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潜在意識の法則・想定の法則

潜在意識の法則・想定の法則

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真実
ここからは、真に開かれた精神だけが入れる領域だ。本当は、宇宙の大変動ですでに入っているのだが、もし、それはおかしい、信じられないと思う人には映画『マトリックス』..

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願望実現
コンタクトベティ・シャインへの3度目の訪問は私の人生を変え、私は思ってもみなかった旅へと向かうことになった。治療用の寝椅子の上で、ベティに左ひざのあたりを治療し..

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願望実現
「渇望スポット」を刺激する「神経マーケティング」肉体コンピュータがどのように反応するかプログラムされた内容に基づき、日々の生活に反応しているのは、細胞(DNA)..

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真実
液体的物質世界(ドリームタイム)に回帰するときが来た!真実を伝えたいならば、笑い話にするほうがいい。そうしないと殺される・・・心(マインド)の大転換をもたらした..

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願望実現
人に助けを求めるな私はアジアに行って勉強し、そこの人たちと話し合ったことがあります。私は宗教の表面性を打ち破って、自分が骨身にしみて感じるもの-----私は論理..

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非二元
凡庸な精神数日間、雨が降り続いていた。間断のない大雨、そして北東からの強い風が吹いていた。しかし、この朝はすっかり晴れ渡っていた。青い空、暖かな日差し、そして海..

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願望実現
あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもない。わたしたちは気づき・意識。過去もなく、未来もありません。いま、ここしか、直接性しかない..

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願望実現
この世界は幻想であるとおっしゃいましたが、これはどのように見つけられたのですか?この質問の裏にある質問は、こうですね。「この世界は幻想であるとおっしゃいますが。..

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願望実現
依存、執着のあるところ、愛はないそれで、心理的に私たちの関係は依存に基いています。だから恐怖があるのです。問題はどのようにして依存しないようにするかではなく、私..

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願望実現
欲望における苦痛は欲求不満の恐怖である私たちの大部分にとって、欲望は大きな問題です----財産への欲望、地位や権力、快適さ、不死や継続への欲望、愛されたいという..

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「ジャンク」DNA

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ここからは、真に開かれた精神だけが入れる領域だ。本当は、宇宙の大変動ですでに入っているのだが、もし、それはおかしい、信じられないと思う人には映画『マトリックス』のセリフを贈ろう。「シートベルトを締めろってことだ、ドロシー、カンザスとはバイバイするのさ」

地球の光景は荒廃をきわめていた。人類はほとんど生き残っておらず、すべてをもう一度やり直さなければならなかった。いわゆる「進化」を信じるということは、ひとつの種が無知の状態から知識と可能性を増大させていく、持続的な進歩を意味している。しかし、それは正しくない。地球では限りの無い文明が(解読された「時間」のなかで)一定期間だけ現れては消えるということが繰り返されてきている。もっとも、その「一定期間」は主流の科学が把握している人類の歴史よりはるかに長いのだが。

アメリカの作家で研究家のマイケル・クリーモは、公式に始まったとされる以前に人間が存在したことを示す痕跡を長年にわたって追っている。クリーモがこの研究に手を染めたのは、教科書にはけっして載らない、何百万年も前の人骨や人工物のことを述べたオリジナルの科学報告書を何十編も読んだことがきっかけだった。

そんな地球文明には、今日の私たちよりはるかに進んだものもあれば、極端に原始的なものもあった。スロットルレバーは両方に回る----オートバイレースで言われることは「進化」にも当てはまる。これから述べるようなできごとが地球を襲えば、進歩的な人びとがあっという間に原始人になってしまうこともある。大地震やハリケーン「カトリーナ」のような大災害のあとがどうなったか、思い出してほしい。「近代世界」は一瞬にして消え去り、やがて救助隊が到着して再建が始まったはずだ。あのとき、もし同じことが世界中で起きていて、救助隊も来ず、再建も行われなかったら・・・

生き残った者は、ただもう食うか食われるか、自分だけが食糧や避難所や温かさを確保しようと争うことになる。そうして回復に何千年とかかるうちに、今日の科学技術世界の記憶は急速に薄れ、その存在は伝説や神話にしか残らなくなって、それすら空想だ、想像上の作り話だとはねつけられてしまうようになる。そんな世界がこの地球上に存在したという考え自体が嗤いものになってしまう。そのとき人類は「我々にできないことは誰にもできない」という思考に陥る。そうして、宇宙船はおろか飛行機すら嘲笑する思考法に凝り固まっていく。

今の私たちが目にしているのは、まさにそんなシナリオだ。かつて<黄金時代>が存在し、それが大変動とともに終焉を迎えたという伝説と神話だけが、歴史を通して語り掛けてくる。私は、人間の意識拡張という本当の<黄金時代>は20万年以上昔に終わったと考えている。その点では、真実を語っているのは一部の<黄金時代>神話だけで、それ以外の神話は、地質学上の大事件と比べればずっとあとの時期に登場した「黄金時代」らしきものを語っているに過ぎない。ここでは不明瞭さを避けるために、はるかに古い時期のことを<本当の黄金時代>と呼ぶことにしよう。

人類は、大変動以前の非常に長い期間、人間でない種族と交流してきた。慈悲の心に富んだ種族もあれば、そうでない種族もあり、結局は後者が世界を手に入れた。この「神々」がなんらかの方法で地殻の大変動を引き起こしたという伝説が残り、それが<大洪水>の物語というテーマになった。神々が、人類を一掃してやり直そうと決めたのだ。同じ話はシュメールの神話にもあるし、旧約聖書の「創世記」にもある。シュメールのアヌンナキの物語では、人類が標的にされたのは、人類を支配し奴隷化しようとする。「神々」の野望に反乱を起こしたからだということが示唆されている。私は、この「神々」は人間外種族が同盟したもので、それを牛耳っていたのは爬虫類の姿をした集団だったと考えている。ほかにもアリのような姿をした「グレイ」と呼ばれる連中や、ほとんど人間と変わらない見かけの者もいただろうが、この「レプティリアン同盟」の最前線には鱗に覆われた連中がひしめいていたはずだ。

異様に聞こえるだろうが、日常の「標準」という枠の外にあるものは、固定化した左脳の精神には、ほぼすべて「異様」で「バカげて」いて「ありえない」と映る。しかし、本当にそれほど「異様」だろうか。動物や昆虫や海洋生物など、自然の驚くほど多様性に富んだ姿を見るといい。人間もそうだ。黒、茶、白とさまざまだし、極東出身者の外見を黒人や白人と比較してみればいい。そして、これがひとつの惑星上の、私たちが「見る」ことのできる、信じられないほど狭い周波数帯(可視光線)の範囲内に存在するものでしかないことを思い出してほしい。それを超えた無限の領域には、多種多様な形態があるに違いない。そう考えてくれば、レプティリアンの遺伝子を通して発現する知的生命は存在しないと考える方がずっと「異様」というものだろう。

古代メソポタミアの粘土板には、アヌンナキは何十万年も前に来たと書かれている。彼らは<本当の黄金時代>を終わらせ、地球の人びとを奴隷種族にした。以来、アヌンナキ(=レプティリアン同盟)は、人々がおとなしく従わなくなってくると、定期的に地球規模の大災害を引き起こし、人類の遺伝子プログラムを抹消するようになった。そのたびに「アップグレード」した人間のボディ・コンピュータで再び同じことをし始めたのだ(ここでの「アップグレード」は支配が容易になるということだ)。レプティリアンが正確にいつやって来たかはわからないが、人間の遺伝子に、20万年前と3万5000年前に突然大きな変化が起きたのは確かだ。そして、彼らは今また同じことをしようとしている。私たちは、今起こっていることにすぐに精神を開く必要がある。

レプティリアンが地球に来てまだ2000~3000年だという人もいるが、私はもっと以前だと思う。レプティリアンはオリオン座とりゅう座につながりがあるように見えるが、私たちに知覚できるとは限らないし、必ずしも可視光線の周波数帯域内にはいない。惑星や恒星も、ほかのすべてのものと同じく多次元で、私たちが「見る」のとは違う周波数の、さまざまな規模の天体や星座や星雲が存在する。

レプティリアンによる乗っ取りの情報が私の人生に入ってきたのは1990年代の半ばを過ぎた頃のことで、その頃から、世界中でレプティリアンと遭遇したという人たちと出会うようになった。最初の頃は静観していた-----こんな話は明らかに気味が悪いし、追いかけるにしても、もっと情報を得てからだと思っていた。すると、1997年のある15日間に、情報が急激に流れ込んできた。それは私が全米各地を連日講演して回っているときだった(というか、私は講演していたのだが、聞きに来る人はほとんどいなかった)。しかし私はその15日間だけで、まったく無関係な12人から、レプティリアン種族の実在に関して基本的に同じ話を聞くことになったのだ。そのうち何人かは、人間からレプティリアンに突然変身し、再び人間に戻るところを見たと言っている。もちろん、これは「物理的な」変身ではない。「物理的な」ものなど存在しない。波形エネルギーが形を変えただけで、それが見る者の精神で解読されて「物理的な」変身が起きているように見えるに過ぎない。つまり、2つの情報フィールドがシフトして別のホログラムが現れたのを、見る者が解読するなかで、誰かが肉体の形を変えたと錯覚しているのだ。



古代の証拠、現代の証拠



南アフリカ・ズールー族の「サヌーシー」(高位シャーマン)クレド・ムトワから連絡を受けたのは、1998年の『大いなる秘密』でレプティリアンの話を初めて公表したのがきっかけだった。彼はズールー族の伝説に出てくる「チタウリ」について詳しく教えてくれた。これは「邪悪なヘビの子どもたち」ないし「ニシキヘビの子どもたち」という意味で、私の「レプティリアン」に当たる。クレドは以来、大切な友人になった。クレドは万人の模範となるべき人物で、粘り強く、どんな状況でも決してあきらめようとしない。

クレドが若い頃、アフリカは、セシル・ローズをはじめとするヨーロッパ人によって侵略された。彼らヨーロッパの植民地主義者は、古代アフリカの知識を消し去り、連綿として受け継がれてきた人間の歴史を破壊して、代わりにキリスト教の教義を押し付け、アフリカの信仰と歴史を悪魔化しっていった。そうすることで、古代の歴史や伝説や神話を抹消し、本当に起きたこと(つまりは今起こっていること)をもみ消そうとしたのだ。そうした知識を守るため、アフリカ各地でさまざまな秘密結社が設立された。クレドがそうした秘密結社に加入したのは60年以上も前のことで、そこで初めて「チタウリ」について聞くことになったのだそうだ。

チタウリ----地域によって呼び名は違う---が地球をハイジャックしたというクレドの話は、私がそれまで収集してきた情報を追認し、裏付けるものだった(レプティリアン種族に関する情報は世界中からいくらでも集まってくる。その中には古代のものもあれば現代のものもあるし、イルミナティの内部者によるものもある。また自らの意思に反して「内部」で働いている者も数多くいる)。

クレドは見事な古代の工芸品を見せてくれた。盗まれた時期があったことから<謎の首飾り>と呼ばれるもので、500年前のものだとされているが、クレドはそのまた500年以上も前のものだと考えている。「首飾り」と呼んでいるが、実際には肩の上に乗せるもので、極端に重い。クレドによれば、これが象徴する知識を少しでも長く残すために、そのように作られているのだという。大きな銅の輪から下がっているいくつもの大きなシンボルは、レプティリアンにハイジャックされてからのアフリカと人間の歴史を伝えている。

手のシンボルにはオリオン座をはじめとする多くのシンボルがびっしりと描かれている。なかでも六芒星=「ダビデの星」はロスチャイルド家のシンボルであり、ロスチャイルドの領土であるイスラエルの旗にも見ることができる。

それ以外には、古代人が「ウォッチャー」と呼んだ存在を象徴する「目」も描かれている。これは世界中で見つかるテーマだ。この「万物を見通す目」はイルミナティ血族の主要なシンボルであり、1ドル紙幣や米国国璽の裏面にも見られる。ちなみに、この国璽のデザインは1782年に初めて公式に公開されたもので、作ったのはアメリカ独立戦争の背後にいたフリーメイソンリーだ。

首飾りには空飛ぶ円盤状のシンボルもついていて、これはチタウリが「母船」から地球に来るのに使った宇宙船だと言われているが、知れば知るほど、本当は土星を象徴しているという気がしてくる。土星は「目」としても象徴されてきているし、土星の輪にしても、公式には1610年にガリレオが自作の望遠鏡で初めて発見したことになっているが、これまでの調査から、古代の知識や神話、伝説がしばしば科学的発見よりずっと先行していたことがわかっている。

首飾りの前面にある2体の人物像は、人間の女とチタウリ・レプティリアンの男を表わしている。これが男性であることは明白だ。これは、次に述べるチタウリと人間の異種交配を象徴化するものだ。ペニスが銅製なのは発見後に修復したためで、元は金製で、古代エジプト神話に出てくるオシリス神の黄金のペニスと同じだった。同様の話はバビロニアなどにも伝わっているほか、古代世界の全体を通して、さまざまな名前と場所で、普遍的な物語がいくつも見つかっている。黄金のペニスは、レプティリアンの「卓越した種子」を象徴するとともに、もうひとつのイルミナティ血族の主要なシンボルである「燃えるかがり火」をも象徴している。

クレドによれば、チタウリの男性は爬虫類には見えない。これは、彼らを実際に見えるように描いてはいけないとされてきたためだ。彼らは明らかに人間とは違うように描かれているが、実際の姿のようにも描かれていない。それでも、なかにはそのままの姿、あるいは少なくとも爬虫類に見える姿で表現されているものもあって、今もあちこちの文化に見ることができる。クレドは、古代の伝承と現代の報告をもとに、数あるレプティリアン(チタウリ)種のひとつを絵にしてくれた。

ロベルトは、2009年にブラジルを旅行して、その際に風景を描くためにひとりで田舎に行った。それまでは、この手の情報にはまったく興味がなく、私の存在も知らず、まして私が話す内容にもなんの興味も持っていなかった。しかし、経験がすべてを変えた。筆を手にイーゼルに向かっていると、幅およそ50メートルの宇宙船が目の前に降下してきて、2時間もとどまっていたというのだ。ロベルトの話では、自分がその宇宙船に乗ったかどうかはわからない、よく覚えていない、ただ、目の前に見えるものを描いていると、爬虫類の姿をした2つの影が、開いていた唯一の窓からこちらを見ていたというのだ。


大蛇崇拝



わかっている範囲で最も古い宗教形態は大蛇崇拝だ。ノルウェー・オスロ大学の考古学者シーラ・コールソンは、南アフリカ・カラハリ砂漠のツォディロ丘陵で7万年前の大蛇崇拝の証拠を発見している。ここは、世界のどこよりも岩窟壁画が集中していることで知られた土地だ。古代サン族の神話では、ツォディロ・ヒルズは人間が創造された場所であり、巨大なヘビが「1腹の卵」を産み落としたとされている。先に紹介したズールーのシャーマン、クレド・ムトワは「アフリカ」の語源が古代語の「ワフィリカ」だと言っているが、これは「地上の最初の人びと」あるいは「この地の最初の人びと」を意味している。「ズールー」という名称自体は「星から来た人びと」を意味する。彼らは、自分たちは地球外の種族に種を蒔かれたと考えているのだ。

ハワイ大学のレベッカ・カン助教は、1987年にネイチャー誌に掲載した共同執筆の論文で、今の人類は20万年前頃にアフリカにいた、たったひとりの母から生まれた子孫だという説を提唱している。彼女によれば、つながりはミトコンドリアを通して代々伝えられてきたのだという(ミトコンドリアは女性を通してのみ伝わる)。人間の脳の容量はこの数百万年で急速に増大したように見えるが、実は脳の巨大化は約20万年前に突然止まっていて、その後は逆方向に進んでいる。アナンヌキに関するメソポタミアの言い伝えでは、人間が20万年以上前に反逆したので、支配の容易な「新しい人間」が創られたのだとされている。

ほかにも、ジョン・バサースト・ディーン師という人物が1830年代に、世界中の大蛇崇拝の歴史に関する研究を発表している。ディーンは、大蛇崇拝の起源はシュメールとバビロニア(現在のイラク)にあるとして、その後の伝播の跡をたどり、まさに世界中を調査して歩いている。それによると、現在のメキシコに住むマヤ族は、自分たちを「大蛇の人々」の子孫だと考えている。このレプティリアン種族は、空からやってきてマヤ文明を乗っ取り、人間の生け贄を要求したという。レプティリアン種族とその仲間連中は、その技術的能力の高さゆえに「神」と考えられた。同様に、北アメリカのホピ族にも、自分たちの女性と交わった「ヘビの兄弟」「空の神」の話が伝わっている。またインドには「シャルパ」と呼ばれるレプティリアン種族の言い伝えがあって、彼らが文明を興し、ヒンドゥー教のカースト制を創始したのだとされている。カースト制度の本質は、人種を基準とする厳密なレプティリアンの遺伝子ヒエラルキーなのだ。そしてここでも、彼らが人間の生け贄を要求したと伝えられている。中国の神話でも、やはり「大蛇の女王」が男たちと交わったとされる。

このように、レプティリアン種族の存在と人間の生贄の要求、そして人間との交配は普遍的なテーマだ。ジョン・バサースト・ディーンは著書『大蛇崇拝』のなかで「神秘の大蛇はあらゆる民族の神話に存在し、ほとんどすべての寺院で神聖視され、ほぼすべての神話に象徴化されていた。天にいるとされ、地上をうねり、永遠の悲しみの領域で支配していた」と述べている。大蛇は神話の主要な象徴であり、かつ「居住可能な世界各地の迷信のなかで唯一共通する恐怖の対象だった」。そして、


●このように、これほど地理的に隔たった、あるいは宗教的に相容れないと思われる民族もないが、そこにはひとつの----それも唯一の----共通した特徴があるように思われる。それは、最も文明化した民族も最も未開の民族も、同じような神に心を奪われて敬虔に頭を垂れるということ、そして、その神が----あるいはそれを表わすものが----聖なる大蛇だということである。また、大蛇が崇拝されている文明国には、必ずと言っていいほど「天国からの人間の転落」を語った寓話や伝承があって、それが直接間接に大蛇に関係しているように思われる。誘惑の原因と本質に関する最古の物語が元となって、ほかのすべての話が派生していく。それは大蛇が勝利する物語である----無知な人間に勝ち、罪の意識のなかに魂を服従させ、絶望に満ちた崇敬と憧憬の念を抱かせるのである。



このうちのいくつかは、空に放出される大蛇のようなプラズマが起源となっているのだろう。そうしたプラズマ放射は、宇宙で大異変があるときに生まれてくる。特に「火を吐くドラゴン」の神話はきっとこれが起源だと思う。しかし、世界的な大蛇崇拝と爬虫類の姿をした「神々」との関連は、古代の伝承や現代の証言から見て否定できないほど明確で、古代のプラズマ放出だけではとても説明がつかない。問題は、どれが「大蛇プラズマ」の記憶で、どれがレプティリアンの「神々」を象徴しているのかを確認することだ。また、象徴に関してはもうひとつ難しい点があて、世代を経るうちにシンボルの意味が変わっていってしまう。たとえば「ヴィーナス」は、始めは金星のシンボルだったが、のちには月の象徴に使われたりしている。非キリスト教徒だったローマ人が、弾圧の中で秘密の禁止宗教としてのキリスト教を受け入れたときにも、多くのシンボル、建物、像が同様の変化を経験している。


大いなるスイッチ・オフ



人類の遺伝子が変容したのは、地球規模の大災害があるたびに、レプティリアン同盟によって遺伝子を改変され、プログラムを消去されて、新しいプログラムを導入されてきたためだ。これには、同盟中のレプティリアン以外の種族も関わっていたため、地球上にはさまざまな人種が存在することになった。レプティリアンは卓越した遺伝学者であり、人類のマインド--ボディ・コンピュータを、奴隷化という目的に特化してデザインしてきた。この遺伝子操作による影響は大きく分けて2つある。すなわち(1)人間がアクセスし解読できる周波数帯が大幅に縮小し、いわゆる「可視光線」の狭い範囲しか知覚できないようになった。(2)マインド--ボディ・コンピュータは架空の現実だけを受信するよう調節された。映画『マトリックス』シリーズに描かれた架空の現実は、見かけとはまったく違う「世界」を経験するために、人間がどう「接続」されているかを、きわめて正確に描き出していた。科学者が人間のDNAの90~98パーセントを「くず(ジャンク)」DNAと呼ぶ理由も、この遺伝子操作によって説明がつく。たしかに、ジャンクDNAはなんの役にも立っていないように見えるが、実はこの「ジャンク」DNAの潜在力はほとんどが「スイッチを切られて」いて、残った部分が現実やプログラムと相互作用している。人間が脳の10パーセント足らずしか使っていないというのは都市伝説だという話があるが、それは脳の「領域」についてのことであって、人間の脳の本当の潜在能力について知れば、そんなことは言わないはずだ。これも遺伝子操作の結果なのだ。

人間の体内には遺伝子組み換えの明らかな証拠がある。遺伝子の組み換えというのは、フィルムからコマを切り取って別の場所に移す、あるいは、2本の映画からコマを切り貼りして別の映画を作るようなものだ。人間の起源について詳細に研究しているアメリカの研究者で作家のロイド・パイによれば、人間のDNAには4000以上の欠損があるという(チンパンジーやゴリラでは200~300)。パイはこれを「遺伝子が切断され、はじき飛ばされ、逆さにしてゲノムの中に戻された証拠」だとしている。そのほか、染色体も融合していて(研究室でしか見られないプロセス)、チンパンジーやゴリラより2本少なくなっていると述べている。主流の科学者でさえ、人間の遺伝子には20万年前に、そして3万5000万年前にも突然変異が起こっていることに気付いている。

ヒトゲノム・プロジェクトに加わっている研究者は、タンパク質をコードしないDNA(「ジャンク」DNA)の90パーセント以上あ、地球外生命体の遺伝子コードだと考えている。たしかに一部はそうだろう。そして残りの部分は、私たちが巨大な現実につながるのを阻止するためにスイッチを切られているのだ。グループの「リーダー」であるサム・チャン教授は、人間のDNAの圧倒的多数はもともと「異世界」に起源がある。そうした「地球外ジャンク遺伝子」は勤勉な活性遺伝子の働きに「ただ乗りしている」だけだとしている。チャン教授は、ほかの科学者やコンピュータ・プログラマー、数学者、研究者と協力して、こうした「ジャンク」DNAがある種の「地球外プログラマー」によって作られたかどうかを調べてみた。すると、まさにそうだった。チャン教授によれば、この「ジャンク」DNAの「異質な」部分には「独自の静脈、動脈、免疫システムがあって、どんな抗がん剤もまったく寄せ付けない」のだという。


●私たちの仮説は、非常に高度な地球外生命体が、さまざまな惑星での新しい生命の創造とその移植に携わっているというものである。地球はそのひとつに過ぎない。おそらく、プログラミングのあと、創造者たちは、私たちがバクテリアをシャーレで培養するのと同じように私たちを育てているのだろう。動機は分からない----科学実験だったのか、植民地化に向けて新しい惑星を準備していたのか、あるいは宇宙に生命の種を播くという遠大な計画があったのか。


チャン教授は、この「地球外のプログラマーたち」は、多くの惑星に生命体を作り出す「ビッグコード」に取り組んでいるのだろうと考えている。「ビッグコードを書きあげ、実行し、なにかの機能が気に入らず、そこを変更するか新しい機能を付け加えるかして再度実行し、さらに改良しということを、何度も繰り返したのだろう」。古代のアヌンナキ/チタウリの物語も、成功するまでに多くの「新しい人間」の遺伝子組み換えが試みられたと伝えている。



●人間のDNAは、ビッグコードと基本コードという2つのバージョンから成り立っている。第1の事実は、完成した「プログラム」が地球上で書かれたものではないということで、これはもはや立証済みの事実である。第2の事実は、遺伝子だけでは進化を説明するのに十分ではないということである。この「ゲーム」にはなにかほかのものがあるに違いない・・・。遅かれ早かれ、私たちは、とても信じられない概念に至らざるを得なくなる。すなわち、地球上のすべての生命が遺伝子コードを保有しているのは地球外の親戚がそのようにしたためであって、進化は私たちが考えているようなものではない、ということである。



遺伝子操作は、人間が<本当の黄金時代>のような広大な知覚領域を失い、遺伝子の「性能向上」によって、会s光線というごく狭い「現実」に閉じ込められることを意味していた。レプティリアン同盟は、人間の遺伝型を、奴隷種族として彼らに奉仕できる程度には知的で、しかし自分たちが支配されていることや、誰に・どのように支配されているかはわからない程度に愚かなものに作り上げた。レプティリアンの遺伝子を大量注入して、人間を彼らと彼らの「マトリックス」に振動でつながらせたのもそのためだ。人間と非人間存在である「神々」との混血の物語や伝説は、南アフリカの「チタウリ」のように、古代世界全体に見られる。「創世記」には次のような名高い文がある。


●当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。


ここでいう「ネフィリム」とは巨人のことだ。「神の子ら」という表現は一神教の都合でこうなっているだけで、本来は単数の「神」ではなく複数の「神々」を意味していた。「創世記」には次のような記述もある。


●神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう・・・。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。


●主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」




「我々にかたどり」「我々に似せて」「我々の一人」という表現に注目してほしい。どれも複数形になっている。レプティリアンは、まさに彼らの遺伝子をかたどり、人間のボディ・コンピュータにレプティリアンの情報とコードを注入して、人間を創造した。こうして私たちは、かなりの程度まで彼らの一員となり、情報を解読することで善と「悪」とを知った。逆に言えば、レプティリアンが介入する前の<本当の黄金時代>には「悪」は存在しなかったということだ。





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「本物の」世界よ、さようなら

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コンタクト



ベティ・シャインへの3度目の訪問は私の人生を変え、私は思ってもみなかった旅へと向かうことになった。治療用の寝椅子の上で、ベティに左ひざのあたりを治療してもらっていたときのことだ。突然、顔にクモの巣が触れたような気がした。すぐにベティの本の一節が脳裏に浮かんだ。「精霊」のような異次元のものがコンタクトしようとするときは、クモの巣に触れたような感じがするという。今になってみると、感触の正体は電磁エネルギーだったことがわかる。興奮した群衆のなかで首筋の毛が逆立つのと同じ現象だ。あれは大人数が生み出す電磁エネルギーが集積して起こるのだが、このときの「クモの巣」は、電磁的な結合が現実世界の周波数帯に挟まっている状態だった(もっとも、当時の私にはなんの知識もなかったが)。なにも言わないまま10~15秒が経ったところで、ベティが急に頭を上げた。「すごい!なんてパワフルなの。目も開けていられない!」

私には、去年1年あの「存在」に付きまとわれていた理由がわかったような気がした。ベティは、彼女の精神・マインドのなかに人影のようなものが現れて、私に伝えてくれと頼んでいると言った。「彼ら」は私がコンタクトしてもらいたがっていることを知っていたが、あのときはまだ機が熟していなかったという。もちろん、ケンジントン・ヒルトンホテルの部屋のベッドに座って叫んだときのことを言っているのだが、ベティがそれを知っているはずはない。メッセージはさらに続いたが、奇妙でクレージーなものばかりだった。だが、あれから20年以上が経って振り返ってみると、私に直接関係するメッセージはすべて実現したか、実現しつつあるものばかりだ。いくつか例を挙げよう。


●彼は地球を癒すためにこの世に生まれてきた治癒師(ヒーラー)で、世界的に有名になるだろう。
●猛烈な非難にさらされるが、つねに私たちの加護がある。
●スピリチュアルとしてはまだ幼いが、将来は霊って気な豊穣に恵まれるだろう。
●誰のものかわからない言葉を口にすることがあるかもしれない。そのとき彼は私たちを代弁している。
●知識が彼の精神に入り込むか、逆に彼が知識へと導かれる。彼はそれだけの勇気があるから選ばれた。小さい頃からあらゆるテストを受けて合格してきている。
●サッカーの世界に導かれたのは規律を学ぶためだったが、習得できたら次のステップに進むときが来た。失望と向き合い、さまざまな感情を体験し、起ちあがって歩き続けることを学ぶ必要があったのだ。スピリチュアルの道は険しく、誰にとっても簡単に成し遂げられるものではない。
●必要なもの(これは「欲しいもの」だったかもしれない)はつねに手に入る。だが、それ以上のものは手に入らない。


1週間後、私は再びベティを訪ね、さらに多くのことを伝えられた。


●ひとりで世界を変えることはできない。だが、世界を変えるメッセージを伝えることはできる。
●すべてをひとりでしようとしてはいけない。人と手を取り合って進めば、誰かが倒れても助け起こすことができる。
●彼は3年間で5冊の本を書くだろう。
●彼は政治には向かない。霊感が強すぎる。政治は反スピリチュアルだから不幸になる。
●彼は政界を去る。なにもしなくてよい。1年かけて徐々にそうなる。
●まったく新しい種類の空を飛ぶ機会が現れる。現在の飛行機とはまったく違うものだ。
●時間には何の意味もなくなる。行きたいと思うところへ行けるようになる。



別の周波数帯からベティの精神(マインド)に投影された言葉を伝えた人影は、中国人の姿をしていて「私にはソクラテスがついている」と言ったという。ソクラテスはプラトンの師に当たるギリシャの哲学者で、70歳のとき、異端の論を説いて地元アテナイの若者を堕落させたとして罪に問われ、自ら毒薬をあおった。ソクラテスが残した偉大な言葉の中で、こういったものがある。「知恵とは自分が無知であることを知ることである」

メッセージはベティ・シャインに電磁的に伝えられた。<情報>の伝達は、言葉ではなく電磁的な「思考形式」で行われる。解読の仕方は、ラジオやアナログテレビが放送用電波のなかのコード化された情報を変換して「こんにちは、こちらはラジオABKです」とか「こんばんは、ニュースをお伝えします」といった言葉に変えるのと同じだ。ごくシンプルなプロセスなのだが、いわゆる「科学」に根底から支配されている無知な主流派は頭から相手にしようとしない。「科学」は、私たちの現実世界の本質を語るうえでなんの手がかりにもならないのだ。




「本物の」世界よ、さようなら



こうして私は告げられた----今は国営テレビのキャスターであり、緑の党のスポークスマンをしているが、これからは世界の舞台に足を踏み入れていく。反論の嵐の中に立たされるだろうが、そのときは「彼ら」が(といっても誰のことかわからないが)いつでも護ってくれる。

狐につままれたような気分だった。「地球を癒す」とはどういう意味だ。「3年で5冊の本を書く」というが、いったい「なに」について書くのだ。しかし、心のどこかではわかっていた。この通りにして、行き着く先を見定めなければならない。

事態が急速に動きだしたのは、それからまもなくのことだ。数か月後、BBCとの契約を更新せず、緑の党の仕事からも身を引くことにした。いつかはすべてを公表しなければならないと思っていたが、そのときになって、プログラムされた有権者のせいで党に迷惑をかけたくなかったからだ。それに、この頃には政治の無意味さも分かり始めていた。私の身に起こったことを党のごく一部の人間に話したところ、あっという間に「デーヴィッドは気が狂った!」という噂が広まった。なにが「個性的」で「進歩的」な政治だ。経験から言って、緑の党は名前を変えただけの古臭い政治活動に過ぎない。人間が引き起こした「地球温暖化」なるものを取り上げて----それも気温が下がり始めると「気候変動」と言い換えて-----捏造されたナンセンスを売り込んだり利用したりすることに躍起になっているだけだから、そのうち誰からも信用されなくなるだろう。1990年3月に初めての連絡があって以来、私の人生は、驚くほどの共時性(シンクロニシティ)を備えた「偶然」と経験とハプニングの連続となった。おかげで、人間、本、書類、ほかの霊能者たち、そして個人としての経験を通して、さまざまな知識と情報を得られた。見えない力によって巨大なパズルのピースを手渡されてきたわけだが、20年以上が経った今も、全体の大きさを把握できたとは言えない。パズルが今も拡大を続け、最近はそのスピードがどんどん速くなっているところをみると、不思議の国のアリスではないが、やはり「ウサギの穴はとても深い」のだろう。つながり合った<情報>の規模は想像もつかないほど巨大で、物語には終わりがなく、テーマとなる領域も無数にあることを考えると、やはり「手がかり」の伝達は計画的に進める必要があった。ウサギの穴を降りて行けば行くほど、次から次へと新しい層が現れた。どの層でもテーマは一貫しているのだが、細部はあちこちで変更・捕捉・微調整されていく。私の精神が広がるにつれて、また、いわゆる「時間」の経過とともに、さらに多くの細かい項目が目前に広がっていく。なかには誤導目的の情報もたくさん混じっている。

結論を言うと、大切なのは細部よりテーマだ。人は、細部は忘れても大きなテーマは覚えている。直面している状況を理解して行動を起こすのに、誰かのワイシャツのサイズやコーヒーの好みを知る必要はない。難しいのは、あらゆる可能性に対して精神(マインド)を開き、いわゆる「標準」と異なるという理由だけで情報や洞察を否定しないこと、そして、少なくとも初めのうちは大衆と能なしメディアからの嘲笑や嫌がらせがあるとわかっていても、絶対に<情報>を伝えると決めることだ。だが実を言うと、どちらもたいして難しくはなかった。それまでも、みんなの考えと違うという理由だけでなにかを否定したことなどなかったのだから。

以来、まさに起ころうとしているもののおかげで、嘲笑も嫌がらせも無視できるようになった。今ではまったくの馬耳東風だ。1990年のの頃は旅行と、1作目の執筆で過ぎていった。タイトルを Truth Vibrations(真実の振動)としたのは、近いうちに振動の変化が起こって地上の生活と現実世界に対する知覚が一変すると「彼ら」から聞いたからだ。

「真実の振動」とは、私たちの現実世界を構成する振動の根本的変化のことで、それが起こることによって、主には次の3つの結果が生じる。



①目覚まし時計のアラームや催眠術師の合図と同じ働きをして、人間を昏睡(トランス)ないし記憶喪失の状態から目覚めさせる。

②知らないうちに起きたこと、人類の目に触れなかったことがすべて明らかになる。非常に象徴的な映画『オズの魔法使い』に出てきた「魔法使いのカーテン」の向こう側が見えるようになる。

③人間と同じで、地球のエネルギー場と振動構造も、現実世界のエネルギー共鳴の変化と必ず同期するので、寒暖の差が大きくなり、地震や火山などの地質学的活動が活発化する(ただし、気候や地質学的活動を操作するテクノロジーが存在することを忘れてはならない。異常気象や地質学的活動はどれも「自然な」ものではない)。

こうしたことが伝えられた1990年には、証拠らしいものはなにひとつなかった。大規模な「覚醒」が起きつつあることも、歴史を通じて世界のできごとをコントロールしてきた<見えざる手>になにかが起きていることも、証明しようがなかった。だが今日では、どちらも現実に、しかも世界各地で起ころうとしていることが誰の目にも明らかとなっている。歩き出したときは孤独な道だったが、近年は陰謀の研究所や研究資料が爆発的に増えた。ほんの数年前と比べても、信じられないほどの人が、自己と世界に対する新知覚に精神(マインド)を開くようになってきている。しかも、その数は日々増え続けている。




プラグイン!



その年の末に『真実の振動』を書き終え、あとは印刷して出版するだけとなると、突然ペルーに行きたくなった。ペルーについては、サッカーのワールドカップで何度か見たくらいでほとんどなんの知識もなかったのだが、なぜか「ペルーに行かなくては」と思えてきた。するとそのとたん、ことあるごとに「ペルー」の文字が目につきだした。旅行会社の広告、書店、テレビのドキュメント番組・・・。理由はわからないが、行くしかなかった。現地での詳しいことはほかの作品を見てほしいのだが、最終的に、信じられないような体験と「偶然」の日々を経て、とうとうシルスタニという場所に辿り着いた。そこはインカの古代遺跡がある片田舎で、プーノ市から車で1時間20分ほどのところだ。丘の上にあって三方を沼に囲まれ、さらにその周りを山々が囲んでいる。

初め、案内役のペルー人ガイドはプーノのホテルに宿泊予約を入れていて、それがシルスタニという名前だった。ホテルの中の壁にシルスタニの写真が飾られていて、それを見たとたん、直観的な衝動が湧き上がってきた。早速、ガイドと運転手つきの小型観光バスを借りて出発した。行ってみると美しいところで、遺跡やすばらしい眺望が楽しめた。だが出発時間が迫るにつれて失望感が広がった。美しくはあっても、あの衝動に見合うほどの体験ではなかったからだ。しかし、バスに戻り、プーノに向かいかけてから間もなくだった。私は窓越しの景色を見ながら、半ば夢想状態で道を下っていくと、右手にある小さな丘か土塁のようなものが目に留まった。じっと見ていると頭の中で声がした。「ここに来い、ここに来い、ここに来い」。なんてことだ。今度は丘が話しかけてきた。お次はなんだ?

車を止めて「あの丘に登ってくる、すぐ戻るから」と言い残して降りたが、実際にはずいぶんかかってしまった。頂上の、道路から見えないところに古代のストーンサークルがあった。晴れ渡った、雲ひとつない空の下、私は円の中央まで歩いていき、シルスタニと遠くの山の方を振り返った。すると突然、足が異常に熱くなってきた。1年近く前に近所の新聞販売店で体験したのと同じだったが、今度はずっと強い。磁石に引っ張られたようで、足が地面から離れない。頭のてっぺんにドリルのような衝撃を受けたかと思うと、エネルギーが頭のてっぺんから足の先へ、そして地面へと流れ落ちるのが感じられた。そして、また別の流れが下から上がってきた。私は無意識のうちに腕を上げ、頭の両側に45度の角度で広げていた。その格好のまま、1時間くらいはそこに立っていただろうか(もっとも、その状態が終わるまで私の現実世界に時間は存在しなかったのだが)。そして、電磁版による「声」が私の精神(マインド)を走り抜けた。



「人びとは100年後にもこの瞬間のことを語り継いでいるだろう」
「お前が雨を感じたときにこれは終わる」


2つめの言葉はバカバカしく思えた。突き刺すような熱い陽光が雲ひとつない空から降り注いでいた。私は貫通するエネルギーはますます強くなり、とうとう身体が震えはじめた。猛烈にパワフルな電気が体内からさまざまな方向に流れ出ていくような感じだった(今思えば、実際にその通りだった。私は意識の精神状態を出たり入ったりしていたわけで、ちょうど、車を運転していて最後の数キロのことを思い出せないのと同じだ。あれは潜在意識が運転している状態なのだ)。

意識の認識状態に戻ると、遠くの山並みに薄灰色の霧がかかっていて、それがすぐに濃くなっていった。向こうでは激しい雨が降っているに違いない。嵐が足早に近づいている。天気予報でいう「前線」の接近だ。うねるような雲がほとんどますぐな「前線」を作り、雨を含んで向かってくる。まるで空にカーテンが引かれていくようだ。雲はついに太陽を覆い隠し、太い棒のような雨が壁になって迫ってきた。私はすぐにずぶ濡れになり、その瞬間、エネルギーの流れはぴたりと止まった。それまで腕を高く上げていてもなんともなかったのに、急に肩に痛みが走った。脚は、生まれたばかりのキリンのように頼りない。エネルギーが手と足から流れ出し、まるで電気の柱が歩いたり、話したりしているようだった。バスに戻り、大きな水晶を握ってエネルギーを少し拡散させたが、足からのエネルギー放出はそれから24時間も続いた。



クンダリニー体験



ストーンサークルの中でなにが起きたのか、当時の私には見当もつかなかったが、今ならわかる。実際には多くのことが起きていた。まず、エネルギーがエネルギー/意識の泡を吐き出した(大半の人はこの泡の中に住んでいる)。さらに、私と「彼ら」とのあいだに、電磁力による意思疎通のチャネルが開通し、それを通って、現実世界とは違うレベルからの情報・概念・洞察が私の「人間の」精神に流れ込んできた。それからの3~4か月、すなわち1991年の2月から5月までは移行期で、まだなにが起きているのかわからず、私は深く悩んだ。今から思えば、キーを一度に押し過ぎたためにコンピュータが「フリーズ」したようなものだった。私のデータ処理能力を超えてしまっていたのだ。

ストーンサークルでのできごとをきっかけに巨大な「クンダリニー」経験が起こり、私の「チャクラ」システムが急激に開いて、大量の<情報>が流れ込むことになった。「チャクラ」とは古代サンスクリット語で「光の輪」を意味する。渦のかたちをしていて、肉体を別のレベルの精神や認識に結び付ける「オーラフィールド」となっている。主なチャクラは7つある。クラウンチャクラは頭頂部にあって、ストーンサークルでの経験でエネルギーが出たり入ったりしたところだ。ブラウチャクラは額の中央にあって、脳の松果体と脳下垂体につながり「第3の目」(「心霊視覚」)を形作っている。スローチャクラは喉にあって、創造と伝達のための渦だ。ハートチャクラは胸の中央部にあって、これが開くと高いレベルの認識と結びつくことができる。ソーラープレクサスチャクラは「みぞおち」にあり、感覚や感情に直結している。恐怖や不安などの強い感情をその辺りで感じるのはこのためだ。セイクラルチャクラは臍の真下にあって性と生殖に関与している。ベースチャクラは脊椎の基部にあって、私たちをこの現実世界につなぎとめている。

最後のベースチャクラはクンダリニー(「とぐろを巻いた蛇」)の居場所でもあって、ここから放射されたエネルギーは、すべての渦のポイントを開きながら中枢神経系を駆け上り、頭頂部から噴き出して、いわゆる「悟り」の状態、ないしそれよりさらに進んだ意識状態に結びつける。私がペルーで体験したのはまさにこれで、だから、しばらく時間の感覚が戻らなかったのだ。


「心(マインド)のダウンロード」

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「渇望スポット」を刺激する「神経マーケティング」



肉体コンピュータがどのように反応するかプログラムされた内容に基づき、日々の生活に反応しているのは、細胞(DNA)に保存された情報である。人々が「悪癖」と言っているものの大半は、遺伝相続もしくはダウンロードされ、肉体コンピュータで動作しているソフトウェア・プログラムである。真に根源意識に目覚めることによってのみ、我々はこの循環を断ち切り、自分自身の人生をコントロールできるようになる。その状態になれば、選んだ通りにこの現実を経験する道具として肉体コンピュータが根源意識に奉仕することになる。もはやコンピュータが主人ではなくなり、人生が我々を生きるのではなく、我々が人生を生きるようになる。

一般的に中毒(依存症)は、肉体コンピュータの現象であり、その仕組みさえ理解すれば、中毒、反応、思い込みを誘発するようなプログラムを埋め込むことができる。マーケティングの専門家マーティン・リンドストロムは、その著『買(バイ)オロジー』で、警告と恐怖を煽る画像に満ちた地球規模の禁煙運動は、実際には「渇望スポット」と言われる脳の部分を刺激していたことを明らかにしている。渇望スポット(側坐核)を刺激することで人々に喫煙を促したのであるが、そこがいったん刺激されると、対象が何であれ、さらに多くの嗜好物を欲しがるようになる。「神経マーケティング」という完全に新しいセールス手法の分野があり、さまざまな脳の部分を標的にすることで、望ましい反応を引きだし、消費者に自分で自由な選択をしていると思わせる。これと同じ技術であるが、商品マーケティングに従事している人々よりもはるかに巧みな専門家たちによって、人間は個人レベルでも集団レベルでもコントロールされている。



根源意識(ただあるがまま)は「いかす女だ、一発やりたい」とは思わない---プログラミングされた性という錯覚



人間の自己認識の最も深い部分が、男または女という自覚である。この男女の性別が混乱しているために、長くつらい性転換手術を耐えなければならない人もいる。だが、化学物質や手術によって性別を変更できるのであれば、男とか女というのはどういう意味があるのか?

2006年にイギリスの新聞は、フリーキーという鶏の話を取り上げた。この鶏は、雌として生まれ、8か月の間、幸せに卵を産んでいた。ところが、緋色のトサカが生え始め、夜明けに鳴くようになり、他の雄と交尾したがるようになった。フリーキーは、知性的にも感情的にも肉体的にも性別が変わり、雄になったのだ。その原因は、単純なことに何らかの事情で「彼女」は大量のテストステロンを生成するようになったことで、それで「彼」に変身したのである。この信じられない性転換は、化学的な変化がもたらした。

BBCの情報では、科学者たちがミバエの脳を制御し、雌のハエを雄のように行動させることができたという。遺伝子を操作して、性行動を制御する脳細胞の一群を、光のパルスでスイッチが入るように変えたのである。そして雌のハエは、通常ならば雄にしか見られない行動であるが、求愛の歌を作るようになった。

このように化学反応や遺伝子操作で性別が決まるのであれば、「我々」が男とか女であるということ自体、ありうるのだろうか?根源意識は、男でも女でもなく、ただあるがままである。すべての可能性である。男や女として設計されているのは、この仮想現実宇宙のプログラムである肉体コンピュータであり、ミバエの事例からしても、爬虫類人の遺伝子学者が、遺伝子と化学的な操作によって、人間の個性のタイプを決めることができたのが分かるだろう。根源意識は、男のプログラムにするか、女のプログラムにするか、あるいは両方にするかを選ぶことができるが、根源意識そのものが、男であったり、女であったりするわけではない。性別があるのは肉体コンピュータである。

実際に、爬虫類人の遺伝子学者が介入する前は、両性だった。男の肉体を持つ人が、女のはずだと感じるときは(その逆も同様)、肉体コンピュータの化学構成に大量の女性要素が含まれていることが多く、それで自分が女のはずだと感じるのである。性転換では、男性ホルモン(テストステロン)または女性ホルモン(エストロゲン)を注入し、声を低くしたり、胸を大きくしたりする。異性愛が電気・化学的なソフトウェア・プログラムであるように、同性愛もプログラムであり、プログラムが変更されれば、性的傾向も変わる。10代に迎える思春期というのは、化学変化により性的に成熟して成人になる時期であるが、これもまた肉体コンピュータの中でホルモンが放出されて発生している。誕生から老年期へと我々を導くコンピュータ・プログラムの展開の一部である。

仮想現実の中で、我々が男であるとか女であることを否定する必要があるわけではない。父であり、母であり、工場労働者であり、トラック運転手であり、経営者であり、船長である事実を否定する必要もない。大事なのは、こうしたラベルが我々の実体であると誤解して、虚偽の自己認識に陥らないことである。こうしたラベルは我々が経験していることに過ぎず、我々の実体は根源意識である。

それでもなお、我々の行動が肉体コンピュータのプログラムで制御されていることが信じられないという人は、鶏のフリーキーの話を考えてほしい。「彼女」が「彼」になったときに何が起きたかと言えば、夜明けに鳴き始め、若い雌の鶏に発情するようになったのである。突如として毎朝、日の出になると鳴くことを、フリーキーが意識的に決めたと思えるだろうか?そんなことはなく、化学的に雄鶏のプログラムへと固定されたときに「本能」として始めたことである。「本能」のプログラムとは、創造主もしくは仮想現実宇宙の操縦者が書いたもの、もしくはプログラムを混ぜ合わせることで発展したものであり、我々が「人間」と呼んでいるものも含め、全ての「物質(肉体)」の形態はそうである。人間も動物も昆虫も何もかも、常にプログラムされた行動をしていることが分かるだろう。

朝になると小鳥たちが一斉にせずり始めるのは、同時に同じことを思いついたからだろうか?動物たちの生涯を見てみると、忠実にソフトウェア・プログラムに沿っていることが分かるはずだ。根源意識という本来の状態に接続されていない場合、「人間」も同じようになる。性欲もそうだ。根源意識がセックスをしたがるわけではない。肉体コンピュータのプログラムがそうさせているのである。その主な意図は、「人間」を確実に存続させること、そして爬虫類人がエサにしているオーガズムのエネルギーを生み出すことにある。

『マトリックス』3部作に、メロビンジアン(これはイルミナティの主要な血筋=ソフトウェア・プログラムの名前であり、的確なネーミングだ)の男が、ケーキ(これは情報である)を介して女性の肉体コンピュータにアクセスし、彼に対して性的に発情させたシーンがある。これは事実に基づいており、性欲は、五感を通じて(あるいは電気・化学的に)肉体コンピュータにアクセスすることで喚起することができる。バイアグラの仕組みもそこにあるし、ポルノや空想で興奮するのもそうである。我々が性的空想(性的にスイッチが入る)と言っているものは、遺伝相続されたプログラムや知性・感性の思考パターンのなすところであることが多い。

根源意識が酒場で女に色目を使い、「いかす女だ、一発やりたい」と思うなどとは想像できない。もちろん、セックスを楽しむこと自体は何ら間違いではなく、根源意識が人間としての経験に魅力を覚える多くの快感の一つである。根源意識に目覚めた人は、セックスに支配されることなく、セックスを楽しむ能力に非常に優れている。他のことと同様、セックスにもまた、中毒になる可能性が潜んでおり、罠として機能するように意図されている。



臓器移植すると提供者の才能や性格が転移する(ダウンロードされる)



こうして考えると、臓器移植を受けた人が、提供者の性格・特徴を帯びるという「謎」の事例が多いことも納得できる。アメリカで外食業を経営していたウィリアム・シェリダンは、ニューヨークの病院で心臓移植手術を受ける順番を待ちながら、病床に寝転がっている退屈しのぎに芸術療法の講座に参加することにした。控えめに言ってもウィリアムにはまったく芸術の才能がなかったが、新しい心臓を移植して何日かすると、遥かに複雑なスケッチや油絵を描くようになった。芸術療法を担当したベス・ドフュリアは、「彼の才能が花開いた様子は本当に驚きだった」と語っている。ウィリアム本人も驚き、戸惑っていた。

突然として出現した才能がどこから来たのか、彼にも周囲の人にもまったく不明だった。通常は臓器の提供を促進するために、臓器の提供者と受領者は互いに匿名のままであるが、ウィリアムは匿名性を放棄することに同意し、提供者の母親に会って、24歳の息子のキース・ネヴィルの話を聞く機会を得た。キースは、ウォール街の株式ブローカーで、自動車事故で死んでいた。ウィリアムが、キースには芸術への関心があったかと尋ねると、母親は「息子はとても芸術が好きでした。わずか1歳半で芸術に興味を持つようになり、いつも玩具より絵を描く道具をもらうと喜んでいました」と答えた。

ウィリアムは、知らず知らずの内に、心臓の移植によってキースの芸術の才能を受け継いだのである。これは決して珍しい事例ではない。臓器提供者の性格や才能を受け継いだ事例はたくさんある。ウィリアムは、自らの性格が変わり、「思いやりと愛情にあふれる」ようになったと述べている。他にも以下のように医者が説明できない事例がある。

●高所恐怖症だった女性が、登山家の肺を移植してから、登山家になった。
●7歳の少女が、殺害された子供の心臓を移植してから、殺されているところを夢に見るようになった。
●音楽にまったく関心のなかった男が、歌手のシャーデーのファンの心臓を移植してから、シャーデーの歌を聴くたびに感動して泣くようになった。
●チョコレート菓子のスニッカーが大好物だった14歳の子供の心臓の移植を受けた弁護士が、突如としてスニッカーを欲しがるようになった。
●10代の少女の心臓を移植した同性愛の女性が、異性愛になった。

「現代医学」と誇らしく称しているものは、人間の肉体が何たるかを理解しておらず、まして我々が「生命」と呼んでいるものの本質はまったく理解していないため、こうした「謎」を説明できない。「現代(最新)」でもなんでもない。退化していて、残虐で、無知で、原始的だ。「石器時代の医学」だと私は言っている。

複雑に見えるものの背後にある単純なことを発見するためには、人間の形態について我々の認識を初期化する必要がある。肉・骨、血、その他の身体の各部に見えるものは、全て我々が五感を通じて認識・解読した形態(バージョン)に過ぎず、いったん脇にどけておく必要がある。それは脳で構築された錯覚である。我々が脳として認識するものもまた、解読された情報であり、「物質」という意味で錯覚である。我々がどんな世界に居住するか、どんな人生を経験するかを決定しているのは、無意識と言われている情報の次元(レベル)である。この自己の深層レベルが爬虫類人の攻撃目標となっており、爬虫類脳などさまざまな手段を通じ、意識下(サブリミナル)への働きかけなどを行っているのである。

表向きの解読されたバージョンの肉体の向こうにある本当の肉体とは、生物的コンピュータ・システムであり、最大75兆個の細胞(並外れて発達したコンピュータ・チップ)を備えている。細胞は、DNAなど遺伝子構造全般とともに、肉体コンピュータのハードディスクとして機能し、エネルギー(オーラ)のレベルで言えば、そこに肉体ソフトウェア・プログラムとファイルが格納され、アクセスされているのである。そのファイルの中に、生殖というダウンロードを通じて遺伝相続され、現在の人生における経験で追加された知的・感情的な性格・特徴や才能(天賦の才能)が保存されている。

このため、臓器(特に心臓)を移植するということは、一つのコンピュータ(人間)から別のコンピュータ(人間)へと情報を転送しているのと同じである。情報を受け取ったコンピュータがファイルを開けば、画面に表示されるものは変わってくるが、それと同じように、臓器移植を受けた人が提供された臓器に含まれたエネルギー情報と強く結びついたならば、その人の「画面」、つまり、脳がどのように現実を解読・構築するかも影響を受けることになる。

そして、考えてみれば、「どのように現実を解読・構築するか」こそが、「人格」そのものである。この現実の解読と構築を(根源意識が不在のまま)肉体コンピュータが制御しているために、我々の反応や行動は実に予測しやすくなるのである。ウィリアム・シェリダンの「謎」はこのように解明できる。彼は、提供された心臓から肉体コンピュータへと情報をダウンロードしたときに、提供者の芸術的才能と性格の一部を身に着けた。そして彼の解読システムは、彼の新しい現実感覚を構築(アップデート)するときに、その情報をデータ貯蔵庫に追加したのである。

アリゾナ大学の神経学・精神医学・外科の教授ゲイリー・シュワルツは、主流の学者としてこの分野に関心を持つ稀な存在であるが、研究チームを率いて70件もの事例を研究した結果、臓器移植によって才能や性格が転移すると考えている。彼はこう述べている。


●臓器が、被提供者に移植されると、臓器に蓄積されていた情報・エネルギーが、被提供者に受け渡される。相互接続された細胞を持つ臓器であれば、腎臓、肝臓、さらに筋肉も含め、どの臓器でもこの理論は適用できる。我々が明らかにした話は、非常に説得力があり、完全に一貫性がある。



南アフリカのシャーマン、クレド・ムトゥワは、アフリカの中央部と南部で食人の習慣があった頃、不運にも犠牲になった人間は、非常に高熱の火で煮なければならないという厳格なしきたりがあったことを教えてくれた。彼らは、実体験や言い伝えにより、十分に加熱料理せずに食べると、その犠牲者の「人格」を帯び、その人になることを知っていた。煮ると細胞(ハードディスク)が破壊されるため、食べても「ダウンロード」する情報がなくなる。まるで回路が溶けて曲がるまでマイクロチップを過熱するようなものだ。




「心(マインド)のダウンロード」のハイブロッド血筋



心と肉体のコンピュータに関しては、もう一つ大事なポイントがある。その知識(ハードディスク)は、別の肉体にダウンロードすることができる。さらには映画『マトリックス』の「赤いドレスの女」のようなデジタル構築物もしくは機械にもダウンロード可能である。映画のストーリーでは、この女はまったく人間と同じように見えるが、コンピュータ・プログラムに挿入されたデジタル構築物ということになっていた。今日の世界には、こうしたデジタル構築物が何千万人(もっと多いかもしれない)も存在する。彼らは、相互作用(対話・交流)可能な存在として仮想現実に挿入されたもので、ソフトウェア・プログラムに従って機能する。

より洗練されたタイプでは、他の人々からマインドをダウンロードして、高い知能を持っているかのようにふるまうことも可能である。「知識人」の多くは、ダウンロードされたマインドを備えたデジタル挿入物である。そんなバカなと思われるだろうが、表の社会でも、その方向に動いている。

我々がマインドと呼んでいるものは、情報を含んだエネルギー場であり、このエネルギー場を複製して、他の人間(あるいはデジタル構築物やロボットでさえも)に移植することも可能である。主な爬虫類人ハイブリッドは、死ぬときに知識が失われることのないように、心(マインド)を別の肉体へと受け渡している。死に際して、心(マインド)を他の肉体にダウンロードする特殊な儀式がある。私が何年も言い続けてきたことだが、こうした血筋は、赤いドレスの女のさまざまな形態に他ならず、爬虫類人がこの現実を支配するための導管として演技するデジタル・ソフトウェアである。

悪魔崇拝者は、死にゆく悪魔崇拝者や生け贄の犠牲者から、魂(エネルギー)を受け取るという言い方をするが、これも同じ原理である。私は、一部の人が「デジタル仲介者」とか「心の子」と名付けている存在を創造する「心のダウンロード」の実現可能性に関する記事をいくつも読んだことがある。だが、可能性ではなく、すでに現実として起きていることだ。

永劫の昔から爬虫類人はそれを行っており、まさにハイブリッド血筋が「デジタル仲介者」とか「心の子」の実例である。ブラジルで私に語りかけてきた「声」は、血筋だけでなく、反逆の爬虫類人そのものもまたコンピュータ・プログラムであるが、生物的コンピュータであり、本当に「生きている」ように見えるよう機能すると言っていた。

心(マインド)を解放してみれば、あるいは、自分自身を心(マインド)から自由にしてみれば、そして、開かれた心(マインド)で(根源意識を巻き込んで)眺めてみるならば、あまりにも自明なことである。我々が「自分」だと思っている肉体は、実は、生物的な、生きた、考える、感情を持ったコンピュータ・システムであり、我々がこの現実を体験するために乗り物として使っている道具である。

より高い次元の覚醒(私は根源意識と呼んでいる)との接点が失われると、我々は何も知らない囚人となり、肉体ソフトウェア・プログラムの駒になってしまい、そのプログラムのことを我々の「人格」であり「性格」であると、我々自身も他人も信じるようになってしまう。どうりで人類は、途方に暮れ、戸惑った状態にあるはずだ。その上で、肉体コンピュータは仮想現実ゲームの全体に接続しているわけであるが、それがどのようになされているかを次に考えていくことにする。

心(マインド)の大転換


液体的物質世界(ドリームタイム)に回帰するときが来た!



真実を伝えたいならば、笑い話にするほうがいい。そうしないと殺される・・・

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心(マインド)の大転換をもたらした霊能者との出会い



1989年に環境問題をテーマにした『こうでなくてもいいはずだ』を書いていた頃から、身の回りで奇妙なことが起きるのに気づき始めた。執筆はとても速く進み、一日で1章を書き終えることが多かった。毎日夕方になって書き終わったものを読み直すたびに、自分では書いた覚えがなく、「この文章はどこから来たんだ?」と怪訝に感じていた。まるで夢の中で書いていたようだった。

何らかの存在が、私の周りにいるのを感じ始めたのが、この頃だった。部屋に一人でいるときに、誰かがいるような気がして、その感覚が何か月も続いた。ついに1990年の初め、ロンドンのホテルでベッドの脇に座っていたとき、その気配をあまりにも強く感じたため、「もしそこに誰かいるなら、教えてくれ!頭がおかしくなりそうだ」と叫んでしまった。すると、それからいろいろなことが加速度的に発生するようになった。

1990年の3月、ワイト島のライドにある私の家の近所の海に面した場所で、当時8歳だった息子のガレスとサッカーをしていた。近くの鉄道の駅のカフェで昼寝を取ろうと息子に言ったものの、そこは満席だったため、別の場所に向かっていると、テレビで私の事を知っている人がサッカーのことを話しかけてきた。その人との会話が終わると、息子がいない。だが、駅の新聞を打っている店で蒸気機関車の本を見ているのは分かっていた。私も息子も蒸気機関車に興味があった。私は店の出入り口に立ち、別のカフェを探そうとガレスに声をかけたが、その場を離れようとすると、両脚に磁石がついたように床にひっついて動かない。とても奇妙な感覚だった。

今の私なら分かることだが、まるで別次元の現実が私の身に降りかかったようだった。その場に釘づけになったまま経っていると、非常にはっきりとした「声」を頭の中で聞いた。「向こう側の書棚に行ってみよ」と言う。どういうことだ?私はこの店の事は熟知していて、「向こう側」のコーナーの本には興味がないのだ。いつもバーバラ・カートランドのロマンス小説の類が置いてあるところだ。そっち方向にしか足が動かなかったこともあるが、何があるのか、とにかく行ってみた。すると即座に、表紙に女性の顔がある本に惹きつけられた。まるでその1冊しか目に入らないような感覚だった。そんな感覚は以降も何回も経験することになった。

ひっくり返してカバーの宣伝文を読むと、「霊能者」とある。著者は職業として霊能者をしており、実際の治療に能力を生かしていた。すぐに私は、それまで何か月も身の回りに感じていた存在のことを思った。それがいったい何なのか彼女なら教えてくれるかもしれない。それから24時間以内に本を読み終え、彼女に連絡して会う予約を入れた。私は例の存在のことは何も言わず、ただ関節炎を治してもらえるかどうかと尋ねた。私に起きていることについては、彼女が気づくまで言わないつもりだった。



波長の異なる「世界」-----並行宇宙が無限にある世界を知る!



彼女とは4回会った。最初の2回は特別なことはなく、ただ他の次元(周波数)や大きな観点で人生や可能性について話したぐらいである。私は常に宗教を拒絶してきたし、かといって、我々は「進化」の「偶然の結果」であり「死」をもって終了する存在だという「科学」が触れ回っているバカげた考えも拒絶してきた。信じられないことだが、開かれた心を持つ本物の科学者らが、数多くの研究結果や反証を出しているにもかかわらず、いまだに体制側の「科学」界はそんなナンセンスを主張している。

それまで私は、そんなナンセンスに代わる答えを考えてみたことがなかったが、霊能者の彼女から、現実の多次元的な性質や、一つの次元が他の次元と通信可能という話を聞いている内に、これが答えだと思った。まるで彼女の話は、すでに私が知ったいたことを私に伝えているかのようであり、実際に彼女がやっていたことはそれだった。誰でも知っていることなのだ。けれども我々は、五感の心(マインド)に振り回されるようになり、本当の自分自身、本当の知識を忘れるように条件付けされてきたのである。

この話題を初めて聞く人には少し説明が必要だろう。我々は、五感が知覚できる周波数範囲に限られた「世界」に住んでいるわけではない。五感が知覚できる範囲は非常に狭く、「可視光線」と呼ばれている。タンスの引き出しのように一つの次元の上に別の次元が存在するのではなく、ラジオやテレビの電波が同じ空間を共有しているように、複数の周波数が同じ「空間(スペース)」に共存している。今の瞬間、発信された周波数は、我々の身体の周囲に存在するだけでなく、身体と同じ「空間」を共有している。電波の波長が身体とは異なるため、あるいは電波間でも波長が異なるために、同じ「空間」に共存可能なのである。波長(周波数)が近すぎると「干渉」が生じ、他の放送局があることに気付く。そうでなければ、互いの存在に気付かない。異なる周波数、つまり、異なる「現実」あるいは異なる「世界」で活動しているわけだ。

例えば、ラジオ第一放送にチューニングすると、第一放送を聴くことができう。第二、第三、第四のラジオ放送は聴こえない。チューニングのつまみを動かして、第一放送から第二放送に切り替えると、当然ながら第二放送が聴こえてくる。だが、あなたが受信する波長を変えたからといって、第一放送が消滅したわけではない。あなたの認識が、別のこと(放送局)に波長を合わせている間も、第一放送は存在し、電波を流し続けているのだ。

まさにこれが、この仮想現実宇宙の仕組みである。我々が、見る、聴く、嗅ぐ、触る、味わう時に使う五感は、我々が今「見ている」と思っている「空間」に存在するもののうち、極めてわずかな部分だけを知覚できる。人間には何もないように思えるのに、猫などの動物が反応して飛び回ることがあるのも、このためだ。猫にとっては何か存在しているのである。猫の可視領域(周波数)は広く、人間の五感の限界を超えて事物の動きを見ることができる。

全てはあなたの内面に存在するということ、あるいは象徴的に、天国は心(マインド)の中にあると言うことは間違っていない。無限の広がりは、あらゆる「空間」もしくは我々の「空間」認識と共存しているのであるから、全て我々の内側に存在することになる。だが問題は、我々の五感では、全ての無限の広がりを把握できないことだ。すべてのラジオ放送を同時に聴くことができないのと同じである。

我々の視覚、聴覚、臭覚、触覚、味覚をもって知覚可能な周波数帯の範囲で振動している、ごく微小な部分を把握できるだけだ。これを私は「五感の監獄」と呼んでいる。多くの人々は、この創作され操作された幻想の罠に捕えられ、それが全存在だと思い込んでいる。また、それをもって自分自身の全てだと信じている。心が描く現実のみだ。この思い込みが、「教育」、マスコミ、「科学」など、いずれも五感の世界のみで全てとする基本認識に染まった支配構造によって、いっそう強化・矯正されていく。

鉄のように、エネルギーの振動がゆっくりしていると、「高密度」で「硬い」ように見える。だが、高性能な顕微鏡で見ていけば、どんなに「硬く」見えるものであっても、振動するエネルギーに他ならない。振動のスピードが増していけば、どんどんエネルギーの密度は薄くなっていき、仕舞には振動が早すぎて五感で把握可能な範囲を超えてしまい、人間の知覚上は「消滅」することになる。だが、消滅したわけではなく、人間の感覚が捕捉可能な範囲を抜けただけである。

幽霊やUFOを目撃した人が、どこからともなく「出現」して「消滅」してしまったと言うのも、これで説明がつくだろう。テレビやラジオのチャンネルがたくさんあるように、互いに交差する仮想現実が無数に存在しており、やり方さえ知っていれば、異なる仮想現実間を行き来することもできる。科学者は、「並行宇宙(パラレルワールド)」と呼んでいる。

五感の現実に束縛された心(マインド)は、現れたものが消えるのを見たなどと言う人は狂っていると考える。「そんなことありえない!」と叫ぶ。だが、ありうるのだ。どこからともなく現れては消えていくのは、我々の五感が知覚できない別の周波数(波長)の存在だからというだけのことである。これを理解しておくことは、「超常現象」と言われる「現実離れ」した世界が完全かつ単純に説明可能なことを理解するのに不可欠である。この本を先まで読めば読むほど、単純になっていくだろう。


ヒューストンへ、我々は宇宙人との接触に成功した



3回目に霊能者の女性を訪れたとき、私は診察用のベッドのような台に横たわって治療を受けていたが、そのときに蜘蛛の巣が顔にかかったような感覚がした。彼女の本に、「精霊」がコンタクトを試みるときに、そんな現象が起きると書いてあったのを思い出していた。おかしなことだが、私がそんな体験をしたのはそのとき限りで、その後はなかった。そのことを彼女には言わなかったが、10秒ほどで彼女はのけぞって「うわ、これは強烈。目を開けていられないわ」と言った。私の尻はベッドから滑り落ちそうになっており、いったい私は何に巻き込まれたのかと自問していた。

彼女は、中国人風の人物が「ソクラテスが私のそばにいる」と言っているのが霊視できると言った。ソクラテスはギリシャの哲学者で、最も有名な弟子にプラトンがいる。70歳で、異端思想と地元の若者を堕落させた罪を着せられ、自ら毒ニンジンを飲んで死刑を執行した。有名な言葉を多く残しているが、中でも「賢明さとは、どれほど知らないかを知っていることだ」と言っている。素晴らしい。中国人風の人物とは、霊能者が想念を集中しやすいように別の現実から投影されたイメージにすぎなかった。「物質」の肉体の領域を超えた次元から根源意識が表現した姿がこの伝達係であり、どんな姿にすることもできたのである。

それが高次の形態(純粋な「意識」と「覚醒」)にあるときの本来の我々の在り様である。異次元の伝達者が霊能者のエネルギー場・脳に情報(思考)を投影すると、それを霊能者が人間の言葉に解読する。先に述べた駅での売店で私が「声」を聞いたのは、まさにそれだった。ラジオ番組が送信機から電波として放送され、ラジオ受信機で音声に復号されるのと同じ仕組みだ。イタリア人の霊能者は、与えられた想念をイタリア語で「聞く」だろうし、イギリス人は英語で「聞く」ことになる。1990年3月のあの日に、霊能者の彼女が中国人風の人物の伝言を私に伝えた仕組みも、それだった。


彼女は地球を治癒するためにやってきた治療者(ヒーラー)だ。世界的に有名になるだろう。 彼女は猛烈な反抗にあう。だが、常に彼を守るために我々は待機している。 まだ彼は霊的にには幼い。これから霊的な財産を身に着けるだろう。 彼は自分が発した言葉がどこから出ているのか怪訝に思うときもあるだろう。それは我々の言葉である。 知識は彼の心(マインド)に注がれる。知識を得るように導かれることもあるだろう。 彼は、その勇気により、少年の頃に選ばれた。与えられたすべての試練に合格した。 彼は規律を学ぶためにサッカーに導かれた。それを学び終えたとき次の段階に進むことになった。落胆・失望に耐える方法を学び、あらゆる感情を経験し、どのようにすれば、そこから起ちあがり、対処していくことができるかを学ぶように導かれた。この霊的な道のりは険しく、誰にでも容易にできることではない。 彼が我々の接触を待っていたことは承知しているが、機が熟していなかった。ここに導かれたのは、我々との接触を求めたためであって、治療が目的ではない。だが、いつの日か完治するだろう。 彼は必要とするもの(「欲するもの」だったかもしれない)を手に入れる。だが、必要とする以上は得ることができないだろう。


その次に霊能者に会いに行ったときも、ふたたび同じ人物が現れ、以下の言葉を私に伝えた。


一人の男が世界を変えることはできない。だが、世界を変えるメッセージを伝えることならば、一人でもできる。 一人でやろうとしないことだ。他の人々と協力し合い、倒れたときは互いに助け起こすのだ。 彼は今後三年間に5冊の本を書くだろう。 彼は霊的な性質が強いため、政治家には向いていない。政治というものは、霊的なものと反対であり、政界では彼は不幸になる。 彼は政界を去るだろう。何かを特にする必要はない。1年もすれば、次第に自ずと進行していくだろう。 今日の飛行機とは、まったく異なる種類の飛行用機械が登場する。 時間には意味がなくなる。いたいと思う場所に、いることになる。




緑の党も知能に支配されている心(マインド)の構築物



私は、BBCテレビのスポーツ番組の司会であり、緑の党の全国代表だった。その私が、地球を癒すために存在する治療者・ヒーラーだと告げられたのである。そして、「一人の男が世界を変えることはできない。だが、世界を変えるメッセージを伝えることならば、一人でもできる」と。どういうことだ?狂っていてバカバカしいようにも思えた。だが、それでも、私の中の一部(直観的な「知」の部分)は、これに付き合ってみるべきだと告げていた。

奇遇にもこの直前に、私はある投資をして、いくらか損失を出していた(直観に従わず頭で考えてしまったのだ)。それほど大金を失ったわけではないが、今後、頭と心(マインド)が一致しないときには、必ず心(ハート)直観に従うべきということを思い知るには十分な体験だった。霊能者から狂ったようなことを聞かされた時に私がした決断はそれだった。抑えられない衝動に従って、私はこの人生の道を歩いてくるしかなかったし、感情的に耐えうる限界の波乱をくぐりぬけてきた。だが、このときに告げられたことは、苦難を伴いつつも、その後、実際に起きたし、起きている。今のところ外れているのは、関節炎が「完治」するという件だけである。私が知りもしないテーマで3年以内に5冊も本を書くという話は特にバカげていた。だが、後に思い出して年月を数えてみるまで気づかなかったが、まさにこの言葉の通りに本を完成させていた。

この話を緑の党の指導層の何人かにしてみたら、緑の党が対抗しているはずの既成の支配構造に染まった人間と変わりなく、閉ざされた心(マインド)で無関心な反応だった。私の話を聞いた者が、「デーヴィッドは頭がおかしくなってきた」と噂を流し始めた。「新しい政治」とはこの程度だ。他の政党とまったく同じことだが、政界に存在しているという事実だけで、緑の党は心(マインド)の構築物になりさがっていた。精神性を重視すると言いつつ、知能に支配されていた。全員がそうだという意味ではないが、組織の体質がそうであり、心(マインド)が認識を支配するに任せている者が大半だった。

彼らは他の政党とは違うと思っているが、心(マインド)でできているという意味では同じだ。イギリスの環境運動で有名なジョナサン・ポリットは、心(マインド)の知能に支配されt典型的な人物であり、私の事を酷評した。彼も他の環境運動の人々の多くも、心(マインド)に支配された人間で、箱の中に囚われた知覚で認識していたし、今でもそうである。テレビで緑の党の代弁者たちが話すのを見ていると、他の政党の政治家と何ら変わりはない。権力の集中(とは言わず、別の表現をするけれども)、人間が原因だとする「地球温暖化」の大嘘など、地球の支配者たちの計画そのものの政策をオウムのように繰り返しているだけだ。彼らは、自らが取って代わろうと懸命に努力している権力の仲間に参加してしまっているが、悲しいことにそれに気づいていない。

特筆すべき例外だが、その当時、極めて卓越した緑の党のメンバーだったジャスティン・ウォーカーである。彼とはその後も長年の友達であり、私がやっていることに関連した分野で彼もさまざまな運動をしている。彼は新たな可能性に心(マインド)を開いたが、私と関わったことで多くの環境運動家から罵声を浴びた。ジャスティンは大したものだ。「階層構造のない」緑の党の階層構造から受けた攻撃は、その後の私に降りかかることに比べると軽い前兆にすぎなかった。


全ては準備されていた----除去すべき世界の闇の深層暴露



霊能者を訪問してから、物事が急速に展開し始めた。私が目覚め始めたこの頃、「偶然」によって他の霊能者たちにも会うように導かれた。それぞれの霊能者は互いに私に話したことを知らないにもかかわらず、その内容は実に一貫していた。世界には除去すべき闇があること、ある話を語る者が必要なこと、それがどういうわけか私の役割だということだった。例えば、こんなことを告げられた。


●大変な思いをして探し求める必要はない。道はすでに用意してある。手がかりを追って行けばいいだけにしてある。我々は定まった道をあなたが進むのを導くだけだ。我々の指導に沿って、あなたは学んでいる。すべては、あなたが生まれる前から準備してあった。

本当の愛は、その人が欲しがっているものを与えるとは限らず、その人にとって最善のものを与える。だから、気に入るかどうかは別にして、受け取るもの全てを歓迎するよう。もし気に入らないものがあれば、どうしてそれが必要だったのか思いめぐらせてみるとよい。そうすればきっと受け入れやすくなるだろう。

彼{アイク}は思考を固める者である。彼が会う人々の中にある「言葉」を浮かび上がらせる。

あなた{アイク}は変わるように求められている。全面的に変わるよう求められている。ちょっとやそっとの変化ではない。裏返しにひっくり返るほど変わることを求められている。巨大な闇が存在している。それを除去できるかどうかは、あなたのような人々がどれだけ集中できるかにかかっている。

その闘いの最前線にいる者にとって、あなたは除雪車のような役目を果たし、糸口になる。どう表現したらよいのだろう・・・きっと「汚れ仕事」をすると言えばよいのだろう。すさまじい量の仕事をしなければならないが、あなたにはそれを実行する能力がある。だからこそこうして選ばれたのだ。汚物をショベルで掻き分け、自ら通った後に道を開き、他の者が進みやすくする。そのために、ここにいるのだ。


人に助けを求めるな

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人に助けを求めるな



私はアジアに行って勉強し、そこの人たちと話し合ったことがあります。私は宗教の表面性を打ち破って、自分が骨身にしみて感じるもの-----私は論理的な人間ではあるのですが------、深く神秘的で神聖なものに到達しようと努めてきました。ですがまだ、それを理解したようには思えません。助言をいただけるでしょうか?


それはあなたが話し合おうとしてきた人たち次第です。この問題を取り上げてみましょうか。

あなたはそもそもどうしてアジアに行くのか、それが不思議です。商売上の取引で、というのなら別ですが。たぶん宗教的な目的でそこに行く人たちは、実際は取引-----あなたが私に何かくれて、{お返しに}私はあなたに何かあげる-----しているのです。真理はそこにあって、ここにはないのでしょうか?真理は人々を通じて、グルを通じて、道を、システムを通じて、預言者、救世主を通じて、発見されるのでしょうか?それとも真理には道はないのでしょうか?

真理を求めて家を出た一人の少年の、素晴らしいインドのお話しがあります。彼は色々な教師のところに行き、果てもなくその国の色々な場所を歩き回り、どの教師もああだこうだと主張しました。長い年月がたって、探して探して探し回り、尋ね、瞑想し、特定のポーズをとり、正しい呼吸法を行い、断食し、セックスを断つなどありとあらゆることをした後で、彼は一人の老人として、昔の家に帰ってきました。彼がドアを開けたとき、それはそこにありました。真理が、まさにそこにあったのです。おわかりですか?あなたは言うかもしれません。「もし彼がそこらじゅうを放浪して{探し}回らなかったら、それはそこになかっただろう」と。それは小賢しい言葉であって、もしもあなたが真理は探し求められるべきものではないということを見ないなら、その話の美しさを見逃してしまうのです。真理は達成されるべきものでも、経験されるべきものでも、保持されるべきものでもないのです。それを見ることができる人には、それは{つねに}そこにあるのです。しかし、私たちの大部分は、果てもなく探し回り、一つのことに熱中したかと思えばまた他のことに移り、一つの興奮から別の興奮、犠牲{断食や性的禁欲}へと動きます。あなた方はこうしたことすべてが行われているのをご存知です。それというのも、時間が私たちが真理に行き着くのを助けてくれると考えているからです。時間にはそういう力はありません。

そこで、問題はこうです。私はロジカルな人間である。けれども、何か深く神秘的なものが存在すると感じる。が、私は理解することができない、と。私はそれを理解することはできます。私はロジカルにそれを見ることはできます。しかし、私はそれを私のハートに、精神に、私の目に、私の微笑の中にもつことはできないのです。質問者は言います。「私を助けてくれ」と。あえて言わせていただくなら、他の人に助けを求めるな、ということです。なぜなら、全神秘はあなたの中にあって、生まれ出るのを待っているからです。仮に神秘なるものがあるとすればですが、人があがき求めてきたもの、発見し、幻想として捨て去ってきたものは、すべてあなたの意識の一部です。あなたが助けを求めるとき-----すみませんが、私はこれを敬意をもって指摘しているのです------あなたが助けを求めるとき、あなたは外部からの、ほかの人から与えられる何かを求めているのです。どうやってあなたは、その他者が真理をもっていると知るのですか?あなた自身がそれをもっていないのなら、彼がそれをもっているかどうかは決してわからないでしょう。

ですから、最初のことは----私はこれを大きな愛情と配慮をもって申し上げているのです-----どうか助けを求めないでください、ということです。もしもあなたがそうするなら、そのときは司祭が、グルが、解説者が、彼らのすべてが、彼らが吐き出すものであなたを窒息させてしまうでしょう。これに対して、もしもあなたが問題を{自分でじかに}見るなら、その問題はこういうものです。世々を通じて、人は聖なるもの、時間によって腐食されることのないものを、ありとあらゆる思考の辛苦によって探し求めてきたのだということ、彼はそれを探し求め、それに思い焦がれ、犠牲を払い、自分自身を身体的に痛めつけ、何週間も断食し、にもかかわらず見つけられなかったということ、です。そこで、誰かがやってきてこう言います。「私がそれを君に見せて{=教えて}やろう。私が君を助けてあげよう」と。そのときあなたは途方に暮れています。しかし、あなたが何か深く神秘的なもの、神聖なものがあるのかとたずねるとき、その神秘は観念としてだけ存在するのです。しかしもしもあなたがその覆いを取るなら、もはや神秘は存在しないのです。真理は神秘ではありません。それは神秘についてのすべての観念をはるかに超える何かです。

それで、人はどうすればいいのでしょう?私は人間で、笑うことができ、涙を流すことができます。しかし、私は真剣な人間です。私は宗教のすべての側面を探ってきました。そしてそれらが表面的{浅薄}であること、グルたちや教会、寺院、モスク、説教師たちの皮相さを悟ります。もしも私がそれらの一つの実際の皮相さと見たなら、その全体を見たことになるのです。私はそれら全部を体験する必要はありません。それで私は何をすべきなのでしょう?何かすることがあるのでしょうか?誰が行為者なのですか?そして、なされることとは何なのですか?関心がおありなら、どうかこのすべてに順を追ってついて来てください。あなたは自分の浅薄さをすべて捨てることができますか?あなたの花飾り、額縁に飾った絵、その他のあらゆるナンセンスも一緒に。そのすべてを捨て、独り立つ stand alone ことができますか?なぜなら、人は独りであらねばならないからです。 alone という言葉は、all one{全一}を意味します。それは孤独 soltitude というのとは違います。孤独はその中に寂しさ loneliness の性質をもっています。あなたは森の中を歩き、独りでいることができます。または森の中を寂しいと感じながら歩くこともできます。その感情は独り在るという感情とは全く異なったものです。さて、私は何をすべきなのでしょう?私は瞑想してきました。様々なシステム、行に従ってきました。そして私はその皮相さを悟るのです。

よろしければ、私はこの話をあなたにしなければなりません。私はボンベイで大群衆に向かって話していました。すると翌日、一人の男性が話し手に会いにやってきました。彼は白髪の、白いあごひげをはやした老人で、私に次のような話をしてくれました。彼はインドの重要な判事の一人、弁護士だった人で、一族や子供たちに重んじられ、たいそう尊敬されている、等々の人でした。そしてある朝、彼は自分に向かって言いました。「私は他の人たちに、犯罪者、詐欺師、強盗、横領者、実業家、政治家たち相手に判決を下してきた。しかし、私は真理が何であるかを知らない。真理が何なのかを知らないなら、どうして私は判決を下すことができようと」と。それで彼はひきこもり、自分の家族からもひきこもり、瞑想するために森に行きました。それはインドの古い伝統の一つで、こんにちまで高く評価されているものです。それは人が世を捨て、インドのどこであれ放浪するとき、その人は衣服を与えられ、食事を供され、尊敬されなければならない、というものです。それは僧侶の組織化された社会ではありません。彼はひとり{単独}です。それで彼は森へと引きこもったのですが、私にこう言ったのです。自分は25年間、瞑想してきたと。そして今、前夜話し手の話を聴いた後で、彼は言いました。「私は自分がどれほど深く自分に催眠術をかけていたか、言いに来たのです。この自己催眠の中で、どのように私は自分自身を欺いてきたのかを」25年かも瞑想してきた人にとって、自分を欺いてきたということを認めるのは----あなたはおわかりになりますか、それを認める人の内面がどんなものであるのかが。

それで私はここにいます。真剣で、ある程度の余暇をもつ人間として、誰につき従うことなく------なぜなら、もしもあなたが誰かに随順するなら、それはその終わりだからです。これをよく見て下さい。それはあなたが永遠であるものに浸透することの終わりなのです。あなたは完全に、自分自身にとっての光でなければなりません。だから誰にも従わず、何も崇拝せず、どんな儀式も行わず、そしてまだ、永遠なるものは私には分からないと悟るのです。それは私の呼吸には、私の目には、私のハートの中にはありません。それで、私は何をすればいいのですか?

まず、脳は中心から、私である中心から自由になれるでしょうか?私の質問がおわかりですか?私の脳は、私自身、セルフ{自己}から自由でいられるでしょうか?そのセルフがスーパーセルフであろうと、ウルトラスーパーセルフであろうと、それは依然としてセルフです。かんたんに言えば、利己性の完全な消散というものがあるでしょうか?セルフという中心 the self centre は非常に狡猾です。それは自分があらゆる利己性から、あらゆる自己関心、なろうとすること{=野心}から逃れたと考えることができます。けれども、非常に微妙なかたちで、奥深く、それは触手を伸ばしているのです。だから人は、自分自身ですべての利己性------それは自己を中心とした活動のすべてですが------からの完全かつ全的な自由がありうるかどうかを発見しなければならないのです。それが瞑想です。利己的であることなく、自己中心的でなく、エゴセントリックな活動、エゴセントリックな運動なしに、この世界で生きる方法を見つけること。もしもそこにその影が、その動きの一つでも残っていれば、あなたは迷うのです。だから、人は思考の一つ一つに動きに広く深く気づいていなければならないのです。

これはたいそうかんたんなことです。それを複雑にしないように。あなたが腹を立てた瞬間、あなたはその感情を知ることすらありません。しかし、それを吟味するとき、あなたはその生気を、貪欲さの、ねたみの、野心の、攻撃性の生起を観察することができるのです。それが生起するとき、それを見守るのです-----それが終わった後にではなく。おわかりでしょうか?それが起きるとき、あなたがそれを見守るとき、それは萎えしぼんでしまうのです。だから、脳は思考の生起に気付くことができるのです。そして思考の生起に対するその気づきが、注意なのです。それ{=生気する感情}を窒息させないように、それを破壊せず、片付けてしまわず、ただその感情に気付いているのです。あなたは空腹感が起きるときのことを知っていますか?あるいは性的な感情が生起するときのことを。明らかに知っています。それが起きるとき、それに完全に気づいていなさい。するとその気づき、<私>の動きへのその注意によって、私の欲望、私の野心、私のエゴイスティックな探求は萎えしぼんでしまうのです。その気づきは、この<私>の微粒子、影がないようにするには絶対き不可欠です。なぜなら、<私>は分離したものだからです。私たちはそのすべてを探ってきました。だから、あなたが理解しなければならない最初のことは、身体のコントロールでも、特殊な呼吸法でも、ヨーガでもないのです。そうしたすべてから手を切ることです。そのときあなたは部分的にではなく、全体として働く脳をもつことになるのです。

私たちは先日、私たちはすべての自分の感覚と共にではなく、部分的にのみ機能しているということを指摘しました。その部分性、狭隘さは、むろん、セルフを強めます。私は今、その詳細に立ち入る気はありません。あなたご自身でそれを見ることができるでしょう。あなたが山や、木々、川や青空を、あなたが愛する人をあなたの感覚すべてと共に観察するとき、そこにセルフは全くありません。このすべてを感じる<私>はいないのです。そしてそれは、歯医者や学者、労働者や宇宙飛行士として機能しているのではない脳を、全体として機能している脳であることを意味します。脳が完全に静まっているとき、そういうことが起きうるのです。そこにはセルフの影はなく、精神の絶対的な静寂----空虚さ emptiness と言えば間違った意味を伝えてしまいます-----があるのです。大部分の人たちの脳はともかく空っぽです。しかし、神も含めたどんなものにも占領されていない脳だけが、静まっており、活力に満ちていて、そのような脳が愛の、慈悲の偉大な感覚、すなわち英知をもつのです。

凡庸な精神・ただ独りあること

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凡庸な精神



数日間、雨が降り続いていた。間断のない大雨、そして北東からの強い風が吹いていた。しかし、この朝はすっかり晴れ渡っていた。青い空、暖かな日差し、そして海は青かった。

商店街を車に乗って通りながら、人は多種多様な物品であふれたそれらの店を眺め、急ぎ足で出たり入ったりしながらいろいろなものを買う人々を眺める。西洋世界では、それは大きな祭日であった。そして騒音と雑踏、人々の果てしないおしゃべりは一帯を満たしているように思われた。そして店々では、誰もが貪欲に、飢えたように物を買っているように見えた。

こうしたすべて-----素晴らしい青空、静かな海、そして貪欲さと切望を抱えたこれらの人々----を見ながら、それはどこで終わるのだろうかと人はいぶかしく思う。そしてなぜ世界はこんなふうに、もしその言葉が閊えるなら、ひどくブルジョワ的になるのだろうと問う。私はその言葉{=ブルジョワ}をあなたがどう解釈するか、それがあなたにとって何を意味するかは知らない。あなたはそれに非常に表面的な意味を与えることも、無視することもできる。あるいは、その言葉が含みをもつ意味を吟味することもできる。この狭い、限定された、ちっぽけな精神が、世界の他のすべての精神と感情、活動を圧倒し、支配しているように見えるのはなぜなのだろう?ブルジョワジーとは何か?人はその言葉を、あまりに多くの政治的含みをもつがゆえにかなりためらいがちに使う。そしてそれは非常に多くの人々によって軽蔑的に用いられる。この軽蔑の中には、自分たちがその一部であるという感情が含まれる。だから、ブルジョワであるとは何を意味するか、見いだすのはかなり興味深いことだろう。明らかに、それは資産{地所・所有物}や、金銭、利己主義が支配的である人のことである。彼は自分の資産を持っていないかもしれないし、たくさんのお金を持っているかもしれない。またはどちらにも執着しているかもしれないとしても、である。世界にはそんな人がたくさんいる。宗教の領域、そして芸術家や知識人たちの世界でも、利己主義はしつこく生き延びている。だから、ブルジョワ精神とはこの利己主義の要素のことかも知れない。「利己主義」という表現にしても、定義はかなり難しい。それは多くの微妙な意味を含むようになっている。その解釈には実にいろいろある。しかし、もしそれを見ることができるなら、その中に少しばかり深く入り込んでみるなら、利己主義は、それがどんなに広く、多くの領域にどれほど拡張的に使われているとしても、狭い性質、狭い活動、限定された、制限的な行為をもつ{ことがわかるだろう}。宗教的な人、僧侶、サニヤーシは、世俗的なもの----資産、金、地位、そしておそらくは特権さえも-----を放棄しているかも知れない。が、彼の利己主義はより高いレベルへと移し変えられただけである。彼は自分自身をその救世主に、グルに、信仰に自己同一化させる。そしてまさにこの自己同一化、自分の思想と感情のすべてをある人物、あるイメージ、何らかの神話的願望に投げ入れようとする努力そのものが、利己主義を構成するのである。だから、利己主義があるところに、この恐ろしいナショナリズム、人々の、人種、国々のこの分裂の根そのものがあると考えてよいだろう。そのような利己主義は精神の偏狭さをもたらし、それは柔軟さと、迅速で鋭い知覚をもつ行為を失わせる。技術者は技術の領域では迅速な対応力をもつ。彼は一つの技術から別の技術へと、一つのビジネスから別のビジネスへと、さらにはある信念から別の信念、ある国籍から別の国籍へと動くことさえするかもしれない。しかしこのかぎられた適応能力と精神の可塑性は自由を与えない。どうしてある特定の信念やイデオロギーを信じ込んでいる人に限りなく柔軟な、易々と曲がる破壊されることのない草の葉と同じような精神と心が持てるのか?さて、ブルジョワというのは、資産や、可燃、自己の利益に執着している人たちである。あなたは自分の妻や友人に、あなたがつくっている関係の中に利己主義があるかどうかたずねるかもしれない。もしもあなたが彼女または彼に、あなたが彼らについてもっているイメージに合うようにしてもらいたいなら、それが利己主義である。しかし、イメージをもたず、けれども特定の身体的、心理的事実を指摘することは、利己主義ではない{主観的な心理的投影から自由な観察と認識がまた別にある、ということ}。

こうしたすべてを考慮して----青空、その広がり、そして空と地平線がまっすぐな、素晴らしい線をなして出会うところを見、そしてあなたが木々や鳥、動物たちを殺す祭日のために買い物に大童になるのや、人々がタバコを吸い、酒を飲み、異性といちゃつき、高価なあるいは安物の車に乗るなどを見て-----こう自問しなさい。自分はブルジョワなのかと。あなたは芸術家、政治家、実業家、あるいはささやかな仕事をもつ普通の人、それとも台所や会社で働く女性かもしれない。職業が何であれ、もしもあなたが他の人ともつ関係、自分の地位、または信念やイデオロギーの上で何らかの種類の利己主義をもつなら、そのとき、避け難くあなたは狭い、つまらないちっぽけな精神をもつことになる。あなたはいい仕事をしているかもしれない。気前よく他の人たちを助け、またはいわゆる幸福な結婚をしているかもしれない。あなたは愛について語り、妻や子供、友人たちを愛しているかも知れない。けれども、そこに何らかのこの破壊的な利己主義があるなら、財産や地位、金や権力にそのような大きな重要性を与える凡庸さの刻印があるのである。このつまらない小さな精神は、人間が自分の周りに作ってきた壁を、障害を超えて進むことはできない。

だから、車に乗って、誰かを待ち、暖かな日差しがあなたの顔や通り過ぎる人々の顔に当たるとき、あなたはそれらの人々の顔を見て、人類には何が起きているのだろうといぶかるのである。若者は年配の人間と同じように溝にはまり込んでいる。ファッションは変わり、その溝もまた変わる。しかし、何らかの伝統に、条件づけにとらえられることは、精神に弾力性のこのと特質を与えない。再び、この言葉は説明を要する。精神または意識は、素晴らしい知識によって、経験によって、苦しみまたは大きな喜びによって、拡張することができる。快楽は精神の弾力性の助けにはならない。喜びは助けになる。しかし、喜びの追求または楽しさの追求は、それが快楽になるのだが、どんな種類の自由も、迅速さ、弾力性も禁じてしまう。すでに述べたように、精神はテクニックからテクニックへと、仕事から仕事、行為から行為、信念から新しいイデオロギーへと動くことはできる。しかし、これは本当は弾力性ではない。精神が何らかの地点、経験、知識につながれ、縛られているかぎり、それは遠くに行くことはできないのである。そして意識の中身が意識を作り上げるように、その中身そのものが自由を、迅速さを、運動の驚くべき知覚を妨害する。意識のその中身が利己主義になる。それはあなたが家具に、または何らかのテクニック、信念や経験に重要性を与えることかもしれない。その経験、その知識、その出来事が利己主義の中心になる。意識をその中身すべてから空っぽにすることが、知覚と行動における全的な運動をもつことである。




ただ独りあること



瞑想とはただ独りあることの行為である。その行為は孤立の活動とは全く異なっている。<私>の、セルフ、エゴのその性質そのものが、集中を通じ、瞑想の様々な型や手法を通じ、そして日々の分離した行動を通じて、それ自らを孤立させることにつながる。しかし、独りあることは、世間から引きこもることではない。人の世界は群居である。それは影響の、意見の相互関係であり、伝統の重みである。それは思考の慰みであり、自己陶酔の活動である。これは避け難く寂しさと、自己を孤立させる惨めさに行き着く。

独りあることは精神が社会の影響の外に出ているときにだけ可能である。そのとき内部に、社会の無秩序からの自由がある。この自由が徳であり、そして徳はつねに単独である。社会の道徳は無秩序の延長線上にある。瞑想はこの無秩序を超えることであり、ヴィジョンの、経験を広めることの私的な快楽ではない。こうした経験はつねに孤立したものである。

愛は分離的なものではない。そして愛が培うことができないものであるのと同じく、アローンネス{一者・全一の感覚}も思考が作り出すものではない。それは思考の活動からの自由があるとき、朝日のように自然にやってくる。

夕日が若草に当たり、葉身の一つ一つにその輝きが宿っていた。春の若葉がちょうど頭上にあり、それはあなたが触れても感じられないほど繊細で、通り過ぎる子供が引き裂くことができるほど傷つきやすかった。そして青空が木々の上にあり、クロウタドリがさえずっていた。水路の水は静かで、それに映るものが現実のものと区別できない{=映像が実物そのものに見える}ほど澄んでいた。アヒルの巣があって、そこには12,3個の卵があり、親鳥がたいそう用心深く乾いた羽根でそれらを覆っていた。戻ってきたとき、あなたは彼女がその上に座り、卵がないように装っているのを見た。そして水路に沿ってずっと歩いていくと、素晴らしい若葉をつけた背の高いブナの木に囲まれて、12、3羽の雛を従えた別のアヒルがいた。たぶんその朝孵ったばかりだったのだろう。その何羽かは夜の間に野ネズミに食べられてしまうだろう。果たして翌日あなたが戻ったとき、2,3羽の雛が消えていた。巣の中にいたアヒルはまだそこにじっとしていた。それは美しい夕暮れで、春の特性である不思議な栄光に満たされていた。あなたは一片の思考もなくそこにたたずみ、一本一本の木、一つ一つの草の葉を感じ、そして人々を乗せて通り過ぎるバスの音を聞いた。

結局、肉体的に一人でいることすら難しくなるばかりである。たいていの人は一人でいたいとは思わず、一人になることを恐れている。彼らは{色々なことで}頭をいっぱいにし、またそうありたいと思っている。目覚めた瞬間から夜寝るまで、さらには夢をみているときまでそうなのである。そして洞窟や、僧として僧院の自分の個室で一人暮らす人たちは、決して独りではない。彼らは自分のイメージと、考えと、彼らに未来の{悟りの}成就を約束してくれる修行と共に暮らしているからである。彼らは決して独りではない。彼らは知識でいっぱいになり、洞窟や個室の暗黒でいっぱいになっている。

人は真にアウトサイダーでなければならない。何物にも、また誰にも属さないアウトサイダーでなければならない。しかし、あなたは戦って出口を見出すことはできない、というのも、そのときあなたはまだ何かに所属しているからである。出口を見出そうとするその戦いの行為自体が、社会を陳腐なものにしているのである。だからそこには内も外もない。あなたが自分は外部にいると気づくや否や、あなたは中にいるのである。だからあなたは社会に対して死ななければならない。そうすればそれを知ることなく、新しい生が出現するのである。その新たなものは経験ではない。それを知ることは古いものに属する。だから孤独の中を歩みなさい。たとえあなたが社会に暮らしているとしても。



水差しは決していっぱいにならない



瞑想は、無尽蔵の水をもつ井戸に、いつも空っぽの水差しをもって行くようなものである。その水差しは決していっぱいにならない。大事なことは、その水を飲むことであり、どうやって水差しを満たすかではない。水差しは水を飲むためには割られなければならない。水差しはいつも探し求めている中心であり、だからそれは決して見出すことができないのである。

探し求めることはあなたの目の前にある真理を否認することである。あなたの目は一番近くにあるものを見なければならない。そしてそれを見ることは終わりのない運動である。自分が求めている対象を探し回り、幻想の中で生きている人は、いつも自分自身の影の限界の中で悪戦苦闘している。探さないことが見出すことである。そしてその発見は未来にはない。それはそこにある------あなたが見ないそこに。見ることはつねに今である。そこからすべての生と行為が起きる。瞑想はその行為の祝福である。

捜し求めることは中心からの、達成、所属、保持を求めてのパーソナルな衝動である。問うことの中にその起点そのものからの自由がある。見ることは昨日の重荷から自由になることである。



謙虚さの本質



厳粛の本質は謙虚さである。謙虚さを知ることはそれを否定することである。あなたが知ることができるのはたんなる虚栄である。あなたは虚栄に気付くことはできるが、謙虚さに気付くことはできない。厳粛さ、僧侶や聖人の謹厳さは、<なることbecoming>の粗雑な運動であり、幻想である。この粗雑さは、暴力の、模倣の、服従のそれであり、そこには無名性anonymityは存在しない。僧侶と聖人は別の名前をつけるかも知れないが、この名前は葛藤の傷を覆い隠す外套である。そしてこのことは私たち皆にとっても同じである。というのも、私たちは皆理想主義者{観念論者}だからである。私たちは虚栄は知っている。しかし、謙虚さは知り得ないのである。私たちの謙虚さは虚栄の反対物である。そしてあらゆる反対物は互いに含みをもっているのである。<なること>は、たとえ内密で、匿名のものであっても、決して謙虚さの性質をもいえない。謙虚さは反対物をもたず、反対物をもつものだけが相手を知っている。

プライドの否定は謙虚さを知ることではない。既知のものに対して死ぬことは未知のもののポジティブな側面である。あなたは既知のものに向かって意識的に、意図的に、それが含みもつすべての知識と共に死ぬことができる。しかし、知られざるものを知ることは不可能である。あなたは未知のもの、謙虚さを知ることはできない。なることの領域では、その運動は既知のものから既知のものへのものである。このことに対して私たちが死ぬとき、依然として既知のもの、記憶、経験、知識の限定内部にとどまっている精神によっては理解し得ない何か他のものが、姿を現す。<あるある being>は<なること>が終わることではない。それが<あること>として認識されるとき、それは依然として<なること>の一部であり、その中には努力、苦闘、混乱、そして惨めさが含まれている。

瞑想は、それ自らが解決できない問題に直面し、自らを強いて静まらせようとする精神のトリックではない。茫然自失した精神は明らかに鈍感になり、信頼しうるものとはならない。そして新しいものを見る能力を失ってしまうのである。そして新たなものは古いものの反対物ではない。

瞑想はこのなるとあるの全プロセス----あるためになることを放棄する-----を明るみに出すことである。このすべては、瞑想的な精神によって一目で見ることができる。そしてこの一瞥は、時間を全く含まない。真理を見ることは時間にかかわる問題ではない。あなたは見るか見ないかである。見る無能力が、見る能力になることはない。

だから、放棄は瞑想の運動であって、おしゃべりで浅薄な精神を祝福の高みに導くことができるような方法や、道、システムは何もないのである。この即座に見ることが、浅薄な精神をそれ自らから解放する真理なのである。

そして謙虚さはいつも、始めにある。が、そこには始まりもなければ終わりもない。そしてこれが比較計測を超えた祝福なのである。

時を超えた今 気づきが私たちの本性

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あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもない。わたしたちは気づき・意識。




過去もなく、未来もありません。いま、ここしか、直接性しかないのです。「あそこ」とか、「あの時」というものは過去のように、現在のように、未来のように見える壮大な幻想の基礎を作っているにすぎません。これがわかったら、この理解がやってきたら、どのようにこれを生きることができるでしょう? 日常生活にどのように実践できますか?

これはおのずから進んでいきます。これを行う者はいないからです。太陽が昇ったり、風が葉を揺らしサラサラと音を立て、植物は茂り、わたしたちの心臓が鼓動するように、わたしたちが介在することなく、自然に進んでいきます。



時を超えた今という驚くべき芝居



師弟関係におおきなジレンマを感じています。「問いかけるという自分権利を放棄してはいけない」、とわたしたの友人は言うのです。他の人たちは、「明け渡すこと」が理想だと言います。

あなたの友人は正しいのです。まだ疑念があるのに、どうやってすべてを明け渡すことができるのでしょうか?このような明け渡しとは、自然なものではなく、むしろ自分自身の概念を放棄し、新しいもの、あなたの師のものに取り換えるという努力なのです。これは、新しい概念に対して明け渡しているのであって、真実に対するものではありません。真実とは疑念ではないのです。あなたの生きた現実なのです。つまり、どんな概念からも完全に自由であることなのです。これを籠の中に入れておくことはできません。それがあなたの師の言葉という黄金の籠であってもです。あなたの師が言うことに関してできることは、それも視野に入れるというだけのこと。あなたの師が真正な人であれば、彼の言葉は次第にあなたの疑念を晴らしていくでしょう。師の言うことをまじめにとらえ考慮しているということが、すでに完全に明け渡しているということです。それがあなたにできる一番のことです。その後のことは、師にまかせてください。真の師とは、少なくともあなたが本質に対する直接的な知識を得るまでは、いつでも質問に対して開いています。それ以降は、適切と感じれば質問に答える選択をするかもしれません。

例えば、師はあなたの人生の実際的な問題に対する霊的な見方への理解を深めてくれるかもしれませんし、今、ここ、というあなたがすでに体験している真実をただ思い出させてくれるかもしれません。どちらの場合であっても、あなたの質問はあなたの内に答えを見つけます。





わたしはなぜ今、あなたとこの話をしているのでしょう?

この質問に対する答えは、自分で見つけなくてはなりません。あなたの動機とは何でしょうか?
何かが欠けている、不完全だという思い、不満足でしょうか?それとも理解したいという願望でしょうか?



今は、理解することです。理解するためにあなたとこの会話をする必要があるでしょうか?それとも、自分自身と同じ会話をすることは可能でしょうか?もしこの同じ会話を自分でできるのであれば、どのようにしたらいいですか?

理解するためには、この会話を自分ですることは不可欠です。あなたのためにわたしが理解してはあげられません。喉が渇いているのなら、誰かが井戸のある場所を教えてくれても、自分で井戸まで行って喉の渇きを癒さなければなりません。ですが、もらった情報によって、時間と努力を省くことはできます。

自分とこの会話をすることは、自分の問いと共に生きるということです。自分が質問することを、それが自然に起こるのであればいつでも、迎え入れるということです。そのうちあなたの質問の公式は変化し、理解が深まるにつれてより精妙なものになっていきます。ある時点で、あなたの質問は自分のうちに消え去り、自由と純真さの内にあなたを残します。


あなたがご存じのことを、わたしは知らないということでしょうか?あなたはわたしよりも多くを知っているのでしょうか?どこかに、あるいはわたしの内に、知っておかなければならない何かがあるのでしょうか?なぜこの探求はあるのでしょう?誰が探求しているのでしょうか?何を探しているのでしょうか?もっとたくさんの知識ですか?何がわたしの探究を終わらせてくれるのでしょうか?

「知ること」というのは何を意味されていますか?記憶にある知識の積み重ねや、過去に学んだ能力のことであれば、確かにわたしが知らないたくさんのものをあなたはご存じですし、逆にあなたがご存じないことでわたしが知っているものがあることも確かです。ですが、こういった質問をされているので、明らかに違った種類の知識のことをおっしゃっているのですね。


他にどのような種類の知識があるのでしょうか?知識の性質とは何でしょう?

相対的で客体に関する知識と、絶対的な知識、自己同一性における知識があります。相対的な知識とは、「わたしはこの人を知っている」とか「ピアノの弾き方を知っている」と言う時に示すものです。ほとんどの人はもうひとつの形態の知識、自己同一性における知識を意識しません。知っているものすべての中心にこの知識はあるのにです。自分が実在しているという事実は、自分にとっては絶対的に確信があるものです。この確信の源を調べてみると、相対的な知識の道具である六感(聴覚、視覚、味覚、臭覚、体感覚、思考9のどれにも根ざしていないことがわかります。この絶対的な知識から生まれる確信は完全なものですが、相対的な知識の道具で確かめることができる事実はどんなものでも、疑問の余地があります。愛の体験、美の体験、幸せの体験は、自己同一性における知識の実例です。この新しい形態の知識に気が付くと、これにさらに戻っていくようになり、最終的にはこの内に落ち着きます。

そこで問いが起こるかもしれません。あなたにはないある種の超越的な心がわたしにあり、あなたには気づかない何やら神秘的な知識にアクセスできるのではないか、と。あなたにはない何かがわたしにはあるのではないか、と。まったくそうではありません!完全に幸せであるのに必要なものすべてを、わたし同様、あなたも持っているのです。それでは、わたしたちの違いとは何でしょうか?ふたつにひとつの可能性として、わたしにはない何かがあなたにあるということなのです。それは何でしょうか?

あなたの最初のご質問が、ヒントになります。あなたは何かを探していて、わたしはそうではありません。あなたが探しているという事実は、何を教えてくれますか?あなたはまだ持っていない何かがあると信じていて、これがあれば探求に終わりを告げられるかもしれないと思っている、ということを教えてくれます。なぜわたしは探していないのでしょうか?なぜなら、とても明白に自分であると知っているこの気づきとは無関係に実在する何かがあるという信念から、わたしは解放されているからです。そして、体や心のように、自分として認識する特定の何かがここにあるということを信じていないからです。自分であると明白に知っているこの気づきとして。特定の何かになることなく、明らかに自分であるものである以外、何もなく、わたしはすべてです。すべてであり、ほかに求めるものはありません。なので、そこに違いがあります。あなたには自分であるもの、自分でないもの、あるいは自分にあるもの、ないもの、という信念があり、わたしにはそのような信念はなく、実際に自分自身であると体験しているもの、時を超えた今という驚くべき芝居に居続けています。わたしの内に探究しているものが誰もいないので、「誰が探しているのでしょうか?」という質問は、あなたが答えるべきものです。この質問は、調べてみるには一番の質問ですし、真実へのあなたの願望が本当であって真摯であれば、旅の終わりまであなたを導きます。

より多くの知識や能力を積み重ねることで、この探求を終わらせることは決してできません。この探求は学習するものではなく、むしろ積み重ねが概念、信念、習慣といった捨て去るものなのです。そういったものがこのシンプルさ、自発性、自分の本質であるよろこびを体験することを妨げています。

あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもないというわたしの助言を調べることで、本当に自分であるものを理解する道を拓けます。これを調べるのであれば、知的な次元、体感覚の次元の両面で、徹底的に追及されなければなりません。これを調べた結果、得られる理解は、「わたしは誰なのか?」という問いに対する答えですが、これは心を超えたところ、時空間の先にある、あなた本来の美と永遠性にまであなたを運んでいく体験となります。この体験で、あなたは自分が探し求めていたものだったと知ることになります。これが問いの終わりであり、すべての問い、すべての探究、すべての恐れや願望の終わりになります。


完全な幸せとはどういうことか、教えていただけますか?わたしは幸せだと思っていません。わたしがまだ人間の発明したゲームをしている大きな理由が、これなのです。このゲームでは、ひとつの客体から他の客体に常に動いていて、動いている理由は、幸せになるためです。このゲームには安らぎや幸せはないと思います。

わたしたちはみんな、幸せを知っています。これを説明することはできませんが、これを探しているという事実が、わたしたちはこれを知っているということを証明しています。欲しがっていた客体が得られると、しばらくの間、幸せを体験します。幸せは客体にあるという信念がわたしたちの犯している間違いで、実際には、わたしたちはすでにこの幸せなのです。ある客体が手に入ると、しばらくの間、願望が止み、願望がないことから来る幸せ、ほんとうの自分を体験します。そのうちに無知から新しい願望が生まれ、深くわたしたちそのものであるこの幸せを再び覆い隠すのです。あなたがおっしゃったように、ある時点で客体から客体への終わりなく活動に気が付きます。人生の中でこれは非常に重要な時です。これによって真正な霊的探求、終わりなき幸せの探究の道が拓けるからです。


気づきとはどういうことか、ご説明いただけますか?わたしの体験では、わたしは(体、心として)実在し、あるものを欲しがり、あなたやほかの人たちもまた、わたしと同じです。わたしはほかの人たちとは無関係に実在することができると感じています。わたし、から、わたしたち、になることもできます。これはただの信念だとおっしゃいますか?気づきとは見たり、聞いたり、感じたりするためのものではなく、もっとそれ以上のものなのでしょうか?

あなたの体、あなたの心、あなたの願望、フランシス、ほかの人たちは誰に対して現れているのでしょうか?間違いなく、あなたに対してですね。あなたは自分の体、心、願望の目撃者です。それなので、あなたはこれら特定の客体のどれでもありません。あなたは純粋な気づきであり、これは意識とも呼ばれますが、あなたの考え、感情、知覚の本源的な目撃者です。

自分は他人と関係なく実在することができるという感覚は、実に正しいものです。他人はいつもあなたの意識にあるわけではありません。気づきとしてあなたはいつもあるという事実から、これは引き出されています。これを深く考えてみると、自分の体がいつもあるわけではないという結論にも至ります。たとえば、考えているとき、熟睡中、ふたつの考えの間などです。なので、自分の体、これは感覚認識から成るものですが、これとは無関係にあなたは気づきとしてあります。このように調べ続けていくと、自分は考えでもないということが明らかになります。なぜなら、考えとは行ったり来たりしますが、あなたは、気づきは、そのままだからです。なので、あなたは自分の心、少なくとも自分の心の客体的な部分、考えではありません。

この時点で、自分は客体ではないということ、考えとして概念化されたり、感覚を通して知覚されるものではないということが明らかになるはずです。これが理解するのに必要なすべてです。ですが、この理解は完全なものでなくてはならず、これに沿って行き、行動しなくてはなりません。

あなたであるものは、信念や知覚ではありませんが、一方、自分であると信じているものは間違いなく知覚です。気づきのうちで見る、聞く、考えるが現れ、気づきに消えていきます。なので、これらは気づきから成るのです。ですが、気づきは、あなたの素顔は、六歳以上のものであり、個人の心以上のものであり、毎瞬、意識に浮かんでは消えるこの森羅万象よりもずと大きなものです。意識ある存在物すべてが共有する土台であり、起こり得るすべての世界をその過去と未来と共に、完璧な同時性の内に内包する時間を超えた現存なのです。



理解することで探究を終わらせることはできますか?「誰」は消えるでしょうか?

自分ではないものを自分であるとすることを本当にやめると、気づきとしてありつづけます。この時、すべての質問に対する答えを見つけ、平穏としてあるようになります。


「誰」とは何で、この性質とは何ですか?

この質問も、あなたご自身で答えなければなりません。


明らかに、知識を増やすことでこの探求を終わらせることはできません。探究とは常に、不完全な知識を踏まえたものだからです。日常生活における概念、信念、習慣とはどういう意味か、お話しいただけますか?



例えば、こんなふたつの概念があります。人間と神。信念の例を三つあげましょう。「わたしは人間である」、「神はいる」、「神はいない」。信念が不変のものになると、習慣を創り出します。例えば、「わたしは切り離された実体だ」という信念は、防御・攻撃、貪欲、恐れ、願望のパターンを創り出します。


わたしたちが知っているすべては概念なのでしょうか?何が現実で、なにが現実ではないのでしょう?

客体の領域であっても、知っているすべてが概念というわけではありません。たとえば、体感覚は概念ではありません。やって来ては去っていくすべてが現実ではありません。悪夢の後、脅迫的な夢は消え去ります。これが消えることで、その非現実性が明確になります。同じように、考えも知覚も一時的なものであるため、現実ではありません。気づきはこれらを永遠かつ本源的に目撃する者であり、唯一の現実です。



概念から抜け出すにはどうすればよいでしょうか?わたしたちはみんな概念に拠ったやりとりをしていますし、これらはすべて心にあるものです。「どうやって?」というのは、新しい概念を引き出しませんか?この捨て去るというのは、どのように成されるのでしょう?

とても良い質問ですね。「どうやって?」ということで、心に居続けることになります。「どうやって?」という質問に対する答えは、新たな概念だからです。ですが、理解することは概念ではありません。理解するためには、心を超える必要があります。心を超えてこの知性にまで連れていく力のある概念があります。しばらくの間、このような概念に生きると、これについて考え、調べると、この概念が突然、理解の内に消える瞬間がやってきます。


世界は幻想 夢見る者

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この世界は幻想であるとおっしゃいましたが、これはどのように見つけられたのですか?

この質問の裏にある質問は、こうですね。「この世界は幻想であるとおっしゃいますが。これはどのように見つけられますか?」

そのとおりです!

この世界は幻想だと言うとき、この世界はないという意味ではありません。わたしはただ、この世界は気づきから切り離されたり隔てられている客体としてではない、と言っているのです。

言い換えると、古典物理学がわたしたちに信じさせようとしている世界は自律的ではありません。これは知覚として認識されれば否定されることはありませんが、認識されなければ、あると証明できません。

ですが、幻想はそのまま、幻想と呼ばれるもののまま、見かけ上はあるということは認めてらっしゃいますか?

認めています。幻想はふたつの要素からなっています。根本的な現実と、重ねあわされた幻想の概念です。暗がりにロープがあるとして、それを間違って蛇と思ったりします。ですが、明かりをつけると、蛇というものの現実はただのロープだということがわかります。蛇など初めからいなかったのです。蛇はまったくの幻想でした。幻想とは、非実在です。蛇はいませんでした。蛇の現実はロープだったのです。

これを理解するのは難しいです。蛇はいなかったとおっしゃいますが、それを見ただけではなくて、その色やどれくらい長かったかなど、説明までできるかもしれません。なので、絶対的に何もなかったと言うことはできません。それに、その時、ロープは見なかったのですし。

もちろん、そうですね。色やその他、蛇のすべての特徴は、ひとくくりの概念として一緒になって幻想を創り出しています。ですが、ロープを見なかったという言い分は誤りです。ロープ以外は見ていなかったのです。その本当の姿を認識しなかっただけで、蛇という観念をそれに重ねあわせたのです。同じようにして、世界は外に、わたしたちとは切り離されてあるという観念は幻想です。知覚するものが現実そのものなのです。ほとんどの人が現実そのものを認識せず、外側にある自分とは無関係な世界という観念を重ねあわせています。

世界とはこの場合の蛇ですね。そこにあるように見えるけれども、いない。

その通りです。これが世界と言われているものなのです。それでは、この場合のロープとは何でしょうか?蛇が現れる前、蛇が現れた後、蛇が現れている間、現実にはロ―プがありました。世界が現れる前、世界が現れた後、世界が現れている間、気づきがあります。このように、唯一の現実とは気づきです。





精神機能の裏とその間に、気づきという継続的な背景があると、別の機会におっしゃいました。なぜそれが重要で、これが本当にそうであるとどうやって知ることができますか?わたし自身の体験からこれが実際にそうであると、どうやってわかりますか?

心とは思考と知覚でできていて、これが精神機能と呼ぶものです。精神機能が現れている間は、気づきがあるという事実に挑む人は誰もいないでしょう。

そうですね。いません。

なので、あなたのご質問は、「ふたつの精神機能の間に気づきがあるという事実に、どうやって気づくことができますか?」ということでしょう。これらの精神機能とは心のことです。ふたつの精神機能の合間は、客体の心から来るものではありません。これは心を超えて、手の届かないところにあります。五感を通して知覚することはできなく、概念化することもできません。

考えることも想像することもできないのなら、ここでどうやってこれについて話すことができるのでしょうか?わたしたちは今、これについて話していると思うのですが。

想像できるのは、これが想像できないものだという事実です。これが想像できないものだと想像することで、心が浄化されます。この理解の結果として、わたしたちであるものと心や体のように、客体として想像したり知覚したりできる何かであるという古い信念、古いパターンから心が離れます。心では精神機能の最中や間にあるこの気づきにアクセスすることができないという理解に心が至ると、心は静かになります。ですが、ふたつの精神機能の間に意識があるという確信は、心から、つまり論理的な説明から起こることは決してありません。現実を体験することからのみ、この理解は生まれます。「わたしは誰なのか?」と自分に問い、自分であるものは知覚することも想像することもできないと深く理解するとき、わたしたちは気づきとして留まります。言葉での答えではなく、概念でもなく、知覚でもありません。これは、確実性と必然性を備えた、生きた答えなのです。

ほんとうの自分に関する考えの終わりに、これを体験することもあります。このような考えは、遠心的ではありません。つまり、ハートの真意に向かっていくほかないのです。そして、身近な現実に関する考えがその源で死ぬと、恩寵の瞬間が訪れます。この体験は時間を超えてあり、その内ではわたしたちは壮麗さであり、永遠であり、愛です。

わたしは自分の願望を愛しています。願望があることで、生きている実感を得るのです。どうしてそれをやめなくてhならないのか、わかりません。

あなたの願望を愛してください。戦おうとしないでください。それを歓迎してください。それに対して抗うのであれば、その起源を理解する道は開かれません。知性は愛の内に始まります。あなたの願望を愛し、何が一番の願望なのか理解してください。客体を欲していることに気付いたら、「この客体はわたしが本当に欲しい幸せをくれるだろうか?」と問いかけてください。「はい、くれます」というのが答えなら、どうぞ先へ進んで、その体験から学んでください。願望を愛することで、それについて問いかけることで、こういったものはすべて平穏と幸せへの願望、自分の本質、自分の真の故郷を見つけたいという願望に重ねあわされているものだとわかるときが来るでしょう。


自分の願望を歓迎する、それをむしろ愛するというのは、そういったものに溺れているということになりませんか?自分の願望を歓迎するとおっしゃるのは、それに溺れるというのとは違うのですか?

そうですね、違います。望む客体が手に入れば、自分が本当に求める幸せがやってくると思っている場合にだけ、願望に溺れます。知らせを受け取るとすぐに、つまり、自分が探している幸せはどんな客体からも得ることができないことを受け入れているとすぐに、新しい次元に開かれます。すると、これを理解することの副産物として自然に起こるのですが、無執着があなたの内に生まれます。この無執着によって、あなたである気づきと、あなたの内に起こる願望との間にいくらかの距離が保たれます。願望によって「行き詰まる」ことがなくなります。変化と理解、学びのための空間が、余裕がそこにあります。

睡眠中、夢をみている者は自分であるわたしとわたしが思い込んでいますが、あなたはそうではないとおっしゃります。なぜでしょうか?

目が覚めると、夢で自分だと思っていた象は自分ではないと確かにわかります。自分が夢見ていた世界はただの幻想だということは間違いなく、同じように、夢で自分だと思い込んでいた人格は、それ自体が夢の一部、つまり、幻想だったことがわかります。夢では違う性別や違う姿、鳥や象になることもできます。

それは確かにそうですが、「夢では、・・・・わたしたちは鳥や象になることができる」というあなたの話し方では、夢をみるということをしているのは自分だという観念があります。

夢の状態と言われるものの、目覚めている状態と言われるものは、共通の背景があります。夢があるとき、この共通の背景、夢をみる者と見られているものはひとつです。ただ夢があるだけです。

そうですね。

夢の状態と気づきはひとつです。

夢の状態とは、気づきのひとつの形なのですか?

夢をみることは気づきなのです。

夢の客体の気づきなのですね。

夢の状態があるときには、夢の状態があるだけです。夢見られている客体というものはありません。夢の基となるものは、実際には気づき以外の何物でもありません。そのため、夢の状態とは気づきであるとわたしは言っています。同じように、目覚めているとき、目覚めていることは気づきなのです。なので、気づきとは、目覚めていること、夢見ること、熟睡さと、これらの状態の間にもある共通の背景なのです。

ということは、夢を見る者と夢の中の自我の間に感じられるつながり、わたしが自分の夢を見ていて、起きている間とまったく同じに眠っている間にもずっとあるという観念は、完全に間違っているのですね。

そのとおりです。夢の中の自我というのは概念です。目覚めている状態の自我というのもまた、概念です。彼らの共通の現実とは、気づきという根底にある背景にあるのです。

夢の中の人物にあらゆる言動が起こったり、その人物ではないものを知覚したりしますが、この夢の中の自我は、目覚めている状態の自我と何の関わりもないということですか?

そのとおりです。

このふたつの自我の間に密接な関係があると考え、人生の状況に対する夢の意味を解こうとしている人たちに対して、何とおっしゃいますか?目覚めている状態にありながら夢の状態にアクセスすることはできますか?

そういう人たちにですか。「頑張ってください!」とわたしなら言うでしょう。意識を通じているという以外に、このふたうの状態に何の関係もないからです。なのでこれは、最終的には徒労に終わる無益な試みなのです。あなたが初めにおっしゃったことに戻ってみましょう。「・・・睡眠中、夢をみている者は自分である」。自分の夢の中で夢見る者ではなく、目覚めている状態と言われているもうひとつの夢を含め、自分の夢のすべてを見ている者なのだ、ということでしょう。なので、わたしたちは本源的な夢を見る者なのです。

ということは、わたしたちはそれぞれの夢をみているだけではなくて、それぞれの夢の中で夢見る者を見ている者でもあるということですね。

そのとおりです。すべての夢の中にいる、すべての夢見る者を見ているのが自分なのです。




 カテゴリ

愛、欲望、セックス、依存

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依存、執着のあるところ、愛はない



それで、心理的に私たちの関係は依存に基いています。だから恐怖があるのです。問題はどのようにして依存しないようにするかではなく、私たちが実際に依存しているという事実をただ見るのです。執着があるところには、愛はありません。誰を愛すればいいのかわからないので、あなたは依存し、だから恐怖があるのです。重要なのはその事実を見ることであり、どのようにして愛するか、あるいは、どうすれば恐怖から自由になれるかとは尋ねないことです。


依存があるところ、恐怖がある



反芻せず、受け入れず、それについて意見を言うことなく、あれこれ引用したりもせず、ただ、執着のあるところには愛はなく、依存があるところには恐怖があるという事実に耳を傾けなさい。私は心理的な依存について話しているのであって、あなたが牛乳の配達を牛乳配達人に依存していることをとやかく言っているのではありません。あるいは、あなたが電車や橋に{社会生活上}依存していることを問題にしているのではありません。恐怖を育むのは考えや人々、財産へのこの内的な心理的依存なのです。




愛は関係の理解を通してやってくる



愛は培うことのできないものです。愛は精神によってもたらされるものではありません。もしもあなたが「慈悲深くなるよう練習をしよう」と言うなら、そのとき慈悲は精神がつくるもので、だからそれは愛ではないのです。愛は、私たちが関係のこのプロセス全体を理解するとき、こっそりと、気づかれないように、かつ完全に、姿を表わします。そのとき精神は静まっています。それは心を精神がつくり出したものであふれさせず、だから愛が現れることができるのです。


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私たちはどうしてセックスをこんなにも重要なものにしてしまったのか?



セックスの問題とは何なのでしょう?それは現実なのか、それともその行為についての思考なのでしょうか?たしかに、それは行為そのもののことではありません。性行為は食べることがあなたにとって問題にならないのと同じく、問題ではありません。が、ほかに考えることが何もないというので、一日中食べることやその他のことについて考えるなら、それはあなたにとって問題になるのです。・・・どうしてあなたはそれをわざわざ問題に仕立て上げるのでしょう?それは明らかにあなたがしていることなのですが。映画や雑誌、小説、女性の服装、すべてがあなたの性についての思考を強化しています。そしてなぜ精神はそれを強化するのでしょう?そもそもなぜ精神はセックスについて考えるのでしょう?紳士淑女の皆さん、なぜなのでしょう?それはあなた方の問題なのです。なぜなのでしょうか?

どうしてそれはあなたの人生の中心問題になったのでしょう?あなたの注意を喚起し、要求するあまりにも多くの事柄がある中で、あなたはセックスについての思考にすっかり注意を奪われています。何が起きているのでしょう?どうしてあなたの精神はそれほどまでいそれに心奪われているのでしょう?それはセックスが究極の逃避手段の一つだからです。ちがいますか?それは完全な自己忘却の手段なのです。

しばらくの間、たとえその瞬間だけでも、あなたは自分自身を忘れることができるのです----そして他の自分自身を忘れる方法は無いのです。あなたが人生で行う他のことはすべて、<私>、セルフを強めます。あなたのビジネス
あなたの宗教、あなたの神々、あなたの指導者たち、あなたの政治的・経済的行為、あなたの逃避、あなたの社会的活動、あなたがある党派に参加して他の党派を拒絶すること-----それはすべて、<私>を強調し、強化します。・・・あなたの人生に窮極的な逃避、たとえばほんの束の間のことであっても完全に自分自身を忘れる手段となる唯一のものが存在するとき、あなたはそれに執着するのです。なぜなら、それがあなたが幸福・・・・でいられる唯一の瞬間だからです。

だからこそセックスは、あなたがそれについて考える精神を理解しないかぎり、途方もなく困難で複雑な問題となるのです。




なぜセックスは問題なのか?



私たちが自分が触れるものは何でも問題に変えてしまうのはなぜなのでしょう?・・・なぜセックスは問題になるのでしょう?なぜ私たちは問題と共に{=それを引きずりながら}生きることに屈してしまうのでしょう?なぜ私たちは問題を終わらせてしまわないのでしょう?なぜ私たちは来る日も来る日も、年から年へとそれを引きずる代りに、自分も問題に対して死なないのでしょうか?たしかにセックスはこれに関連する問題の一つです。それについて私たちは今答えようとしているのですが、しかし、ここに主要な問題があります。なぜ私たちは人生を一個の問題にしてしまうのか、ということです。仕事、セックス、お金を稼ぐこと、考えること、感じること、経験すること、生きること全体----それがどうして問題になるのでしょう?その本質的な理由は、私たちがいつもの特定の見地、ある固定した見地から考えるからではないでしょうか?



欲望は愛ではない



欲望は愛ではありません。欲望は快楽へとつながります。欲望は快楽です。私たちは欲望を否定しているのではありません。私たちが欲望なしに生きるべきだと言うのは、全く馬鹿げたことでしょう。それは不可能だからです。人はそれを試してきました。人々は自分にあらゆる種類の快楽を禁じ、自分を規律づけ、苦行を課してきましたが、欲望はそれでもしつこく生き延び、葛藤と、その葛藤に由来するありとあらゆる残酷な結果を生み出してきたのです。私たちは無欲を提唱しているのではありません。が、欲望、快楽、苦痛の現象全体を理解しなければならないのです。そしてもしも私たちがそれを超えることができるなら、それには愛である祝福とエクスタシーがあるのです。

欲望と渇望

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欲望における苦痛は欲求不満の恐怖である



私たちの大部分にとって、欲望は大きな問題です----財産への欲望、地位や権力、快適さ、不死や継続への欲望、愛されたいという欲望、何か永続的なものを得たいという欲望、満足への、充足への欲望、時間を超えるものを得たいという欲望。さて、欲望とは何でしょう?私たちをたえず衝き動かし、強いているこのものは何でしょう?-----それは自分がもっているものや今ある自分に満足すべきだということを意味しません。それは私たちは欲しているもののたんなる反対物でしかありません。私たちは欲望とは何かを理解しようとしているのです。そして私たちがその中に試しに、ためらいがちに入ってゆくことができるなら、私たちはたんなる欲望の対象の置き換えではない変容をもたらすことができるだろうと、私は思います。欲望の対象を別の対象と取り替えることを、ふつう私たちは「変化」と呼んでいます。そうではないですか?ある特定の対象に満足できなくなって、私たちはその代わりになるものを見つけるのです。私たちはたえず欲望のある対象から、自分がより高度、高貴な、より洗練されていると考える別の対象へと動き回っています。が、どんなに洗練されていようと、欲望は依然として欲望なのです。そしてこの欲望の運動の中に、終わりのない苦闘、反対物間の葛藤があります。

ですから、欲望とは何で、それは変容させられうるかどうかということを見出すのは重要なことではないでしょうか?・・・そして私は、解決できるでしょうか?----欲望のその中心-----一つの特定の欲望、ある特定の嗜好や願望ではなくて、欲望の、渇望、希望の全構造を・・・。その中にはいつも欲求不満の恐怖があります。私が欲求不満になればなるほど、私は<私>にそれだけ多くの強さを与えることになるのです。希望や切望があるかぎり、そこにはいつも恐怖の背景があり、その恐怖が再びその中心{=ミー}を強めることになるのです。・・・

身体的な必要を超える、どんなかたちの欲望も----偉大さ、真理、美徳への欲望など----それによって精神が<私>の考えを築き上げ、それ自身の中心を強化する心理的なプロセスとなります。



欲望の運動を追う



欲望とは、行動を要求するいろいろな種類の欲求を満たしたいという衝動を意味します----セックスへの渇望、あるいは偉大な人間になりたいとう願望、車をもちたいという欲望・・・を。

それで、欲望とは何なのでしょう?あなたは美しい家や素敵な車、あるいは権力や地位をもつ人を見るとします。するとあなたはその家をもちたい、自分がその地位にある人だったら、拍手喝采を浴びられたら、等々と思うのです。どのようにしてこの欲望は起きるのでしょう?まず、視覚的な知覚があります----家を見るといったような。<私>はそれからずっと遅れてやってきます。家を見ること、それは視覚的な魅惑です。輪郭の魅惑、車の美しさ、色、それに対する知覚があります。

どうかついてきて下さい。私ではなく、あなたがそれをしているのです。私は言葉を与え、説明しています。しかし、あなたが観察しているのです。私たちは一緒にそれを分け合っています。あなたはただ話し手の言うことを聴いているだけではないのです。だからあなたは欲望としてのあなた自身の思考の運動を観察しているのです。思考と見ることの間には分離はありません。それらは一つの運動です。思考と欲望の間には、分離していない物があり----そこに、私たちは今入り込もうとしているのです。


欲望の生起



ですから、見ること、知覚することがあります。それが感覚反応を生み出します。そのとき心に何か動くものがあります。すると欲望が----所有の欲望が----起きて、その感覚刺激に継続性を与えようとするのです。これはいたって単純なことです。私は美しい女性または男性を見ます。そのとき見ることの快感があります。そしてその快感は継続を要求します。だから私は、そこから思考が生まれると思うのです。そして思考がその状態について考えれば考えるほど、その快感の、あるいは苦痛の継続性は高まります。そのとき、その継続があるところに、<私>が入ってくるのです-----私が望もうと望むまいと。これがわたしたちが一日中、寝ているときも、起きているときも、していることです。

そこで、人はどのようにして欲望が生起するかを見ます。知覚、接触、感覚。その感覚に継続性を与えようとする{思考の}動き。そうしてできた間隔の継続が欲望なのです。欲望には何も神秘的なものはありません。欲望それ自体にではなく、欲望がそれを通じて充足を得ようとする対象の中に対立が生じる時、欲望は非常に入り組んだものになるのです。ちがいますか?私は大金持ちになりたいと思います-----つまり、私の欲望が私は金持ちにならなければならないと言うのです。なぜなら私は財産、車その他いろいろな物をもつ人たちを見るからです。欲望は言います。

「私はもたねばならない、満たされねばならない」と。



欲望は抑圧するのではなく、理解されなければならない



欲望はあらゆる方面で満たされることを求めます。欲望実現の対象となるものは魅力的ですが、それぞれの対象が相互に矛盾します。

それで私たちは生き、適応し、欲望実現のために戦い、そして欲求不満に陥るのです。それが私たちの人生です。そして神を見出すために、いわゆる宗教的な人々、聖人、司教、僧侶、尼僧たち、社会福祉に携わる人々、いわゆる宗教的な人々は、こう言うのです。「あなたは{欲望を}抑圧しなければならない、純化しなければならない、自分自身を神と一体化させて、欲望が消えるようにしなければならない。女性を見たときは、彼女に背を向けなければならない。どんなことにも、生命にも感じるな。音楽を聴くなかれ、木を見るな。とりわけ、女性を見てはならない!」それではふつうの人々の生活は社会の奴隷にひとしいものになってしまいます!

欲望の理解-----抑圧ではなく、理解------がなければ、人は決して適応や恐怖から自由になることはできないでしょう。あなたが何かを抑圧するとき、何が起こるかご存じでしょう?あなたのハートが駄目になるのです!あなたは修行僧、僧侶や尼僧を見たことがありますか?世間から逃避している人たちを。何と冷淡で、堅苦しく、高潔、聖人ぶって、窮屈な規律の中に生きていることでしょう!彼らはいつ果てるともなく愛について語ります。そして内部では彼らは{抑えつけられた欲望で}沸き立っているのです。彼らの欲望は決して満たされず、理解されることはありません。彼らは美徳の外套の中で死んでいるのです!

私たちが言っていることはこれとは全く異なったことです。・・・人は欲望について見出し、学ばなければなりません----学ぶのです、それについて何をすべきか、どうやってそれを窒息させるかではなく。




理解をもてば、欲望は起きるが根付かない



欲望は矛盾を生み出します。そしていくらかでも目覚めている精神なら、矛盾の中に生きることは好みません。それゆえ、それは欲望を取り除こうとするのです。しかし、もしも精神がそれを消し去ろうとせずに、「これはいい欲望で、あれは悪い欲望だ。私はこちらを保持してあれは捨てよう」と言うことなしに欲望を理解できるなら、もしも精神が拒絶することなく、選択することなく、非難することなう、欲望の全フィールドに気付いていることができるなら、そのときあなたは精神が非常に静かになるのを見るでしょう。欲望はやってきますが、それはもはや影響力をもちません。それらはもう重要な意味をもたなくなります。それは精神に根付いて問題を引き起こすことはなくなるのです。精神は反応します。でなければそれは死んだも同然です。しかしその反応は表面的なもので、根付きません。だからこそ、私たちの大かたがとらわれている欲望のこの全プロセスを理解することは重要なのです。



欲望をもちながら、それに従わないでいることは可能か?



しかし、私たち大方の者にとって、欲望は放縦を、自己表現を意味します。私はそれを欲し、それ{=欲望の対象}を所有しなければなりません。美しい人、家、考え、対象が何であれ、私はそれをもたなければならないのです。なぜ?どうして「ねばならない」が出現するのでしょう?どうして欲望は「私はそれをもたねばならない{それにならなければならない}」と言うのでしょうか?それは苦悩、衝迫、衝動、是が非でもそれがなくてはならないという欲求を生み出すのですが。欲望の一つの形態である、この執拗な自己表現の欲求がなぜあるのかは、いたって簡単明瞭です。自己表現の中には、ひとかどの者であることの中には、大きな喜びがあるのです。なぜならあなたは{それによって}認められるからです。人々は言います。「全く!君は彼が誰なのか知らないのかい?」----その他あれこれのナンセンスがあるのです。あなたは言うかもしれません。それはただの欲望、ただの快楽じゃない。なぜなら、欲望の背後にはそれよりずっと強い何かが存在するからだと。しかし、あなたは快感と欲望を理解することなしにはそこに行き着くことはできないのです。欲望と快楽の生きたプロセスは、私たちが行動と呼ぶものです。私は何かを欲しいと思います。そこで働いて、働いて、働いてそれを手に入れます。私は作家として、画家として、有名になりたいと思います。それで私は有名になれるよう、考え着くありとあらゆることをするのです。通常、私は途中で断念して、決して世間に認められることがありません。それで欲求不満に陥り、苦悩を経験します。それから私はシニカルになるか、さもなければ謙遜を装います。そこから他の諸々のナンセンス一切が始まるのです。



なぜ私たちはこれほど願望のとりこになるのか?



そこで、私たちは自分にこう問いかけます。なぜ充足されることを求める欲望のこの執拗さがあるのか?もしあなたがコートやスーツ、シャツ、ネクタイ、靴がほしいのなら、それを手に入れます----それはただそれだけの話です。しかし、自己充足へのこの執拗な衝動の背後には、明らかにひどい無力感、寂しさの感覚があります。私は一人では生きられない、私はひとりぼっちではいられない、なぜなら、私は自分の中では満たされないからだ。あなたは私よりたくさんのことを知っている、あなたは私より美人で、知的で、頭がよく、もっとあれがあり、これがある。だから私はそういったことがみんなほしい、云々。なぜ?私はあなた方がこれまで自分にこうした問いかけをしたことがあるかどうか知りません。もししたことがあるなら、そしてそれがあなたにとってたんに頭の先だけの問いでなければ、そのときあなたは答を見つけ出すでしょう。

私はどうして人が多くのこと、またはあることに思い焦がれるのか、知りたいと思います。人は幸福になりたい、神を見出したい、金持ちに、有名になりたい、完全になりたい、自由になりたい、等々と願います。あなたはこうしたことすべてを、人が募らせる切望感をご存知です。人は完全な結婚を、神と完全な関係をもつことを、その他あれこれを求めます。なぜ?まず、それは精神がどれほど浅薄かを示しています。そうではありませんか?そしてそれはまたは、私たち自身の寂しさの感覚と空虚さを表わしているのではありませんか?



欲望それ自体は問題ではない。問題はそれについて私たちが行うことです



欲望を考えることに入っていきましょう。私たちは知っているのではありませんか?-----欲望はそれ自体が矛盾し、苦しみをもたらし、同時に異なった方向に人を引っ張るものであることを。苦痛、動揺、欲望がもたらす不安。そして規律づけ、コントロール、そしてそれに伴ういつ果てることもない苦闘の中で、私たちは欲望のかたちとそれについての認識を歪めるのです。しかしそれはそこにあり、たえず見張っており、待ち構え、プッシュしています。したいことをしてみなさい。それを昇華したり、それから逃避したり、それを否定するか受け入れる、それに自由気ままにさせるなど----{しかし}それはいつもそこにあります。そして私たちはどれほど宗教的な教師たちその他が、私たちは無欲になり、無執着を学び、欲望から自由になるべきだと言ってきたかを知っています。それは全く馬鹿げたことです。なぜなら、欲望は破壊されるのではなく、理解されるべきだからです。もしもあなたが欲望を破壊すれば、あなたは生命それ自体を破壊することになるのです。もしもあなたが欲望を曲解し、そのかたちを作り直し、それをコントロールし、それを支配し、抑圧するなら、あなたは途方もなく美しいものを破壊していることになりかねないのです。

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