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潜在意識の法則・想定の法則

潜在意識の法則・想定の法則

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願望実現
準備はいいかい?もしあなたがその答えを出すのは私のような者、たまたま今日みんなの前で日の目を見ているような人間だと思っているなら、それは間違いだ。ここではっきり..

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潜在意識
ネガティブ感情の製造工場では物事であって、どのようにして起きているのでしょう。図をごらんください。あなたの感情をコップに例えると、あなたのコップの中に不安感や自..

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願望実現
食べ物のカロリーすら、思考の影響を受けているあなたのまわりの環境は、あなたの思考や感情から影響を受けている。それを目に見える形ではっきりと証明するために、ここで..

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願望実現
意識には「正しい使い方」がある「内なる声」について、あなたは何を知っているだろうか?内なる声は、いつでも私たちを導いてくれる。内なる声が助けてくれないときは絶対..

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願望実現
願いをかなえるテクニック祈りの本質はスピリチュアルであり、その行動は科学的です。かんたんなステップを踏むことにより、理解を超えた安らぎを見いだし、求める喜びや癒..

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願望実現
「すばらしさはかんたんに生みだせます」私たちは欠乏思考という催眠術に屈服した世界に住んでいます。そして生きているほとんどのすべての人が、生まれながらの権利である..

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願望実現
引き寄せの法則の真実目にしても信じられないときわたしがここで言っているのは、「人生のほとんどの時間は幸せだと信じれば、そのとおりになる可能性がある」ということだ..

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願望実現
安らぎのビジョンを吸収してください聖書の中にあるすべての詩の中でも、詩篇第二十三節は平和をたたえる偉大な詩歌です。この崇高な作品の中のイメージは、一生をかけた瞑..

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願望実現
物はただ楽しみなさい私がマリオット・ホテルのロビーを通り抜けようとしたとき、隣接する会議室のスピーカーから女性のがなりたてるような甲高い声が聞こえ、不快感を覚え..

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願望実現
「足りない」ことへの否定と感謝 あなたは四六時中「自分に足りない条件」を考えています。あなたは「足りない条件」を満たすことで、何とか「形のうえでの完全さ」を整え..

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「豊かさとは何か?」お金?

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準備はいいかい?

もしあなたがその答えを出すのは私のような者、たまたま今日みんなの前で日の目を見ているような人間だと思っているなら、それは間違いだ。ここではっきりと理解してほしい。 人類を導くのは、今、演台に立っている人たちではない。 私は今日たまたま、つまり今日は偶然、ここにいるというだけのことで、それがあなたであっても、ちっとも不思議ではないのだ。 ・・・・そういうわけで今日は、あなたがたのなかの誰かに、ここに上がってセミナーの続きをやってもらうことにしよう。 これは本当の試験だ。まじめな質問だよ。 もし、そのチャンスが来たら、もし、あなたが選ばれ、チャレンジャーとして招かれたとしたら、あなたがたのうちの何人がこう言えるだろうか? 「ニール、ボクは準備できているよ!ボクがそこに座って、みんなの前で話そう」 人生の真の秘密は、いずれにしろあなたはもうすでに演台に立っているということだ。あなたが知ろうと知るまいとね。 これが私の言おうとしてきたポイントだ。 あなたは演台に立っている。ただ、そう見えないだけだ。 実のところ、部屋には演台となる場所以外は存在しない(人生には日の当たっている場所しかない)というのは実に皮肉なことだ。 部屋の後ろ、陰や隅っこはない。だからもう、あなたは隠れてはいられない。『リーダーに続け!』だ(リーダーはあなただ)。ほかに道はないのだよ。

「好きなことでは食っていけない」

それでは「神との対話」、すべてのことの始まり、そのバックグラウンド----なぜ私がこのイスに座ることになったのかを少し話そう。 1992年、私の人生は終焉を迎えていると思われた。 またしても大切なパートナーとのリレーションシップを失い、仕事は完全に行き詰まり、身体はボロボロ、人生はすべての面で硬直しきっていたのだ。 最愛の人との関係は目の前で私の手のなかで崩れ去っていった。今度こそは間違いなくずっと続くと信じていたのに・・・・。 こんなことが起きたのは初めてってわけじゃなかったけれど、2回目でもなかったし、3回目でも、4回目でも・・。 とにかくその経験から気づいたのは、私には何か知らないことがあって、もしそれを理解することさえできたら人生の何もかもが変わるだろう、ということだった。 でも、それがなんなのかはわからなかった。リレーションシップの秘密は、まるで見つけられなかったのだ。 職業についても同じように困難な状況にあった。 その手の本は全部読んでいたよ。ほら、『好きなことをしよう、お金はあとからついてくる』とかの類はね。でも、そううまくはいかなかった(もちろん、それもありだけど!)。 どのみち私には、魔法の方程式が見つけられなかったんだ。 好きなことをして無一文でいるか、ぎりぎりやっていけるくらいのお金のために、魂が死に絶えそうになるかのどちらかで、どうやってそのふたつを組み合わせるのかは、とうていわからなかった。 もしなんとかできたと思っても長くは続かない。いつもせいぜい半年か8か月もするとダメになってしまった。 それをつなぎ合わせて保つことは、どうしても無理に思えた。 健康に関しても同じような状況で、無事に1年をやり過ごすことはとても不可能に思えた。36歳にしていくつもの潰瘍があったし、慢性的な心臓病とか、もう言うのもうんざりするようなことばかりで、ときにはとても深刻な病状に陥ったりもした。50歳のころには、もう80歳のように感じていたよ。関節炎だの痛風だのって、80歳にしたってあんまり健康なほうじゃないがね・・。 こんなことが全部いっぺんに起きていたのだから、その状態で人生を機能させることなんて、できっこなかった。 それまでの人生なら問題がひとつずつ現れるとか、神様だってもうちょっとマシなことしてくれていたと思うが、このときは特別で、その理由は今でもはっきりしないのだけれど、やっかいな問題が全部いっぺんい、同時に起こっていたんだ。 まるで空の上の神様が、こう言っているみたいだった・・・。 「は~い、それでは今週もじゃんじゃんいってみよう!さあ、今地上にいるこの男ニールくんには、みなさんもよくご存じ、人気の”悪運トリプルセット”のプレゼントだあ!」 一方こちらは、何も知らないニール。哀れな彼は、今にも割れそうな薄氷の上でいきなり”地獄の3回転ジャンプ”をされられたようなものだ。 私はどうしたらいいかもわからず、途方に暮れ、ひどく怒り狂い、うつは、もうほとんど慢性化していた。

ルールを教えてくれ!

こんな日々の続いたある真夜中、私は人生への怒りと焦燥に目を覚ましました。毛布をはねのけて起き上がると、ものすごい剣幕でベッドルームから飛び出し、そのまま私がいつも真夜中に答えを見つけ出せる場所---冷蔵庫----に向かったが、そこにさえロクなものがなかったので、しかたなくソファに行って身を投げ出した。 想像できるかい?真夜中、午前4時にソファに座って、自ら招いた報いに苦しみもがいている様子を・・・。 そしてついてに、神に助けを求めたのだ。 家中を走り回って、皿を割りまくったりする方法もあったけれど、でも私はそこに座り込んで、神にこう言って助けを求めた。 「神様、いったいどうすればいいんですか?このゲームをやっていくには何が必要なのですか?ああ、誰でもいいから教えてくれ!そしたら、ちゃんとやるから。。ただ、ルールを教えてくれるだけでいいんだ。でも、あとからの変更はなしにしてくれよな・・・」 それからほかにも疑問を山ほどぶつけ始めた。 そのときたまたま目の前の小机に、黄色いレポート用紙があるのに気付いた。隣にペンまであった。 だからそのペンをとって、明かりをつけ、胸の怒りを書きつけて、吐きだした。午前4時15分に怒りと渡り合うには、静かで安全な方法だった。 ところで、あなた方はどうか知らないが、私は怒っているとすごく大きな字で書き殴る。 「いったい、どうすればいいんだ?」 だって本当に心底腹を立てていたからね。 「人生がうまくいくには、どうすればいい?」 「こんな苦労ばかりの人生を送らなければならないなんて、いったい私が何をしたっていうんだ」 そうして書いて、書いて、20分ほどひたすら書き殴り、「これ以上やれるものならやってみろ!」と宇宙に向かってほえまくった。 するとようやく少し落ち着いた。大丈夫だと感じた。 「・・・おお、うまくいったぞ」 今度友人たちにこの方法を教えてやろう・・・ そして、ペンを置こうとすると、今度はペンが手から離れない。 「おもしろい、力を入れて書きすぎたんで手がつっちまったな」 人間って、言い訳はなんとでも考えつくものだ。 とにかく今も本当の理由はよくわからないのだが、私はペンをレポート用紙の上に戻した。 そのとき、声が聞こえた。ちょうどここ、私の右の肩の上で。 今はそれを「声なき声」とよんでいる。 初めてその「声なき声」を聞いたとき、それはちょうど、誰かが私の右の耳にささやきかけたようだった。 穏やかな静けさに包まれ、私は深く安堵し、落ち着いて、安らぎとたとえようもないほどの喜びに満たされた。 『声なき声』はこう言った。 「ニール、君は本当にその問いのすべてに、答えが欲しいのかね?それともただ、うっぷんを晴らしたいだけかな?」 「そりゃ、今のはもちろん当たり散らしただけですけど、もし、あなたが答えてくれるというのなら、絶対、なんとしても知りたいに決まっています!」 すると、その答えが洪水のように押し寄せてきた。 これまでに私が疑問に思ったすべてに対して、答えが返ってきた。 それはものすごい勢いだったから、忘れてしまわないように書きとめなければいけないと思った。本を書こうなんて意図はなかった。ただ押し寄せてきたすべてを忘れたくなかったから、必死に書きとめたのだ。手が動かせるかぎり最高の速さで書きまくった。ペンからあふれ出てきたものは、驚くばかりの情報だった。 それを読むと、自然とまた別の質問が持ち上がってきて、そこでまた質問を書きつけると、それにもまた答えがやって来た。こうして私は、もっと質問を書き、さらに答えが来た。 自分でも気づかないうちに、夢中になってのめり込んでいた紙の上の会話----それが疑いようもなく「神との対話」だとわかったのは、もっとあとになってからのことだった。 「本を作る目的でなかったのなら、なんで出版社に送ったんだ?」 と聞く人もいるけれど、ほら、あなたも覚えているだろうか。神は対話のなかで「この対話はいつか本になるだろう」と言った。だから私は、「ようし、じゃあ神を試してみよう」と思ったのだ。 神への挑戦だったわけだ。 なにしろ最初に「これは本になるだろう」という返事を書きとったときには、私やほかの誰でもが、たまたま真夜中に思いついたようなとりとめもないことを紙に書いて出版社に送ると、今度は出版社が「こりゃすごい!もちろんすぐに出版しますとも!」と応え、そして世界中の何百万もの人たちがその本を買うなんてことは、あり得ないと思ったのだ。 ところが、まったくそのとおりのことが起こった。 本は本当に出版され、何百万人が買い、世界中で34か国語に翻訳されることになった。日本語やギリシア語やヘブライ語に翻訳されて世界中に広がってゆく様子を目の当たりにするのは、本当に驚くべきことだった。 そうして、自分が世界に触れていることに気付いたのだ。

みんな、メッセンジャー

今は自分がメッセンジャーとして呼び出されたことを、はっきりと理解している。 でも実はこれまでだって私はずっとメッセンジャーで、ほかにいられる場所などなかったのだ。 なぜなら私は、人生で出会うすべての人へのとても大切なメッセージを携えているのだから。 私があなたがたへ運んできたそのメッセージとは、こうだ。 「あなたがたは皆、メッセンジャーだ。人々の前に立つよりほかに、あなたのいるべき場所はない。あなたがたは皆、人生で出会うすべての人々と分かち合うべきとても大切なメッセージを持っている」 そのあなたがたが持っている重要なメッセージとは、 「どの人も皆、重要なメッセージを持っているメッセンジャーだ。彼らには、人々の前に出るよりほかにいる場所はない」 そして、すべてのメッセンジャーが持っている、その重要なメッセージはこれだ。 「みんな、メッセンジャーなんだよ。さあ、目を覚まして!キミは本当の自分が何者だか知っているかい?ねえ、目覚めてよ。ねえ、わかっている?『キミとボクはひとつ』なんだよ!」 ここにいる私たちは、たったひとつの存在だ。 離れていると思っているなら、そんな考えは今すぐ捨ててしまうことだ。 私たちは、離れてなんかいない。 私たちは、たったひとつの存在だ。 私たちの間にはなんの差異もない。 もしそう思っているなら、そんな考えも捨ててしまおう。 私たちに差異などないのだから。 ありもしない違いをわざわざつくり出そうとするのは、もうやめよう。『あなたと私はひとつ』だと理解し、ここにいる私たちは、たったひとつの存在であること、地球上のみんなが、すべての創造物が、つながっているたったひとつの存在であることがわかるとき、苦痛や苦悩の原因も、労苦も、戦いも、心痛も、困難も、消える。 ただもう消え去ってしまうのだ。 だから、あなたはそっちで、私はこっちと考えるのはもうよそう。 『あなた』が終わり、『私』が始まる境目なんてない。 こんなシンプルで、美しいメッセージが世界を変える。 これをいつ理解するのか?いつ実現するのか? 私たちはそれを、送り出すときに、受け取る。 今の聞こえた?もう一度言おう。私たちはメッセージを送り出すときに、そのメッセージを受け取れるんだ。 さて、私たちは今日ここに集まっているけれども、さっきこの部屋に入ってきて思ったんだ。 「こんなところでボクは、いったい何してるんだ?気を付けないと、まるでボクは、みんなが知らないことを知っているように見えちまうぞ・・・」 本当に気を付けないと、みんなも気を付けておかないと、今日、自分が知らないことを初めて聞くように思う可能性がある。 気を付けなきゃ、そうでないと『バクは知っている、キミは知らない』ってゲームになる可能性が高い。 私はそんなゲームをするつもりはない。今も、これから先も。私が話すことであなたがたの知らないことなんて、ひとつもない。 ・・・・というわけで、「本日はご来場くださり誠にありがとうございました。それではみなさん、さようならあ!」 実は入ってきた瞬間から、どうやって逃げ出そうかと思っていたんだが、よし、これでうまくいったぞ・・・。

リクリエーション(再創造)の時間

時の始まりから私たち人類の望みはただひとつ、愛し、愛されることだ。そしてこれまで私たち人類がしてきたことは、ひたすら制限のモラル、宗教的タブー、社会的倫理、家族の流儀、倫理的解釈を創り上げることだった。 そのありとあらゆるルールや規制は、私たちに『いつ、誰が、どこで、何を、どのようにして、愛してもいいか』もしくは『いつ、誰が、どこで、何を、どのようにして、愛してはいけないか』を教え込むものだが、残念なことには、『愛してはいけない』リストのほうが『愛してもいい』リストより長いときている。 私たちは、何をやっているのだ? まったく、何をやっているんだ? 私がこの彼のところへ来て、(男性の頭に触れながら)「あなたの魂はなんて美しいのだろう」と言って何がおかしい? 見知らぬ人に近づいていって、「本当のあなたがわかるよ」と言うのが、なぜいけないんだ? なんでこんなふうに決めてしまったのかちっともわからない。 でも、このことは言っておかなければ・・・・。 この構造を変えない限り、私たちは決して本当の自分が何者であるかについての究極的な経験をすることはない。 だから今こそ、立て直すときだ。 再創造しよう。新しい自分を再創造するんだ。 人類が次に持ち得る、至上のビジョンへと! いや、いや、いや、なんてこった・・・・あんまり調子に乗せないでくれよ。 こんな部屋の前に連れ出されて、いっぱいの人たちを目の前にしたら、活動の新しいメンバーを見つけようとしてしまう。 どうやってあなたがたを仲間に引き入れるか、どうかやったらいっしょにやれるかと思ってしまうんだ。 遊び場に行くとき、そんなふうに感じたことはなかった? よく近くの遊び場に、丘を越えて歩いて行ったものだ。 家から8区画先に大きな広場があって、そこに近づいていくにつれ、「誰かいるかな?」と考えて興奮してくる。 もっと近づくと、遊んでいる子供たちが見えてくる。 知っている子、ほかの地区から来ている知らない子たち。 「どうやったら、ボクの仲間にできるかな?」 と、いつも思っていた。そんなふうに感じたことある? 広場に着くと、「やあニール、いっしょに遊ぼう!」という子たちがいれば、「あ、また口ばっかりのウォルシーだ!」という子たちから仲間はずれにされる。 広場で『仲間はずれ』にされていた人は?え、いないの? 「いっしょに遊んでくれるかな?そうだったら楽しいよな!」 私がこんな会場に入ってくるときの気持ちはそれだ。 そんなわけで、ちょっと遊んでみよう。 あの、とてつもない対話のなかで語られたことのなかから、『豊かさ』について話し合おう。

豊かさは物とは関係ない

『豊かさ』は、多くの人にとってそうであるように、私にとってもまた長いあいだ、多大なる関心を寄せてきたテーマだ。高次のレベルからの情報を受け取り始め、『豊かさ』を深く見つめ直して私が最初に理解したのは、『本当の豊かさとは何か』について、自分は誤った定義づけをしていたのだ、ということだった。 それまでの私はずっと「豊かさは物-----自分がどれだけ物を所有しているか」だと思っていた。 さて私が今から言おうとしていることは、あなたがたはとっくの昔に理解しているのだから、当たり前すぎることなのだけれどね。 簡単すぎて、今さら言うのも気が引けるんだけど・・・万が一、もしかしてだよ、自分がそれを『知っている』ってことを忘れてしまった人もいるかもしれないから、一応ここで、私の対話のなかでの気づきをもう一度話しておこう。 まず初めに”豊かさ”について大切なのは、「何が豊かさなのか」をはっきりさせることだ。 本当の豊かさは、所有している物とはまったく関係がない。 あなたのあり方、あなたが何者であるかがすべてなのだ。 出会う人々みんなに、存在としての豊かさを存分に分かち合うようになったとき、それまで追い求めていたものは、得ようとしなくても自動的にやってくるようになる。 高価なクリスタルや見事なアンティーク家具、美しい服など、私が豊かさだと思っていたものすべては、何の努力をする必要もなく天から降ってきた。 それまでの私は、ただの物にすぎない豊かさを追い求めることに必死で、もともとの自分が持っている豊かさをまるで無視していたのだ。

90分で豊かになる方法

つい数週間前の出来事を思い出すよ。 コロラドの美しい山々に囲まれるエステスパークで行われた合宿制のセミナーでのことだった。 ここよりもう少し広めの会場は、人々に埋め尽くされていて、私はちょうど今のように、みんなの前で話していた。 ある人がこう言い始めた。 「豊かさを経験できたら、どんなにいいかと思うよ・・・・」 それが彼の悩みの種だった。 「オレ、ちっとも稼げやしない。とうより、何とかやっていくのにも事欠くくらいで、今日ここに来るための金だって、やっとも思いで絞り出したんだ。これまでの人生ずっと、豊かさってもんを経験してみたいと思ってきたのに・・・」 そして彼は、みんなの前にいる私を指さしだ。 「そこにいる、あんたみないな豊かさを!」 「ようし、わかった。もしあなたが、本当に”豊かさ”を経験したいと思うなら、いい考えがある。この昼休み、あなたが持っているものをみんなに存分に与えるんだ!」 すると驚いたことに、彼は私の顔を見てこう答えた。 「他人に与えられるものなんて、何も持っていないんだよ!」 彼は本当にそう思っていた。 わざととぼけているんじゃなくて、他人にあげられるものなんて本当に何もあるはずがないと本気で思い込んでいたのだ。 そこで私は、当たり前のことから説明する必要があると思い、彼に向き直ってこう聞いてみた。 「愛はどうだい、少しくらいは持っているかな?」 「あっ・・・・」 と彼の口からもれたものの、自信はなさそうだった。 それでもそう問わせれば、人に分けてあげられるくらいの愛を自分が持ち合わせていると認めざるを得なかったようだ。 「ええ、ええまあ、愛ならあると思うな」 「では思いやりの心は?あなたのなかのどこかに温情はあるかい?」 「ええ、そりゃ少しくらいは。人からは情け深い男だって言われたこともあるし」 このときでもまだ彼は、自分が「思いやりのある人間だ」とは言いにくそうにしていたが、なんとかかんとか思いやりも人に差し出せるくらいはある可能性を認められたようだった。 「ようし、ではユーモアは?」 「ああ、ジョークなら一生使いきれないくらいあるよ!」 「すごいじゃないか」 こうしてふたりで彼が豊かに持っているものについてのリストを作った。それでもまだ彼は、そんなことが彼の言う『豊かさ』と関係があるとは思っていなかった。そこで私が、 「OK、それじゃ我々は『豊かさについての定義が異なっている』という点で、意見が一致しているということにしようじゃないか。でもここに挙げたことがらについては、確かにあなたが豊かに持っていると同意するね?」 というと、彼はこれに賛成した。 「よし!ではここで、あなたにやってもらいたいことがさる。昼休みの時間を、人々に『与える』ことに費やすんだ。いいかい?今あなたが認めた豊かにあるものをふんだんに人々に与えること。これからのランチタイムの90分間、出会う人みんなに、今までやったことのないくらい豊かに、たっぷりとね。これが私からの課題だよ」 彼はこれに同意し、挑戦してみることにした。 間もなく昼休みに入り、彼の挑戦が始まった。 持てるものを存分に分け与えること・・。 このセミナーが行われていたYMCAキャンプには、私たちのグループの200人だけでなく、ほかのロッジから来ていた人々も合わせるとおそらく全部で600人くらいはいたと思う。 ということは、カフェテリアには彼が何者なのか、今から何を始めようとしているのか全然知らない人たちが、たくさんいたはずだ。 だから彼の心には、ものすごい葛藤が湧きあがった。 自分のいるグループの人たちは、これから自分が奇妙なことを始めるのを知っている。 一方、ほかの人たちはそんなこと、まるで知らないのだから。ねえ、いいかい?あなたがたが自分自身を世の中に豊かに与えようとするとき、世界の半分はそれを『狂気の沙汰』とよぶだろう。 「何かおかしいぞ、やつはどうかしちまってる!」 「普通はそんなことをしないぞ!」 もちろんそこが、この世の問題なのだが。 「普通はそんなことをしない」それが世の中の現実だ。 さあ、カフェテリアにやってきた彼。 人々に近寄って行っては、彼の持つ豊かさを精一シェアし始めた。会う人ごとに愛を分かち合い、元気を分け与え、ユーモアを披露し、カフェテリア中をジョークでわかせた。 ある人たちは「あっはっはっ、こりゃおもしろい!」と笑い、ある人たちは「いったい何者だい、あれは?」といぶかりながらもやっぱり笑い出し、彼のジョークにはいまいち笑えない人たちでさえもやはり、このカフェテリアに突然現れた愛すべき『サンタさん』を見るとほほ笑まずにはいられなかった。 彼は人々に何かしらいいことを言って回っていたが、そのなかにたまたまひとり落ち込んでいる人がいて、これが彼の思いやりを示すきっかけになった。 彼は悪い冗談をやめるってことで思いやりを見せたのだ。 これは私も経験を通して学んだ、ひとつの思いやりカタチだがね。 彼はその人のかたわらに座って、こう話しかけた。 「オレ、ほかのロッジのセミナーに来ていて、あんたのことは知らないけどさ・・・大丈夫かい?」 いつのまにか彼は本人も気づかないうちに入り込んでいたのだ-----彼自身の「神との対話」に。 そうしてそれが、彼の『愛情深い』面を表現するチャンスになった。 90分後、昼の休み時間から戻った彼の気持ちは、それはそれは大きくふくらんでいた。 「どんな気分だか言葉にできないよ!」 「今は豊かさを感じるかい?」 「ああ、感じるとも!本当に、この上なく豊かな気持ちだ。これまで自分でも表に出てこないようにしていた、自分の素晴らしさを感じているよ。自分自身で表現するのを許していなかったことで・・・」 でも本当におもしろかったのはそれからだ。 グループの人たちには企みがあった。彼がランチを食べているすきに帽子をとってきて、みんながそれにお金を入れたんだ。だから彼が部屋に帰ってきたときには、帽子はお金でいっぱいだった! グループの人たちは、『差し出したものが、返ってくる』ということを、彼に証明してやりたかったんだ。 彼が席に着き、みんなにこの体験談をひととおり話したところで、グループの人たちは、彼にお金でいっぱいの帽子を手渡した。 それは”真実を体験する”という驚くべき体験だった。 あなたはそんな体験をしたことがあるだろうか? ぐわーん! と銅鑼が鳴り渡る。 あんぐり開いた口はふさがらず、頭を抱え込む。 「いったい、なんで今まで気づかなかったんだ」 真実があまりに明白に、歴然と目の前に現れた瞬間だ」 彼はそこに座ったまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。 究極の真実---『あなたが人に与えることは、自分に与えているのだ』ということを、彼は今まさに直に体験しているのだ・・・。 あなたがあるカタチで差し出したものは必ず、カタチを変えて返ってくる。そうならないことは、あり得ない。 なぜって、ここにはたったひとつの存在しかないのだから。 こうして『本当の豊かさとは何か』についての新しい気づきから、彼の人生は変わった。 だから『豊かさ』についてまず初めに大切なのは、何が『豊かさ』なのかをはっきりさせることだ。 あなたが最も素晴らしいあなた自身を、人生で出会うすべての人々に存分に捧げると決めたなら人生は90日で変わるだろう。いや、90分かもしれない。 人から見れば、あなたが何者であるかは、すぐわかってしまうのだから・・・。

ネガティブ・自己否定

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ネガティブ感情の製造工場



では物事であって、どのようにして起きているのでしょう。図をごらんください。あなたの感情をコップに例えると
、あなたのコップの中に不安感や自己否定、寂しさや罪悪感、怒りや必要のないプライドがたまっているとします。それでも普段は余裕がありますから大丈夫なのですが、周りから何か刺激があると、それが一気に溢れ出します。例えば、馬鹿にされたり、否定されたり、一人ぼっちになったり、注目されたりすると、自信をなくしたり、自己否定をしたり、不安や寂しさに襲われたり緊張したり、怒りが湧き上がってきたりします。

そうすると「どうせ私は一人ぼっちで当然よね」「やっぱり私なんか・・・」「自分のことなんてわかってくれない」「バカにしやがって」というネガティブ感情に支配されていきます。そして、あふれ出た感情を処理するために、一生懸命頑張ったり、自己犠牲をすることでごまかしたり、涙でこぼしたり、時には怒鳴ったりすることで吐き出そうとします。そうすると、ネガティブ感情が少し減りますから、安心するのですが、また周りからつつかれると、同じことを繰り返していきます。

ではなぜ周りはあなたのことを否定したり、怒らせたり、不安がらせたりするのでしょうか。それは、「あなたの中に、不安感や自己否定や、怒りや無駄なプライドがあるでしょう?それを持ったままだとあなたは辛いでしょ?苦しいでしょ?それがあなたを苦しめていることに気付いている?」「こうやって、否定されたり、無視されたりすると、すぐに反応してるでしょ?あなたの中にネガティブ感情の製造工場があるでしょ?それをどうするの?いつまで持っておくの?」と、つついてくれるのです。教えてくれているのです。

しかし、本人はなかなかそれに気づきません。それどころか、本人にとっては、嫌な出来事でしかありません。ですから「周りが自分のことを認めてくれないから、不安だしさびしくなるんだ。」とか「あの人が自分のことを否定するから、腹が立って仕方ないんだ。」などと思い、さらにネガティブ感情に支配されていきます。

そして「こんな嫌な所にいたくない!」と言って、他の所に行こうとします。しかし、残念ながら、その製造工場を持ったまま行きますから、また同じ事が起きます。同じことの繰り返しなのです。そんな経験ありませんか?

根本の問題はどこにあるのでしょう。製造工場をつついている周りの人に原因があるのでしょうか。それとも製造工場そのものに原因があるのでしょうか。明らかですよね。周りは、あなたを苦しめている製造工場が、そこにあるよと教えてくれているだけのことなのです。それに気づいていない自分がいるのです。ならば、それに気付いて、あなたが製造工場をなくすことなのです。それがなくなれば、周りが幾らつつこうが、反応するものはありませんので、素通りするだけのことです。何も起きていないことと同じことになります。

さらに、周りは製造工場があることを教えてくれていただけですから、それが無くなれば、もう教えてあげる必要はありません。ですから、周りの人のあなたに対する対応がガラリと変わり始めるのです。

しかし、なかには「あんな意地悪な人が、そんな素晴らしいことをしているはずがない。本当に意地悪でやっているとしか思えない」と思う人もいるでしょう。そう思っても仕方ないことです。その意地悪な人は、表層意識(頭での思考)では本当に意地悪な気持ちでやっている可能性があるからです。しかし、その奥の深層心理を越えて、さらなる奥の魂のレベルでは、皆さん神そのものですから全て善意でやっているのです。しかし、その意地悪な本人もそこには気づいていないのです。頭での思考と、魂レベルの思考とはまったく違う場合が多いのです。実は、このように魂レベルの思考が現実化しているのです。しかし、人間を体験しに来ている私たちの世界(三次元、人間界)では、魂レベルの思考には、気づいてはいけないことになっているのです。



こうあるべき!が×を作り出す



話は変わりますが、あなたが今の自分に○△×を付けるとしたら、さてどれですか?
はたして、「私は○です!」きっぱり言い切れる人が何人いるでしょうか?十人に一人いれば良い方でしょう。ほとんどの方が「自分は○とは言えない。」と思っているのではないですか?
「×ばっかりとまではいかなくても、完全に○とは言い切れない。」という方がほとんどでしょう。

実はそこに問題の根本があるようです。自分のどこかに×を付けている。
自分に×を付けていると、周りに○を付けられなくなります。だって、自分が×なのに周りに○をつけるのは悔しいものね。

さらに、物事を判断する基準は何を基準にするかというと、自分自身なんです。自分が一番よく知っている人間は自分ですから、その自分に×を付けていると「人間というものは、どうせそんなもんなんだ・・」としか、見れなくなります。

例えは悪いですが、泥棒が家を建てるとすると、どんな家を建てそうですか?ちょっと考えてみてください。
防犯設備を厳重にやりそうですよね。自分が盗むから、ほかの人も盗むだろうと思いそうですよね。
詐欺師が人を信用できるでしょうか?ずっと疑ってそうですよね。自分が騙すから、周りも嘘をついているんじゃないかとしか思えなくなります。

そのようにほかの人を見るときも、無意識に自分を見るときと同じ目線で見てしまいます。つまり、自分に×を付けていると、周りの人や出来事もどうせ×だろうとしか見られなくなります。

しかし、×だらけの自分では生きていけませんから、誰かに○をもらわなくてはならなくなってきます。そこで○をもらうために、取り敢えず相手に○を付けなくてはいけません。良い人のふりをしたり、無駄に人を誉めたり、おだてたり。そうしなければ、○をもらえません。

しかし、○を付けているふりをしても、どこかに×を付けてしまいます。そうすることで、自分の×とのバランスを取ろうとします。

あるいは必要以上に頑張ったり、良い人のふり、良い子を演じていかなければならなくなります。時には「自分さえ我慢すれば・・・。」と、自己犠牲をしたりします。そうすることで、他人から必死に○をもらおうとします。あなたはどうですか?やってませんか?

しかし、相手に○を付けることで、自分が○をもらおうとしたり、良い人を演じることで○を集めようとする人はまだいいのですが、中には自分の×を正当化するために、相手にさらに大きい×を付けようとする人もいます。

「あなたの×より、まだ私の方がましよ!」とやってしまいます。そして、バトルが始まってしまったり、あるいは自分の理想像を相手に押し付けようとしたりします。それって大迷惑ですよね。

では、なぜ自分に×を付けてしまうのか。それは、自分の中に何かの基準があるからなのです。「これが正しい。」「こうあらねば・・・。」という基準が、実は×を作りだしているのです。
「これが正しい。」と思った瞬間、それ以外は「間違い」「×」になってしまいます。そして、×に囲まれて生きていかなければならなくなるのです。

では、その基準ってどんなものなのでしょうか?○になるための基準ってどこにあるのでしょうか?絶対的な基準ってあるのでしょうか?
実はどこにもその基準ってないんですよね。
あるとすれば「誰かがこう言った」「これがふつう」「常識」等々。実に曖昧なものなのです。それは、時代や国、宗教、個人によって違ってくるし、個人もその時の気分や都合によって、コロコロ変わってしまいます。

そんな曖昧なものを基準として自分で自分を評価し、その上、その基準に合わない自分に×を付け続けて苦しんでいる。そんなことをやっていませんか?

実はこの「こうあるべき」が問題を作り出す大元なんです。これが正しいといった瞬間、それ以外は間違いになります。自分で勝手に枠を作り出しておいて、その枠によって発生した×と戦っているんですね。あなたはどうですか?
ほとんどの方がそれをやっているのですが、その中でも2種類の人種がいます。

一つは「こうあるべき」と言って、自分はその枠の中にいる人。「私は正しい」と言っている人です。そして「あいつが、こいつが」「社会が、政治が」と自分以外を批判したり、他人に自分の価値観を押し付けようとしたりしている人です。当然「あいつがこいつが」に囲まれて生きていくことになります。

それともうひとつは、「こうあるべきだ」といいながら、自分はその中に入っていない人です。「こうあるべきなんだけど、それが出来ていない私はダメ・・」となっている人です。その人も当然×に囲まれて生きていくことになります。

そして「私は正しい」といって、枠の中にいる人は、枠の外にいる人に対して、「こうあるべきでしょ!」と相手の×の部分を攻撃し始めます。相手にダメ出しをしておいて、自分の思い通りにさせようとするんですね。自分の意に沿わないものは間違いであり、悪いものとなっていきます。そして周りをコントロールし始めます。

そこまでいかないにしても、自分の理想像を相手に要求して、小さな衝突を繰り返したりします。あるいは、自分の価値観を相手に押し付けたりします。

しかし、周りは自分の思うようになりませんから、いつもイライラすることになってしまいます。
あるいは、枠の内側にいる人の中には、先ほども言いましたように、自分の「×」を正当化するために、周りに更に大きな「×」を付けようとする人もいます。それは、他人に「×」を付けることで、自分を正当化しようとしたり、自分の優位性を保とうとしているのです。つまり、そのような人も本当は自分の中の「×」を、一生懸命守ろうとしているということになります。沢山の鎧で守らなければならない何かが自分の中にあるのです。

さらに「私はダメだ」と枠の外にいる人は、「これが正しい。」「こうあるべき」「立派にならなくちゃ」と言いながら、出来ない自分に対して「私のこんなところがダメだから、理想の自分にならなくちゃ。もっと立派な人にならなくちゃ・・」とやり始めます。自分にダメ出しをはじめます。

そうすると、「良い人」「元気な人」を演じたり、時には自己犠牲をやり始めたりします。「私さえ我慢すれば・・。」とやり始める人もいます。そうすることで、周りから「○」をもらうことに一生懸命になっていきます。

「○」がたくさん集まれば、あるいは「○」を沢山もらえる自分になれば、幸せになれるんじゃないかと思い始めます。しかし、いくら「○」をもらえたところで、安心できません。もともと「私は×です」と言っているのですからね。

さらには、昨日もらった「○」を今日「返せ!」と言われるかもしれませんし、今日はもらえたけれども、明日はもらえないかもしれない・・・。そうやって、いつも不安の中で生きていかなくてはなりません。

どちらも結果は同じなんですね。結局は×に囲まれて、×と戦い、×に怯えながら生きていくことになります。あなたはどっちにいますか?

これも、ほとんどの人が状況や都合に応じて、枠から出たり入ったりしているでしょう。例えば、会社や学校では「やっぱり私って・・・。」と思って自信を無くしたり、しかし家に帰ると家族に対して「あんたが!」と人を責めたりします。残念ながら、まだ私にもそういう側面があります。

そのようにしても、どちらも自分や周りに付けた×をどうにかしようとし始めます。あなたもそれをやっていませんか?そして、その×は無くなりましたか?どうでしょう?逆に増えていませんか?

そうなんです。×をどうにかしようと思えば思うほど、×は逆に増えるんです。それは、当然のことなんです。
×をどうにかしようと思っているということは、枠にこだわっているということです。そして、その枠が×を作り出していたのですから、×をどうにかしようと思えば思うほど、×は逆に増える一方だという悪循環に陥ります。少なくとも×が無くなるということはまずないでしょう。

「なぜ、あなたは私の言う通りにしないの!」。そう言えば、相手から反発が返ってきます。もし、相手がおとなしい人であれば、その時は従うでしょうが、心の中では怒りが渦巻いていたり、自信をなくして、さらに出来ない人になっていったりします。

あるいは、「自分はダメだから、頑張らなくちゃ!」と頑張るのですが、結局疲れ果てて、なにもできなくなったり、失敗したり・・。そして結局「やっぱり私って・・・。」となってしまいます。

そんな経験ありませんか?それは、あなたの周りの「×」や、自分に付けた「×」をどうにかしようと思ったからなのです。

×をどうにかしようと思えば思うほど、×はどんどん増えていくことになります。
では、どうしたらいいのでしょう。
それは、×をどうにかしようとするのではなく、枠を無くすこと、はずすことなのです。枠が×を作り出していたのですからね。枠を外せば、自動的に×は無くなります。

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食べ物と思考

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食べ物のカロリーすら、思考の影響を受けている



あなたのまわりの環境は、あなたの思考や感情から影響を受けている。

それを目に見える形ではっきりと証明するために、ここでは体重計を使うことになる。つまり、自分の身体を実験台にすることだ。

心配はいらない。実験はたった三日間だけだ。それに実験の結果も、コーネル大学の調査によると、アメリカ人90%が望んでいる状態になる。それは体重を減らすことだ。体重を増やしたいと思っている人も心配はいらない。この実験で、健康と活力を向上させることができるだろう。


あなたが口に入れる食べ物も、この世界に存在する他のすべての物質と同じように、エネルギーで満たされている。体重を減らそうと必死になっている人は、食べ物の持つエネルギーに抵抗している。ここで戦うのではなく、むしろ食べ物のエネルギーと仲良く協力するようにすれば、食事や生活習慣を一切変えなくても、簡単に500グラムから一キロは減らすことができる。

あなたが摂取した食べ物のエネルギーは、あなたの思考や言葉から影響を受ける。お皿に乗っているそれらの料理は、ある決まったカロリーや栄養素を持っているわけではない。むしろ活発に変化するエネルギーで、あなたの思考や言葉に敏感に反応する。


もちろん、栄養士が計算する栄養素やカロリーには、あなたの言葉や思考から送られるエネルギーは入っていない。でも食べ物が身体に与える影響を本当に正確に測りたいなら、言葉や思考のエネルギーを考えないわけにはいかないのだ。思考のエネルギーは、食べ物に元から含まれるカルシウムやビタミンDと一緒に、身体に吸収される。


トム・シャディアック監督の「I AM/世界を変える力」というドキュメンタリー映画を観たことがない人は、すぐに借りてみてみよう。すべてがすばらしい映画だが、この実験に関係にある場面は特に注意して見てもらいたい。それは、ハリウッドの有名映画監督であるシャディアックが、ストレスと人間のエネルギーについて研究するNPOのハートマス財団を訪問する場面だ。まず、長年ハートマスの研究主任を務めるロリン・マクフライが、ボウルに入ったヨーグルトに電極を挿す。

ヨーグルトはただのドロリとした物体だと思われているが、マクラティはこの電極を使った実験で、シャディアックの思考と感情に反応することを証明した。シャディアックが最初の結婚について尋ねられると、ヨーグルトの生物反応を示す針が大きく左右に振れたのだ。そして、まだわだかまりの残っている弁護士の話になると、針は大きく振りきれた。ヨーグルトとシャディアックの感情に敏感に反応した。シャディアックの意識が過去の結婚を離れ、今いる部屋に戻ってくると、針も静かに停止した。

マクラティは言う。
「なぜこうなるのかはっきりとはわかりませんが、人間の感情がエネルギー・フィールドを作り、他の生物系もそのエネルギーに反応するということは否定しようがありません」

ここで考えてみよう。あなたは今までに、次のようなことを何回ぐらい言ったり考えたりしたことがあるだろうか。

・体重を減らすのは本当に難しい。 ・チョコレートを見ただけで太ってしまう。 ・私は代謝が悪いからやせにくい

こういったことを言ったり考えたりすると、ただ気がめいるだけではない。自分の身体や、自分が口に入れる食べ物も、直接的な影響を受けるのだ。



植物に、うそ発見器をつないだら何が起こるか?


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1960年代、元CIAエージェントのクリーヴ・バクスターは、植物が人間の意図を感知するということを発見して、一躍有名人になった。1966年、CIAを退職したバクスターは、今日でも世界最大と認められている嘘発見業務を請け負う会社を設立した。

ある夜、ニューヨークのオフィスにいたバクスターは、観葉植物をうそ発見器につないでみようと思いつく。最初はただの暇つぶしだった。しかし、植物の葉を熱いコーヒーに入れたり、マッチで燃やしたりしてわかったのは、植物は熱いコーヒーやマッチの火といった物理的な刺激だけでなく、人間の思考や意図にも反応するということだった。


バクスターは大きなショックを受けた。「通りに飛び出して、『植物は考えるんだ!』と世界に向かって叫びたい気分だった」と彼は言う。しかし叫ぶ代わりに、バクスターは植物と思考の研究に没頭していった。

そして、高性能のウソ発見器を用いた実験によって、あらゆる種類の植物が、人間の思考と感情に反応するということを証明した。バクスターは数十種類の植物を実験に使った。私たちが普段食べているような植物だ。彼の発見によると、植物は人間の耳には聞こえないような音にも反応し、人間の目には見えない赤外線や紫外線にも反応する。


1943年に亡くなったウィーンの生物学者、ラオウル・フランスは、複雑な実験器具がまだ存在しなかった時代から、この植物が持つ不思議な力に気づいていた。自分の事しか考えていない人間がまったく気づいていない出来事や現象を、植物はつねに観察し、記録しているというのである。


それでは、こういった話は体重計と何か関係があるのだろうか。人間が摂取する食糧の大部分は植物だ。もちろん、たいていの植物は加工されたり、切り刻まれたりして原型をとどめていないが、それでも私たちが食べるものの大部分は、最初はまわりの出来事を感知する力を持つ生きた植物だった。

植物以外の食べものは動物であり、そして動物もまた植物を食べて生きている。つまり、人間が生きていくために必要な食べ物、飲み物、アルコール飲料、薬品のほとんどが、植物から生まれているということだ。そして植物は、バクスターや彼の後継者たちの研究によって、人間の思考を読み取ることが証明されている。

私の言いたいことが、もうわかっていただけただろうか。
自分自身や自分の体型、自分が食べるものについて、あなたが考えたり言ったりすることが、あなたの健康状態を決める核になっている。もしかしたら、厳密なカロリー計算をして、必死になって摂取カロリーを抑えようとすることが、あなたが理想の体重になるのを阻むもっとも大きな障害物なのかもしれない。




体重を減らしたいと考えることが、あなたの身体をやせにくくしている


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ダイエットは敵だ。ダイエットをすると、むしろ太ってしまう。
ダイエットに効果が無いことくらいは、たとえ天才でなくたってわかる。それなのに、なぜ私たちは、ダイエットという名の苦行を自らに課すのだろうか?

そこで、こう考えてみよう。一週間の終わりに上司のところへ給料を受け取りに行ったら、こう言われてしまった----「申し訳ないが、今週はきみに給料を出さないことに決めたんだ」

それでもあなたは、いつか給料をもらえるに違いないと期待しながら、その会社で働き続けるだろうか?


年に600億ドルを売り上げるダイエット産業を見てみればすぐにわかることだが、私たちのほとんどが、食べ物との間にとても複雑な関係を築いている。私たちは食べ物のおいしさと栄養を単純に楽しむことができなくなってしまった。その代り、食べ物を恐れ、食べ物を憎み、そして鏡に映った自分の姿を食べ物のせいにする。愛憎愛半ばする関係とはまさにこのことだ。

自分についてネガティブなイメージを持ち、体重を減らしたいとばかり考えていると、それがあなたの現実になる。つまり、ネガティブな気持ちと、体重を減らさなければいけない状態が、あなたの現実になるということだ。

こういった思考はかえって逆効果になり、あなたはずっと今の状態にとどまってしまうだろう。あなたの身体は、あなたの思い込みがそのまま形になっている。あなたの細胞は、あなたが言ったり考えたりすることをすべて感知している。あなたが自分のたるんだ二の腕をののしったり、たるんだお腹の肉をつまんで嘆いてばかりいたりすると、自分の筋肉や腺や繊維にその考えを刷り込んでしまうのだ。

起きている時間のほとんどを使って、自分のたるんだ身体を呪っている人にとってはにわかには信じられないかもしれないが、人間の体は、普通の状態で十分に健康だ。

人間の体には、自分で悪いところを治し、正常な状態に戻す力がある。あなたが何かをする必要はまったくない。しかし、自分の身体に「醜い」というレッテルを貼り、必死になってカロリー計算をしていると、あなたの身体はかえって今のままの「好ましくない」状態にとどまってしまう。




著名なヨガ教師のアラン・フィンガーは、10代のころに体重を45キロも落としたことがある。しかも驚いたことに、たった1か月で落としたのだ。

アランの父親のマニ・フィンガーはインドでヨガを学び、そのときに覚えたとても強力な呼吸法を、帰国してから肥満児の息子に教えた。

そしてアランは、エネルギーを動かす効果のあるその呼吸エクササイズを一か月行い、なんと45キロもやせたのである。


いや、あなったの言いたいことはわかる。そんなことは不可能だと思っているに違いない。たった一か月で45キロもやせられるわけがない、と。

でも、そんな考えを今すぐに捨ててもらいたい。そういったネガティブな思考、無限の可能性を鼻で笑うような思考が、あなたの足かせになるのだ。自分のエネルギーを変えるには、自分の思考を変えなければならない。あなたの辞書に「不可能」という文字を入れてはいけない。


私の友人で、たぶん30年くらい万年ダイエット状態の人がいる。彼女はあらゆるダイエット法に手を出してきた。運動もしたし、極端な食事制限もした。でも、どれもうまくいかなかった。

そこで彼女は、エモーショナル・フリーダム・テクニック(EFT)と呼ばれる方法を試してみた。EFTの教えによると、身体のツボを押すだけで理想の体重になれるという。長年苦しんだダイエットの問題がそんなに簡単に解決するとはとても信じられなかったが、それでも友人は藁にもすがる思いでやってみることにした。

そしてなんと、EFTでエネルギーを解放すると、30年間何をやっても落ちなかった余分な体重が、わずか1か月の間ですべて落ちてしまったのだ。あれ以来、彼女はリバウンドすることもなく、理想体重を維持してすばらしいプロポーションを保っている。


アラン・フィンガーがわずか1か月で45キロもやせたように、あなたも信じるだけで理想体重になることができる。あなたは何キロ減らしたいだろうか?

ブルース・リプトンの「思考のすごい力」という本をぜひ読んでもらいたい。リプトンは細胞生物学者で、かつてスタンフォード大学で教えていた。彼の発見によると、意外なことに、人間の体は遺伝子よりも自分のエネルギーや思考のほうに大きな影響を受ける。

リプトンは本の中で、膝に問題を抱えた人たちの驚くべき話を紹介している。患者を二つのグループに分け、最初のグループには複雑なひざの手術を受けてもらう。そして二つ目のグループには、自分は手術を受けたと信じさせる。実際に手術室に入り、膝を切開するのだが、治療は一切受けていない。つまり、膝の状態はまったく変わっていないということだ。


しかし、どちらのグループも膝の状態は回復した。どちらのグループもすぐに歩けるようになり、バスケットボールもできるようになった。膝を痛めるまでできていたことは、すべてできるようになった。

こんなに強力なプラシーボ効果を見せられたからには、あなたも自分はやせてスタイル抜群だと信じないわけにはいかないだろう。ネガティブ思考なんて捨ててしまおう。自分の意識を集中したものが拡大するのだ。自分は太っていてダイエットが必要だということばかり考えていたら、それがあなたの現実になってしまう。



実験



この実験では、食べ物に対して日ごろ抱いている恨みをすべて捨てることになる。
口に入れる食べ物は、すべてあなたの親友だ。親友とまでは行かなくても、少なくとも栄養豊かな知り合いではある。

自分のエネルギーを使った自然治療の専門家ののトーマス・ハンナによると、人間の体は、その人の思考プロセスが形になったものだ。だから、あなたの体重が増えるのは、どうしても我慢できなくて食べてしまったバナナクリームのパイのせいではなく、自分に対する思い込みのせいなのだ。

この実験を始めるにあたり、まずは自分の体験に対するネガティブな言葉を一切言わないようにしよう。難しいと感じる人もいるかもしれないが、そういう人はネガティブな考えが浮かぶたびに、その反対のことを考えるといい。たとえば、友人との電話で、何気なくこんなことを言ったとする。「昨日、映画館で映画を見ながら、バターのたっぷりかかったポップコーンを一人で全部食べてしまったの。三キロぐらい増えてそうな気がする」。この効果を打ち消すためには、こんなことを付け加えればいい。

「でもアントニオ・バンデラスがシャツを脱いだ時に、思わず飛び上がって半分くらいこぼしちゃったし、それにかえってやせたような気がする」(このとき、控えめな表現をする必要はない。自分はスタイル抜群だと堂々と宣言しよう!)


食べ物には魔法の力を持ったエネルギーがたくさん詰まっている。そして食べるという行為は、どこまでもポジティブな体験であるべきだ。それなのに、私たち現代人は、食べ物との関係がかなりこじれてしまっている。そのため、この実験がとても難しいと感じてしまう。

食べることに対する罪悪感は、私たちの中に深く刻まれている。だから、完全にポジティブな気持ちで食べることに、大きな違和感を覚えるかもしれない。練習が必要な人もいるだろう。

もしかしたら、一度克服したと思っても、やがて昔の習慣が復活して、今から食べるもののカロリーや脂肪量を確認するようになり、またこの実験が必要になることもあるかもしれない。紹介している実験はたいてい48時間しかかからないが、この実験が72時間になっているのもそのためだ。

この実験で証明するのは、あなたの思考とエネルギーが、外側の世界につねに影響しているということだ。

昔の人は、食事の前に必ず祈りをささげていた。私の家族も昔はそうだった。レストランに行ったときも、食事の前は必ず祈っていた。

中学生のころは、それがとてつもなく恥ずかしかったものだ。でも今の私なら、食前の祈りによって、食べ物にポジティブなエネルギーと思考を送っていたということがわかる----もちろん、当時は家族の誰もそのことに気付いていなかったけれど。でもその証拠に、私の家族で太りすぎて悩んでいる人はひとりもいない。
この実験では、次のことを行う。


1・自分の身体をけなすのをやめる。もし可能なら、一切のネガティブな言葉や思考を禁止する。 2・何かを口に入れる前に、必ず愛にあふれた思考を送るようにする。食べ物に手をかざし、祝福する。 3・愛、喜び、平安の気持ちで食べ物を摂取する。


これだけだ、実験の開始日に体重を測り、そして終了日にもまた体重を測る。

意識には「正しい使い方」がある

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意識には「正しい使い方」がある



「内なる声」について、あなたは何を知っているだろうか?
内なる声は、いつでも私たちを導いてくれる。内なる声が助けてくれないときは絶対にない。今までもなかったし、これから先もない。内なる声の導きはいつでもそこにある。

内なる声以外の何かに導きを求めるのは、自分から問題を招き寄せるようなものだ。仏教の世界では、雑念みまみれた心を「猿の心」と呼んでいる。そんな猿の心の状態では、絶対に問題を解決することはできない。

たとえて言うなら、それは爪切りを使って庭の芝を刈るようなものだ。それなのに、私たちのほとんどが、雑念にまみれた猿の心に導きを求めてしまう。具体的には、脳の左半球の部分、顕在意識のことだ。顕在意識はしょっちゅう判断ミスを犯し、解釈を間違え、作り話をでっちあげる。


実は、顕在意識の役割はたった二つしかない----それは、問題を見つけること、目標を設定することだ。

意識の正しい使い方を心得ている人は、この二つのためだけに顕在意識を使っている。つまり、問題を見つけ、目標を決めたら、すぐに顕在意識を使うことを放棄するのだ。


顕在意識が得意とするのは、種を植えることだけだ。それなのに、たいていの人は、顕在意識にそれ以上の仕事をさせている。顕在意識によって物事のいい面と悪い面を比較検討し、「合理的な決断」に到達しようとする。直観なんてまるであてにならない、というわけだ。


顕在意識は、問題を見つけ、目標を設定すると同時に、余計な仕事を始めようとする。問題について、おせっかいを焼いてくるのである。

「こんな大きな問題はとてもじゃないが手におえない」「簡単に解決できるわけがない」「目標はたしかに立派だけだ・・・」「そうだ、前にも同じようなことがあったじゃないか。そのとき解決できなかったんだから、今回もダメに決まっている」・・・言うまでもなく、この脳の中にいるお節介焼きは、あなたにとってベストの相談相手ではない。間違った判断を下し、現実をゆがめ、余計な悩みや心配を増やすだけだ。



「合理的な判断」こそが、願いがかなうのをじゃましている

たとえば、ジェーンという女性が、夫との関係を改善するために、顕在意識を使って目標を決めたとしよう。それ自体はとてもすばらしいことだ。ただ残念なことに、ジェーンは顕在意識に余計な仕事をさせてしまった。

目標を決めたところで考えるのをやめ、あとは意図を送り出して流れにまかせればよかったのだが、顕在意識をフル活用して、選択肢を吟味したりして「合理的」な決断を下そうとしてしまった。するとジェーンの頭の中は、あっとう間にネガティブな思考でいっぱいになる。

すると、ジェーンの頭の中では、不平不満の不協和音がガンガンと鳴り響く。まるで素人バンドが、親の家のガレージで雑音をがなりたてているようだ。

「夫との関係はもう終わっているの」
「音は手のかかる怠け者だ」
「私の希望は絶対にかなえられない」

言い換えると、顕在意識が現実の解釈を始めてしまったということだ。
問題は、顕在意識は、現実そのものをきちんと解釈するのではなく、気まぐれであてにならない先入観をもって解釈をしているということだ。だから、そこから生まれる決断は、間違ったものになるだろう。

爪切りは本来の目的のために使うのがいちばんだ。もう薬箱の中にしまい、もっと芝刈りに適した道具を出して来よう----それは、あなたを助けてくれる「内なる声」の導きだ。

コツさえつかめば、内なる声はとても頼りになる。それに加えて、内なる声の答えは、顕在意識が出す答えよりもずっと平和的だ。直観の力を使うので、顕在意識では理解できないような、予想外の事態にもうまく対応できる。




娘が41度の高熱を出したときに聞こえた「声」



ときに、内なる導きはまったく予期していないときに訪れることがある。
たとえば、生まれたばかりの娘が41度の高熱を出したときもそうだった。私は娘のタズマンを抱っこして、家の中をおろおろと歩き回った。高熱にどう対処したらいいのかまったくわからなかった。

時価は夜中の三時ごろ。友人たちは「時間は気にせず、昼でも夜中でも電話してね」と言ってくれているし、それにたぶん本気でそう思ってくれているのだろうが、それでもそんな時間に電話をする気にはなれなかった。私はただ、小さなアパートの中をおろおろと歩き回るだけだった。

そのとき突然、妙にはっきりした声が聞こえてきた。「私があなたにそのすばらしい贈り物を届けたのは、あなたからそれを奪うためではありません」。その声はそう言っていた。その瞬間、私は娘は大丈夫だと確信できた。

内なる声は、こんなふうに、ときには運勢占いのようにはっきりしたメッセージを送ってくれることもある。友人のダーリーンはある声を聞いた。当初はバカげた妄想のように思えたが、後から考えればあれは間違いなく何かのお告げだった。

ある日いきなり、自分が所属する教会の、楽団の指揮者になりなさいとう声が聞こえたのだ。悪くない話だが、ごく小さな問題がひとつだけある。それは、ダーリーンには音楽の素養はまったくなく、演奏できる楽器はアルトサックスだけ----それも、かなりへたくそだったことだ。たしかに歌うのは好きだったが、指揮をするのとはわけが違う。彼女の顕在意識はさっそくおせっかいを焼き始めた。

「ダーリーン、なにをバカなことを言っているの。神様----他の誰でもいいけれど-----が、あなたに指揮者になってほしいなんて思うわけがないでしょう?」


そこでダーリーンは、一回だけ挑戦してみることにした。もちろん、勝ち目のない大ばくちのような挑戦であることはわかっていた。それでもとにかく、挑戦して納得しさえすれば、バカな目標もそれにふさわしい場所、すなわちゴミ箱に捨ててしまえばいい。
ダーリーンは自分の内なる声と取引をした。

「私が指揮者になることを本当に望んでいるなら、牧師様か、教会の理事長か、オーケストラのピアニストに、今日の終わりまでに会わせてください」

その日は月曜日で、教会は次の日曜日までずっと閉まっている。だから3人のうちの誰にも会うことはないだろう。それに自分はフルタイムで働いているのだから、近所でばったり出会う可能性なんてほぼゼロだ。ダーリーンはそう思っていた。


仕事から家に帰る途中、彼女はスーパーマーケットに寄って買い物をした。レジの列に並んでいると誰かが声をかけてきた。

「あら、ダーリーンじゃない!お買いもの?」
それは、夜中の3時に私を安心させてくれた、あの天界から響く深い声ではなく、教会の理事長のメアリージェンキンズの声だった。ダーリーンが並んだ列の前のほうに、理事長も並んでいたのである。

願いをかなえるテクニック

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願いをかなえるテクニック


祈りの本質はスピリチュアルであり、その行動は科学的です。
かんたんなステップを踏むことにより、理解を超えた安らぎを見いだし、求める喜びや癒しを実現するでしょう。

これからご紹介するのは、すでに効果が証明されている祈りのテクニックです。山のいただきに到達するにはいろいろなルートがあり、誰もがそれぞれにいちばん適した道を見つけなければいけません。

私はこれらのテクニックを長年使っていて、これにより自分が完全であるという深い感覚と、神の存在を体験してきまし。そのテクニックを今、あなたにささげます。心からの真の祈りがもたらす永続的な喜びが得られることを祈り、信じながら。


環境をととのえましょう


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祈りはいつでもどこでもおこなえますが(そして、真の祈りは絶えることなくつづきます)、祈りに合った環境をととのえることで、その実践でさらに効果をあげることができます。一部屋まるごと、あるいは部屋の一部、あるいは少なくとも机の一部を専用の空間にし、祭壇をつくります。そのさい、テレビや仕事、食事や会話といった日々の生活の喧騒から離れた場所を選びます。

祭壇をつくる目的は、あなたに神を思い出させ、安らぎをもたらすようなエネルギーを積み上げることです。愛する人や好きなものを思い出せるよう家に写真やアートを飾るように、祭壇は私たちの思いを神聖なものへと高めてくれます。

祭壇には、神や平和や癒しのシンボルを飾ります。神聖な存在や聖人、大切に思っているスピリチュアルな師、あるいは愛する人の写真などを置きます。そしてキャンドルや聖書、インセンス、花、クリスタル、聖石、鳥の羽、あるいは見ると力を与えられるものを飾ります。

あなたの祭壇はあなた自身がつくりだすもので、あなたにとって意味のあるものにすべきです。

祭壇はちりひとつないほどきれいにし、その聖なる空間にガラクタや世俗的活動が入り込まないようにします。
そこで祈ったり瞑想したり、聖歌を歌ったり、心を高めてくれるものを読んだりするなら、そこには癒しの波動が蓄積され、その場所に入ったとたんに安らぎを感じられるようになるでしょう。

あなたの家にはつねに神が住んでいます。そして祭壇はその存在を裏付ける場所なのです。



毎日の習慣にすること


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祈りは地道に続けることで達成する技能です。
好きな時だけ、あるいは便利なときや苦境におちいっているときだけ祈っても、奥深くに入って真の意味を見いだすためのスピリチュアルな筋肉を発達させることはできません。

規則正しくおこなうには、はじめのうち努力を必要としますが、じきにそれも楽になり、楽しく、とても有益になります。

毎日をまず祈りではじめてください。子供は生まれて五年間が自己形成の時期であり、その時期に受けた印象がその後の人生の基調をなすことはご存知でしょう。同様に、一日の最初の五分が、その日一日の基調をつくります。

あなたはその日をどのような一日にしたいかを選択することができますが、それはその日がはじまる前にしなくてはなりません。

起きてすぐに忙しくしたり、仕事に取り掛かったり、会話をはじめてしまうと、その日の基調をととのえるのがもっと難しくなってしまいます。家族があったり、起きたらしなくてはいけないことがあるならしてください。でも、そのあとできるだけ早く神とともにすごす時間をつくってください。家族よりも30分早く起きれば、その努力が大きく報われることに気付くでしょう。

では、どのくらいの時間祈るべきでしょう。私はマインドを静めて内なる静かな場所に触れるのに最低20分はかかります。まだはじめたばかりで20分は負担に感じるなら、まず5分からはじめて徐々に増やしていってください。

正しく祈っているなら、祈りつづけたい気持ちになり、その効果を楽しめることでしょう。一時間祈り続けたい日もあるでしょう。そんなときは自分でわかります。

では、祈りのをいつ終えるべきでしょう。まるでたましいがとてもおいしい食事を終えたかのように、完結した感じがしたときがいいでしょう。養分を与えられ、完全で、前向きに感じられます。

不快感や動揺したような状態が数分以上つづいた場合も、祈るのはやめましょう。祈りや瞑想のときにそわそわと落ち着かない感じになることがよくあります。数回呼吸をして集中しなおすと、その不快感も去っていくことが多いものですが、それがつづくなら、無理にあらがわないこと。それは、やめなさいということです。たいていは、深い健やかさを感じて祈りを終えることでしょう。

眠る前にも祈ること。起きている状態から睡眠状態への移行は、朝起きるときと同様に大切です。眠るとき、私たちは別の次元へと入り、大切なスピリチュアルな学びをします。落ち着かない状態や刺激過多の状態で眠りにつくと、その状態を解消することに夜の大半をついやしてしまい、睡眠が与えてくれるスピリチュアルな再生を享受できなくなります。眠る前に祈ったり瞑想したりすると、それがその日起こった未解決のトラウマを解消する手助けとなり、肯定的な睡眠状態に入る準備をしてくれます。そうすると、朝もリフレッシュしてめざめることができます。

眠る前には、ニュースや心を乱すような映画を見ないこと。そして、パートナーとけんかをしないこと。何か問題が起きたなら、できるだけ静かにおだやかに処理するか、次の日にまわすことです。祈りのあとによく眠り、リフレッシュして起きたなら、直面しなくてはいけない問題もずっと上手に解決できる状態になれるでしょう。

夕方にも20分間、祈ったり瞑想したり、心を高める言葉を読んだり、おだやかな音楽を聴いたりするといいでしょう。

とても疲れているなら、ただ数分間静かにすわり、神を思い出します。大いなる愛の源にその日一日を感謝し、眠りの中でもともにいてくれるよう願います。神には時間が存在しません。そして、言葉よりも背後にある思いのほうを感じてくれます。


リラックスが大切な準備


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まず、祈りや瞑想の準備をするには、リラックスした状態になってください。
目を閉じ、深くて長い呼吸を数回し、足元から頭頂へと部分ごとに体をリラックスさせていってください。心地よい音楽を流すのもいいでしょう。事前にヨガや太極拳、あるいは運動などをしておくとリラックスしやすくなります。安らぎ、身体が楽になるのを助けてくれるものなら何でもけっこうです。

横になって祈ったり瞑想をしたりすることは、おすすめしません。眠りに落ちやすくなり、それはそれで利点もありますが、瞑想に対する意識的な集中力を失ってしまいます。

さらに、知らぬ間に睡眠でも瞑想でもない心的な状態へと入っていってしまうこともあります。ですから、瞑想のためには背筋をのばしてすわるようおすすめします。

祈りのセッションをはじめたあとは、体を制止し、気をそらさないこと。
もじもじと動いたり、体をかいたりしないようにし、どうしても必要なのでないかぎり、トイレに行くのも電話を受けるのもやめましょう。

この実践をしっかりつづけていこうと集中力がとても強くなり、それによってたましいにもっとも深い安らぎを見いだす空間が生まれるのです。



意識を集中させてください


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まず最初に少しのあいだ、意識を集中することからはじめましょう。
キャンドルの炎を見つめたり、呼吸に意識をもってきたり、マントラ(真言)あるいはアファメーションをとなえます。

こうすることにより、頭の中に浮かぶありとあらゆる思考に気持ちがそらされなくなり、しっかりと内面に向かうことができるようになります。


喜びや幸福の思考を反芻しましょう


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何か心が高揚するような考えをひとつ、頭の中で反芻します。そうすることによってあなたの意識が神聖なものへと引き上げられます。

「神の安らぎが今私の中で輝いている」 「すべての物事は善に向かってともに働いている」 「私は神の愛する子である。完全で自由で欠けるところがない」

このようなアファメーションは、あなたの潜在意識の中に深く沈み、あなたに真実を思い起こさせ、きざみこまれたマイナス思考をプログラムしなおします。あなたに喜びや幸福をもたらす考えなら、どんなものでも反芻する価値があります。

これは神に話しかけるよい時間でもあります。
創造主とのあなたなりの関係をつくり、大好きな友人として話しかけるのです。何を考え、何を感じているのかを話し、グレート・スピリットに支え助けてくれることを願います。そして人生の中にある愛や美しさに感謝します。

あなたの言葉は必ずや聞き届けられます。話しかけ終わったなら、今度は神の答えに耳をかたむけます。それは必ずやってきます。

また、創造的なビジュアライゼーションをしてみてもよいでしょう。
美しい自然の光景を想像し、心の中で自分をその光景の中におきます。木々の緑を見、花の香りをかぎ、岸辺に寄せる波の子守歌に耳を傾け、太陽の輝きにひたります。自分がもっとも健康である様子を思い浮かべ、すばらしい人間関係と理想的な富、そしてプラス思考をしているのを想像します。あなたの大好きな師があなたのもとに来てくれるよう招きます。木の下にその師とすわり、心からの会話をします。

そうしてイメージすればするほど、あなたの安らいだ世界は現実味をおびてきます。そしてその内なる聖域に入っていくことにわくわくすることでしょう。

また、自分にとって意味のある祈りの言葉や詩編を読み上げるという実習も楽しめるでしょう。それをただ棒読みするのではなく、それぞれの行間、たとえば、「天にましますわれらの父よ」と言ったなら、その行間にふくまれた意味を感じてみます。それを語った人がそのときどんなことを感じていたか、感じ取るようにしてみてください。

祈りの力を発見してください。肉体の目や他人の言葉からではなく、みずからの心の中に。


メディテーションで静けさの中に



たましいが満たされ、啓発されたと感じたなら、言葉を手放してその黄金の静けさの中に休息します。

そこでは言葉が語ることのできない完璧な安らぎを見いだせることでしょう。神に向かおうと努力するのをやめて、神とひとつになるのです。時間を超えた瞬間に疑問は消滅し、すべてが明確になります。

瞑想のあいだにも思考が浮かんでくるかもしれません。でも、それに乗っていはいけません。思考は春の空に流れていく雲のようなものだと考えます。あらがうのではなく、同時に引き込まれてもいけません。

あなたは出てきては消えていく思考以上の存在であり、その本質はあなたの感覚が体験できるどのようなことよりも、はるかに豊かなのだということを見いだすでしょう。

その黄金の静けさの中ですごす神との時間は、ほんの数瞬でも生涯の贈り物となります。毎日神に触れることにより、外の世界ができないような方法であなたは満たされるでしょう。



祝福をあらゆるものに広げます



心から満足するまでその安らぎの中にひたったなら、そのプラスのエネルギーを外の世界に向かって輝かせなさい。愛という黄金のカーペットを向こうに向かって広げていき、これからの一日の準備をしなさい。そしてあなたにとってよいことが適切な方法と完璧なタイミングですべてやってくるよう招くのです。

もし、自分の人生のある面を癒そう、あるいは改善しようと思っているならば、その状況を白い光で満たし、それを理想的な調和とバランスのとれた状態にゆるぎなくしてくれることを感謝します。祈っている対象の人を自分のマインドに抱き、完全であるという目でつつみます。

問題のほうに巻き込まれてはいけません。そのような人物や状況には、癒しの意識を向けてください。それから愛や祝福や好意を、すべての生きとし生けるものに広げ、あらゆる場所に神の存在がいつもあることを認めます。


あなたのための祈りの言葉



イエスはこの世を去る前に、こう約束しました。
「私はつねにあなたたちとともにある」

そしてその後、「私はあなたがたになぐさめを与えずに去ることはない」とも言っています。

イエスは人間としてその言葉を言っていたのではなく、生きたスピリットとして言っていたのです。
その生きたスピリットは、あなたにも私にも、いつでも手が届きます。
そして、祈りはその存在に私たちがとどく方法です。



あなたのための祈り



私は、あなたの大切な夢やビジョンがすべて実現することを祈ります。 あなたの心からの望みが、すばらしく奇跡的な方法で満たされるよう祈ります。 あなたの人生が恐れや痛みから自由で、あなたのおこなうことが会う人すべてにとっての祝福であるよう祈ります。 神があなたとともにあり、あなたが神聖な存在にいつも気づいているよう祈ります。 それにしても、あなたが祈りの力を発見して、自分のものとすることを祈ります。 そうすることであなたのスピリチュアルな源の深奥を知り、あなたを創造した神があなたとともに歩き、決してあなたのもとを去ることがないと知ることで、深い喜びを体験するよう祈ります。 万事はうまくいっています。私たちは孤独ではなく、天国は手の届くところにあるのです。

願望を手放す

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「すばらしさはかんたんに生みだせます」

私たちは欠乏思考という催眠術に屈服した世界に住んでいます。そして生きているほとんどのすべての人が、生まれながらの権利である威厳を、つまらない小さなもので妥協しているのです。

しかし、妥協とは決して選択と同じではありません。

何かにただ反応するのではなく、自分が主体となって創造しているという喜びは決してもたらしてくれません。

ある牧場を訪ねたときに、私は大型犬くらいの大きさの小さな馬が何頭かいることに気が付きました。そこのオーナーによると、その馬が身体が小さくなるように交配されたものでした。ブリーダーが各世代のいちばん小さい馬同士をかけあわせ、次の世代がさらに小さくなるような遺伝的組み合わせをしたのです。

これは私たちが小さな思考をするという習慣に対してしてきたこととまったく同じです。私たちは自分が持っていないものやうまくいっていないことに一心に意識を集中したせいで、人生がどんどん小さくなっていき、しまいには自分が軍馬のように自由に走れることを忘れて、小さなピグミー種の馬として小さな囲いに住むのです。

けれども、簡単にその小さな生みだしたのと同時に、すばらしさも簡単に生みだせるのです。

自分の望むこと、そしてうまくいっていることに意識を集中し続けることによって、何世代にもわたってどんどん大きく成功していくようにできるのです。

それは自分の意識をどこに集中するか選択することからはじまります。ですから、私たちは毎日、毎瞬、もっと豊かに広がりをもって思考することに注意をそそがなくてはいけません。

イスラム教における神の名は「アラー」です。それは英語の「Allow(~させる)」という言葉に音が似ています。豊かさがあなたの現実にあることをあなたが許すなら、神の愛はあなたの心にしみこみ、驚くべき出来事が起こり始めるでしょう。

すると、あなたはみずからの価値を認めるという領域に足を踏み入れることになり、宇宙が忍耐強く与えたいと待っている祝福をめいっぱい受け取ることができるのです。

それはすべて手に入れられるのです。そして、すべてがすでにおこなわれたことなのです。
唯一の疑問は、それがいつかということです。
それはすべて、あなたしだいです。




恐れずに受け入れる祈り



私は自分に定められたよいものと祝福のすべてを受け取るよう、心を開きます。
自分が小さいという感覚をすべて手放し、あなたの愛する子としての真の力と価値を自分のものにします。
私は豊かな宇宙に住んでいます。
そして私の求めるよい状態のすべてが私のもとに流れてきています。
私はもう待つことはしません。
そして以前受け入れてしまった愛の代替は放棄し、勇気をもって最良のものを楽しむ権利を求めます。
私は神の王国を今、受け入れます。
私はあなたからのすばらしい贈り物を受け取り、みずからの豊かさを出会うすべての人々に広げます。



ときには願うのをやめてみること。願いをやめることで与えられるパワーもあります



いつ、どのようにして祈るかを知るのはとても大切です。そして同様に、いつ、どのように祈るのかを止めるかを知ることも大切です。

祈れば祈るほどそれがこたえられる可能性が高くなるというのは本当ではありません。あらゆる芸術や科学、あるいは鍛練などと同じように、祈りにも収穫逓減を起こす地点があります。

成功はより必死に働くかどうかではありません。より賢く働くことなのです。祈りを手放すというすべを自分のものにするまで、本当の意味で自分の技術を自分のものにしたとはいえません。

「祈りをやめることによって祈りにもっと力を与えることなど、どうすればできるのか」と疑問に思うかもしれません。それも当然でしょう。

あなたが祈りを手放さなくてはいけないのは、そうすれば神がこたえることができるからです。祈りの唯一の目的は、自分の意図を宇宙にあずけるところまでもってくることだとすらいえるでしょう。

では、祈りがどのような仕組みで働くのかを復唱してみましょう。
マインドの中の祈っている部分というのは、恐れたり混乱したり何か望みを感じている部分です。

あなたは一時的に自分自身が何者で在るかを忘れてしまい、みずからの中とまわりにある神の存在をみすごしてしまっているのです。

あなたに完全な信仰心と大いなる存在の意識がゆるがずにあるならば、祈る必要はないでしょう。あなたはつねに愛、喜び、そして感謝の状態に生きているはずです(そして実際そうなるでしょう)。


「祈りの目的は神の気を変えさせようとすることではありません。神はつねにあなたが完全であり、あなたに価値があることを知っています。それは自分なマインドを変えることにあります。あなたが神の目をとおして見ることができるように」


祈りというのは、隔絶して孤立したマインドと完全なマインドとのあいだに橋をかけてくれる、他にはない驚くべき現象です。

その実際には存在していないギャップを超えたとき、あなたはリラックスして静かになり、自分の心配事を神の愛の手にあずけることができるのです。祈り手はそれにこたえる存在から自分を隔絶してしまっていたのです。

そして祈りは、こたえる存在のほうにゆだねられなければいけません。なぜなら、自分自身の祈りにどうこたえていいか自分が知っているなら、最初から祈ってなどいないからです。

自らの祈りを飛翔させることは、離れたところにいる友人に手紙を出すようなものです。自分が伝えたいと思うことを書いたあとは、その手紙を郵便ポストに入れ、それが配達されると信じてまかせるのです。

電信柱の陰に立って郵便局の人が集荷に来るかどうか見ていたりはしないでしょう。その集配人のあとを郵便局までついていって、郵便物の仕分けをする人たちの方越しにのぞいていたりはしないでしょう。郵便物を配送するトラックの後ろにしゃがみ、それから飛行機に乗って郵便の入った容器の横に身を隠し、その手紙が正しい郵便受けに入るのを確認しようと配送の過程をすべて追跡するようなこともしないでしょう。ばかげたことに聞こえるでしょうが、自分の祈りが自然にたどりつくところまで追って行こうとするのも、これとは大差ないのです。

郵便局の配送システムに関してのジョークはいろいろありますが、ほとんどすべての手紙がそこそこのタイミングで適切な場所へと配送されます。そしてこれは人間によってつくられたシステムです。ですから神聖な手によってデザインされた宇宙の配送サービスに、さらにどれほど効果があるかを考えてみてください。

もし、あなたがすべてのことをコントロールし、自分の思う時間に思い通りにあらゆる詳細が行われるよう確認せずにはいられないならば、手放すということがあなたの祈りのプロセスの中で一番大切な部分になるかもしれません。

もともと自分を祈る気にさせた心の痛みや恐れというのは、ほとんどの場合、深いところで物事が信頼できないという感覚につながっています。

ただ祈りを手放すということが、そもそもあなたを祈る気にさせた状態をコントロールしたいという、がんじがらめな気持ちを手放す手助けとなります。


「最終的に祈りは、私たちが慈しみ深い宇宙に棲んでいるという意識に私たちを導かなくてはいけません」


願いすぎてマイナスの結果を生むことも



適切な時機が来てもさらに祈ることにしがみついているのは、信じる心が欠けているというアファメーションであり、マイナスの結果を生むでしょう。自分の望むものが何かがはっきりし、それを得る価値があると確信し、神に助けを求めたら、それ以上ついやしたエネルギーは仇となって返ってきます。

祈りすぎてしまうとき、じつはあなたは、「神が私の願いを聞いたともこたえてくれるとも思えない。だから望みのものが得られるまでしつこくせついたほうがいいのだ」と言っていることになります。


「忍耐強く祈ることはよいこと。けれども信じる心にはより大きな力があります」

イエスは「からしの種ほどの信じる心があれば、山をも動かすことができる」と言っています。

祈りの中で一粒のからしの種ほどの信じる心があるならば、ブルドーザーで赤杉の森を引きずるよりももっと深い結果が生まれるでしょう。これを忘れないでください。


「祈りはその量ではなく、内容によって効果があらわれます」

あなたの祈りが、神によってもあなたによっても聞き入れられ、ほっとしたり、力がわいてくるように感じたら、感謝をしてそこでやめなさい。あなたにできることはもうしたのです。次は神にまかせなさい。

目には見えない力に守られています。

祈ること、あるいは何かを信じておこなうことは種を植えるようなものです。大地に優しく種をまき水をかけて養分を与え、土をかけたら、育つにまかせます。

畑に毎日戻って種を掘り起しては成長しているかどうか見ていたのでは、種にダメージを与えてしまい、達成しようとしっている結果をはばむことになります。

どんなものでも発芽の前には、表面上、目に見える変化があらわれない時期があります。そしてあなたの信じる気持ちが弱いと、その種が成長しているのかどうかが心配になるでしょう。

でも、目に見えないレベルでいろいろな成長の過程が起こっていることを思い出してください。人間は妊娠の最初の三か月間は子宮内での成長がほとんどわかりません。ところが奇跡のような変化がたくさん起こっているのです。ですから、目に見えない天上の庭師が、あなたの目には見えなくても、叡智に導かれたその種の面倒を見てくれているのだということを信じてください。

「奇跡のコース」はこう言っています。

「恐れというのは、あなたが自分個人の力を信じているというはっきりした証拠です」不安にかられて行動したり、祈ったりするのは、すべてが自分にかかっていると信じている証拠です。

私はあの有名なアトラスが地球を肩に背負っている像をはじめて見たとき、世界が落下してしまわないよう全力で必死になっている彼が、あまり楽しんではいないことがわかりました。アトラスは明らかに大いなる力に気づいていなかったのです。その力は、彼がいなくても宇宙をしっかりと支えていました。

祈りにおいても人生のすべてにおいても、ある程度はあなたしだいです。でも、ある程度は神しだいでもあるのです。

祈りに関する叡智の大部分は、何があなたにかかっていてないがグレート・スピリットにかかっているかを認識することにあります。

占星術の射手座のシンボルのように、私たちは矢を自分の夢の方向に向けて射なければいけません。そしてひとたびビジョンをもち、それを行動にうつしたなら、一歩下がって宇宙が助けてくれるにまかせます。神は奇跡をつくりだしますが、あなたはそのための空間をあけておかなければなりません。

リラックスして、神におこなってもらいなさい。
すべてを自分でやる必要はないのです。そうするよう求められているわけでもありません。
自分の種を植え、それが信頼できる手の中にあるのだと信じることです。


「しっかりと完全な目的をもってビジョンを描き、それから完全な信頼をもって手放してください」

引き寄せの法則の真実

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引き寄せの法則の真実

目にしても信じられないとき



わたしがここで言っているのは、「人生のほとんどの時間は幸せだと信じれば、そのとおりになる可能性がある」ということだ。

だが、こんなことは昔から言われている。新しくもなんともない。

この本は、あなたがいままで聞いたことがなかったことを語る。さきほどの真実の奥にあるもっと大きな真実だ。

その真実はとても大きくて・・・どう表現したらいいだろう・・・・わたしたちが経験したり教えられたりしたどんなことにも似ても似つかないから、すでに二度も言ったように、多くの人々はたとえ自分の目で見ても信じられない。この真実が目の前でかたちになるのを見ても、べつのこととして解釈する。

「百聞は一見にしかず」という言葉があるが、わたしは「マゼランの船」についてお話ししたい。
この話を教えてくれたのは、映画「神との対話」と「インディゴ」のプロデューサー兼監督で、「奇跡の輝き」の共同プロデューサーでもあり、そのほかにも「ビルとテッドの大冒険」などたくさんの映画を製作している親友のスティーブン・サイモンだ。

スティーブンによると、マゼランとその一行はたくさんの島々を探検したのだが、一度も住民の抵抗にあわなかった。

見慣れない格好をしたマゼランや船員たちを先住民が危険な侵入者と考え、丸木船に乗り込んで総攻撃をかけてきても不思議ではなかったのに、そんなことはまったくなく、逆に諸手をあげて歓迎してくれた。


なぜか?
始めたマゼランの船を見たとき、先住民たちは自分たちが見ているものが何なのかわからなかったからだ。

先住民たちは、こんなに大きくて立派なものが人々を乗せて水上をやってくるのを見たことがなかった。高いマストを立てて帆をひるがえす巨大な船は、まったく島民の想定外だったから、それがいったい何なのかを考える基準すらなかった。それでマゼラン一行を神様だと畏怖し、丸木船をもやい、槍を置いて歓迎した。

スティーブンは、これが「マゼランの船シンドローム」だという。つまり、自分の経験をはるかに超えたことが目の前で起こると、どう考えていいかわからなくなってしまう。

ここでお話しする「語られなかった真実」も、ほとんどの人々が教えられたり聞かされたりしてきたこととあまりにもかけ離れているので、人生で実際に起こり、目の前でその効果を表しても、わたしたちには何を見ているのかまったくわからない。

それで、ぜんぜん別のことと勘違いする。

「語られなかった真実」の実現を目にすると、わたしたちは偶然とか、セレンディピティとか、たまたまだとか、ほんのはずみだとか・・・・あるいはとんでもない幸運と呼ぶ。


だが、これは「とんでもない」ものではない。それどころか正反対で、宇宙の最高の知性の働きなのである。



いままでで最も重要な問い



これから始まる興奮に満ちた心の旅は、あなたの人生で最も重要な探求となるかもしれない。だから、あなたはいま、これを読んでいる。だから、あなたは衝動を感じてこの本を手にした。

ここに書かれているすべてを、じつはあなたはもう知っている。自分が知っていることを知らないだけだ。あるいは知っていても思い出すのに苦労しているだけだ。それとも思い出しても、実践方法がわからずに苦労しているだけかもしれない。

このどれかにあなたがあてはまるなら、そうだったのかと目からうろこが落ちる思いをし、それがとても役に立つだろう---つまり「出現のメカニズム」を通して、「出現のメカニズム」がはっきり見えてくる。

そのメカニズムを、これから探ろう。わたしはこれを「個人的創造」の陰にあるパワーと呼んでいる。それは「ものごとがどうして起こるのか」と関係している。どうして現実が現実に「なる」のかに関係している。

ところで、これまで少しだけお話ししたことを聞いて、こう考えるかもしれない。
「なんだ、その話か。知っているさ。前に聞いたよ。DVDもあるんじゃなかったかい?」

たしかにそのとおり。だが、彼らは「語られなかった真実」にはほとんどふれていない。出現や創造についての議論はいつもそうだが、この真実の陰にある真実にはほとんど語られていないから、いまや風前の灯となり、忘れられかけている。誰だって、冒涜的なやつだ。おかしいんじゃないか、と後ろ指をさされるのはいやだからだ。

だが、この隠された真実を語るべき時が来ている。それも一部のひとたちではなくて、全員が語るべきだ。「人生/清明のしくみ」という問題と取り組むスピリチュアルな作家、教師、講演者、メッセンジャーのすべてが語らなくてはいけない。

わたしたちはみんな幸せになれる、人生で望むすべてを体験できる、誰でも自分自身の現実を創造する力をもっていると言うのと、それはなぜなのかを語るのとでは、話がまったくべつだ。

わたしたちはどんなふうに「パーソナルな創造」が行われるのかについてはいろいろと聞かされているし、そのやり方についてもたくさん聞いているが、なぜそうなるのかについてはほとんど聞かされていない。

そこを考えるとたくさんの質問が浮かぶはずだ---そのなかには時代を超えた非常に重要な質問がひとつある。


わたしは講演のとき、それから「スピリチュアルな新生」と題したセミナーで、その質問を聞いてきた。ほかのメッセンジャーたちもきっと聞いているはずだ。そして出演したテレビ番組でも、その質問が投げかけられた。

その質問に充分かつ完全な答えが出たとき、どうすれば「神より幸せ」になれるかがわかるだろう。
2007年二月放送のテレビ番組「オプラ!」で、スタジオにいた視聴者のひとりがこの質問をし、番組が危うく中断しかけた。それは当時、大評判になっていた「引き寄せの法則」をテーマとしたDVDを特集した番組だった。

この「法則」は、何世紀にもわたってたくさんの教師やメッセンジャーが、書物や番組や教室や講演や声明や説教で説明してきたひとつの現象だ。オプラは自分が視界をする人気テレビ番組で、この偉大な生命/人生の原理についてこんなふうに語った。

「これによると、あなたが世界に向かって送り出すエネルギーや思考や感情は、良くても悪くてもつねに必ずあなたに返ってきます・・・だから、あなたは自分で自分の人生を創造しているわけです。わたしも何年も前からこの番組で同じことを言ってきました・・・」

取り上げられた「ザ・シークレット」というDVDは、ポジティブな思考や感情を意識的、意図的に活用すれば望み通りの人生が実現できる、という内容で、オプラの番組のゲストたちはすっかり夢中になっていた。このとき、スタジオにいた女性のひとりが「おおぜいのひとが答えを知りたがっている質問がある」と言い、オプラは彼女に発言を促した」

その女性は立ち上がって、こう言った・・・。
「私も夫もクリスチャンで、子どもたちもクリスチャンです。わたしたちは子供たちに神を信じなさいと教えてきましたが、この「ザ・シークレット」は自分自身を信じなさいと教えているようです。それで不思議に思ったのですが、この教えのなかのどこかに神はおられるのでしょうか」

オプラは、これは良い質問だと考えたし、その気持ちはわたしにもよくわかる。わたしたちはたいてい子供のころから、「困ったとき、あるいはほんとうに大事な願いがあるとき、頼るべきは神さまだ」と聞かされてきた。

おおぜいのひとたちがそう教えられてきたのではないか?文化や宗教は違っても、とにかく「神性」を信じる者であれば、良いことはすべて神が与えてくださると思っているのではないか?それが「神」のいちばん大切な役割のひとつではないのか?

ところが一部の教えや本では、奇跡が必要なとき、健康になりたいとき、もっとお金が欲しいとき、完璧な配偶者と出会いたいとき、自分にぴったりの仕事を見つけたいとき、あるいは単にもっと良い人生を送りたいとき、自分のなかにあるパワーを利用して「はっきりと言葉に出し」さえすればいい、それで望みはすべてがかなう、という。

こんなドラマチックな主張があるだろうか?
わたしたちはもう一度たずねなければならない。このなかのどこに神はあてはまるのか?
前に言った事---わたしたちには神は「必要」ない、なぜなら神はつねにわたしたちとともにいるから---が真実なら、このなかのどこに神はあてはなるのか?

「パーソナルな創造のプロセス」のなかで、神はどんな役割を果たしているのか?


悪魔の仕業か、神の御業か?



「パーソナルな創造」が、どうしてわたしたちの人生における神の役割を減らすどころか増大させるかを理解するには、「出現のメカニズム」に関するすべてを知らなければならない。このメカニズムの全容を解明し、同時にこのメカニズムを支えている生命/人生の原理を知る必要がある。

「パーソナルな創造のプロセス」とは、じつは三つの現象がひとつになったものである。
最初の現象は神と関係し、二番目の現象はあなたと関係し、三番目の現象はあなたと神の両方に関係する。

べつの言い方をすれば、「人生/声明の秘密の公式」のひとつは「わたしという存在」で、二つ目が「あなたという存在」、三つ目が「どのように」ということだ。

ほとんどのひとたちはこの三つの側面のどれも深く理解していないという事実---それが、「引き寄せ」の原理が「秘密」と言われる理由である。

なかには、「引き寄せの法則」を活用してみたがうまくいかなかった、これは使えない、がっかりした、と言うひとたちがいる。それはきっとデータの一部しか使わなかったからだ、とわたしは思う。

また、どれほどデータをもっていても、これは「悪」かもしれないと感じるから---自分にパワーがあると思わせてエゴを誘惑し、神への信頼からわたしたちを引き離そうとする悪魔の仕業ではないかと思うから----「引き寄せ」や「パーソナルな創造」などとはいっさいかかわりたくない、と言うひとたちもいる。

このプロセスから尻込みするのは、保守的な信者だけではない。神を中心にした人生を送りたい、伝統的な宗教の中でも外でも「神性」との個人的なつながりを経験したいと考えているひとたちの多くも含まれる。このひとたちのすべてが、「自分の現実を創造するのは自分だけだ」という主張に、すんなりうなずけるわけではないからだ。

それから宗教とはべつに、証拠や理性や論理で説明しきれないことは不合理であり、自己欺瞞につながるだけだ、と信じる合理主義者もいる。

じつは「パーソナルな創造」には悪魔的な面あるいは不合理な面もまったくない。
だが前にも言ったとおり、このプロセスの大半はこれまで充分に説明されてこなかった。そう、いままでは。

安らぎのビジョン・神の愛

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安らぎのビジョンを吸収してください



聖書の中にあるすべての詩の中でも、詩篇第二十三節は平和をたたえる偉大な詩歌です。この崇高な作品の中のイメージは、一生をかけた瞑想となるでしょう。そこに描かれているいろいろなビジョンを自分の心の中にしっかりと吸収すると、深い安らぎと、たましいが豊かになるのを感じるでしょう。この言葉を何度も何度もくりかえしたことがあるかもしれません。
でも、本当に心からそれを感じた事がありますか?
ここで一行ずつ読み、そこにふくまれた大切な贈り物を引き出してみましょう。


「主は私の羊飼いである」

羊たちがゆったりと草を食む、緑豊かな谷間を思い描いてください。羊飼いは細心の注意を払ってその群れの世話をします。栄養を与え、狼たちから守り、ごつごつとした岩場や沼をさけるよう導きます。

私たちにも羊飼いがいます。生きた神というグレート・スピリットです。
そしてそれは私たちの繰り返す呼吸すらすべて知っていて、いつでも私たちを守り、私たちの健全のために導きを与えてくれています。


「私には何も欠けることがない」

私たちはつねに幸福になるために必要なあらゆるものをもっています。
私たちは完全であり、豊かであり、祝福された存在であり、必要とするあらゆるものを与えてくれる慈しみ深い宇宙うに住んでいます。欠けるものは何もなく、本質的に内包する豊かさを思い出して実行するなら、私たちは広大で驚きに満ちた領域にある豊かさを楽しめるでしょう。


「主は私を緑の草原に導き休ませてくれる」

森の中にハイキングに行き、突然視界が開けて草原が広がったという経験はありませんか?やわらかな緑の草の床に体をのばして横になり、疲れた筋肉をゆるめて深呼吸を数回し、パウダーブルーの空にゆっくりと流れる綿雲を見つめます。

神の腕の中に安らいで無限の愛の存在の豊かさを受け取るとき、このような休息がやってくるのです。

神は怒りに満ちて天罰を与えるなどという思いはきっぱりと手放し、地獄がやってくるという思いを、必ず天国に行くことになっているのだという思いに置き換えてください。愛の神は炎の中で煮えたぎる大釜にあなたをたくすのではなく、安らかな田園の避難所へとあなたを歓迎します。

どんなことをしようとも、天国が否定されることはないのです。
神の子のすべては、最後には故郷に戻るのです。いつどのように到着するかは、あなたしだいです。それでもあなたの運命と安らぎは保証されています。


「主は私を静かな水のほとりに導く」

水は感情をあらわします。静かな水は感情の安らぎとおだやかな休息感をあらわしています。

静かな水面には自分の真の姿がそこに映っているのが見えますが、さざ波のある水面にはそれを映し出すことができません。内なる導きに従うと、私たちはすべてが休息する場所にやってきます。

自分に正直になりなさい。そうすれば、あなたは自分も他人も世の中のことも、許しの愛の中ではっきりと見ることができるでしょう。


「主は私のたましいを生き返らせてください」

私たちは安らぎという故郷に戻ってくると、たましいを取り戻します。
でも実際には、たましいを失うなどということはありません。なぜなら、それは自分そのものであり、唯一の真のアイデンティティーだからです。ただ私たちは、この俗世に幻惑されてたましいに触れることができなくなり、空虚な人生を生きています。

自分のたましいを知り、たましいが語る真実を生きること以上に大切なことなど何もないのです。

イエスが教えたように、全世界を手にしてもみずからのたましいを失ってしまうなら、あなたは何も手にしていないことになります。そしてこの世で何も手にしていなくても、みずからのたましいと調和しているのなら、あなたはすべてを手にしているのです。

自分のたましいにふれることができなくなってしまい、それをまた取り戻すことほど大きな恵みはありません(「かつて私は道に迷い、今私は見つけ出された。かつて私は目が不自由だったが、今私には見える」)。


「主は御名にふさわしく、私を正しい道に導かれる」

誰にでもそれぞれにとっての正しい道があります。ひとたび自分自身の唯一の道を見つけたなら、私は故郷への道のりにいることになります。

「正義」という言葉は、独善的になることでもなければ、宗教的な正義をあらわしているわけでもありません。それはみずからの運命と調和しているときに体験する、これでいいと思える感覚をあらわしています。

私は自分にふさわしい道にいるときには、神とともに歩き、自分がひとりぼっちではないとわかります。

そして導きはより高い力からやってきます。そうなると、必死に努力せずとも自然に、他の人々にもみずからの道を見いだすよう啓発することができるのです。


「私は死の影の谷間を歩けど、主が私とともにあるから悪を恐れることはない」

この一節のキーワードは、「影」という言葉です。
この言葉は死が現実のものではなく、一時的に光をさえぎる影なのだということを伝えています。

太陽は雲の影に隠れて見えなくても、だからといってそこにないわけではありません。ただその時点で、太陽の光が自分の目には見えないだけのことなのです。この世では死が現実のことに見えます。そして死への恐怖がさまざまなかたちでこの世を狂気へと駆り立てるのです。

神が存在し、生が永遠であることを思い出すなら、私たちは恐れに突き動かされる世界を自由に歩き回りながらも、みずからの強さと明晰さを保つことができます。

悪を恐れる必要はありません。それには何の力もないのですから(私たちがそれに力を与えないかぎり)。
イエスは言いました。
「災いは善で乗り越えなさい」
同様に、恐れは愛や信じる心で克服するのです。



「あなたの鞭、そして杖が、私の安らぎとなる」

羊飼いは杖を使って群れを危険から守り、無事でいられるような方向へとうながします。人生の苦痛や困難は、みずからが本当は何者であり、どこに行こうとしているのかを思い出すきっかけとなります。困難は私たちを目覚めさせ、故郷への道を見せてくれるのだと祝福することができます。


「あなたは私の敵を前にしても食卓をととのえてくださる」

私たちの真の敵は他人ではなく、欠乏や制限された思考であり、それらは私たちの安らぎを奪い取ってしまいます。自分たちや他人、あるいは世の中に欠陥を見つけたとしても、善は私たちのもとに流れ続け、神の存在は私たちの心の迷いのために消え去ってしまうことはありません。

神は現実であり、恐れは虚実です。「奇跡のコース」は、この点についての教えをこうまとめています。

「現実であるものはまったく脅かされることはない。現実でないものは何も存在しない」



「あなたは私の頭に香油をそそいでください」

古くは富裕な人々や高貴な人々が、その豊かさのしるしとして香油を髪につけていました。神聖なる存在の高貴な子どもである私たちは、スピリチュアルにも物質的にも王者の子がもつあらゆるものに値してるのです。


「私の杯をあふれさせてくださる」

これは豊かさの完璧な象徴です。
おびただしいよりものを与えられ、私たちはほとんどかかえききれていないのです。あなりを見回し、あなたにそそがれた贈り物の数々を見てみてください。私たちの人生は祝福と奇跡に道は溢れ、それは友と分かち合うに十分です。

私たちは自分の中にあるものをどんどんへらしているのではなく、拡大しているのです。



「命ある限り、恵みと慈しみがいつも私についてくる」

人類が思いつく取るに足らないすべての法則を超えたところに、恵みの法則があります。自分や互いをどれだけ批判したとしても、必ず愛が勝利の手綱を取ります。みずからを批判しても、神は許し無垢であることを気づかせてくれます。
愛や心の支え、安心といった意識の中に住むとき、私たちは易しく思いやりのある宇宙に生きていると教えてくれる体験を自分に引き寄せるのです。


「そして私は主の家に永遠に住むだろう」

それ以外に住むところなどどこにあるでしょう。個別に存在するかのような幻想をもたらすこの肉体から去った後も、私たちは神の永遠の故郷に戻るのです。

そうした永遠の本質を楽しむのを、肉体がなくなるまで待つ必要はありません。安らぎという本質野の中にリラックスしていくとき、私たちは今この瞬間にそれを知ることができるのです。


もっともよいものが与えられると信じましょう



神は私たちが苦闘するのを望まず、安らぐことを喜ぶと少しでも理解できたら、あなたは求めていた自由にまっすぐ向かっていることになります。
祈りの時間を、楽しくてゆとりのあるものにしてみてください。それができたなら、日常生活にその祈りと同じ姿勢を広げてみてください。

あなたの王国の中に、リラックスして入っていってください。神はあなたにもっとよいものをもたらすと信じてください。
そうすれば、あなたの人生は祝福されて喜びに満ち、なぜ望みのものを得るのに苦闘しなければいけないなどと考えたのだろうといぶかしく思えるでしょう。
唯一あなたが望んだことは愛なのです。
そして神が与えてきた唯一のものは、まさにその愛なのです。
そしてこれからも神は愛のみを与えるでしょう。


「神とともに物事を決めることを学んだなら、どんな決断も呼吸と同じくらい楽で適切なものとなります。肩に力を入れることなく、静かな夏の小道を抱いて選ぶかのように優しく導かれることでしょう」



苦闘を手放して安らぎを得る祈り



私は不安にかられて必死になることをすべてやめ、愛あふれる神の強くて優しい腕の中で安心します。 恐れや世俗での苦闘を横に置き、たましいの奥深くのやすらぎを歓迎します。 神様、私の人生のすべてを真に惜しみなく世話してくださることに感謝します。 私が必要とするときにはいつでもそこにいてくださり、私が背を向けたときにも、あなたは私を捨てませんでした。 あなたが与えてくれた豊かな贈り物に、心もマインドも開きます。 そして、喜びとゆとりある心で進むことを祝います。 私はあなたの愛する王子であり、あなたは私に満足しています。

天国に住むためのビジョン

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物はただ楽しみなさい



私がマリオット・ホテルのロビーを通り抜けようとしたとき、隣接する会議室のスピーカーから女性のがなりたてるような甲高い声が聞こえ、不快感を覚えました。

「そして今、マリー・ケイ社(ネットワークマーケティングで化粧品を販売している)のマネージャーとして、ピンク
・キャデラックのレベルを達成した方を紹介する光栄にあずかります・・・」

それからその名前がスピーカーから流れ、われんばかりの拍手がその会場から鳴り響いてきました。

大喝さいが周囲に反響する中、私の頭には「ピンク・キャデラックのレベル」という言葉が何度も繰り返されました。ピンクのキャデラックは何を表しているのでしょうか。成功、プライド、そして人に認められること。それらは誰もが探し求めるものであり、与えれるべきものです。

しかし、私はこう思わずにはいられませんでした。人生にはピンクのキャデラック以上のものがあるのではないか。ピンクのキャデラックを手にすることが幸せになることなのだろうか。その車は本当に探し求めているものなのだろうか。それともまだほかにあるのだろうか。

私はピンク・キャデラックのレベルに到達した人、あるいはそれと同等の人をたくさん知っています。なかには幸福な人もいますが、多くは幸福ではありません。

そして唯一確かなことがあります。ピンクのキャデラックが自動的に安らぎをもたらしてくれることはありません。それ以上に不安をもたらすことのほうがしばしばです。

一度ピンクのキャデラックを手にすると、それに保険を掛け、鍵をかけ、誰が運転するかを決め、修理をし、一方の目では泥棒を心配し、もう一方の目ではピンクのベンツを持つ人を見ているのです。ピンクのキャデラックを持ちながら、ただそれを楽しめる人はめったにいません。

ピンクのキャデラックを持ち、なおかつ幸福でいる人々を観察してみると、彼らはキャラックがあるから喜びを感じているのではなく、ただ喜びを感じようと決めているのです。

多分、それがピンクのユーゴ(ユーゴスラビア製の車)であろうと、ピンクのマウンテンバイクであろうと、同じように幸福でいられるでしょう。それは人生を感謝の目で見ることを選んだ人々で、キャデラックはたまたま、そこにあるだけなのです。さて、ここには何らかのメッセージがないでしょうか?

手に入れる価値のある大きなピンクのキャデラックは確かに存在します。でも、それは車ではありません。

ピンクのキャデラックの真の意味は、神の安らぎです。それは目を向けるところすべてに愛と美しさを見出そうとする意思であり、自分や他の人々をあるがままに評価することなのです。

「奇跡のコース」は、私たちが「神の安らぎがわたしの唯一の目的である」とアファメーションするよう促しています。

神の安らぎがあるなら、他に何もないとしても、私は天国に住んでいることになります。

大きなピンクのキャデラックがあっても、神の安らぎが欠けているなら、私には何もないことになります。

では、私たちはピンクのキャデラックを避けたり、俗世的な「物」には背を向けるのでしょうか。お金を持つ人々を見下し、物質的な快適さを味わう人々をねたむのでしょうか。

決してそうではありません。私たちはこの世にある物でたわむれ、楽しみます。ただし、それらに自分の人生を支配させはしません(「あなたの所有物の方があなたを所有する」という言葉があります)。

物質的な目的を批判して笑い、馬鹿にするのでしょうか。

いいえ、そうではありません。私たちはそれらを使って具現化するという技を練習するのです。俗世間的な目的を達成する技術は、スピリチュアルな目的を達成する手助けとなります。

ユダヤ教に伝わるある話によると、ある朝早くに、数人の男たちがラビ(会衆の指導者)のところにやってきて文句を言いました。

「ラビ、ユセフとサムエルトベニヤミンが徹夜でトランプをしていたのでお知らせしておきます」

「すばらしい」

賢いラビは笑いました。

「なぜ【すばらしい】などと言えるのですか」一人の夜警が言い返しました。「ギャンブルはわれわれの教えに反しています」

「そうです、それが教えですね」とラビは答えました。「でも、ギャンブルをおこなっていた人々は、みずからのたましいの道に役立つ技術を手にしたのですよ。好きなことをするために徹夜したということは、その心が神に向いたときには、神がつかえるために徹夜ができるでしょうから」


背後にある人生の質を求める願い



物を求めて祈るとき、私たちは本当はその物があらわす人生の質のほうを求めているのです。

たとえば、そのグラミー賞は、あなたにとってどんな意味があるのでしょう。

その賞はあなたに才能があり、高い評価を得、人々の注目に値することを認めるものです。それは社会的にあなたの仕事が成功していることをあらわします。そして仲間たちからの賞賛を集め、より大きな豊かさへと新たな扉を開いてくれるのです。ですから、本当に大切なのはグラミー賞そのものではなく、あなたの才能が認められることであり、あなたにふさわしい敬意が表され、成功する才能が認められることです。

もし、あなたが他にはないすばらしい資質を与えられていて、名誉に値し、望む物をなんでも具現化する才能が与えられていると知っていたなら、グラミー賞がそれほど重要となるでしょうか。たぶん、そうではないでしょう。

グラミー賞はより深いものを象徴しているにすぎないのです。その深いものに自分のマインドと心を集中したなら、グラミー賞は目的ではなくなり、みずからの美と価値の裏付けとなるでしょう。


「何か物質的なものを求めるときには、まず自分は豊かな存在であり、そして、この宇宙は、幸福となるために必要なものすべてを手にする援助をしてくれるのだと知ることからはじめなさい」

自分が誰であり、何に値するかを知ると、必要な物すべてを引き寄せるようになります。

もし望むなら、ピンクのキャデラックを求めなさい。でも、車はあなたのスピリチュアルな資質を引き出す手助けをするひとつの目的のであるにすぎません。

私のセミナーに参加していたチャーリーという男性がこう話してくれました。
「私の心からの望みはずっと、ワールドカップのサッカーチームで試合することでした。でも私はもう50歳で、これからそうなることなどほとんどあり得ないことです。私はどうやって望みのものを手に入れたらいいのでしょう」

私は、「ワールドカップのチームで試合をしたら、どんな気分になると思いますか」とチャーリーに尋ねました。

「広々とした場所で自由に走り、勝利を得た心の高揚を味わいたいのです」

そう彼は答えました。

「では、あなたのたましいを揺り動かすのは、サッカーの試合そのものではありませんね。自由と勝利を得たいという感覚を望んでいるのですね」と言ってみました。

「まさにその通りです」

チャーリーに自分の人生のことを話してみるようすすめると、彼は仕事で追い詰められた状態にあり、うまくいっていないと感じていると話してくれました。

いくつかの案をいっしょに練り上げてみた結果、自己懐疑や恐れの感覚よりも、内面の自由や勝利といった感覚をもっと実現できる活動がいくつかあることがわかりました。そして今の人生で、自分がもっと生き生きとし完全であると感じられたなら、たぶんサッカーチームで試合をするかどうかが問題ではないのだということで一致しました。

別のセミナーでは、ジョエルという男性が、1996年までにアメリカ大統領になるという生涯の目的を達成できなかった自分に憤っていると告白してくれました。

私はジョエルに尋ねました。
「なぜ大統領になりたいのですか」
「世界を抑圧から自由にしたいのです」と彼は答えました。

「あなたは自分が自分の期待にそえないことで、ずいぶん自分に厳しくなっているようですね」
「私は自分にとてもがっかりしているんです」
「では、まず自分自身を解放することで、この世の抑圧を取りのぞく第一歩をはじめてみてはどうですか」と私は提案してみました。「自分自身のマインドを癒さない限り、真の意味で他者を助けることはできません。自分の罪の意識から解放できたなら、この国の大統領になるよりも人類のためにより大きな一歩を踏み出したことになるでしょう。自分自身の人生の大統領になりなさい。そうすれば、すべてはそれについていきます」

では、自分の人生の中にもたらしたいと祈っている状況や物のリストをつくてみてください。

できたら、それぞれの項目の下に、その対象物が自分にとってどのような意味を持つのかを欠いてくだ足。

たとえば「恋人がいる」ということは、「自分が人から愛される人間だと思える」、「家を持つ」ことは「安心感を与えてくれる」、「子供を持つ」ことは「自分自身のインナーチャイルド(内面にある子供の部分)を引き出せる」などといったように。

そしてそれと同じか、より深い達成感を得るにはどうしたらよいか、自分の内面を見つめ、その神聖な性質や能力に触れてよく考えてみてください。

私たちは人生に対して逆さまのアプローチをしているのです。
できるだけ物を集めれば、その物の意味することを吸収したり、それ自体になれると信じているのです。

でも、その意味や性質自体を自分の内面に発見することができれば、外界があなた自身のすばらしさを反映してくれるでしょう。そうなったら、この物質界での活動は、ドラマチックだったり闘争的だといった感覚がなくなり
、人生は苦闘というよりむしろゲームになるのです。

「グレート・スピリットの中に確立しているとき、外の世界に自分の善を探し求める必要はありません。善をみずからの内に認識すると、必要なものはすべて引き寄せられてきます。」


そうすればピンクのキャデラックを手に入れられるかどうかなど、心配しなくてすむようになります。

あなたの意識の中でそれを手にすることになっているのなら、それを得ようと必死に闘わなくてもそれは姿をあらわすでしょう。そして、それがあなたにとって必要のないものなら、なくてもどうということはないでしょう。

天の王国は、あなたの内に存在します。そして、その他のすべてのことは、ケーキのデコレーションのようなものです。
あなたは黄金そのものなのです。

「まず天の王国を求めなさい。そうすればすべては与えられるだろう」(イエス・キリスト)



人生の質を求める祈り


私が本当に望むものは、愛と安らぎだけです。スピリチュアルな存在である私は、物質的世界に集中している意識を解き、グレート・スピリットの贈り物だけが私を満足させることを思い出します。私が探し求めたあらゆるものは、今この瞬間に私自身の存在の中にあります。みずからの力、成功、豊かさを自分の中に見つけます。そして物質面での望みはすべて、喜びと安らぎのうちに満たされると信じています。



ビジョンを自由につくりだしてみましょう



「あなたのいちばん大好きなことが、今あなたのいる場所からあなたの夢への最短距離なのです」
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楽しい空想をしてみましょう

あなたは学校でよく空想にふけってすごしましたか?学校の机の上に彫られた数多くの凝った模様は、若者たちのマインドがここにあらずだったという事実をよく物語っています。教師たちはそうした空想に耽る生徒を罰しましたが、それはじぶはとても大切な創造的能力のひとつなのです。

心理学者のパトリシア・サンはこう言っています。

「学校では、空想することをやめさせるのではなく、芸術のひとつとして教えるべきです。毎日ある一定時間を創造的な空想にあてるべきです」

そうすれば学校教育の制度も、教育のもともとの目的を達成するでしょう。教育という言葉はラテン語のエデュケア、つまり「内側から引き出す」という言葉からきているのです。

教師や親は子どもが空想にふけるのをしかるとき、それが強力な祈りの形態をはばんでいることに気付いていません。空想している時、私たちは変性意識の中に入っていき、そこでは内にそなわるアイデアや発明のいくつかは、そうやって自由にはせたマインドから生まれました。私たちにはもっと創造的な空想をすることが必要なのです。


「何をすれば自分が幸福になるのか考えてみること」

喜びを感じることに意識を集中すればするほど、マインドはあなたのその喜びにあふれたビジョンを具現化するようなアイデアを惹きつけます。あなたに元気をもたらすことに意識を集中するならば、あなたが見出し得る成功やよろこびには限りがありません。

私は大学を卒業したてのころ、青年のための奉仕センターのディレクターという魅力的な求人広告を新聞で見ました。そのチャンスに私はとても興奮し、その職についたら何をしようか想像してみたのです。メモを取ったりプロジェクトの構想を書いたり、どんなユニークな活動をつくりだすことができるか、アイデアを出してみたりしました。そして面接に行ったときには、すでにその仕事の全体像の計画があり、役員たちを驚かせました。その役員たちの私ともう一人の応募者への投票は5対4となり、私にその職が与えられました。

今になって思えば、私がその職につけたのは、私がそれにとてもわくわくしていたからです。あの楽しい空想が現実に結果を導き出したのです。

「熱意は成功の種子である創造性をつくりだします」

物事を具現化する基本として二つの鍵となる要素があります。

「望み+信頼する心=結果」

強い望みはおのずとビジョンを描くエンジンとなります。

あるアイデアがあなたの心に火を灯す時、あなたは自然にそれを自分の心の中にとどめておきたくなるでしょう。

乗り気のしないアイデアには、それに時間を浪費しないように。
熱意という言葉は、ギリシア語のエンテオス、つまり「神の中に」という意味に由来しているのです。

熱意があるとき、あなたは神聖なるものとつながっているのです。喜びは楽園へのパイプラインであり、そのつながりを開いて流れ続けるようにしたら、あなたは天国をこの地上にもたらすことでしょう。

信じる心は、望みというエンジンに乗って走るトラックです。何かを強く望んでも、それが実現すると信じなければ、あなたはそれをなしとげる可能性をひどく制限していることになります。

信じる心というトラックは、あなたが今いる場所からいたい場所へと走っていかなくてはなりません。そうでなければトラックは道に迷ってしまいます。

あなたは信じるものを望まなくてはいけないし、望むものを信じなくてはいけません。

足りない」ことへの否定と感謝

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「足りない」ことへの否定と感謝 あなたは四六時中「自分に足りない条件」を考えています。あなたは「足りない条件」を満たすことで、何とか「形のうえでの完全さ」を整えようとがんばっているのです。どんなに「足りない条件」を整えても、内側が100%満ち足りることはないとあなたが気づくまで、その奮闘は続くことでしょう。

「足りない」という問題



さまざまな悩みや問題、障害の原因は「自分は切り離されてしまった肉体という存在なのだ」といった錯覚の上に成り立つ「不足と欠乏」という思い込みによるものです。あなたは自分自身や世の中に対して「なにかが欠乏している」「足りない」という思い込みを持っているため、それが現実的障害や病気となって現れているのです。

自分には価値が足りない、財産が足りない、知識や学歴が足りない、食べものが足りない、住居の広さが足りない、友人が足りない、体力や若さが足りない、美しさが足りない、時間が足りない、想像力が足りない、実行力が足りない、社交性が足りない、実績や成績が足りない、地位と名誉が足りない、知名度が足りない、成功数が足りない、遊びの幅が足りない・・・。

あなたは四六時中「自分に足りない条件」を考えています。あなたは「足りない条件」を満たすことで、何とか「形のうえでの完全さ」を整えようとがんばっているのです。どんなに「足りない条件」を整えても、内側が100%満ち足りることはないとあなたが気づくまで、その奮闘は続くことでしょう。本来、愛とは条件がつかないもののことだからです。「~だから愛してあげるね」という条件がついたものは、古い奴隷制度、ごほうび制度のなごりであり、洗脳コントロールでしかありません。「愛して認めてあげる」という他人からの餌によって、あなたの人生のすべてが他人の都合のいいようにコントロールされてしまうだけなのです。

愛と愛情はまったく異なる波動です。愛は愛情のようにベタベタしていません。けれども私たちは「愛とは愛情」だという誤った信念を持たされています。そしてこの「愛情」においても、あなたはその他の物質と同様「自分には愛情がまだ足りない」と思い込んでいるために、なるべく多くの愛情を独占しようと奮闘してきたのではないでしょうか?できる限るたくさんの人に好かれようとするのも、たくさんの人に人気がある方がいいと思うのも、すべて「不足と欠乏」への恐怖から生じる反応パターンなのです。とにかく人よりなるべく多く所有することが良いことであり幸せなことなのだと、あなたの頭は洗脳されているのです。

「人生は不足と欠乏ばかりで、しかもそれは非常に悪いことである」という恐怖感に動機づけられたプログラムの存在に気づく必要があります。そしてこのプログラムの存在理由が、人生の側面の一つを「恐怖感として体験することが目的」であることを理解し、もうその経験をわざわざ選ぶ必要がないこと、そしてその「不足と欠乏のプログラム」自体が「悪」でもなければ、その経験も恐怖も「悪」ではなかった、ということを理解する段階にあなたは到達しているのです。

これまでの歴史で繰り返されてきたように、時代ごとの権力者たちが世界を手に入れようと戦い続けてきたことも、心の奥に、「不足と欠乏」の思い込みがあるからです。そして一番根底にある信念が「足りないことは悪である」という思い込みなのですから、ただ足りないだけの状況が「悪い状況」として創造されてしまうのです。よく考えてみてください。足りないスペースがあるから、新たなことがそこに展開できるのです。足りないことにもきちんとした役割があるのです。

「足りない」ことをあなたが「悪い」という発想で色づけしているから、あなたの解釈通りに足りない状況を悪い現実にしているだけなのです。「足りない」という発想は、足りない状況自体は本来「悪」でもなんでもないのです。ですから拒絶することをもうやめてください。足りないことが不満であるのなら「足りない」と信じている考えを選ばないでください。

大切なことは条件なしであなたがあなたを愛することです。ありのままのあなたを愛すると決めてください。あなたの両親も、先祖も、あなたを条件なしで愛する方法がわからず、そんな愛を知りませんでした。知らない、体験していない、学んでいないことを、子供に与えることはできません。ですから親のせいにもしないでください。

今から、あなたから始めてください。
自分で自分を無条件に愛することを。

「何も成さなくても、ただそこに息をしているだけで、あなたは最高の存在なのだ」と、あなたがあなたに教えてあげてください。そうすれば、自然に充実感があなたの内側に満ち溢れ、あなたの呼吸が深くてゆったりとしていくでしょう。そしてあなたの呼吸が、あなたの現実人生の質を深くてゆったりとしたものに変えていくのです。


願いが100%叶い続けることの悲劇


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空間からものを取り出すことができる人のことは「奇跡の人だ」と褒めますが、空間に物をなくす人のことはあまり奇跡とは認識していなかったりします。実は私はよく空間に物をなくします。

先日もふと「仕事部屋でチベタン・ベルを鳴らせ」というメッセージが降りてきて「なぜ?」と思いながらもベルを保管している引出しを開けたら・・・「な、ない」のです。
そうなのです。そこにあるはずのベルが消えていたのです。たしか前回は、レイキ(ヒーリングの一種)を受けにいらした相談者に使用したのですが、その後はしまったままのはずでした。しかし見当たらないのです。別の場所には絶対に保管しません。時々なくすので、絶対に場所は変えないようにしているのです。

そしてそのできごとの二日後のことです。喫茶店でたくさんのチャネリング情報が降りてきたので、たまたま持っていたコピー用紙に必死で書きとめ「あとからブログに載せよう」と思い、一気にコーヒーを飲み干して急いで自宅に戻り、カバンを開いてみたら・・。「ない!」書いたばかりの資料が・・・ないのです!

以前からもう何回もこんなことが起きています。一番大事にしていたお気に入りの帽子も、ほんの数秒玄関に置いてからリビングに向かう途中、嫌な予感がしたので引き返したら、なくなっていたこともあります。数年前に、主催していた透視講座のために用意したテキスト資料を「絶対になくすまい」と指さし確認してカバンに入れ、そのカバンを玄関に置いてトイレに行き戻ってきたら、その資料だけが消えていたのです・・・。

このときはさすがに我慢の限界を超え「ふざけないで!いいかげんにしてください!」と天に向かって叫びました。スーパーサイア人のように、頭の毛が逆立つほど怒りが込み上げてきたのです!なくす、失う、喪失するというできごとが「良くないことだ」という思い込みが私の中にあり、それらのことを、私自身がまだ「祝福」できていないことを、イヤというほど思い知らされました。物を空間から出す自分は存在価値があるけれど、物をなくす自分はダメだというプログラムがあったのです。

そしてこんなことを思い出しました。もう8年前、ある20代後半の女性の相談です。これまでの相談の中で、彼女の相談ほどビックリする内容に出会った事はありません。彼女はこういいました。

「私は昔からすべての願いが必ず叶うのです。100%です。全部叶うことがどれだけ苦しいかわかってもらえますか?」

私は一瞬「?」となり、からかわれているのかしら?としか思えませんでした。しかし2万円払ってまで人をからかうことはないはずですから、私はカウンセリングのために真剣に話を聴きつづけました。彼女は特に目立って美人でもかわいいわけでもなく、普通の女性ですが、勉強もでき、健康で病気もせず、事故にも遭わず、家も裕福、スポーツもでき、好きな男性は全員ゲットし、結婚もできて、とにかくどんな内容であっても思うとすぐに叶ってしまうのだそうです。

「もう今後の人生も全部思い通りになることがわかっています。そんなふうに100%わかってしまっていることが苦痛なのです。願いが叶わないとか、苦しみがあるとか、それがいったいどんなことなのか本当にわかりません。きっと不倫でもすれば苦しくなれるのかと思って実行してみましたが、苦しくなれませんでした」

「・・・・?」という感覚の私。

そして彼女は私のところに来られた段階で、ホームレスの仲間に入っていたそうです。しかし洋服も不潔ではなく、白い木綿のブラウスに白いスカートでなんともまあ品格のあるホームレスです。彼女は話を続けます。

「ホームレスになったらきっと不幸がわかるかもしれないと考えたのですが、特に不幸でもなう、やっぱり普通なのです」
彼女は陰陽でいうと陽極(プラス)の「MAXレベル(極限)」にいるわけです。そして彼女がどんなに陰極(マイナス)を望んでも得られないのは、陽極(プラス)への感謝と祝福がないからです。一般人とは真逆の悩みですが、必ずしも「何らかの状態」や「特定の状況」が人を幸せにするのではないということを教えてくれたできごとでした。

私たちは、なくす、失う、手放す、出ていってしまう、別れる、などに対しては「良くない。不幸なこと」というプログラムを持っています。マイナスは良くないという洗脳プログラムです。逆に手に入れる、得るというプラスのみが、すばらしいというプログラムを持っているのです。この「陰陽の両極」あるいは「表の裏の両面」に対して、心の底から「祝福」「感謝」「お祝い」することが、あなたの人生のバランスを取り戻すための最優先事項です。そして人型生命体(人間)としての本質は栄えることにあり、手に入れることはすばらしいことなのですから、どんどん手に入れ、得ていいのです。ただ離れていくことや去っていくものにも否定感を持つ必要はありません。手に入れることと手放すことで陰陽一対です。

これも久々に思い出したことですが、5年以上前のことです。「裏大黒を忘れるな」というメッセージが降りてきたことがありました。そのときは意味がわかりませんでしたが、今頃になってようやく理解できたのです。なくす、出ていく、別れる、それらを象徴するものが「裏大黒」だったのです。
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