するだけで「入る」ことができます。味わいの喜びに入る、音楽の魔法に入る、他の誰かに触れる喜びに入る。いつでもどこでもこのワークを通じて神秘に飛び込むことができます。




感覚的呼吸



呼吸の感覚に入ることは特に大きな力となります。私は定期的に感覚的呼吸を練習してきたため、自分の呼吸に深く入ることができるようになりました。存在することのすばらしさを忘れてしまった時、呼吸が私を生きることに引き戻してくれます。

スピリチュアルな教えは呼吸とともに瞑想の練習をすることの大切さを説きます。練習と言われると難しく感じられるかもしれませんが、感覚的呼吸はすばらしいものです。20代の頃、私は1年のほとんどを瞑想して過ごしました。そしてこの頃、呼吸に入ってゆくことが本当に心地よいものであると知ったのです。

瞑想の先生は呼吸することの感覚的喜びを見逃すことが多いため、呼吸に集中することは喜びを味わう経験ではなく難しい挑戦であるように聞こえがちです。けれど、ただ呼吸することの喜びに浸されることは実に美しい経験です。




感覚的に生きる



「入る」ワークは簡単かつ効果的。これまでの「わぉ!」のワーク同様、感覚的瞬間に入ることが私にとってどんなものかをまずあなたと共有しますので、私と一緒にワークをしてから次はあなたひとりで試してみてください。



ワンダーする


静かに座り、リラックスします。
ワンダーすることで自分を目覚めさせます。
私を取り巻く世界のすばらしさと美しさに驚いています。
ワンダーすることで、深い未知の感覚に入ってゆきます。
物語を飛び出し、この瞬間の神秘へ入ります。
今、私は直接的な感覚的体験に焦点を当てています。



感覚的に聞く


庭で鳥が鳴いているのが聞こえます。私はその音に入ってゆきます。
私は本当に聞いています。
歌声の声色とリズムが聞こえてきます。
深く聞くに従い、私の意識状態は変化してゆきます。
まるで初めて聞いているかのように、聞くことはとても美しく感じられます。
この瞬間の経験は完璧に神秘的で、ワンダーに満ちています。
注意力は集中しながらもやわらかく、まるで音を撫でているかのようです。
聞こえてくる音と音の輪郭が溶け出し、気づきに立ち上るひとつの美しい音の流れになります。
音の小川とひとつになったかのように感じます。
世界のすべてが震える音とともに鳴っています。そして、私もまた音です。




感覚的に見る


窓の外を見ると、庭の木にきれいなピンクの色が咲いています。
デニス・ポッターが死の直前、庭にある花を初めて見たかのように感じていたあの時のようです。
ピンク色の花に入ってゆきます。
本当に見ています。
私は静まりかえり、強く存在しています。
花々の繊細な質感に入ってゆきます。
花弁の生き生きとしたピンク色に入ってゆきます。
こんなにきれいなピンク色をしたものは見たことがないと感じます。
こんなに美しいものを二度と見ることはないと感じます。
物事の本物の姿、魔法のような、奇跡的な、神秘的な姿を見ていると感じます。
花の色を近く、親密に、まるでそれとひとつであるように感じます。
私は花に恋しています。



感覚的に呼吸する


体を感じながら、この椅子に座っています。肌が感じる空気を意識しています。
息が上り、そして降りてゆくのを意識しています。
呼吸に入ってゆきます。
体に入り、体から出てゆく空気の感覚的な流れを意識しています。
生きに浸り、ただ呼吸することはどんどん大きな喜びになります。
空気が濃く感じられ、体はエネルギーとともに震えています。
ここにあって呼吸していることは、想像できる中でもっとも充実した経験です。
呼吸に溶けてゆきます。
宇宙が私を呼吸しているかのように感じます。
私は気づきに立ち上る呼吸の感覚とひとつです。
体がやわらかくなり、ただ存在することを心地よく感じます。
神秘に浸されています。
今この瞬間のそのままに、恋をしています。
存在することに恋をしています。



ここでワークをやめますが、深くつながっている感覚、味わい深い体感はいまだ圧倒的です。靴を履いていないので、足がカーペットを踏む感覚のすばらしさが感じられます。コーヒーを飲めば、その味もまた格別です。生きていることは最高だと感じています。



この瞬間を感じる



では、あなたの感覚的体験に入ってみましょう。神秘体験リトリートでこのワークをするとき、私は美しい音楽を掛けます。音楽は魔法。意識をこれほど早く変容させてくれるものは他にありません。私自身もミュージシャンですが、音楽がどうやってそれをやってのけるのかわかりません。音楽は神秘です。

このワークではミニマル音楽を手掛けるアルヴォ・ペルトの優しく、アンビエントで深い『アリーナのために』をよく掛けます。大袈裟な曲である必要はありません。普段の無感覚状態から離れ、感覚に満ちた時間へと自分を誘うことができればよいのです。必ず音楽を掛ける必要はありませんが、試してみるとよいでしょう。

感覚的体感に入る機会が増えると神秘に深く入ることができるようになるので、このワークを定期的に続けてみてください。思考が邪魔するのであれば、感覚的体験に集中することがどれだけ喜びに満ちているかに注意を向けてください。そうすると精神は次第に穏やかになるはずです。




ワンダーする


静かに、心地よくします。リラックスして、アンテナを張ります。
あなたを取り巻く世界にワンダーし、深い未知へと入ってゆきます。
物語を抜け出し、この瞬間の神秘に入ります。
今ここにある、感覚的体験にあなたの注意を向けます。



感覚的に聞く


聞くことに意識を向け、そこに入ってゆきます。
音の流れ、大きな音、小さな音を意識的に聞きます。さまざまな音の音色に意識を向けます。
何かを聞くこととは何でしょう?
聞くことがいかにすばらしいか、たっぷり味わいます。
これまで耳が聞こえず、まるで初めて何かを聞いているかのように聞きます。
まるで、これが最後に聞く音かのように聞きます。
親密に聞き、気づきに立ち上る音とひとつであるかのように感じます。
聞くことと恋に落ちます。



感覚的に見る


見ることに意識を向け、そこに入ります。
あなたの前にあるものを、本当に見ます。
形、色、質を意識します。
何かを見ることとは何でしょう?見ることと聞くこととはどう違うのでしょう?
何かを見ることがどれだけすばらしいか、たっぷり味わいます。
これまでの人生で見ることができず、まるで初めて何かを見ているかのように見ます。
まるで何かを見るのがこれで最後であるかのように見ます。
親密に見て、見る感覚とひとつであると感じます。
見ることと恋に落ちます。




感覚的に呼吸する


今この瞬間の感覚を意識し、そこに入ります。
体から力を抜き、緩めます。
肌に触れている空気を感じます。
何かを感じることとは何でしょう?感じるという性質の感覚を経験することはどのようなものでしょうか?
あなたの体に入って来て、そして出てゆく呼吸に焦点を当てます。
呼吸に溶け出し、呼吸をすることがどれだけすばらしい味わいかを感じます。
呼吸することを親密に感じ、気づきに立ち上る呼吸の感覚とひとつであると感じます。
呼吸することに恋をしています。
存在することに恋をしています。




この瞬間の神秘



私は今この瞬間に存在し、物語は私に何が起こっているのかを教えてくれます。今、あなたのために書いているという物語が展開しています。ちょうど朝食をつくり終え、子どもたちを学校へ送り出し、あなたを深い目覚めに導くためにややこしい言葉をわかりやすくまとめあげる仕事が待っています。

私の物語を愛していますが、今日は少し不安を感じています。執筆がスケジュール通り進んでいないのです。締め切りまでに草稿を提出しないとどんな問題が起こるのかは明らか。けれど、時間が必要なのです。

これまでに多くの時間を割いて来たため、先々のことも少し心配です。この苦境を生み出した過去の出来事を後悔してもいます。不安と後悔により、今この瞬間の経験は損なわれています。

こんな気分は楽しくはないので、今に対する視点を変えてみることにします。物語を傍らに置いて、体に入っては出てゆく味わい深い呼吸の感覚に焦点を当てます。心を落ち着けると、物語における不安の正体を見抜くことができるようになります。何が起こっているのかを一体だれが知っていると言うのでしょう?私が計画した通りに人生が展開することなどないのです。ありのままの流れに抗うのは得策ではありません。起こっていることと調和していることの方がずっと大切なのです。

そして、波立つ表層の下、深い神秘へと入ってゆきます。そこで私は膨大な静寂、始まりの安らぎ、すべてが良いという確信に気づいています。力強く、今、ここに存在しています。体がリラックスし、気分が楽になります。今ここに存在していることの奇跡に、そしてただ存在することがどれだけすばらしいことかに気づいています。私を取り巻く日々の暮らしのワンダーに感謝しています。心配が引き起こした疲労は過ぎ去り、リフレッシュします。

この瞬間の神秘に留まることを阻む何かは消えはしません。「時間はどんどん過ぎて行くし、やることはいっぱいあるよ」と思考は私を急かします。けれど、私はそうやって思い出させてくれる思考に感謝し、憤りません。「神秘と一緒にいる方がいいのだから、馬鹿馬鹿しい締め切りなんて構うもんか」と言ってみることもできますが、それも良い気分ではありません。他人と交わした約束を果たす責任ある人物でありたいからです。責任を果たすことは、つまり愛することです。

そして私は物語における課題に戻ります。課題は変わらずそこにありますが、私の意識の状態は変化しています。人生の重みに圧倒されることなく、今この瞬間において生き生きとしています。ティムの冒険は、私を今のこの状態へと導きました。これが在るべき姿です。生きることは言葉で言い表すことのできない奇跡であり、人生の物語において私たちはさまざまな挑戦に立ち向かうのです。どんどんチャレンジを持ってきて!準備は整っているから!





”今”はどれだけ長いのか?



意識の状態を変えるとても効果的でシンプルな方法は「入る」ことです。感覚的体験の直接性へと注意を連れ去るために「今、ここ」を強く意識します。すると、物語から抜け出し、神秘へ入ることができます。神秘に浸される時、物語に対する見方は変化します。

このワークの効果を知るには、”今”のパラドキシティを理解する必要があります。これは「わぉ!」に目覚めながら、日々の暮らしのジレンマに対峙するための大きなヒントです。

「今はどれだけ長いのだろう?」という質問は、ふたつの異なる答えを導き出します。今はとても短いようでもあります。考えた瞬間、その瞬間は過ぎ去っていて、今を捕まえることはできません。しかしその一方で、いつも今です。過去は記憶として未来は可能性としてそこにありますが、永遠の今は今です。

今は短すぎて捕まえられないのでしょうか?それとも、長すぎて常に今なのでしょうか?あなた自身の経験を見つめると、そのどちらも正しいとわかるはずです。時間とは永続する今に現れる、変わり続ける経験の流れでしかありません。今は時間に存在しながらも、”時間を超えた性質”を持っています。

他のさまざまなパラドキシティ同様、ここにおいてもどちらか一方ではなく、両方の側面を意識する必要があります。問題なのは私たちがどちらかひとつの側面からしか、今を観ようとしないことです。どこから来てどこへ行くのかに関心を持つ時、私たちは時間の中の今だけを意識しています。この時、私たちは今の”時間を超えた性質”には興味がなく、それについて考えもしません。

物語は時系列に存在するため、今の時間を超えた性質に意識的になると私たちは物語から抜け出して神秘へと入ることができ、すると意識の状態は大きく変化します。物語とは思考によって捉えられた”生きること”です。そして、時系列に沿って並べられた言葉たちがつまりは思考です。例を挙げましょう。この・・・文章を・・・ゆっくり・・・読むと・・・私が・・・何を言いたいのかは・・・・最後まで・・・わかりません。そう、思考は時間に縛られているのです。

一方で、時間を超えた今に注意を向ける時、生きることは言葉では理解できません。私たちは今この瞬間に生きていることの輝かしい直接性を経験します。それは過去や未来に囚われないすばらしい解放感です。

物語は私たちがどこからやって来てどこへ行くのか、文脈の中で理解されるべく語られます。変わり続ける日々の出来事と対峙するには、この視点が必要です。けれど、深く目覚めると、私たちは”今、ここ”を深く理解し、それに感謝するようになります。

時間の物語に囚われると過去を後悔し、未来を心配するようになります。不安に駆られ、ストレスを抱え続けるようになります。けれど、時間を超えた今に入る時、そこに物語はありません。この瞬間の神秘において、波打つ水面下の深い安らぎを見つけるのです。そして生きることをありのままにすることを知ります。

私の経験では、今この瞬間に入るとワンダーに驚く子どものようなリラックスした状態にいる自分に気づきます。広大な広がり、裸のままの存在、深い未知。禅僧の鈴木俊隆はこれを「初心」と呼びました。

初心に返ると、私はここにあることを過去の出来事に汚されていない新鮮な視点で見つめるようになります。その時私たちは時系列の旅にあってたくさんの情報を携えた大人であるだけでなく、過去のパターンに則って物語の意味をつくり上げずに永遠の今に遊ぶ無垢な子どもでもあるのです。




情熱と安らぎ



この瞬間の神秘に意識的になることがもたらす力に気づいた20代のある日のことを、今でも鮮明に覚えています。その頃私は何か月も瞑想して過ごしており、それはすばらしい時間だったのですが、当時恋愛をしていた女性との諍いで心の安らぎはすっかり乱れていました。その頃住んでいた小さなコテージの開かれた窓の側に座り、小川のせせらぎを聞きながら、けれど心には不安と後悔が渦巻いていました。

私は前述の禅僧の話を思い出し、せせらぎの音へと入って石の上を踊る水が奏でるメロディーに身を委ねました。今この瞬間に強く意識を持った時、意識の状態が変わってゆくのを感じました。この瞬間に物語はなく、後悔も不安も苦しみもありません。私はその深く、強烈な静寂に心を浸したのです。

心が痛む時には、後悔に満ちた過去と未来への恐れの物語へと戻ってゆくのを感じました。けれど、時間を超えた今に自分を放つと、深い安らぎが再び姿を現しました。物語に戻ると、そこには以前の苦しみがありました。そしてありのままにすべてを委ねると、深い安らぎが現れるのです。

こうした体験を重ねるにつれ、私は自分の物語を嫌い、この瞬間の神秘に自分を解放したいと思うようになりました。けれど、物語を手放すことはできなかったのです。私は物語に立ち返り続け、心の苦しみを体験し続けました。

正確に表現するなら、私の一部が物語に戻りたいと思っていたのです。自分の感情を無視するのは、自分を誤魔化すことだと感じていたからです。物語を追いやろうとする時の私は、自分のもとを去ろうとする女性を愛しているという現実を追いやろうとしていました。私にはそれをする準備ができていなかったのです。苦しみを拒絶することすらできなかったのです。

今をひとつの見方でしか見てはいけないと考える時、イライラに消耗されるか、深い安らぎに驚くか、このふたつの間を右往左往することしかできませんでした。けれどやがて、私はもうひとつの可能性に気づいたのです。

私は時間を取り、物語での出来事について感じていることをたっぷりと受け入れました。別れの苦しみを讃えました。後悔と恐れを認めました。そして、その物語をしばし傍らに置くことを選びました。意識的に時間の物語から身を引き、この瞬間の時間を超えた安らぎにおいて自分をリフレッシュすることを決めたのです。

この瞬間の神秘に深く入るとそこにあるのはせせらぎの音楽だけで、私の心掛かりを優しく撫でながら取り去ってくれました。私のハートは開かれ、存在することの深い愛を感じ、表面上の出来事がどうであれ、すべては良いと深く知っていることに気づきました。意識の状態が変容するまで時間を超えた瞬間に留まりました。そして、直観的に「今だ!」と思った時、注意を物語に戻したのです。その時、私は自分の苦難を新たな視点で見つめ、何をすべきかを知っていました。




時間に入り、時間から抜け出る



私が伝えたいことは論理を超えています。物語から目覚めることは、この瞬間の神秘に気づくことです。けれど、時間における物語を意識することもまた大切なので、「どちらか/もしくは」のアプローチで対応しないことが肝心なのです。

「時間について考えずに、今を生きろ」というのがスピリチュアリティにおけるトレンドであるようで、「今この瞬間になる」を呪文のように唱えている人たちにもたくさん出会いました。けれど、ただこの瞬間になることなどできません。時間について考えるのをやめてしまうと、自分が誰で、昨日何が起こったのかを忘れ、記憶喪失になってしまいます。記憶喪失は目覚めではありません。それはできることなら避けたい病いです。




子どもと大人



子どもに伝えたいかどうかを考えることで、教えの真価を試すやり方はすでに伝えました。では、時間を忘れてこの瞬間に生きるよう、子どもたちに伝えたいかどうかを自分自身に尋ねてみましょう。答えはもちろんノーです。子どもにそんなことは言いません。

親として私は、時間にはより意識的になるよう子どもに伝えています。夜更かしが楽しかったとしても、明日の学校のことをしっかり考えてほしい。将来のためにしっかりと宿題をしてほしい。年老いても健康でいるために歯はしっかり磨いてほしい。

過去にしたことに対して責任を負い、未来に何が待っているかについて考えてほしいのです。こうすることで子どもたちは目覚めから遠ざかっているのでしょうか?子どもたちにはこの瞬間だけを楽しませるべきでしょうか?いや、違うはずです。

子どもたちは自然とその瞬間を楽しんでおり、それは良いことでもあり、また、その逆でもあります。今ここにいることをシンプルに楽しめるのはすばらしいことです。けれどそれだけでは、時間の中に生きることの現実的要求に応えることはできません。だからこそ、子どもは面倒を見てくれる大人を必要とするのです。

成長することは時間における旅であり、私たちはその旅をしてここまで来ました。時間の物語の中にいるのだから、過去や未来について考えるのをやめるべきだというのはおかしな話です。それでは意味を成しません。成長することのすべての過程が、後悔すべき過ちだったというのでしょうか?

生きることにおいて私たちは、今に生きることから、時間における物語を生きることへと成長を遂げます。時間における物語を生きるために、私たちは子ども時代に経験していた、”この瞬間に在る感覚”を代償として支払います。このため、大人の世界はとてもシリアスで不安でいっぱいなのです。けれど、子どもの頃に経験したこの瞬間に在ることの喜びは表層下にいつもあって、思い出されるのを待っています。

スピリチュアルな目覚めとは、この子どもの頃に持っていた本質と再びつながることにあります。これは子どものようになるという意味ではありません。そんな人に出会ったことがあるかもしれませんが、とても厄介な人たちです。子どものように振る舞う大人たちは深く目覚めていはいません。彼らは成熟しておらず、わがままで、影響力がなく、信頼に値しません。まさに子どもなのです!大人たちは子どもより多くを期待されますから、子どもであれば耐えられることも大人となると耐え難いもの。大人は自分を信じ、他人に対して責任を持つことが求められます。そうあるべきなのです。

一方で、成長することの不安がもたらすさまざまな層を内に重ね、子どもらしさの本質を地中深くに埋めてしまった大人に出会うと、この瞬間を味わうという生きることの喜びを忘れ、気難しく、緊張しながら生きている人たちであることが手に取るようにわかります。

このジレンマに論理を超えて向き合う時、私たちは時間において責任を持つ大人であると同時に、永遠にここにある今に遊ぶ子どもでいることができます。時間の流れと、時間を超えた今の両方を意識することができるのだから、どちらかだけを選ぶ必要はありません。そうする時、生きることはワンダーに満ち溢れるのです。


神秘体験

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神秘体験


これが、神秘体験です。神秘体験は、今、ここで、起こっています。とてつもなく神秘的な何かが、今、起こっています。私たちは生きていることに気づいていますが、それが何なのか知りません。何てすばらしいのでしょう。広大な宇宙に暮らしながらも、宇宙が一体何なのか知りません。何てすてきなのでしょう。今この瞬間を経験しながらも、この瞬間が何なのかまったくわからずにいるのです。何て面白いのでしょう。

”今この瞬間”を見つめてみると、形と色でできた”世界”と呼ばれるタペストリーを経験しているとわかります。けれど、その”世界”とは一体何か?心に立ち上る考えや感情をこうして経験しているけれど、それらはどこからやって来るのか?自分の存在を確かに感じていても、なぜ存在しているのかは依然として謎のままです。何ということでしょう。

人生は完璧に神秘的で、その神秘に思わず息を呑むほどです。けれど、多くの人はそれを当たり前のこととして日々を過ごします。本当は分かっていないのに、何が起こっているのか把握しているフリをします。人間でいることは途方もなく大きな謎で誰もが戸惑っているにも拘わらず、理解しているフリをするのです。

生きることの神秘のその深遠に触れる時、自ずと立ち上る神秘体験を冒険していきます。神秘に意識を向けると神秘体験が立ち上り、すると意識の状態はすぐさま変化を始めます。

意識の状態に変化が起こると、こうして自分が存在していること、そしてそれがどれだけすばらしいことかをはっきりと見て取ることができるのです。いつもの世界を好奇心とともに見つめるようになります精神が把握する現実はちっぽけなものだと認めるようになります。ハートは生きる喜びにワクワクするはずです。けれど、これは神秘体験の表面的な現れに過ぎません。神秘に深く潜れば潜るほど、神秘体験もまた、さらなる深さを私たちに見せてくれます。

神秘体験の深みへと旅をし、”スピリチュアルな目覚めと呼ばれる何かへと手を伸ばします。スピリチュアルに目覚めている時、私たちは筆舌しがたいもうひとつの意識の状態に入ります。このすばらしい感覚を言葉にすることはできませんが、確かに味わうことができるのです。

先日、私は夢を見ました。夢の中で私はステージに立ち、多くの観客に向けて神秘体験について話を始めようとしていました。そして、話そうとしたまさにその時、この体験がどれだけすばらしいものかを描写する言葉が見つからないことに気づいたのです。私は一瞬固まりましたが、すぐに何をすべきか気づきました。そう、飛べるのだから!私は「神秘体験とはこんな感覚です」と言い、宙にふわりと上がって空の空間を夢中になって舞い、上へ下へと自由自在に飛び回りました。

神秘に目覚める感覚を伝えるために今すぐ飛び回れたらよいのですが、あれは夢の中のことです。起きている間にどうしたら飛べるのか、私はまだ知りません。それにあなたからは私が見えません。だから、言葉を尽くして神秘体験を伝えましょう。トライしてみたいのです。

神秘体験に深く入る時、私は愛の海に溶けてゆくように感じます。宇宙と一体になる驚きと閃きの感覚がそこにあります。感覚的肉体が目覚め、意味の模索は言葉なき理解に溶け出し、それはあまりに深く、深いがゆえに考えとしては経験されず、そこには「すべてよし」という静かな確信があり、我が家に辿り着いたような安心感があります。



12歳の頃に目覚めと出会って以来、私は神秘体験を見つめ続け、数十年にわたって目覚めを初めて体験する人々に寄り添ってきました。目覚めたとき、多くの人が発する言葉。それは「わぉ!」です。

ここ数年、人々を目覚めへと導く「神秘体験リトリート」を開催しており、参加者からたくさんの感動的な手紙が届きます。ここでよく登場する言葉もまた、たくさんの感嘆符が添えられた「わぉ!」です。

「わぉ!」はすばらしい言葉です。アメリカのスラングかと思いきや、16世紀のスコットランドに起源をもつ言葉なのだそうです。「わぉ!」は、不思議に思い驚く気持ち、つまりワンダーする気持ちを表す言葉。神秘体験はとてもとても大きな「わぉ!」ですから、目覚めが一体どんな感覚かを示すのにこれ以上相応しい言葉はないかもしれません。それは、今まで経験したどんな不思議よりもすばらしい驚きなのです。

「わぉ!」と驚くにはさまざまな方法があります。美しい音楽を聴いて芸術のすばらしさに「わぉ!」と驚く。科学を通じ宇宙の厳かさに触れ「わぉ!」と驚く。美味しい料理を食べて「わぉ!」と驚く。スポーツを通しての脅威的な身体能力を目の当たりにして「わぉ!」と驚く。何かを学ぶことで自分自身の能力に「わぉ!」と驚く。

ここで出会うのは、目覚めの「わぉ!」です。存在することそのものの神秘に出会う、深遠なる「わぉ!」。生きることのこの上ないすばらしさに気づく、うっとりとした「わぉ!」。とてもシンプルな生きることそのものの「わぉ!」。言葉を超越したところにある何かに触れる、えも言われぬ「わぉ!」



神秘体験は誰もが求めている「わぉ!」です。私たちは皆、生きる実感を欲していますが、目覚めている時、私たちはどこまでも生きていると感じます。誰もが自由を求めていますが、目覚めている時、私たちは完璧に自由であると知っています。誰もが愛を求めていますが、目覚めている時、私たちは無限の愛にたっぷりと浸されています。

世界各地に点在するスピリチュアルな教えの中核は、どれも「わぉ!」に目覚める方法を指し示していると言えます。ゆえに、私は何十年にもわたりこうした教えと向き合ってきました。スピリチュアリティは人生についての思索として捉えられることも多いでしょうが、それ以前に、そして何にも増して、それは意識を変革し、言葉を超越した何かへと導くものであるはずです。

●賢人たちが説いたあらゆる教えは、「あぁ、これだ!」という突然の驚嘆に添えられた注釈に過ぎない。

●私は賢人ではないし、ここに記されたすべてのアイデアは喜びに満ちた叫び声『わぉ!』の注釈に過ぎない。以上!




ワンダーする


目覚めの経験を言葉にすることは誰にとっても非常に難しいもの。しかし、相手がその経験についてよく知らない時、目覚めに限らずあらゆる経験の描写は困難であるはずです。夕焼けを見るという経験がどんなものか、目の見えない人に向けて描写するのは簡単ではありませんし、音楽を聴いて感動することを、耳の聞こえない人に対して説明することもまた難しいはずです。

「私は怒っています」と言う時、怒りを経験したことがあるから、それがどんなものかを理解することができます。コミュニケーションは共通の経験に拠り所を見出します。あなたが知っている経験と対比しながら、目覚めについて伝えたいと思います。

不思議に思い、驚く、つまりワンダーするというシンプルな体験から「わぉ!」に目覚める方法を皆さんと分かち合います。深くワンダーすればあなたは目覚めます。存在の息を呑むような神秘に気づくことで、神秘体験は自ずと立ち上るはずです。

私たちは不思議に思い、驚嘆することにより旅に出て、やがて神秘へとたどり着き、その神秘の中枢に横たわる「わぉ!」に出会います。グノーシスの『マティアの福音書』にはこのような言葉があります。


●あなたの目の前にある物事を不思議に思い、驚くこと、それは深い知恵に触れるための最初の一歩である。

●どこまでも不思議に思い、驚いたからこそ、鋭い気づきを得ることができたのだ。思案し、熟慮することをしなければ、あなたの人生のすべては埋もれてしまうだろう。


生きることの眩い神秘を前に、そこに好奇心がなければ意識もまた注がれます。ゆえに、不思議に思い驚くこと、つまり、ワンダーすることは目覚めにおいて必要不可欠です。生きることがワンダーをもたらさないのであれば、私たちは半分死んでいるも同然なのです。


アート・オブ・ワンダー


哲学界の英雄ソクラテスはこう述べています。

●ワンダーの感覚は哲学者にとっての試金石である。それは哲学の始まりにすぎない。


哲学はかつてこのように捉えられていましたが、今日においては味気のない概念の模索として解釈されることが多いのもまた事実です。私は何年も前、この現代的解釈にもとづいた哲学を大学で専攻していました。精神にとっては最高のトレーニングでしたが、いつの間にか言葉の迷路に迷ってしまったのです。私は「スピリチュアルな哲学」に興味を持っていました。それは言葉の森を抜け、経験の神秘へと私たちを導くものであるはずです。

スピリチュアルな哲学は思考によって神秘を曖昧にするのでなく、思考を用いることで神秘を明かそうとします。概念は概念に過ぎないことを認識し、概念が神秘を孕むことはできないと理解しています。究極の答えを提示するのではなく、生きることの経験をさらにワンダーに満ちたものにする新たな見方を授けるのです。

新プラトン主義の哲学者プロティノスは、哲学に対するアプローチについて次のように述べています。


●哲学者の仕事とは、我々をビジョンへと目覚めさせることだ。

私が深く共感する言葉のひとつです。私にとって哲学者とは、深くワンダーすることで言葉を超えた「わぉ!」へとたどり着く手助けをする者。その過程で哲学者の「ん?」は、ヨガ行者の「オーム」へと変容するのです。



ワンダフル・ライフ(ワンダーに満ちた人生)



ここまで、神秘体験に満たされることがどれだけすばらしいことかを述べてきました。さらなる冒険へと歩みを進めるあなたの好奇心を刺激したかったのです。ひとつ理解しておいてもらいたいのは、「わぉ!」は絶頂の体験でもなければ、ハメを外してハイになることでもないということ。スピリチュアルな目覚めは、私たちの思考、感情、行動に影響します。「わぉ!」に出会うことで日々の暮らしに新しい生き方が立ち上がります。ソクラテスの有名な言葉に次のようなものがあります。


●熟慮されていない人生は、生きるに値しない。


一方、現代の哲学者アルフォンソ・リンギスはこのように述べています。

●生きられていない人生は、熟慮するに値しない。


このどちらもが正解です。熟慮しなければ、私たちは半分空っぽの意識で朦朧としたまま毎日をやり過ごすことになります。一方で、人生を熟慮することがそれを思う存分生きることにつながるからこそ、熟慮することには大きな意味があるのです。

あなたを「わぉ!」へ目覚めさせて、人生経験を変容させる、深く哲学的な”生きることの物語”を分かち合いたいと思います。ひとつ覚えておいてほしいのは、内容は物語に過ぎないということ。説明のみで存在の神秘の全てを知ることはありません。人生は常に私たちが考える以上のものです。哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドはこう述べています。



●哲学はワンダーすることに始まる。そして最後、哲学的思考がその最善を尽くした説き、そこにはワンダーだけが残される。





神秘体験をあなたと分かち合うためのものです。やり取りが一方的になるのは致し方ないことですが、ここで抗議をしたいのではありません。コミュニケーションがハートとハートで向き合う対話となることを願っています。最も美しい方法であなたとつながりたいのは、お互いがお互いにとって本物である時、そこに魔法が起こるから。

●友よ、これは本ではない、
人に触れるこれに触れるのは誰だ?
(それは夜なのか?私たちはひとりで、ここに一緒にいるのか?)
あなたが抱きしめる者、そしてあなたを抱きしめる者、それは私なのだ。


時空の網の中、私たちは異なる場所にいます。でも、ここで今、わたしたちはともにあるのです。では自己紹介を始めましょう。まず大切なことから、スピリチュアルな目覚めの教えてであるからといって、私は自分が悟りを開いたマスターであるとは考えていません。私は神秘体験に情熱を注ぐひとりの人間に過ぎません。

不思議に思い、驚嘆することに人生の多くを捧げてきたため、それはいつの間にか私が得意とするものになりました。深くワンダーすることで「わぉ!」に目覚め、神秘体験に出会うことができるので、私は神秘体験をよく知るようになり、人々をこの体験へと導くこともできるようになったのです。意識を向けるそのことが、やがて得意なものになります。私の場合はスピリチュアルな目覚めに意識を向けてきたのです。

私は完璧な悟りの状態に達してはいませんし、悟ることを期待していなければ、望んでもいません。また、悟りを開いた特別な人々に対する一般的な見解は完全に誤っていると感じているため、悟りに至っていないことを失敗とも考えていません。

スピリチュアルな哲学について書いてきましたが、いまだに赤子がヨチヨチ歩きをしているように感じています。無限の神秘を前に他にどのように感じろというのでしょう。誰も知らない宇宙の神秘を知っているわけではありません。私は単に、不思議に思い驚嘆すること、つまりワンダーすることが大好きなのです。こうかもしれない、物事にこういうふうに触れたらよいかもしれないとワンダーすることが、私を「わぉ!」へと目覚めさせ続けます。

だからといって人生が常に完璧で、いつも満足しているわけではありません。私の人生には山もあれば谷もあります。きっとあなたの人生もそうでしょう。こうした言葉を綴っているのは、実際に皆さんと同じようにさまざまなジレンマを経験しているからです。私たちは皆、生きることの神秘においてともにあります。その神秘において、先人たちから与えられた教えの中で価値があると感じたことを、感謝の気持ちとともにあなたと分かち合いたいと願っています。

私はあらゆる意味において特別な人間ではありません。あなたや他の誰かより特別なところはひとつもありません。50代で、家庭を持ち、父であり夫であることの喜びと責任のすべてを抱えて生きています。良いところもたくさんありますが、欠点も山ほどあります。実際に私と会うことがあるなら好感を持ってくれるかもしれませんが、一緒に暮らすことになったらいずれは嫌な面を見つけるはずです。けれど、それもまたよし、と思うようになったのです。私たちは皆、すばらしい魂であることも嫌なヤツであることもできるのだから。そうでしょう?



大きな問いと大きな答え



子どもの頃、私は大人たちが雑学で頭をいっぱいにしてばかりで、人生がどれだけ神秘に満ちているかを語ろうとしないことに頭をかしげていました。人生は大きな問いであり、きっとどこかにその問いに対する大きな答えがあるはずだと、私は直観的に感じていたのです。生きることが何なのかを知る時、自分が何をすべきかもわかるはずだと、静かに座り、想いを巡らせることの多い子どもでした。


私は愛らしい雑種犬スクラグを傍らに、忙しく動き回る小さな街を眺めながら、驚きと喜びの思索に耽っていました。ディズニー映画の一場面みたいだと思うかもしれませんが、人生には時としてそんな1ページがあるのです。

思索に耽っていたある時、魔法のような出来事が起こりました。驚きと喜びにすっかり吸い込まれ、意識が自ずと変容したのです。初めて味わった神秘体験。それはまさに「わぉ!」でした。

かなり昔のことですが、今でもあの圧倒的で、とてつもなっく美しく、うっとりとするような愛に満たされた経験をはっきりと思い出すことができます。まるで宇宙全体が無限の愛に震えているように、そしてその愛に溶け出し、宇宙とひとつになるように感じました。世界は不思議の国、つまりワンダーランドになったかのようでした。最高にすばらしい驚きに出会ったようでありながら、いつも密かに知っていたことを思い出したようにも感じられました。

自分に何が起こっているのかまったくわかりませんでしたが、生きることについての大きな問いに対する大きな答えに出会ったのだと、どこかで知っていました。答えは難しい理論ではなかったのです。それは、大きな問いが愛の海に溶けだす神秘体験でした。この発見が私の人生を大きく変えたのは言うまでもありません。

この瞬間と出会って以来、私は神秘体験を探究し続けています。意識を変革する方法、目覚めと日々の暮らしを統合する方法を模索し続けています。けれど、スピリチュアルな探求を経てもなお、かつてそう望み、また想像していた永遠の目覚めには達していません。一方で、もっとすばらしいことが起こりました。そう、私は生きることと恋をするようになったのです。




生きることとの恋



子どもの頃、期せずして経験した目覚めは、生きることとの恋の始まりでした。生きることとの恋は実際の恋愛と似ています。初恋は特別な経験です。こんな気持ちになってみたかったとずっと願っていた体験ですが、それはさまざまな喜びと葛藤を孕む恋という名の大冒険の始まりに過ぎません。

いずれ、すべてを変える何かに気づく瞬間が訪れます。深く愛していると知る時、もはや一時のロマンスに身を委ねているのではないとわかります。この魔法の瞬間は、愛を交わす恍惚の最中に起こることもあるでしょうし、皿洗いをしている時など、日常の何気ない瞬間に起こることもあるでしょう。相手との関係がうまくいっている時かもしれませんし、別れに直面した時かもしれません。いずれにせよ、その瞬間に出会った時、私たちの世界はこれまでとはまったく違ったものへと変容します。

誰かを深く愛しているとどのようにわかるのか、説明することはできません。ただそうだと知っているのです。そして深く愛している時、私たちは無条件にその恋愛に身を捧げています。愛することは一緒にいて楽しいことだけではないと知っています。それは相手が耐えられない時であっても、愛し合っていることを忘れないことでもあります。良い時も悪い時も相手のためにそこにいることが愛することです。

生きることとの恋もこれと似ています。幼い頃、神秘体験に溶かされたあの時、私は初恋をしました。ロマンスが始まり、美しい瞬間はやってきて、そして去り、時に私は何かを失ってひとり立ちすくむこともありました。そしてある時、すべてを変える何かに気づいたのです。私は完璧に、無条件に、生きることを深く愛するようになりました。良い時も、悪い時も、健やかなる時も、病める時も、喜びにおいても、悲しみにおいても、生きることとの恋に身を捧げていると知ったのです。

古来より人は人生を大いなる女神に例えてきました。時々私はこの女神と恋をしているのではないかと思うのです。女神との恋愛はたくさんの喜びをもたらしますが、それは大きな挑戦でもあり、さまざまな状態においてお互いを知ることで大いなる変容に触れる冒険でもあります。ふたりでありながらひとつになるダンスなのです。

時には私と女神はともにあって幸せで、すべては完璧です。時に私たちは喧嘩をし、離れ離れになります。愛を交わす時には、その瞬間の神秘以外何も関係なくなります。時間においてともに働き、実際的な物事に携わらなければいけないこともあります。女神のあまりの美しさに胸が高まらずにはいられないこともありますし、私の期待に応えてくれないと女神を罵ることもあります。女神は気まぐれにも拘わらず、彼女を完全に信頼する時もあれば、女神の愛を疑って愛されることを求める時もまたあります。けれど、あらゆる時を通じて私は女神の神秘のすばらしさに触れ続けます。そして女神を心から愛していることを決して忘れません。

「わぉ!」は情熱的なセックスや優しさに満ちた親密な関係と似ています。特別な瞬間を無理矢理引き起こすことはできません。お互いがそうした心理にある時、特別な瞬間は自ずと起こります。魔法の瞬間は恋愛関係を燃え上がらせるでしょうが、それはいつもそこにある静かな愛、静かにともにいることの愛に支えられています。

こうして”存在すること”がもたらす愛が、山あり谷ありの人生との恋愛において、私を支え続けています。だからこそ、例え起こっている出来事が好きになれなくても、生きることを愛することができるのです。良い時も悪い時も生きることに身を捧げ、嵐に耐え、雨の中で踊ることができるのです。

神秘体験を探ることで、私の人生は恋愛へと変容しました。そしてスピリチュアルな探究に対する見方も変わったのです。永遠に辿り着くことはできないだろう究極の悟りを望むことはなくなりました。その代り、生きることに見合った恋人になろうと決めたのです。


マジカル・ミステリー・ツアー



生きることと恋人になるための「わぉ!」に出会う新しい方法を紹介します。多くはシンプルなアイデアに始まるものの、次第に複雑になってしまうものです。けれど、目覚めの過程はこれを逆行します。冒険の始め、生きることをまったく違った視点から見つめて馴染みのない方法で捉えるため、スタートを切るのは簡単ではありません。けれど、この冒険はそもそもとてもシンプルな生きることの理解を目指しているので、冒険の後半はなだらかな道を進むことができるはずです。

ここから始まる冒険があなたにとって神秘と魔法に満ちたマジカル・ミステリー・ツアーとなるよう、前もって多くを述べることはしたくないのですが、私と一緒に冒険の旅に出ることを心配しないでください。安心している時、私たちは開かれ、目覚めた状態がいかに自然なものであるかは自ずと明らかになります。

安心を確信するとハートはすぐに開かれます。これは何年もの間、多くの人々と神秘体験を分かち合いながら知ったことです。リトリートでは参加者が安心して神秘に思い切り飛び込むことができるよう、ありとあらゆることをします。目覚めることが努力を必要としない純粋な喜びであるよう、リラックスしてありのままの自分でいて欲しいのです。

私たちはめぐり会うさまざまなアイデアをかき集めながら人生に向き合います。アイデアが今のあなたの生き方と調和するか否かが、この先の冒険の心地よさを決めるはずです。ですので、いくつかのことを事前に伝えておきましょう。

この冒険の旅は、生きることにワンダーすることからスタートしますが、人生がワンダフル、つまりすばらしさに満ちているとは感じられない瞬間が多々あることも重々承知しています。もし今、あなたが辛い時を過ごしているのであれば(誰であってもこうした経験を避けることはできません)、この先に書かれた内容があなたより幸せな日々を過ごす人間のまくしたてる人生讃歌ではないことをわかっておいてください。

私たちは生きることについて現実的である必要があります。目覚めの冒険をするのであれば、悲しみ、迷い、怒り、苦しみ、囚われ、孤独を孕んだ生きることの苦やら身にも足を踏み入れなければなりません。そこに足を踏み入れなければ自由になることはできないからです。

今回、目覚めに初めて触れるのであれば、「わぉ!」の深さに触れるにあたってスピリチュアルな経験をしたことがあるかどうかは関係ないことを伝えておきましょう。既成概念に縛られないのでむしろメリットであるかもしれません。

あなたがこれまでスピリチュアルな探求を続けてきたのなら、このアイデアが新鮮なワンダーをもたらして目覚めを手助けすることを願っています。また、よくあるスピリチュアルな教えとは異なるアイデアが含まれていることをあらかじめ知っておいてください。スピリチュアリティへの新しいアプローチを明確に提示するため、時として批判しなければいけない場面もあるのです。

目覚めについて頭では理解したものの、まだ経験していないという人もいるかもしれません。知的な理解は大きな助けになりますが、「わぉ!」を経験するためには思考を超えなければいけません。

実際に「わぉ!」を経験する手助けをするために、全編を通じて神秘体験に深く入るための実際に行うワークを紹介します。時折立ち止まってこのワークを試してみてください。さもなければ、あなたの前には山のような言葉しか残らないことになってしまいます。

目覚めについて疑っている人もいるかもしれません。もしそれならそれは良いことです。私が疑問を投げかける人が好きです。それに、もしすべてに対して徹底的に懐疑的なら、脳はポンと開け、神秘のただ中を舞っているはずですから、あなたはそこまで懐疑的ではないはずです。

スピリチュアルな本には非合理的で意味を成さないことがたくさん書かれていますから、目覚めについてあなたが懐疑的なのもよくわかります。私が合理的であることを大切にしています。合理性とはつまり特定のものの見方を採用するにあたって相当の理由があるということです。考えが興味をそそるものであるならば、私はしっかりと考えることが大好きです。

あなたが物事を科学的に捉えることに慣れているなら、私も科学に大きな興味を持っていることを伝えておきましょう。この科学の時代において、科学的発見と整合性の取れたスピリチュアリティを形づくることが肝要です。スピリチュアリティと科学との関連性はテーマのひとつでもあります。

もし、あなたが感受性の強い人であるならば、私もそうであることを知っておいてください。私は自分を哲学者と呼んでいますが、私にとってのスピリチュアルな冒険は、本質においては愛にまつわる冒険です。冒険の途中、やっかりな哲学の山を超えなければいけないこともあるかもしれませんが、そうしてこそ生きることの中心へと辿り着くことができます。ハートを開くためには精神を澄んだ状態にする必要があるのです。

あなたがどんな人であれ、出会う冒険があなたに多くをもたらすことを願っています。この冒険の旅に出るにあたって真に必要なのは、生きることにワンダーすること、つまり興味を持って自らを置き、冒険者であろうとすること、ただそれだけです。私にとって冒険者とは、前人未到の行き方が知られていない場所へ旅をする者のこと。私たちはそんな場所に辿り着こうとしています。あなたが冒険者なら、ようこそベースキャンプへ。大いなる冒険の旅は、いま、ここに幕を開けます。

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目覚めのきっかけ:ペインボディ

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子どものペインボディ



子供のペインボディは、気まぐれや内向状態として現れることがある。子どもはふくれてそっぽを向き、人形を抱いて隅に座り込んだり、親指を吸ったりする。発作的に泣きだしたり、癇癪を起すこともある。きいきい泣きわめき、床に転がり暴れるかもしれない。欲望が拒否されることは簡単にペインボディの引き金になるし、発達中のエゴでは欲望の力はとくに強くなりがちだ。さっきまでは天使のようだった子どもが数秒後に小さな怪物に変身すれば、親たちは信じられない思いでなすすべもなく見守るしかないだろう。「こんな不幸がいったいどこからやってくるのか」と、不思議に思うかもしれない。それが多かれ少なかれ子どもが分かちもった人類の集団的ペインボディの一部で、その集団的ペインボディは人類のエゴから発している。

同時に子どもはすでに親のペインボディから痛みを受け取っているのかもしれず、そうなら親は子どもに自分のペインボディの反映を見ていることになる。とくに敏感な子どもは親のペイボディの影響を受けやすい。親の感情のドラマを目の当たりにしたりするのはほとんど耐え難い苦痛で、そういう敏感な子どもは成長後、重いペインボディを抱える。親が自分たちのペインボディを隠そうとして、「子どもの前では喧嘩はやめましょう」と言い合ったとしても、子どもは騙せない。親が礼儀正しく言葉を交わしていても、家庭にはネガティブなエネルギーがたちこめる。抑圧されたペインボディはとりわけ有害で、おおっぴらに行動化されるよりももっと毒性が強く、その心理的な毒は子どもに吸収されて、子どものペインボディの糧になる。

子どもによっては、非常に無意識な親と暮らしているうちに、潜在的にエゴとペインボディについて学びとることがある。両親ともエゴが強くて重いペインボディをもっていたある女性は私に、親を愛してはいたが、親が怒鳴り合っているようすを見てよく「この人たち、頭がどうかしている。私はどうしてこんなところにいるんだろう?」と考えたと語った。彼女は子ども心に、こんな生き方は間違っていると気づいていた。その気づきのおかげで、親から吸収する苦痛は少なくてすんだのだ。

親は子どものペインボディをどうしていいかわからないことが多い。もちろん最大の問題は、自分自身のペインボディにどう対応しているか、ということだ。自分自身のペインボディを認識しているか?充分に「いまに在る」ことができ、ペインボディが活性化したときには感情レベルで、つまりそれが思考に入り込んで「不幸な私」をつくり出す前に、気づくことができるか?

子どもがペインボディの衝撃を受けているあいだは、こちらが「いまに在って」、感情的な反応に引きずり込まれないようにする以外、できることはあまりない。ことらが反応すれば、子どものペインボディの糧になるだけだ。ペインボディのぶつかりあいは極端にドラマチックになり得る。だからドラマに巻き込まれてはいけない。あまり深刻に受け取らないこと。欲求が満たされないことがペインボディの引き金になった場合には、素直に負けてはいけない。そうしない子どもは、「自分が不幸になればなるほど、欲しいものが手に入る」ことを学習する。これはのちの人生の機能不全につながる。あなたが反応しないと、子どものペインボディは苛立ち、しばらくはさらに激化するかもしれないが、やがては収まる。幸い子どものペインボディの発作はおとなよりも短いのがふつうだ。

ペインボディの活動が収まってから、あるいは翌日にでも、子どもと話し合ってみよう。だが、子どものペインボディについて話してはいけない。代わりにこんなふうに聞いてみよう。「昨日、あんなに泣きわめいたのはどうしてだろうね?覚えているかい?どんな気持ちだった?きみにとりついたのはいったい何なんだろうね、名前があるのかな?ないの?あるとしたら、どんな名前だと思う?姿が見えるとしたら、どんな姿をしているだろうね?そういつはどこかへ行ったあとは、どうなるんだろう?寝てしまうのかな?そいつはまた来ると思う?」

この問い方はほんの一例にすぎないが、どの質問も子どもの観察力を目覚めさせることを意図している。観察力、つまり「いまに在る」力である。この力があると、子どもがペインボディから自分を引き離すのに役立つ。それに子どもにわかる言葉であなた自身のペインボディについて話しておくのもいいかもしれない。次に子どもがペインボディに引きずり回されたときには、「ほら、あいつが戻ってきたね。そうだろう?」と言おう。子どもが使った言葉を使えばいい。それをどんなふうに感じているかに、子どもの関心を向けさせる。そのときは批判したり非難したりしてはいけない。興味と関心を抱いて聞いていることを伝えよう。

たぶんこれではペインボディの進撃を食い止めるまでにはいかないだろうし、子どもはあなたの言葉を聞いていないように見えるかもしれない。しかしペインボディの活動の真っ最中でも、子どもは意識のどこかで目覚めているはずだ。こういうことが何度か繰り返されるうちに、その目覚めは強くなっていき、ペインボディは弱くなっていく。子どもの「いまに在る」力が育つ。そのうち、ほらペインボディに負けているよ、と逆にあなたが子どもに指摘される日が来るかもしれない。




不幸



不幸のすべてがペインボディから発しているわけではない。新しい不幸、あなたが現在という時とずれてしまい、いろいろな意味で「いま」を否定したために生まれる不幸もある。いまという時はすでに厳然としてあって、避けようがないことがわかれば、無条件の「イエス」を言うことができるし、よけいな不幸を生み出すこともない。それどころか内なる抵抗が消え去れば、あなたは「生命(人生)」そのものによって力を与えられていることに気づくだろう。

ペインボディの不幸はつねに原因と結果が不均衡で、言うならば過剰反応だ。だからすぐにそれとわかるのだが、ペインボディに取りつかれている当人にはなかなかわからない。重いペインボディを抱えている人はすぐに動揺し、怒り、傷つき、悲しみ、不安に陥る。他の人なら苦笑してやり過ごすような、それどころか気づきさえもしないささいなことで、不幸のどん底に落ちたりする。もちろん、その出来事は不幸の真の原因ではなく引き金にすぎない。積み重なった古い感情を甦らせるのだ。その感情が頭に上り、拡大されて、エゴの精神構造を活性化する。

ペインボディとエゴには密接な関係がある。両者はお互いを必要としている。引き金となる出来事や状況は、重い勘定に彩られたエゴというスクリーンを介して解釈され、反応を引き起こす。このために出来事や状況の重要性が完全に歪められる。自分のなかにある感情的な過去という目で、いまという時を見ることになる。言い換えれば、あなたが見て経験している中身はいまの出来事や状況にではなく、あなた自身のなかにある。場合によってはいまの出来事や状況のなかにあるかもしれないが、それを自分の反応によってさらに拡大させている。この反応と拡大こそ、ペインボディが望み、必要としている糧なのだ。

重いペインボディに取りつかれている人は、自分の歪んだ解釈や重苦しくて感情的な「物語」の外に出るのが難しい。物語のなかの感情がネガティブであればあるほど、その物語はますます重く強固になる。だから物語であることがわからず、現実だと思い込む。思考とそれに付随する感情の動きに完璧に取り込まれていると、そこから出ることは不可能だ。なにしろ外側があることさえわからないのだから。自分でつくり出した映画や夢の罠にかかり、自分自身でつくった地獄に落ちているのと同じである。それが当人にとっての現実で、他の現実は存在しない。さらに当人にとっては、自分の反応以外の反応の方法はあり得ない。




ペインボディから自分を引き離す



活動的な強いペインボディを抱えている人はある種のエネルギーを放出していて、他の人はそれを非常に不快に感じる。すぐに相手から離れたくなったり、交流を最小限に抑えたいと思う人もいる。相手のエネルギー場に跳ね返されるように感じるのだ。またエネルギーを発している苛立ちを感じて無礼になったり、言葉やときには物理的な暴力で攻撃しようとする人もいる。この場合は反応する人のなかにも相手のペインボディに共振する何かがあるんだ。強く反応する原因は自分のなかにある。つまり自分自身のペインボディである。

当然ながら、重くてしょっちゅう活性化するペインボディを抱えている人は、年中争いに巻き込まれる。もちろん自分が積極的に争いを起こすこともあるが、自分では何もしていない場合もある。それでも放射しているネガティブなエネルギーが敵意を引き寄せて、争いを生み出す。相手がこういう活動的なペインボディをもった人だと、反応しないでいるためにはこちらがよほどしっかりと「いまに在る」必要がある。いっぽう、こちらがしっかりと「いまに在る」と、それによって相手がペインボディから自分を惹き話し、ふいに奇跡的な目覚めを経験することもある。その目覚めは短時間で終わるかもしれないが、とにかく目覚めのプロセスの始まりにはなる。

私がその種の目覚めを体験したのは、もう何年も前のことだ。夜中の11時に玄関のベルが鳴った。インターフォンから聞こえたのは隣のエセルの不安に怯えた声だった。「どうしてもお話ししなくてはならないことがあるんです。とても大事なことなの。すみませんけど、開けてください」。エセルは教養ある知的な中年女性だった。同時に強いエゴと思いペインボディの持ち主でもあった。彼女は思春期にナチス・ドイツから逃れてきたのが、家族の多くを強制収容所で失っていた。

入ってきたエセルは興奮したようすでソファに腰を下ろし、もってきたファイルから手紙や書類を取り出して震える手でソファや床に広げた。とたんに私は、自分の身体のなかで調光器の目盛が大きく動いてパワーが最大になったという不思議な感覚を覚えた。とにかくオープンな姿勢でできるだけ観察力を働かせつつ、しっかりと---身体の全細胞をあげて----「いまに在る」しかなかった。エセルの口から奔流のように言葉があふれる。「今日また、あいつらからひどい手紙が来たんですよ。私に復讐しようとしているんだわ。お願い、あなたも力になってください。私たち、一緒に闘わなくちゃ。向こうの性悪な弁護士は何が何でもやり通す気です。私、住むところがなくなってしまう。あいつらは権利をはく奪すると脅してきたのよ」。

どうやらエセルは、住宅の管理者が彼女の要求した修理に応じなかったという理由で、管理料の支払いを拒否したらしい。そこで管理者側は裁判に訴えると脅してきたのだ。

エセルは十分ほどまくしたてた。私は彼女を見つめながら聞いていた。とつぜん彼女は口を閉じ、いま夢から醒めたという表情で広げた書類を見回した。態度は落ち着いて穏やかになり、エネルギー場はすっかり変化した。それから彼女は私を見て言った。「こんなに大騒ぎするほどのことじゃありませんわね、そうでしょう?」。「そうですね」。私は答えた。それから何分か彼女は黙って座っていたが、やがて書類を拾い集めて立ち去った。翌朝、通りで出会った彼女はいぶかしげな表情で私を見た。「あなた、何をなさったんです?私はここ何年も眠れないで困っていたのに、昨夜はぐっすり眠れたんですよ。まるで赤ちゃんみたいに熟睡しました」。

エセルは私が何かをしたと思ったらしいが、実は私は何もしなかった。彼女は、何をしたのかではなく、何をしなかったのかと聞くべきだった。私は反応せず、彼女の物語のリアリティを保証せず、彼女の精神の糧となる思考もペインボディの糧となる感情も提供しなかった。そのとき彼女が体験していることを体験するがままにさせておいた。私の力は介入しないこと、行為しないことから生じていた。「いまに在る」ことは、つねに何かを言ったりしたりするよりも強力なのだ。ときには「いまに在る」ことから言葉や行為が生まれることもあるが。

エセルの変化は恒久的なものではなかったが、しかしある可能性を知らせ、彼女のなかにすでにあるものを垣間見せる結果にはなった。禅ではこの観察の体験を「悟り」と呼ぶ。「悟り」とは「いまに在る」ことであり、頭のなかの声や思考プロセスから、それにその思考が身体に引き起こす感情から離れることだ。すると自分のなかに広々としたスペースが生まれる。それまでは思考や感情が騒がしくせめぎあっていた場がすっきりと開ける。

考えても「いまに在る」ことは理解できない。それどころか多くの場合、誤解する。気遣いがない、よそよそしい、愛情がない、無関心だ、と言われることもある。だがほんとうは、思考や感情よりももっと深いレベルで関心を寄せている。それどころか、そのレベルでこそ、ただ関心を寄せるだけでなくほんとうに気遣い、ともにいることができる。「いまに在る」静謐のなかで、あなたは時分と相手の形のない本質を感じる。あなたと相手がひとつだと知ること、それこそが真の愛であり、気遣いであり、共感だ。




「引き金」



ペインボディのなかには、一定の状況だけ反応するものがある。ふつう引き金になるのは、過去に体験した感情的苦痛に共振する状況だ。たとえばお金のことで年じゅう騒ぎ立てて争う親のもとで育った子どもは、お金に対する親の不安を吸収し、金銭的な問題が引き金になるペンボディを発達させる。こういう子どもは成人後、わずかなお金のことで動揺したり、怒ったりする。その動揺や怒りの裏には、生存がかかっているという強い不安が存在する。霊的で比較的目覚めた意識をもった人が、株式ブローカーや不動産業者からの電話をとったとたんに声を荒らげ、詰問し、非難するのを見たことがある。タバコのパッケージに健康上有害ですという注意書きがあるように、お札や銀行の通帳にも、「お金はペインボディを活性化し、完璧な無意識を引き起こすことがあります」という注意書きが必要かもしれない。

親の片方あるいは両方から育児放棄された子どもは、遺棄への原初的な不安に共振する状況が引き金になるペインボディを発達させるだろう。この人たちの場合、空港に迎えに来る友達が数分遅れたとか、配偶者の帰宅が少し遅くなったというだけで、ペインボディの激しい発作が起こる。パートナーあるいは配偶者たちに去られたり死なれたりすると、その感情的苦痛は通常の場合をはるかに超え、激しい苦悶やいつまでも続いて立ち直れないほどの鬱や偏執的な怒りに取りつかれる。


子どものころ父親に虐待された女性の場合、男性との親密な関係がペインボディの引き金になることもある。逆にペインボディをつくりあげている感情のせいで、父親と似たようなペインボディをもった男性に惹かれることもある。そのような女性のペインボディは、同じ苦しみをもっと味わわせてくれそうな誰かに磁力を感じるのだろう。こういう苦痛は恋と勘違いされたりする。

母親に望まれない子どもで、まったく愛されず、最小限の世話と関心しか与えられなかった男性は、母親の愛と関心に対する強い満たされない憧れと必死に求めるものを与えてくれなかった母親への強い憎悪が混ざり合った、矛盾した重いペインボディを発達させる。こういう男性がおとなになると、ほとんどすべての女性がその飢えたペインボディ---感情的な苦痛の塊-----への引き金になり、出会う女性のほとんどすべてを「誘惑し、征服」せずにはいらない依存症的な衝動が現れる。それによってペインボディが渇望する女性の愛と関心を得ようとするのだ。そこで女たらしになるが、女性との関係が親密になりかけたり、誘いを拒絶されたりすると、母親に対するペインボディの怒りが甦り、人間関係を破壊してしまう。

自分のペインボディの目覚めが感じられるようになると、どんな状況や他人の言動がいちばん引き金になりやすいかもじきにわかるだろう。引き金になることがあったら、あ、これだな、とすぐに気づき、観察眼を鋭くすればいい。すると、1,2秒後に感情的な反応が起こってペインボディが起き上がるのを感じるだろう。しかし「いまに在る」ことができていれば、そのペインボディに自分を同一化しないから、ペインボディに支配されて頭のなかの声を乗っ取られなくてすむ。そんなときパートナーがそばにいたら、「あなたの言った(した)ことが、私のペインボディの引き金になった」と説明できるかもしれない。相手の言動がペインボディの引き金になったらすぐにそれを伝えると、お互いに取り決めておくといい。そうすれば人間関係のドラマによってペインボディがさらに大きく育つのを防げるし、無意識に引きずり込まれる代わりに、「いまに在る」力を強化するのに役立つ。

ペインボディが目覚めたとき、あなたが「いまに在る」なら、そのたびにペインボディのネガティブな感情的エネルギーの一部が焼失し、「いまに在る」力へと変容する。残るペインボディはすぐに退却して次のチャンスを、つまりあなたが無意識になる機会を待とうとするだろう。お酒を飲んだり、暴力的な映画を観たりしたあと、「いまに在る」ことを忘れれば、ペインボディにとってはチャンス到来だ。苛立ちや心配といったほんの小さなネガティブな感情でも、ペインボディが戻ってくる入り口になりかねない。ペインボディはあなたの無意識を必要としている。「いまに在る」という光には耐えられない。



目覚めのきっかけとしてのペインボディ



一見すると、ペインボディは人類の新しい意識の目覚めに対する最大の障害に見えるかもしれない。ペインボディは精神を占拠し、思考を歪めて支配し、人間関係を破壊する。エネルギー場に立ち込める暗雲のような感じだ。人間を無意識に落とし込む。スピリチュアルな言い方をするなら、心と感情への完全な同一化をもたらす。そのために人は直接的に反応し、自分と世界の不幸を増大させるようなことを言ったりしたりする。

しかし不幸が増大すると人生のつまずきも多くなる。身体がストレスに耐えられずに病気になったり、なんらかの機能不全を起こすかもしれない。悪いことが起こることとを望むペインボディのせいで事故に巻き込まれたり、大きな争いや波乱に遭遇したり、暴力行為の加害者になることもあるだろう。あるいはすべてが過重で耐えられず、もう不幸な自分として生きることができなくなるかもしれない。もちろんペインボディは不幸な自分という偽りの自分の一部だ。

ペインボディに支配され、ペインボディをペインボディと認識できずにいると、ペインボディがあなたのエゴの一部に組み込まれる。あなたが同一化する対象は、すべてエゴに組み込まれていく。ペインボディはエゴが同一化できる最も強力な対象の一つだし、ペインボディもまた自らに糧を与えて再生するためにエゴを必要としている。しかし不健康な同盟関係は、やがてペインボディがあまりに重くなり、エゴの心の構造では支えきれなくなったとき破綻する。エゴはペインボディによって強化されるどころか、つねにそのエネルギーを浴びせられて浸食されるからだ。電流によって動く電気器具も電圧が高過ぎると壊れてしまうのと同じことである。

強力なペインボディをもった人々はよく、もう人生に耐えられない、もうこれ以上の苦痛もドラマも引き受けられない、というところまで追い込まれる。ある女性はこれをずばりと、「もう不幸でいることにはうんざりだ」と表現した。また私がそうであったように、もう自分自身を相手にしていられないと感じることもある。そうなると内的な平和が最優先になる。感情的苦痛があまりにも激しいので、不幸な自分を生み出して持続させている心の中身や精神、感情的な構造から自分を引き離すのだ。そのとき人は、自分の不幸な物語も感情も実は自分自身ではないことを知る。自分は知る対象、中身ではなく、知るほうの側だと気づく。ペインボディが人を無意識に引きずり込むのではなくて、逆に目覚めのきっかけに、「いまに在る」状態へと赴かざるを得なくなる決定的な要因になる。

しかしいま地球ではかつてなかったほど大きな意識の流れが生じているので、多くの人々はもう激しい苦しみを通過しなくてもペインボディから自分を引き離すことができるようになった。自分が機能不全の状態に戻ったということに気づいたら、思考と感情への同一化から離れて、「いまに在る」状態へと進めばいい。抵抗を捨てて、静かに観察し、内側も外側もいまここに在る状態とひとつになるのだ。

人類の進化の次のステップは不可避ではなく、地球上の歴史で初めて意識的な選択が可能になった。その選択をするのは誰か?あなたである。あなたとは何者か?自らについて意識的になった意識である。




ペインボディからの解放



よく聞かれるのが、「ペインボディから解放されるには、どらくらいかかるのだろう?」ということだ。答えはもちろん、その人のペインボディの密度と、どこまで真剣に「いまに在る」ことができるかで異なる。だが当人の苦しみや他人に与えている苦しみの原因はペインボディそのものではなく、自分とペイボディとの同一化のほうだ。何度も繰り返して過去を生きることを強制し、あなたを無意識の状態につなぎとめているのは、無意識のペインボディではなく、自分とペインボディの同一化のほうなのだ。だからもっと大事な質問は、「ペインボディとの同一化から解放されるには、どらくらいかかるのだろう?」」である。

この問いの答えは、すぐにでも可能、ということだ。ペインボディが活性化されたとき、この感じは自分のなかのペインボディだと気づくこと。そこに気づけば、ペインボディとの同一化を断ち切ることができる。同一化しなくなれば、変容が始まる。ペインボディだとわかればそれだけで、湧き起って頭に上った古い感情が内的な対話だけでなく行動や他者との関係まで乗っ取るのを防げる。つまりペインボディはもうあなたを利用して自らを再生することができない。

古い感情はまだしばらくあなたのなかにあり、ときおり浮上してくるだろう。ときにはうまくあなたをだまして同一化へと持ち込み、気づきを妨げるかもしれない。だがそれも長くは続かない。古い感情を状況に投影しないということは、自分の中の古い感情と直接に向き合うことを意味する。それは心地よいことではないが、別に命までは取られはしない。「いまに在る」ことによって、充分に押さえ込むことができる。古い感情はあなた自身ではない。

ペインボディを感じたとき、自分は何かが間違っている、ダメな人間なんだなどと誤解してはいけない。自分を問題視する、それはエゴが大好きなことだ。ペインボディだと気づいたら、そのことを受け入れなくてはならない。受け入れずにいると、きっとまた見えなくなる。受け入れるとは、何であれその瞬間に感じていることを素直に認めることだ。それは「いまに在る」ことの一部である。いまに在ることに反論はできない。いや反論はできても、自分が苦しむだけだ。認めることを通じて、あなたは広々とした、せいせいした自分自身になれる。全体になれるのである。もう、断片ではない(エゴは自分を断片だと感じている)。あなたの本来の真のエネルギーが湧き起る。それは神の本性と一体だ。

イエスはこれについて、「だからあなたがたは、天の父が全体であるように、全体でありなさい」と言った。新約聖書には「完全でありなさい」と記されているが、これは全体という意味のギリシャ語を誤訳している。これはあなたが全体にならなければならない、という意味ではなく、あなたはすでに-----ペインボディがあってもなくても---全体だという意味なのだ。

エゴから解放される瞬間

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病気とエゴ



病気はエゴを強くも弱くもする。不満を言ったり自己憐憫に耽ったり病気を恨んだりしていると、エゴは強くなる。「私はこれこれの病気に苦しむ患者だ」というわけだ。また病気を自分の観念的なアイデンティティの一部に取り込んでも、エゴは強まる。なるほど、あなたは患者なんですね、ということになる。いっぽう、ふつうの暮らしをしているときにはエゴが強かったのに、病気になると急に穏やかに優しく親切になる人たちがいる。そういう人たちは、ふつうに暮らしていたときにはなかった洞察を得られたのだろう。内面的な知力や充実感に触れて、智恵の言葉を語るようになるのだ。そして、病気が回復してエネルギーが戻ると、エゴも復活する。

病気のときはエネルギーレベルが非常に低いため、生体の知性が働き、残っているエネルギーは身体を癒すために使われる。だから精神のための、つまりエゴイスティックな思考や感情のためのエネルギーが不足する。エゴには相当量のエネルギーが必要だ。だが場合によっては、残ったわずかなエネルギーを依然としてエゴが使っていることがある。言うまでもないが、病気になったときにエゴが強くなる人たちは、病気の治癒に時間がかかる。なかには回復できずに病気が慢性化し、間違った自己意識のなかに恒久的に組み込まれてしまうこともある。



集団的なエゴ



自分自身を生きるとは、なんと難しいことか!エゴが不満足な自己から逃れる方法の一つは、集団に----国家や政党、会社、機関、党派、クラブ、徒党、フットボールチームなどに--自分を同一化して、強く大きくなったつもりになることだ。

ときには報酬も名誉や栄達も求めず、集団の大きな目的のために生涯を捧げ、個人的なエゴが完全に溶解したように見えることもある。個人的な自己というすさまじい重荷から解放されれば、さぞやせいせいするだろう。そういう集団のメンバーはどれほど仕事が大変でも、どれほどの犠牲を払っても、満ち足りて幸せだと感じる。彼らはエゴを超越しているように見える。問題は、ほんとうにエゴから解放されたのか、それともエゴが個人から集団にシフトしただけなのか、ということだ。

集団的なエゴには紛争や敵が必要で、もっともっと要求し、相手が間違っていて自分が正しいと思わずにはいられないというように、個人的なエゴと同じ特徴を示す。集団が遅かれ早かれ別の集団と対立するのは、無意識に紛争を求めており、対立相手との関係で自分の境界を決定し、それによってアイデンティティを確認する必要に迫られるからだ。そうなると、集団のメンバーはエゴに衝き動かされた行動に必ずつきまとう苦しみを体験する。そのときに目が覚めれば、自分たちの集団には激しい狂気の要素が潜んでいたことに気づくだろう。

自分が同一化し献身していた集団が実は狂気をはらんでいたかと気が付くのは、最初はつらいかもしれない。そこでひねくれてシニカルににあり、それ以降はすべての価値や重要性を否定する者も出てくる。だがそれは以前の信念体系が妄想だと判明して崩壊したあと、あわてて別の信念体系を採用しただけのことだ。そういう人たちは自らのエゴの死と直面せず、逃げ出して新たエゴとして生まれ変わる。

集団的なエゴはふつう、集団を形成する個人よりも無意識度が高い。たとえば(一時的なエゴ集団である)群衆は、1人ならやらないような残虐行為を平気でやってのける。個人なら即座に精神病質と認定されるような行為を国家が実行することも珍しくはない。

新しい意識が芽生えると、その啓かれた意識を反映する集団をつくりたいと感じる人たちもいるだろう。その集団は集団的エゴではない。その集団を形成している個人には、もう集団を通じてアイデンティティを確認する必要はないから、自分たちを定義する形を求めようとは思わないだろう。たとえばメンバーがまだ完全にはエゴから解放されていなくても、自分や他者のなかでエゴが頭をもたげればすぐに気づくくらいには目覚めているはずだ。それでも、つねに注意を怠らないでいる必要はある。エゴはあらゆる方法を使って自分を主張し支配しようと虎視眈々と狙っている。

啓かれた企業、慈善団体、学校、地域的コミュニティのいずれであろうとも、気づきの光のなかに引き出して人間のエゴを解体することがこうした集団の尾も主たる目的になる。啓かれた集団は新しい地を生み出す新しい意識を芽生えさせるために重要な役割を果たすだろう。エゴイスティックな集団はあなたを無意識と苦しみに引きずり込むが、啓かれた集団は地球の変化を加速させる意識の旋風となる可能性がある。



不死の決定的な証拠



人間は心のなかで自分を「私(I)」と「対象としての私(me)」、あるいは「対象としての私(me)」と「私自身(myself)」という二つの部分に分けてしまうが、その裂け目からエゴが生じる。したがってパーソナリティの分裂ということから言えば、エゴはすべて統合失調症だ。

あなたは自分自身という観念的なイメージを抱き、それと関わりながら生きている。生命(人生)そのものも概念化され、「私の生命(my life)」というように、あなた自身とは別個のものとして捉えられている。「私の生命(my life)」と言ったり考えたりするとき、そして(単なる言葉の約束事としてではなく)その言葉を自分でも信じているとき、あなたは妄想の領域に入っている。「私の生命(my life)」というものがあるなら、私と生命とは別のものだということになるから、大切な宝物だと思っている生命を失うこともあり得る。したがって死が現実の脅威になる。言葉と概念が生命を
、それ自体は何のリアリティもない二つの部分に分割してしまうのだ。だから「私の生命(my life)」という言い方こそ、分離分割という妄想のもとでのエゴの源泉だと言うことさえできる。私と生命が別個で、私は生命と別に存在するなら、私はすべてのもの、すべての存在、すべての人々とも別だ。だが、私が生命と別に存在するなんてことがあるだろうか?生命や「大いなる存在(Being)」と離れて、どんな「私」があり得るのか?まったく不可能だ。だから、「私の生命(my life)」なんてものはないし、私が生命を所有しているのでもない。私が生命そのものなのだ。私と生命はひとつである。それ以外はあり得ない。それなら、どうして私が生命を失うことが可能だろう?そもそも、もっていないものをどうすれば失えるのか?私は私であって、私の所有物ではない。私が私を失うことなど、まったく不可能だ。





エゴから解放される瞬間



ほとんどの人の思考の大半は自動反射的で、意図したものではない。一種の精神的な雑音で、これといった目的はない。厳密に言えば、あなたが考えているのですらない。思考があなたに起こっているだけだ。「私は考える」と言えば意志的な行為を意味する。自分の意志を働かせることができ、選択することができることになる。だが、たいていの人の場合はそうではない。「私は考える」というのは、「私は消化する」「私は血液を循環させる」というのと同じで、文章として成り立っていない。消化「が」起こり、循環「が」起こり、思考「が」起こる。

頭の中の声は勝手な生き物だ。ほとんどの人はその声に引きずり回されている。思考に、心に、取り憑かれている。心は過去によって条件づけられているから、あなたは何度も繰り返して過去に反応し続けるしかない。東洋ではこれをカルマと呼ぶ。この頭の中の声に自分を同一化しているときには、もちろんそれがわからない。わかればもう取りつかれてはいないわけだ。自分に取りついた相手を自分だと誤解し、それになりきっているのが取りつかれているということだから。

何千年かのあいだに人間はますます心に取りつかれるようになり、取りついた相手は「自己ではない」ことに気づかないできた。心に自分を完全に同一化することによって、間違った自己意識が---エゴが----現れ出る。エゴの強固さは、あなたが----意識が----心つまり思考と自分をどの程度同一化させているかで決まる。思考は意識つまりあなたという総体のごく小さな側面でしかない。

心への同一化の程度は人によって異なる。なかにはほんの短い時間にせよエゴから解放される瞬間があり、そのときに人生に生きる価値を与えてくれる安らぎや喜び、生命の躍動感を体験する人もいる。想像力や愛や共感が生まれるのもそういうときだ。だが、つねにエゴイスティックな状態に陥っている人たちもいる。そういう人たちは他者や周囲の世界だけではなく、自分自身からも疎外されている。そんな人たちを見ると、表情に緊張感があって、たぶんしかめっ面で、視線が宙に浮いていたり、やたらと何かを見つめていたりするかもしれない。関心のすべてが思考に吸い取られているので、実際には相手を見ていないし、相手の言葉を聞いてもいない。その人たちはどんな状況でも現在に生きていない。過去か未来に関心が集中している。もちろん過去も未来も彼らの心のなかに思考として存在するだけだ。さもなければ、人と向かい合っていてもほんとうの自分としてつきあうのではなく役割を演じている。たいていの人は自分自身から疎外されているし、なかにはそのふるまいや人間関係がほとんど誰にでも「ウソ臭い」とわかるほどの人たちもいる。ただし同じように疎外がひどくてウソ臭い人たちにはわからないが。

疎外とはどんな状況どんな場においても、自分自身に対してでさえ、気持ちを楽にできないということだ。いつも「うち」に戻りたいと思うが、決して「うちにいるようにのんびり」できない。20世紀の偉大な作家のなかにはフランツ・カフカ、アルベール・カミュ、T・S・エリオット、ジェームズ・ジョイスのように、この疎外こそが人間存在の普遍的なジレンマであると気づいた人たちがいる。たぶん、彼らは自分でも深い疎外感を覚えていて、だからこそそれを見事に作品に表現できたのだろう。だが、彼らは解決策を示していない。彼らの功績は、われわれにもはっきりとわかるように人間の窮状を映し出して見せたことだ。自分の窮状とはっきりと観察することは、それを乗り越える第一歩だからです。




感情の誕生



思考の流れに加えて、(もちろんそれと不可分な)もう一つのエゴの次元がある。感情だ。だからといって、すべての思考、すべての感情がエゴだというのではない。思考や感情がエゴになるのは、あなたが思考や感情に自分を完全に同一化したとき、つまり思考や感情が「私」になったときだ。

すべての生命体と同じくあなたの身体にも有機体としての身体自身の知性がある。その知性はあなたの心の言うことに反応し、あなたの思考に反応する。感情は心に対する身体の反応なのである。もちろん身体の知性は普遍的な知性と不可分であり、その無数の現れの一つだ。その知性は原子や分子を一時的に凝集させてあなたの肉体をつくりあげている。身体の各器官の働きの奥にある組織化原理であり、酸素と食物をエネルギーに変換し、心臓を鼓動させて血液を循環させ、免疫システムによって身体を侵入者から守り、五感からのインプットを神経の信号に変換して脳に送り、解析し、外界の現実と整合性のある内的イメージにまとめあげている。このような働きのすべて、それに同じような何千もの機能は、この知性によって完璧に調整されている。あなたが自分の身体の営みを指図しているのではない。生命体の知性がそれをしている。さらにその知性は、環境に対する有機体の反応もつかさどっている。

これはどんな生命体でも同じだ。たとえばこの知性のおかげで、植物が物理的な形として芽を吹いて花を咲かせ、その花は朝になると花びらを開いて日光を浴び、夜になると閉じる。また、地球という複雑な生命体すなわちガイアとして現れているのもこの知性である。

この知性の働きで、有機体は脅威や挑戦にさらされると本能的に反応する。動物でも怒りや恐怖、喜びなどの人間感情に似た反応が起こる。このような本能的な反応は原初の形の感情と考えてもいい。ある種の状況では、人間も動物と同じように本能的な反応を経験する。危険に直面して有機体の生存が脅かされたとき、戦うか逃げるかという選択を迫られて呼吸が速くなる。原初的な恐怖だ。追い詰められれば、それまでは考えられなかったような大きなエネルギーがとつぜん身内に沸き起こる。原初的な怒りである。こういう本能的な反応は感情に似ているが、真の意味での感情ではない。本能的な反応と感情の基本的な違いはこういうことだ。本能的な反応は外的な状況への身体の直接的な反応であるのに対し、感情のほうは思考への身体の反応なのである。

感情も、間接的には実際に状況や出来事に対する反応であり得るが、それは精神的な解釈や思考というフィルター、つまり善悪や好悪、「私に(me)」や「私のもの(mine)」という観念を通して見た状況や出来事への反応だ。たとえば誰かの車が盗まれたと聞いても何の感情も湧かないだろうが、それが「あなたの車」だったらたぶんあわてるだろう。「私の(my)」というささいな観念がどれほど大きな感情を生むか、まったく驚くしかない。

身体はとても知的だが、実際の状況と思考との区別をつけられない。だからすべての思考にそれが事実であるかのように反応する。ただの思考だとは気づかない。身体にとっては不安や恐れという思考は「私は危険だ」ということだから、その通りに反応する。たとえ温かくて、快適なベッドによるぬくぬくと寝ていても、である。心臓はどきどきするし、筋肉は緊張するし、呼吸は速くなる。エネルギーが湧き出るが、危険というのは頭のなかの虚構にすぎないから、溜まったエネルギーの捌け口がない。その一部は心に還流して、さらに不安な思考を生み出す。残るエネルギーは調和のとれた身体機能に介入して有害に働く。




感情とエゴ



観察されていない心やあなた自身のふりをする頭のなかの声だけでなく、観察されていない感情(頭のなかの声に対する身体的反応)もエゴである。

これまでにエゴイスティックな声が始終どんなことを考えているか、また内容とは関係なく思考プロセスの構造にどんな本質的機能不全があるかを見てきた。この機能不全の思考に、身体はネガティブな感情で反応する。

身体は頭のなかの声が語る物語を信じて反応する。この反応が感情である。そして今度は感情が、感情を生み出した思考にエネルギーを供給する。これが観察も検討もされない思考と感情の悪循環で、感情的な思考と感情的な物語づくりにつながる。

エゴの感情的要素は人によって違いがあり、とくにその要素が大きいエゴもある。身体の感情的な反応にきっかけとなる思考がほんの一瞬のうちに起こり、心が語るより先に身体が感情で反応して行動になることもある。このような思考は言語以前の状態で、言葉にならない無意識の想定と呼んでもいい。その根源はその個人の過去、ふつうは子ども時代によって条件づけられている。たとえば、原初的な人間関係(親や兄弟姉妹との人間関係)によって支えられず、他者への信頼を築けなかった人には、「人は信用できない」という無意識の想定があるかもしれない。他によく見られるのは、「誰も私を評価し、感謝してくれない。闘わなければ生き延びられない。私は豊かになる価値がない。私は愛されなくてあたりまえだ」などという想定である。このような無意識の想定が身体のなかに感情を創り出し、それが心の活動や瞬間的な反応を呼び起こす。こうして個人の現実が生み出されていく。

エゴの声はつねに身体本来の安らかな状態を攪乱し続ける。ほとんど誰の身体も大きな重圧とストレスにさらされているが、これは外部的な要因に脅かされているからではなく、内側の心のせいだ。身体にはエゴが貼りついているから、身体はエゴがつくり出す機能不全の思考パターンの全てに反応する。こうして片時も途切れない強迫的な思考の流れにネガティブな感情が伴う。

ネガティブな感情とは何か?身体に有害で、バランスのとれた安定した機能を邪魔する感情である。恐怖、不安、怒り、悪意、悲しみ、憎しみや憎悪、嫉妬、羨望----どれも身体を流れるエネルギーを攪乱し、心臓が免疫システム、消化、ホルモン生成などを妨げる。まだエゴの働きについてほとんど知らない主流派の西欧医学ですら、ネガティブな感情と身体的疾病のつながりに気づき始めている。身体を害する感情は当人だけでなく出会う人々にも伝染し、連鎖反応を通じて会ったこともない無数の人々に影響する。このネガティブな感情をひっくるめて言い表す言葉がある。「不幸」だ。

それならポジティブな感情は身体に良い効果を及ぼすのか?免疫システムを活性化し、身体を癒して元気にするだろうか?実はそのとおりなのだが、エゴが生み出すポジティブな感情と、「大いなる存在」とつながった本来の状態から生じるもっと深い感情とは区別しなければならない。

エゴが生み出すポジティブな感情のなかにはすでに反対物が含まれていて、瞬時にその反対物に変化する可能性がある。たとえばこんな具合だ。エゴが愛と呼ぶものには独占欲や依存的な執着が含まれているから、あっというまにそれらに変化しかねない。これからのできごとに対する期待は未来へのエゴの過大評価だから、その出来事が終わってしまったり、エゴの期待通りにならなければ、簡単にその反対物----落胆や失望----に変わる。賞賛や承認を受ければ、いっときは生きていてよかったという幸せな気分になるだろうが、批判や無視にぶつかるとすぐに拒否されたと暗い気持ちになる。楽しいどんちゃん騒ぎの翌朝は、荒涼とした気分と二日酔いに襲われる。悪のない善はなし、高く上れば必ず落ちる。

エゴが生み出す感情は、心が外部的な要因に自分を同一化させているから起こるのだし、もちろんその外部的な要因は不安定であてにならず、いつも変化をはらんでいる。これよりもっと深い感情は実は感情ではなく、「いまに在る」と言う状態だ。感情は二項対立の領域いある。「いまに在る」状態は覆い隠されることもあるが、そこには反対物はない。そして「いまに在る」状態は、愛や喜びや安らぎ(あなたの本質のさまざまな側面)として、あなたの内部から発している。



カモに人間の心があったら



二羽のカモの喧嘩において、カモの争いは決して長くは続かず、すぐに別れてそれぞれ別の方向に及び去る。それから二羽は何回か激しく羽ばたいて、喧嘩のあいだに積み上げられた余分のエネルギーを放出する。そのあとは羽をたたみ、何事もなかったようにのんびりと水に浮かんでいる。

このカモに人間の心があったら、思考と物語づくりのせいで争いは長引くだろう。カモはたぶんこんな物語を創る。「あいつがあんなことをするなんて、まったく信じられない。あいつは私と5インチも離れていないところまで近づいてきた。この池を自分のものだとでも思っているのか。私のプライベートな場への配慮ってものがぜんぜんないじゃないか。あんなやつ、二度と信頼できないぞ。この次はどんな嫌がらせをするかわかったものじゃない。きっともう何かたくらんでいるんだろう。だが、こっちだって黙ってはいないからな。二度と忘れないくらい、ひどい目にあわせてやろう」。こうして心はいつまでも物語を紡ぎ続け、何日も何か月も、それどころか何年も考えつづけるだろう。身体にとっては闘いはいつまでも続き、このような思考に反応するエネルギーとして感情が生まれ、その感情がまた思考の火に油を注ぐ。これがエゴの感情的な嗜好だ。カモに人間の心があったら、その暮らしがどれほど大変かおわかりだろう。ところが、おおかたの人間はいつもこんなふうに暮らしている。どんな状況も出来事も決して完全には終結しない。心と心が創った「私と私の物語(me and my story)」がいつまでも尾を引く。

私たちは道に迷った種なのだ。花も樹木も動物も自然はすべて、私たちのほうが立ち止まって見つめ、耳を澄ませば、大事なことを教えてくれる。カモが教えてくれるのはこういうことだ。ばたばたと羽ばたいて----つまり「物語を手放して」---唯一の力強い場へ、現在という瞬間へ戻りなさい。




過去にこだわる



人間がいかに過去を手放せないか、あるいは手放す気はないかを見事に示した禅僧の逸話がある。担山という禅僧が、友人の僧と一緒に豪雨のあとでひどくぬかるんだ田舎道を歩いていた。村の近くまで来ると、道を渡ろうとしている若い娘に出会ったが、水たまりが深くて着ている着物が汚れそうだった。担山はすぐに娘を抱き上げて水溜りを渡してやった。

そのあと二人の僧は黙々と歩き続けた。5時間ほどして、その夜の宿になる寺が見えてきたとき、友人がとうとう黙っていられなくなって口を切った。「あなたはどうしてあの娘を抱き上げて、道を渡してやったのか?」彼はそう言った。「僧というものは、ああいうことをすべきではないと思うが」。

「私はもうとうに娘を下ろしたのに」と担山は答えた。「きみはまだ、抱いていたのかね?」。

この友人のように暮らし、状況を手放せず、また手放す意志をもたずに、心のなかにどんどん溜め込み積み重ねていたら、どんな人生になるか想像していただきたい。それがおおかたの人々の人生なのだ。彼らがこだわって心のなかに溜め込んでいる過去という荷物のなんと重いことか。

過去の人生は記憶としてあなたのなかに生き続けるが、その記憶自体は問題ではない。それどころか記憶のおかげで過去から、そして過去の過ちから学ぶことができる。記憶、つまり過去に関する思考にあなたが完全に支配され、それが重荷に変わったときに初めて記憶が問題となる。そしてあなたの自己意識の一部になる。過去に条件づけられた人格があなたの牢獄となる。記憶が自己意識の衣をまとい、あなたの物語があなたの考える「私」になる。この「小さな私(little me)」は幻想で、時も形もない「いまに在る」状態というあなたの真のアイデンティティを覆い隠してしまう。

あなたの物語は頭のなかの記憶だけでなく感情的な記憶、すなわちありありと甦る古い感情によっても構成されている。思考によって恨みをふくらませつつ、5時間もこの恨みという重荷を抱えていた禅僧のように、ほとんどの人は不必要に大量の精神的感情的重荷を一生抱えていく。彼らは不満や後悔や敵意や罪悪感で自分に小さな枠をはめてしまう。感情的な思考が自己になっているから、そのアイデンティティを強化するために古い感情にしがみつく。

人間には古い記憶を長々とひきずる傾向があるから、ほとんどの人はエネルギーの場に古い感情的な苦痛の集積を抱えている。私はこれを「ペインボディ」と呼んでいる。

だが、すでにもっているペインボディを大きくするのを避けることはできる。昨日あるいは30年前に何が起こったにしろ、カモが羽ばたくように古い感情を溜め込む習慣を打破し、心のなかでいつまでも過去をひきずるのをやめることは可能だ。状況や出来事を心のなかにいつまでも生かしておいて心のなかの映画づくりを延々と続ける代わりに、つねに自分の関心を本来の状態、永遠のいまに引き戻すことを学べばいい。そうすれば、思考や感情ではなく「いまに在る」ことがアイデンティティになる。

あなたが「いまに在る」ことを妨げる過去の出来事など何もない。そして現在に在ることを妨げる力がないとしたら、過去にいったいどんな力があるというのか?





個人と集団



ネガティブな感情が湧いたときには、きちんと向き合ってその正体を確認しておかないと、その感情が解消されず、あとに痛みが残る。

とくに子どもはネガティブな感情があまりに強いとどうすることもできなくて、それを感じないようにする傾向がある。敏感なおとながそばにいて理解し、ネガティブな感情とまっすぐに向き合うように愛情と共感をもって指導してやればいいが、そうでない場合には、子どもにとっては感じないことが唯一の選択肢なのだ。

残念ながら、こういう子どものころの防衛メカニズムは成人後もひきずっていることが多い。ネガティブな感情は認識されずに当人の中に残り、不安や怒り、発作や暴力、むら気、さらには肉体的な病気などの間接的な形で現れる。心理療法士なら大抵経験しているように、完璧な幸せな子ども時代を送ったと患者が主張しても、あとになって実は話がまったく違っていたことが分かるケースがある。ここまでいくと極端だが、感情的な痛みを感じることなしに子ども時代を過ごした人間は誰もいない。両親がどちらも聡明であってもなお、人はだいたいは無意識の世界で育っていくものなのである。

きちんと向き合い、受け入れ、そして手放すという作業がなされなかったネガティブな感情は痛みをのこす。その痛みが積み重なり、身体の全細胞で活動するエネルギー場をつくりあげる。このエネルギー場を形成するのは子ども時代の痛みだけではない。青年期や成人後のつらい感情も付加されていく。その大半はエゴの声が生み出したものだ。人生のベースに間違った自己意識があると、感情的な痛みという道連れは避け難い。

ほとんどのすべての人がもっている古くからの、しかしいまも生き生きと息づいているこの感情のエネルギー場、それがペインボディである。

しかしペインボディは非個人的な性格もあわせもっている。延々と続く部族闘争や奴隷制、略奪、強姦、拷問、その他の暴力に彩られた人類の歴史を通じて、数えきれない人々が体験してきた痛みもそこには含まれている。この痛みがいまも人類の集団的心理のなかで生きていて、日々積み重ねられていることは、夜のテレビニュースを見れば、あるいは人間関係で繰り広げられるドラマに目をやれば一目瞭然だ。まだ明らかになってはいないが、集団的なペインボディはたぶんすべての人間のDNAにコード化されているのだろう。

この世界に生まれ出る新生児はみな、すでに感情的なペインボディをもっている。なかにはとくに重くて密なペインボディをもっている者もある。いつも幸せそうな赤ん坊もいるし、大きな不幸を抱えているように見える赤ん坊もいる。充分な愛情や関心を注がれていないためによく泣く赤ん坊がいるのは確かだが、とくにこれという理由もないのに、まるで周囲の人間を自分と同じように不幸にしてやりたいと思っているような赤ん坊もいる(たいていはその通りになる)。こういう赤ん坊は人類の苦痛の分け前をとくにたくさんもって生まれてくるのだ。母親や父親が放出するネガティブな感情を察知してよく泣く赤ん坊もいるだろう。親のネガティブな感情が赤ん坊に痛みを与え、親のペインボディのエネルギーを吸収して大きくなった赤ん坊のペンボディをさらに成長させるのだ。いずれにしても、赤ん坊が育つにしたがってペインボディも大きくなる。

軽いペインボディを持って生まれた子どもが、重いペインボディをもった子どもよりも霊的(スピリチュアル)に「進化した」おとなになるとは限らない。それどころか、逆の場合のほうが多い。どちらかといえば重いペインボディをもった人たちのほうが、ペインボディが軽い人たちよりも霊的(スピリチュアル)な目覚めに達する可能性が大きい。もちろんなかには重いペインボディの罠に落ち込んだままの人たちもいるが、多くは自分の不幸にもう耐えられないという段階に達し、それが目覚めの強い動機になる。

なぜ苦しむキリストが、苦悶に歪む顔と無数の傷口から血が噴き出ている身体が、人類の集団的な意識にとってかくも重要なイメージとなっているのか?(とくに中世に)おびただしい人々がキリストのイメージに深く動かされたのは、自分自身のなかに共鳴する何かがあったからで、彼らは無意識のうちにキリストに自分自身の内なる現実---ペインボディ---の表現を見ていたのだろう。この人々はまだ自分のなかの痛みを直接に認識できるほど意識が進んでいなかったが、しかし気づきかけてはいたのだ。キリストは人間の原型であり、人間の苦痛と苦痛の超越の可能性を体現していると見ることができる。

身体・気づきの容器として

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身体



看護師が入ってきて言う。「先生、みられたら困るという方が受診に来られていますけど」。医師が答える。「言っといて、みられませんって」

身体は世界の一部であるように思える。だがそれだけではなく、身体は世界を知覚し、感じているものでもあるようだ。そして身体は自分が位置している場所であるとも感じられる。

身体についての一般的な見方からすると、身体は物体であるように思える。ただし机や車とは違い、身体には知覚する能力がそなわっているようだ。身体は知覚することができる。身体は気持ちよさや痛みを感じることができる。身体の中に心がある----厳密に言えば「心」は存在しておらず、思考と呼ばれているものすべてを担うようにプログラムされているのは脳なのだと主張する人たちもいるかもしれないが。身体は意識がその膨大な数の機能を果たしている現場であるように思える。身体は「私」がいる場世であるように感じられる。私たちは考える。「もしかしたら岩や木にも見たり感じたりする能力があるのかもしれないけれど、私自身のそういう能力はそのすべてが自分のこの身体と一体になっている気がする。この身体が自分の居場所であることは間違いないと思う」。自分は身体と一緒に現れ、一緒に消えていくものなのだと感じる。そして、身体が始まったときに自分が始まったのであり、身体が終わるとき自分も終わるのだろうと考える。

ここでは身体を探っていく。これは自分の本質をみずから調べていく上では最高に重要だ。非二元の教えには身体について何も語らないものが多い。さまざまな理由によって、注意のほとんどが感覚や思考に向けられる。けれども、身体を直接的な方法で探求しない限り、自分がどこかに位置しているという感覚も、自分のアイデンティティの基盤が身体にあるという感覚も、そのまま残り続けるだろう。身体を無視していれば、身体は気づきとして経験される代わりに、気づきを包んでいる容器として無自覚のまま経験され続けることになる。もしくは単に盲点になる。これは分離感や疎外感につながりかねないが、身体をそのように無視するのは、さまざまなものを検証するはずの非二元の探究におけるある種の例外扱いであるとも言える。非二元の教えに従った検証によって思考や感覚が緩められた場合でも、そういったものが「こちら側」で生じているかのような微妙な性質がいつまでも残ることがあり、そうなるとそれは空間の存在を前提とした表現方法につながる。そして当然ながら、「こちら」が存在しているとすれば「こちら以外」もあることになって、それは非常にしつこい二元性となる。

さまざまな方法で身体を調べることで私たちが理解するのは、身体は気づきそのものの軽やかさ、甘美さにほかならないということだ。経験しているのが性的絶頂の快感であるか強烈な痛みであるかには関係なく、直接の経験において理解するのは、身体には気づきの明晰さと自由以外には何もないということだ。身体は気づきの容器でも導管でもない。身体が気づきを知覚しているのではない。身体は気づきそのものだ。




物体として



まず初めに、ひとつの物体としての身体について調べていくが、それは世界を調べたときと同じように進める。明らかになるのは、身体は知覚してはいないこと、身体は感覚として生じているということだが、それはテーブルやオレンジが感覚として生じているのと同じだ。そういった「感覚」が観照意識にほかならないことを私たちはすでに見てきた。




感じる主体として



その次に、感覚を感じているように思えるものとしての身体を調べる。物体(身体そのものも含む)が身体に触れる場合、それを感じているのは身体であるように思える。ここでは、痛み、心地よさ、かゆみ、くすぐったさ、動き、そして身体がどこかに位置している感覚について調べていく。そこで明らかになるのは、直接の経験においてはそういった経験が身体によって、または身体内で感じられない証拠はないということだ。そして、そのような経験も身体そのものと同じで観照意識にほかならないことを見出す。




気づきの容器として



最後に調べるのは、気づきは身体の中にあるという感覚だ。そこには、身体には内側と外側があるという感覚、その内側に自分がいる感覚も含まれる。さらには、気づきが身体の内側に存在している感覚や、気づきは全体的であるはずなのに他人の思考が自分にはわからないという点で制限を感じるといった感覚も含まれている。他の人たちはそれぞれが別々の容器であり、この容器とは別のものだと感じられる。これはどのようなレベルで学んでいる場合も共通して頻繁に遭遇する難題だ。私たちが発見するのは、直接の経験においては内側と外側の二元性にも、内包という概念にも根拠がないということだ。「他人の思考」についての疑問は、気づきに関する憶測にもとづいたものであり、自分自身の直接的で制限のない経験によっては裏付けられていないことが理解される。気づきとは泡とは違って「物理的」なものではない、内側と外側があるという感覚が客観的事実と一致するような経験は実際はまったくしていないことに気づくだろう。直接の経験に従ったとき、「場所」や「囲い」といった感覚そのものが開放性と明晰さに溶け去ることに気づく。




物体としての身体



「外側」から見るように身体を眺めてみよう。テーブルや椅子を経験するのと同じように、もしくは他の身体を経験するのと同じように、身体を経験する方法がある。腕、脚、手、足、胴を見るのだ。鏡の中には、本当に「自分」の顔、頭、首だと思えるものが見える。写真の助けを借りれば、自分の後頭部らしきものを見ることができる。

身体のほとんどの部分には触れることができる。自分の身体に触れるのは、テーブルや椅子に触れるのとはかなり違う。身体に触れる経験は、ふたつの部分に分かれているように感じられる。ひとつは触れている部分、そしてもうひとつは触れられている部分だ。手で肘や頭に触れている場合で言うと、「触れている」側とは肘の硬さや後頭部の髪を感じている手の感覚であり、「触れられている」側とは肘や頭に何かが触れている感覚だ。

今回扱うのは身体の「触れている」側で、それは物体に触れる経験のことだが、ここではたまたま身体がその触れる対象になっている。これは身体がいかに感覚として生じているかという部分だが、そのように言えるのは、私たちは他のいろいろな物体に対してするのと同じように、身体という物体に触れたり、見たり、匂いを嗅いだり、味わったりしているからだ。

その次では身体の「触れられている」側を扱う。感覚の主体としての身体には、触れられる経験も含まれている。そして、かゆみやくすぐったさのようなさまざまな感覚、痛みや心地よさの感覚、運動感覚、固有受容覚についても検討する。

どのケースにおいても身体が観照意識にほかならないことがわかる。感覚としての世界、そして究極的には気づきとしての世界に私たちは以前より親しんでいるため、五感をひとつずつ取り上げていくことで、感覚として生じている身体について検討することができるだろう。すでにおなじみになっている順番、つまり視覚、触覚、聴覚、嗅覚、味覚の順で進めていく。




身体を見る



身体は視覚に対しては色として生じる

●「自分の手を見る」ときには色がいくつか現れていて、それは「背景」と呼ばれる他の色と区別される。自分の足、脚、膝、腕を見るときにも同様のプロセスが起こる。色の配列の一部が拾い上げられて、「自分」または「私の手」といったラベルがそこに貼られる。

●「自分自身を鏡で見る」場合や写真で見る場合は、それと比較すると間接的になる。このプロセスも、自分の体だという主張が付随した形で生じるいくつかの色の現れで構成されている。それでもこういったケースを間接的なものとして扱うのは、鏡や写真の中の像が「これは実際には自分そのものではなく、自分の写像だ」と感じられるからだ。その写像が生じたときに自分の身体が生じたと思わないし、写像が存在しなくなったとしても自分はそのままここにいるだろうと感じる。

いま見ているのは本当に自分の身体なのだろうか。いくつかの色が見えているときに、ある色は自分の一部であり
他の色は背景の一部だと言えるのはどうしてだろうか。この点について、次の実験で探っていくことにしよう。



実験---身体を見る



目的---視覚において身体がどのような現れとして経験されるかを発見する。

必要なもの---テーブルと椅子。

準備---テーブルの前に静かに座る。


実験---まずハートオープナーをおこない、明晰で開かれた気づきの広がりとしての自分に落ち着けるようにする。両手をテーブルの上にゆったりと置く。

1・自分の両手を5秒見る。

2・視線を横に向けて5秒間そのままでいる。

3・目を閉じて5秒数える。目を開ける。

4・手順1から3を計5回繰り返す。


調べること---直接経験についての次の質問を自分に問いかける際、必要に応じて実験の各手順を繰り返してもかまわない。

●手順1において、視覚の直接経験だけに従うとき(思考や記憶や想像を脇に置いたとき)、生じている色を手が引き起こすところを直接経験するだろうか。別の言葉で言うと、自分の手を見ているような気がするかもしれないが、視覚単独の直接経験において、生じている色が手によって引き起こされている証拠がひとつでもあるだろうか。

●手順1において、色が視覚とは別に生じているのを直接経験するだろうか。視覚と色がそれぞれ別々に生じることがあるだろうか。独立して生じることがないとしたら、つまり色と視覚がいつも必ず一緒に生じるのだとしたら、実際に「色を見る」ということがどうしてあらありえるだろう。そこに存在してはいるものの見られていない色、視覚によって見られるのを待っている色を経験することは絶対にない。これは内部崩壊のようなものであり、色は独立して存在するものとして経験されることがないという過激な経験だ。これと同じ独立性の欠如は、視覚その物にも当てはまる。観照意識のないところで視覚を経験したことがあるだろうか。視覚はそこに存在するものとして経験されてから観照意識に拾い上げられ認識されるようなものなのだろうか。もしそうでないとしたら、観照意識の存在以外にいったい何を経験しているというのだろうか。

●手順2(視線を横にそらす)において、手が見つからないことを直接経験するだろうか。手順2で生じる色は、手順1における色とは異なる。だが手順2で、手がないことが直接経験されているだろうか。

●手順3(目を閉じた状態)において、視覚に対して何らかの色が生じているだろうか。そこにまだ残っている色があるだろうか。不在であるものとして、または見つからないものとして経験されている色があるだろうか。身体を視覚的に経験しているだろうか。

●まとめの質問。色が現れているとき、色を生み出しながらそこに存在している身体を視覚的に直接経験するだろうか。色が現れていないとき、存在していたり不在だったりする身体を視覚的に直接経験しているだろうか。




独自でできること



同じ実験を、「身体」のその他の部位、腕や腰や脚や足として知られている部位についておこなう。

鏡を見ながら、もしくは「自分自身」の写真やビデオを見ながら実験をすることもできる。鏡や写真の中の像が自分の身体だ、または自分の身体を表しているという感覚がどれほど強いかに注意を向けよう。

そういった色が自分の身体だとなぜ言えるのだろうか。そのような特定の色が出現したり消えたりするとき、それと一緒に自分の身体も出現したり消えたりするだろうか。そういった色と一緒に自分も現れたり消えたりするだろうか。




身体に触れる



この経験モジュールは、身体に触れることに関するものだ。身体に触れることは身体を見ることよりも複雑だが、それは可能性がいくつもあるからだ。身体を見る場合には、そこで生じる感覚の種類はひとつしかない。それに対して、身体に触れるときにはふたつの種類の感覚が生じているように感じられることが多い。自分の膝に触れるとしよう。そのとき、(ⅰ)「手から」生じる感覚とされるものと、(ⅱ)「膝から」生じる感覚とされるものがあるはずだ。「触れている側」と「触れられている側」というふたつの部分から感覚がやってきているように感じられる。経験的データをもたらしている伝達ルートがふたつ別々にあるのだと私たちは想像している。

それがふたつの別々な伝達ルートであるように感じられるのは、身体は知覚機能を持つ部位をいくつもそなえた独立した物体だと私たちが本当に信じているからだ。そして身体がそれ自体に触れるケースについて言うと、データがふたつの別々の位置から収集されて異なる知覚経路を通じて伝達されているのだと私たちは考えている。その考えによれば、伝えられたデータが頭に届くと、知覚能力を持つ個別の身体がそれ自体に触れたのだというしかるべき解釈がなされる。

ここでの実験では、そのような考えを裏付ける直接証拠があるかどうかを調べていく。「世界」についての第一部で私たちが学んだのは、気づきとは別に存在している物体についての直接経験を触覚がもたらすことは絶対にないということだ。実際にところ、触覚が確かめているのは気づきの存在のみだ。身体に触れるという直接経験において私たちが発見するのも同じことであり、それは今述べたような表面的な複雑さが加わったとしても変わらない。すべて同じだ。確かめられるのは気づきだけだ。




実験---身体に触れる



目的---触覚において身体がどのような現れとして経験されているかを発見する。

必要なもの---椅子。

準備---椅子に静かに座る。


実験----まずハートオープナーをおこない、明晰で開かれた気づきの広がりとしての自分に落ち着けるようにする。目を閉じる。

1・自分の膝に触れる。触れると言っても手を膝の上に乗せる程度でよく、それを5秒間続ける。手を載せたり離したりして、触れたときの感覚に気づきやすくしてもかまわない。

2・膝から手を離し、5秒間数える。

3・手順1と2を計3回繰り返す。目を開ける。


調べること----身体がその身体そのものに触れる時に生じる感覚の元とされるふたつの源のことを覚えているだろうか。ここではそのふたつの源について探り、性質を明らかにしていく。「触れている」感覚と「触れられている」感覚を区別できる人もいれば、できない人もいるだろう。その経験は分かれていないひとつの感触として感じられるかもしれない。人によっては、その感覚を「触れている」側と「触れられている」側に分かれたものとして認識できるように感じるかもしれない。

どちらでも問題はない。直接の経験には間違った答えはない。ふたつの感じ方のそれぞれについて実験をして確かめていく。ケースAは、「触れている側」と「触れられている側」を区別できることを前提として進める。ケースBでは、分けることができないひとつの経験として扱いながら進めていく。



ケースA---分離可能なふたつの経験---「触れる」と「触れられる」



大多数の人にとっては、膝に触れるという経験はたいていは触れる経験と触れられている経験とに分けて識別することができるものなのではないだろうか。そのため、身体に触れる経験に関連する部分についてまずは検討してみることにしよう。



触れること



●先ほどの手順1(自分の膝に触れる)では、感触、温かさ、ある程度の硬さ、柔らかさといった感覚が生じる。そのような感覚の直接経験の中に、触れられている膝があるだろうか。あらかじめ独立して存在し、触覚を通じてそれ自体を知覚させているような物体をひとつでも直接経験するだろうか。

●そのような触覚による感覚だけに従うとき、その感覚が手によって感じられているのを直接経験するだろうか。この直接経験において手は現れているだろうか。

●手順1と2において、ある感覚やある物体が感じられないということが直接経験されるだろうか。もし経験されているように思えるとしたら、その感じられていない感覚はいったいどのように感じられているだろうか。そこにないのはいったい何なのだろうか。そのことを感覚がどうしたら示せるのだろうか。

●手順1において、触覚とは別に感触が生じるのを直接経験するだろうか。感触が触覚とは別に独立して生じることがありえるだろうか。ありえないとしたら、つまり感触が生じるときには必ず触覚が生じているとしたら、本当に「感触を感じる」ということがどうしたらありえるだろうか。触れられずにそこに存在しながら触覚によって知覚されるのを待っている感触を経験することはない。このことは感触が独立した対象としては決して経験されないことを過激に示している。同じことは触覚そのものにも当てはまる。観照意識がない中で触覚を経験することがあるだろうか。触覚は、まずそこにあって、観照意識によって拾い上げられてから認識されるといった経験のされ方をするようなものだろうか。そうでないとしたら、観照意識の存在以外の何を経験しているというのだろうか。

●手順1と2において、観照意識がないときに感覚が生じるのを直接経験するだろうか。観照意識がないという経験を一度でもしたことがあるだろうか。




触れられること



●手順1で自分の膝が触れられているように感じるとき、直接の経験に置いては何が生じているのだろうか。くすぐったさ、ある程度の硬さや柔らかさ、もしかしたら温かさや冷たさの感覚が生じるかもしれない。触覚に対して何か他に生じているだろうか。「膝を通じて」生じる(と一般的に表現される)感覚だけにもとづいたとき、触れる行為をしているのは手だということが直接経験されているだろうか。もしクッション入りスリッパや他の誰か、または自分のペットがたまたま自分の膝に触れている(と一般的に表現されることが起こった)としたら、その感覚は感覚がどこから生じたかということについて何かを伝えているだろうか。何が触れているかについて、その感覚は何らかの直接経験をもたらしているだろうか。

●そのような触覚の経験において、個別に存在している物体がひとつでも直接経験されることがあるだろうか。

●直接の触覚経験において、(a)自分の膝に触れている物体と、(b)物体に触れている自分の膝はどう違うのだろうか。触覚はそれ自体では物体の存在を証明することができない。となると、このケースはそれとどう違うのだろうか。

●手順1と2において、観照意識がない中で感覚が生じるのを直接経験するだろうか。観照意識がない状態が経験されるということがありえるだろうか。




ケースB----ひとつの経験--触れる側と触れられる側が識別不能



これは興味深い筋書きだ。「膝に触れている手」は、直接の経験においては触れるというひとつの出来事であり、区別がどこにもないのかもしれない。触れるという直接経験だけを見ると、「触れている」部分と「触れられている」部分を区別できない可能性がある。日常生活ではそのような区別は必要ない。普段の生活では触覚以外の手掛かりを頼りにして、自分に何が起こっているのかを把握しているのかもしれない。信念、視覚、想像、知識にもとづいて、手が膝に触れていると推測することもある。だが、そのようなことが本当に起こっているのだろうか。そういった独立性、二元性、分離を本当に経験しているだろうか。これがまさに、ここで私たちが直接の経験を通いて細心の注意を払いながら徹底的に調べている理由だ。

直接の経験においては、「触れている」部分と「触れられている」部分が区別されていなくてもまったく問題はない。繰り返すが、直接の経験には間違った答えはない。外部に在る物体に関する実験をすでにやってみた人であれば、独立して個別に存在する物体は直接の知覚経験においてはそもそも認められないことをもう理解しているはずだ。だからこれは、触覚が不正確であることを示す事例ではない。

身体は、それが「より近くにある」ように感じられるというそれだけの理由で、他の物体とは違うものなのだろうか。調べてみよう。


●生じている触覚だけを頼りにして、記憶や信念や習慣や視覚イメージを参考にしないとき、触れられている身体の存在を示す証拠はあるだろうか。触れられている物体は身体だという情報を、感覚そのものが伝えているだろうか。そのような情報をその感覚が伝えているように思えるとしたら、その感覚の一体どの部分がそう伝えているというのだろうか。

●さらに言うと、生じているこの感覚が何らかの物体によって引き起こされていることを示す直接の証拠がひとつでもあるだろうか。この感触だけに従ったとき、それが「何かの」感触だというその「何か」は直接経験されているだろうか。感触がその感触その物以外の何かを参照したり、示したりするのを経験することがあるだろうか。

●触れる行為をしているのは身体だというのは直接の経験だろうか。そう思えるとしたら、その感触のいったいどの部分がその情報を伝えているのだろうか。単なる感触(信念や理論や命題ではなく)が、触れるという行為をしている何かについての直接経験をもたらすことがどうしたらありえるだろう。

●手順2(「手が膝から離される」)において、存在していない何かが触覚によって直接経験されるだろうか。

●観照意識がない中で感触が生じるのを直接経験することがあるだろうか。

●観照意識がない状態が経験されることがあるだろうか。





独自でできること



身体のさまざまな部位を対象にして触覚の実験をしてみる。手、腕、胸、顔、後頭部、首のうしろ、腰、脚、足に触れる。

同じように身体のいろいろな部位に触れる実験を、自分ではなく他の誰かに触れてもらうことでやってみる。

座っている椅子、もたれかかっている壁、立っていたり歩いていたりする地面などによって、自分の身体が触れられるのを感じている状態で実験をする。

直接の経験において、観照意識とは別に(または観照意識がない中で)何かが経験されることがあるだろうか。

経験に観照意識が不在である状態を直接経験することがありえるだろうか。

気づき以外に身体として直接経験されているものが何かあるだろうか。

エゴに取り組む

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エゴに取り組む



真理を探究する道を歩む過程で、わたしはエゴと対話する能力を身に付けました。他者のエゴが、わたしに率直で正直に答えるのにいつも驚きます。過去15年の間で、わたしが取り組んだほとんどすべてのエゴは、わたしにとても正直に答えたのです。

エゴと対話ができるというわたしの能力は、わたしが自分自身のエゴを完璧に知り尽くして、エゴとの正しい関係を築いたことが基盤となっています。わたしのエゴは完全にわたしに身を委ねました。それで、他者のエゴがこれを感知し、わたしを友人と見なして答えるのだと思います。

エゴと対話ができるという能力の別の要因は、たった一つのエゴしかないこと、そして、わたしたちはその一つのエゴのあらゆる個の表現だということに、わたしが気づいたことです。つまり、ひとたび、自分自身のエゴを知ると、あなたはすべてのエゴを知るようになるのです。これはわたしたちの存在の偉大なる神秘の一つです。




エゴの実在への抵抗



何年にも渡るエゴとの対話で、エゴがどうやって、そして、なぜ、実在に強く抵抗するのかをわたしはつきとめた。

このエゴの実在への抵抗は、わたしの生徒の一人であるジャンとの会話で、みごとに明らかになった。

ある火曜日、カリフォルニア州サンタ・クルーズでのワークショップで、ジャンはわたしにこう打ち明けた。「5分以上、この瞬間に留まることができません。思考が留めなく沸き起こって、わたしはひっきりなしに過去か未来の中に引っ張られてしまい、それがまったく収まることがないんです」

「それはあなたのエゴが、あなたにこの瞬間に存在して欲しくないからだ。あなたのエゴと話してみてもいいだろうか」

彼女が同意したので、わたしは続けた。

「なぜ、君は思考が留めなく流れるようにさせるのだろう。なぜ、ジャンがこの瞬間に存在することを許さないのだろう」と、わたしは彼女のエゴに訊ねた。

「彼女がこの瞬間に存在するのは気に入らない」と、彼女のエゴは答えた。

「なぜ、気に入らないんだね」

「怖いんだ。彼女がこの瞬間に存在するときは、自分が消えてしまうように感じる」

わたしはジャンのエゴの正直さに感動した。

「それで、君はジャンがこの瞬間に存在できないようにと、彼女を思考に巻き込むんだね」

「そうなんです」

「彼女がこの瞬間に存在するとき、君は死ぬこともないし、永遠に消えることもないと、わたしが言ったら君はどう思うかな」

「それじゃあ、何が起こるんですか。彼女がこの瞬間にいるとき、わたしは自分の世界が消えていくのを感じるんです」

「彼女がこの瞬間に存在するとき思考は存在しない。過去も未来も存在しない。君の世界は思考の世界で、それは過去と未来の世界だ。彼女がこの瞬間に存在するとき、君の世界は消える」

「それじゃあ、わたしはどうなるんですか」

「君は待っている状態になる。それは、電話が保留になっているような感じだ。君は死ぬこともないし、消えることもない。ただ待っているだけで、それも一時的なことなんだよ」

「それじゃあ、待っている間、わたしはどこにいくのですか」

「君は静寂の状態になる。その静寂の中で君は休暇を過ごしているような感じだ。君はとても安らいでくつろげる。そして、彼女が時間の世界に加わりたい瞬間に、思考が動き始めて君は復活する。君は彼女の目覚めた人生で果たすべき役割を持っているんだよ」

分かち合ったことをエゴが熟考できるようにと、わたしは少し間を置いた。

「このことを知って君は安心しただろうか。実在に対する恐怖が幾分は和らいだかな」

「はい」

「それはよかった。それでは、君は不必要な思考を生み出してジャンを邪魔しないで、彼女がこの瞬間に存在することを認めるね」

「それは絶対に嫌です」

「どうしてだろう。君は死ぬことはないし、消えることもないってわかったじゃないか」

「それはそうなんですが、しかし、彼女がこの瞬間に存在するとき、わたしは彼女の人生をコントロールできなくなる。それを許すわけにはいきません」

「なぜ、君はそれを許せないのだろうか」

「わかりません」と、エゴが答えながら、明らかに答えを見つけようと奮闘していた。

「それではこの文章を完成させてみよう。もし、わたしはコントロールしなくなったら・・・」

「・・・彼女を守る人が誰もいなくなる」と、エゴは答えた。

「彼女を守る?それが彼女の人生で君がやってきたことなのかな」

「そう、そうなんです」

「君は彼女を何から守ってきたのかね」

「痛みからです」

「彼女はどのように傷つくんだろう」

「非難・・・批判・・・拒絶・・・」と、それぞれの言葉の間、エゴは思案しながら答えた。

「君が最初に彼女を守ったとき、彼女は何歳だったの」

「4歳か、5歳でした」

「当時、彼女は何を体験したのだろう」

「彼女は愛されていないと感じました」

「彼女は傷つき、拒絶されたと感じたのだろうか」

「そうです」

「それは彼女が手に負えないことだったのだろうか」

「そうなんです」

「君は彼女を助けるために登場したのかな」

「そうなんです」

「君はどうやって彼女を助けたのかな」

「彼女が対応しなくてもいいようにと、苦しい感情をすべて抑圧しました」

「その後、君は何をしたの」

「彼女が痛みを感じなくてもいいようにと、彼女の人生をコントロールするようになりました」

「君は痛みに近寄らないという戦略を発展させたのかな」

「そうです」

「彼女の人生をコントロールするというのは、彼女が自分は愛されている、受け容れられていると感じるのを助けることが、君の意図だったのだろうか。そして、彼女が痛みを避けるのを助けることも、君の意図だったのだろうか」

「まったくその通りです」

「君のアプローチには問題があるんだよ」

「一体何が問題だと言うんですか」と、エゴはむっとして、やや反抗的に答えた。

「君は彼女を痛みから守ってきたと言うが、その痛みは彼女の過去の中にある。『今、この瞬間』とは何も関係がない。ジャンの人生で守り人として、君がその役割を続けるには、君は彼女をその痛みがある過去の中に引き留めておかなくてはならない。さもなければ、君の役割はまったく意味をなさなくなる。君は彼女の痛みを永続させているんだよ」

エゴは混乱しているようだった。

「彼女は『今、この瞬間』君の助けを必要としているだろうか」

辺りを見回して「いいえ」と、エゴはしぶしぶ答えた。

「彼女を批判、批判している人は『今、この瞬間』いるだろうか」

再び、エゴの答えはノーだった。

「すると、この瞬間、君は彼女を守る必要はないということになるよね」

「いいえ、今はもう、その瞬間ではなくなっています・・・・」と、エゴは逃げ道を見つけながら答えた。

「それでは、この瞬間はどうだろう。彼女はこの瞬間に君の助けを必要としているだろうか」

「いいえ」

「それでは、この瞬間はどうだろう」

わたしはこの日の残り、ジャンのエゴが「今、この瞬間」には恐れるものはないということをどうにか認めるまで、同じ質問を一瞬一瞬、快く繰り返した。

「ジャンがこの瞬間に存在するときは、君の助けをまったく必要としないというのが事実だ。君のことがわかるかな」

「はい、わかりました」と、エゴはしぶしぶ答えた。

わたしは安堵のため息をついた。

「それはよかった。それでは、君は安心して、彼女がこの瞬間に存在することを許すね」

「いいえ」

「それはどうしてだろう」と、私は忍耐強くエゴに聞いた。実はもう一つ乗り越えなくてはならない障害があることをわたしは知っていた。

「わたしはどうしたらいいんでしょう。全人生をかけて、彼女を守ってきました。もしも、彼女がこの瞬間に存在することをわたしが許せば、わたしはすることがなくなってしまいます。わたしの存在目的がなくなってしまいます」と、エゴは抗議した。


「しかし、君は他にやることがあるんだよ。もし、君が彼女の守り人という、古い役割を明け渡すことに同意したら、わたしは君に彼女の人生における新しい役割を提供しよう。君は今よりももっと楽しめるだろう」

「それは一体何ですか」と、エゴは訊ねた。わたしはエゴの完全な注目を得たようだった。

「ジャンが『今、この瞬間』に目覚めたら、君は彼女の人生でアシスタント・マネージャーになる。彼女は不滅の『大いなる存在』だ。時間の世界で効果的に活動するには、彼女は君が必要だ。君の計画性と管理能力が必要なんだよ。しかし、彼女がこの瞬間に存在する間、過去の全ての痛みや制限は消えるから、君の助けはもう必要でなくなる」

ジャンのエゴはこの新しい役割の定義に、とても引き付けられたようだった。

「気に入りました。では、いつから始めましょうか」と、エゴは言った。

「彼女が根本的に実在に定着するまで、わたしは守り人としての君の役割を明け渡すようには頼まない。君が安心して彼女がこの瞬間に存在することを許すようになるにつれ、彼女の内なる実在が花開くのを、君は次第に信頼するようになる。やがて、彼女の人生のコントロールを明け渡すことは充分に安全だと君は感じるだろう。これはゆるやかな変化になるだろう」

ジャンのエゴはわたしの提案に満足しているようだった。わたしは彼女のエゴの正直さに感謝した。そして、ジャンにどう感じているか訊ねた。

「この瞬間に存在して安らかです。一つとして思考が浮かんできません」





エゴはあなたの友人だった



「あなたの友人」「あなたの守り人」として、エゴはあなたの人生の中でエゴの旅を始めました。しかしながら、時が経るにつれて、エゴの役割があなたを守ることから、あなたの人生の中でエゴ自身と、エゴの地位と力を守ることへと変化したのです。

今や、エゴは「分離の世界の管理人」となっています。エゴの意図はあなたを、「今、この瞬間」と神から引き離して、心の世界である過去と未来に拘束することです。

あなたはエゴを打ち負かすことはできません。あなたにできることはただ、エゴがやがてはあなたの友人としての役割に戻ることができるようにと、エゴとの正しい関係を築くことだけです。




目覚めた実在とエゴの違い



この瞬間、実際にあなたと共に「ここ」に在るものと、完全に存在してい心が静まり返ると、あなたは実在に目覚めます。それ以外のすべてはあなたのエゴです。その例外はありません。

この瞬間から外れたところに存在するあなたの側面は、そのどれもがあなたのエゴです。あなたが持っているどの思考もエゴの考えです。あなたが抱いているどの意見も、信念も、エゴが抱いているものです。すべての批判はエゴから生じます。あなたが好きなもの、嫌いなものでは何であっても、エゴが好きか、嫌いかです。それらはすべてエゴなのです。


わたしはあなたのエゴに問題があると言っているのではありません。エゴが悪い、邪悪だとか、エゴを排除するべきだと言っているのではありません。わたしはただ、目覚めた実在とエゴとの違いを明らかにしているだけなのです。

実在とエゴの違いを知らなければ、あなたはどのようにしてこの瞬間に存在するときを知り、どのようにして実在を深めることができるでしょうか。あなたはどのようにして目覚めるのでしょうか。




エゴは実在の真実を生きることができない



わたしたちはエゴに実在の真実を生きさせようとしたので、恐ろしく道に迷ってしまいました。エゴに実在の真実を求めるのは不公平なことなのです。それはエゴを本来の姿でないようにさせて、完全にエゴを侵害し、強いプレッシャーをかけて、エゴを失敗と羞恥の中に無理矢理押し込めるのです。エゴは非難され、責められていると感じるでしょう。エゴは能力に欠け、価値がないと感じるでしょう。そして、死に物狂いになって反発するのです。

あなたが何らかの点でもエゴを批判したり、拒絶したりすると、エゴはあなたに立ち向かうでしょう。エゴはあなたを支配するでしょう。エゴはあなたを支配する力が本当だと思うでしょう。エゴはあなたがエゴのものだと主張するでしょう。




エゴはあなたを簡単には自由にしない エゴが抵抗することを諦めて、あなたを「今、この瞬間」の中に解き放つ前に、あなたはエゴとの正しい関係を築いて、根本的に実在に深く根付かなくてはなりません。

エゴはあなたをテストする

あなたがほんの短い瞬間、時折、この瞬間に存在するだけならば、エゴはあなたに身を委ねはしないでしょう。なぜかと言うと、エゴは安全だと感じる必要があるからです。エゴは支配を明け渡す前に、実在が信頼できるのかを知る必要があるのです。エゴはあなたが真のマスターであることを確信する必要があるので、エゴはあなたをテストするでしょう。 エゴのテストはとてもシンプルです。真のマスターは愛に満ち、すべてを受け容れて、許容するとエゴは知っています。真のマスターはまったく批判することがないとエゴは知っています。そのために、エゴのテストは批判なのです。エゴは批判のエネルギーにあなたを巻き込むことは何でもするでしょう。 何らかの点でも自分自身や他者を批判するならば、あなたは真のマスターではありません。エゴを批判するか、何とかしてエゴを排除しようとするならば、あなたは真のマスターではありません。どんなに苦しくて不愉快なことであっても、人生の何らかの局面を批判するならば、あなたは真のマスターではありません。エゴはあなたに身を委ねはしないでしょう。あなたはまだエゴのテストに合格していないのです。 批判は無意識的な人生に本来備わっている一部分です。わたしたちのほとんどが絶望的なほど、批判に没頭しているということが問題なのです。

エゴのテストに合格する

エゴのテストに合格するには、あなたは批判を超えなくてはなりません。批判を超える唯一の方法は、批判を意識の完全な光の中に運び込むことです。あなたの内側から批判のエネルーが沸き起こる度に、その批判のエネルギーを持っているのは自分だと自覚して、そのことを深く受け止めて曝け出しましょう。このことをまったく批判しないで行うのです。そのとき、エゴは初めてあなたが真のマスターだと知るでしょう。 真のマスターとは誰でしょうか。それは完全に「今」という瞬間に定着したあなたです。

エゴへの思いやり

エゴは思いやりを受けるに値します。分離の世界であなたを守る役割は容易ではなかったはずです。また、置き去りにされると知りつつも、あなたを「今、この瞬間」の中に解放するのは容易ではなかったはずです。 目覚めの初期のステージでは、エゴはあなたに裏切られたと感じます。あなたが神と一体の一体性の中に解き放たれている間、エゴは永遠なる次元の中で見捨てられたように感じるのです。 エゴにとってこれは不公平に思えるのです。無意識の世界ではエゴはあなたの守り人でした。悟りを開くことをあなたに励ましてきたのはエゴでした。そして、エゴは「今、この瞬間」の入り口まであなたを連れてきたにもかかわらず、今やそこで置き去りにされてしまうのです。 エゴは高く評価され感謝されて、あなたの目覚めた人生でも役割があるのだと、安心する必要があるのです。

エゴへの感謝

エゴが最終的に降伏してあなたを実在の中に解放するとき、エゴはあなたの人生で新しい役割を引き受けます。その役割とは真のマスターへの愛に満ちた奉仕です。真のマスターが、愛に満ちた献身的な奉仕を神に捧げているのとまさに同じです。 あなたの人生におけるエゴの新しい役割に感謝を表しましょう。毎晩寝る前に少し時間をとって、エゴの新しい役目が滞りなく行われていることに「ありがとう」と感謝を伝えるのです。 何と言っても、あなたは永遠なる「大いなる存在」です。エゴがいなければ、あなたは時間の世界では機能できません。エゴがいなければ、あなたは自分の名前さえも知ることはないでしょう。

最後の忠告

気を付けましょう!エゴは最終的にあなたを自由にさせる前に、最後の欺きを試みます。エゴは巧妙な詐欺師で、いとも簡単に目覚めた者のふりをします。エゴはこの瞬間に存在しているように見える方法と、あらゆる正しい言葉を知っているのです。気を付けなければ、あなたはエゴに騙されてしまうでしょう。 悟りを開いた、この瞬間に存在していると思ったら、あなたはエゴに騙されています。あなたは時間の世界の中に再び吸い込まれています。実在の目覚めた状態では、思考は存在しないのです。 しかしながら、このエゴの欺きからあなたを自由にさせるのは間違いです。悟りを開いているという考えが浮かんだら、「悟りを開いているのは誰か」と、自分自身に問いかけるのです。この瞬間い存在しているという考えが浮かんだら、「この瞬間に存在しているのは誰か」と自分に問いかけるのです。 その唯一可能な答えは「神と一体の自己(I AM)」なのです。悟りを開いたのはあなたの内なる「神との一体の自己(I AM)」なのです。

抑圧した感情を解放する

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抑圧された感情の貯蔵庫をすっかり空にするには、3か月ほどかかるでしょう。1年以上はかからないはずです

完全な目覚めへの障害--あなたが「誰になっているのか」の否認



時間と分離を通り抜けるこの長い旅で、あなたが「誰になっているのか」を否認することが、日常生活と人間関係でこの瞬間に留まることを難しくさせる理由です。

あなたが「誰になっているか」を否認すると、「本当は誰か」という真実が否認されます。あなたが「誰になっているのか」を否認すると、あなたは実在に定着することができません。

この地上に生きる目覚めた実在としてあなたは沈黙し、この瞬間に存在し、愛に満ちて、受け容れ、許容しています。深い思いやりに溢れています。恐れや批判をまったく持っていません。過去のすべてのトラウマと制限と、未来のあらゆる不安からの束縛を受けていません。安らかで、落ち着き、穏やかです。明晰で、強靭です。内からの真の力にみなぎっています。応答が適切でのびのびとして、自然体でいます。感謝に溢れ寛大で、この世界の非常に豊富な絶えることのない気づきのある状態で生きています。ワンネスの中に存在し、万物に息づく神の実在を感じ取っています。

この地球上であなたは軽やかに歩き、あなたの人生は統合された完全性と神の恩寵を表わしています。

心の世界に囚われて、この地上で一つのエゴとして機能しているときのあなたは、わたしが言及した目覚めた実在とは程遠い誰かとなっています。


あなたは誰になっていますか。わたしたちは皆、誰になっていますか。

欲求そのものになっている。欲深い。支配的。巧みに他者を操っている。嫉妬深い。憤慨している。怒っている。恐れている。批判している。期待に膨らみその期待が満たされないと憤慨する。自分自身や他者の批判に明け暮れている。記憶する過去に絡まり、想像する未来でさ迷っている。成功を切望し、失敗を恐れている。絶望的なほどお互いの中で自分を見失っている。非難や罪悪感となって現れる責任の放棄に深く関わっている。絶望的に二元性の世界の中でバランスを失っている。死を恐れている。失うことを恐れている。未知のものを恐れている。すべての人とすべての物に執着している。自分自身の苦しみにさえも執着している。愛されていないと感じている。受け入れられていないと感じている。自分自身の痛みを感じるのを拒絶し、痛みを感じるのを避ける手段として、その痛みを他者に与えている。幻想の世界の中で、その世界が真実だと主張しながら道に迷っている。利用している。濫用している。虐待している。

あなたが「誰になっているか」は、あなたは「本当は誰か」への入り口です。目覚めへの最も重要な鍵の一つは、エゴと心のレベルであなたが「誰になっているのか」ということを自覚して、そのことを深く受け止めて曝け出すことです。あなたはこれを避けて通ることはできません。あなたはこれを隠すことはできません。あなたはこれを迂回することはできません。あなたはこれを訂正することはできません。あなたはこれを変えることはできません。

あなたができることは、ただ鏡を覗くことだけです。あなたの人生はあなたが「誰になっているのか」を常に映し出す鏡です。あなたの人間関係はあなたが「誰になっているのか」を常に映し出す鏡です。

しかし、あなたは自ら進んでその鏡を見つめなくてはなりません。鏡をよくよく覗き込むと、あなたはそこに何を見るでしょうか。

あなたは被害者ですか。非難ばかりしていますか。怒っていますか。罪悪感を持っていますか。恐れでいっぱいですか。

「自分が誰なのか」と「自分が望むこと」を忘れて、他者の機嫌を取って、人生の多くを費やしてきませんでしたか。過去からの癒されていない感情的な傷を抱えたっまでいて、それを「今、この瞬間」に投影させていませんか。

自分自身、他者、人生について、あなたが持っている制限をもたらす信念は何ですか?それらの制限をもたらす信念が、あなたは「誰になっているのか」の、その大部分を決定します。

人間関係ではあなたはどのような態度でしょうか。支配的ですか。巧みに他者を操っていますか。正直ですか。気遣いがあって協力的ですか。愛を表現する方法を知っていますか。他者を利用していますか。他者を虐待していますか。批判ばかりしていますか。期待と憤りに溢れていますか。実際は大人のように着飾った子どもですか。両親との関係をあなたのパートナーに投影させていますか。自分の思う通りにいかないときの態度はどうですか。

自身の感情を感じることを自分自身に許していますか。責任を持って感情を表現していますか。自身の感情をどのようにして避けていますか。内から沸き起こってきた感情に対する責任をとっていますか、それとも、他者を非難して彼らに責任転嫁していますか。

心の世界から解放されるには「誰になっているのか」の、そのどの側面も自分が持っているものだと自覚して、そのことを深く受け止めて曝け出さなくてはなりません。そして、このプロセスをまったく批判しないで行うのです。

これは難しいことではありません。ただ無防備になる。率直で正直になる。もし欲深さが現れたら、その素性をつきとめる。欲深さを持っているのは自分だと認める。欲深さを曝け出す。あなたを批判しない人に自分が欲深いことを打ち上げる。あなたを批判しない人が見つからなければ、あなたの内なる静寂の、まさにその中心に存在する神に打ち明けるのです。

「神様、たった今、わたしの中から欲深いエネルギーが沸き起こってきました。うわー、わたしは本当に欲深い。神様、わたしは自分の欲深さを神様に打ち明けます。自分の欲深さを批判せず、拒絶もしません。ただ単に自分が欲深いのを認めます。しかし、欲深さのエネルギーから解き放たれて、実在に戻ることを選択します。この欲深さのエネルギーがわたしを暗闇と分離のさらに奥に連れて行くことは許しません。神様、わたしは今、より目覚めています。より『今、この瞬間』に根付いて存在しているので、心とエゴのレベルで自分が『誰になっているのか』を、実在の観点から簡単に見つめることができます」

あなたは「誰になっているのか」の、そのどの側面についても同様です。あなたがいつ、あなた自身や他者を批判しているのかに気づくのです。あなた自身や他者をコントロールする多くの方法に気づくのです。どうしてあなたが正しい必要があるのかに気づくのです。どのようにして、あなたが被害者になったのかに気づくのです。

「誰になっているのか」の側面が何であれ、そのどの側面も自覚して、そのことを深く受け止めて曝け出すと、その絡んだ糸が解けて、あなたは実在に戻ります。

あなたが「誰になっているのか」は、あなたは「本当は誰か」の真実ではありません。ところが、自ら進んであなたが「誰になっているのか」ということを自覚して、そのことを深く受け止めて、打ち上げて曝け出さない限り、あなたは「本当は誰か」の真実に目覚めることができないのです。

あなたが実在に定着するのであれば、これは通り抜けなくてはならない、おもしろくて、挑戦する価値がある入り口なのです。




完全な目覚めへの障害---抑圧された感情



あなたの内面に過去から抑圧されている感情があると、あなたは根本的にこの瞬間に存在することができません。

抑圧された感情は絶えず誘発され、その感情が引き起こると、あなたは「今、この瞬間」から引っ張られて、あなたがこの瞬間に投影している過去の体験の中に入っていきます。あなたはもはや人生の真実の中にはいません。退行しているのですが、あなたはこのことを意識的に気づいていないのです。

抑圧された感情が誘発されないときであっても、それは密かに染み出てきて、あなたの人生の体験を歪めます。

抑圧された感情のプロセスは幼少期に始まりました。子どもの頃、あなたは両親と一緒にこの瞬間に完全に存在してほしかったのですが、その欲求は満たされることはありませんでした。とても捉え難く、あなたは孤独と分離を感じたのです。両親に無条件に愛され、受け容れられることを必要としていても、その欲求の大部分は満たされることはありませんでした。

欲求が満たされなかったので、あなたは何度も傷つきました。そして、その痛みの反応として、あなたは怒るようになったのです。間もなくして、欲求、痛み、怒りの感情は耐え難いか、絶対に許容できないかのどちらかだと知ると、あなたはエゴの協力を得て、それらの感情を内面に抑圧するプロセスを開始したのでした。

それらの感情があなたの身体の内面に保持されている、抑圧された感情の貯蔵庫に、だんだんと蓄積されていったのです。




抑圧された感情の貯蔵庫



あなたの内面には、抑圧された感情の貯蔵庫があります。孤独と孤立の貯蔵庫、満たされなかった欲求の貯蔵庫、傷、悲しみ、苦痛の貯蔵庫、抑圧された怒りの貯蔵庫です。

抑圧された感情は、あなたの日常生活の中に洩れています。それが自己の意識を歪めて、あなたの人間関係に悪影響を及ぼすのです。時折、抑圧された感情は劇的に誘発されます。塞き止めていた感情が一気に爆発して、「今、この瞬間」とはまったく関係のない感情であなたは圧倒されるのです。絶えず過去の感情であふれていて、人生が不必要な痛みで満ちている人もいます。

孤独を感じたら、それは仲間との交流の時期だというサインです。ただそれだけのことです。誰か相手を見つけて結婚しなくてはならないということではありません。適切に応答する目覚めて成熟した「大いなる存在」として、友人に電話をして一緒にランチでも食べましょう。適切で成熟した応答を促す、ごく些細な孤独感です。

しかし、そのごく些細な孤独感が、あなたの内面で塞き止められた孤独と孤立の貯蔵庫の放出を誘発すると、あなたは突然、幼少期の感情で困惑するのです。友人に電話をする代わりに引きこもる。自分は愛されていない、自分は必要とされていないと、無意識のレベルで納得してしまう。自分が敗北者のように感じる。自分自身を恥じて、こんな自分を誰からも見られたくないと隠れてしまう。

痛みと怒りの感情も同様です。痛みと怒りの感情はあなたが「望むことを得ていない」か、「望まないことを得た」かの暗示です。穏やかに愛をこめて、あなたが望むことを求めるか、望まないことをはっきり述べることによって、痛みと怒りに応答するのが適切なのです。

しかし、痛みや怒りの感情が、過去の痛みや怒りでいっぱいになったら、あなたはもう適切に応答できなくなります。あなたはもはやこの瞬間に存在する、内からの真の力に溢れた適切に応答する大人ではなく、引きこもってすねるか、非難の恨みでいっぱいになって怒り出すかのどちらかで、幼少期とまったく同じ反応をしている傷ついた子どもなのです。

あなたが実在の状態を深めて、日常生活や人間関係においても、根本的にこの瞬間に留まるためには、抑圧した感情の貯蔵庫を空にしなければならないでしょう。




抑圧した感情の貯蔵庫を空にする



目覚めて、実在の状態に常に定着するようになるには、感情の抑圧のプロセスを逆回転させましょう。内面の抑圧したすべての感情を、意識的で責任を伴った表現へと変化させるのです。

ひとたび、完全にこの瞬間に存在する技術を身に付けて、また、感情との正しい関係を築いたならば、感情の抑圧のプロセスを逆回転させることは難しいことではなく、時間がかかることでもありません。

数日間、朝起きたときと、夜眠りに就くときに、次の祈りを神に捧げましょう。

「最愛なる神様。わたしの願いは実在、愛、真実、ワンネスを深めることだけです。もし、実在、愛、ワンネスの中に在ることの障害となっている抑圧された感情がわたしの内面にあるならば、癒しと、完了と、解放のために、抑圧されている感情が意識的で責任を伴った表現となって現れるよう、わたしの人生において感情が誘発されるようにと演出してください」

感情が沸き起こってきたら、取り除こうとしないことが重要です。あなたがただ単に、感情が忠実に表現できるようにと、感情を招いたのです。

感情は過去のストーリーを伴った現れるでしょう。そのストーリーを明らかにさせましょう。しかし、ストーリーを信じ込んではなりません。

あなたはまるで二つの役を演じているような感じです。

あなたは愛を強く欲しています。悲しんでいます。傷ついています。怒っています。非難して、感情を完全に、そして忠実に表現しています。そのもう一方では、感情が沸き起こってきたときに、あなたは完全にこの瞬間に存在しています。感情があなたの内から現れてきたとき、あなたは全体の成り行きを見つめています。その感情は「今、この瞬間」とは一切関係のないことだと、あなたは知っています。その感情はただ過去が完了のために現れただけだと、あなたは知っています。ですから、どちらかと言えば、あなたはこのすべての体験を心穏やかに楽しんでいるでしょう。

これはセラピーではありません。あなたは何かを修復しようとしたり、何かを排除しようとしたりしていません。苦しい感情を抑圧するという、あなたが子どもの頃に決断したことをただ訂正しているだけです。あなたは抑圧した感情に「存在して表現する権利」を復活させているのです。

しかしながら、目覚めた「大いなる存在」として、あなたは責任を持って感情を表現しています。責任を持って表現された怒りは笑いに至ります。悲しみが沸き起こってきたら、泣きましょう。すぐに悲しみは消えていき、喜びに取って代わるでしょう。





この瞬間に沸き起こる感情はあなたの友人



抑圧された感情の貯蔵庫をすっかり空にするには、3か月ほどかかるでしょう。1年以上はかからないはずです。すると、あなたはこの瞬間に沸き起こる過去とは一切関係のない感情と、まったく新しい関係を始めることができるのです。

この瞬間に沸き起こる感情はあなたの友人であり、メッセンジャーです。この瞬間に起こったことは何であっても、その適切な応答の仕方を教えてくれるでしょう。

お腹が空いていると感じたら、何か食べる。喉が渇いたと感じたら、何か飲む。寂しいと感じたら、友人に電話をかける。友人と出かけて困惑したら、丁重にその場を去って、静かな時を待つ。何も複雑なことはありません。あなたの感情は一瞬一瞬に応答する方法のヒントとサインです。

反応するのではなく、応答しましょう。「今、瞬間」のあなたの体験を歪めるような、過去からの抑圧されてきた感情が溢れていない限り、応答はとても単純なのです。



完全な目覚めへの障害---他者との絡まった糸のもつれ



目覚めるとは「過去と未来から自由となって『今、この瞬間』の中に解き放たれている」という意味です。また、「他者との絡まった糸のもつれから自由となって、本来の自分自身でいられる」という意味でもあります。わたしがあなたに絡まっているならば、どうやって「わたしは誰か」を知るのでしょうか。あなたがわたしに絡まっているならば、どうやって「あなたは誰か」を知るのでしょうか。目覚めるには「互いの絡まった糸のもつれ」から、わたしたち自身を自由にさせなくてはなりません。

「他者との絡まった糸のもつれ」とは、どのような意味でしょうか。

あなたに愛されたい、受け容れられたいならば、わたしはあなたに絡まっている。あなたに認められたい、賛成してもらいたいならば、わたしはあなたに絡まっている。あなたからの支持を得ようとしてあなたの機嫌を取るならば、わたしはあなたに絡まっている。あなたの批判や不賛成を懸念するならば、わたしはあなたに絡まっている。あなたから拒否されるのを恐れるならば、わたしはあなたに絡まっている。あなたを巧みに操り、コントロールするならば、わたしはあなたに絡まっている。あなたへの責任を負っているならば、わたしはあなたに絡まっている。あなたを非難し、責めて、憤慨しているならば、わたしはあなたに絡まっている。

わたしたちは皆、絶望的なほどお互いに絡まっているのが事実です。わたしたちは皆、絶望的なほどお互いの中で自分を見失っているのです。





あなたの力を明け渡す



誰かがあなたのことを好いている、あなたのことを認めている、あなたのことを受け容れているならば、あなたはとても気分がいい。意気揚々となる。自分は価値のある存在だと感じる。ところが、誰かがあなたのことを好きではない。あなたのことを認めない、あなたのことを受け容れないならば、あなたは意気消沈となる。自分が価値のない存在だと感じる。このようにして、あなたは自身の力をすっかり明け渡しているのです。あなたは絶望的なほど、他者に絡まっているのです。





他者との絡まった糸のもつれからあなた自身を解放する



他者との絡まった糸のもつれからあなた自身を解放するには、他者との関わり合いの中で自分自身を見失うあらゆる点を、意識まで浮上させなくてはなりません。

他者に「愛されること」「受け容れられること」「認められること」を求めていると気づいたら、その都度、あなた自身の力を譲り渡していることを自覚して、そのことを深く受け止めて曝け出すのです。認められたいがために、他者の機嫌を取っていると気づいたら、そのことをまったく批判しないで、自覚して、深く受け止めて曝け出すのです。

ふざけて、責任を伴って表現された怒りは、あなたの力を取り戻す解放の力となるでしょう。





アンジェラと男性への機嫌とり



ある目標の夜、カリフォルニア州マリーンで、目覚めと自分自身に誠実である必要性についての話をちょうど終えたとき、わたしは誰かがすすり泣いているのに気付いた。その泣き声は40代前半の魅力的な女性、アンジェラだった。



「大丈夫、浮かび上がってきたものを、そのまま出してしまいなさい」と、わたしは言った。

目に涙を浮かべたまま、彼女はわたしを見上げたので、わたしは訊ねた。「その涙は何を語ろうとしているのだろうか」

「わたしの父についてです」と、彼女は答えた。

「父親の何について?」

「父はとても冷酷なので、わたしは何年にも渡って父の機嫌を取ろうとしてきました」

「あなたの努力は報われただろうか。あなたは彼の機嫌を取ることはできたのだろうか」

「いいえ」と、彼女はかなり絶望的に答えた。


彼女の問題点はすぐに明らかになった。父親の機嫌を取ることで彼から受け入れられ、認められようとして、彼女は自身の力と自己の意識を明け渡すのが身についていたのだ。他者の機嫌を取ることは、わたしたちが自分自身を見失い、自身の力が奪われるようになる主な習慣の一つである。そして、それが他者との絡まった糸のもつれの中で発展して、解消するのが非常に困難になる場合もあるのだ。

「あなたは何年にも渡った、父親の機嫌を取ろうとしたにもかかわらず、失敗に終わっている。もしここに彼がいるとすれば、あなたは何て言いたいだろうか」と、わたしは訊ねた。

「お父さん、あなたの機嫌を取ろうとしてきたけれど、わたしはもうこれ以上できません。わたしにはできません」と、彼女は懇願していた。それは被害者の声だった。

「もしあなたが自分自身を解放したいのならば、あなたのいうことはそれではない」と、わたしは言った。

「わたしは本当に一生懸命にやりました」と、彼女は正しい言葉を見つけようとして言ったが、声のトーンは懇願と困惑に満ちていた。

「それじゃない」と、かなりはっきりした口調でわたしは言った。

「わたしは20年間結婚していましたが、どんなに努力しても主人の機嫌を取ることは不可能でした。そして、最近、お付き合いしていた人は、突然、わたしの元から去って破局となったのです」

「あなたは彼の機嫌を取ろうとしただろうか」と、尋ねると、彼女は泣きながらイエスと答えた。今までの人生で、すべての男性に対して同じように接してきたことが次第にわかってきたようだった。

彼女はむせび泣き始めた。たとえどんなに懸命に男性の機嫌を取って認められようとしても、これまでの人生で男性から愛されたと一度も感じたことがないという、深い痛みを彼女は感じていた。

「あなたは前のご主人になんて言うだろう。何年も彼の機嫌を取ろうとしたにもかかわらず、あなたはまだ彼から認められていない。あなたは彼に何て言うだろうか」と、わたしは質問を続けた。

「わたしはあなたを愛していたけれど、上手くいかない。上手くいかないのよ」と、彼女はむせび泣きながら言った。

「違う、それじゃない」と、わたしはできるだけ彼女に同情を見せないようにして言った。

「わたしはとても一生懸命に努力しました」と、彼女は言った。

「違う、それでもない」と、彼女に言った後で、わたしはこの場にいるワークショップの参加者の全員を見回し、「彼女が理解するまで数時間も、皆でここに座っている価値があるだろうか」と、ユーモアを交えて訊ねると、アンジェラも、皆も笑い始めた。そして、笑いが収まったところで、彼女は率先して再び答えを探そうと試みた。どうにかして理解しようと、彼女は決心したようだった。

「わたしはあなたの機嫌を取ることはできない」と、彼女ははっきり言った。

「いいや、それも違う」

「彼女は再び、彼女自身を内からの真の力に漲らせる言葉を見つけようとした。

「わたしはあなたの機嫌を取る方法がわかりません」と、彼女は模索しながら言った。参加者から深いため息がもれた。皆、彼女に示唆したくてたまらない様子だった。

「それじゃない。では、後2分あげよう。それでもわからなければ、これで切り上げるとする。今この場で理解できなければ、あなたはこの答えを求めて後25年はさ迷い続けるだろう。そして、恋愛するたびにボーイフレンドの機嫌を取っても、決してうまくいくことはないだろう」

「わたしは今この場で理解します」と、彼女は主張した。

「では、もう一度質問しよう。あなたがどんなに懸命に努力しても機嫌を取ることができない人に、あなたは何て言うだろうか。自分自身を内からの真の力に漲らせたいならば、あなたは何て言うだろうか」

「あなたの機嫌がよくなることはありえない」と、これが適切な答えだったらという望みを持って、彼女はわたしを見ながら言った。部屋中に笑いが沸き起こった。

「違う」と、わたしは強く言った。

「わたしはあなたの機嫌を取ることはできない。わたしはあなたの機嫌を取る方法がわからない。わたしはあなたの機嫌はもう取りません」と、彼女は言った。

「まったく救いようがない」

彼女はすっかり途方に暮れていて、まったく手掛かりがないのは明らかだった。「それでは、彼女にヒントをあげるべきだろうか」と、皆を見て訊ねると、イエスという声が沸き起こった。そして、わたしはアンジェラに向かって言った。「では、ヒントをあげよう」

彼女はヒントへの切実な期待を込めたわたしを見つめた。幼少の頃から彼女が今まですべての男性との関係に投影してきた非常に不健全なパターンから、これで解放されるかもしれないのだ。

わたしは劇的な効果のために、しばらく間をおいてから彼女にヒントを言った。「それはたった一言ですむ」

彼女は目を輝かせた。言うべきことがやっとわかったようだった。

「バカヤロー」と、彼女は思いっきり叫んだ。

彼女はこのシンプルな解放の一言をありったけの力と勢いを込めた言った。もし、彼女の父親、離婚したパートナー、去っていったボーイフレンドがこの場に居合わせたら、3本のボーリングのピンがレーンに雪崩れるように、彼らは打ちのめされただろう。

「そう、それなんだよ」と、わたしは彼女を称えた。

彼女は皆からスタンディング・オベーションを浴びた。そして、大喝采が彼女の笑い声でかき消されそうになった。彼女はとても深く安心したように見えた。

「あなたが席に戻る前に、しめくくりのガイダンスをしよう」と、わたしは言った。「あなたは自分自身の力を他者から認められようとして明け渡してきた。あなたは自分自身の力を取り戻さなくてはならない。あなたは自分自身を取り戻さなくてはならないのだ。

怒りがあなたを解放する。あの一言があなたを解放するだろう。神はわたしたちが正しいやり方で怒りを表現することができるようにと、あの一言をわたしたちにくださった。さもなければ、怒りは積もり積もって内側へと向かい、あなたからさらに力を奪うだろう。

あなたは責任を持って、怒りをふざけながら表現する技術を身につけなくてはならない。道を歩いている時は、スーパー・マーケットで見かける男性全員に向かって、黙って心の中でこの一言を言う練習をしてみなさい。彼らが知り合いかどうかは関係ない。ただ気が済むまで彼らを罵るんだ。わかったかな」

気づきはシンプルに存在する

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どこにも行く必要はない



善行、悪行などといった思考の向こう、
遠い彼方に領域がある。
そこで私はあなたを待っている。


瞑想をしていると、人としての存在がなくなるような瞬間があります。そこにはシンプルに開け放たれた広大な空虚があるのみ、ですがとても穏やかで生き生きとした感覚があります。あらゆる宗教伝統において、超越体験についてこのような証言が報告されていますが、探求者が瞑想をやめ、日常に「戻ってくる」と、その内なる平和のスペースはもう曖昧になってしまいます。彼は探していたものを「見つけた」と結論しますが、同時に不満を抱えることになります。その至福の瞬間が終わると、「それを失った」と思うからです。この無限性はどこにでもあり、瞑想状態になくとも接触できるとわかるまで、この探求者の内なる闘いは続くことでしょう。

この完全なる存在はどのような状況でもそこにあり、初めてそれに気づいたときにはとても強烈な印象と、幸福感や平和を感じるのです。初期認識として、壮観さを感じる場合もあります。そういった出来事を経験することの良い点は、「ただ在るもの」を直接認識できる点です。そのような「目撃」が起きると、条件づけの大部分が吹き飛ぶ可能性がありますし、本を読んでもこのような経験は決して見出せるものではありません。ただし危険性として、探求者がこの出来事を個人的にとらえてしまうこと、「四月一日、私は無限を経験した」「私は自分の神聖さを発見したから、今やスピリチュアルの指導者なのだ」などと言ってしまうことがあります。探求者は自分を「発見者」だと思い込み、再び個人のゲームに逆戻りしていることには気づきません。彼の内なる声は「私は無限性を発見した、他の人たちはまだそれを探しているぞ」といい、本人もその声を信じているのです。

私たちに生来備わっている本質は、個人を超えてすべてを包み込んでいます。それを理解すれば、特定の状況や特別な意識状態にあらずともその存在を発見することができるのです。私たち自身がクリアな気づきそのものであることがわかると、個々の環境に関係なくこの存在を再発見できます。これは感情や思考を使って達成するものではなく、「ただここに存在する」、それだけのことです。ネイサン・ギルはこう言っています。


●今意識しているものを超えて、思考で深刻に概念の人生ストーリーを作り上げて楽しむことをやめたなら、概念的に生きるということが何であるか見えてくる。そして、そこにだけ焦点を当てることもなくなる。

私たちにとって「必要」なものはすべて今すでに私たちの元にることに気づけば、そして、特別な人間やスピリチュアルな人間にならなくても惜しみなくそれにアクセスすることができるのだとわかれば、私たちはスピリチュアルな探究から手を引くことができます。努力したり追いかけたり、私たちの外にあるものを見たりしていても、「私たちの中の探求者」が真の達成や完全なる解放を手にすることはありません。「それ」は旅の終わりに報酬として与えられるものではないのです。私たちは皆、無条件の愛を切望し、自分は無限性とのつながりを持っているはずだという確信をもっています。誰もが皆、本来の状態を失い、何かが欠けているかのように感じているのかもしれません。ですから、「それ」を一瞬でも垣間見たことのある人は、どうにかしてそのつながりの感覚を取り戻そうとします。問題なのは、私たちはいとも簡単に間違った方向を見て探してしまうことです。たいていの人は高次のエネルギーを求め、スピリチュアルなヒーローを真似したがり、超常的な技術を備えた特別で神聖な状態を「手に入れる」ことを望みます。すべて、スピリチュアルな解放を見出すためです。そして、それにふさわしい人間になるためには自分は浄化されなければならない、多くの探求者がそう固く信じています。こういったすべての信念体系が私たちの人格を強固にします。個人として、スピリチュアルに成長しようとする人格です。そして、神の愛を通して、あるいは何十年もの修行を経てそれを見出したと言う偉大なマスターたちの真似をします。また、ある指導者はそれをマスターから「伝授」されたと信じ、同じプロセスを経て自分の弟子にも受け継いで欲しい、とほのめかしたりします。弟子たちはマスターの近くに住み、あらゆる献身を尽くし、指導者と同じように振る舞うこと、もしくは少なくともスピリチュアルなヒーローが求めること(食生活を変える、改名する、その特定の宗教組織のルールに従って生活するなど)をしていれば、自分もマスターと同じスピリチュアルレベルに達する可能性は高いと信じ込みます。こういった探求者たちはあの一体感を味わいたいと必死になっているため、簡単に言うことを聞くのです。そして、スピリチュアルなゲームが個人的なことにすり替えられていることには気づきません。彼らは超越体験をしたことがあり、それからというものとても影響を受けやすくなっています。あの平和の内での一体感をもう一度得たいと思っていて、その宗教体系のルールに従っていれば永遠にあの至福感の中で生きられるのではないかと密かに望みを抱いているからです。つまり、スピリチュアリティという山の頂上まで登りつめたいのです。彼らはマスターはすでに山頂にいると信じていますが、意識にヒエラルキーなど存在しないということに気づいていません。無限は、誰かが他の人より「高位にいる」と見なすことはありません。意識は、至福の時間の方が苦痛の瞬間よりも高次だなどと評価をしません。すべてが一つのエネルギーだとすれば、そこに違いなど生じるでしょうか?

ですから、スピリチュアルな学校のルールに従っても無駄ですし、スピリチュアルなヒーローを真似しようとするのも誤りです。スピリチュアルな権力を求めるのは、実際のところ、日常生活について回る問題を回避しているにすぎません。「手に入れる」ものは何もないと気づいたなら、自分の人生を生きるのにどうしてグルや指導者が必要でしょう?私たちが誰であるか、他の人にわかるのでしょうか?グルや指導者は、私たちではないものなら示すことができるでしょう。その意味では、彼らは私たちではないものを発見するときには重要なきっかけを提供してくれるかもしれません。しかし、本当の私たちの正体を教えてくれる人など誰もいないのです。スピリチュアルの権威が自分を何と呼ぼうと、彼らの信奉者が何を言おうと、中には実際に重要な指導者がいようと、スピリチュアルな探究を個人的なものとするならばそれは大きな誤りです。そうなると、すべてはいとも簡単にマインドのゲームと化します。東洋神秘主義の書物は、いわゆるスピリチュアルの探求者に、彼ら自身にも恍惚の至高体験が起きると期待をさせてきました。常に高次の状態で生き続けたいという特別な人々(神の化身、菩薩)の物語ばかりを集めた書物がもたらした結果がこれです。もしかすると、中には本当に稀なる高次状態を維持していたグルもいたかもしれませんが、それがどうだというのでしょう?これは他人の状態を分析するための探究ですか?比較することに何の意味があるのでしょう?境界線はどこにあるのでしょう?誰が誰から分離しているのでしょう?意識が一つであるなら、他人というのはどこにいるのでしょう?「もしすべてが意識だとすれば、私たちはどうしてまだ探しているのか?」とネイサン・ギルが言う通りです。とはいえ、このように探求者として期待やフラストレーションを生みながらスピリチュアルな道を探究することは、何も悪いことではありません。すべてのスピリチュアルな信念体系に私たちは判断を下したくはありませんし、信奉者を誤った方向に導く指導者たちを裁いたりもしません。これもスピリチュアルの探究というゲームにすぎないのですから。

目的は、特定の神秘主義的な伝統やスピリチュアルな道を模倣することではありません。記された省察は別の可能性を発見しようとするもので、シンプルかつ直接的な、どんな宗教や指導者にも頼らない可能性を探っています。これまで私たちはスピリチュアルな指導者や神秘主義的な伝統から多くのインスピレーションを得てきたにもかかわらず、それによって誰も悟りを得ることはない、誰も解放されないのだということに気づいています。模倣や比較は無駄だと気づいています。いったんそれに気づけば、前述のジレンマは一瞬にしてすべて消えてしまうことでしょう。





ルールはない



気づきはシンプルに存在し、あなたはそれである。
偉大なる犠牲、知性、そんなものは関係ない。
あなたはすでにそれなのだ。


日常生活において無限の意識の発見にアプローチするとき、どうすれば私たちはこのピュアな意識そのものを生きることができるかを学ぼうと考えます。ですが、これを成し遂げようとするのは雨がどのように降り方を学ぶのか尋ねているようなもので、実に馬鹿げてはいないでしょうか?太陽はどうやって輝き方を学ぶのでしょうか?湿った状態になるために、水は何をしたらいいのでしょう?前に指摘した通り、私たちはもうすでに、求めていたもの「そのもの」です。私たちの根本的な性質がピュアな意識であるということは、私たちは無限で、いたるところに偏在し、非人格的だということです。ですから、私たちがすべきことなど何もありません。特に取り除かなければならないものの、瞑想すべきスピリチュアルなテーマもありません。人格の存在を信じている限り、私たちはこの人格をどうにかしてより良いものに「変える」ことができると思い込みます。特定の瞑想テクニックを利用してもっとリラックスしよう、またはもっとスピリチュアルになろうと試みるのは表面的なレベルでは面白そうに見えるかもしれませんが《そして、そのレベルなら何も問題はありません!》、解放が起きるかとなると、まったくその行動に価値はありません。どんな些細なものであろうとすべてのスピリチュアルなテクニックはエゴのツールとなる可能性があり、そのレベルでのみ功を奏します。これらのテクニックによって穏やかなエゴが私たちにもたらされますが、だからどうだというのでしょう?それはまるで、女性が鏡の前に立ち、もっと魅力的になろうとして鏡に映っている自分に化粧をしているようなものです。つまり、まったくもって無意味なのです。私たちにはすべきことも、到達すべき場所もない-----すでにそう理解しているのですから。また、スピリチュアルの探究という概念を敢えて無条件に手放したときに、ぽっかりと開かれた状態だけが残るという記述もあります。これは、今の私たちが変わらなければならない理由などないのだと理解した状態です。ユトゥス・クラマー・シッパースは次のように記しています。「それはあるがままに存在する。それ以外の在り方などあり得ない。十分にそれは伝わってくる」

指導者の中にはスピリチュアルなテクニックを無意味だと敢えて明確に発言している人がいますが、スピリチュアルへの取り組みはエゴから発していることが本当にわかると、その発言も理解できます。このような考察を念頭に置くと、スピリチュアルの道が無用であることはもう明らかです。信仰のための書物、神聖な書物、宗教ルール、すべてはエゴのスピリチュアルな野心を満足させるものとしてなら価値があり、ほかに意味はないということがわかるでしょう。真にこれを認めると、私たちには混乱と無力感だけが残ります。ですが、これは完全なる自由への扉でもあります。もうルールはないのですから、そうなれば宗教的な伝統の無意味さなど問題にもなりません。

解放に向かって努力するのは鏡に映った顔に化粧を施すようなものです。鏡像はきれいになるかもしれませんが、そこに何の意味がるのでしょう?それで私たちの本来の顔は変わるでしょうか?行っている探究は、もっとましなエゴを得ることでしょうか?この方法で、私たちは永遠というものに辿り着けるのでしょうか?ドイツのキリスト教神学者で神秘主義者のマイスター・エックハルトはこう述べています。


●特別な道で神を求める者は、その道を得る。そして、その道に隠れている神を失うだろう。特別な方法を持たずに神を求める者は、神の真の姿を見出す・・・神は生命そのものである。


私たちがこれを完全に理解したとき、すべてのスピリチュアルなセラピーや書物は間違っているとして、スピリチュアルな実践をすべて捨て去るべきなのでしょうか?ヨガや瞑想はもう忘れるべきである、ということでしょうか?すべての宗教体系は本筋から脱線させるものなのでしょうか?この疑問に対する答えはありません。結局のところ正しいも誤りもありませんし、宗教・瞑想ともに適切な場合mあるでしょう---そう、何であれすべてが適切なのですから。何も決められてはいませんし、禁じられてもいません。ただシンプルに、ルールはないのです。私たちがいつの日か、素のままの気づきにもっと「開かれた」状態になるためには瞑想やスピリチュアルな訓練をする必要がある、と言うこともあるかもしれません。ですが、時間が幻想であること、つまりは未来に起きるであろう解放も幻想であると気づいているなら、そんな発現に何の価値があるでしょう?




探究の放棄



ただし、存在を受け入れる中で、
私たちはある種の死を受け入れることになる。
死ぬのはすべての期待、判断、
何かになろうとする努力である。



私たちが生きるかぎり、身体は明らかに存在し、「観察」はマインドと身体とのつながりを通して起きています。しかし、それはこのマインドと身体に委ねられているわけではありません。私たちが生きている以上「身体+マインドというマシン」との一体化はある程度生じるでしょうし、それは悪いことではありません。たとえば、個人的な嗜好は依然として表面化することでしょう。ですが、そこには同時に「知っている」部分もあります。この「知っている」部分は、マインドから生じているのではありません。それは「観察」の一種で、このすべてを通して輝いています。それは背景のようなもので、「確かに『身体+マインドというマシン』は個人的な特質を備えているけれど、それは私という存在ではない」と囁きかけます。私たちにそれが「見える」とき、何が起きるでしょう?私たちの本性が見えている間も、生来の防衛本能が焼失することはりません。身体を育み、快適にするために作用するすべての実用的な機能、自分は仲間を保護するために必要なすべての概念はずっとそこにあります。何が変わるかというと、裁こうとする内なる声が変わります。そうすれば私たちはただあるがままでいることができ、周りに対して「開かれた」状態のまま、人生を提示されるがままに経験します。そして、個人的な悟りの概念はまったく意味を持たなくなります。

スピリチュアルの探求者は、いずれはエゴのない状態に到達するだろうと思っていますが、そのときに何が起きるというのでしょう?この悟りを誰が目撃するのでしょう?計り知れない喜びや神聖なる光が驚くべき感覚をもたらしてくれると期待しているのでしょうか?ほとんどの探求者が心密かに、最終的にはニルヴァーナを「手に入れ」、永遠に解放されたいと望んでいます。解放に関する東洋の書物にはそのような記述がありますが、そんなことはもちろん不可能です。悟りを得ている人という概念自体が明らかな矛盾です。以前述べたように、それを個人のものとして想定しているかぎり、ある日解放されるといった概念があるかぎり、神聖な状態への執着があるかぎり、その大きな概念の固まりの中心には一人の人間が居座っています。しかし、私たちが求めているのは概念を一切持たない状態なのです。

宇宙のスクリーンは分断されているように見えていても、それが幻でしかないということがわかれば、個人としての悟りも不可能だとわかります。悟りを開くような、分離した存在などいないからです。探求者がこの現実に目覚める様子を自らそこで目撃したいと思っている以上、彼がこの意識を見ることはできないでしょう。探求者は発見者にはなれません。その理由は単純で、まずその前に発見者は消えなければならないからです。結果として、私たちの本性を再発見するための(公然の)秘密は未来のどこかに隠されているわけでも、どこか遠い異国に隠されているわけでもないことが見えてきます。それは、今ここにあるのです。私たちはただ、一切の先入観や信念を捨て去り、今の瞬間を受け取っている間は自分自身のことさえも忘れていればいいのです。何をしているか、何を感じているかは重要ではありません。本当に大切なのは、日常生活の中に無限性を見出すことです。唯一できること、それは表面化してくるものを神聖に受け取ることです。それは呼吸と同じくらいシンプルです。「今私は息を吸っている。今私は息を吐いている」と主張する必要がないのと同様に、「私たちという存在になる」ためにすべきことは何もないのです。前述のように、特別な人、スピリチュアルな人になる必要はありません。着る服を変えたり、名前や食生活、職業、社会的地位を変えたりしなくてもよいのです。ライフスタイルを変えなければならないと思っていると、その概念は人格を強化し、分離しているという幻の概念を促進させ、スピリチュアル的唯物主義を肥大させてしまいます。

探求心が衰えると、「自分は変わらなければならない」という信念もなくなります。私たちの中には小さい悪魔がいて、私たちは解放に値しない存在なのだと信じ込ませようとし、自分なりの人間としての在り方では不十分なのだと言ってくるものですが、この悪魔も口をつぐみ、静かになります。すべてのものが、すべての人がただあるがままに存在している、そこに明晰性があります。理解は、こうして受け取られるのです。






超越体験



石を持ち上げなさい、そこにあなたは私を見出すでしょう。
木を割りなさい、そこに私はいます。


神秘体験を経て人生が大きく変わったと報告している人は大勢います。彼らは、開かれた瞬間が訪れ、その瞬間にすべての疑問が消えたと言います。マスターとともにいるときにそれを得た人もいれば、自然の美しさに心を奪われている間にそれが見えたという人、瞑想中に「それを手にした」人もいます。そういった体験にどのような価値があるのでしょう?解放へ近づくためには、このような体験をすることが必須なのでしょうか?ヨガや形式的な瞑想は気づきを変容させるように思えますが、それらは私たちの知覚を変えるだけで、あの存在が知覚しているものに変化を与えるわけではありません。たとえば、私たちは(スピリチュアルなテクニックを使うなどして)内側に焦点を合わせているとき、自分の気づきは「高次」になると思っています。スピリチュアルな修行では「高次の意識状態」に到達することをゴールとしていますから、このゴールに達成するために行うことは何であれスピリチュアルであり、探求者にとっては最も大切なことと考えられています。ですが、このプロセスには終わりがありません。「高次の意識状態」が生じるたびに別の意識状態が現れます。もっと高次の状態、もっと深遠な状態、もっと神秘的な状態が待っています。

スピリチュアルなテクニックや形而上学的な知識が問題となるのは、人びとがこれらを持つことがスピリチュアルに成長しているとい良好なサインだととらえてしまうことです。エゴはそのイメージが大好きですが、実際には「成長する」人などおらず、「すでに自分である以上のものになる」人もいないのです。そういった技術や知識はスピリチュアルな道を進む探求者の心を非常に引きつけながら、的外れな方向へと逸脱させます。探求者たちはすぐに成長の度合に執着し、自分の「スピリチュアルのレベル」について優越感を抱きはじめます。このようなエリート意識による行動は、私たちが求めている民主主義的スピリチュアリティにとってまったく意味を持ちません。

より高次の意識に達したいなどといったゴールに焦点を合わせることは、私たちが意識をコントロールできると思っているということです。意識を個人的なものとしてとらえ、意識は向上させることのできるものだと思っているということなのです。私たちは、神秘体験が起きるたび、スピリチュアルな新しい洞察を得るたびに、それは近づいてくると思っています。これは、波がいつか太平洋になりたいという夢を抱いているようなものです。波も海も水であることには気づいていません。このような信念体系によって、私たちは個人的な体験のサイクルに閉じ込められています。至高体験をしているときは幸せを感じ、その体験が終わると落胆します。「上級の」探求者にとってはとても魅力的なのでしょうが、こういったスピリチュアルな唯物主義は求めている解放とはまったく別のものです。

では、超越体験をすることにどのような価値があるのでしょうか?超越体験は楽園への切符なのでしょうか?解放の下見でもしているのでしょうか?それと素のままの存在にどんな関係があるのでしょう?ネイサン・ギルはこれについて、「特別な出来事は起きては過ぎゆく。それによって『あるがままのもの』についての直接的な洞察を得られるかもしれないが、どんな至福感を得ても、それもまた一つの出来事にすぎないことに私は気づいている」と明言しています。超越体験は一秒かもしれませんし一分間続くかもしれません。毎日起きる可能性もあります。ですが、それは悟りへの切符などではありません。探究において大いなる明晰性をもたらしてくれるかもしれませんが、スピリチュアルの探求者にとって必要不可欠なプロセスではありません。体験者の多くは、それまで決して理解できなかったことが、そのような出来事を体験することでクリアになったと言っています。彼らにはその体験が何であったか「わかっている」ようですし、少なくとも、他者の言わんとしていることがわかるようです。すべてがクリアになるのです。そのような形であれば、超越体験は探求者にとって大切な出来事となる可能性もあるでしょう。思い違いや信念体系を、すべてではないにしろ少しは取り去ってくれるかもしれません。ですが、私たちの本性を見るために必要不可欠なことではないのです。そこに隠された危険性があります。私たちはそのような出来事を所有したがり、それが過ぎ去ったときに落胆します。もしくは、自分の人生で超越体験をしたことがないためにフラストレーションを抱えます。こういった個人のゲームはエゴのツールでしかなく、エゴの自滅をこうやって先延ばしにしているのです。


多くの探求者は超越体験を経て「それ」が何であるかクリアになったと言いますが、エゴがそこでもう一度中心的役割を獲得したがる危険性もあります。このようにして探求者の正体が明かされることを巧みに避けているのですが、本人はたいていこれに気づいていません。神秘体験はスピリチュアルの領域に新しい洞察をもたらす一方で、混乱も起こします。これは、一部のスピリチュアルの探求者/指導者に該当しているように見受けられます。中には、重要な超越体験をしながら理解も明晰性も得なかった人たちもいるようです。このような人々が探求者たちを手助けしようと「メッセージを広めている」としたら、誤解を招くことになりかねません。指導者の中には、自分の目覚めを基準として提示したり、自分のマスターの哲学を真似る人もいます。彼らのいわゆる神秘体験は最も重要なこととして提示され、超越体験はとても巧妙なやり方で、個人的なものと扱われます。スピリチュアルの探究を終わらせたくない、もっと長引かせたいと思っている探求者にとっては、このような教え方はとても魅力的に映ることでしょう。こういった教え方は本質的に二元的でありながら、たいていそのようには認識されていません。こういったプロセスのすべて(一方ではそれを必死に求めながら、もう一方で自ら誤った方向へ進むプロセス)もまた、無限の表現です。このように意識はかくれんぼのゲームをしているのです。つまるところ、実にどうでもよいことなのです。

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非二元と二元性 超越の瞬間

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ビジョンX:二元性 大人 自己認識 制限あり ビジョンY:非二元 生まれたて 開かれた気づき 無限



超越の瞬間



すべては気づきへとつながっている。
あなたのマインドにとって有害に見えているものでさえ、
もう一つの可能性を提示してくれている。
人生の成り行きに執着したり陶酔するのをただやめて、
人生の自然は流れに任せなさい。
計り知れないほど大切な何かが、
あなたの一切の不安に取って代わるだろう。
そして、新しい神秘の感覚が押し寄せてくるだろう。
すべては大いなる愛を映し出している。
それが生命の自然な在り方だ。



本来の状態は失われたのか?



主体と対象は一つである・・・
それが突然見えたそのとき、
あなたは深遠な謎に包まれた
言葉では言い表せない理解を得る。
これが禅の真理への目覚めだ。



子どもの頃、私たちには内なる源にアクセスする力がありました。ハートはつながりなさいと囁き、その度に私たちは源につながっていたのです。ところが成長して人間クラブに入会する頃になると、期待や恐れ、欲求を抱えて苦しんでいるマインドによって、ハートの囁きは度々かき消されるようになります。私たちは大人になるにつれて人格を発達させ、その人格にますます自分を重ねていきます。その結果、「身体+マインドというマシン」の中でまったく「身動きがとれなく」なってしまうようです。この人格は、どうにかして大人クラブの正式メンバーになりたがっています。もちろん、身体やマインドと一体化することは健全な人格を持った普通の大人になるためには大切なことであり、赤ん坊から大人へと進化する中で絶対に必要なプロセスです。理性がなければ、この世界で大人として普通に生きていくことはできません。しかしその一方で、この自己認識の過程で私たちは本来の状態である開かれた気づきとのつながりを失ってしまいました。本来の状態を再発見し、人格の特性を損なうことなくそのビジョンで生きていくことは可能でしょうか?つまり、両者の長所を生かすことはできるのでしょうか?子どものようにならなくても、幼児期のように開かれた状態を再発見できるでしょうか?正気を保ったまま、思考するマインドを脱却できるでしょうか?僧侶にならなくとも真のスピリチュアリティの核心を再発見できるのでしょうか?スピリチュアルな生活を送るために世俗的な生活を手放したくはない人や、西洋社会で「普通の」生活をしながら日常の中に無限のビジョンを得たい人にとっては、極めて重要な疑問です。

さらに詳しく説明するために、この二つのビジョンを(理論的に)区別する必要があるでしょう。それぞれビジョンX、ビジョンYと呼ぶことにします。一つ目のビジョンは「人間の」ビジョンで、成長の過程で確立するビジョンです。こちらは常識に視点を置いています。この概念を「ビジョンX」とします。すべての人が、このビジョンを信じています。ビジョンXは大人の視点で、私たちは切り離された存在としてこの地球上に住み、動き回っているという信念が土台になっています。しかし、もう一つ別の視点があります。こちらは前にお話しした気づきに関係しています。この二つ目のびじょんを「ビジョンY」と呼びます。これは生まれたての赤ん坊の「ビジョン」で、私たちの本性とも言われます。ビジョンYによれば、本来の私たちは開かれた気づきであり、自分や世界にまつわるすべての概念はその気づきの中に現れる幻想に過ぎません。「素のままの気づき」または「子どものような純真無垢さ」と呼ばれることもあります。なぜなら、それが社会概念や信念体系によって損なわれる前の状態だからです。

この二つのビジョンの違いはどこにあるでしょうか?大きな違いが二点あります。まずビジョンXは本質的に二元的ですが、ビジョンYは二元性を持ちません。次に、ビジョンXは人間として社会で生きるために役立つツールとなりますが、ビジョンYはまったく役に立ちません。ビジョンYは提示しようとしている視点を説明してはくれますが、それ以外に価値はありません。言い換えると、ビジョンYは私たちが本性をさがしもとめるときにのみ意義を持ちます。


ビジョンX:二元性 大人 自己認識 制限あり
ビジョンY:非二元 生まれたて 開かれた気づき 無限


ビジョンXとビジョンYは正反対に位置するように見えますが、追って説明するように、ビジョンXは実際にはビジョンYの一部です。つまりビジョンXは個人的な制限つきビジョン、ビジョンYはすべてを含む無限の一つなるものです。「それ」には限界がありませんから、非人称で無限です。ワンネスと呼ばれているものです。「それ」に境界はありません。




砂上に築いた砂の城



幸せへ通じる道などない。
幸せは、道そのものである。


ビジョンXとビジョンYの概念を説明するために、砂浜に砂の城を作るというメタファーを用いましょう。ビジョンXは、「私たちは身体とマインドに限定された存在である」という感覚にあたります。ビジョンXにおいて私たちは、自分を砂の城のように感じています。一方、ビジョンYは生まれたての赤ん坊のような開かれた気づき、生まれ持った素のままの気づきです。こちらは、砂浜に無限に広がる砂そのものにあたります。

砂の城はいずれも同じ砂から作られていますが、それぞれの砂の城は互いに分離していると感じています。ですが、もしある一つの砂の城が「自分はスピリチュアルを探求しよう」と考えたなら、間違いなく本来の砂の無限性をもう一度味わいたくなります。ここで問題となるのは、私たち(砂の城としての私たち)は自らの本性、つまり砂の粒のままの状態を再発見することができるだろうかということです。砂の城でありながら、砂粒にもなれるのでしょうか?(純粋に実用的な理由で)ビジョンXを維持しながら、同時に私たちの本来の状態(ビジョンY)を再発見することは可能でしょうか?私たちは、生まれたての赤ん坊の頃には持っていた開かれた気づきを、身体に限定されているという大人の考え方を身につけるために手放したのです。ですから、いずれそのうち、あの本来の開かれた気づきの状態を取り戻したくなるでしょう。どこか心の奥深くでは、これではなく別の可能性であるとわかっています。そして、あのワンネスの感覚がないために何かが欠けているような感覚があることにも気づいています。私たちの知識をはるかに超える、到底理解などできない何かの存在を感じています。奥深くでは、生まれたての頃にはあった開放の神秘を痛切に欲しています。この充足感が欲しくて、私たちは究極の超越を探し求めています、究極を痛切に求めていなければ、ここで読んではいないでしょう。人生は、日常生活で見たり感じたりするものだけではないと誰もがわかっています。つまり、私たちはスピリチュアルの探求者なのです。「このほかに」何かがあるとわかっていますし、それが見つかれば私たちは内なる充足感を得られることもわかっています。

根本的な何かが欠けていると感じるとき、そのことに気づいたとき、私たちは憂鬱になったり不満を感じたりするかもしれません。もしくは、至福と平穏に満ちたあの本来の状態を、それが何なのかはわからないまま探しにかかるかもしれません。あらゆる可能性が考えられますが、中には物質的な世界では満足が得られなくなり、よりスピリチュアルな生き方を求めるようになる人もいるでしょう。そのような人たちは、もっと高次で、平凡な日常を超える生き方を追い求めているのです。また、社会的な役割を欲したり信仰の道を求めることで、人生に新たな意味づけをしようとする人もいるでしょう。反対に、スピリチュアルな豊かさに欠けるため、外の世界に幸せを見出すことでその欠乏感を満たそうとする場合もあるかもしれません。また、何らかの形で物質的、感情的、精神的満足を得たいと思うかもしれません。こういった欲求は、私たちが源との意識的な接触を失っているがために生じるものです。この欲求は本当はどこから来ているのか----それに気づかなければ、私たちはパワー、お金、人からの注目、愛、評価を求めることになります。私たちは、自分の欲求を満たすためなら進んで自分や他人を巧みに操ろうとします。また、内なる自分に従って自然に生きずに、社会的基準に従って教育や広告が作り上げた期待像にかなうように生きようとします。そして、自分の状況を周りの人々の社会的・物質的状況と比較し始めるのです。その結果、他者支配に走り、権力を手に入れようとします。つまり、他人の城より大きな城を手に入れたがるのです。また、敬意を集めたいあまりに、知性豊かな人格を築いたり社会的地位を得ようとしたりします。自分にはパワーがあるという感覚をさらに強化するために、自分より大きなものと一体化しようとする可能性もあります。たとえば、職能団体、サッカーチーム、政治団体、民族、宗教などです。こういったメカニズムは悪いことではありませんが、その奥にある欲求を満たすためにこのようなことをしている場合があるということを、認識しておかなければなりません。

ある日、私たちは気づきます。物質的成功も社会的成功も一時的なもので、自分が築き上げてきたものもいずれは手放さなければならないのだ、と。年をとるにつれ徐々に手放さざるを得ないでしょうし、残ったものも死ぬときにはすべて放棄しなければならないのです。このようなプロセスによって内なる自分の欠乏感を埋めているとしたら、私たちがなぜこれほどまでに自己中心的な生き方をするのか、より理解できるかもしれません。物質主義的であろうとスピリチュアルであろうと、実はこの自己中心的な生き方は、本来の状態を取り戻そうとしていることの表れではないでしょうか。私たちは自分では気づいていませんが、あの透明性、ワンネス、シンプルさ、生まれたての頃の感覚を必死に追い求めているのです。このいわゆる自己中心ゲームをプレイしているのは実は自分のエッセンスに接触できないからこそなのだということがわかれば、この内なる源そのものを直接追求する方がはるかに面白いというのも納得がいきます。






マインド以前



内を見つめないとしたら、
外も見つめないとしたら、
何が残る?それになりなさい。

生きている間に、正しいと思っていた概念が実は不確かだったり、それほど明確ではないことに気づくことがあります。特に子どもの頃は、そんなことがよくありました。目の前で起きていることにすっかり夢中になっていた頃です。たとえばのん気に過ごしているとき、座って日光浴をしているときなどに、境界線を越える瞬間が現れます。そのとき思考はなく、周りとすっかり同化しています。芝生や木々、風、自分の腕や脚、すべてがつながり、一つの気づきの領域となっています。思考能力や感覚能力の領域から抜け出たときに、このような経験が起こるのです。

大人になってからも、ただ起きていることに身を委ね、無心になる瞬間があります。焚火を見つめているとき、ビーチで打ち寄せる波の音や色にうっとりしているときなどです。ゲームにすっかり没頭しているとき、夕陽に見とれているとき、楽器を演奏しているとき、私たちは我を失い、無心になることができます。そして、のちにそのときのことを思い出し、「あぁ、心を奪われていた」とか「どこかに行ってみたい」などと言ったりします。その瞬間は気づきませんが、私たちは無限の空間にすっかり吸収されたのです。そこでは何もかもがゆったりと自然に起きているようです。思考プロセスはスピードを落とし、私たちは穏やかに眺めるだけの存在となり、何も判断せず見ています。ただ心の平安があるだけです。活発に動いていようといまいと、その背景ではすべてに静けさが満ち満ちています。不満もありませんし、誰かを、または何かを思うように変えたいという衝動も起きません。多くの場合、とても平穏な、充実した瞬間です。

ここで大切なのは、私たちが本当に幸せなとき、本当に充実しているとき、思考プロセスは働いていないということです。ただ「そう在る」だけです。マインドの思考は、あとになって初めて現れます。思考プロセスが作動していないので、期待、恐れ、不満、欲求、罪悪感はありません。のちほど触れますが、そのような瞬間には通した自己認識が起きません。つまり、「私」はいないのです。本当の幸福感を感じているとき、事実としてそこには誰もいません。それが本当かどうかは自分でも確認できます。そこには分離も自己イメージもなく、純粋にただ在る状態です。それは、小さな自分という概念や思考によって乱されることのない、ただ純粋に「存在しているという状態」で、そこにあるのは気づきのスペースのみです。

これが、私たちのエッセンスとのコンタクトの感触です。本来の私たち、ホームに戻るときにこのような感覚を得られる、という前置きです。いつも私たちにつきまとっている日常の心配事は溶けてなくなっていきます。頭の中で渦まず対話を無視するとき、人格を通して自己認識しようとする癖から脱却したときに、私たちは無限とつながる可能性を得ます。それによって、青年期以降に失って以来忘れていたピュアさ、オープンさと結びつくこともあるだろう。





私たちの人生を味わっているのは誰?



大切なものは、
目に見えないんだ。


このようにピュアさ、開かれた状態と一体化していたときのことを考えると、次のような根源的な疑問が浮上しても、新しい視点で見ることができます。私たちの本当のエッセンスとは何でしょうか?思考は、消えたあとどこに行くのでしょう?すべてのものは、どこに現れているのでしょう?私たちの感覚を味わっているのは誰なのでしょう?私たちの目を通して見ているのは誰?イメージが移り変わるのを見ているとき、それを見ているのは目だという証拠はあるのでしょうか?視神経が見ているのでしょうか?今右手を見たとして、脳細胞がそれを見ているという確証はあるのでしょうか?科学者の説明によれば、太陽光が手の皮膚に反射し、眼球の奥にある感光性細胞を刺激するということです。そして、電流がその情報を脳の特定部分に伝え、ここからが解明されていない魔法のようなステップなのですが、私たちの気づきの中に特定の手のイメージを映すというのです。

さて、この観察自体は厳密にはどこで起きているのでしょう?視覚のプロセスが正確に起きている場所を特定するのは容易なことではありません。観察しているのは人であるという確証はあるのかと、自分に問いかけることはできます。真っ白なスクリーンいっぱいに、心のイメージを映しているだけなのかもしれません。この白いキャンバスに触れることはできませんが、この空白のスクリーンは、現れては消えていくイメージを認識しています。

私たちが音を耳にするとき、誰が聞いているか特定できるでしょうか?聞いているのは耳だという証拠はあるでしょうか?脳内の特定部位が聞く機能を持っているという実際の証拠はあるのでしょうか?聞いている人についての証拠は?あるいはそれは、音や振動がいっぱいに満たされた静寂なのでしょうか?私たちには経験できませんが、この静寂は音が現れては消え去るのを認識しています。この静寂を聞くことは可能なのでしょうか?

本を手にしているとき、私たちは実際に紙を感じているのでしょうか?それとも指先の内側で何かが起き、それを感じているのでしょうか?ちょっとした実験をして、自分たちで確かめてみましょう。今、目を閉じて本を指で撫でてみてください。そして、何が起きているかよく観察いてください。この感覚は、誰が味わっているのでしょう?親指と人差し指の間に紙をはさんでいるとき、誰が(もしくは何が)それを感じているのでしょう?神経系でしょうか?この感覚は厳密にはどこに生じているのでしょう?指先の内側でしょうか?脳細胞の中?マインドの中?言葉では「私がそれを感じている」と言いますが、本当にそうでしょうか?この「私」はいったい誰、何なのでしょうか?

私たちは知覚の世界に生きています。いわゆる外の世界も内なる世界も、私たちは身体の知覚でとらえます。ですから、私たちが生きていると思っているこの世界は幻想、白昼夢とも言えるのです。自分の白昼夢を現実として信じるかどうかは自由ですが、私たちが知覚している現実についての実際の証拠を得ることは不可能、というのが事実です。それが本当か、今から自分自身で確認してみましょう。私たちが深い眠りに落ちているとき、いわゆる外の世界はどこにあるのでしょう?私たちの感覚が機能を失ったとしたら、世界はどこに存在するのでしょう?私たちのマインドから分離して存在する世界などないと言う哲学者や神秘主義者もいます。彼らは、「マインドが機能しなければ、すべては存在しない」と言います。いわゆる外の世界はマインドが持つ感覚の産物にすぎない、というわけです。現実は私たちの概念や思考が生み出す幻想だと言われているのは、そのためです。

私たちが住んでいると思っているこの世界が幻想だと言っているのは、この世界は存在しないということではなく、この世界は私たちの気づきから独立した存在ではないということです。視覚を使って見ている世界は、網膜という時間と空間を持った頭の中のスクリーンに投影されています。同様のことが、他の感覚についても言えます。つまり、私たちが知覚しているものは、実はマインドが作り出した心の構造なのです。私たちは、気づきの中に現れる心のイメージの一連の流れを通して外の世界を知覚します。もちろん、知覚する物体を否定することはできませんし、肉体に備わった身体感覚を否定することもできませんが、知覚が起きていない間もそういったすべての知覚が存在すると証明することはできません。

今この瞬間、この言葉の意味を理解しているのは誰なのでしょう?言葉の意味を分析しているのは私たちのマインドだと言うなら、この「私たちのマインド」を認識しているのはいったい何者なのでしょう?このような疑問の核心に触れようとした途端に、パラドックスが生まれます。誰がこのマインドを認識しているのでしょう?マインドにとって、これは難題です。マインドを観察している存在を分析することは不可能だからです。マインドは、私たちにはマインドがあると信じ込ませています。私たちの人格はあきらめずにこんなことを言います。「私自身がマインドだ。私はそれを知覚している」。しかし、この「私」が誰で何者かは説明しません。

それでも、私たちが気づいていることは否定できません。マインドには、この気づきが理解できません。概念的理解の対象外だからです。それは概念でも感覚でもなく、マインドの状態でもありません。テレビ画面に映るイメージの一つというより、画面そのものなのです。予言者や神秘主義者は言います。この気づき、この意識が私たちの生命を輝かせていて、私たちの本性の基盤であり、真のエッセンスである、と。






意識のベールを外す



「それ」から離れることはできない。
「それ」から離れようとする動き自体が
「それ」だから。


本当の私たちがいると同時に、これが自分であると思い、信じている私たちがいます。何がこの二者を隔てているのでしょうか?どうすればこの二元性を脱却し、つながることができるのでしょう?すべてを一つにしてくれる背景はどこにあるのでしょう?この開かれた状態の根本的な感覚をなぜ私たちは失ってしまったのでしょう?ほとんどの人が、気づきそのものに気づいていません。それも理由の一つです。「物質」世界の味わい方は表面現象のようなもので、湖の水面を広がっていく波紋のようなものです。波紋は生じたり消えたりしますが、存在は広大で、波紋一つひとつの形状や特徴を気にかけたりしません。私たちは、その存在が気づいていることに気づいていません。私たちのマインドは、身体感覚や感情、思考などといった意識の中の対象物に気を取られる性質があるからです。このようなデータが入ってくることで、意識の背景にあるもの、つまり気づきそのものへ私たちの気づきは曇ってしまいます。これは、スクリーン上の映像を見ていて、白いスクリーンそのものには気づいていない状態です。俳優が演じるストーリーに魅了され、映画を視覚的に見せてくれる偏在する光のエネルギーのことはすっかり忘れています。スピリチュアルの指導者の中にも、この気づきの背景こそが本来の私たちであると言っている人はいます。それでも、スピリチュアルの探求者のほとんどがなかなかこれに納得できないのはなぜでしょう?私たちにそれが見えないのには何か理由があるのでしょうか?素のままの気づきを自ら体験していないから?どうすれば解決法は見つかるのでしょうか?

基本的な要素から見ていきましょう。意識を持った人間である、という感覚についてです。確かに、自分が存在しているという事実については皆が確信しています。誰もが「私は」と言うことができます。疑いなく、「私は存在している。私はここにいる」または「今、この言葉を読みながら、私は自分であることに気づいている」と言うことができます。

問題は、この「私は存在しているという確信」がどこから来ているか、です。実は、これは気づきそのものから来ているのです。気づきがこう認識することにより、気づきそれ自体を意識に上げているのです。ですから、「私」が気づきを発見しているのではありません。これは個人的なプロセスではなく、気づきが自らを発見しているのです。たいていの人はこの非二元性をいわゆる至高体験の最中に味わうことができますし、その非人格的な性質に漂う雰囲気を嗅ぎ分ける人もいます。ですが、それもほんの序章に過ぎません。この背景の源を調べていくと、感覚や思考と関係のない「素のままの気づき」に到達します。この「私は存在する」という素のままの気づきは、同時に私たちの全英知のエッセンスそのものと言うことはできるものの、マインドに蓄えられた知識や他の感覚に由来するものではありません。これが明晰にわかると、フランスの哲学者ルネ・デカルトの言った「私は考える、ゆえに私は存在する(我思う、ゆえに我あり)」という言葉の意味を改めて見直さなければならなくなります。この発言は、思考イコール存在という共通信念から生まれるものです。西洋哲学ではかなり一般的な考え方ですが、私たちが思考することができるのは、そもそもその前に私たちに気づきがあるからだということを思い出さなければなりません。まず「素のままの存在」があり、そのあとにすべてが生じます。思考するマインドとの一体化も、存在が先にあってのことです。まず白紙があってそこに言葉が記されるのであり、この順番が逆になることはありません。まず白いスクリーンがあり、自分についての思考はそのスクリーン上に現れるのです。ですから、彼の言葉を言い換えるなら「私は存在する、ゆえに私は考える」となります。

気づきという背景について、私たちは何を知っているのでしょうか?西洋哲学的・西洋心理学的アプローチからマインドの性質やマインドと身体の関係性を見ても、その著述家たちのほとんどが「素のままの気づき」には触れていないと言わざるを得ません。気づきが独自に存在していることに気づかないのです。それどころか、素のままの気づきという現象は(深い睡眠時や瞑想中などに起こるような)特定のマインド状態と混同され(脳波研究に見られる通り)脳に一種の電気活動が起きる状態だと見なされています。こういった論文の著者たちは脳波や脳スキャンの分析には優れていますが、素のままの気づきそのものを一度も自分で「経験」したことがないのでしょう。しかし、中には「素のままの気づき」の存在について伝えている人も-----特に東洋の人に多いのですが---います。その中に神経科学者や医学的・科学的経歴を持つ人はほとんどいません。何も含んでいない意識を「見た」と言う人もいます。道教、アドヴァイタ・ヴェーダンタ、禅仏教、スーフィーなどまったく異なる様々な伝統において、それぞれの予言者や神秘主義者が対象を持たない意識の経験について述べています。さて、この「素のままの意識」はあなたや私にも得られるのでしょうか?





神秘のエッセンスに触れる



土を使って壺を形成する。
しかし、私たちが欲しいものはすべて
壺の中の空洞にある


とても言葉では言い表せない神秘の領域に接触した経験は、誰にでもあります。私たちは皆別々に切り離された個体であるかのように振る舞っていますが、奥深くには知性が存在し、その知性は私たちは互いとも万物とも「つながっている」ことを知っています。夜空の星を見ると、私たちは「身体+マインドというマシン」をはるかに超えた存在であることをただ感じます。万物の英知を見た人は大勢いて、私たちは自分たちで考えているよりはるかに広範な存在であると確信を得ています。いわゆる神秘体験を通してこの秘密がおのずと見えたという人もいて、こういった神秘を言葉で表現できる人が神秘主義者・預言者と呼ばれています。その体験描写はスピリチュアルの探求者の興味をそそり、インスピレーションをかき立てます。先達の中には、人類の種としての本質を探究した人も大勢います。彼らは私たちの意識の源を探し求め、自らが得たビジョンを分かち合おうと試みました。そして、こういった神秘体験がいくつか集まり、万物の英知が表面化しました。この英知は、神秘体験をした本人とは関係なく、「知っている」という状態を引き起こします。また、このようなストーリーにはすべてに共通の面があり、興味をそそられます。どのストーリーも、私たちが答えを求めていく中で補足的なガイドラインを示してくれます。

いわゆる神秘体験とは何のでしょうか?たとえば、すべてのものに宿る究極の全体性を直観的に理解すること、という説明があります。感覚も理性も理解することのできないワンネスの理解です。自己の気づきはそこになく、ただ全体性の意識のみがあります。主体と対象は融合し、一つの状態があるだけです。事実として何も見えない・聞こえないと言いますから、視覚体験やテレパシーによる交信ではありません。したがって、ここでの狭義の神秘主義は、特別なパワーを体得したり、それを上達させたり、目に見えない力でコントロールしたり、特別な啓示に触れたりといったことには関心がありません。神秘体験というものはたいてい望んでもいないところにおのずから起きるにもかかわらず、神秘との一体化を求める人々のためにあらゆる訓練方法が考案されてきました。そして、西洋・東洋を問わずこれらのたくさんの訓練方法が宗教組織に取り入れられ、スピリット解放のツールとして提示されてきました。こいったストーリーは確かに大切なことを興味深く示してはくれますが、本性の探求の道筋から外れていくきっかけともなりかねません。

ある特定の伝統が説く神秘追求の道をまねることはしません。私たちは、どんな伝統的な流儀にも関わりを持たないビジョンを目指しています。したがって、象徴的な教条主義を超越したレベルを目指さなければなりません。つまり、あらゆる伝統流儀に共通する域を目指すのです。神秘的なイメージには宗教的な解釈が絡みついています。可能なかぎりそのもつれを解いていけば、あらゆる道が交差するプラットホームに到達できることでしょう。私たちは、特定のスピリチュアルな伝統に帰属しない共通真理を求めています。どの道を辿って山頂に着いたかは関係ありません。このプラットホームは探究のゴールではありませんが、二元性を超越したあの「別の」次元に向かうための完璧なスタート地点となる可能性もあります。想像上の丘の頂上に楽園を想像してはいけません。玉ねぎの皮むきをメタファ―として用いましょう。到達できるゴールがあるとは約束しませんが、次から次へと概念を手放していかなければならないことを示唆します。玉ねぎの皮を一枚ずつむいていくのと同じく、最後には何も残らないことが発見となるかもしれません。

非二元・ワンネス ただ在ること

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非二元的な状態では(実を言うとそれは状態ではないのですが)、知覚する主体も知覚される対象もありません。あらゆる状態は一時的です。状態は背景の中で現れては消えてゆきます。そして、背景は現れてくるさまざまな状態をすべて支えます。この連続体は究極の安心であり、はっきりとわかっていないと、私たちは行動によってこの無の状態の平和が生じるのだとすぐに信じてしまいます。したがって、その平和は自分の外にある何かのおかげだと思うことになります。しかし、自発的に起こる明瞭な洞察は、さまざまな状態を生み出すパターンをすべて消し去ります。また、その洞察は無の状態には何の原因もないこと、それはそれ自身によって存在することを私たちに教えてくれます。対象がなくなると、探求者もいなくなります。後に残るのは、初めからあったものだけです。この出来事を悟りと呼んでもいいでしょう。

これらの言葉は、方向性を持たずに耳を傾けたときにだけ十分にその力を発揮し、再統合することができます。このような聞き方は開放性(オープンネス)そのものであり、生きた瞑想です。このように聞き方において聞かれたことはすべて、直接的に究極の現実を指し示します。言葉や思考でそれを想像することはできません。しかし、生活の折々で、例えば驚いたり、感嘆したりして頭の中が空っぽになった瞬間などに、私たちはそれを感じます。

私たちの存在の真の目的は、条件づけなしにただ「在ること」です。それは喜びと自由と平和を約束してくれる、唯一の生き方です。人それぞれ、その人の性格によって、自分の条件を知る方法はさまざまです。どのような方法にせよ、大切なことは真我(セルフ)、すなわち連続体である生命は精神的、心理的経験や精神修養のレベルでは見つからないという事実を一時も忘れないことです。みずからの限界を知っているクリアな心だけが心を超える道を開くことができます。心が混乱していて、何かを獲得するために努力し続けていると、たとえその心がどんなに鋭敏で、どんなに開放的でも、同じ構造の中で堂々巡りすることになってしまいます。そのような、いわゆる「漸進的な方法」のようなものはまったく役に立ちません。究極の現実について深く考察するということは弁証法の問題ではなく、断片的な知的理解を手放し、全体的な意識が目覚める余地を作ることです。この状態の経験を言葉で言い表すことはできません。それにはまったく概念的内容がないからです。それは時間の外にある私たちに呼応し、知覚を超えることで永遠としての正体を現します。

人間の本質は周囲から与えられた資格や条件には縛られません。そういった周囲のものから与えられた定義と自分を同一視するのをやめさえすれば、自分は唯一無二であり自由であるということがわかります。全体的で生きた自由は、自我(エゴ)のイメージのような、どんな概念にもあてはまりません。「私のイメージ」の投影は他の対象と同じく、単なる偶然の要素によって決まります。しかし、それはいつも変わることのない究極の主体、つまり純粋意識に依存しています。自由を奪われているように感じるのは架空の私だけです。架空の私が存在しなければ、自由の剥奪も根付きません。

「私は誰か?」という問いは常に不均衡から生じます。誰にとって、世界が問題になるのですか?誰にとって、喜びや悲しみ、好き嫌いが存在するのでしょうか?それは、社会によって作られた私という架空の存在にとってです。自我がこの事実をはっきりと理解すると、それらの問題はすべて消え去ります。悟りの中で、すなわち言葉や思考、表現を超えた「われ在り」(I AM)の中でこれらの問いの答が見つかります。その探究によってあなたは既知のものを超え、既知のものの背景へと達することになります。ここで問いは答えとなり、その答えは静かな気づきに再統合されるのです。

自我はその願いに従ってさまざまな物事や状況を目指します。しかし自我の存在は、それを投影する心身に依存した、ただの陰に過ぎません。グルの前で、自我が拒絶されるわけではありません。しかし、グルがもたらす明瞭な理解は私たちから、自我が間違って私たちに与えてきた、さまざまな特徴を徐々に取り除いてゆきます。遅かれ早かれ、この明瞭になった自我はその本質であり、故郷である透明な現存へ再吸収されます。そうなった自我はもう、必要とされない限り現れません。そして、もう二度と、それ自身のために光を盗むこともありません。

悟りは瞬時に起こりますが、心は徐々にクリアになっていきます。心がクリアになると、古いパターンが緩和され、エネルギーが解放されます。また、解放されたエネルギーはその代わりに明瞭な理解を刺激し、目覚めさせます。そして明瞭な理解は、何かを得るための努力をまったくしない生き方や期待、つまり何かが起こるのを待ち望むことによって生じる、緊張がまったくない生き方へと私たちを導きます。


●師がスピリチュアルな見解を話すのを聞いているときは、すべてがとても明瞭で、なに一つ問題がないように思われます。しかし、後になると、私たちは自分の真の中心から離れてしまうようです。それはなぜでですか?

師が真理について話しているのを聞くとき、私たちの聞き方は完全に受動的です。つまり私たちは語られていることに対して、完全に自分を開いています。それには私たちの身体と内なる生命を使わなくてはなりません。しかし、その後で日常生活に戻ると、グルの話を聞いている間は抑えられていた古い自我のパターンが再び私たちを支配します。それらのパターンは障害であることを理解してください。そうすれば、自然にあなたはその行動領域から出てゆくでしょう。あなたが古いパターンに従わなければ、それらはあなたから切り離されます。また、そのことによって、あなたはちょうど賢者がいるときに経験したような自己の本質の中に再構築されます。そして、このような経験を何度も重ねていくうちに、この段階、あるいはこの踏み石も消えてなくなります。

●言葉や思考によって現実、つまり「物質体」をより良く理解することはできますか?

考えられないものを言葉で言い表すことはできません。言葉は自己中心的な経験主義のいいなりです。言葉はその基礎を意識に置いており、意識から出て意識へ帰ってゆきます。他方、自我の起源は「私は身体である」という心的イメージにあります。

自発的な思考にはまったく矛盾がありません。そのため、それは後にサンスカーラ、つまり残留物を残しません。美と醜、善と悪という二極対立を超えたところに、すべてを統一する意識があります。心でそれをとらえられたり理解したいるすることはできません。なぜなら、それはあらゆる概念を超越しているからです。

私たちは物事そのものを知りません。私たちが知っているのは、その現れだけです。物自体を知るには、現れという名称と形に過ぎにものを超えてゆかなくてはなりません。私たちが対象としての知識ではないその現実であるときに初めて、私たちは物事の現実を見ることができます。


●私は完全に満たされた瞬間、何も足りないものがんく、何かを期待して努力することもない瞬間を何度か経験したことがあります。しかし、このような瞬間が終わると、私は余計に憂鬱になります。

自我は相互補完性の中で生きており、時々憂鬱になるので、その「憂鬱さ」を避けるために、その反対である快楽を求めます。しかし、憂うつを避けることは絶対に不可能です。なぜなら、幸福と憂うつはコインの裏と表だからです。あなたが経験した満ち足りた瞬間は、「私は自由だ」、「私は幸福だ」などと言えるような、主体と対象の関係の中にありません。このように思考も夢も表象もない瞬間こそ、何も投影されていない私たちの本質、つまり完全性です。それは、経験する人も経験される物事もない場所で起こる経験です。そして、真にスピリチュアルな現実はこれだけです。何らかのテクニックによってもたらされるものであれ、経験や薬物によってもたらされるものであれ、あるいはよくある崇高なサマーディであれ、これ以外の「ハイな」状態はすべて現象であり、それらには客観性の跡が残っています。言い換えると、本当のあなたは状態ではないのに、経験できないものに近づくために次から次へと経験を求めるのは、時間とエネルギーの浪費だということです。

●経験を起こそうとするのをやめ、全体的な理解に達するには、どうすればいいのですか?

おわかりのように、経験があれば、そこにはまだ、さまざまな状態を出たり入ったりするというパターンに縛られた経験者がいます。しかし、全体的な理解は突然の気づきであり、それらの状態を知覚する者は状態に影響されません。諸状態は知覚者の「中で」起こるものです。この洞察は瞬時に起こり、そのとき、私たちの理解を妨げていたすべての断片が無関心な観照者の中で明らかになります。

気づきは無理解が理解に変わるために必要不可欠な要素です。それは、私たちが何か(たとえば、語学や楽器の演奏など)を学び覚えるときのように、何かを蓄積した結果として得られるものではありません。それに先行するさまざまな要素が突然、一斉に現れ再調整されて稲妻が起こるように、あるいは磁石に引き寄せられた砂鉄が落ちるやいなや模様を描くように、気づきは瞬時に起こります。この突然のビジョンは、無理解の影をほんの少しも残さずに、それ以前の問題を消し去ります。この全体的な理解への再吸収によって、ふだん決まったパターンの中に閉じ込められていたエネルギーが解放され、究極の真理である一体性への道が開けます。





自分を自律的な実体、つまり個人とみなすことは、私たちの条件づけにおける根本的な誤りです。この部分的な観点は理解を不可能にします。個人とは、ちょうど夢の中に現れるイメージと同じように、 まったく実体も独立性もない架空の概念です。「私」という概念のレベルで私たちがすることはすべて意図的であり、意味づけされています。どんな行動であれ、個人という概念の影響を受けている行動は、私たちを悪循環の中に陥れます。このような状況では、私たちは行為者もしくは思考者であり、心理的関係によって、その行為や思考に縛られているからです。

選択を伴わない純粋に自発的な行動、つまり無限の意識の行動は、社会慣習的に道徳的か不道徳的か、あるいは肯定的か否定的かということはまったく無関係です。道徳的な観点から発展した考えは、それ自体は分裂がなく、満ち足りているはずの行動を制限するだけです。自発的行動が生じた場合、選択という形を借りた、その行動に相反する力はありません。選択があれば、選択する者、あるいは観点、行為者、思考者などがいます。しかし、本当に創造的な瞬間には、すべてが「私」に干渉されることなく起こります。物事ひとりでに生じるのです。そして、そのような行動こそ、全体的な行動なのです。

まだ言葉や対象への執着などとして表現されていない欲求が湧き上がってきたら、私たちはまったく無関心なままで、そのことを意識していなくてはなりません。そうすると、そこにあった興奮や活力が観察者、つまりすべてを含み、自分自身以外には何も欲求することのできない「私」の中へ消えてゆきます。欲求の勢いはすべてはっきり感じられます。それは暗闇の中で、表現方法を探し求めています。私たちは個の欲求を、いかなる概念にも方向性にも結晶化させることなく、完全に意識していなくてはなりません。すると、この無方向的なエネルギーは私たちを対象のない自己の本質へと連れ戻します。ひとたび私たちがこの明瞭なビジョンに達すると、果てしない意識の窮極の現実がなによりも明白に現れます。

真の生は生死や生成消滅を超えています。それを心(マインド)に還元することはできないし、それは記憶によって制限されません。私たちの惰性的な生き方は補償に過ぎないということを私たちがはっきりと理解すると、現象の中に隠れていた生が姿を現します。そして、この理解はその具体性を失い、静けさの中へ再吸収されます。既知のものの領域ではすべてが条件づけられ、分類整理されています。既知のものを超えると、果てしない発見があります。すべてが気づきを指し示しており、気づきの中で再統合されます。

恐れや不安は記憶や既知のものの手先です。感情的な関与は私たちを盲目にします。それは源から切り離された心理によって生み出された反応に他なりません。思想や理念は、絶え間なく更新されていくことからの逃避です。

対象は本当の自己を指し示す指示器だとみなすとすぐに、目の前に道が開けます。それは自己認識への出発点です。そのときから、人生はまったく違った意味を持ち始めます。師が勧める探求をしていると、私たちは直観的にこの自己認識へ導かれていきます。そして、いったんそのように方向づけられてしまうと、私たちは自然に自己認識の中で自己を確立するようになります。とりとめもない考えをめぐらしていたり、緊張し過ぎていたりすると、存在へは導かれません。存在の観点を直観することは私たちを啓発し、蓄積や努力によって得るべきものは何もないということを示します。すると、探求者はその原動力を失って消え去ります。すべての幻想が消え去るとすぐに、探求者は自分が探していた対象としての正体を現します。

心と魂と身体が一つになり調和のとれた真我(セルフ)が確立すると、究極の調和が生じます。そのとき、私たちの心身の器官全体がその幸福に浸ります。そして、喜びが押し寄せるとともに、あらゆる精神活動が静まります。この喜びの愛撫を少しでも感じたらすぐに、それに身を任せ、至福に至ってください。すると、対象はどれももはや、この喜び、この無限の平和、常に現存して私たちの日常の活動の根底にある、この現実の反映に過ぎなくなります。

一般に、私たちが日常生活の中で「意識している」と呼んでいる状態は真我の青ざめた影に過ぎません。真我、または現存の根本的の本質は二つの思考、二つの感情、あるいは二つの状態のはざまにある虚空で光を放ちます。一般に、私たちはこのような虚空を対象の不在、あるいは「意識の喪失」として無視しています。しかし、最終的に私たちは、たとえ対象が現存しても、この虚空を意識できるようになるでしょう。

真の問いとは未知のものへの開放性です。それは条件づけをまったくせずに知覚、すなわち対象にそれ自身を表現させるということです。条件づけを行うのは一つの中心、つまり検閲する自我です。

もし、この条件づけがなくなった瞬間に、私たちが無関心な観照者として触覚や聴覚と関わり続けることができれば、感覚への介入や制限がなくなり、感覚は静かな傍観者に再統合されます。そして、この再統合によって、対象や傍観する主体はあとかたもなく消え去ります。後に残るのは、本来の私たちである「在ること」、静寂だけです。

本当の自分、真我、私たちの全現存は時間と空間の中には存在しません。実存の次元では、私たちは生と死について語ることができます。それらは心が作りだしたイメージです。しかし、本当の私たちは生と死を超越しています。私たちが誕生と言うとき、それは自我の誕生を意味しています。また、死と言うときも自我の死を意味しています。

あらゆる現象は時間と空間の中で展開します。これが実存の性質です。実存は時間も空間もない存在の中にあります。しばらくの間わざと思考を停止させておいても、それは概念化された自我による行為なので、自我を強化することになります。概念化しないでいようとすることもまた概念であり、実存への暴力です。対象化は本当の自分を見つけようとする私たちの道を阻止します。私たちにできることはただ、思考と概念の領域では決して悟りを得られないことをはっきりと知ることだけです。私たちの本質は対象化できません。「私」による努力は邪魔にしかなりません。私たちがこの手続きをやめると、すべての概念が消え去ります。そして、私たちは恩寵に包まれ、背景、つまり意識が私たちにとっての生きた現実になります。

真我とは静寂なる気づきですが、この静寂は概念や相互補完性を超えており、騒音の反対語ではありません。ゆえに、動揺をなくして静寂の状態になろうとしても、私たちは依然として葛藤の中にとどまることになります。それは私たちを対立と防衛、攻撃、獲得と拒否の領域に引き留めるのです。しかし、それとは逆に、私たちが動揺を受け入れると、つまり動揺を静寂の一つの表現として受け入れると、受容された動揺は消えてゆきます。そして、私たちは静寂と動揺を超えた真我の静寂に達するでしょう。あなたがまだ動揺の波長にとどまっているなら、自分の中から動揺をなくすことを願ってはなりません。むしろ、その全体に耳を傾けてください。すると、動揺は静寂の中に消えてゆきます。なぜならば、それは静寂に他ならないからです。

私たちが現在と言うとき、それは永遠の現在、つまり真我にとっての現存、精神や心を超えていて思考不可能なものを意味します。

探求者とは、欠如を感じている投影された自我だと考えられます。探求者はその全体性から切り離され、その緊張した状態から逃げ出そうと虚しい努力をしています。その探究が無駄であるとわかると、彼は探求をやめ、そのエネルギー、その推進力は静かな観察者に再吸収されます。自我に投影され求心的に動いていたエネルギーが遠心的になるのです。探求者はもう、探求を押し進める力の餌食ではなく、発見されたもの、つまり彼自身の本質に再統合されます。また、彼はその本質が常に現存しているのだと直観的にわかります。

結びついたり束縛されたり解放されたりできるのは、概念化された自我、対象化された私だけです。したがって、習慣や反応がなくなると、自由や隷属について語ることもできなくなります。

知る者を概念でとらえることはできません。ですから、知る者を対象化しようという努力はすべて、私たちが自分の本質である「在ること」という非二元的な知識を知ることを直に知覚することの妨げにしかなりません。

概念化や対象化はすべてエネルギーの投影であり、内も外もなくすぐ近くにある自分自身から離れていくことです。内と外、自由と拘束といった考えは単に心が考え出したものに過ぎません。したがって、そのような発明品はそれが虚偽だと判明すると、私たちが何も努力や訓練をしなくても消えてゆきます。あるのはただ、存在と知識と愛だけです。この生ける静寂から、実存の香りが漂ってくるのです。

●どのような場合に、非二元性における恩寵を得られるのですか?

強く望んでいた対象を手に入れた、まさにその瞬間、自我が消えます。この瞬間、対象も自我も存在しません。これは観察する者も観察されるものもない、絶対的に非二元的な経験です。しかし、私たちはそれに気づかないので、それを見過ごし、遠くからその反響を心と身体で受け取ることしかできません。そして、私たちはその経験をあれこれの対象のおかげだと考えます。しかし、感情的、肉体的経験は現れては消える状態に過ぎません。私たちはしばしば、非二元的な経験とそれらの状態を混同してしまいます。しかし、非二元的な経験は主体と対象の関係を超越しています。厳密に言うと、それは経験ですらありません。なぜなら、それを知るにはいかなる手段も必要ないからです。私たちがそれをはっきりと知ったとき、私たちの中に一つの予感が目覚めます。それは精神機能の一つである記憶とはまったく無関係なリマインダー(何かを思い出させるもの)です。私たちの予感の源を辿ってゆくと、私たちは恩寵に対して自分を開くことになります。

知られる対象と知る者、つまり主体は一つのものです。もし、私たちがそれらを別々の実体とみなすと、自我という考えを生じさせることになります。ちょうど不安感と不安になっている人が同じ一つのものであるように、行為者は彼が働きかけている対象にとって、主要な部分です。私たちがこのことをはっきり理解すると、「私」、つまり実験者の頑固さは選択のない透明な観察、あるいは静寂の中へ消えてゆきます。そして、すべての潜在能力が現れてくるのです。


●世界の現実を問う方法はいろいろあります。私たちはそれをどう考えたらいいのでしょうか?

世界は現実であり、非現実でもあります。世界、すなわち自我の観点から見ると、世界は現実に見えます。しかし、全体的な観点から見ると、世界は制限されており、それゆえに非現実です。自分は世界の源なのだと意識が知ると、世界はきわめて現実的に見えるようになります。では、これらのふたつの現実、つまり真我を知らない者にとっての現実と自分が何者かを知っている者にとっての現実の間にはいったいどんな違いがあるのでしょうか?真我を知らない者は知覚できる世界を現実だと思い、それをパターンやシステム、思考や信念の中に制限してしまいます。これらは不安な自我を安心させるのに役立ちます。しかし、それは仮想の世界、不安で受動的で、活気のない世界です。自分が何であるかを知っている人にとって、世界は究極の知の一つの表現です。それは、本当の私たちである全体性から出てきたもの、全体性の延長なのです。世界は一瞬一瞬、再創造されており、常に新鮮です。世界はいつでも、私たちが立っている観点に従って現れます。感覚にとってそれは形であり、心にとっては観念、真我にとってはすべてを一つに結びつける意識として現れます。真我は意識だからです。

次の禅語の真意もそこにあります。「初め、見ると山があった。次に見ると、山はなかった。その後で見ると、ただ山がある」。最初、山は対象であり、無知な者はそれを現実だと言います。次に山は対象とみなされなくなります。なぜなら主体と対象の関係た消えたからです。しかし全体的な観点に立つと、山が再び見えるようになります。ただし、対象としての山ではなく、一体性(ワンネス)の表現として見えます。今や、山は全体性の中で現れるのです。
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